倫理と倫理学の違い

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関西大学文学部哲学科1回生対象講義「学びの扉」「哲学入門」講義ノート(品川哲彦)

1999年6月2日

 

  1. 倫理と倫理学の違い
  2. 倫理学はどういう意味で哲学か
  3. 倫理学はどういう点で哲学と別個に扱われるのか
  4. 規範倫理学、メタ倫理学、倫理思想史
  5. 倫理はひとによって違うか
  6. どうして、関西大学では哲学・倫理学、宗教学、美学が哲学科としてまとめられているのか

 

(1)倫理と倫理学の違い 

 倫理と倫理学との違い、道徳と道徳哲学の違いという話をします。

 ある大学で倫理学の講義をしたとき、講義の第一回をこういうふうにはじめました。「この授業は倫理の講義ではなく、倫理学の講義です」。一回では聞き取れないかもしれないのでもう一度くりかえしました。「この授業は倫理の講義ではなく、倫理学の講義です」。すると、何人かの学生が「わからない」というふうに首をかしげました。そこで、もう一度いいました。「この授業は倫理の講義ではなく、倫理学の講義です」。すると、ひとりの女子学生が小さな声でいいました。「しつこい」。しつこいといわれても、ともかく最初にそこを確認したかったのです。

 さて、倫理(道徳)と倫理学(道徳哲学)の違いは何でしょう。倫理は、英語でethicといいます。道徳はmoralです。倫理と道徳と別のニュアンスで使うときもありますが、話をはなから枝分かれさせないために、同じ意味だとして話を進めます。オクスフォードの英英辞典では、ethicは、a set of moral principles in human conductとなっています。これは簡潔な定義だと思います。そこで、倫理(道徳)とは、「たがいに関連しあうひとまとまりの倫理(道徳)的判断」としておきます。でも、これでは定義といえませんね。倫理を説明するのに倫理ということばを使っているからです。

 それでは、倫理(道徳)的判断とは何か。ここではさしあたり、「倫理(道徳)的判断」とは「ある行為やあるひとの性格(x)の価値(value)(たとえば『xはよい(悪い)』)や規範(norm)(たとえば『xすべきだ(してもよい/してはならない)』)について下される判断」と定義しておきます。xのところを具体的な内容で埋めれば、たとえば、「うそをついてはならない」とか「約束は守るべきだ」とか、私たちが子どものころから教え込まれてきたさまざまな規範はその例です。、ほかのひととつきあいながら生きていくには、大学に入ろうが、就職しようが、私たちは倫理から離れることはできないでしょう。

 さて、これにたいして、倫理学(英語ではethics)、道徳哲学(moral philosophy)とは、「倫理について考えること」です。

 しかし、「倫理について考える」とは、いったい、どういうことか。

 そのひとつのアプローチ(取り組み方)は、倫理の根拠を問う、つまり、「xはよい」「xすべし」にたいして、「なぜxすべきなのか」「なぜxはよいのか」と問うことです。「xすべし」「xはよい」といえる根拠を確かめてから、「xすべし」「xはよい」と主張しよう。こういうアプローチを規範倫理学とよびます。

 これまでのべたことを、私が書いたものですが、引用します。

 ある行為をするのが善いことか、悪いことか、すべきなのか、してもよいのか、してはならないのか。それにたいして、「その行為は善い(悪い)、すべきだ(してもよい、してはならない)」と特定の答えを示唆する見解を倫理とよぼう。ひとは、一生、生理学を知らなくても生きていかれるかもしれないが、社会のなかに生きる以上、倫理に関わりなく生きることはできない。その意味で、何も知らないまったくの素人は生理学にはありえても、倫理にはいない。

 しかし、倫理というものを知っているからというので、だれしも倫理学者であるわけではない。倫理学者とは、倫理について考えることに関心をもち、その考察に専門的に従事している者だからだ。倫理について考えるその考察のひとつは、ある特定の内容をもった倫理がある行為を善い(悪い)、すべきだ(してもよい、してはならない)と判断するその根拠を問うことである。その結果、ある倫理学者がひとつの答えを他よりもしっかりと根拠づけられていると判断する場合もある。そのときには、その倫理学者はその特定の倫理を説き、推奨するだろう。こうした考察を規範倫理学と呼ぶ。(品川哲彦「生命と倫理 生命倫理学と倫理学の生命」、有福孝岳編『エチカとは何か 現代倫理学入門』ナカニシヤ出版、1999年、268-269頁)。

 最初にいったように、私は倫理学の講義をはじめるまえに「この講義は倫理の講義ではなく、倫理学の講義です」といいました。それはつまり、その講義は、「何々すべし」とか「何々はよい」と倫理(道徳)を説くお説教ではなく、倫理(道徳)について考える講義なのだといいたかったのです。

 

(2)倫理学はどういう意味で哲学か

 さて、しかし、倫理について考える倫理学とは、ある意味できわめて不自然な営みなのです。さっきいったように、私たちは子どものころから死ぬまで倫理と無関係ではいられません。倫理が人間関係や社会生活を支えている以上、倫理を守らないひとがいればお説教をたれるほうがあたりまえで、倫理の根拠を問うのはあたりまえのことをあえて問題にすることにほかならないからです。

 ちょっと、私が体験したことを話します。

 ある居酒屋で飲んでいたときのことです。私のほかにはふたりの客がいて大声で話していましたので、カウンターで飲んでいる私にも背中越しに話の内容は筒抜けでした。何々組とか何々会とか何々親分とかいっていて、どうもやくざのひとらしい。話が進むにつれ、そのふたりは同じ中学の出で、つまり先輩、後輩でやくざ業界に就職したということがわかりました。そのうち、年かさのほうが中学の思い出話をはじめました。「だれそれ先生、知っとるか」「おとろしい先生じゃった。わしはいつでも殴られた」「ほかのもんが同じことをしても、わしだけ殴るんじゃ……」。それから、少し口をつぐんで、そのやくざはこういいました。「……差別じゃ」。

 私はもう感心してしまった。暴力団のひとも「差別はいけない」という倫理的判断を主張している。(「暴力追放」とはいわなかったが)。

 さて、それでは差別はどうしてしていけないのか。一般的にいえば、差別は正義に反するからだといえる。正義とは何か。これもむずかしい問題ですが、さしあたり「そのひとにふさわしいものをそのひとに分け与えること」としておきます。

 もちろん、「ふさわしい」という基準はまた複雑です。たとえば、きょうのプリントをひとりに一枚ずつ渡しましたが、これは平等な配分です。「君はよく読んでくれるから二枚あげよう」。そんなことはいわない。しかし、成績をつける段になると、君たちは平等な配分を喜ばないでしょう。しっかりやってきたひとを高く評価する。功績による配分を望むと思います。平等な配分と功績による配分のほかに、必要による配分もあります。たとえば、ここに牛乳一本あって、栄養失調の飢えた子どもがいれば、ほかのひとではなくその子どもに飲ませる。

 こういうふうに、ふさわしさの基準が複数あるので、正義はむずかしくなるのです。しかし、いずれの基準にしても、「ふさわしさ」とは「同じ程度のひとにたいしては同じだけのものを分け与える」ように指示します。

 そこで、さきほどのやくざのいうとおりだったとすれば、それはたしかに正義に反する。悪いことをしたひとに罰を、しかも、同じ程度に悪いことには同じ程度の罰を与えるのが正義であり、そのひとがそのひとだからという理由で与えられるものが変わるのが差別だからです。その意味で、自分だけ重い罰をくらったとすれば、やくざが「差別はいけない」というのはまっとうな話です。

 ところが、居酒屋には別の客がいました。私です。その客は「差別はいけない」と賛同するかわりに、「差別とは何か」などと考えている。この瞬間だけをとれば、社会生活の常識からすれば、そのやくざのほうがまっとうで、倫理学の研究者のほうがずれています。

 しかし、まさにそのために、社会生活の常識とは別の観点からは倫理学はまっとうなのです。その別の観点とは哲学ということです。

 哲学とは何か。これにはいろいろな答えがあるでしょう。私はここで「あたりまえと思われているようなことでも、根本から考えなおすこと」と答えておきたいと思います。その一例を、デカルトにみてみましょう。デカルトは「学びの扉」のお勧め本の欄に私だけでなく三村先生もあげておられました。デカルトから引用しましょう。

 すでに数年前、私は気づいた、いかに多くの偽なるものを私は、若い頃、真なるものとして認めたか、また、それを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑わしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの学問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は断じてすべてを根底から覆し、そして最初の土台から新たに始めなくてはならない、と。(デカルト『省察』三木清訳、岩波文庫、一九四九年、二九頁)

 この「断じてすべてを根底から覆し」、問いなおすこと、これが哲学だと思います。

 デカルトがおこなった省察について少しばかり話します。身のまわりにあるものがあることは疑えない。ここに机はまざまざとみえているし、たたけば痛いほど手応えがある。しかし、待て。私は夢をみているとき、やはり同じようにあれやこれやを現実にあるものと思っているではないか。夢のなかでは、それが夢とは気づかれない。同じように、私が今夢をみていないという保証はどこにあるか、どこにもない。こういうしかたで、デカルトは感覚をとおして知るものへの信頼を断ち切ります。

 だが、感覚を信頼しなくなったらどうなるか。手でふれ、目でみる身のまわりにあるもの、自分の体も含めて、世界全体が現実にあるのかどうか疑わしくなります。実際、デカルトの懐疑は世界全体の存在におよぶのです。デカルトがそこからどのような結論に進んだかは、ご自分で読んでください。ちなみに、私がデカルトの『省察』を読んだのは遅くて、大学一年のときでした。本をもつ手が震えるほど感動しました。こんなことを考えたひとがいたのか、と思ったものです。

 倫理学に話を戻します。さきほど、倫理とは社会のなかで生きるかぎりはあたりまえに思われていることです。そのあたりまえに思われていることの根拠をあらためて問いなおす、これは哲学の精神にほかなりません。そういうわけで、倫理学は哲学の一部であり、道徳哲学とも呼ばれるのです。

 

(3)倫理学はどういう点で哲学と別個に扱われるのか

 しかし、それなら、哲学・倫理学というふうに別々にいわなくてもいいではないか。こういう問いが、当然、出てくるでしょう。

 たしかに、倫理学は哲学の一部ですが、哲学は必ずしも関わらなくてもいいが、倫理学は必ず関わらなくてはならない領域があります。それはつまり複数の人間が織り成す人間関係、社会生活です。「なぜ、xすべきか」という倫理学の問いは、答えを求めている問いです。もし、答えが出るなら、これこれの根拠から「xすべし」といわなくてはなりません。そして、そのxとはまったくの孤独な生活を送っているひとの決意ではなく、ほかのひとにも影響がおよぶことです。

 そういう意味では、倫理学はむしろ社会科学に通じています。たとえば、政治学、法学、経済学とつながっています。倫理学が「xはよい」という倫理的判断を研究対象にするのにたいして、政治学とは、(政治学の素人である私の目には)「よい生き方を実現できる社会のあり方の研究」であり、法学とは「最低限守らねばならないこと(法)についての研究」であり、経済学とは「よいこと・よいもの(goods)を社会のメンバーのあいだで分けるわけ方の研究」です。

 これらの社会科学は、たしかに法とは何かとあらためて考えなおす法哲学のような領域は別として、必ずしも哲学の精神にのっとらなくてもいい。社会の存在を疑わずに進めているのがふつうです。むしろ、それぞれの学問の成果を社会のなかに広めるのが目標なのです。倫理学にも、そういう実践的な方向が含まれています。ですから、倫理学は、通常は必ずしも実践的な関心を表面だってもたなくてもいい哲学とは一応分けて論じられるのです。

 さて、これまで、倫理と倫理学の違い、倫理学とはどのような学問かということをお話しし、倫理学がふだんの生活ではあたりまえと思われているようなことを問いなおす点で哲学だといいました。

 

(4)規範倫理学、メタ倫理学、倫理思想史

 ところが、子どものころから教え込まれてきて、あたりまえと思えるようなことを問いなおすというのは、そうそうかんたんにはできません。むしろ、そういう問いなおしがはじまるきっかけとは、自分たちがあたりまえと思っていることをあたりまえだと思わないひともいるのだと気づくときです。

 次の資料をみてみましょう。中世、だいたい15世紀ごろのフランスについて書かれたものです。

 党派に与し、主君に従い、あるいは自分のことに専念するさいに、この時代の人びとの示した盲目の情熱は、ひとつには、岩のごとくがっちりと、石のごとく堅い中世人特有の権利意識のあらわれであり、また、いかなる行為もついには応報を呼ぶというゆるぎない信念のあらわれであった。

 正義感は、四のうち三までは、まだ異教風の感情であった。復讐欲だったのである。(ホイジンガ『中世の秋』上、堀越孝一訳、中公文庫、一九七六年、四〇−四一頁)

 ここに記された正義は、一部は、私たちにも共有されますが、一部は私たちの正義感と異質です。私たちもまた、敵と味方を区別して、したがって、その行為が不正だから報復するのではなく、敵のしたことだから不正だと思うような一面をまだもっています。でも、ふつうはそれにたいする反省も働き、正義とは敵と味方に関係なく成り立つものではないかとか、正義といわれたときにまず復讐を思い浮かべたりはしないのではないでしょうか。

 こういうふうに、自分が生きている社会とは別の、文化の違う社会、時代の違う社会を支配している倫理を研究すると、自分たちがあたりまえだと思っていることがいつでもどこでもあたりまえではないということに気づかされます。そういうところから、自分たちの守ってきた倫理の根拠をあらためて問いなおし、再確認する動きも出てくるのです。このように、ある特定の時代のある特定の文化をもった社会を支配していた倫理、その社会に大きな影響を残した思想を研究するアプローチ(取り組み方)を倫理思想史とか記述倫理学とよびます。

 ただし、当然のことですが、別の時代、別の社会の倫理を調べたからといって、私たちがそれに従わなくてはならないわけではありません。ですから、倫理思想史、記述倫理学が調べるのは、その時代、その文化ではどうであったか、その思想ではどうであったかという事実です。そのとおりにすべきかという規範倫理学の問いはなお残ります。そこで、倫理思想史と規範倫理学の関係をまとめると、倫理思想史は規範倫理学の問いを触発し、活性化する、いわば、思索がもえる燃料を与えるようなものだといえます。

 規範倫理学、倫理思想史のほかに、もうひとつ、倫理学のアプローチがあります。それがメタ倫理学です。メタ倫理学は、倫理的判断のなかで使われる、たとえば、「よい」とか「べし」ということばの意味を研究するアプローチ(取り組み方)です。

 なぜ、「メタ倫理学」という名がついたか、説明しておきましょう。メタとはギリシア語で「あとに」「ついて」という意味です。「xすべし」と説くのが倫理だとすれば、「なぜxすべきか」と問い返すのが規範倫理学であり、さらに「そこで論じられている『xすべし』の『べし』とはどういう意味か」と考えるのがメタ倫理学ですが、だとすると、メタ倫理学は規範倫理学のあとからそれについて反省するので、メタ倫理学とよびます。なお、こういう意味のメタはmetaphysics(形而上学)に由来します。なぜ、metaphysicsという呼び名の学問が成立したかについては、きょうの話に直接関係しないので、また、時間があればお話しすることにいたしましょう。

 メタ倫理学は、直接には、「こうすべきだ」「こうするのがよい」とは答えてくれません。しかし、これはこれで重要なのです。

 たとえば、私は、この講義の最初に、倫理的判断を定義するのに、「たとえば、『xはよい』などの価値や『xすべし』などの規範を含んだ判断だ」といいました。でも、「よい」ということばはあまりに多くの意味があって、そのすべてが倫理(道徳)に関係しているわけではありません。たとえば、私が「このチョークはよく書ける」といったとき、私は倫理(道徳)的判断をしているとはいえない。「このチョークは毎日身を削って真っ白になって働いてる。えらいやつや」といっているわけではない。あるいは、「君はいいやつだ」といわれても、たんにそのひとにとって私が利用価値があるからそういっているにすぎない場合もあります。そういう場合、私たちはいやな気分になりますが、ここにはあとでまたお話しする「よい」ということばの特殊な性格が関わっています。

 ともかく、「よい」には、ある特定の目的のために役立つ道具としてよいとか、品質や機能がほかの同類のものと比べて優れているという意味でのよいなどがあり、そのすべてが倫理(道徳)的なよさではありません。このように、たとえぼんやりとではあれ、私たちも「よい」ということばのさまざまな意味の違いには気づいています

 それでは、倫理(道徳)的な意味でのよさとはどういうものか。これもまたたいへんな難問で、すっきりと答えることはできかねます。フォン・ウリクトという優れた学者(このひとの書いた本の一冊『説明と理解』産業図書は木岡先生が丸山高司大阪女子大教授とご一緒に訳されています)にThe Varieties of Goodnessという本がありますが、そのなかでウリクトは「よいということばの意味を考えるこの本で、自分はこれで解決したといえるような回答を出せるとは望んでいない。それはあまりに難しすぎる。せいぜい、自分のこの本がこのテーマを考えるひとつの手助けになることを望むばかりだ」という趣旨のことを述べています。それほど難問なのです。

 いずれにしても、メタ倫理学は、規範倫理学の研究にたいして、そこで用いられている「よい」とか「べし」ということばの意味をさぐり、議論がほんとうに倫理(道徳)の問題をあつかっているのかどうかをチェックすることで、研究の領域を確定する役割をはたしています。

 以上、倫理学には、規範倫理学と倫理思想史、メタ倫理学という三つのアプローチ(取り組み方)があることを紹介しました。

 

(5)倫理はひとによって違うか

 さて、きょうの講義の最後の部分に入りたいと思います。

 最後にとりあげるのは、今までのべてきたような倫理学は答えを出せるのだろうかという問題です。実にしばしば「倫理はひとによって違う」というようなことが平気で語られています。私は、それは間違いだと思いますが、倫理はひとによって違うという意見が出てくるのもある面では無理はないと思います。

 まず、なぜ無理はないか、ということから話していきましょう。

 この講義の冒頭に、「倫理的判断とは価値や規範を含む判断だ。たとえば『xはよい』とか『xすべし』というように」とのべました。わざわざこういったのは、もちろん、それに対比する別のタイプの判断があるからです。それは事実を記述する判断です。たとえば、「xはpである(ではない)」とか「xがある(ない)」という判断です。

 ところが、倫理には答えがないという意見がしばしば聞かれるのにたいして、事実を記述する判断についてはあまりそういうことは聞かない。事実を記述する判断、たとえば、「この教室には、今、75人のひとがいる」なら、実際に数えてみれば、その判断が真か偽か、答えがひとつに決まります。もちろん、答えがわからない場合もある。たとえば、「太陽は60億年後には消滅している」という判断は実際にそのとおりになるかどうか見届ける人間はいないでしょう。また、「宇宙はビッグバンによって生まれた」という判断は、その場でみていた者はいないはずです。しかし、私たちはこうした判断も、適切な証拠があれば、たとえば、太陽を作っている放射性物質の量とか、宇宙のはての恒星が地球から遠ざかっているかどうかなどの証拠があれば、真か偽かいずれか一方に決まると考えています。たとえ、今はわからないとしても、いずれ真か偽かが決まるという確信を、事実を記述する判断にはいだいているのです。

 これにたいして、倫理的判断については、相対立する判断が下されるとき、そのどちらが正しいのか、すぐには決まらないようにみえます。資料の4をみましょう。プラトンはこうのべています。

ソクラテス もしもぼくと君とが数に関して、どちらの方がより多いかということで意見を異にするとしたなら、それらについての意見の不一致はわれわれを敵対させ、お互いに腹を立てさせあうだろうか。それとも、こういったことに関してなら、われわれは計算に訴えて速やかに和解するだろうか。

エウチュプロン もちろんそうするでしょう。

ソクラテス それではまた、大きい小さいに関して、もしも意見が合わないとすれば、われわれは測定に訴えてさっさと意見の不一致にけりをつけることだろうね。

エウチュプロン そのとおりです。

ソクラテス そして軽重に関しては、ぼくの思うに、きっと計量に訴えて決着をつけることだろう。

エウチュプロン そうですとも。

ソクラテス しかしそれでは、何に関して意見が一致せず、またどんな決着に到達できない場合に、われわれはお互いに敵対し、立腹しあうのだろうか? これはたぶん君には即答できないだろう。むしろ、ぼくが言うから考えてみてくれたまえ、問題となる事柄は正と不正、美と醜、善と悪であるかどうかをね。(プラトン『エウチュプロン』今林万里子訳、プラトン全集第一巻、岩波書店、一九七五年、十九頁)

 事実を記述する判断は、この世界のなかにその判断がのべているような事実が実際にあったか、あるか、これからあるか、ともかく事実と対応すれば真であり、対応する事実がないなら偽だと、私たちは考えています。

 ところが、倫理的判断は、おそらくは、事実との対応をいうものではありません。「xはよい」とか「xすべきだ」という判断は、そう判断するひとがxにたいしてとっている態度、xをどうみているかということを表しているのです。ですから、たとえば、「人権を守るべきだ」というひとにたいして、「人権が完全に守られている状態などこれまでなかった」といっても、反論したことにはなりません。一方は倫理的判断をいっているのにたいして、他方は事実を記述する判断を下しているからです。むしろ、「人権を守るべきだ」といっているひとは、人権が守られているというまだない状態をこれから作り出そうとしているわけです。

 あるひとがxにたいして肯定的な態度をとっていて「xはよい」という一方、別のひとはxにたいして否定的な態度をとっていて「xは悪い」というかもしれません。ふたりの主張は対立します。同様に、あるひとが「この教室には75人のひとがいる」といい、別のひとが「この教室には63人しかいない」というなら、ふたりの主張は対立しています。でも、実際に数えてみれば、つまり世界のなかの事実に照合すれば、対立は解消します。しかし、xが善いか悪いかは、話し手の態度を表しているのですから、「xがある」とか「それはxである」といった事実に照合しても答えは出ません。「xはよい」という判断そのままに対応する事実はないように思えます。

 だからこそ、事実を記述する判断と比べて、事実をどのようにみるかという態度を表す判断における対立はなかなか解消しがたいのです。さて、以上からすると、「倫理はひとそれぞれ違う」とか「答えが出ない」という意見が正しそうにみえます。しかし、私は次に「よい」ということばの意味をとりあげてその意見に反論しようと思います。

 「よい」ということばは「よい」と判断したひとの態度を表しているといいました。しかし、態度を表すことばはほかにもあります。たとえば、好き嫌いはその一例です。

 「私は紅茶のアールグレイが好きです」「私はピサロの絵が好きです」「ラップ音楽は私の好みではありません」。さて、私がこういうのを聞いて、あなたがたは、私があなたがたにも紅茶のアールグレイを好きになり、ピサロを好きになり、ラップ音楽を嫌いになるように勧めていると思いますか。たしかに、親しい友達同士で、「おれはあいつが嫌いだ」といって、友達にもそれとなくあいつを嫌いになるように促すひともいるかもしれない。でも、それは自分と他人との区別がつかないべたべたした性格のひとであって、通常は、親しい友達のあいだでも、自分の好みを押し付けはしません。

 これにたいして、私が次のようにいったらどうでしょう。「約束を守るのはよいことだ」「自分の才能を伸ばすのはよいことだ」、さらには「本人の意思が明確であれば、安楽死を認めてもよい」、あるいは「どのような場合でも、救えるひとのいのちを救わないのはまちがっている」。もし、私が授業中にそういったとすると、あなたがたは私の意見と違っているにしても、少なくとも私は私の主張をあなたがたももつように主張していると思いませんか。私とあなたがたの主張が対立していたら、論争がはじまるでしょう。しかし、論争がはじまるということは、理由を説明すれば、相手も自分と同じ判断を下すだろうという確信が前提になっているのです。私が「だれそれはよい人間だ」といっているのに、相手が同じ人間を悪人だというなら、私は相手の知らないそのひとのよい面を数え上げることで、ついには相手もそのひとがよい人間だと認めるだろうと思っているのです。

 このように、「よい」ということばのなかには、「事態を正しく把握するなら、いつでも、だれでも同じように『よい』と判断するだろう」という普遍性の要求が篭められているのです。「べし」や「してはいけない」ということばも同様です。これにたいして、好き嫌いには普遍性の要求はこめられていません。私がアールグレイの紅茶が好きでも、あなたがたが吉本ばななの『キッチン』の主人公のようにアールグレイの紅茶が嫌いでもいっこうにかまいません。私があるひとが嫌いだということを言い広めたところで、ほかのひとは心を動かされないでしょう。むしろ私がおろかに思われるだけです。けれども、私があるひとを悪人だといえば、おそらく私はそう判断する根拠を明らかにするように求められるでしょうし、それができなければ名誉毀損で訴えられるかもしれません。

 さて、「よい」や「べし」に普遍性の要求がこめられているとすれば、「よい」や「べし」を用いる倫理的判断がたんに判断するひとそれぞれのてんでばらばらな意見にすぎないとはいえないでしょう。ですから、「倫理はひとそれぞれ違う」といってすませられないのです。「よい」ということばを使った瞬間に、私だけでなく、ほかのひとにも同じ判断があてはまるだろうという主張が表されてしまいます。

 ただし、普遍性の要求といっていることに注意してください。要求なのですから、実際にだれでも同じ判断を下しているかどうかという事実の問題ではありません。「安楽死を認めてもよい」という主張と「安楽死は絶対に認めるべきではない」という主張はともに自分の主張がすべてのひとに採択されるはずだという思いがこめられていますが、もちろん対立します。だから、プラトンのいうように、対立は激しくなるとともに、さきほどいったように、自分の主張どおりになっていない現状を変えて、自分の主張どおりの事実を作り出そうとするわけです。

 さきほど、私は「君はいいやつだ」といわれても、たんにそのひとにとって私が利用価値があるからそういっているのだとわかると、私たちはいやな気分になるといいました。それは今申した「よい」にこめられている普遍性の要求がなせるわざでしょう。私たちは「よい」ということばを普遍性の要求をこめて、つまりほかのひともきっと自分と同じく「よい」という判断を下すだろうと思って使っているのに、たんにそのひとひとりだけに都合がよいだけのときに、あたかもすべてのひとにとってそれがよいことのようにいいふらしているのを聞くと、気分が悪くなるのです。

 

(6)どうして、関西大学では哲学・倫理学、宗教学、美学が哲学科としてまとめられているのか

 さて、以上がきょうの話の要点ですが、ちょっと付け加えておきたいことがあります。私は、倫理的判断は事実を記述する判断と違い、事実をみる態度を表すといいました。しかし、考えてみると、倫理的態度のみならず、「美しい」という判断も、あるいは、「この世界を神が造った」という判断も、世界のなかに成立している事実ではなく、世界と世界のなかにあるものをどのようにみるかということを表しているように思います。もっと正確にいえば、そうみるというより、そうとしかみえない。たとえば、あるひとにはその絵の美しさが目にとびこんでくる。あるひとには世界が神の創造したものとして現われてくる。また、あるひとには特定の場所が汚してはならない神域として現われてくる。これらは世界と世界のなかにあるものそのものというより、世界と世界のなかにあるものがどのように現われてくるかという問題のように思います。

 関西大学文学部哲学科のほかの先生方が同じ意見かどうかはわかりませんが、私には、哲学科のなかに、哲学・倫理学専修、比較宗教学専修、美学美術史専修が含まれているのは、そのどれもが自然科学や社会科学のように世界のなかにあるものそのものに直接つきあうよりも、むしろ世界にたいする私たちの態度、構えに関わる面を共有しているからのように思えます。もちろん、それぞれの学問のなかには、事実を記述する判断とそれについての研究も含まれています。たとえば、倫理学では、倫理思想史はそれですし、宗教学でも、いつ、どこの社会ではどのような宗教が信じられていたかという事実を認定する作業が必要ですし、美学でも、この絵はだれが描いたのかというように事実を認定する作業があります。けれども、それだけではなく、私たちが事実をどのように捉えているのかという問題が、倫理学にも宗教学にも美学にも不可欠です。そして、それは、たんに事実を与えられたものとして受け入れるだけではなく、それがどうしてそう現われているのかといういっそう根本にさかのぼって考えなおすことにほかならず、だから、きょう私がお話ししたように、あたりまえと思われているようなことでも根本から考えなおす哲学という学問のなかに含まれているわけです。

 きょうの話はこれまでです。もちろん、きょうの話で言い残したことはたくさんあります。私は倫理的判断と事実を記述する判断とを対比するために、事実を記述する判断は真か偽かたやすく決まるようにいいました。しかし、それでは、事実はほんとうにそんなにはっきりとひとつに決まるのか、事実とは何か、事実そのものにも私たちがそれをみている見方・態度がからんでいるのではないか、こういう問題はまったくふれませんでした。また、倫理的判断についても、まるで事実をみるように語ることもあるのではないか。たとえば、「今、その十字路で人殺しをみました」ということばは事実を記述している一方、「人殺し」という「してはならないこと」についての倫理的判断なしには成り立たないのではないか。それらの問題についてはまたの機会があれば話したいと思います。


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