Profile

 

 1957年、神奈川県に生まれました。京都大学・大学院で学生時代を過ごし、それ以来、奈良・京都の寺社散策は趣味のひとつです。研究の出発点は、フッサールの現象学です。

 大学院生だった1980年代後半は、日本に生命倫理学や環境倫理学が精力的に紹介された時期でした。その分野の論文をいくつか書くうちに、研究の重点が倫理学にうつってきました。

 1989年、和歌山県立医大講師。90年に始まった医学概論の企画・運営に関わりました。

 しだいに研究分野を倫理学に広げ、河合塾編『学問の鉄人 大学教授ランキング』では倫理学の若手3人のなかのひとりとして紹介されました。

 93年、広島大学総合科学部助教授。新設された生命倫理学の最初の担当者でした。おりから統合移転後の教養教育改革の時期にあたり、教養科目を再編したパッケージ別科目群の創設に尽力しました。

 99年、関西大学文学部助教授。翌年、教授。

 2003年10月から2006年9月まで関西大学学長補佐を務めました。 関大初の特色GP(「人間性とキャリア形成を促す学校Internship」)採択、高大連携運営委員長として高大連携事業の推進、時限的研究組織である研究プロジェクトユニット制度の設立、教養教育改革、等に努めてきました。

 2007年3月に、「正義と境を接するもの ―責任という原理とケアの倫理―」によって、京都大学から博士(文学)の学位を授与されました。加筆修正のうえ、ナカニシヤ出版から同じ名で刊行されました。

  2015年に、2冊目の単著『倫理学の話』をナカニシヤ出版から刊行しました。

 2016年10月から2020年9月まで関西大学社会連携部副部長、地域連携センター長、高大連携センター長を務めました。

  2020年7月に、3冊目の単著『倫理学入門――アリストテレスから生殖技術、AIまで』(中央公論新社)を刊行しました。  

 

 


 

こんな経歴をへてきました

 

 

1957=昭和32年7月 神奈川県川崎市(現在、麻生区に生まれました。

 小田急線の沿線です。東京近郊の農村地帯から新興住宅地へさまがわりする時期に生まれ育ちました。「昔、等海という上人が飢饉に備えて村人に植えるように勧めた柿を禅寺丸と呼び、今でも残る。柿生(かきお)という地名はここからついた」「白鳥神社は日本武尊をまつる」などという伝承がある土地です。でも、そうした伝承は、もはや暮らしに密着しているものとはけっしてうけとれない。中野重治の『梨の花』のような農村共同体ではもはやなかったわけです。かといって、まだ丘をたいらにして、しゃれた一戸建てや高層住宅のならぶ住宅地にもなっていませんでした。伝承ある寺社が老木に囲まれてうち捨てられたように残っていて、そこへいけば森厳の気がなくもなかった。今では、寺社は森を失って分譲住宅にとりかこまれています。そのかわりに、新興住宅地のなかの擬似的な愛郷心からか、「祭り」や「ふるさとの歴史」探しが行われているようです。

 私にとってのふるさとめいた感覚を呼び起こせば、けやきの多い森、霜柱でひび割れて靴で蹴ると土が板のようになってとんでいった冬の運動場、落ち葉を焚く煙がそこそこに漂っていた秋の思い出くらいでしょうか。「武蔵野の名残は今はつかに入間郡に残れり」とは国木田独歩が『武蔵野』の冒頭に引いている古書の一節ですが、起伏が多いことをのぞけば、私の子どものころのあのあたりはまだ「武蔵野」のふんいきもありました。

 

1976=昭和51年3月 神奈川県立多摩高校を卒業。

 のんびりした高校でした。小説を読むのに夢中になって遅刻したり、欠席したりした日が多かったのですが、担任が「本を読むのはよいことです」といってくれたのでありがたかった覚えがあります。中野重治、内田百間、井伏鱒二などをよく読んでおりました。現代の日本にフィットしないであろう自分をどこに住まわせようかと思っては困惑す。「東下り」とか「流れる」といったことばにひかれるものがありました。

 

1977=昭和52年4月 京都大学文学部に入学。

 関東から関西に移ったさいのカルチャーショックはそれなりにありました。図書館である本を借りようとしたらなくて、係員に「借りられてますしぃ・・・・・・」と断られたときなんか、「それなら、そんな中途半端に言いさして人の顔をみつめてなんかいずに、『だから、お貸しできません』まで言い切ってくれぇ!」といいたくなった。しかし、京風の礼儀からすれば、少し間をおいて「ほんなら、また来ます。お手数かけました」とでも引き取って帰るべきだったかもしれません。

 もっとも、京都が長かったので、かなり「西」化したようです。『徒然草』の「あづまうどこそ人には頼まるれ」の一段では、「関東の人こそ信頼できる。心に思うことをはっきりいってくれるから。都の人は調子を合わせるが約束を守らない」と、東国出身の僧がかたっています。それにたいして、別の東国出身の僧が、「都の人は心優しいからきっぱり断れないのです。関東の人は率直なようで、じつは繊細さに欠けるところがあるから自分の考えをあけすけに言えるのです(げには心の色、おとり・・・・・・)」と反論します。京都在住のあいだ、私の感覚も前者から後者へと変わってきたようです。

 関東平野、正確にいうと、多摩丘陵にそだった者からすると、京都の景色はさすがに瞠目するものがありました。京都の空気はすぎごけがあんなに生えるだけに湿気にとんでいます。雨上がりに日が射しだすと、山並みが奇妙に近く、山肌が陰陽にとんで、山ひだが深くみえてなんとも美しい。どの季節も美しいが、私の好みは秋から冬にかけての時雨の季節です。走っていく雲のかげが嵯峨野の野面なり比叡山の山肌なりをすべっていくのを目でおっていると時を忘れます。初夏から真夏にかけて緑のこい東山に八坂神社の赤い鳥居がうきでているようす。古語の「なまめかし」というのは、ああいう感じでしょうか。ちなみに、純然たる関東者が最初におどろいたのは土の色でした。住んだところが白川砂の産地、北白川だったせいもあるでしょうが、京都と奈良の境をはしる木津川の岸の白さにも(今は慣れてしまったが)感じ入りました。

 京都、奈良の寺や神社は多くまわりました。ひょっとすると、一生の趣味になるかもしれません。最も足しげくかよったのは東大寺戒壇院の広目天。四天王は仏敵の天邪鬼をこらしめているので怒っている表情が多いが、この広目天は怒りが内向して「おまえにはこれほどいってもなおわからぬか」というがごときさびしみが目に宿っているようです。秋艸道人会津八一がこの仏像を詠んで「あきののをゆく」としめくくっていますが、ここにおく季節は「秋」しかない。そのほか、奈良国立美術館に入っている海住山寺の十一面観音像のゆるやかな腰の線。当麻寺の四天王の峻厳(持国天は日本で唯一ひげのある仏像だそうです)。興福寺や西大寺の天邪鬼のせつなさ。室生寺の十一面観音の頬のやわらかさ。寺では、唐招提寺、新薬師寺、長谷寺といったおおどかな感じのするお寺にお参りすると、心が安らぐ感じがいたします。

 

1981=昭和56年3月 京都大学文学部哲学科哲学科専攻を卒業。

 卒業論文は現象学の創始者エドムント・フッサールを扱いました。修士論文もフッサールです。それについては、研究のページへ。

 

1982=昭和57年4月 京都大学大学院文学研究科修士課程哲学専攻に進む。

1984=昭和59年3月 京都大学大学院文学研究科修士課程哲学専攻を修了。

1984=昭和59年4月 京都大学大学院文学研究科博士後期課程哲学専攻に進む。

1987=昭和62年3月 京都大学大学院文学研究科博士後期課程哲学専攻学修期限を修了。

 生活費をかせぐために、塾や予備校で働いていました。最初に勤めたのは、教室の壁に「為せば成る!」などと書いて張ってある精神主義のところでした。私は現代文・古文を担当していたので、経営者に「せんせい、なにか受験生の励みになるようなことわざがございませんか」と相談をもちかけられました。とっさに思いつくのが「たなからぼたもち!」とか「果報は寝てまて!」といったタイプの人間です。そこは一年でやめました。

 その後出会った勤め先がオリジナルの教材を開発しようという気分に満ちていて性にあったので、ついのめりこみました。もともと、教えるのは不得意、組織のなかに入るのも不得意と思い込んでいましたが、おそらく、たまたまよいひととなりの生徒たちにも恵まれたのだと思います。べたべたした手触りのことばは好みませんが、「教える者は教わる者に教えられる」ということばにはいささか実体験の覚えがあります。

 論文や翻訳が活字になるようになりましたが、それについては論文のページへ。

 

1989=平成元年10月 和歌山県立医科大学に講師として赴任。

 進学課程(教養課程のことです)で哲学などを教えていました。おりから、医学概論という科目を設置したり、early exposure(医学生に入学直後に医療現場を体験させる)をはじめたりというカリキュラムの変革期に就職したので、どちらにもかかわりました。そうするうちに、1991=平成3年、大学教育カリキュラムの大綱化がはじまり、まさに改革の渦中のなかへ。それについては大学改革 教員渡世のページへ。

 退職後、1998年に統合移転があり、私のつとめていた校舎(紀伊分校)は廃止になりました。みかん畑やいちご畑の広がるところでありました。「研究室をもらえたら、ブラマンクの嵐の絵(もちろん画集の切り抜き)をかけて、今にも嵐が訪れんとする緊張に満ちた思索にふけるぞ!」と心がまえしていたのですが、行ってみると、窓外の風景はその絵のような田園地帯。あまりに人離(ひとが)れた感じがしたので、お茶の用意をしている女性と飼い犬とがテーブルについている図を描いた、ボナールの「赤と白の市松模様のテーブルクロス」に変えました。むろん、思索の緊張の有無は本人の責任であります。

 

1993=平成5年4月 広島大学総合科学部に助教授として赴任。

 1993年から開講される生命倫理学の講義の担当者として赴任いたしました。最初の担当者だったことをほこりにおもっております。

 それまで広島には出張で二度ほど来ただけでした。引っ越すまえにまず地理を知ろうと、手元の広島関係の文章をいくつか読みました。手元にあったのが原爆に関わるものばかりだったので、むしろ戦前の広島市内の知識にめぐまれてしまいました(たとえば、太田川放水路がまだない状態とか、水主町を「かこまち」と読むとか−−今は加古町と書くようですが、「かこ」とは船を漕ぐ者を意味するので、昔の字でよいように思います)。結局、『黒い雨』の閑間重松が被爆した横川に住むことになりました。夏になると、朝八時ごろに横川駅から電車に乗るとき、はじめのうちは感慨がありました。幟町をたまたま歩いていると、岩波新書の『幻の声』に出てくる旧NHKの建物に出くわしました。『幻の声』というのは、原爆が落ちた日、ラジオから「こちら広島放送局です。広島は爆撃をうけて放送できません。何何局おねがいいたします」という若い女性らしい美しい声が流れていたという話です。だれがその放送をしたのか・・・・・・いや、それは本をお読みください。ともあれ、旧NHKをみつけるや思わず立ち止まってみつめてしまいましたが、今はデパートの倉庫として使われているので、作業をしているひとにはけげんな顔をされてしまったが、ここもとりこわされました。

 広島にきて感心したことのひとつは、ひろしま美術館です。印象派を中心に集めた美術館ですが、最初に訪れたときには、「えっ! こんな作品がここにあるのか!」という驚きの連続。内省的な気分になりたいときには、ルソーの要塞の絵(たれこめた空のもと、濃緑の草木にはさまれた一本の道が通じていく)、ルオーの版画「だれか顔をつくらぬものがいるか」(これは厳しい絵です。自分と向き合わざるをえない)。気持ちを明るく引き立てたいときには、セザンヌの「まがった木」、シニャックの灯台の絵、デュフィの競馬場の絵など、いずれも配色のリズムが静かに気分をたてなおしてくれます。

 広島大学は、医・歯学部と夜間主コースの法・経済学部をのぞいて東広島市の西条にあります。西条は賀茂台地という丘陵地帯(ちなみに、西条の隣駅、八本松は山陽本線で最も標高の高い駅です)に位置しています。点在している赤い屋根は来待(きまち)瓦といい、高温でやいた耐久性のつよいものです。標高がたかいぶんだけ、雪もふるのです。冬の朝には、霧がたち、丘にかこまれているせいか、逆転層(気温の高い層が低い層のうえにある)が発生し霧が低空におしひしがれるようにして広がるときもあります。

 西条は新興の学園都市であると同時に、山陽道の古い宿場町で、名産の造りの煙突が並んでいます。軒に杉玉をつるした造り酒屋では、朝、格子戸を雑巾がけしております。ちょっと京都の町家の朝を思い出します。冬になると、蔵の立ち並ぶあたりには酒の香りがただよいます。お酒に弱いひとだと困るかもしれませんね。思わず深呼吸してしまうのは、「意地きたな」です。西条の酒は甘口とはいえ、すなおな味がします。隣町の竹原の酒もすっきりしていてよい味わいだと思います。

 

1999=平成11年4月 関西大学文学部に助教授として赴任。

 それまで西へ西へとむかってきた人生がふいに折り返すことになりました。若いころをすごした地方にかえったわけで、「もう一度、若返った気分で勉強しなおせ」という、なにものかのはからいかとうけとめております。

 郊外に移転する大学の多いなかで、関西大学は大阪の中心地に近いところにあります。とはいえ、都会の大学の狭苦しさとは無縁で、キャンパスには、吹田市の保存樹木に指定されているくすのきをはじめ、大木がおおく、春には研究室の窓に面して万朶の桜がさきほこります(ちなみに、現在キャンパスのある場所には、かつて千里山遊園なるものがあったそうです)。大学正門前には、古本屋・喫茶店・書店などがあって学生街をかたちづくっています。学生は、自他の大学にたいする世評をくらべて気に病んだり鼻にかけたりするようなタイプはあまりおらず、そういう意味ではのんびりしていて、しかし、自分が本心からやりたいことは馬力をかけてやるというタイプがおおいようです。それやこれやを含めて、全体としては、古きよき大学のふんいきをなおとどめている数少ない大学のひとつだといえましょう。

 

2000=平成12年4月 関西大学文学部教授となる。

2003=平成15年10月 関西大学学長補佐となる。

 昨今の大学をとりまく状況では無理とはいえ、研究主体で生きることはできないのだろうかと思う日々です。(多くの組織でそうであるように、ひまなひとはひまなのですが・・・・・・)

2006=平成18年9月 関西大学学長補佐を退任。

 3年間、学長補佐として手がけたことは、

「人間性とキャリア形成を促す学校Internship 小中高大連携が支える実践型学外教育の大規模展開」の取組責任者。この取組は平成17年度に、関西大学ではじめて、文部科学省特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)に選定されました。

高大連携運営委員長として高大連携の促進。

学内の時限的研究組織である「研究プロジェクト・ユニット」の設置。

研究倫理規準の制定を準備 した(が、私の草案は、「倫理的すぎてわからない」という学内有力者の某教授の言もあったりして、私の退任後、箇条書きみたいな文案に変えられて、それが、現在、発効しています)。

教養教育改革論争に火をつけた(が、在任中は実らず 。この提案でだいぶ反発をくらいましたが、しかし、1991年の大綱化このかた10年以上たっても、抜本的な教養改革をしてこなかった大学には、よい、かつまた、そういう大学が当然受けるべき刺激を与えた、と自負しております)。

私学法改正にともなう学内の合意形成システム改編に関するあれやこれや・・・・・・

などなど。大量の書類作成にかかわらざるをえなかった3年間でした。

 在任中、「わが国の高等教育の将来像」等の中教審答申が出、また、大学教員の制度改革(准教授、助教)、私学法改正、COEの募集とその停止、など、つぎからつぎへ懸案が。私見を述べれば、伝統ある私立大学という(多くの教員の)自己イメージと、私自身が思い描いている勤務先の将来像とのギャップになやんだ3年間でしたが、まあ、それを思えば、私自身の提案がかなり逆風を受けたのも、当然とも感じます。・・・・・むべやまかぜをあらしといふらむ。

 学校インターンシップについては、学外での活動として、日本学生支援機構大阪支部と大学コンソーシアム大阪の共同事業として「学校インターンシップ導入マニュアル」作成にあたり、編集委員長を務めました。

 

2007=平成19年3月 京都大学から博士(文学)の学位を授与。

  1998年ごろから手がけていたハンス・ヨナスの倫理理論とキャロル・ギリガンに始まるケアの倫理との研究を「正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理」と題してまとめ、それによって、京都大学から博士(文学)の学位を授与されました。

  私が博士課程の学生のころ、自分が博士になるとは思っていませんでした。そのころはそれが当たり前だったわけです。文学博士の称号を断った漱石の時代には、「お国」が博士号を授与したのですが、大学が博士号を授与するようになっても、文系ではあまり出しませんでした 。

  ところが、昨今の大学改革で、「博士課程という以上は、定めた課程を修了した者には博士を出すのが当たり前だ 」というアメリカふうな考えが(おもに文部科学省によって)広められ、大学院生をいわゆる 「課程博士」として卒業させることが奨励され、それが学生を教える側にも波及して、私などの年代の者もあらためて学位請求論文を書くように促される(ないしは、迫られる)状況になりつつあるわけです。 私のように、とうに課程をすませて、いまさらながら学位請求論文を書いて博士を授与された者を「論文博士」と便宜上呼んで、課程博士と区別していますが、 これは大学関係者の風習であって、博士号に違いはありません。 ただし、かつての博士号は「文学博士」というふうに専門分野が先に来ますが、制度が変わってからは「博士(文学)」と専門分野があとに来ます。これは、アメリカふうな、どの分野もPh.D.と称する風習と呼応しています。Ph.は「哲学」の略で、哲学がすべての学問を意味したころの名残です。ついでにいえば、京都大学は「この称号を使うときには『京都大学博士(○○学)』と記すこと」と通達していますが、うーん、名刺に刷ったりするには長すぎますね。

  まあ、そういう外発的な誘因があっ たとしても、自分の仕事をまとめる契機となったのはありがたい仕合せでありました。――「どこにまとまりがあるんだ?」という声も聞こえてきますが。

 

2007=平成19年4月 ケルン大学(ドイツ)で在外研究

  関西大学在外研究制度によって、07年4月から08年3月までドイツのケルン大学に滞在しました。現地での私の肩書きは、Aufenthaltdozentですから、文字どおり、「滞在講師」ですね。

  ケルンは、600年かけて築いた大聖堂のある古い町です。少しずつ少しずつ石を積み重ねて、 天上をめざして百何十メートルもの塔を築くという精神は、哲学の精神に通じるものがあるように思います。哲学もまた、ひとつひとつは理解可能であるはずの推論の一節一節をつなげて、超越に接する思索を展開していくものですから。となると、地震や台風で、くりかえし「新規まきなおし」をせざるをえない日本の風土と、哲学の精神とはどこかへだたりがあるような気もいたします。風土決定論にはくみするものではありませんが。

  10月に初めての単著(single-handed book)『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』をナカニシヤ出版から刊行しました。

 

2009=平成21年7月 大阪府立大学21世紀科学研究機構現代生命哲学研究所客員研究員に着任

  大阪府立大学に新たに設置された研究所群である21世紀科学研究機構のひとつ、現代生命哲学研究所の客員研究員をつとめることになりました。

    この年、Hans Jonasの『アウシュヴィッツ以後の神』の訳書を法政大学出版局から刊行。同書は年末の朝日新聞書評では、高村薫さんに「今年の3冊」の筆頭にあげられました。

2015=平成27年10月 二冊目の単著『倫理学の話』をナカニシヤ出版から刊行

2016=平成28年10月 関西大学社会連携部副部長、高大連携センター長、地域連携センター長に着任。2020年9月まで務めました。

任期中に行なった主な仕事は、地域連携センター長としては、関西大学地域連携活動の理念と目的を整理し、冊子「地域で活動する若い力――関西大学の地域連携活動の目的と理念」を刊行し、地域連携活動に関わった学生を顕彰する「〈地域で活動する若い力〉奨励賞」を設置しました。私の基本的スタンスは、しばしば社会貢献を大学の第三の使命といわれることがありますが、あくまで大学は研究と教育を柱にする組織であり、その研究と教育をとおして社会貢献をするというものです。したがって、上の賞も、成果以上に、学生が地域の方々とともに地域の課題に取り組むことで得た成長を顕彰し、学生の活動を奨励するという教育上の意義を重視しています。高大連携は、2003−06年に学長補佐のときに関西大学の高大連携運営委員会の初代委員長になって以来の関わりです。高大連携センター長としては、種々の高校生向けセミナーの整理と発展、近年の高大接続改革を意識した内容の高校教員対象研修講座の充実に努めました。

2020=令和2年7月 三番目の単著『倫理学入門――アリストテレスから生殖技術、AIまで』(中央公論新社)を刊行しました。

 

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