Part4

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KSつらつら通信 Part1

KSつらつら通信 Part2

KSつらつら通信 Part3

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<目次>

第121号 武士道=やせ我慢の美学(2003.12.29)

第120号 ノックの力加減(2003.12.1)

第119号 メールは1往復半が基本(2003.11.25)

第118号 「狼少女」にならないで(2003.11.7)

第117号 闘え、藤井治芳、中曽根康弘!(2003.10.25)

第116号 神を信じぬ運命論者?(2003.10.17)

第115号 二人席のマナー(2003.10.14)

第114号 大物の演じ方(2003.10.7)

第113号 成績表占い(2003.9.19)

第112号 「トリビアの泉」(2003.8.21)

第111号 匿名コミュニケーション(2003.8.20)

第110号 ちょっと期待してみたい(2003.7.29)

第109号 ジーコジャパンを斬る(2003.6.23)

第108号 いい男、いい奴、いい人(2003.6.3)

第107号 関西大学社会学部の魅力(2003.5.25)

第106号 チームのファンとは?(2003.5.18)

第105号 長所と短所(2003.5.16)

第104号 親父ギャグ(2003.5.4)

第103号 リクルートスーツ(2003.4.12)

第102号 形の大切さ(2003.3.21)

第101号 世界の「裸の王様」(2003.3.18)

第100号 入社式以前の研修っておかしくないのかな?(2003.2.14)

第99号 今どきの少女漫画はどうなっているの?(2003.1.31)

第98号 カラオケボックスの楽しみ方(2003.1.31)

第97号 ちゃんと卒業することの大事さ(2003.1.30)

第96号 久米宏をニュースステーションから降ろそう!(2003.1.22)

第95号 最近、テレビ大阪(東京)がおもしろい(2003.1.21)

第94号 貴乃花!(2003.1.21)

121号(2003.12.29)武士道=やせ我慢の美学

 「ラストサムライ」を見てきました。公開前にかなり期待していたのですが、公開されてからもうひとつ話題にならないので、「あれっ、またはずれかな」と不安に思いながら見に行きましたが、とてもよかったですよ。CG全盛期のこの時代に、丁寧に造られたセットとロケーションで俳優たちの鍛えられた演技を見ることができただけでも貴重でした。「マトリックス」なんてあまりにマンガ的で馬鹿馬鹿しく、途中で席を立って帰ろうかと思ったほどですし、一般的には評価が高かった「英雄(HERO)」も、私にとってはやはりCGを使った中国版チャンバラ映画以外の何物でもありませんでした。それゆえ、「ラストサムライ」ももしかしたらまたその種の映画かと不安視していたわけですが、幸いなことに杞憂に終わりました。それにしても、ハリウッド映画はすごいですよね。村をひとつ作ったのですから。日本の山村に非常に似た光景ですが、日本ではないんですよね。ニュージーランドあたりでしょうか。細かいことを言えば、難癖をつけたいところは何カ所も見つかりますが、北野たけし監督の「座頭市」より、余程日本的な美学に貫かれた映画です。

その日本的美学の最たるものとして、この映画のテーマになっているのが「武士道」という美学です。しかし、これが日本的美学の最たるものと言われても、今どき「武士道」なんて何かを説明できる日本人はどのくらいいるでしょうか。ましてや「武士道」という生き方を貫いている人なんて存在するのでしょうか。きっと、この映画を見て、「へえー、こんな生き方(=価値観)もあったんだ」とびっくりしているのは日本人自身ではないかと思います。日本人が忘れてしまっていた美学を思い出させてくれる映画ということで、日本政府は(少なくともそういうのが大好きな森喜郎前首相は)、トム・クルーズに感謝状でも贈ってもいいのではないかとすら思います。さて、その「武士道」ですが、私は、これは江戸時代が太平の世の中だったがゆえに生み出された非合理的な精神論にすぎないと思っています。しかしだからこそ、美しさがあることは理解できます。損になることは避けたい、得になることをしたいというのが普通の人の行動基準です。それゆえ、そういう行動を取っている人は理解しやすいですが、あまりにも現実的で美しくは感じません。しかし、損得計算ではかれない行動、特に自らの身を捨ててでも何かのために尽くすという行動は、多くの人は自分ではできない行動として、ある種の美しさを感じることがしばしばあります。江戸時代に誕生した武士道は、明治以降は軍人精神に置き換えられ、第2次大戦(大東亜戦争)で敗れるまで異様に賞賛され続けてきました。しかし、戦後はこの精神が壊滅的な敗戦の原因とも位置づけられ、一転して軍人精神=武士道は見捨てられ、誰もが自分の私生活にしか関心を抱かなくなってきたのです。時に、三島由紀夫のような男が現れて、忘れられつつある武士道精神を鼓舞しても誰もついていかないという状況になってしまったわけです。この飽食の時代に「やせ我慢の美学」とも言える「武士道」の出番はほとんどないでしょうし、それを振り回すことは時代錯誤も甚だしい行為でしょう。しかし、こんな生き方=価値観もありうるのだということを知っておくことは悪くないと思います。

120号(2003.12.1)ノックの力加減

 最近「つらつら通信」が「おじいさんの小言」みたいになっていますが、ついでですから、もうひとつ言わせてもらいます。前から気になっていたのですが、どうも年々ノックをきちんとできない人が増えてきているような気がしています。研究室を訪ねてきた学生がノックもせずにドアを開けたり、まるで恨みでもあるのかと疑いたくなるほどドンドンと大きくノックしたり、とびっくりするような事態にちょくちょく出くわします。確かにノックの仕方ってあまり習わないことでしょうが、生活する中で自然に学ぶことだと思っていました。家族で住んでいれば、誰かがトイレに入っている時もあるでしょうから、ノックをして使用中かどうかを確かめなければならないはずです。その時にどの程度の叩き方をすればいいのか、誰か教えてくれるものではないのでしょうか。我が家でも、かつて子どもたちがノックをせずにトイレのドアを開けようとしたり、こぶしでドンドンと大きな音で叩いたりしたことがありましたが、その度に私は注意をしてきました。「ノックは必ずすること。叩き方は中指だけを使ってコンコンと叩くこと」って、これだけなのですが。ノックしないのは論外ですが、ノックする場合でも力の加減をうまくできないとびっくりするほど大きな音が出てしまいます。力の加減はちょうど生卵を割るぐらいがいいのですが、そう言えば7〜8年くらい前に、「今、生卵を上手に割れない小学生が増えてきている」という新聞記事が出ていたことを思い出しました。今の大学生世代がちょうど小学生だった時期のことだと思います。力の加減が下手な人が増えてきているのでしょうか。なんだか、力加減の下手さって、単にノックの話だけに留まらないような気もしてきました。いろいろな場面で状況に合わせて「力加減」を巧みにコントロールできるかどうかは、実は生きていく上でも非常に重要なことです。すぐキレる人は力の入りすぎだし、ほとんどしゃべらず何を考えているかわからない人は、力をセーブしすぎでしょう。研究室の扉も心の扉も上手にノックしてほしいものです。

119号(2003.11.25)メールは1往復半が基本

 先日、ある友人が「メールで質問されたことに答えてやったのに、それに対して『ありがとうございました』という返信が来ないのは失礼だ」と軽く腹を立てていました。この感覚は私もよくわかります。「質問→回答→御礼」でやりとりは完結するのです。もしもこれが対面状況でのやりとりなら、余程変わった人でない限り、この1往復半をしているはずです。口頭でもメールでも心地よい相互作用の原則は同じだと思います。しかし、メールはその場で顔が見えないせいか、最後の御礼をしない人は確かに多く見受けられます。「1往復半」が基本だと広く認識してほしいと思います。なお、この1往復半のルールは、質問でスタートするときにだけ適用されるものではなく、一般的な内容のメールでも適用されるべきだと思っています。返信を期待せずに初めてのメールや久しぶりのメールを送ったところ、思いがけずに返信が来たといった場合には、やはり「返信ありがとうございました」という御礼メールを書いて初めて完結されるべきです。片道ではもちろん相互作用にはならないし、1往復だけでは両方が納得のいく形での完結にはならないのです。1往復半が心地よいメール・コミュニケーションの基本ルールだということがもっと一般化してほしいと思っています。

118号(2003.11.7)「狼少女」にならないで

 いつも「狼が来たぞ」と村人をだまして楽しんでいた少年が、本当に狼が来たときに誰にも信じてもらえずに、狼に食べられてしまったという寓話はご存知ですよね?あの話で嘘をつくのは少年なので、「狼少年」が「嘘つき」の代名詞になっていますが、現実社会には、結構「狼少女」が多いような気がします。本格的な詐欺師は男性の方が多いのかもしれませんが、小さな嘘を簡単につく人は私が見る限り、女性に多いような気がします。この程度のことは嘘をついてもたいして迷惑はかからないだろうし、もしもばれてもちょっと反省したような顔をして「ごめんなさい」って言えば、ほとんどの男性は許してくれると安易に思っているのではないかという気がしてなりません。「第60号 ドタキャンのコスト」で書いたことと同じ様な話なのですが、例えば、こんな嘘は通用しないよという警告の意味も込めて、ちょっと書かせてもらいます。

 女性が休むときによく使うのが「体調が悪いので」という理由です。この理由を使えば、女性特有の体の問題もあり、一般的には男性はそれ以上何も言わないものです。私も、滅多に休まない人が、こういう理由で休みたいと言ってきた時はとりあえず素直に信じます。でも、2度、3度となってくると、疑念が湧いてきます。2度目は「あれっ、また?」ぐらいで済みますが、3度目となると「どうやら狼少女かな?」と思うようになります。4度目以降は、完全に「狼少女」とレッテルを貼り、本当に体調が悪かったとしても、「またさぼりか」と思い、ほとんど心配もしません。確かに体調は多少なりとも悪いのでしょう。女性特有の体の問題の場合もあるでしょうが、寝不足でも、二日酔いでも、運動のしすぎでも、体調は悪いものです。しかし、基本的には多少しんどくたってやらなければいけないことはやるんだという気持ちがあれば、ある程度の体調の悪さは乗り越えられるはずです。誰だっていつでも体調万全で仕事をしているわけではないのです。社会に出て、重要な仕事を任されるようになったら、ちょっと体調が悪いので、なんて理由で休むことなんて、絶対できませんよ。もちろん、男性もさぼります。でも、私の経験から言うと、「体調が悪いので」なんて曖昧な理由で休む人はあまりいません。(皆無ではありませんが。)むしろ、下手な嘘をつくより、「寝坊しました」とか「二日酔いで起きられませんでした」とか言ってもらった方が余程さわやかです。(もちろん、何度もそんな理由で休んでいたら、喝を入れますが。)本当に体の具合が悪い人は、男性でも女性でも、「体調が悪いので」なんて曖昧な理由ではなく、もっとちゃんと理由を伝えてくれるものです。ついでに言えば、「風邪をひいたので」という理由も「体調が悪いので」の次くらいに信じていません。「咳が止まらないので」とか「38度以上の熱があってふらふらしているので」などと具体的に言われたら信じますが。(これを読んで、「じゃあ、そういう嘘を言えばいいんだな」と思った人は、どうぞ利用してください。それであなたの心が痛まないなら。)

 この文章で女性に対する理解のない男だと批判されるかもしれません。でも、今の世の中、結構女性に甘くなりすぎているところも多いと日頃から思っていますので、あえて書かせてもらいました。「狼少女」にはならないでください。「狼少女」だと思われてしまったら、あなたが本当にしんどい時、つらい時、誰も手を差し伸べてくれなくなりますよ。長い目で見たら、今ちょっとしんどいからと安易に休んでしまう方が大きなマイナスになる場合が多いということにぜひ気づいてほしいものです。

117号(2003.10.25)闘え、藤井治芳、中曽根康弘!

 それなりの社会的地位を得ている人に上手に身を引いてもらうことができずに小泉内閣があがいています。もちろん、道路公団の藤井前総裁と中曽根元総理大臣のことです。両者ともに、人物としては喰えないタイプで、マスコミ的な人気もないので、なんとなく年寄りがわがままを言っているだけと見ている人は多いのではないかと思いますが、私は個人的な好き嫌いは別として、彼らが怒るのは無理がないと思っています。藤井氏は自分が世の中を動かしてきたんだと考えている典型的な傲慢なエリート官僚タイプですが、ただ彼らエリート官僚は自己利益のためではなく国のために仕事をやってきたのだという強い自負心も持っています。そもそも高速道路を全国に造っていくことはつい数年前までは国是であり、自分たちは私生活すら犠牲にしてそのために邁進してきたのに、最近になって急に方針転換がなされ、藤井氏一人が無駄なことをしてきた「悪の張本人」のようなイメージを与えられたわけですから、納得できないのは当然でしょう。多くの国会議員が、多くの知事が、多くの商工会議所が、多くの住民が求めてきたから造るように努力してきたのに、トカゲの尻尾切りのように、自分一人をやめさせることですべてがうまく行くようなことは言われるなら、徹底的に闘ってやると思う気持ちは私にはよく理解できます。小泉首相や石原国土交通大臣、そして安倍自民党幹事長にとって誤算だったのは、エリート官僚はこういう場合は無駄な闘いをせずに、すべてを含んで素直に辞任し次のおいしい職に移るはずだと思っていたのに、藤井氏がそういう行動を取らなかったことでしょう。「日本を変える、自民党の古い体質を変える!」といつも叫んでいる小泉純一郎とその手足である石原伸晃や安倍晋三が、実は伝統的な日本的なやり方通りに物事が進むのを期待していたのに対し、伝統的な日本的方式の推進者であったエリート官僚が、正面から議論をふっかけるという非日本的なやり方で対抗しようとしているおもしろい構図になっています。

 中曽根康弘元首相の定年問題も実は同じ構図になっています。比例区は73歳で定年にするという自民党内部の基準に抵触するから、中曽根氏ともう1人の首相経験者である宮澤喜一氏に自主的引退を迫ったわけですが、後者には受け入れられたものの、前者には拒否されました。この事態に対しても世論は「老害」といった言葉を前面に出して、宮澤の潔さと中曽根の執着を対比的に語っています。しかし、これもそんな単純な話ではありません。この2人が比例区に回された時は、まだ「73歳定年制」は導入されていなかったのですし、もしも73歳以上は高齢過ぎて使い物にならないと本気で思うなら、比例区だけでなく小選挙区でも定年制を引くべきです。(小選挙区には80歳代も含め、73歳以上で自民党が公認している立候補予定者はいっぱいいます。)英語が達者で欧米的価値観を色濃く身につけている宮澤氏が、「総裁に恥をかかせるわけにはいかない」と日本的美徳に沿った行動選択をしたのに対し、日本的道徳教育の復活を持論とする中曽根氏が7年前の文書(当時の橋本龍太朗総裁と加藤紘一幹事長が、比例区での終身1位を約束した文書)を根拠に「私と党との契約を一方的に破棄する非礼な態度で、私は断固として了承しない」と、契約主義社会の人間のような行動選択を取ったというのも、なかなか興味深い事態です。宮澤氏も突っ張ったらよりおもしろかっただろうと思いますが、中曽根氏のような「終身1位」の約束はしてもらっていませんから、突っ張りきれないと判断したのでしょう。若い人たちからすれば、なんで「終身1位」なんてむちゃくちゃな約束をしたのですかと首を傾げたくなるところでしょうが、当時はそうしないと納まりがつかなかったのです。中曽根氏の選挙区は中選挙時代には、福田赳夫元総理大臣(福田康夫現官房長官の父親)と小渕恵三元総理大臣と同じ選挙区で、いつも3人が必ず当選していました。(1選挙区から3人の総理大臣が出たのですからすごいですよね。この3人の選挙区を通って、田中角栄の選挙区の近くである新潟まで走る上越新幹線が早々とできた理由もわかるというものです。)ところが、小選挙区制度に変更される際に、この中選挙区は2つの選挙区にしかならなかったため、誰かに小選挙区での出馬をあきらめてもらわないといけないということになったのです。小渕恵三はこれから総理大臣を狙おうとしていたところでしたし、父親の後を継いだ福田康夫は、まさにこれからの政治家でした。そんな中で、すでに総理大臣を勤めあげ、70歳代後半に入っていた中曽根氏に比例区に回ってもらおうというのが、その時点での常識的な選択だったわけです。しかし、比例区に回って地盤を失った政治家は党に議員としての生殺与奪の権利(単純に言えば公認してもらえるかどうか、また公認したとしても何位に位置づけるかの決定権)を握られてしまうことになりますので、皆、小選挙区から立ちたいと望むのです。中曽根氏のような大ベテラン議員でも同じ思いだったのです。膠着しかけていた事態を解決するためにひねり出された方法が「中曽根終身1位」だったわけです。さて、ことここに至って、中曽根氏はそして小泉首相はどんな最終判断を下すのでしょうか?私としては、小泉首相が予定通り中曽根氏を比例区の自民党候補として公認しないで、それに怒った中曽根氏が福田官房長官の選挙区で立候補するという展開になるのを期待しています。小渕元首相の娘で今回2回目の当選をめざす小渕優子の選挙区で出た方が当選可能性は高いかもしれませんが、切れ者だけど皮肉屋で小泉首相が全幅の信頼を置いている福田官房長官に闘いを挑む方が、首相に対するあてつけとしてはより明確な意味を持ちます。ぜひ闘ってほしいものです。でも、物事をあいまいなうちに処理したがる自民党のことですから、きっと「自民党終身名誉総裁」なんて有名無実な肩書きを作って、立候補を思い留まらせるのではないかと思います。そんなごまかしで納得せずに闘ってほしいものです。藤井道路公団前総裁も、水面下で談合などせずに、行政訴訟に持ち込んで、徹底してやってほしいものです。闘うべきときは闘うという文化が日本にはもう少し根付いてもいいのではないかと常々思っていますので、2人が闘いを挑むのを楽しみにしています。

116号(2003.10.17)神を信じぬ運命論者?

 先日ゼミ生たちと話していて、私が自主的にはお守りを買ったこともないし、神頼みもしたことがないと言ったところ、学生たちから非常に驚かれてしまいました。「1回くらいなんかあるでしょう?受験の時は?お子さんが生まれるときは?」などといろいろ聞かれましたが、やっていません。受験の時も、自分の得意分野が出てほしいなとは思いましたが、別に神頼みはしませんでしたし、子どもが生まれるときも、母子とも健康であってほしいなとは思いましたが、神頼みはしませんでした。男の数え42歳は厄年で、私も何年か前に過ぎましたが、厄落としにも行きませんでした。お賽銭も滅多に入れません。鈴の音を聞いてみたい時は、一応「鈴鳴らし代」のつもりで入れますが、そうでないときは入れませんね。場に合わせて手は一応合わせたりもしますが、神様にお願いしている気持ちにはなっていません。別に、日本の神道を馬鹿にしているわけではなく、仏教でも同じです。お寺を見て回るのは結構好きですが、それは歴史的な意味をそこに見いだして楽しんでいるだけで、御利益があるとか全然思っていません。ただ名前をつけるだけの戒名に50万、100万といった金額を払うなんて馬鹿馬鹿しくてたまりません。戒名なんて要らないというのが私の持論です。死んだ後も、私は「片桐新自」でいいと思っています。なんで神や仏を頼まないかと言えば、そんなことをしたからといって、それが原因で事態が変わるなんてことがありえないからです。だって、因果関係が何もないじゃないですか。神が祈った人間にとってだけ試験問題を都合良く変えてくれたり、母子とも健康に出産させてくれたりするなどという因果関係は存在しないのです。試験に合格するためには、自分が勉強するしかないじゃないですか?母子ともに健康に出産が行われるためには、妊婦である妻の健康管理を妻自身とそれを物理的・精神的にケアする夫の協力で達成するしかないんじゃないですか?当たり前のことだと思うんですけどね。ちなみに、お墓の存在やお墓参りには意味があると思っています。法事などで親族が集まり、お墓参りをすることは、親族アイデンティティを高めますし、新しい世代にその家族の歴史を教えることができますので、社会学的に見て順機能を果たしていると思います。ただ、お墓に高いお金を出して買った戒名が彫られていなくたっていいと思っています。片桐新自の墓であることがわかれば、十分です。

こんなことばかり書いていると、私は、嫌味なほど徹底した近代合理主義者に思われそうですね。そうなのかもしれないなと思う反面、私は、結構運命論者です。自分が努力してもだめだった場合、一時的には落ち込んだりもしますが、しばらくしたら「まあそれも俺の運命なのかな」と結構潔くあきらめます。好きな女性にふられても、仕事で思った通りの結果が出なくても、自分なりに精一杯やったと納得できていたら、「こういう運命だったんだな」ってあきらめます。「人事を尽くして天命を待つ」って言葉は結構好きです。事態を改善する努力は必要ですが、結果が出るには様々な偶然も作用しますので、最後は「運命かな」って思うしかないんじゃないでしょうか。こういう考え方をしていると結構楽ですよ。

それにしてもある意味では何でも運命かなと思います。典型的には命の誕生がそもそも運命的ですよね。もしも私の父親と母親が出会っていなかったら、私はこの世に存在しないわけですし、私が今の妻と出会っていなければ、うちの子どもたちも存在しないわけです。ものすごい偶然が積み重なって生じた奇跡的な出来事です。まさに運命としか言いようがないでしょう。でも、「運命の人」と出会ったわけではなく、出会った人が「運命の人」になるんだというのが、私の考え方なので、たまに自分にぴったり合う「運命の人」がどこかにいるはずだと永遠に恋人探しを続けている人とは違いますので、誤解なきようにお願いします。人と人の出会いは本当に運命的です。家族、友人、師弟、みんな天文学的な確率の偶然が出会わせた運命的関係です。今ちょうど、関大はゼミ選択のシーズンですが、ゼミ生との出会いだって本当に運命的です。もしも私が関大の教師でなければ、もしも学生たちが関大に来ていなければ、もしも他のゼミを選んでいたら、私とゼミ生という関係は成立しなかったわけです。本当におもしろいものです。今年もまた「運命の出会い」を楽しみにしたいなと思っています。

ところで、私は「近代合理主義者」なのでしょうか?

115号(2003.10.14)二人席のマナー

 携帯電話の使用、化粧、食事など、公共交通機関で守るべきマナーについては様々な議論がなされてきています。もちろん好感を持てる行為ではありませんが、マナーはある程度変化していくものですから、あまり目くじらを立てることもないだろうと、日頃は私も気にしないようにしています。しかし、先日続けざまに我慢しきれない気分にさせられました。最初は、バスの二人席で隣に座った女性がファンデーションから塗り始めて「フル装備」をしていった時です。もともと公共交通機関で化粧するという行為は、周りにいる人間を感情をもった他者として意識しないことによって行いうる行為です。(例えば、密かに片思いをしている人が目の前に座っていた時に、こういう行為をなしうるかどうかを考えてみてもらえば、如何に通常は一緒に交通機関に乗り合わせた他者を意識していないかがわかると思います。)私も横にずらっと並んだ座席の対面あたりで「変身」プロセスを見せられるぐらいなら距離もありますので、気にせずにいることができます。しかし、バスの二人席です。嫌でも気になります。「あなたなんか、私にとって意識するに値しない人間なのよ」と行為によって示されているようで、かなり不快でした。もしも男性がバスの二人席でスポーツ新聞のポルノ欄を見ていたら、女性は不愉快な気持ちになると思いますが、同じようなものだと思います。(ポルノ欄をこれみよがしに読む行為はわざと行っておりそばにいる女性の反応を楽しんでいるという説もありますが、多くの場合、周りの女性たちの感情を意識せずに行われている行為だと思います。)バスの化粧は結局我慢したのですが、新幹線の二人席ではついに注意をしてしまいました。隣の女性が携帯メールをしていたのですが、ボタン確認音をOFFにしておらず、ボタンを押すたびに電子音がしていたのです。しばらく我慢していたのですが、なかなか終わらないので、「すみませんが、ボタン確認音を消してやってもらえませんか」と言ったところ、とても嫌な顔をしてすぐに携帯メールをやめてしまいました。そんなに不当な注意をしたわけではないと思うのですが、相手の受け止め方は「なんであなたにそんなことを言われなければならないんですか」って感じでした。この2つの「事件」を通して思ったことは、二人席のマナーは、一般的な公共交通機関のマナーよりかなり厳しく考えるべきだということです。非常に近接している分だけ、相手の行為が意識されがちです。6〜7人掛けの座席で隣り合わせた時も距離的には同じくらい近いですが、二人席の場合は2人だけのある種の閉鎖性があるために、一段と隣り合わせた人に対する心配りが必要ではないでしょうか。

114号(2003.10.7)大物の演じ方

 自分も年輪を経てきたせいか、最近いわゆる政治家や知識人、あるいはその他の有名人と言われる人たちの底の浅さばかりが目についてしまいます。しかし、他方でそういう人たちの中に大物風を上手に演じている人たちがいることにもまた気づきます。つらつらと観察してきて自分を大物に見せるポイントというのがほぼわかってきました。ポイントは3つです。(1)決して感情的にはならず(特に怒ったりあせったりした顔を見せてはいけません)、(2)たいして意味のないことでも自信たっぷりに、(3)ゆっくりと話すことです。どんな場面でもこの3つのポイントを忘れずに実践していれば、簡単に「大物」を演じられますよ。ちなみに、私はすぐに感情が顔に出るし、意味のないことを話すのは嫌いだし、とても早口です。ははははは。まあ、本当に中身がすごければ、感情的になっても、早口でも大丈夫なのでしょうが……。とりあえず、若い人たちにはまだそれほど必要のない演技力でしょうね。

113号(2003.9.19)成績表占い

 世の中には「血液型占い」や「星座占い」をはじめとして様々な占いがありますが、その多くはなんら理論的根拠がありません。むしろ、1〜2年前に軽く流行った「メールの文章による性格占い」なんてものの方が信じられます。実は、私も「成績表占い」という独自な性格占いをやっています。これは、意識的に作った占いというより、長年、学生たちと濃いつき合いをしてきた経験から自然に生みだした性格分析の一種なのです。ちょうど春期授業の成績発表が行われたところですので、今日はその一部をご披露しましょう。

a.ほとんどの科目の成績が優で単位も落としていない人……あなたはまじめで頑張り屋ですし、文章を書く力もあります。自己主張も強すぎず、他人に合わせることもできる協調性も持っています。時として、ちょっと押しが弱いのが欠点と思われることがあるでしょう。

b.出席重視の科目の成績はほとんど優で単位も落としていないが、一般の講義科目の成績は優と良を中心にそこそこの人……あなたは常識人です。無難な人生を歩むタイプです。

c.出席重視の科目の成績はほとんど優で単位も落としていないが、一般の講義科目の成績は良を中心としてあまりよくない人……あなたは失敗を恐れるまじめさを持っていますが、あまり要領のよい方ではないです。時間の使い方が下手で、かけた時間ほど成果の出ないタイプです。

d.出席重視の科目は必ずしも優ではないが落としていないし、一般の講義科目の成績は可もかなりあってよくないがそれほど落としていない人……あなたは、結構要領のよい性格です。営業職に向いているかもしれません。

e.落としている単位は少なく、優もかなりあるが、可もかなりあるという人……あなたは好きなことには人一倍力が入る方ですが、嫌いなことには力が入らないというはっきりした性格です。自己主張が強く、他人とぶつかることもしばしばあるかもしれません。

f.落とした科目は多いし、修得した科目の成績も悪い人……あなたははっきり言ってなまけものです。やるべき時にやるべきことができない人間です。直さないといけません。

 一般化して書こうと思うとなかなか難しいですね。ひとりひとりの成績表を見れば、もっと細かい性格分析もできるのですが。まあでも、一度自分の成績表を見ながら当たっているかどうか確かめて下さい。

112号(2003.8.21)「トリビアの泉」

 「トリビアの泉」という番組が当たっていると聞き、昨日初めて見てみました。確かに、「へえ」と言いたくなる豆知識がいろいろ紹介されていておもしろいと言えばおもしろいのだろうなと思いました。昨日紹介されていたものでは、和歌山県の海中に郵便ポストがあり、そこに投函した手紙はちゃんと届くなんていう事実には、私も「へえ」をたくさん押したくなりました。でも、まさに「トリビア=些末なこと」で、知らなくてもいい知識ですね。確かに、友だちとの軽い会話のネタとしては使えると思いますが、5分持てばいい方でしょう。しかし、その事実自体が本当に些末なのかどうかは検討の余地があるかもしれません。むしろ、どう取り上げるかという問題なのかもしれません。スフィンクスの前で写真を撮った武士がいるなんて事実は、単なるトリビアな知識ではなく、その背景を考えれば、非常に重要な歴史的事実だと思うのですが、こうした重要な事実ですら、トリビアな知識のひとつとして笑って終わりにしていましたし、スフィンクスの視線の先には「ケンタッキーフライドチキン」のお店があるということも、グローバリゼーションの表れと見れば、間違いなく重要な社会学的事実でしょう。まあ、そんな風に堅苦しい取り上げ方をしないからこそ視聴率が取れているのでしょうが……。たぶん、私はこの番組をまめに見ることはないと思います。この番組と比べればはるかに役に立つ知識を紹介している「伊東家の食卓」もあまり見ない方です。今さら、こんなことを言ってもしょうがないのかもしれないですが、今どきの民放テレビ局のゴールデンタイムの番組は、本当に役に立たないトリビアな番組ばかりです。だんだんNHK以外の番組は見ないという人の気持ちがわかるようになってきました。民放でも、以前は「驚きももの木20世紀」や「知ってるつもり」などは、トリビアではない知識を伝えてくれていた良質な番組だったのですが、どちらも終わってしまいました。ああいうきちんとした調べを必要とする番組は手間がかかるから作らないのでしょうか。残念ですね。

111号(2003.8.20)匿名コミュニケーション

 こんな面白みのないHPでも、どこで知ったのか、たまにまったく知らない人から「HPを見ました」というメールをもらうことがあります。それは嬉しいことなのですが、どうも苦手なのが、自分自身の紹介をせずに、メールを送ってこられるケースです。名前も下の名前だけということも多いです。別に、住所と電話番号を書いてほしいなんて思いませんが、フルネームとどういう団体に所属する人間か、どういう経緯でこのHPにたどりついたのかぐらいの情報は示してほしいものです。せっかくメールをもらったのだから、返事を書こうと思うのですが、相手の情報が少なすぎると、うまく返事が書けないのです。相手がどういう人で、どうしてこのHPに関心を持ったのかといった情報が最低限でもないと、的はずれなことを書いてしまいそうで、筆(?)が進みません。でも、こういう感覚はもう古いのかもしれませんね。匿名の相手とでも気楽にコミュニケーションが取れないと、今の時代にはついていけないのかもしれません。以前、「社会学について教えて下さい」と匿名で質問をしてきた人に、聞きたいことがあるなら自己紹介をしてからにしてくださいと返事を返したら、「それなら結構です」というメールをもらったこともありました。昨年行った大学生の意識調査でも、面識のない人と「メル友」になれると答えた学生が3割もいました。私のHPではできませんが、他のHPで掲示板があるところなどは、ほとんどみんな匿名(あるいは「ハンドルネーム」)で書き込みをしています。「匿名コミュニケーション」が一般化している時代なのでしょう。私の知人の社会学者は、4つのメールアドレスを持っていて、そのうちの一つは女性になりきってメールをしていると言っていました。つまり、名前を名乗っていても、架空の人間を演じることもできるというわけです。そんな時代なんですね。

 でも、私自身はこの「匿名コミュニケーション」(あるいは「架空名コミュニケーション」)には抵抗し続けようと思っています。匿名での発言はやはり無責任だと思います。たまにかの有名な「2ちゃんねる」なども覗くことがあるのですが、読むたびに、匿名性に隠れた悪意を感じます。自分の名前を名乗って発言できないようなことは基本的に発言するべきではないと思います。いろいろ批判したいこと、言いたいことは誰でもあるでしょうが、自分の言動にはきちんと責任を取るという姿勢で、自分の名前を名乗って発言してほしいものです。これは、新聞社に対しても言いたいなと思っています。日本の新聞記事って、記事を書いた記者名が匿名になっているものがほとんどですが、あれも匿名性に隠れて言いたい放題になっているなと感じることがしばしばあります。新聞も署名入り記事を原則にすべきです。複数で担当した場合は、複数の記者の名前を記せば済むはずです。匿名は卑怯な感じがしてなりません。

110号(2003.7.29)ちょっと期待してみたい

 自由党と民主党の合併が決まりましたが、これでちょっと政治がおもしろくなりました。菅直人と小沢一郎は、日本には数少ないものをはっきり言える政治家です。必ずしも思想信条はぴったりではないと思いますが、強力なタッグであることは間違いありません。どうせ自民党の中だって、意見はばらばらなのですから、民主党の中でかなり意見の違いがあっても構いはしないでしょう。とりあえず、政権交替が可能な状況を生み出すためには何でもやるという小沢一郎の意気込みのすごさが今回は強く感じられます。通常なら、対等合併で、政党名も両方の名前を折衷的にすることなどを求めてごたごたするものですが、今回の小沢一郎はある意味すべてを捨てました。ここまでの行動を小沢一郎が取るとは私は予想していませんでした。結果的に、この10年間のどんな政党合併より魅力的な合併ができあがりました。「ニュース23」で言っていましたが、総選挙前に、新民主党が政権を取ったらこんな内閣を作るという大臣の具体名をあげた影の内閣を示すことで、さらに魅力を増すことができるでしょう。「菅直人総理大臣、小沢一郎外務大臣、田中康夫環境大臣、北川正恭総務庁長官、etc.」なんて内閣ならきっと票は取れます。ついでに、「イラクに自衛隊も送らない」ということも2人は言っていますので、これも票を取れるでしょう。他方、小泉首相は疲れてきています。目の周りがはれぼったいです。今のままでは近い内に倒れたりするのではないかとすら思ってしまいます。自民党総裁に再選されても、次の選挙ではもう以前のような風は起こせないでしょう。かと言って、他の人が総裁になっても、小泉よりよい結果は残せないでしょう。今回の総選挙はおもしろくなってきました。ちょっと期待してみたいと思います。

109号(2003.6.23)ジーコジャパンを斬る

 私もかなりのサッカーファンになってきました。なんと今日は、日本とコロンビアに試合を生で見るために、午前4時に起きました。残念ながら負けてしまいましたが……。これで、日本代表の試合もしばらくないでしょうから、ジーコジャパンの分析をしてみたいと思います。韓国でフロックのような勝ち方をした頃から、こんなチームじゃ先は望めないと思っていました。ジーコは、選手に「創造性のあるプレー」を求めていたのですが、いかんせんレギュラーとして使うのが、アントラーズを中心としたロートル選手ばかりなので、とうていジーコの求めるレベルに到達するはずはなかったのです。その後、当然ながら再戦した韓国に敗れ、アルゼンチンに惨敗し、漸くジーコも頭を切り換えました。これまで使ってこなかった若い選手を思いきって抜擢したのです。中田、中村といった技術のある選手が戻ってきて合流したのも、効を奏したのでしょうが、引き分けたパラグアイとの試合は、ジーコジャパンになってから、はじめてまともな試合を見せてもらった感じがしました。その勢いのまま、コンフェデレーションカップに向かい、ニュージーランド戦、フランス戦となかなかよい試合をしたので、今朝もかなり期待していたのですが、中村の欠場も響き、結局0−1で負けてしまったわけです。しかし、この4試合で、今後の課題(個々のテクニックの向上)、ジーコジャパンの方向、使うべき選手がはっきり見えてきたと思います。それでは、現段階で、私が考えるベストメンバーをあげてみましょう。

GK:川口(どうも私は楢崎をあまり高く評価できないんですよね。川口の神憑り的セーブは楢崎には期待できません。反射神経は川口の方が上でしょう。ハートも強いですし。妙なプライドは捨て、早く日本に帰ってきて、試合感を取り戻してほしいものです。GKは海外に出なくてもいいと思うのですが……。)

DF:松田(最近見ていませんが、怪我でもしているんでしょうか?でも、センターバックには高さと強さと早さが必要です。松田が日本のDFの中心にならなければだめでしょう)、坪井(この4試合で評価をあげました。強さはまだまだですが、早さと高さは合格点でしょう)、山田(彼もいいですね。しっかりした守りと確実なセンターリングは評価できます)、三都主?(左のサイドバックがいないですね。とりあえず三都主を使うしかないのかもしれないですが、彼の守備は不安だし、攻撃に回ったときもフェイントがワンパターンで、ほとんど奪われる気がしてなりません。動いていたボールが三都主のところで止まるのも気になります。)

MF:中田(英)(別格です)、中村(イタリアに行ってうまくなったし、強くなりました。積極性も格段に増しました)、小野(最近見ていませんが、うまいはずです)、遠藤(そのFKは、中村と2枚そろうと大きな武器です。小野と組ませるなら、守りをしっかりするボランチとして、稲本よりいいでしょう。)

FW:高原(今回の大会は実によくはずしてくれましたが、ポストプレイもドリブルもボールのない時の動きも日本のFW陣の中では頭ひとつ飛び抜けています)、大久保(見事な動きです。今後もっと成長するでしょう)

その他寸評:中山(大ファンですが、やはりもう無理ですね。後輩に席を譲る時期です)、秋田(好きな選手ですが、もう動けませんね)、鈴木(なんで彼が日本代表に選ばれているのかが不思議でなりません)、柳沢(彼はテクニックがあるし、日本代表にいるべき存在です。イタリアに行ってレギュラーとして試合にでられれば、一皮むけるでしょう)、稲本(いいカットもしますが、ミスが多いですよね。小野とボランチを組ませると守りが不安です)、小笠原(いい選手だと思うのですが、ハートがまだだめですね。彼も海外に出たら、一気にうまくなりそうな気がします)、永井(韓国戦のフロックゴールで有名になりましたが、実力は全然足りません。コロンビア戦でも大久保に替わって登場しましたが、まったく消えていました)、鈴木(ジュビロのDF。私は強くていいセンターバックだと思うのですが、なんで代表には呼ばれないんでしょうね)。まあ、こんなところにしておきましょうか。

108号(2003.6.3)いい男、いい奴、いい人

 世の中にはいろいろなベストテンがありますが、そのひとつに女性誌『アンアン』が毎年発表している「好きな男ベストテン」というものがあります。好きにもいろいろあるのでしょうが、要するに魅力的な男性タレントのランキングであることは間違いないでしょう。サンプルの代表性など、調査に関する厳密なチェックをすればまともに取り上げる価値のない調査でしょうが、それでもこのランキングで木村拓也という1人のタレントが10年連続でトップを維持しているというのは、それなりに考察の余地がありそうです。と言っても、キムタク論をやろうと思っているわけではありません。そこまでの意欲を彼に対して持つことは私にはできません。ただ、私にとってその程度にしか思えない存在が、10年連続で女性たちにとって魅力的な男NO.1の地位に輝き続けているというのが、社会学者としては非常に気になります。長年、社会学的視点でいろいろなものを見ていると、自分自身が個人として主観的には納得できなくても、社会学者としては理解できるということが多々あります。というか、そういう理解ができなければ、社会学はできないのです。ところが、キムタクに関しては、これほどの人気があるというのがどうしてもよくわからないのです。確かにいい男だと思います。しかし、10年といえば、もはや世代を超えて愛されているタレントということになるわけです。そこまで魅力的な男性とはどうしても思えないのです。ちなみに、第2位の福山雅治はよく理解できます。彼は2枚目ですが、「いい男」というより「いい奴」という方がぴったりします。女性にももてるでしょうが、男の友人がたくさんいそうな感じです。勝手なイメージかもしれませんが、「いい奴」は男にもて「いい男」は女にもてる。そんな気がします。後者は、男――特に中高年男性――から見ると、「きざな奴」という感じであまり好感を持てないという場合も多いのではないでしょうか。おそらく「いい男」は、女性と男性とでは受けとめる印象がかなり異なるでしょう。反論を楽しみに待っています。ところで、今年のこの調査で第5位に草g剛がランクインしていますが、彼は「いい男」とも「いい奴」とも呼びにくいですね。しいていえば、「いい人」って感じでしょうか。「いい男」も「いい奴」もそれなりに「男」を感じさせますが、「いい人」ってタイプは、「男」をほとんど感じさせません。まさに、草g剛というタレントはその典型的なタイプです。草g剛という人は、女性とベッドに入っても何もしないで手をつないで寝ているようなイメージじゃありませんか?異性とでも友人になってしまいそうなタイプです。よく「『いい人』止まりで、そこから先には進めないんです」って嘆いている男性がいますが、まさにそうなんだなと思います。「いい人」はやはり恋愛対象にはなりにくいのでしょう。ちなみに、私がゼミの女性の卒業生などから結婚の相談を受けたときにいつも言っているのは、「『いい奴』だと思えるなら、きっと結婚してもうまくいくよ」ということなのですが……。

<おまけ:ミーハー社会学者が切る『アンアン』「好きな男」ベスト10>

1.木村拓也(いい男) 2.福山雅治(いい奴) 3.中居正広(5〜6年前までは「いい奴」だと思っていたのですが、最近は鼻につきますね。SMAPというブランドで維持している人気でしょう。) 4.坂口憲二(今は「いい男」の部類でしょうが、今後「いい奴」になれる可能性も持っているような気もします。でも消えている可能性もありそうです。) 5.草g剛(いい人)、6.藤木直人(「いい男」なんでしょうが、個人的には全然魅力的だと思いません。) 7.香取慎吾(「いい奴」でしょう。SMAPの中では一押しです。) 8.KinKi Kids(2人いるのにまとめて扱われているところが、SMAPとの格の違いでしょうか。光一は「いい男」を装っているけれど、意外に「いい人」かもしれません。剛は昔の方が「いい奴」でしたね。今もしいていえば「いい奴」風ですが、あまり魅力的ではなくなりました。) 9.妻夫木聡(まだ「かわいい男の子」というイメージが強いような気がします。でも、「いい奴」になれる可能性を持った素材かもしれません。) 10.稲垣吾郎(本人は「いい男」を演じているのかもしれませんが、全然「いい男」でもなければ、魅力的な男ではないですね。SMAPが解散したら、即消えるでしょう。)

107号(2003.5.25)関西大学社会学部の魅力

先日『関関同立学』(小嶋忠良・大崎敦子著、新潮社)という本を読みました。関関同立の比較をした雑誌や本はいろいろあると思いますが、この本はこれまで目にした中で、一番まじめに「関関同立」の比較をしています。決して酷評しようとか、笑いを取ろうと考えて作られた本ではないので、読んでいて好感を持ちました。読みながら、関西大学は結構よい大学だなと思いました。世間の評価では、関西大学は、「関関同立」の最下位のような位置づけで言われることが多いのですが、本当にそうだろうかと前々から疑問を持っていました。大手予備校が発表する大学の偏差値ではそういうことになるのかもしれませんが、偏差値レベルが少し高い大学に行ったからと言って、自分の頭がよくなるわけではありませんし、今どき就職の時にも大学名だけで特別扱いなどしてもらえません。大学生活に何を求めるのかをきちんと考えた場合、関西大学から得られるものは他のどの大学と比べてもひけは取らないと思います。確かに、おしゃれなキャンパスライフを夢見る人にとっては、関西学院大学の方がいいかもしれませんし、京都生活を味わいたいと思っている人には、同志社大学や立命館大学の方がいいかもしれません。しかし、京都は時々散策に行ければ十分だし、毎日おしゃれに気を使うのはしんどいと思う人にとっては、庶民的で多様なものを何でも受け入れる活気のある関西大学は、一番よい大学だと思います。大学正門から駅まで続く関大前通りの典型的な学生街の雰囲気は、今どき全国を探してもそうはありません。梅田という大阪の中心部にもすぐ出られますし、若者にとって実に暮らしやすい街です。卒業しても、関大の近辺に住み続けるOB、OGはたくさんいますし、関学に通う学生で関大近辺が住みやすいと住んでいた人もいるぐらいです。大学は遊び場ではないので、こうした魅力は大学としては正面きって宣伝できることではないのですが、現実に学生たちが期待している大学生活にとっては、実は大きな意味を持っているはずです。

 もちろん、充実した学生生活を送る上では勉学の面も重要です。これについては、同じ関西大学の中でも他学部のことはよくわかりませんが、社会学部に関しては高得点がつくはずです。社会学専攻、産業心理学専攻、マスコミュニケーション学専攻、社会システムデザイン専攻(来年度より産業社会学専攻が名称変更予定)の4専攻制を取り、専攻の学問を専門的に究めることも、他専攻の学問を幅広く学ぶことも可能なカリキュラムになっています。心理学やマスコミについては、若い人はもともと興味があると思いますが、それらの専攻に籍を置かなくても、社会学部生ならそうした学問をたくさん学ぶことができます。また、逆に、心理学やマスコミ研究を進めていく上で、どんな対象でも研究の俎上に乗せる社会学の柔軟さと視野の広さ、また政策提言を視野に入れる社会システムデザインを学ぶことの意義は大きいはずです。教員も教育熱心な人が揃っていますので、授業にも工夫をしており、勉学面でも十分な満足感が得られるはずです。社会学、心理学、マスコミ研究に興味をもつ人ばかりでなく、経済学や経営学の優秀な先生も社会学部にはいますので、かなり総合的に文系の学問を学んでいける学部と考えてもらってよいと思います。

 「学遊究友」(よく学び、よく遊び、友とともに究めよう!)というのは、私がゼミのモットーにしている私の造語ですが、おそらく多くの学生にとって目標となるものだと思います。関西大学――特に社会学部――では、これを実現できる環境が整っています。間違いなく選んで損のない大学です。私が知る限り、卒業していくときに、「関西大学社会学部に来て失敗でした」という学生には出会ったことがありません。関西大学社会学部に来て「学遊究友」を実践してみませんか?

(追記:宣伝文になってしまいました。別に、大学から頼まれて書いているわけではないのですが……。いずれにしろ、世間の評価に流されず、しっかり考えて大学選びをしてほしいものです。)

106号(2003.5.18)チームのファンとは?

 阪神が強いですね。今年こそ優勝ではないでしょうか。関西はこれからどんどん盛り上がりそうです。でも、私は阪神ファンではないので、特に高揚感もないまま日々を送っています。じゃあ、どこのファンなんですか、やっぱり巨人ですか、と問われそうですが、実は今はプロ野球自体にあまり興味がありません。もちろん、アメリカのメジャーリーグもです。というのは、私は物心がついて以来、ずっと長嶋茂雄のファンなので、長嶋茂雄が直接関わっているチームがない今は、どこのチームにも興味がないのです。長嶋は、形式的には巨人の名誉監督か何かになっていますが、あんな肩書きには何の意味もありません。長嶋は、ユニフォーム姿で動いて笑顔を見せてくれなければ本物ではないのです。たまたま、これまで長嶋が着たユニフォームは巨人のものだけだったので、その時期は長嶋の笑顔を見たさに巨人を応援していました。今はプロ野球よりもサッカー(Jリーグ)の方が楽しめます。サッカーはジュビロ磐田のファンです。それは、中山雅史がいるからです。中山には、長嶋に通じる明るさがあります。見ているだけで楽しいです。いつか中山が現役を引退したら、私のジュビロ磐田に対する熱もきっと冷めるでしょう。

 この2例からわかってもらえるように、私は、個別選手や監督のファンであって、チームのファンではないのです。チーム競技なのにチームのファンにならないなんて変だと思う方がいるかもしれませんが、私からすると逆に選手がどんどん入れ替わるのにひとつのチームのファンで居続けられるという方が不思議でなりません。もちろん、自分の住んでいる地域にチームが存在する場合に、共属意識からそのチームのファンになるという気持ちはわかります。阪神ファンも関西人(特に大阪、西宮、神戸などの阪神間地域に生まれ育った人)が多いはずです。私は関西人意識が薄いので、共属感情を持てないので、阪神ファンにはなれませんが、ワールドカップやオリンピックの時は、日本というチームのファンをやっているわけですから、共属感情さえ持てたら、チームのファンにはなれると思います。日本という大きな範域に対する共属意識だけでなく、もっとも狭い地域での共属意識でも条件が整えば可能です。私だって、「ガンバ大阪」が吹田市にある万博公園スタジアムをホームとして使っていることをきちんと認識し、「ガンバ吹田」に名前を変えてくれたら、中山引退後はきっと「ガンバ吹田」ファンになれると思います。しかし、こうした共属感情だけではチーム・ファンを説明することはできないでしょう。なぜなら、チームの存在する地域に住んでいない人がファンになっていることも多いからです。最初にファンになったきっかけは何かあるのだろうと思います。好きな選手がいたから、もともと自分の住んでいた地域にあったから、一番弱いチームだったから、いつも2番手だったから、等々。これは理解できます。しかし、その最初のきっかけがなくなって以後も、同じチームのファンでいられるのが不思議なのです。

 集合現象はそのすべてを個人行為に還元できないというのが社会学の考え方ですが、スポーツのチーム――ことに野球チーム――に関しては、個人行為に還元できるような気がします。それゆえ、魅力的なパフォーマンスを見せてくれる選手や監督がいるから、そのチームのファンになるというのは自然なことだと思います。でも、チームを愛する人たちは、そうした個人以上に、チームをひとつの集合主体として愛しているわけですよね?共属感情を持てない集合主体をどうやってずっと愛し続けられるのか、どうも理解しにくいのです。南海ホークス・ファンからダイエーホークス・ファンになった方からは話を聞いたのですが、どうもまだ納得できていません。阪急ブレーブス・ファンは、オリックス・ブルーウェーブ・ファンになっているのでしょうか?西鉄ライオンズの熱狂的なファンだった博多の人は、今はダイエーホークス・ファンになっている人が多いのか、それとも球団を引き継いだ西武ライオンズ・ファンが多いのでしょうか?東映フライヤーズ・ファンは、日本ハムファイターズ・ファンになったのでしょうか。そして、札幌に移転しても、ファンを続けるのでしょうか。全国にいる読売ジャイアンツ・ファンはなぜジャイアンツ・ファンで居続けられるのでしょうか?

 なんだか書いている間にだんだんわかってきたような気がします。チームという組織が継続しているという所がポイントなのではないでしょうか。もともとある選手が好きになった。その選手を応援することは、チームを応援することになり、他の選手にも関心を持つようになる。最初に好きだった選手は引退しても、その頃には他にも好きな選手ができていて、そのチームのファンでありつづける、といったことかもしれませんね。組織が解体すれば、ファンは続けられないでしょうが、経営母体が変わってチーム名が変わっても、チームを構成している選手の大多数が残っていれば、そのチームのファンでいられるのではないでしょうか。

〔追記〕日本のプロ野球は、東京や阪神地域に複数の球団が本拠地を置き、地域の球団という特徴をはっきり出さないことが多いのも、共属意識なしのファンを生み出しやすい原因になっているのかもしれません。しかし、地域性を前面に打ち出したサッカーの人気を見るなら、野球もこれからは地域性をもっと打ち出して行くべきでしょう。今ある12球団も本拠地を動かすなら、もっと人気が出るチームもあると思います。ちなみに、こんな地域配置とチーム名でどうでしょうか。<セ・リーグ>東京読売ジャイアンツ、阪神タイガース、名古屋中日ドラゴンズ、広島カープ、仙台ヤクルトスワローズ、横浜ディズニースターズ。<パ・リーグ>福岡ダイエーホークス、所沢西武ライオンズ、大阪近鉄バッファーローズ、千葉ロッテパイレーツ、札幌日本ハムファイターズ、高松オリックスブルーウエーブ。(2003.5.21)

105号(2003.5.16)長所と短所

 実は今週、48回目の誕生日を迎えたのですが、まるで誕生日お祝い週間といった感じで、月曜日から木曜日まで現役ゼミ生たちを中心にいろいろな人に祝っていただきました。年々祝ってくれる人が増えて、本当にありがたいことだと感謝しています。3回生ゼミ生から、お祝いメッセージの入ったビデオをプレゼントされたのですが、ただ「おめでとうございます!」だけでは芸がないと思ったのか、いろいろな質問をしてそれにゼミ生や一部同僚の先生なども答えてくれています。その中に、「片桐先生の長所と短所」という質問があったのですが、それを見ながら、なるほどなあと思ったことがあります。私は複雑な人間ではなくわかりやすいので、大体みんな同じ様なことを答えているのですが、それを集約的に表すなら、「よくも悪くも強引なところ」とか「はっきりものを言う点が長所で、はっきりものを言い過ぎるのが短所」ということになるようです。回答内容自体は自分でも自覚していることなので、驚くことはなかったのですが、何になるほどなと思ったかと言うと、長所と短所というのは表裏一体なんだということに改めて気づかされたということです。まあ中には「長所はスタイルが良いことで、短所は性格が悪いこと」なんていう表裏一体型ではない人もいるかもしれませんが、性格的な長所と短所は、誰でも多くの場合、表と裏の関係になっているのではないでしょうか。私と違って温厚なタイプの人であれば、「長所は温厚なことで、短所は温厚すぎて優柔不断になりやすいこと」とか、「長所は気配り上手なことで、短所は気を使いすぎること」なんて人が多いように思います。結局、その人を特徴づける性格が周りに好意をもって受け入れられるときは長所と言われ、反発されたり評価されなかったときには短所と言われるのでしょう。もちろん、周りがすべて決めるのではなく、本人の提示の仕方も大きな影響を与えます。TPO(Time、Place、Occasion=時と場所と場合)をわきまえて、上手に提示すれば、いつでも長所と思われるのでしょうが、この辺の見極めがなかなか難しいところです。しかし、短所と言われることを怖れて長所を失うより、短所として多少批判されることがあるとしても、長所を伸ばす方がよいのではないでしょうか。もちろん、すべては程度の問題なのですが。日常生活で違う自分を演じ続けるなんてしんどいことです。自然体でいきたいものです。自然体でいって、自分の特徴と考える性格を短所と言われることより、長所と言われることが多ければ、そのままでいいんじゃないでしょうか。「あ〜あ、相変わらず、先生、また自己正当化して、反省してないなあ〜」とあきれかえっているゼミ生たちの顔がたくさん浮かんできますが、あしからず。

104号(2003.5.4)親父ギャグ

 「親父ギャグ」と言えば、基本的にしょうもない駄洒落という印象があり、以前は私も馬鹿にしていたのですが、最近だんだん「親父ギャグ」にひかれるようになってきました。ほとんど話の脈絡と無関係に飛び出す「親父ギャグ」は、話の流れを断ち切ってしまうことがしばしばありますが、結果として張りつめていた雰囲気をリラックスさせる効果を持っているとも言えるのではないでしょうか。一瞬呆気に取られますが、その後「ぷっ」と吹き出すか、「いやあ、まいったなあ」とか言いたくなってしまいます。笑いの質としては、後口の悪くないものだと思います。もしかすると、癒し系の笑いじゃないかなとまで思いはじめています。これに比べると、最近のお笑いタレントの笑いなんて、「親父ギャグ」とはまったく違うもので、実に強引な笑わせ方で、私などはすぐに食傷気味になります。相方や素人の頭を叩いて、何がおもしろいのでしょうか?もちろん「親父ギャグ」の方も受けずに滑ることがよくあります。しかし、その後に「あれっ?おもしろくない?」とか「ごめん、ごめん」なんて台詞を聞けるのも、また「親父ギャグ」の密かな楽しみ方だという気がしています。こんな「親父ギャグ」をハイレベルの笑いと考えている人は少ないと思いますが、実は結構レベルの高い笑いではないでしょうか。というのも、「親父ギャグ」は駄洒落が基本ですから、言葉遊びの一種なのです。ボキャブラリーの少ない人間には、絶対作り出せない笑いです。江戸時代の滑稽本や戯作などは、こうした言葉遊びで笑いを作り出していますので、ある意味では「親父ギャグ」は日本の言葉遊びの伝統をもっともオーソドックスに継承しているとも言えるわけです。しかし、こんな権威付けは、実はどうでもいいことです。きちんとデータを取ったわけではないので、直感にすぎませんが、「親父ギャグ」をよく使う人には、悪人はいないような気がするのです。表面的な格好ばかり気にしている人は、絶対「親父ギャグ」なんて使わないと思うのですが……。私もどこから見ても、堂々たる「中年のオヤジ」になってきましたので、どうせなら「格好付け」のオヤジになるよりは、「親父ギャグ」の達人をめざしたいなと考えたりしています。

(追記)「親父ギャグ」はすばらしいなんて、見事な逆転の発想ではないかと1人悦に入っていましたが、世の中は広いですね。私なんかよりずっと早くからこのことに気づいている人は、実はたくさんおり、インターネットの検索エンジンで、「親父ギャグ」を調べてみたら、いやあ、すごいものです。「親父ギャグ研究所」「親父ギャグの殿堂」など、「親父ギャグ」について熱く語るHPがたくさんありました。そうした方々のHPには、「親父ギャグ」の例がたくさん出ているのですが、読んでいたら、すっかりはまってしまいました。よかったら、皆さんもアクセスしてみてください。若い人でも、結構はまると思いますよ。

103号(2003.4.12)リクルートスーツ

 学年末試験の終わった1月末から、またリクルートスーツを着た大学生たちを、街やキャンパスでよく見かけるようになりました。で、見るたびに思うのですが、なんでみんなそろってあんなに個性が消えてしまうリクルートスーツを着るのでしょうか?確かに、就職活動ですから、企業に好感を持たれるように、清潔感があり誠実そうに見えるような服装をした方がいいのはわかるのですが、それがなんでみんなあんな同じ様なスーツになってしまうんですか?紺のジャケットとグレイのズボンやスカートなんかではだめなのでしょうか?他にも、清潔感があり誠実そうに見えるファッションなんかいくらでもありそうに思うのですが。そういう自分で考えた服装で就職活動を行うと落とされてしまうのでしょうか?不思議です。もし私が人事の担当者なら、ちゃんと場をわきまえたきちんとした格好でさえあれば、何の問題もないと判断すると思います。もしも面接の際に、「どうしてスーツでないのですか?」なんて質問を受けたら、話題ができてちょうどよいと思うのですが。誰かやってみませんか?なお、ジーンズで行ったり、場をわきまえない奇抜すぎる格好は、マイナスにしかなりませんので、お気をつけ下さい。

102号(2003.3.21)形の大切さ

 歳を取ってきたせいかもしれませんが、場に求められる形や形式というものは大事にすべきだという思いが、年々強くなってきています。昔から、そういうものを強く否定する気はなかったのですが、伝統的な形にきちんと合わせられるほどの知識もなかったし、「儀礼主義者」とか「形式張っている」と批判的に見られるような気がして、あまり形や形式には囚われない方がいいのだろうと漠然と考えていました。転機は、結婚した頃からでしょうか。結婚式と披露宴という人生でもっとも儀式的な行事を、私はオーソドックスな形で行いました。父親の名前で招待状を送り、媒酌人を立てた神前結婚で、披露宴の最後は新郎の父親の挨拶で終わるといった形式です。同年代の人でも、自分たちの名前で招待状を送ったり、最後に自分で挨拶をするなんて新しい形を取る人もいました。私がオーソドックスな形を取ったのは、その時はただその方が面倒ではないと思ったからでした。しかし、結婚するといろいろと形式を求められることが増えます。姻戚関係の法事は、自分の親戚関係の法事より、形式に則ることが必要とされます。また、子どもが生まれてからは、お宮参り、お食い初め、七五三等々、形式に沿わなければ、やる意味もないような行事が次々と出てきます。いい歳になっても、そうした形式に合わせた行動ができないと、自分自身が恥をかくだけでなく、周りに不愉快な思いをさせることになります。そうした経験を経るうちに、私はその他の場面でも形式は大切だと思うようになってきました。もちろん、100%儀礼だけでは、心が込もらなくなってしまうかもしれませんので、形式に則りながら心を込めることが大切だと思っていますが、心さえ込もっていればどんな形でもいいのだとは思いません。通夜や告別式に冗談ばかり言って笑いを取ろうとする人はまずいないと思いますが、「ハレの日」の方は形式をわざと壊そうとする人が結構います。格調のない結婚式や乱れた成人式は今や当たり前になってしまいましたが、大学の卒業式などでも場をわきまえない人がかなりいます。卒業生自身が、着ぐるみを着たり、騒いだりするのも眉をひそめたくなる行動ですが、私がもっとも嫌いなのが、送り出す側の教師が形式を無視した行動を取ることです。特に常識を疑うことに日々精進している社会学者に多いのかもしれませんが、「卒業式のような形式張ったことは大嫌いです」といったような挨拶をする人がしばしばします。うけを狙っての発言なのかもしれませんが、「ハレの日」に門出を飾るにふさわしい言葉を期待して待っていた学生にとっては、そんな挨拶が嬉しいはずはありません。大学教師たるもの、ハレの門出にはそれにふさわしい挨拶ぐらいすべきだと思うのですが、この考え方は古臭くておかしいですか?

101号(2003.3.18)世界の「裸の王様」

 イラク問題が切迫してきました。「つらつら通信2」の「第59号 大国のわがまま」や「第61号 戦争と正義」で予想していた事態が現実化してしまったという印象です。フセイン大統領が亡命して戦争が回避される可能性もありますが、今のところ武力行使が行われる可能性が圧倒的に高いでしょう。日本人はみんな戦争が嫌いですから、前者のような結果になったら、拍手喝采なのでしょうが、それもおかしな話です。実際に行使しなくても圧倒的な武力を誇示して言うことを聞かせるなんて、結局降伏させたということなのですから、実質的に戦争したのと一緒です。20何万人もの軍隊でイラクの周りを固めているのですから、すでにその時点で戦争は始まったと言った方が正確でしょう。実際に武力行使が行われても、軍事的にはアメリカが負けるわけはないのですから、フセインが大統領の座を追われるのは時間の問題です。いずれにしろ、今や世界は完全にアメリカの思うがままです。アメリカが「黒」だと言えば、何だって「黒」なのです。この状況を変えるためには、アメリカ以外のすべての国がアメリカと敵対するぐらいの気持ちにならなければ無理でしょうが、とうていそんな事態は生じないでしょう。今回、フランスやドイツは対等の独立国家としての気概を示しましたが、イギリスや日本はアメリカ追随外交に終始しました。特に、日本はひどいものです。危険回避のためには、サッカーの日本代表がアメリカ遠征をやめるのは常識的判断なのに、メンツを潰されることを嫌がったアメリカが「守ってやるから予定通り遠征に来い」と言えば、一転して「やはり遠征に行きます」と言わざるをえないぐらいです。(たぶん、この方針変更には、政治家からの圧力がかかっているにちがいないと私は見ています。)アメリカに対しては、独立国家としての自主的判断をまったくできない日本は、まるでアメリカの属国です。(もしかしたら、アメリカは日本のことをアメリカの51番目の州か植民地ぐらいに思っているのかもしれません。)民主主義を横糸に、自由主義を縦糸にして織り上げた誰の目にも見えない「世界一美しい衣装」をまとった世界の「裸の王様」に、「王様、裸だよ」と言える素直な子供はいないのでしょうか?いや、言っている国はあるわけですよね。そうかあ。「裸の王様」のお話は、子どもの発言で王様も他の人々もみんな目が覚めるという結末になっていますが、現実はそんなに甘くはないんですね。実際には、王様のおべっか使いが、そういう子どもをつかまえて追い出し、王様は「やはり我が輩の衣装は世界一美しいのだ」と思いながら暮らし続けるんでしょう。フセインや金正日がそれぞれの国の「裸の王様」であることをアメリカは批判するわけですが、アメリカという国家が実は世界の「裸の王様」だということは自覚できないようです。アメリカは、軍事力によって世界に自分の価値観を押しつける独裁的皇帝そのものです。今や世界はアメリカの恣意的判断によって断罪される恐怖政治の時代に入ったようです。各国はアメリカの顔色を窺いびくびくしながら暮らしています。私はアメリカが嫌いです。国連に民主主義を、各国に自由を!

100号(2003.2.14)入社式以前の研修っておかしくないのかな?

 最近は入社式以前に研修があるのが当たり前のようですが、一体どういう立場での研修なんでしょうね。大学4年生の春休みは、学生生活最後の貴重な自由な時間のはずなのに、なんで早々と仕事で拘束されなければならないのでしょうか。私は、いわゆる普通の企業で働いたことがないので、この研修というものの仕組みがよくわからないのですが、何をするんですか?4月から即戦力として働くための訓練なんですか?この研修を受けたら、即戦力になるんですか?春休みは学生らしく過ごしたいので、春休み中の研修は拒否しますといったら、内定取り消しになるのでしょうか?でも、おかしくないかなあ。契約は4月からのはずなのに、実質的に2ヶ月も前から拘束するなんて。まあ、2ヶ月ずっとあるわけではないのでしょうが、企業も学ばせたいことは、4月から教えるとおおらかに構えられないんですかね。昔からあったのかな、こんな時期の研修って?いずれにしろ、豊かに使われるべき学生生活が、就職がらみで、つまらないものにされている感じがして納得がいきません。

 私が会社の経営者なら、大学を卒業した後4月から就職活動をしてもらい、10月1日から新規採用するという人事スケジュールに変えます。どこでもいいから有名企業に早く就職を決めたい、あるいは経済的に苦しいという学生さんにとっては、半年も遅い就職は嫌かもしれませんが、大学生活を本当にしっかり充実して過ごしたいし、半年ぐらいなら経済的にもなんとかなるという学生さんなら、こういう企業があったら喜んで応募してくれるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。一番よいのは、日本の企業がみんなこのスケジュールにして、大学生がみんな大学生活4年間をフルに使えるようになることだと思います。でも、大学なんてレジャーランドだ、勉強なんてしなくていいんだと思っているような大学生ばかりなら、確かにさっさと働いてもらった方がいいのかもしれませんが。ちゃんと考えて使ったら、大学の4年間ほど人間が成長できる時期はないといつも思っているので、その貴重な時間が就職がらみで奪われているのが残念でなりません。

99号(2003.1.31)今どきの少女漫画はどうなっているの?

 先日久しぶりにマンガ単行本売場を何気なく見ていたら、少女漫画のコーナーに妙に怪しげな表紙の漫画がたくさん並んでいるのに気づきました。一瞬、あれレディスコミックのコーナーだったかなと勘違いしそうな表紙でした。でも、「フラワーコミックス」シリーズと書いてありましたから、少女漫画なんですよね、これは。ビニールパックがされていたので、中は見ていないのですが、あの表紙からすると、やはり性を題材にしたもののでしょうね。1970年代に「昭和24年組」(例えば、萩尾望都、大島弓子、山岸涼子、竹宮恵子など)と後に称されるようになった女性マンガ家たちが、少女漫画の一大変革期を生みだし、その頃は私も少女漫画をよく読んでいたものでしたが、もう読まなくなって20年ぐらい経つように思います。これだけ時間が経てば、少女漫画の傾向性も変わるのは当然なのでしょうが、性を露骨に扱った少女漫画が増えているのなら、ちょっと気になります。漫画好きの娘を持つ父親としては、見過ごせない気がします。誰か少女漫画事情に詳しい人、教えて下さい。

98号(2003.1.31)カラオケボックスの楽しみ方

 私は会話型コミュニケーションが好きなので、会話が困難になるカラオケが基本的には好きではないのですが、年に1度だけは積極的にカラオケの場に参加したいと思う時があります。それは、新しいゼミ生たちと初めてのコンパをした後です。なんで、その時だけは、カラオケに行きたくなるかというと、カラオケボックスでの行動パターンで、性格分析ができるからです。本来は、会話によって見抜きたいのですが、最近の若い人は最初から会話で自分をきちんと出せる人が少ないので、なかなか1回目のコンパの会話ではどういう人間かを把握するのは難しいのです。ところが、カラオケボックスという場に移ると、どの人もコンパの席よりもはるかに生身の自分をさらけだしてくれます。ありがたいことに、カラオケボックスに行ったら下手でもみんな1曲は歌わなければいけないという暗黙のルールが若い人たちの間には存在するので、とりあえずひとりひとりを観察することができます。どんな曲を選ぶのか、どんな歌い方をするのかも貴重な情報ですが、それ以上にすっと曲を選んで歌い出せる人なのか、腰が重くなかなか歌い出せない人なのか、1曲歌った後はどう変化するのか、なども貴重な情報です。きっと合コンなどでカラオケに行った時には、若い人も自然にやっている性格分析ではないかと思います。ただし、合コンの時はかなり作った自分を演じてみせようとするのではないかと思いますが、ゼミコンパではそこまで演じようとは思っていないでしょうから、かなり正確に分析ができるように思います。まあでも、カラオケの音が大きすぎて頭が痛くなってくるので、その場に私がいられるのは2時間が限度なのですが……。(たぶん、学生からしたら、暗黙のルールに基づいて、私も歌わせられるため、その下手な歌を聞くのがつらいですと言いたいところではないかと思いますが……。)

97号(2003.1.30)ちゃんと卒業することの大事さ

 今年に入って朝日新聞が「おとな新世紀」というタイトルで、かつて「不惑の年」と言われた40歳が、今は「大人」と言えるのかどうかという問いかけをしています。問いかけをしていると言っても否定的という感じではなく、「大人だ」という自覚を持っていない40歳も悪くはないというトーンが濃厚に出ています。これは、何も朝日新聞だけが変わった主張をしているのではありません。今の時代は、かつてと違い、こういう年齢の人ならこんな風に生きるべきだという年齢にもとづく規範が非常に緩やかになっています。いや、緩やかになっているという言い方は適切ではないでしょう。むしろ規範に従って生きていない人の方を、「いつまでも子どもの純粋な心を持ち続けている、夢を持った人」などというプラス評価する雰囲気すらあるような気がします。怪獣マニアの41歳、アイドルの追っかけを続ける40歳、ディズニーランド・フリークの39歳、キティちゃんが大好きな38歳、こんな人たちがあちこちにいます。こういう人たちをかなりの変わり者だと思う人でも、「結婚適齢期」なんて言葉は否定するでしょうし、「もういい年なんだから××なんてやめなさい」なんて言われ方をしたらきっと反発するでしょう。「大人になりたくない」という心情が「ピーターパン症候群」という病名のような言葉で表されて流行したのは、10年以上前だったように記憶していますが、今やこんな心情は当たり前すぎるほど当たり前のものになっており、誰も「病気」の一種とは思わなくなっています。

 確かに平均寿命も延びていますので、40歳と言っても人生の折り返し地点をようやく過ぎたかどうかの段階なのだから、「不惑」にほど遠いのも当然なのかもしれません。しかし、「不惑」は無理でも、現代の40歳にも40歳なりの生き方があってしかるべきだと思います。そして、それは、それなりの「大人」としての生き方でなければならないと思います。何をして「大人」というのかは難しいですが、子ども時代に好きだったものをひとつひとつちゃんと卒業していくことができなければ、「大人」になっていくことはできないでしょう。怪獣もキティちゃんもミッキーマウスもマンガもTVゲームも、小さい時は皆それなりに心を惹かれるものでしょうが、やはりいつかは卒業していくべきものです。好きだったらどんなものでもいくつになっても卒業しなくていいという考え方が肯定されていると、新しい他の魅力的なものに目を向けることもなく、その人の成長は滞ってしまいます。マンガもおもしろいとは思うけれど、もういい歳だし、マンガは卒業して小説でも読んでみようかと思って、小説を読み始めたら、そのおもしろさに気づいたなどという体験も、とりあえず「ちゃんと卒業しよう」という気持ちがない人は、経験しにくいことになります。結婚だって同じことかもしれません。大好きな親と一緒に暮らしているのが一番楽しいのだから、それ以外の生活をどうして考えなければいけないのと開き直ったら、間違いなくシングルの生活が続きます。そうではなくて、もうそれなりの歳だし、結婚を考えるべきだろうと思って、相手を探せば、それなりの誰かと出会う確率は高くなるでしょう。

 時代とともにある程度内容が変化するのは当然ですが、だからと言って、年齢規範が消失してしまっても構わないとは、私には思えません。むしろ、あまりにルーズになってきている年齢規範の再構築が今の時代には必要なのではないかと思います。ちゃんと卒業すべきものは卒業して、次の段階の役割をしっかり受け止めて生きていくことが、人には必要なことなのです。昔は、こんなことはわざわざ語る必要のない当たり前のことだったのですが……。

96号(2003.1.22)久米宏をニュースステーションから降ろそう!

 私の久米宏嫌いはもう10年以上の年期が入っていて、最近は久米宏の顔を見たくないので、ニュースステーションも滅多に見なくなっているのですが、興味のあるニュースがあるとつい見てしまいます。で、見ると、やはり実に不愉快なタレントだと再確認させられます。特に、久米宏が不愉快なのは、インタビューが無礼で下手くそなことです。今日もまたやっていました。韓国の若いきれいな女優さんがやってきたら、鼻の下を伸ばしてくだらない質問ばかりし、最後には女優さんの頭を2度まで叩こうとしました。どうして、こんな下劣な「キャスター」をテレビ朝日は降ろさないのでしょうか。久米宏が降りたら、視聴率がかなり下がると怖れているのでしょうか。私は決してそんなことはないと確信しています。ニュース番組はすぐれた企画力としっかりした調査力で9割方は評価されるはずです。今どき、久米宏が見たくてニュースステーションを見ている人なんて、ほとんどいないだろうと思います。久米宏よりまともな人間で、視聴率を取れる人は他にもたくさんいると思います。よく勉強している女性キャスターなんかを使うのもいいと思います。手堅く行けば、田丸みすず(?)あたりでしょうが、将来性を狙って進藤晶子(?)あたりでもいいのではないかと思います。ともかく、久米宏でなければ誰でも構わないという気分です。

95号(2003.1.21)最近、テレビ大阪(東京)がおもしろい

 最近私が民放局で一番よく見ているのは、テレビ大阪のような気がします。キー局のテレビ東京は、放映を始めた時期が他の民放局より遅く、マイナーな局というイメージが強く大きなスポンサーもつきにくく、予算額も少ない局だと思います。それゆえ、出演料の高い人気タレントを出演させることはできず、タレント人気に頼ったトレンディドラマやお笑い番組などは作れません。しかし、それが逆に幸いして、ドキュメンタリータッチの番組が多くて、私にはとてもおもしろく感じられます。企画力で勝負している番組がこの局には多いと思います。最近は少しマンネリ化してきていますが、「TVチャンピオン」という番組が始まった時は、「これは絶対おもしろいよ」と私はあちこちで宣伝していました。(「大食い選手権」ばかりやるようになってあの番組は質が落ちましたが。)「開運!なんでも鑑定団」も「モーニング娘。」を誕生させたオーディション番組も、この局でした。すべて企画の勝利でしょう。お金をかけなくてもおもしろい番組は作れることをよく示していると思います。8時台に多い旅番組も好きですね。見ていると、思わず旅をしたくなります。妙に奇を衒わず、庶民的なところをオーソドックスに紹介しているところがいいと思います。まあ地味目な番組が多いので、視聴率はやはりそれほど稼げないのでしょうが、私はしばらくこの局の隠れファンでいることにします。

94号(2003.1.21)貴乃花!

ついに横綱貴乃花が引退を表明しました。今場所の相撲を見る限り、もうこれ以上は無理だと誰の目にも映っていたと思います。何より目が生きていませんでした。土俵上での貴乃花の目は勝負師の目ではありませんでした。それゆえ、引退という決断は妥当な判断だったと思います。しかし、覚悟はしていたとはいえ、この15年間の相撲界は貴乃花によって支えられてきましたので、ぽっかり空いた大きな穴に相撲協会もファンも呆然としているのではないでしょうか。私も新弟子の時からずっと注目していましたので、一抹の寂しさを感じます。

若い人は、今の貴乃花しか知らないでしょうが、私たちの世代にとってはお父さんの初代貴ノ花(現二子山親方)から続いていた二代の夢の終焉という感じがします。たぶんもう少し年配者だと伯父にあたる初代若乃花以来、実質的に三代の夢の終焉という感じがするのではないかと思います。私は、今の貴乃花よりお父さんである初代貴ノ花のファンでした。今は髪が薄くなり、奥さんには逃げられ、あまりぱっとしないただの中年のおじさんになってしまいましたが、幕内に上がり上位力士と対戦し始めた頃の初代貴ノ花は輝いていました。大横綱・大鵬を初めて破った相撲は今でも鮮明に覚えています。息子の貴乃花と違い、太れない体質だった初代貴ノ花は大関までは上がりましたが、横綱まで上がれる実力はありませんでした。それでも2度の幕内最高優勝をしています。初優勝は1975年の春場所でした。私は大学1年の春休み中で伊豆半島を一人旅していましたが、ずっと携帯ラジオで相撲放送を聴いていました。決定戦で北の湖を破って優勝したときは、ものすごく興奮したものでした。貴ノ花に体重さえあれば横綱になれるのにと多くのファンは叶わぬ夢を持っていました。そして、その夢を叶えてくれたくれたのが、息子の貴乃花だったわけです。古くからのファンの多くは、貴乃花に父親の初代貴ノ花を重ねて見ていたはずです。ただし、2人の相撲の質はかなり違っていて、お父さんの貴ノ花の方は、「サーカス相撲」とまで呼ばれた、抜群の足腰のバネだけで危機を回避するはらはらどきどきの相撲でしたが、息子の貴乃花の方は、よく言えば堂々たる横綱相撲、別の見方をしたらこれといった特徴のない負けない相撲でした。2代目貴乃花の相撲自体はあまりおもしろいものではありませんでしたので、彼の人気の秘密はやはり初代若乃花以来続く相撲一家のサラブレッドに対するファンの期待に見事に応えてくれたことから来ていたと考えるべきだと思います。

 それにしても、この15年間はさぞや大変だったろうと思います。15歳で角界入りして遊びたい盛りの青春時代にも、世間からの期待を裏切らないように行動し続けることは並大抵の精神力ではできないことだと思います。ここ4〜5年の間に生じた、洗脳問題や兄との絶縁宣言、両親の離婚など私生活で生じた数々のトラブルも、もとをただせば、まるで相撲取りになるために作られたサイボーグのように人生を生きてきたことの歪みが現れたような気がしてなりません。これらのトラブルが相撲の方にも影響したことは間違いなかったと思いますので、もっと肩の力を抜いて気分転換を上手にはかれる人だったら、あと5年くらいは相撲を取れたのではないかと思います。あんなに自分を追いつめるように生きていては、長続きできないのも当然だと思います。致命傷になってしまった2001年夏場所14日目の怪我にしても、ひどい怪我をしていたのだから、優勝はあきらめて千秋楽を休めば、引退につながる致命傷にはならなかったのではないかという気がしてなりません。「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と、国民に「痛みの伴う改革」を押しつけたがる某総理は興奮して叫んでいましたが、本当にひどい「痛み」なら耐えるのは間違いです。痛むなら休む、無理をしないのが、長期的に見たら正しい判断なのです。体は無理しないでくれ、休んでくれということを伝えたくて、痛みを感じさせるようにできているのですから。

 貴乃花の人生を考えた時、もうひとつ選択に大きな誤りがあったような気がしてなりません。それは、女優宮沢りえとの婚約解消です。当時の報道から推測する限り、若い2人の気持ちが離れたというより、両親である二子山親方夫妻と宮沢りえの母親との確執で2人は別れさせられたということではないかと思います。ともにドル箱スターである息子、娘を意のままに操りたい親同士が、互いに譲らなかったために、若い2人の婚約は解消させられてしまったのです。貴乃花が妙な男に洗脳されたりしていくのは、すべてこの婚約解消事件以来だと思います。もしあの時、2人が結婚していたら、貴乃花の人生は全く違ったものになっていたのではないかと思います。もしかしたらすでに離婚していたかもしれませんが、それでも一度は自分の意志をしっかり通して、好きな人と一緒になれたという思いは、彼に自信をつけ、両親からの自然な形での自立を生み出したはずです。あそこであきらめて親の言いなりになってしまったことが、結局めぐりめぐって30歳での早すぎる引退を導いてしまったのではないかとすら思うのです。親の意見は貴重なものです。耳をきちんと傾けるべきだと思います。しかし、そうした親の意見もちゃんと考慮した上で、やはり最終的な判断は自分でしなければいけないのです。親の意見に全面的に納得できたならもちろんそれに従えばいいでしょう。しかし、どこかに未練が残るなら、自分の考えを貫いてみた方が、失敗したとしても後で納得できるのではないかと思います。人生は昔に戻ってやり直すということはできませんので、人生の選択をしなければならないときは、精一杯考えて、自分の納得の行く結論を出して進んで行くしかないのです。貴乃花もそうしたつもりだったのかもしれませんが……。