こういう分野を研究しています
私の、目下、研究している分野は以下のとおりです
哲 学 | 現象学 | この分野をまったく知らない方に | この分野との出会い | 関連論文 |
倫理学 | 道徳規範の妥当根拠の研究 | この分野をまったく知らない方に | この分野との出会い | 関連論文 |
生命倫理学 | この分野をまったく知らない方に | この分野との出会い | 関連論文 | |
環境倫理学 | この分野をまったく知らない方に | この分野との出会い | 関連論文 | |
責任、ケア、正義概念の研究 | この分野をまったく知らない方に | この分野との出会い | 関連論文 |
哲 学 現象学
ここにいう現象学とは、歴史的にはエドムント・フッサール(Edmund Husserl1859-1938)というユダヤ人のドイツの哲学者が創始した哲学上の見方・態度を指しています。フッサール自身の考えさえ時を追うて変わっていき、フッサール以後の現象学はさまざまに分岐し展開しています。ですから、フッサールがある時期のみに突出して主張した観念をもって現象学を代表させるのは無理があるのですが、とくにフッサールの研究の中頃に主張された現象学的エポケー(判断保留)を使って説明しますと、たとえば、目のまえに机をみているとします。私は「これは机である」と判断します。けれども、ひょっとすると見間違いということもあるかもしれませんね。それじゃ、これは机でなくて、なんだ? いや、何だとしても、見間違いはあるわけです。そこに実在している物が机であるという判断はそのままにしておいて、しかし、その判断にたいしてイエスともノーとも決定をくだすのを保留してみます。
すると、どうなる? そこに何が実在しているかという問題とはおさらばしなくてはいけません。そのかわりに、「私は机をみている」とか「私が『それは机である』と判断している」とはどんなことだろうという問題が前面にあらわれてきます。私に今見えているのは机の上側であって、足は隠れているかもしれない。足がみえてなくても、机だというのはどういうわけだ? 何かがみえるとはどんなふうにしてか? 私がこの実際にみえている部分だけつかまえて「机だ」と判断したのはどういうわけだ? 私が「これは机だ」と意味づけた以上、私はなんらかのしかたで机ということの意味を知っているわけだが、その意味というのはどこからきたんだ? もしも、私が机のない文化圏に生まれたら、このものをどんなふうに意味づけるかしら? ・・・・・・じつにいろいろな問いがわきあがってきます。
現象学とは、あらかじめもっている先入見(「こいつは机だ。わかりきってるじゃないか」)があらわれたらそれを判断保留していって、それでもあらわれてくる否定できない認識を追求していく見方・態度をいいます。その否定できない認識はしだいに抽象的な内容になってくるでしょう。たとえば、「みる」ということはひとつのまとまった事態だけれど、そのなかには「みる者としての私」と「みられている物」とがつねに(「みる」という事態全体からは不可分の要素として)含まれている、とか、もし、感性的な意味での(つまり、「目でみる」という意味での)「みる」ならば、みられるものはつねに私の身体を原点として遠近・方向の差異をもってあらわれてくる、とか、みられている物が刻々そのみえ方が変わっていくのであれば、さきほどみられた相がこれからみえるであろう相を予想せしめるようにして「みる」ということは進んでいくのだ、とか。
その探究は同時にまた、私たちが「これはxだ」と判断するその判断を成り立たせているうんざりするほど深く重ね織りされている先入見の層を少しずつ掘り出していくことにほかなりません。そうして掘り出していったあげくにそれ以上は何の前提もないような地盤を見出せたと思っても、その地盤もまた、実際には、その時代の、あるいは、本人が属していた伝統の見方にどっぷりつかった先入見なのかもしれません。しかし、それがそうであることがわかるのは、またしても、その判断を保留してから、つまり現象学的態度を貫いてのことにほかなりません。
さきほどあげた例は机でしたが、もちろん、どのような対象についても、今述べた見方をもってみなおすことはできます。たとえば、異常/正常といった厄介な区別であれ、法とか家族といった制度であれ、性や死といった観念であれ。このように、常識として成り立っていることがらをその根底から覆して考えなおすという意味で、現象学は哲学の精神を正統に受け継いでいます。
なお、さっきの机の例で、「机が光に反射して、その光が私たちの眼球にとどいて、視神経をとおって脳に伝達したからみえるんだよ」といった説明は、まったく現象学とは無関係です。というのは、この説明のためには、机が実在すること、光が実在すること、私たちの眼球や視神経や脳が実在すること、以上をつなげて説明する理論が真であると判断すること、などなど、いろんな前提が必要ですが、現象学とは、それらの前提を先入見として判断保留するのですから。「おいおい、話が違うじゃないか。先入見って悪い間違った見方のことだろ?」。いやいや、ある先入見が間違いか、真理か、それをあらかじめ決めることはできない。なぜなら、真偽はさしあたりは実在するものとの対応の有無で(たとえば、「太郎は机のうえで手紙を書いている」は真で、「太郎はイグアナの背中で本を読んでいる」は−−実際に太郎がイグアナの背中で本を読んでいないかぎりは−−間違いというように)決まるのだけれど、現象学的見方をとるかぎり、それが机か(ついでにいえば、イグアナか)はすでに判断保留しているではありませんか。この徹底して私たちのふだんの見方を覆してゆく、めくるめき、と同時に、異様なまでに醒めていつづけようとする態度が現象学なのです。
現象学ということについていささか知ったのは、高校時代に読んだ岩波新書(木田元『現象学』)からですが、卒業論文(こんな経歴をへてきましたのページへ)でフッサールの『デカルト的省察』をとりあげたのがこの分野の研究のはじまりです。
なぜ、同書を卒業論文に選んだのか? それは必ずしも現象学とは関係ない。むしろ、同書に記された他者の問題(間主観性の問題)に、まず、興味があったからです。それでは、なぜ、他者の問題にひかれたのか? どういうわけか、子どものころから、「自分以外のひとはほんとうに存在するのだろうか?」とか「別のひとはどうして『別』といえるのだろう?」とか、(常識的には愚にもつかない)問題が気にかかるたちだったからです。
フッサールの『デカルト的省察』はまさにそういう問題をあつかっているといえると同時に、子どものころから抱いていた私の疑問をそのままにとりあげるものではありませんでした。私が抱いていた問いはどこかしら「他者の実在」を問題としているような素朴さ(これは現象学の用語です。素朴さとは、関心を向けたものが実在すると信じて「これは何である」「何がある」と判断する態度をいいます)を残していましたから。
なお、読んで字のごとく、フッサールの『デカルト的省察』はルネ・デカルト(RenèDescartes1596-1650)の『省察』を意識して書かれました。感覚の可謬性から感覚による認識を疑い、さらに、欺く霊を想定することで数学的認識にも疑いをむけていくデカルトの思索が、上に述べた、徹底して私たちのふだんの見方が覆されてゆく、めくるめき、と同時に、異様なまでに醒めていつづけようという態度の先蹤であることはいうまでもありません。デカルトがいっているように、この懐疑は哲学上の要請からなされるのであって、実生活の場で行われるものではありません。実生活の場からみれば、それはまさに「異様」な態度なのです。
「二分法の陥穽」「日常のコンテクスト」「隠れたしかたで働いている規範」「対話における言葉について」「つゆのふるさと考」「他者の身体的現前と対他的態度 −シュッツの社会的世界論における」「ヴァルデンフェルス『異郷のなかの故郷』に寄せて」「意味のイデア性 −その確かさとそのゆらぎ」「意味のイデア性 −その確かさとそのゆらぎ」「人格的自我 −フッサール自我論における」「フッサールにおける習性の問題」「個体について −フッサールを手がかりとして」など。
論文のページへ。
倫理学 道徳規範の妥当根拠の研究
講義でも最初に確認することですが、倫理(さしあたり、ここでは道徳と倫理は同じ意味だとしておきます)と倫理学はちがいます。倫理とは「何々すべし」「何々してはいけない」「何々してもいい」「何々するのはよいことだ」「何々するのは悪いことだ」など、特定の規範や価値を明言するものですが、倫理学はこれらの倫理を研究する学問です。
そこで、倫理学の課題のまず最初にあるのは、「なぜ、何々すべきか」「なぜ、何々してはいけないか」などなどというふうに、倫理の妥当する根拠を問い直すことです。そういう意味で、上に掲げた研究はこの倫理学の重要な課題をそのまま言い換えたものにほかなりません。
前の項目の現象学の場合とちがい、倫理学の歴史のなかのとくにこの思想を集中して研究しているというわけではありません。むしろ、現在、主たる対立項をつくりあげているいくつかの倫理思想に目をつけて、そこから問題をときほぐそうとしています。その対立項の例をあげれば、自由主義と共同体主義、義務倫理学と功利主義などなどです。
このように解きほぐしていくと、個々の倫理思想だけでなく、倫理学の問題設定そのものの変遷もみえてきます。たとえば、私は先ほど、「倫理とは『何々すべし』・・・・・・」と説明しました。「何々」のところには特定の行為が入ります。たとえば、「約束を守る」とか「他人に親切にする」とか。けれども、アリストテレスの伝統のなかでは、倫理について別の説明がされるでしょう。行為のかわりに、そのひとが形成していく性格がテーマだったと思われます。すると、なぜ、性格から行為へ主題が変わってきたのか? 性格は一生かかって築きあげていくものだが、行為というと、さしあたりはある特定の時と場合になされるものだ。また、性格はその個人に特有のものだが、よい行為、すべき行為を一般化していくと、さしあたりは個人に特有というよりも、どの人間にもあてはまるような法則が問題になってくるのか? それでは、この変化の裏には、人間をどのように捉えるかという見方の変遷があるわけか? ・・・・・・というふうに、話は広がっていくわけです。
私は大学時代も大学院時代も倫理学ではなく哲学を専攻していましたが、倫理学という分野には、もともと関心はありました。前項に記した卒業論文であつかった他者の問題もまた、いかなるしかたであれ、自分と他者との関係に関わるかぎりは、もともと倫理学に接するテーマだといえます。
あっ、と、こういうことをいうと、そんな話よりまえに、哲学と倫理学の関係について語らないといけませんね。実際、講義をしていると、「倫理学は哲学に似ている」とか「倫理学と哲学はどうちがいますか」という質問をうけるのです。
倫理学は、英語では、ethicsですが、これと同じ意味で、moral philosophyという語も用いられます。後者を直訳すると「道徳哲学」です。つまり、哲学の一分野として倫理学があったといってよい。(もっとも、そういうことをいえば、かつて哲学とは学問一般を指していたのですから、どの学問も哲学の一分野だったわけです。とくに根本の原理を探究するしかたで行われた研究を「哲学」という名で呼んだ時代もありました。たとえば、ドルトンが原子論を発表したのは、New System of Chemical Philosophy 1808-27という書物においてでした。この場合、化学がとりあつかうさまざまな現象全般を支える根底として「原子論」という新たな理論を提示したという意味が「哲学」という語にはこめられているのでしょう)。倫理学が哲学に属すからには、倫理学は、社会のなかに流通している既存の倫理・道徳をそのまま再生産するのではなく、すべてを根本から考えなおしてみるという哲学の精神によって倫理・道徳を吟味する学問です。
しかしまた、倫理・道徳がどうしても複数の人間のあいだの関係を前提としている以上、倫理学はむしろ社会科学に通じています。きわめて大雑把にいうなら、倫理学が「よい生き方」について考えるとすれば、「よい生き方を実現しうる社会」について考える政治学、「よい生き方からの逸脱・否定の裁可」について考える法学、「よい生き方を実現するのに必要な物質的条件を社会のメンバーのなかで分けるやり方」について考える経済学と、倫理学はつながっています。ちなみに、このようにもはや「私ひとりの生き方」だけではなく、「社会」をどうするかという議論に立ち入ると、どうしてもその学問は社会を導こうとする役割を担ってしまうわけで、その意味では、倫理学は、かつての儒教でいわれた「経綸の道」(競輪の道じゃないですよ)と重なり合います。このへんには、どの学問のルーツにも感じられるエリート臭が感じられます。もっとも、一部のエリート層・支配層の指導と管理によって社会のあり方を決めればよいというのでなく、個々人がそれを考える能力と責任があると考えるなら、倫理学は(政治学、法学、経済学と同様に)エリートだけの学問ではありません。
私がとくに「道徳規範の妥当根拠」という研究課題を意識しだしたのは、平成2年度・3年度科学研究費補助金総合研究「道徳規範の妥当根拠の総合的究明−『なぜ道徳的でなければならないのか』という問いをめぐって−」(A02301006)に参画してからのことでした。ですから、この研究課題をとくに主題として意識したのは、下の項の生命倫理学に関わるようになったあとのことです。つまり、はっきりと意識してそうしたわけではないにせよ、生命倫理学によって刺激された関心が、上のしかたで一般化されていくという道筋を、私自身は歩んできました。
『倫理学の話』、「倫理、倫理学、倫理的なるもの」「環境、所有、倫理」「倫理学の応答能力」「生命と倫理 生命倫理学と倫理学の生命」「二分法の陥穽」「生命と倫理」「隠れたしかたで働いている規範」など。
論文のページへ。
Web上の授業公開として、1999年度「学びの扉」で倫理学について講義したノートをのせています。
倫理学 生命倫理学
自著から引用します。「親はその胎児を中絶してよい(許される)のか、してはならないのか。むしろ、胎児本人や家族全体や次にできるかもしれない子どものためには中絶すべきなのか。善い社会や制度とは、親がどのような選択を選びやすい社会や制度をいうのか。社会が許容してはならない選択はあるのか。社会は親の負担にどこまで援助すべきか。これら、ひとの生命にたいする医学、生物学による人為的介入および不介入をめぐって価値(善い、悪い)と規範(べし、してはならない)を含んで発せられるさまざまな問いについて、論点を明確にし、それに答えようとする営みを生命倫理学と呼ぶ」(「哲学や倫理学の研究者は生命倫理学において何をすべきか」、加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社、1998年、325頁)。
ここにあげたのは人工妊娠中絶の例ですが、同様に、インフォームド・コンセント、脳死と臓器移植、安楽死、生殖技術、クローニング、遺伝子操作などなど、別の例をあげても、適宜内容を変えれば、上の説明は成り立ちます。
生命倫理学(バイオエシックス)は20世紀の後半にはじまります。インフォームド・コンセントがナチスによる強制的な人体実験にたいする断罪を発端としたのはよく知られていましょう。そこから、患者の人権、患者自身に治療を受けるか受けないか、あるいは、どのような治療を選ぶかを決める権利があるという考え方が登場します。そして、この考え方は、必ずしも当の患者が望まないような医療措置の開発にたいする疑念と一緒になって、力をもっていきます。しかし、「決める権利がある」といえるのは、どのような条件をさすのか? ここに、人格(person)という観念がじつにさまざまな定義をもって、じつにさまざまな問題(人工妊娠中絶、延命拒否、安楽死、脳死、生殖への介入などなど)を考え、場合によっては、決着をつけるために引き合いに出されていきます。一方、個別の医者−患者関係をはなれて医療資源全体の配分のなかで上述の問題を考える方向も進展していきます。こうして、生命倫理学という分野が新たに確立されてきたわけです。その後、上述の「患者の権利」とか「人格」とか「医療資源の配分」といった大きな原理から問題を裁ち切る傾向にたいする疑念から、ふたたび、医者−患者関係の具体的な状況にたちもどって考えようとする方向や、そもそも問題の背景にある価値観や制度を反省しようという方向も生まれています。
前項の倫理学について書いたことはここでもあてはまります。生命倫理学とは、倫理学であって、特定の倫理ではありません。ですから、たとえば、安楽死なら安楽死という問題について、「生命倫理学ではどう考えますか?」と質問されても、答えはありません。これこれのタイプの生命倫理なら、安楽死を許容するとか、許容しないとか、何々の条件を満たすかぎり許容するとか、許容しないとかいうことはできます。生命倫理学とは、これらの相対立する倫理の根拠を問う場なのです。
1970年代の米国で確立していったこの分野の研究成果が日本にさかんに導入されるようになったのは、1980年代後半になってからのことでした。私個人の履歴からすると、1980年代後半には、大学院博士後期課程に在籍しています。そのころ、この新たな分野を研究する勉強会(京都生命倫理研究会)が京都教育大学の加茂直樹教授を中心に発足しました。私がこの分野に関わるようになったのは、この研究会に同世代の研究者たちといっしょに参加したのがはじまりです。
生命倫理学はひとの生死に関わるテーマをあつかいます。従来の常識を覆すような主張もまま見受けられます。ですから、ここでは、倫理の根拠を問うという姿勢がとりわけ要求されますし、また、ひょっとすると、だれかの死命を制してしまうような問題についてどれほどのことがいえるのか、つねに倫理が試されている分野でもあります。そういう意味では、たいへん知的な刺激に富んでいることは否定できません(「だれかの死命を制する」といいながら、「知的な刺激」つまりは「おもしろい」といってしまうのに、いささかうしろめたい気分でもありますが)。その後、医大に赴任したり(こんな経歴をへてきましたのページへ)、広島大学で新たに開設された生命倫理学の講義を担当したりして、職務上の責任からもこの分野に関わりつづけていますが、根本的な魅力として上に記したことがあります。
倫理学は特定の倫理ではないと先ほど書きましたが、ある領域で特定の倫理がとくに影響力をもつということはあります。私が関わりはじめたころ、生命倫理学のなかでとくに力をもつかにみえたのは、功利主義と自由主義とを合体させた思想でした。ひじょうにおおざっぱにいってしまうと、まずは本人の選択の自由を尊重し、しかし、その選択が他者に危害を及ぼしたり、社会全体の共有資源(医療資源もそのひとつです)にかける負担が大きすぎたりすれば、社会全体の幸福を理由として本人の選択を制約するという思想です。私自身はこの思想をてばなしに首肯するものではありません。そういう意味では生命倫理学の文献を読みながら違和感を感じることもしばしばありました。しかし、倫理の根拠を問うという作業からは、むしろ、違和感を感じる主張に直面したことは、なにがしか、ためになったかと思われます。
講義のさいに受ける印象では、生命倫理学は多くの学生の興味をひくようですし、卒業論文や大学院の研究テーマにこの分野を選ぶ学生もいます。ただし、再三申すように、倫理と倫理学はちがうのですから、自分の見解をただ主張すればいいわけではありません。自分の意見を否定するような他の見解をまず冷静に調べて、そのうえでその見解の論理構成の欠点をつきながら論駁するという姿勢が必要に思います。
「尊厳死という概念のあいまいさ」「責任」「ハーバマスの類倫理再考」「つかのまこの世にある私/私たち」「生命の神聖――その失効とその再考」「生命と倫理 生命倫理学と倫理学の生命」「いのちはだれのものか」「生命はどのような場合にも尊重されるべきか」「哲学や倫理学の研究者は生命倫理学において何をすべきか」「二分法の陥穽」「生命と倫理」「先端医療と哲学」「新しい生殖技術と社会」「論議なきはてに −臓器移植法成立にさいして」「生命倫理学ノート」「死の問題というよりはむしろ<ひと>の問題として」など。
論文のページへ。
倫理学 環境倫理学
環境危機をめぐる倫理的問題(前節にもあるような「善い」「悪い」「べきである」「してはならない」などに関わる問題)を考察する分野です。といっても、これだけではそっけなさすぎて、なぜ、倫理学が環境問題に関わるのか、わかりにくいかもしれません。そもそも、環境危機は、自然科学によってそのしくみを解明し、危機を回避できるような自然科学の知識にうらづけられた技術を開発し、その技術を実際に使えるような社会のしくみを政治学、法学、経済学を動員してつくりあげればよいというひともいるかもしれません。そこで、少しばかり問題の根本に戻って考えてみますと・・・・・・
環境とは「まわり」という意味です。まわりにはその中心がかならずあります。よい環境とか悪い環境とかいうのは、その中心にいる存在にとってよいか悪いかということです。しかし、それなら、どのような存在について、その存在にとってよいとか悪いとかいうことが意味があるのか? どのような存在については、私たちがその存在のためになるとかならないとかを配慮しなくてはいけないのか? この「あるものについてそれのためになることを配慮する」ということは、つまり、倫理なのです。
さて、「その存在」をもう少し具体的に考えてみましょうか。その存在とは、結局のところ、人間のことを考えているのだろうか? 人間以外の生物のことも考えているのだろうか? 人間だけにしぼるのは、なぜ? 人間以外に拡大するのは、なぜ? それとも、人間もその他の生物も等しく考えるのか? それなら、そうするのは、どういう理由から?
ひとまず、これらの問いに答えが出たとして、次にまた別の問題が生じてきます。よい環境を保つのに何をすべきか? それをしようとしたら別の善と矛盾してしまうとすれば、どちらを優先すべきか(たとえば、ある森を自然保護林に指定して伐採を禁じるには、その森の所有者の権利を侵害せざるをえません)? 優先する理由は何?
あるいは、歴史をふりかえれば、どういうわけで、これほど環境危機と呼ばれる状態が生み出されたのか? その根底には、環境にたいする人間のどのような考え方があったのか?
以上の説明から、冒頭に記した「環境危機は、自然科学によってそのしくみを解明し、危機を回避できるような自然科学の知識にうらづけられた技術を開発し、その技術を実際に使えるような社会のしくみを政治学、法学、経済学を動員してつくりあげればよいというひと」にたいして反論しておきますと、たしかに、環境危機の生じるしくみは自然科学なしには解明できないし、それにたいする有効な社会政策をとるには政治学、法学、経済学なしには実行できない。でも、環境危機がだれ(何)にとっての危機なのか、だれ(何)のために危機を回避しなくてはならないのか、そういう問題を考えることで、倫理学は環境問題に関わってくるのです。
この分野もまた新しい分野です。しかし、「環境危機をここまで招いたのはなぜか」という問いとともに、この分野が生まれるはるかまえ、ギリシア古代の哲学とか、創世記とか、シュメール人の叙事詩とかにまで、話はさかのぼります。環境の中心となる存在には、まずなんといっても、生命をもつ存在が考えられますから、この分野は生命倫理学と密接に関わるのですが、生命倫理学以上に、宗教・文学・芸術などの倫理学・哲学以外の分野との通路があるように思えます。
生命倫理学と密接に関わる分野ですから、先に記した京都生命倫理研究会の研究活動もしだいにこの分野に範囲を広げていきました。私のこの分野の勉強も研究会の活動に触発され、ないしは、ひきずられてぼちぼちと歩んできました。
新しい分野ですので、環境倫理学を講義する担当者がそうそうみつからぬために、いくつかの大学で講義をしたことがあります。そのさい、授業の終了時刻が近づくと、学生のなかには、早く帰ろうとあせるふうなひとが出てきますね。自動車学校にでもいくのかしら? 排気ガスによる酸性雨の被害を聞いたあとで自動車学校だろうか。
とはいえ、自動車の利用を短兵急に非難するつもりはありません。居住環境や交通システムの問題もからむからです。もし、環境問題の要請から自動車の利用を抑えねばならないとすれば、居住環境の改変を要しますが、その前提として、ある特定の暮らし方を善しと判断することになるのか(「車のある暮らしより車がなくても満足できる暮らしのほうが『よい』」?)? その場合、価値観の多様性とどう調和ないし抵触するのか? 抵触するなら、環境危機の回避と価値観の多様性とどちらをどうして優先するのか?
以上の問題は、もちろん社会のしくみに深く規定されていますが、つきつめていえば、個人のレベルの問題です。
つぎには、人類のレベルに話を広げましょうか。しかし、またしても、倫理学の命じるところにしたがって、反常識的なものいいになるかもしれません。たしかに、環境危機は緊急の問題です。でも、それが危機と呼ばれるのは、人類の存続が危ぶまれているからにほかなりません。それじゃ、人類が存続すべきなのは、なぜ? これは、「存続するに値しない」という答えの可能性もある以上、恐ろしい問いです。「人類は存続したいから」「子孫を残したいから」。それははたして倫理の根拠となりうるか? 「したい」ではなく「すべき」が問題ではないか?
環境倫理学は、生命倫理学と同様に、興味をもつ学生が多いのですが、「環境によい」は、当然のことながら、現在の暮らしを変えねばならない痛みをともないますし、あるいはまた、水戸黄門の印籠のように他の要請をすべて押しのける切り札でもありません。また、直前の段落で少しふれたように、きわめてラディカルな問いも出てくるので、この分野は(「も」かな?)相当に強靱に考える姿勢を必要としています。
「技術、責任、人間――ヨナスとハイデガーの技術論の対比」「環境、所有、倫理」「自然・環境・人間 ハンス・ヨナス『責任という原理』について」「環境にたいする人間の態度」「環境を守るのは人間のためか −−学生との対話から」「生命はどのような場合にも尊重されるべきか」「環境倫理の基礎づけ問題」など。
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倫理学 責任、ケア、正義概念の研究
「正義」とは、どういう意味でしょう? 大雑把にいえば、等しい資格をもっている者を等しくあつかうという意味でしょう。すると、ある点で等しい資格を有しているメンバーから成り立つ集団のなかで、全員が等しくあつかわれているなら、その集団のなかでは正義が樹立しているわけです。けれども、そのことは、集団の外部にとっては何を意味しているのでしょうか? 集団の外部とは、内部のメンバーと等しい資格をもっていないとみなされている者たちです。それでは、どのようにして、内部と外部とをわける規準は決められるのでしょうか? また、だれによって? たとえ、集団内部のメンバーがすべて合意して決めたとしても、それでもやはり、それが独善であるということはありえないでしょうか?
正義をめぐるこうした問題は、あらためて「正義」という概念をみなおすきっかけとなります。そしてまた、正義や平等を基礎におくのではなく、非対称的な関係を基礎においた倫理の可能性を考えさせます。
こうした脈絡から、私はこの数年、ハンス・ヨナスの「責任という原理」、キャロル・ギリガンやネル・ノディングスらの「ケアの倫理」にとりくんでいます。 その一連の研究を『正義と境を接するもの ――責任という原理とケアの倫理――』と題してまとめ、京都大学から博士(文学)の学位を授与されました。
以上の疑問は正義という概念をめぐって生じるものですが、しかし、具体的な問題と結びついて問いかけられるものです。たとえば、環境倫理学の分野であれば、人間にとってよい環境をめざすことが人間以外の生物にとって害をもたらすことであるなら、そのことをどう考えたらよいのか、逆に、人間と人間以外の生物を含んだ自然とのあいだに「正義」ということばを適用できるかどうか。また、医療生命倫理学の分野であれば、自分のことは自分で決定するという自己決定の原理は、正の善に対する優先というリベラリズムの考え方からは是認されますが、それだけで、病気をとりまく問題を十全に語りうるかどうか。こうした問題と上の問題とは結びついています。
『正義と境を接するもの ――責任という原理とケアの倫理――』、「自然・環境・人間 ハンス・ヨナス『責任という原理』について」「所有、環境、倫理」 「人間はいかなる意味で存続すべきか」「〈ケアの倫理〉考(一)」〈ケアの倫理〉考(二)」
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