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Part18

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過去の「KSつらつら通信」

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<目次>

第648号 クリスマスが年々盛り下がっているような、、、(2017.12.26)

第647号 貴乃花親方が元凶(2017.11.20)

第646号 選挙結果が出る前に今後の政局を予想する(2017.10.22)

第645号 もしも私が小池百合子の選挙参謀なら、、、(2017.10.11)

第644号 政界激動(2017.10.1)

第643号 あれっ、パクチーが、、、(2017.9.24)

第642号 彦根市は強気すぎる(2017.9.19)

第641号 結婚32年目にして知る結婚した日(2017.9.17)

第640号 多忙な夏休み(2017.8.26)

第639号 北朝鮮問題を冷静に分析してみよう(2017.8.13)

第638号 久しぶりに高校野球に関心を持っています(2017.8.8)〔追記(2017.8.13)〕

第637号 やはり「婚活」より「就婚」を重視すべきではないか(2017.7.29)

第636号 医師にも定年や資格再審査が必要ではないか(2017.7.24)

第635号 「佐藤ママ」はプロの教育ママ(2017.7.23)

第634号 白鵬が国籍を変えるより親方制度を変えるべき(2017.7.22)

第633号 「いいね!」の罠(2017.7.21)

第632号 「まったり」が苦手です(2017.7.1)

第631号 朝ドラ「ひよっこ」は名作ドラマだ(2017.6.24)

第630号 離党しただけで責任を取ったことになるのか?(2017.6.24)

第629号 価値合理的行為をしない人間?(2017.6.23)

第628号 公明党の存在意義を問う(2017.6.16)

第627号 ランドセル調査から色のジェンダー・イメージについて考える(2017.6.16)

第626号 「いいね!」を押すことが増えてきました(2017.5.19)

第625号 もう中選挙区制度に戻そう(2017.4.22)

第624号 プライド不要論(2017.3.25)

第623号 安倍1強体制が生み出す腐敗の構造(2017.3.20)

第622号 ワーク・ワイフ・バランス(2017.3.6)

第621号 ブラシンジ2〜京都・御土居を巡る〜(2017.3.1)

第620号 森友学園問題(2017.2.28)

第619号 すぐに消えるプレミアムフライデー(2017.2.24)

第618号 衰え(2017.2.15)

第617号 飛行機恐怖症(2017.2.8)

第616号 男性のワーク・ライフ・バランス(2017.1.29)

第615号 稀勢の里の優勝をひとひねりして考える(2017.1.23)

第614号 社会学は面白いよと伝えてください(2017.1.20)

第613号 「ゆとスマ世代」(2017.1.13)

第612号 年賀状送付率の推移についての分析(2017.1.5)

648号(2017.12.26)クリスマスが年々盛り下がっているような、、、

 もう年末ですね。11月半ばくらいからあまりにも忙しく、「つらつら通信」もまったく更新できていませんでした。まあテレビをつけても、相変わらず「貴乃花親方」の話ばかりで、語りたいニュースもあまりなかったというのも原因ですが。しいて探してみると、今回のテーマの「クリスマスが盛り上がらなくなっているのでは?」というのがちょっと気になっています。テレビはワイドショー、ニュースとまめに見ているのですが、ハロウィーンに比べると報道量が全然違う気がします。まあハロウィーンは急速に盛り上がってきている若い勢いのあるイベントであるのに対し、クリスマスはもう定番のイベント、イベントとしては中年くらいになってしまったようなもので、メディアの取り上げ方が少ないのは仕方がないのかもしれませんが。

 バブルの頃そしてその後も10年ほど前まではクリスマスは若い人たちにとって1番大事なイベントという位置づけで、この日までに彼氏・彼女を作っておくとか、プレゼントは何にするとか、いない人はバイトで忙しいことにするとかいう話を学生たちからもよく聞くくらい、強く意識されていたイベントでした。でも、最近は学生たちからはクリスマスの「ク」の字も聞きません。恋愛は面倒で、彼氏・彼女がいないのが当たり前という時代になってきていることが、クリスマスが以前より盛り上がらなくなっている一因ではないかと思います。また、若い女性が大好きなコスプレも、クリスマスはサンタクロースしかないですから、盛り上がらないのでしょう。また、時期も悪く、年末・年始のイベントが近すぎて、1週間ほど前のクリスマスでお金もエネルギーも使う気にならないといったところでしょう。あと5年もしたら、若い人にとってクリスマスはまったく軽視され、ただ子どもたちだけがプレゼントを楽しみにする日になっていそうな気がします。

647号(2017.11.20)貴乃花親方が元凶

 貴ノ岩に対する日馬富士の暴行問題が連日テレビで取り上げられています。最初のうちは、ビール瓶で殴って、頭蓋骨を骨折したとかものすごい怪我をさせたという情報が流れ、日馬富士は引退に追い込まれるのではという見方が一般的でしたが、ここに来て、怪我は相撲を取るのになんの問題もない程度の軽いものだったということが明らかになり、どうやら暴行があったのは事実にしても、これを利用した貴乃花親方の八角理事長を中心とした相撲協会の現体制を揺さぶるための戦略だったのではないかという見方が強まっています。

 テレビのコメンテーターは貴乃花びいきが多く、「わからない、わからない」と言っている人が多いですが、貴乃花親方がこの問題を契機に八角理事長を追い落とし、自分が理事長になることを目指したと考えれば、容易に説明ができます。貴ノ岩の休場も、この問題を大きくするための貴乃花親方の指示でしょう。

 貴乃花親方という人物は特殊な性格をしています。信念が強すぎて、それゆえに他人とのバランスを取ることができません。実の母親とも兄とも絶縁状態です。自分が正しいと思ったら、周りの忠告も聞かずに突っ走るタイプです。私は、こういうタイプの人間をまったく評価していません。彼の問題性については、この「つらつら通信」でも、たびたび指摘してきました(第92号、第159号、第363号)。彼も45歳です。もう少し大人になってくれればと思いますが、無理みたいですね。

 今回の問題で、日馬富士が引退に追い込まれないことを祈ります。暴行したことは事実でしょうから、2場所ほどの出場停止は仕方がないでしょうが、腹を立てた理由が後輩力士の失礼な態度であれば、情状酌量の余地はあるでしょう。むしろ、出場できるのに出場しなかった貴ノ岩と、出場させず相撲協会に報告すべきことも報告しなかった貴乃花親方こそ、厳しく処罰されるべきだと思います。

646号(2017.10.22)選挙結果が出る前に今後の政局を予想する

 ついに総選挙当日を迎えましたが、もう結果は出てしまっているようなものですね。午後8時になったら、各局が一斉に「自民大勝」と発表するでしょう。今や出口調査が徹底していてほほ99%の傾向性は把握できるようになっています。統計学的に言えば、危険率1%以下の推測ができるわけです。私は1週間以上前に期日前投票に行ったのですが、そこでも3人もの調査員が出口で待ち構えていました。これだけ徹底して調べていたら、今や「選挙結果はふたを開けてみないとわからない」という状況ではまったくありません。選挙速報を見る楽しみは一部の接戦地区くらいです。まあそれでも見ると思いますが()

 こういう結果が出ることになったのは、結局安倍総理の戦略通りになったということです。急に総選挙に打って出たのは、人気のある有力野党がなく、今なら自公の議席を大幅に減らすことなく勝てるという見込みが立ったからで、その通りになったということです。「希望の党」が立ち上がって1週間くらいは野党に風が吹くかもと思わせましたが、やはり準備不足でバタバタすると底の浅さが露呈します。今や希望の党は40議席取れるかどうかというところまで落ちてしまいました。解散時に議席を持っていた候補者が57人いますが、かなり多くの人がその議席すら失うことになるでしょう。前号で、私が提案したような戦術も小池百合子は使いませんでしたね。今回の賭けに負け、イメージを悪くした小池百合子に、もう総理の目はまったくなくなりました。今や小池百合子の頭の中には、選挙が終わったら、頃合いを見て希望の党の代表をやめ、都知事に専念すると発表し、都知事としての再選をめざし、都知事で政治家生活を終えるしかないという考えが浮かんでいることでしょう。希望の党は、次回の衆議院選挙までに消滅しているでしょう。

 今回の野党の離合集散の中から、「市民」と呼ばれる政治意識が高い人たちが、彼らの「希望」の党として見出したのが、立憲民主党です。強い追い風が吹いていて50議席を超える勢いで、野党第1党になるのはほぼ確実でしょう。小池百合子に排除された元民進党の候補者たちが筋を通したという印象を与え、判官びいきの心情をもつ無党派の人々を引き付けています。党首である枝野幸男の演説もキレがよく好印象を与えています。選挙後の野党再編は立憲民主党が中心になることは間違いないでしょう。今回無所属で勝ち上がってくるであろう元民進党の有力議員や、参議院の民進党議員、さらにはいったん「希望の党」に移ったけれど失敗したという思いを抱きながらなんとか当選した議員たちと、どういう形で合流するかが、この選挙後の最大の見どころです。

 小池百合子の失敗を活かし、「排除の論理」は使わず、来るもの拒まずにするなら、かつて民主党や民進党に対して投げつけられた「イデオロギーがバラバラ」という批判が立憲民主党にも投げかけられるでしょう。特に、保守的政治家であり民進党の崩壊を招いた前原誠二、細野豪志あたりが立憲民主党入りしたいということにでもなれば、もう民進党の看板のすげ替えにすぎないと言われるのは間違いありません。少なくとも、この2人は立憲民主党としても入れたくないでしょう。また彼らもそこまでみじめな選択をするとは思えません。まあでも、民進党時代の保守系を代表するこの2人が戻らなくても、それほど有名ではない保守系民進党議員は、立憲民主党入りを求めるでしょうし、枝野幸男も排除の論理は取らないでしょうから、結局かなり思想的には幅の広い政党にならざるをえないと思います。ただ、今回無所属で出馬している江田憲司が的確に指摘していたように、政権を担う政党はある程度の思想的幅の広さを持たなければなりません。自民党は、保守に足場を置き中道にまでスタンスを広げ、立憲民主党はリベラルに足場を置き中道にスタンスを広げることで、2大政党制が成立しうるわけです。その意味では、今リベラルそのものと思われている立憲民主党は今後中道寄りにスタンスを広げていくことは大きくなるためには不可欠でしょう。あくまでも「立憲民主党」であり、「護憲民主党」ではないのですから、憲法を必要に応じて変えてもよいくらいのスタンスは取るべきだと思います。たぶん、枝野幸男はそういう立場の人のはずです。社会の状況も一変したのに、70年以上も憲法が一切変わらないというのも妙なものです。「保守=改憲=戦争」といった考え方はあまりに単純すぎます。

 101日の「つらつら通信」で、国民は、保守系2党とリベラル政党と共産党くらいが必要だと思っているのではと書きましたが、どうも自民党と根本的に政治思想が違わないもうひとつの保守政党というのは大きくはなれないようです。政党のでき方が違いすぎるので、たぶんないとは思いますが、希望の党と日本維新の会が合体して、自民党とは異なる保守政党を作ることもできると思いますが、そんな政党は結局自民党に飲み込まれるだけで大きくはなれないでしょう。「柔軟な保守政党VS柔軟なリベラル政党」という対立構図がまっとうな2大政党制の形のようです。このまま立憲民主党が印象を悪くせずに伸びてくれたら、23回後の総選挙で政権交代が起こるという夢ももう一度見られるかもしれません。

 しかし、当面は今回の選挙結果に基づいた政局になりますので、とりあえず憲法改正が来年中には発議され、これが今後の政局の中心的な問題となるでしょう。公明党が飲みやすい「加憲」で行くのか、9条の本格改正で行くのかが自民党の中でも意見の割れているところですが、今回の大勝を受けて、ますます安倍総理の力は強くなりますので、安倍がすでに打ち出していた第9条に第3項を付け加える「加憲」で行くことになる可能性が高いと思います。一度「加憲」であっても憲法に手をつけることができたなら、今後は他の項目にも手を付けられるという道筋が出来上がります。ただ、やりすぎると、公明党が離れます。公明党は本来はリベラル政党なので、立憲民主党寄りなのですが、選挙に勝つこと、政権に留まることを大目標に、もう18年も自民党と手を組んでいます。公明党が本来の政治思想に立ち返って手を組む相手を変えたら面白いのですが、、、

645号(2017.10.11)もしも私が小池百合子の選挙参謀なら、、、

 ついに、衆議院選挙が告示になりましたが、結局小池百合子は立候補しないという選択をしました。まあ、個人的には当然だと思いますが、結果として「希望の党」は、選挙後誰を首班指名するかわからず、最初に唱えていた政権選択選挙という言葉は宙に浮いてしまっています。安倍晋三や菅義偉の選挙区には候補者を立てるのに、石破茂や野田聖子や公明党候補が立候補している選挙区には、「希望の党」の公認候補を立てないという、わかりやすい戦略を取っていて、安倍総理さえ交代させたらあとは石破でも野田でも公明党の山口でもいいという風に考えているというのが見えてしまい、「希望の党」人気はすでに陰り始めています。

 小池百合子が「(それまでの動きを)リセットして、自分が代表になって『希望の党』を立ち上げる」と宣言した時が一番勢いがありました。その勢いを持続できれば、三桁の議席数も可能だったと思いますが、「排除発言」、立憲民進党の誕生、首班候補を示さない戦略で、今やよくて80議席といったところまで落ちてきていると思います。小池百合子は打算的な策士というイメージが増幅して、無党派層の浮動票を集められなくなっています。

 私は、小池百合子はあまり好きではないのですが、もしも小池百合子の選挙参謀ならば、「希望の党」への投票を12割増やす秘策を持っています。それは、以下のように小池百合子が発言することです。

 「私はまだ東京都知事になって、まだ1年ちょっとしか経っておらず、東京が抱える問題を解決できていないので、今は都知事に専念します。しかし、都知事としての仕事を納得するまでできたら、国政に戻り、日本初の女性総理大臣を目指します。今回の選挙はそのための足場づくりです。ぜひ多くの仲間を国会に送り出してほしいのです。」

 このように明確に「次は、女性初の総理大臣を目指す」と宣言することで、女性を中心に一定の期待感を再度増すことができるでしょう。当然のように、「次の次をめざすなんて、最初に言っていたことと違うじゃないか」とか「東京の問題を数年で解決できると思っているのか」と批判されるでしょうが、イメージをアップしたら浮動票はかなり取れます。これが、首班指名を含め、未来像を示さない策士・小池百合子というイメージを払しょくできる唯一最上の戦略だと私は考えています。

644号(2017.10.1)政界激動

 衆議院が解散され、小池百合子が新党「希望の党」を立ち上げることになったことで、政界が急速に動き出しました。何と言っても、民進党の前原代表が「民進党としては衆議院に届出をせず、立候補予定者はみんな『希望の党』に公認申請してもらう」という、民進党解党とも言えるほどの方針を打ち出したことで、一気に政界は再編成に向けて動き出しました。小池百合子は、民進党の人材と資金を必要としつつも、民進党の看板架け替えという批判を封じるために、民進党のリベラル系の有名政治家や、かつての民主党政権時代の負のイメージを背負った人たちを思い切って切るという手立てを打ち、自民党に代わりうる保守系の代替政党としてイメージを強調することでしょう。

 希望の党からの公認をもらえない元民進党候補予定者は、無所属で出るというのが前原の考え方でしたが、余程選挙区で堅い地盤をもつ候補以外は当選可能性が低いため、できれば政党の肩書を持ち、小選挙区で敗北しても、比例区での復活当選を望みたいところでしょう。時間さえ十分にあれば、「新党リベラル」といった名称で政党を立ち上げ、社民党などもそこに合流することにしたら、共産党の協力もできるでしょうから、全国で5060くらいの議席を取ることは可能でしょう。ただ、時間があまりにない上に、形式上民進党が残っているので、どうやって民進党から分離し、資金を入手するかが難しいところです。

 今回の選挙結果は今後の展開次第でどうなるか今の段階では予想が難しいですが、当初安倍総理が内心期待していたであろう、自公での大勝ちというのはなくなったと思います。たぶん、過半数は押さえるとは思いますが、大幅に議席を減らしたことの責任問題が党内で出てきて、場合によっては、総理交代ということもあるかもしれません。ただし、大幅に議席を減らしても、自公で過半数、さらには維新の会も与党になるといった戦略を取ることで、安倍内閣のまま行くということになるかもしれません。維新の会は、希望の党と候補者の住み分けという協力関係を築きましたが、もともと安倍・菅と関係の近い政党ですから、選挙が終わったら、議席数によって与党入りは十分考えているでしょう。

 希望の党が単独で過半数を取るということはたぶん起きないと思うのですが、3桁の議席は十分取る可能性があります。小池百合子が立候補した方がより議席が増えるという声がありますが、どうでしょうね。都知事職をまだ何もしないまま投げ出したという批判と、初の女性総理大臣が誕生するかもしれないという期待とを秤にかけて決めるのでしょう。その意味では、まず希望の党の候補者が過半数に満たなければ立候補することはないでしょう。問題は、過半数以上の候補者が集められた時ですが、小池百合子は立候補の決断をするかもしれません。私は、その選択には批判的ですが、今回が総理になれるかもしれない最初で最後のチャンスとも考えうるので、勝負をかけるかもしれません。自公で過半数に届かず、希望の党も過半数に届かずということは起こりえなくはありません。その時には、維新の会、「リベラル系」がどういう政党とどういう手の組み方をするかというキャスティングボードを握ることになりそうです。

 まだ選挙も始まっていないうちから予想するのも何ですが、どんな結果が出ようとも、希望の党は、今回が絶頂期で、この後もしも政党が続くなら、選挙のたびに議席を減らしていくことになるでしょう。ただ、今回の政界激動で明確になってきたことは、自民党以外に、憲法改正と集団的自衛権行使を認めることを前提とした、政権交代可能な保守政党がもうひとつくらい必要だと国民が思っていること、共産党以外に憲法改正と集団的自衛権の行使に慎重な、それなりの規模のリベラル政党が必要と思っているということでしょう。ガラガラポンができるなら、自民党の中で安倍総理と政治的立場――第1条・第9条などを含む憲法改正の必要性、新自由主義経済、原発維持・拡大、別姓夫婦拒否、軍事力強化――が近い人々(小池百合子も本当はこっちだと思います)と日本維新の会などが手を組んで「自由保守党」を作り、自民党の中でも、野田聖子あたりを頭に据えて、適切な再配分システムの構築、平和的外交、原発依存の縮減、民法の柔軟な改正などの立場を取る人々が公明党や今回希望の党に移れるような元民進党の議員なども取り込んで「民主保守党」くらいを作って、保守二大政党を作り、他に、現行憲法維持、安保自衛で維持、格差是正、原発廃棄、福祉充実などを中心とした「リベラル政党」、そして安保廃棄、法人税の大幅上昇、原発廃棄などを訴える日本共産党という4つくらいに分かれるのが、今の日本の政党状況かなという気がします。

643号(2017.9.24)あれっ、パクチーが、、、

 食べ物にあまり好き嫌いのない私ですが、かつてロンドンで食べたトムヤムクンとそこに入っていたパクチーが人生で2度と食べたくないものとなっていました。異様なほどに辛いスープと草としか思えないパクチーは半分トラウマになるほど負の記憶になっていました。ところが、先日、国立民族博物館のレストランで、ベトナム料理「鶏肉のフォー」に薬味のようについてきたパクチーをおそるおそるフォーと一緒に食べてみたら、「あれっ、この程度の香味野菜だったかな?」とイメージが狂ってしまうほどで、結局ついてきたパクチーを全部フォーと一緒に食べてしまいました。三つ葉よりは少し香りがきついですが、全然いけました。あのひどい記憶はなんだったのかなと自分で疑問に思うほどでした。思い起こしてみると、結局トムヤムクンとのセットだったのがいけなかったのかなというところにたどり着きます。あの異様な辛さとのセットだったので、パクチーのイメージも悪くなっていたのでしょう。ちなみに、今後は好んで食べに行くかと言われれば、そこまではしないだろうと思います。

642号(2017.9.19)彦根市は強気すぎる

 私は、2005年から毎年学生たちを連れて滋賀県の古い町並みを見て回っています。その1か所に、彦根があり、その見学箇所のメインは国宝・彦根城なのですが、この入場料が今年はなんと1000円になっています。昨年までは600円だったのが、一気に400円も上げています。この理由は、今年が彦根城築城410年で、「410年祭」として「開国記念館」という展示館を作って、それとのセット料金でしか見られないようにしているからです。「410年」ですよ()。全然キリがよくありません。たぶん、大河ドラマで彦根城主となった井伊家の物語を扱っているので、観光客も増えると考えて、無理矢理「410年祭」などを行うことにしたのでしょう。

 実はこのパターンは2度目で、10年前の2007年に「400年祭」を実施し、それまで500円だった入場料を800円にした時と同じことしています。あの時も「ずいぶん上げたな」と思いましたが、まあ「400年祭」はなかなか滅多に来ないキリのよい年なので仕方ないかと思い、学生さんたちにも1800円払ってもらって入りましたが、今回は「410年祭」ですよ。それで、400円の値上げです。ふんだくりすぎです。今年は、彦根城は外から見るだけにして、登城するのはやめようと考えています。彦根城がもっとも美しく見える玄宮園という庭園と開国記念館のセット券はわずか200円です。これで楽しもうと考えています。こういう風な値上げをしたら行かなくなる人間もいることを彦根市に知らしめたい気分です。ちなみに、2007年の「400年祭」が終了した後、彦根市は入場料を500円に戻さず600円に値上げしました。今回もまた同じようなパターンで、この「410年祭」が終了した後、600円に戻さず、700円にするのではないかと私は見ています。

 私は彦根城にはもう15回ほど登城していますが、ここは500円くらいが妥当な城です。600円でもちょっと高いなと思うのに、さらに上げるとはしみじみ強気だなと思います。城マニアという人はいますが、そんなにたくさんはいないのに、彦根がこの高め設定の値段をつけてもそれなりに観光客を集められるのは、ゆるキャラブームの火付け役「ひこにゃん」が、城の中でしか見られなかったりするというのもあるようです。まさにゆるい動きしかできない「癒し」と言えば「癒し」なのかもしれませんが、正直どうでもいいような存在が人気を集め、彦根市を無用に強気にさせ、せっかく若者たちに本物を味わせたいと思っている私のような教育者の気持ちを萎えさせるとは、彦根市はなんともったいないことをしていることでしょう。また、10年経ったら「420年祭」をやるのでしょうか。次は1200円かもしれません。

641号(2017.9.17)結婚32年目にして知る結婚した日

 奇妙なタイトルに「はあ?」と思った方もいるかと思いますが、最近年金関係の書類を提出する必要があったため、戸籍謄本を取り寄せたのですが、それを見て、初めて自分がいつ法的に婚姻したかを知りました。40歳代以下の方には信じられないかもしれませんが、私たちの若い頃は、結婚式・披露宴を挙げた日が大事な結婚記念日で、婚姻届けを出しに行く日なんてまったく重視していませんでした。自分で(それも1人で)出しに行った記憶はあったのですが、その日がいつだったか、まったく覚えていませんでした。

 今回確認したら、自分たちが結婚記念日と考えている日より3週間以上後に届け出をしていました。当時のことを思い出すと、東京で結婚式・披露宴を挙げ、翌日から新婚旅行に出かけ(パスポートはもちろん別姓で法的には夫婦ではなかったわけです)、東京に帰ってきて、私はすぐに秋学期の授業のために大阪に戻り、2週間ほど授業をして、また東京に行き(妻も当時は働いていたので、大阪と東京の別居結婚でした)、平日に役所に出しに行ったのだと思います。いつ出しに行ったのか、どこに出しに行ったかも覚えていなかったのですが、本籍地をどこにするか、ということと、姓の「片」を旧字体から新字体に直す届けをしたことは覚えています。でも、公式に大事なのは、やはりこの届出をしたのがいつだったかということですよね。結婚32年目にしてようやくわかりました。

 以前にも書いたことがあります(第402号 結婚記念日に関する疑問(2011.3.3))が、結婚記念日というのは曖昧です。生年月日は、運転免許書にも、マイナンバーにも書いてありますし、いろいろな書類にも書く機会が多いですが、結婚記念日は証明書のようなものを出さなければいけないことってほとんどないので、私のように32年も法的婚姻日を知らないでも過ごせてしまったりします。でも、やはり知らないというのは、人生の重要な日を知らないということでやはりまずいなあと思った次第です。これからは忘れずにおきます。

640号(2017.8.26)多忙な夏休み

 職業柄、夏休みは1年でもっとも時間的余裕のある時期なのですが、今年は妙に忙しいです。例年オープンキャンパスが終わり、試験の採点も終わった82週目くらいからは、ちょっとゆっくりできるのですが、今年は子どもたちが次々と順番に帰ってきたり、同期会が例年より多く開催されたり、珍しく夫婦で旅行したりで、結構スケジュールが詰まっています。他にも、『社会学部50年史』の編集作業の詰めがあり、片桐塾の準備、秋に行う第7回大学生調査の準備などもあり、仕事面でも忙しいです。

まあでも、それらは充実感のある楽しい忙しさなのでよいのですが、今週悩まされていたのが、大学のWebメールが変更されたことに伴う作業です。これまでActive Mailというのを使っていたのですが、今週からOffice365に変更されたのです。過去に、Active Mailでやり取りしたメール自体は、そのまま引き継がれたのですが、住所録が単純には引き継がれずに、自分で移行作業をする必要がありました。マニュアル通りやったのですが、何かシステム上の問題があったようで、上手くできませんでした。その後、大学のITセンターから別のやり方が紹介され、その方法でやったところ、今度は1回に移行できる件数に上限があったようで、また上手く行きませんでした。その後、住所録ファイルを2つに分け、ようやく移行できました。

しかし、移行できたのは、単純な住所録だけで、グループ分けなどの情報は移行できません。私は、1期生から24期生までゼミ生を全部、学年別メーリング・リストに分けて登録していますので、今度は住所録から、「この人は何期生、この人は何期生」と分類していく必要がありました。現役生はほぼ全員、卒業生でもかなりの人のパソコンアドレスと携帯アドレスを登録していますので、分類に半日くらいかかりました。ただし、私は、ゼミ生の名前を見ただけで、ほぼ100%、何期生かがわかるので、その点ではずいぶん時間短縮ができた方だと思います。この学年別メーリング・リストがなくなってしまっては、ゼミの集いの案内も送れないので、私としては死活問題です。

ようやくこの作業が終わって、これで大丈夫かなと思ったのですが、新しいWebメールは、前のWebメールとは、いろいろ使い方に違いがあって、「えっ、これはどうしたらいいんだろう?」ということが次々に出てきました。ITセンターに連絡して教えてもらったり、自分でいろいろ試行錯誤したりしながら、ようやく前のActive Mailでできていたことは一通りできるようになりましたが、疲れました。まあでも、もう私の生活は、インターネットとつながっていないと、どうしようもないところまで来てしまっているので、仕方がないのですが……。ただし、以前だったら、メールが使えなければ、インターネットでの連絡手段はほぼない状態でしたが、今はFBLINEもやっているので、メールが使えなくても、かなり代替的な連絡手段はあり、多少ましでした。

ということで、ここまでも忙しかったのですが、この後もいろいろ予定が入っており、今年の夏休みは、人生で一番忙しい夏休みになりそうです。まあでも、忙しい方が幸せだという見方もありますから、充実した夏休みだということかもしれませんね。

639号(2017.8.13)北朝鮮問題を冷静に分析してみよう

 北朝鮮とアメリカが互いに威嚇的な言辞を吐きあっているため、朝鮮情勢は緊張感を高めています。日本人の大多数は、北朝鮮の金正恩が、強引にミサイル開発、核開発とか進めるから、こんな事態になってしまっているんだと解釈しています。もしも本格的な戦争になったら、アメリカとその同盟軍に勝てるわけはないのに、そんな「窮鼠猫を噛む」なんていう戦略の浅はかさに気づいて、おとなしくしてくれればいいのにと思っています。まあ、確かにそうしてくれたら一番いいのですが、そういう実質的に敗北を認めるような戦略を、金正恩が素直に受け入れる可能性は小さいような気がします。そうなると、軍事衝突か、金正恩の極秘暗殺、あるいは、わがままな金正恩を受け入れてやるという選択肢しかないように思います。互いに核攻撃をちらつかせる中での第1の選択肢は、多くの人が避けたいと思っているでしょう。第2の選択肢は密かに期待している人が多い気がしますが、よく考えたら、その国では一応支持されている政治的リーダーを、別の価値観を正しいと主張する他国の政府が暗殺することは本当に正当な行為かと言えば、疑問が湧きます。となると、実は第3の選択肢がもっともまっとうな選択肢ではないかという気がしてきます。

 あんなひどい国――というか指導者――を懲罰も与えず受け入れるなんてすべきではないという考えをする人の方が多いでしょう。そこで、改めて考えてみたいのは、「北朝鮮はどの程度悪いことをしているのだろうか?」という問いです。今、北朝鮮の問題点として指摘されているのは、核兵器の開発を進めていることと、ミサイル開発を進めていることでしょう。しかし、よく考えたらみんな疑問に思うのが、それを非難してやめろと言っている国が、世界でもっとも核兵器を持ち、最高のミサイル技術ももつ国です。どうして、アメリカは持ってよくて、北朝鮮はだめなのか、論理的に説明できるのでしょうか。格兵器は、アメリカだけでなく、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、そしてたぶんイスラエルも持っています。それらの国々が核兵器を持つことは黙認されているのに、北朝鮮はだめだという線引きはどこでできるのでしょうか。また、ミサイル技術とロケット技術は同じものです。ロケットと呼べば平和利用っぽく聞こえ、ミサイルと言えば軍事利用っぽく聞こえるだけの違いです。ロケットをしばしば飛ばす日本も、言い方を変えればミサイル開発をしているとも言えます。北朝鮮が長距離ミサイルを飛ばす技術力を持ったことをそれだけで非難することは本来できないのではないかと思います。

 軍事問題以外で、北朝鮮が批判されるのは、独裁政権であること、権力が世襲されていること、飢えた国民が相当に多数いること、拉致や暗殺などの非合法事件を起こしていることなどです。しかし、独裁政権なら他の国でもありますし、世襲で権威や権力が維持されているということは、国王や天皇を抱く国のシステムと変わらないのではないかと言えばそうも言えるのではないかと思います。飢えた国民がたくさんいる国も他にもたくさんあり、それだけで崩壊させねばならない悪しき国家だというのも少し行きすぎかもしれません。拉致や暗殺はもちろん非難されて当然ですが、他国の人間を買収してスパイに仕立てたり、他国のリーダーの暗殺を計画している国は他にもあると思います。

 決して北朝鮮は褒められた国ではないですが、本当にここまで追い詰める必要があるのかどうかは疑問です。いろいろ問題はあるが、とりあえず問題を抱える他の国と同じ程度の感じで交渉のテーブルにつかせてみたらどうなのでしょうか。北朝鮮は交渉の場で何を求めるのでしょうか。もしも求めるなら、日本もアメリカも韓国も、北朝鮮と正規の国交ルートを開いたらどうでしょうか。金も物も人も普通に交流できるようになったら、文化や情報も政府がコントロールできないほど北朝鮮に流入するでしょう。そうなったら、そう遠くないうちに、北朝鮮国民の意識が変わり、こんな体制のままでいいのかという声が上がってきて、内部で変革しようという方向に向かうのではないでしょうか。

少し時間がかかっても、この方がうまく行く可能性は高いように思います。アメリカは、独裁者フセインの支配するイラクに軍事攻撃を加え、フセイン政権を崩壊させましたが、それでイラクはよい国家になったかというと、とうていそうは思えません。ISが勢力を伸ばせるようになったのも、フセイン政権が崩壊し、中央政府のコントールが効かなくなってからです。内部に変化を受け入れるだけの準備ができていない中で、外圧によって体制変革をめざしてもうまくは行きません。

北朝鮮問題は、とりあえず国際的な「太陽政策」で対応し、時間をかけて、国民自身による変革に向かわせるというのが、ベターな戦略なのではないかと、私は思います。

638号(2017.8.8)久しぶりに高校野球に関心を持っています

 今年の夏の甲子園は、世間では、早実の清宮が出られなくなったので関心が薄れたと言われているようですが、私は10年ぶりに関心を持って見ています。10年前は佐賀北高校が優勝した年です。この年なぜ興味を持ったかについては、「第253号 さわやかミラクル(2007.8.22)」に書いていますので、できたらそれを読んでからこの文章を読んでいただけるとより話はわかりやすくなります。今年まずなぜ関心を持ったかというと、滋賀県大会を彦根東高校が勝ち抜き、香川県大会を三本松高校が勝ち抜いたというのが最初のきっかけです。彦根東高校は、彦根城内にある伝統ある公立の進学校ですし、三本松高校も公立のそれなりの進学校で、関大にもよく来てくれて、この高校出身のゼミ生が2人もいるので、なんだか応援したくなっていたのです。「プロ高校野球選手」で構成される私立高校と違って進学校が出てくるというのは、高校野球本来の姿に近く好感を持てます。ちなみに、今年の大阪大会では、うちの娘たちの出身高校でもありゼミ生も2人いた公立の春日丘高校もベスト8まで残っていましたし、決勝まで行った大冠高校も公立高校でした。

 さて、今年の甲子園の対戦カードを見て関心がさらに高まりました。なんと彦根東高は開会式後の第1試合を引き当てました。まるで2007年の佐賀北高校と一緒です。その上、相手は長崎県代表の波佐見高校と知り、この試合はぜひ観ようと思って今日を迎えました。ちなみに、波佐見高校はまったく知らない高校でしたが、波佐見という地名に思い入れがあったのです。どういう思い入れだったかは長くなるので省きます。とりあえず、心密かに、彦根東高に、10年前に開幕第1試合を勝ち抜き最終的に優勝してしまった佐賀北高を重ねながら観ていました。なかなかよい試合で、1点リードされたまま彦根東は9回裏の攻撃を迎えました。そして、なんと期待にたがわず見事に逆転サヨナラ勝ちをしたのです。試合を見終わって、彦根東が佐賀北のようなミラクルを起こしてくれないかと期待はますます高まっています。

 まあ私立の強豪校がたくさん出ているので、そんなうまくは行かないでしょうが、とりあえず彦根東が敗退するまでは、今年の甲子園は興味を持てそうです。三本松高校も応援していますが、彦根東が開幕カードを引いた時点で、私の思い入れは大分彦根東に偏ってしまいました。とりあえず、公立高校は、みんな頑張ってほしいものです。

〔追記(2017.8.13):今日、三本松高校も1回戦を勝ちました。甲子園初勝利だそうです。よかったです。〕

637号(2017.7.29)やはり「婚活」より「就婚」を重視すべきではないか

 「就婚」という言葉を知っている人は、私のHPのコアなファンだけだと思いますが、これは私が2005年に造った言葉です。「KSつらつら通信」の「第164号 友人になってしまう男と女の時代(2005710)」の中で生み出しました。その後、2008年頃から社会学者の山田昌弘氏が造った「婚活」という言葉が出てきて、私の言葉を広めるチャンスを失ったまま10年ほど経ちました。しかし、最近「婚活」と「就婚」の違いをもっと明確にしてどちらが大切なのかを考えるなら、「就婚」という言葉がもっと広まってもいいのではと思うようになりました。

 「婚活」は当然「就活」からのもじりで造られた言葉ですが、「就活」が目標ではなく、「就職」にたどり着かなければ意味がないのと同じように、「婚活」もそれ自体が目標にはならず、「就婚」までたどり着かなければならないはずです。「婚活」より「就婚」が大事だということをもっと強調したいと思います。

 「就婚」という言葉も、実は「就活」の影響を受けて思いついた言葉です。就職活動と同じように、相手の情報を集め、将来性を見極めて結婚しようとすることという意味合いを表すのに適当だろうと思い考えついた言葉です。その段階では生まれていなかった言葉でしたが、「婚活」をした上での結婚というイメージでしたので、「婚活」という言葉が生まれてからは、「就婚」という言葉を使いにくくなってしまったのです。なお、昔から、女性が結婚すると「永久就職先を見つけた」などと言われたものですので、就職と結婚のイメージを結びつける考え方はそれまでにもありました。しかし、離婚も増え、結婚が「永久就職」とは言いにくくなった時代ですので、「永久就職」ではなく、「離婚」「転婚」することもありうる、とりあえずの「就婚」というくらいの言い方にした方がいいだろうと考えました。

 さて、「就婚」という言葉を造ってから12年も経ちましたが、ますます男女の結婚は難しくなっているようです。ここで改めてこの言葉を広めたくなってきたのは、自分の理想通りの会社ではなくてもほとんどの学生が就職するのと同じように、結婚も理想通りの相手ではなくとも、とりあえず「就婚」するくらいの考え方でしてみたらどうかということを言いたくなったからです。結婚は「一生一回」だけのことと考えるのをやめてみたらどうでしょうか。就職だって、昔は「終身雇用」が前提だったのが崩れています。結婚も「終身保証」と考えるのをやめるべき時代が来ているような気がします。勤めた会社がどうしてもしっくりしないなら、離職し、再就職先を探すように、結婚もとりあえずしてみて、どうしてもしっくりしなければ、離婚し、再婚相手を探すということでもいいのではないでしょうか。

 従来私が主張してきたこと――基本的に離婚はしない方がいい――と異なる主張ですが、このくらい結婚に踏み切るハードルを下げておかないと、どんどん独身者が増えそうな気がしてなりません。ただし、会社も最低1年、できれば3年くらい頑張って勤めないと、本当に自分に合っているかどうかの判断もつかないように、結婚も1年〜3年くらいは、2人でぶつかり合いながらも2人の生活を創る努力はしないといけません。働き始めた1日目から自分にぴったりの会社だなんて誰も思えないように、結婚も一緒に暮らし始めた1日目から相性ぴったりだなんてことは滅多におきません。あまり短期で判断しようとすると、うまく行きそうもないという結論になりがちなのは、就職も「就婚」も同じです。

 こんな話をするためにも、「婚活」より「就婚」の方が使いでのある言葉ではないかと思い始めています。なるほどと思ったら、ぜひ「就婚」という言葉を広めてください。

636号(2017.7.24)医師にも定年や資格再審査が必要ではないか

 数日前の朝起きたら、膝に直径1pくらいの出来物ができていてその周り直径3pくらいまで痛みがあったので、たぶんどこかでぶつけたのだろうと思い、近くの皮膚科に行きました。腫れている部分の一部にぷっちとした赤いところがありましたので、そこからちょっと菌が入って化膿しているのだろうという自己診断だったのですが、皮膚科の70歳代終わりとおぼしき医師は、私から話をほとんど聞かず、腫れた部分を強く押し、一言「腫瘍だね」と言いました。さらに、「麻酔して切除しないと。時間はあるか」と言いながら、勝手に腫れている部分を黒マジックで丸く囲みました。もちろん「悪性腫瘍」だと自分でも思ったわけではないですが、「なんなんだ、この医師は」と不快に思いました。まずは、患者からどういう症状であるかをよく聞いた上で必要なら触診して診断を下すべきでしょう。何も症状を聞かず、じっくり傷を見もせず、断言口調で診断を下し、こちらが「いやでも、こういう症状なので……」と言おうとしても、「関係ない。これは腫瘍」とだけ言い続けます。もしも本当に腫瘍だとしても、こんな目の見えていない年寄りの医師に切開なんか絶対して欲しくないと思い、「とりあえず、今日はいいです。様子を見ます」と言い、帰ってきました。それから3日ほど経ちましたが、腫れはほとんど引き、痛みもほぼなくなりました。たぶん、少し尖ったところに膝をぶつけてできた傷からの化膿という私の判断の方が正しかったのではないかと思っています。

 この皮膚科の年寄りの医師に関しては前々から不満を持っていました。滅多に行きませんが、自宅から近いので、この程度の処置ならやってくれるだろうと思い、これまでにも数度行ったことがあります。いつも、こちらの話をちゃんと聞かず一方的な診断結果を断定的に言いますが、納得が行かない診断だったことが何度もあります。今回のことでもう完全にこの医師とは縁を切ることに決めました。むしろ、この医師には「引退しなさい」と伝えたい気分です。私のように、権威者の言うことも疑ってかかる精神の持ち主なら、セカンド・オピニオンを求めたり、しばらく様子を見ようということもできますが、医師の言うことは正しいと思い込んでいる人もたくさんいます。そういう人なら、今回の私のようなケースでも、その場で、このあまり目もよく見えなくなっている年寄りの医師に切開されてしまっていたかもしれません。

 この医師の個人的問題というより、医師に定年や資格再審査がなく、本人の意思次第でいつまでも医師という重要な仕事を続けられるという制度に問題があるのではないかと思います。医師も70歳で定年とするか、それ以降も医師を続けたいなら、資格再審査試験を受けるなどすべきではないかと思います。医師というのは人の命に関わる非常に重要な職業です。若い時に国家試験に通っただけで、永遠にその資格が活かせるなんてかなり甘い気がします。特に、昔の感覚をもった医師は説明がまったく丁寧ではなく、患者を見下ろしたように喋ります。新たな医療技術や医学的知識もちゃんとインプットしているかどうかも疑問です。

 私は自宅の近所にこんな医師でいいのかと思っている病院が4か所もありますが、いまだどこも潰れていません。ということは、あのいい加減な診断で、いまだに医師を続けることができているわけです。軽食レストランくらいライバルが多く、サービスやコスパが悪ければ潰れてしまうものなら定年も資格再審査もなくても自然淘汰されるでしょうが、多くの人はなんとなく病院や医師は信頼できるものと思っているようなので、制度的に規制をかけるべきではないかと思います。ちなみに、私はすべての医師を疑っているわけではありません。ちゃんと優れた医師だと信じている方も何人もいます。自らの仕事の重要性を鑑み、医療知識と技術を獲得する努力を続けること、患者を見下ろさない態度を取ること、それを忘れないでほしいものです。

635号(2017.7.23)「佐藤ママ」はプロの教育ママ

 今日テレビで、子ども4人を4人とも東大理V(医学部)に合格させたことで有名な「佐藤ママ」という女性の子育て論を聞きました。聞きながら、これは真似するのは難しいと思いました。テレビもゲームも家では12歳までやらせなかったとか、1歳から公文式をはじめ、そろばん、バイオリン、プールを習わせ、絵本を1103年間で1万冊読み聞かせ、また徹底したスケジュール管理(花火、プール、かき氷の禁止も含む)を行うなど、こんなことはよほど意志の強い人でなければ実践できないと思いました。

 たぶん子どもたち自身の能力も高かったのでしょうが、結果として成功しているので誰も文句は言えませんが、このやり方を中途半端に真似しようとしたら、悲惨な結果になるケースの方が確率的には高い気がします。普通の子どもたちとまったく違う生活を送ることに、子どもたち自身が不満を持たずに成長できるためには、成功体験を続けないといけません。もしも、どこかで失敗してしまった時に、こんな苦しい我慢ばかりしなければならない生活をしてきたことに対して爆発をしてしまうことは十分考えられます。

 また話を聞いていると、子育てに関して夫の意見はまったく聞かなかったようですし、家事に関してもかなり手抜きだったようです。こうした妻で夫が納得できる確率も一般的には低いと思います。夫がよほどの人格者か、家庭以外に楽しみを見出しているかでないと持たない気がします。

 「子育ての基本は、自分でちゃんと稼げる人間に育てること」と言っていたので、この方の子育ての目標自体は正しいと思いますが、この後この「佐藤ママ」はどう生きるのでしょうか。子育てを自分の仕事としてまさにプロとしてやってきてきっちり結果を出してきたわけですが、医師になったら、あとはそれぞれ自分で生きていきなさいと一切口を出さなくなるのか、よき配偶者を見つけてやり、孫にも教育指導をしていくのか、あるいはこれからは子ども教育の評論や指導を新たな自分の仕事としていくのか、興味深いところです。子育てを自分の唯一の仕事のように思い、教育ママをしてきた人の多くが、就職や結婚まで心配するというのが現在よくある風潮です。いい大学や医学部に入ったら、それですべてが決まるわけではありません。「佐藤ママ」とその4人の子どもたちがどう生きていくのかはずっと興味深い対象になりそうです。

634号(2017.7.22)白鵬が国籍を変えるより親方制度を変えるべき

 白鵬が前人未到の通算勝利記録を達成し、毎日大きく取り上げられていますが、それとともに報道されているのが、白鵬が日本国籍を取得する意向を示しているというニュースです。白鵬のように日本や日本文化のことをよく知っている人が新日本人になってくれるのは歓迎ですが、白鵬が心から本当に国籍変更をしたいと思っているかどうかは疑問です。というのは、国籍変更して日本人にならないと、相撲協会の親方にはなれないというルールがあるために、白鵬は国籍変更を考えていると推測できるからです。これだけ情熱をかけてきた相撲界に残るために、モンゴル人ではだめで、日本人にならないといけないのです。私はこの相撲界のルールは変えるべきだと思います。なぜ、モンゴル国籍の親方ではいけないのでしょうか?なんの問題もないと思います。

 大相撲の親方株というのは、江戸時代に生まれた株仲間という閉鎖的な既得権を守るやり方をそのまま維持しています。江戸時代には、多くの業種でこの株仲間があったと思いますが、明治以降近代化が進む中で産業の発展を妨げる株仲間などというものは消えていったわけですが、相撲という特殊な産業は、伝統文化であり、他にライバルもいなかったため、そのまま維持してきたわけです。まあ、誰でも部屋を創れるようにしろとまで言いませんが、相撲界に貢献してきた力士が国籍を理由に親方になれないというのは、無駄に閉鎖的な制度です。白鵬に国籍を変えさせるより、まず相撲協会が親方の国籍基準を変えるべきだと思います。そんな基準に関係なしに白鵬が日本人になりたいと言ってくれるなら、それは日本人としておおいに喜びたいと思います。

633号(2017.7.21)「いいね!」の罠

 FBに登録したのは2012年頃でしたが、最初の2年間ほどはほとんど投稿もせず放置し、2014年くらいから少し使い方を覚え、最近は1か月に何度か投稿するようになっていますが、どんどん感覚がSNSルールに浸食されてきていることを実感します。以前は、「いいね!」なんてボタンはほぼ意味のないものと思い、自分では2016年くらいまで押さなかったし、押してもらっても、「いいね!」は要らないからコメントをくださいとか強気に言っていたのですが、今やちょくちょく「いいね!」を押すし、自分の投稿に「いいね!」が少ないと心密かにがっかりしていたりします。すっかり「いいね!」に侵されてしまいました。より多くの「いいね!」がつくのではと思い、孫の写真や動画をちょくちょく載せたりしています。みっともない限りです。長い間、この誰が読んだかもわからないHPに思ったこと、考えたことを書き、特にコメントが来なくても、「まあ、誰か読んでくれているだろう」とそれだけで満足していた私が、何のひねりもないような私事をFBに掲載し、「いいね!」がどのくらいついたかを気にしています。なんなんでしょうね、この感覚は。

結局、人は「社会的認知の欲求」が強いということなのでしょう。どんなしょうもないことであっても、自分のことを認知してくれている人がいる――それもできればたくさん――のが嬉しいのでしょう。まあ、そんなことは、自分の大学生分析で、90年代から指摘してきたことですが、SNSをやっていると、自分もその価値観に染まっていくのを実感します。しょうもない近況や家族ネタで他者から認知されたって、自分の何かが評価されたわけではないので、たいして重要性のない「社会的認知」なのですが、そんなものであっても認知されないよりは嬉しいという気持ちに人はなるようです。

こうしたなんでもいいから認知されたいという欲求が募ると、「炎上」してもいいから注目されたいという人も出てくるのでしょう。そうならないように心しないといけないですね。きちんとした中身で評価されることを目指さないといけないですね。容易につながれる手段ができたことによって、つながることそれ自体が目的化してしまっている人が多いのだと思います。自制心を持って、SNSと付き合っていかなければならないと改めて思っています。

632号(2017.7.1)「まったり」が苦手です

 「まったり」というのは、なんか楽な感じがして「ゆとり世代」の若者には好きな人も多いかもしれませんが、私はどうも苦手です。私の勝手な言語解釈かもしれませんが、「まったり」というのは1人で休息している時の状況に使う表現というよりも、誰か他の人と一緒にいる時に、特に何をするということもなく時が流れていく際によく当てはまる表現だと思っています。つまり、私が苦手なのは、複数の人と一緒にいる際に、特に何かするということもなく時間だけが流れて行ってしまうという状況そのものです。なんだか時間の無駄遣いをした気になってしまいます。貧乏性なのか、高度成長期に価値観を形成してきたせいか、単なる個人的性格の問題かわかりませんが、せっかく複数で集まるなら何か刺激(楽しさ、楽しみ)を求めようよと思ってしまいます。新しいメンバーがいるとか、新しい場所に出かけてみるとかであれば、新しい刺激は得やすくなりますが、もしもお馴染みのメンバーで、場所も変わり映えしないところで集まるとなったら、話題や企画で、少しでも刺激を作り出したくなります。帰宅して、今日はどんな刺激があったかと思い出せない日は、なんか充実感がなかったなと思ってしまいます。ちなみに、家で夫婦2人でいる時は、まったりしているんじゃないですかと思われるかもしれませんが、それもないですね。一緒にいる時は基本何か話しています。会話がないまま、何時間どころか10分でも、私は一緒にいられません。もちろん、疲れる時もありますので、そういう時は誰とも会わずに、まったりではなく、ゆっくり寝て回復することにしています。

 もう62歳で孫もいて、若い人から見たら、それこそ「まったりする年齢じゃないですか?」と思われそうですが、実態はまったく違います。たぶん大多数の若者より、私の方がよほど刺激(楽しみ)を求めているのではないかと思います。どうせエネルギーを使うなら、何か刺激を得たいというのが、私の生き方です。この生き方を続けられる間は、あまり老け込まずにいられそうな気がしています。大病でもして、パワーがなくなったら、こんなことも言わなくなるかもしれませんが、今はまだ大丈夫そうです。20歳ちょっとの学生たちに、「先生が一番元気ですよね」と言われ続けたいものだと思っています。

631号(2017.6.24)朝ドラ「ひよっこ」は名作ドラマだ

 4月に始まった朝ドラ「ひよっこ」を毎日楽しみに見ています。このドラマ、非常によくできています。奥茨城村、トランジスター工場、洋食屋とアパートと、すでに3回、主たる舞台が変わり、キャストもそのたびにフレッシュになり、ストーリーが飽きないようにつくられています。脚本の岡田惠和がまずうまいのでしょうが、各役者さんたちも適材適所の配置で、役によく合っています。そして、何より評価できるのが、昭和40年前後の空気感がうまく再現できていることです。ゼミで、戦後史をいろいろな形で扱っているのですが、若い世代には戦後昭和の空気感が伝わらず苦労しています。このドラマを見てくれたら、とりあえず昭和40年前後の雰囲気はよく伝わると思います。(最近は、テレビを見る学生も減っているので、いくら勧めても、あまり見てくれないのですが(苦笑)。)

 このドラマはどの時代まで描くんでしょうね。朝ドラはよく女性の一生を描いたりしますが、このドラマはそんな長期間を描かない方がいいような気がしています。主演の有村架純が特に老け役をやらなくていい時代まで――昭和40年代だけ――でいい気がします。このままイメージを崩さずに終了まで持っていってくれたら、私は確実に「ひよっこロス」になりそうな気がしています()

630号(2017.6.24)離党しただけで責任を取ったことになるのか?

 豊田真由子という自民党衆議院議員が、秘書に対して暴言、暴行を働いていた音声が公開され、「パワハラだ」と批判が殺到し、自民党を離党しました。2か月ほど前には、やはり自民党の衆議院だった中川俊直が重婚疑惑で、自民党を離党しました。金銭トラブルを起こし、同じく離党した武藤貴也という人物もいます。「ゲス不倫」で国会議員もやめた宮崎謙介も含めて、みんな201212月の総選挙で自民党が大勝ちして政権奪回した時に初当選した議員ばかりです。2009年の総選挙で自民党は大敗していたので、追い風が吹いていた2012年の総選挙には新たな候補をたくさん立てる必要があり、人物チェックが甘くなりがちだったのでしょう。これは、この時だけでなく、大きな風が吹き、大勝した政党の新人議員にはよく起こることで、2005年の郵政選挙の際に「小泉チルドレン」と呼ばれた議員たち、また2009年の民主党大勝ちの時の新人たちでも、同じような問題議員が多いと言われました。

 さて、ここで問題にしたいのは、世間から批判されるような行為をして一般の会社なら解雇になるかもしれないほどの事態を引き起こしながら、議員をやめずに離党しただけで責任を取ったかのように扱われるのはおかしいのではないかということです。本人ももちろんですが、自民党という看板で当選してきた人ばかりなのですから、その看板を使わせたことに対して、自民党もちゃんと責任を取るべきです。無所属になったって、国会での投票行動においては、自民党議員と同一行動を取るに決まっているので、自民党にとって、離党で済めば何一つマイナスはありません。本来なら、責任をもってやめさせるくらいのことをすべきなのに、そういう行動をしない自民党は無責任です。

 議員辞職をしていれば、その選挙区で補欠選挙が行われ、わかりやすく有権者がそうした不祥事を起こした議員を送りだした政党に評価を下すことができるのですが、やめずに無所属の議員として続けていれば、こんな不祥事を起こした人間が、議員報酬(2200万円)と、文書交通通信滞在費(年1200万円)、さらに秘書雇用手当(年約2500万円)、立法事務費(年780万円)を受け取り続け、自民党は賛成票を変わらず得られるわけです。実におかしいです。

629号(2017.6.23)価値合理的行為をしない人間?

 久しぶりに昼間、梅田に出たら、結構な行列ができているお店があって何のお店だろうと思ったら、パン屋さんでした。他にも、ラーメン店、ワインの店、居酒屋と結構な行列ができているのを、時々いろいろな場所で見かけます。私は、行列ができていると見た瞬間にその店に入るのをやめます。行列に並ぶのが嫌いなのです。むしろ、どうしてみんな行列に並べるのだろうといつも不思議に思います。「時は金なり」とまで思いながら生きているわけではないですが、行列に並ぶのは時間の浪費としか思えないのです。そこまでこだわらなくても、他のお店でいいんじゃないかと思う人間です。同じく、もうひとつ私が理解できないのはファン心理です。なぜ、そんな時間とお金とエネルギーを、ただ応援するだけのために使えるのだろうと理解できません。

 改めて考えてみると、私は何かにこだわった行動、つまり「価値合理的行為」(価値観を共有している人にとっては合理的に思えるが、価値観を共有していない人にとっては非合理的としか思えない行為)はほとんどしない人間だなと思います。いつも社会学の授業で「価値合理的行為」を説明する際に、信仰とかだけでなく、縁起を担ぐとか、趣味にお金を使うとか、ブランド品を高いお金を出して買うとかも「価値合理的行為」なので、日常的によく行われている行為ですと説明していますが、自分はほとんどそうした行為をしたことがないように思います。縁起やジンクスを担ぐことはないですし、お守りも持ちません。ブランド物にも興味がないし、趣味もないので、他の人がびっくりするようなお金の使い方もしたことがありません。かなり徹底的に「目的合理的行為」ばかりする人間です。私は珍しいタイプでしょうか?いやでも、私だって独自の価値観をもつ一個人なのですから、自分が気付いていないだけで、他の人から見て「そんな非合理なことしますか?」と言われるようなことを何かやっているはずです。何か思いつくことがあったらぜひご指摘ください。

628号(2017.6.16)公明党の存在意義を問う

 通常国会が実質的に閉会してしまいました。森友問題、加計問題、共謀罪と、それでいいのかと国民が疑問を持ったまま、安倍内閣の強引な手法ですべて進んで、納得いかないまま打ち切りになってしまいました。安倍首相がこんなに強引に政治を進められるのは、支持率が大きく落ちていないこと、そして何よりも国会の議席を圧倒的に持っていることです。来年の12月までしか任期はないので、どこかで総選挙を行わないといけない安倍首相ですが、今は時期が悪いと思っているでしょう。万一選挙に打って出て、与党プラス維新の会で3分の2の議席がなくなったら、憲法改正の発議もできなくなるので、今回の強引な国会運営の印象が薄れるまで総選挙には打って出ないでしょう。

 しかし、ともかく来年12月までにはしなければならないわけですから、その時に選挙結果がどうなるかです。ここで問いたいのは、公明党です。もともと護憲・平和主義・中道路線を前面に打ち出して創られた政党が、憲法改正をめざす超保守的な安倍内閣を支える与党でありつづけることに、なぜ疑問を感じないのだろうと不思議に思います。一体、今の公明党にはどういう存在意義があるのかと問いたくなります。おそらく、公式見解では、与党であり続けることで、弱者の立場を政策に反映させることができているというのでしょうが、本当に弱者のための政策を作りたいなら、自民党とは手を切って、民主党、社民党、そして難しいとは思いますが、共産党と手を結び、政権奪取をめざすべきです。小選挙区制度ですから、各選挙区の有権者の37%くらいいる確実に投票に行く公明党支持者が、自民党につくか野党につくかで、選挙結果はガラリと変わる可能性があります。公明党は、今自分たちが与党にいて、自民党と選挙協力することで、日本にとってよいことをしているという自信はあるのでしょうか?今の状態なら、自民党公明派という、自民党の1派閥のような存在にすぎません。議席を確保するためには、自民党と歩調を合わせることは、公明党の存在意義をどんどん失くしていくだけです。

 公明党が与党から離れる決断ができたら、再び日本の政治は動き出す可能性があるのですが、、、

627号(2017.6.16)ランドセル調査から色のジェンダー・イメージについて考える

 最近「ラン活(入学1年近く前から始まる、よいランドセルを探す活動)」というのが、幼稚園年長の子どもを持つお母さんたちの間で広まっているという話を聞き、ランドセルに興味を持ち、大学1回生の学生112名を対象に簡単な調査をしてみました。

 まず、最近の小学生は成長も早く、高学年くらいになるとランドセルを背負っているのは実は嫌なのではないかと予想していたのですが、小学生時代はランドセルが恥ずかしいと思ったことがないという人が圧倒的多数派で、女子では90.0%、男子でも82.7%でした。多くの人が周りもみんなランドセルなので、何の疑問も感じなかったという回答でした。中には、今でも背負えと言われれば背負いますと答えた女子学生もいました。そう言えば、数年前くらいから、外国の女性有名人とかで、日本のランドセルがおしゃれで使用しているというニュースもありましたし、かっこ悪いというイメージはあまりないのでしょうね。

 恥ずかしくなったという少数の意見は、かわいいデザインがついていたランドセルを使っていたというパターンとリュックに憧れたというパターンでした。なお、この調査で京都を中心に使われている「ランリュック(ランリックとも言う)」という、ランドセルとリュックの中間的な存在がかなり前から使われていることを知りました。

 さて、この調査で一番興味深かったのは、ランドセルの色でした。2005年に小学校に入学した若い世代で、すでに男の子は黒、女の子は赤などというジェンダーによる色拘束からは逃れられていた時代だったはずですが、男子の4分の3以上(76.9%)は黒いランドセルで、残りは、紺系が5名(9.6%)、青系が2名(3.8%)、緑系が同じく2名(3.8%)でした。黄色が3名(5.8%)いますが、これは学校指定のランリュックで色もこの頃は黄色一色だったようです。

 女子の方は、男子よりは少し色のバリエーションがありますが、大きくまとめると、赤系が42名(70.0%)、ピンク系が14名(23.3%)で、赤・ピンクのランドセルで90%を超え、圧倒的多数派になっています。ランリュックの黄色2名以外で異なる色のランドセルを使っていた女子は、キャラメル色が1名、水色が1名しかいませんでした。自由にランドセルを選んでいいという時代でも、親はやはり男の子らしい色、女の子らしい色のランドセルを子どもに用意するのだということが確認されました。

 当たり前と言えば、当たり前なのでしょうが、やはり大多数の人にとって、ジェンダーと色の密接な関係は必要なものと認知されているのでしょう。トイレの表示も、もしも赤で「M」、黒で「W」と書いてあったら、どちらがどちらのトイレなのか混乱する人はたくさんいることでしょう。

ちなみに、なぜ赤やピンクが女性のイメージと結びつき、黒や青が男性のイメージと結びつくのでしょうか。この色のジェンダー・イメージは人間社会ではかなり普遍的な傾向だと思いますが、動物世界ではオスの方がカラフルな動物はたくさんいます。あれは、生殖行為において、メスが選択権を持っていて、オスはメスに選ばれるためにカラフルになっていると聞いたような気がしますが、この論理を当てはめると、人間の場合は逆で男性が女性を選ぶ慣習になっているため、男性の気を引けるカラフルな色合いを外見に取り込む女性が多かったからということになるでしょうか。色のジェンダー・イメージはいかにして確立したかは簡単に答えが見つからない難問かもしれません。

626号(2017.5.19)「いいね!」を押すことが増えてきました

 1年ほど前まで、SNSで安易に「いいね!」を押さずにコメントを書くべきだと主張していた(「第580号 「いいね!」文化に染まらずいたい」(2016.3.21)参照)のですが、最近私もフェイスブックで「いいね!」を押すことが増えてきてしまいました。若い方々はとっくにわかっていたことなのでしょうが、ある程度フェイスブックを使っていると、やはり「いいね!」を押すのが一番適切な行動選択なんだなということを思わざるをえない場面にしばしば出くわします。例えば、自分が孫の写真を載せた時に、「いいね!」を押してくれた教え子が子どもの写真を載せた時には、やはりお返しで「いいね!」を押すのが礼儀なんだろうなと思ってしまいます。かつての主張から言えば、コメントすべきところですが、ママ友らしき人たちのコメントがいっぱい載っているところに割り込むのは、空気が読めてない人になってしまいそうで、なかなか書きづらいです。ある意味予想通りに、やはり私も時代に流されることになりました() まあでも、仕方がないですね。新しい伝達手段には新しいルールやマナーが生まれるわけですから、使うのなら、そのルールやマナーにこちらがなじんでいくしかないんでしょうね。

 でも、まだ完全に時代に流されきらずに抵抗したいと思っているのは、LINEよりメールを重視しているところです。家族とのやりとりなどは、私もすっかりLINE派になってしまっているのですが、現役学生とのやりとりは基本はメールでと考え、そう伝えています。まあ、連絡事項くらいなら、LINEでもいいのですが、思いを伝えるのは、やはりメールの方がいいと思います。LINEになると、どうしても短い文章、スタンプの使用などが基本となってしまい、きちんと文章化して思いを伝えるということがしにくいところが気になります。先日誕生日を迎えたので、多くの教え子からお祝いメッセージをいただきましたが、やはりLINEやフェイスブックより、メールでいただいたメッセージが心に届きました。短い言葉やスタンプではなく、それなりに言葉を費やして思いをきちんと伝えることの大事さを強調したいです。私宛ではないですが、ある教え子が同期のゼミ生にフェイスブック上で、「誕、おめ」と書いているのを見た時には、思わず横から乱入して「『誕、おめ』はないんじゃないの?」とクレームをつけてしまいました。長ければ長いほどいいというものでもないでしょうが、短いメッセージで思いを伝えるのは、余程の文章の達人でないと難しいはずです。われわれ凡人は、やはりある程度言葉を費やして思いを伝えた方がいいと思います。

625号(2017.4.22)もう中選挙区制度に戻そう

 衆議院総選挙の格差を是正する――違憲のおそれがある1票の格差2倍以上をなくす――ための区割り案が発表されましたが、300選挙区のうち97選挙区に変更がされるそうです。中には、兵庫県の川西市のように一部地域が豊岡市など日本海側の市町村と同じ選挙区になるところも出てきます。数合わせのために、無理矢理行政区を割ってしまう、こういう選挙区割はもはや生活の実態にまったく合っていません。そして、小選挙区制度を採る限り、根本的な解決策はなく、こうした選挙区の見直しはほぼ毎回のようにやらざるをえないというのが日本の実情です。

 こういう無理なことをしてでも、小選挙区比例代表制が、日本の政治によい効果をもたらしているなら無理する意味もありますが、もはやその効果は出ないということが、この20年の実験でわかったと思います。小選挙区制度が意味を持つのは政権交代が可能な2大政党が存在する時です。一時は日本もそうなりかけて、私も小選挙区制度の意義を見直したときもありました。しかし、民主党政権の失敗に対する国民の拒否反応は私が予想していたよりはるかに強く、国民は2大政党制より、自民党1党独裁の方がいいと判断しています。55年体制の時も、長く自民党が政権を持ち続けていましたが、あの時は中選挙区制度で、自民党の中に主流派、反主流派が必ずでき、そこで総理の交代が起こることで、実質的な政権交代的な感覚を、国民は味わうことができました。しかし、今や安倍総理に逆らう発言は、自民党議員からまったく出てきません。たまに石破茂が遠回しに批判的なことを言っただけで叩かれるという状況です。安倍総理とはかなり考え方が異なるリベラルな野田聖子は総裁選立候補のために推薦人20名すら集めることができませんでした。もはや、安倍独裁政権と言ってもおかしくない状況です。

 こんなに、安倍内閣が強いのも小選挙区制度のせいです。各選挙区に自民党候補の看板を背負って立候補するためには、安倍総理総裁に嫌われるわけにはいかないのです。自民党が党を挙げて、安倍総理のイエスマンになっています。そして、小選挙区では1議席も取れない野党のために置かざるをえなくなっている比例代表制も、野党の議席を伸ばすよりも、とりあえず自民党という名で通ってしまう名簿順位下位の議員には、政治のこともまともに知らないではないかと思われる人も出てくるという不幸な状況もしばしば生まれています。

 こうやって考えてくると、以前の中選挙区制度の方がはるかに日本人には合った制度だったと思わざるをえません。各選挙区15の議席を与え、行政区は割らないようにするという原則で、無理のない中選挙区ができるだろうと思います。そうすれば、1票の格差問題で、頻繁に区割り変更をする必要はないし、選挙区と行政区画がずれるという問題もなくなります。そして、それ以上に、今のような独裁状態が生まれにくくなります。しかし、現実には、この制度で勝っている与党が制度を変更しようなどと思うはずもありませんので、この提案は実現されません。

そうした結論を受け止めるだけではなんだか悔しいので、どうしたらこの澱んだような安定状態が動き始めるかと考えると、いくつかのケースが考えられます。ひとつは、安倍総理が体調不良等で総理を続けられなくなる場合。過去にも第1次安倍内閣を体調不良で投げ出した過去がありますし、抱えている病気は完治は難しいもののようなので、可能性はないこともないと思います。そうした場合、次を担う政治家があまりはっきりしていないので、自民党内に権力闘争が生じる可能性がありますし、総理になった後も安倍総理ほどの人気を得られなければ、事態は動き始めるでしょう。もうひとつは、もうこうなったら徹底的に自民党に勝たせて300議席どころか350でも400でも取る日が来たら、事態は動き始めるかもしれません。戦うべき力のある野党がいなくなり、肥大化しすぎたら、自民党自身が割れるという可能性は十分あるのではないかと思います。憲法改正等で慎重な公明党に与党でいてもらう必要性もなくなり、政権から追い出すなんてことも起こるかもしれません。公明党が野党に戻り、選挙協力を野党とするようになれば、選挙は接戦になる可能性もあります。今は、選挙のために公明党と喧嘩しないようにしていますが、自民党が自党だけで勝てると自信を持てば、そうなります。自民党が傲慢さで自滅するというパターンです。

結局、自民党内のアクシデントと自失を待つという戦略しか立ちません。私は安倍内閣を全面否定するつもりはありませんが、批判が封じられる世の中ではいけないと思います。自由闊達な議論ができなくなっている自民党は、われわれ国民の意見を反映している政党と言えるのでしょうか?

624号(2017.3.25)プライド不要論

 プライドって何だろうと最近時々考えます。「プライドを持とう!」なんてフレーズもしばしば聞きますが、一体どんな場面でプライドを持つことが有用なのでしょうか。他によく聞く使われ方としては、「プライドが高い」「プライドが許さない」「プライドを捨てろ」といったところでしょうか。じっくり考えていると、「プライド」というものは、「意地」や「面子」とあまり変わらず、成長を妨げる役割しか果たさないものになっているのではないかという気がしてきます。特に、若い大学生くらいの世代の持つ「プライド」などというものは、マイナスにしかなっていないと思います。大学生はまだ何者にもなっていません。知識も経験も少なく、これから様々なものを吸収し変わっていかなければならない大学生が「プライドが高い」なんて言っているのを聞くと、「それじゃ、だめだよ」としみじみ思います。20年ちょっとの人生で作り上げた自己像を妙に肯定しすぎて、自らの弱点や欠点を指摘されると謙虚に受け止められず、そういう指摘をする人を避けようとするという態度では、自らを成長させることができません。逆に言うと、そういう時に、妙なプライドにこだわらず、自らをさらけ出し、批判も謙虚に受け止められる人は伸びます。「プライド不要論」を唱えたいと思います。

623号(2017.3.20)安倍1強体制が生み出す腐敗の構造

 相変わらず、森友学園問題がくすぶっています。安倍昭恵総理夫人が安倍総理の名前で100万円寄付したという話を籠池理事長が発言したため、それまで国会での参考人招致すらしないと言っていた自民党が急に偽証罪にも問われる可能性があるより厳しい証人喚問を実施することを提案し、行われることになりました。自民党としては、いかに籠池理事長という人物が嘘つきであるかをイメージ付けようとするつもりでしょう。建築費用を3種類も作っていたことなどは完全に虚偽なので、自民党はここをしつこく追及することでしょう。一番腹を立てている風を装っている安倍総理からの寄付金問題に関しては、証拠は何もないではないかということをイメージ付けるだけで終わりでしょう。たぶん、あの寄付金は提供されている気がしますが、領収書も切っていないし、その時の会話の録音でもなければ、安倍昭恵氏が渡したことは実証されないでしょう。奥さん同士のメールやり取りがあるようなので、そこにもしかしたらこの寄付に関してお礼のメールのやりとりがあったとかなったら、また事態は変わるでしょうが。

 結局、籠池理事長と安倍晋三総理には特別な関係はない、籠池理事長やその家族は嘘つきであるという印象付けをして、自民党はこの問題を終わりにしたいというのが本音でしょう。しかし、前にも書いたように、8億円もの値引きも、その取引経緯を記した記録がすべて破棄されていることなども、あまりにも異例ですし、当時の関係者である官僚等の参考人招致は絶対認めないという姿勢を自民党が取っているのも、いかにも隠したいことがあるということを感じさせます。隠したいのは、日本会議を中心とした保守派ネットワークが機能して、この保守系の小学校を多少無理してでも創らせてしまおうとしたという事実でしょう。安倍総理が直接関わっていたかどうかはわかりませんが、思想的には籠池理事長と安倍総理は近い立場にあり、それを応援する空気はおおいにあったはずです。官僚たちも、政治家の働きかけもあったかもしれませんが、なくても総理夫人が名誉校長を務め、「安倍晋三記念小学校」という名称で寄付金集めをしていると聞けば、「忖度」するのは当然だったろうと思います。この辺を突かれると、安倍内閣にとって痛手になるので、そこまでこの問題を深入りさせずに、「大噓つきの籠池理事長の事件」というイメージで収めたいというのが自民党の狙いでしょう。

 ここまでずっとニュースを見てきて一番思うことは、自民党は昔より自浄能力がなくなっているなということです。中選挙区時代に政権を維持し続けていた自民党の場合は、こういう政治がらみの怪しい事件が起こると、党内の反主流派が異議申し立てをして、場合によっては、内閣辞職にまで追い込み、新たな総理の下での内閣を作り直すということがしばしば起こったものです。今は党内の異論はほとんど聞こえてきません。石破茂と船田元がちょっと異なる発言をしていますが、党内ではまったく大きな声になりません。55年体制の下で37年間も自民党が政権を維持できたのは、この自民党内での権力闘争が実質的な政権交代的な意味を持っていたためです。しかし、今や小選挙区制になり、自民党内での総裁の権力は非常に強いものになっています。大衆の支持指標である内閣支持率が落ちない限り、安倍総理に逆らうことは百害あって一利なしです。政権交代をめざし対抗すべき民進党は相変わらず不人気のままですから、安倍1強体制はなかなか崩れそうにありません。

 55年体制の頃に、「政官財の鉄の三角形」という言葉がありました。これは、自民党の政治家と中央官庁の官僚と財界とががっちりと結びついていることを示す言葉で、この関係があったがゆえに、汚職などもしばしば起こったものでした。自民党が常に政権政党であり続けるので、官僚も、財界・業界・有力企業も、自民党内部の「族議員」と呼ばれる有力政治家に話を通すことで、関係法令の国会通過を容易にしていました。当然、その政治家の働きに対しては様々な形で見返りがあり、それが政治腐敗となり、これを正すために、政権交代が起こりやすくなる小選挙区制が導入されたのです。そして、実際に2009年の総選挙で民主党が勝ち、政権交代が起きたわけですが、寄せ集めで急に肥大化してしまった民主党は、その政権交代の意義を活かす前に政権を失い、国民に「政権交代はもういい」という気分を引き起こしてしまいました。

 こうして、一見するとかつての自民党政権に戻ったようですが、選挙制度が違うゆえに、まったく違う状況になっています。まるで安倍独裁政権のようです。安倍総理に不利になるようなことをする人間は抹殺されるかのような状況です。森友学園問題くらい安倍総理の周りでおかしなことがいろいろ起きている状況証拠が揃っているのに、これで政権が揺らぎもしないなら、今後ますます安倍総理を中心とした権力にすり寄っていく人間は増えそうです。自浄能力のなくなった政党による政権交代なき政治は、民主主義の危機です。「アベ政治を許さない」という標語には疑問を呈した私ですが、「安倍1強体制には疑問を持とう」とは言いたいと思います。

622号(2017.3.6)ワーク・ワイフ・バランス

 先日、第1回片桐“社会学”塾で、「ワーク・ライフ・バランス」について議論をしました。学生たちとは何度も議論してきたテーマですが、16人中15人は社会人という環境ではやはり話される内容が違ってきます。唯一の現役学生が「社会人のみなさんにとって、ワークではないライフはどういうものでしょうか?」という質問をしたのですが、その場にいた社会人の多くが、「仕事が楽しいし、やりがいも感じているので、仕事と100%離れたライフとかあまり思いつかないなあ」という発言をし、現役学生は「そういうものなのですか。今の僕には想像がつきませんが……」と頭を抱えていました。ある40代の社会人が「若い時は指示・コントロールされる立場で、そういう時の仕事はしんどく思うので、仕事と関係のないライフを、そしてそれを実現する休暇を確保したいという気になるものだが、ある程度歳を取って会社の中でも仕事をコントロールする立場になると、仕事が楽しくなり、それ以外のライフを求める比重が下がってくると思う」という発言をしたのですが、非常に説得力がありました。

私も仕事が趣味みたいなもので、仕事以外のライフは何かと問われても、いつも何も思いつかないタイプなのですが、そういう風に仕事を楽しいものとして受け止められているのは、私の仕事が他者からの指示でやらされているものではないからなんだなということに改めて気づかされました。また、転職する前の職場では有休をフルに使っていた社会人が、「今は仕事が楽しいので、そんなに休暇が欲しいとは思いません」と発言していたのも、同じ論理で説明がつくのだろうと思いました。

教室で議論しているときはそんな感じで話はまとまったのですが、その後懇親会に移って一杯飲みながら話していたら、ある社会人が「ワーク・ライフ・バランスはそんなに気にしていないが、妻の機嫌とかはすごく気にしているので、『ワーク・ワイフ・バランス』は重要だと思う」と発言したところ、教室では仕事が苦ではないと言っていた社会人の多くも「それはある!」と大多数が同意していました。確かにと私も思いました。「亭主関白」なんて夫婦関係が許されなくなった今、仕事をする既婚男性にとって大事なバランスは、仕事と妻の機嫌とのバランスなのでしょう。仕事も飲みに行くことも、すべて妻の機嫌を秤にかけてうまくバランスを取りながらでないといけない時代になっているなあと改めて感じました。

既婚女性の方はどうなんでしょうね。既婚女性も夫の機嫌を気にしながらバランスを取っているのかもしれませんね。この日単独で参加した既婚女性たちも、ご主人の許可を得て来たとか、子どもを寝せてから来たために遅刻し、さらには夕飯の支度のために早退するといった方もいましたので、やはり夫に気を遣ってはいるんでしょうね。ただ、既婚男性の場合が「仕事と妻のバランス」なのに対し、既婚女性の場合は、仕事ではなく「趣味的な楽しみと夫のバランス」になっている感じがします。既婚男性たちと同じくらい仕事が楽しいと言えるような立場に立たせてもらえる既婚女性が少ないことがその原因かもしれません。逆に見れば、仕事と人をコントロールする立場に立っている既婚女性なら、多くの既婚男性と同様、「仕事と夫のバランス」に気を遣わなければならなくなっていることでしょう。ただ、あまりそういう人は多くなさそうなので、「ワーク・ハズバンド・バランス」という言葉を作っても、「ワーク・ワイフ・バランス」ほどには浸透しなさそうです。

しかし、「ワーク・ライフ・バランス」ではなく「ワーク・ワイフ・バランス」を取らなければというほど、仕事に充実感を持っている人ほど、定年になって仕事がなくなった時は、秤の片側に乗せるものがなくなるので、妻だけに比重を置こうとして、たぶんめちゃくちゃ嫌がられそうです。1980年代に、定年後の男たちが「粗大ごみ」や「ぬれ落ち葉」などに喩えられたのも、そういうことだったのかもしれません。ただし、あの頃そう呼ばれた男たちは高度経済成長期を支えた世代で、一番家庭を顧みなかった「亭主関白」世代だったために、それまでの恨みを込めて冷たくされたということだったのかもしれません。その意味では、40歳代という、仕事に脂がのって一番充実している時期に、ちゃんと妻の機嫌を伺いながら暮らすというのは、先々のことを考えても賢明な判断だとも言えそうです。「ワーク・ワイフ・バランス」をきちんと取ることが、今の時代の既婚男性には不可欠なことのようです。

621号(2017.3.1)ブラシンジ2〜京都・御土居を巡る〜

 久しぶりの散策ネタです。京都の御土居を巡るというのは、まさに「ブラタモリ」の影響です。昨年ブラタモリで紹介されていたので、私も歩いてみようと思いました。御土居とは、豊臣秀吉が京都の防備を固めるために、京都の町を囲むように22.5キロメートルにも渡って築いた堀と土塁のことです。堀はほとんど失われていますが、盛り土をした土塁の方は場所によっては残っていて、それが「史跡・御土居」となっています。北辺部がよく残っているところが多そうだっだので、その辺を巡ってみることにしました。

でも、御土居だけではちょっと地味すぎるかなと思ったので、上賀茂神社(写真左)をスタート地点にしてみました。上賀茂神社は山城国一の宮です。祇園祭よりも昔から行われている葵祭はこの神社の祭ですし、他にも曲水の宴や、「埒が明かない」の語源となった競馬が行われる場所だったりした非常に由緒のある神社ですが、京都市内では結構北の方にあるので行ったことのある人は意外に少ないかもしれませんね。さて、上賀茂神社を出て、賀茂川を渡り堀川通に入ってすぐのところに、まず最初の御土居の史跡があります。3メートルくらいの高さで長さもわずかなのでその後に見られる御土居史跡と比べると小さいのですが、最初に見たせいもあり、「おおっ、まさに御土居だ」と感動しました。そこから西南西方向にジグザクと進んでいくと、大宮交通公園にたどり着きます。この公園の中に、史跡には指定されていませんが、100メートルくらいの長さの御土居が残っています。この御土居の前には鳥居が造られており、御土居自体が信仰の対象になっているようです。

大宮交通公園を出て西に歩いていくと、約250メートルに及ぶ第2の御土居史跡(写真右)にぶつかります。これは、今残っている御土居の内もっとも原型をよく残しているところで、北側には堀跡も見られますし、御土居の高さも相当高くこれなら簡単に攻め込まれないだろうなと想像が容易にできました。そこから、今度は南に下るとすぐに右手に招善寺という浄土宗のお寺が出てきます。まったく知らない寺院でしたが、せっかくだから寄ってみようと思って中に入らせてもらうと、よい石庭があって風情がありました(写真左)。お金を取らないで見られるこんな寺院があるとは、とちょっと得をした気分でした。招善寺を出てしばらく南に向かった後、今度は北西に向かうと大宮西野山児童公園にぶつかります。そこの中の急な階段を昇って上の道にあがります。そこは御土居の上に町ができたところで、「旧土居町」という地名になっています。御土居の端は一気に下がるので、一部は急坂にもなっています。南御土居町を西南西に歩いていくと鷹峯街道とぶつかりますが、そこに3つ目の御土居史跡があります。この御土居もかなりの高さがあります。御土居町から見てかなり高いわけですから、このあたりの御土居は相当に高さがあったのだろうと思います。

P3011560 (640x480)鷹峯街道をしばらく南に下った後、少し西に折れると、御土居史跡公園に着きます。公園といってもそれほどきちんと整備されているわけではないですが、御土居の高さを実感できます。公園を出て、鏡石橋を渡って鏡石通に向かいます。途中に、一條天皇・三條天皇火葬塚があります。天皇は、みんな火葬せずに埋葬されていたのかと思っていましたが、火葬された天皇もいたんですね。鏡石通は風情のある小道でそのままぶらぶら歩いていくと、金閣寺(写真右)に着きます。御土居はたっぷり堪能しましたので、最後に、せっかくですから金閣寺を見ていくことにしました。

金閣寺は3回目くらいのはずですが、本堂の印象が強すぎるのか、境内の他の場所は過去の記憶がまったくなく、今回が初めて見るような感じでした。この日の散策はずっと渋いところばかり回ってきたので、上賀茂神社をでてから日本人の一般観光客にすらほとんど出会っていなかったのですが、金閣寺に来た途端、67割は外国人観光客でした。当たり前と言えば、当たり前なのですが、こんなに外国人観光客がいるんだなと改めて驚きました。外国人観光客が増えることは決して悪いことではないのでしょうが、そこに交じってしまうと、なんとなく自分も浅い知識の観光客に成り下がったような気がしてしまいます。知識人を自負する人間のくだらない感情ですね。反省します。でも、金閣寺はやはり美しかったです。外国人は、いや日本人も見たいと思うのは当然です。いいものはいいと素直に認めたいと思います。

 「上賀茂神社→御土居巡り→金閣寺」は、なかなかいいコースです。歴史好きで足の達者な人にはお勧めです。

620号(2017.2.28)森友学園問題

 この問題に私が気付いたのは29日のことでした。朝日新聞朝刊(大阪版)の社会面に、「国有地の売却額 非公表」という見出しの7段抜きの記事を見た時でした。読みながら、これはかなり怪しいなと思いましたが、数日間はテレビ等では取り上げないので、やはり安倍首相がらみのことは封印されるのかなと思っていました。しかし、国会で取り上げられるようになってからは、毎日のように報道されるようになりました。さすがに抑えきれなかったのでしょうね。

 この問題は明らかにおかしいです。何らかの政治的力が働いていなければこんな契約は説明がつきません。随意契約で近隣地の1割程度の価格で売り、その支払い方も分割でよく、契約に至る面談記録等はすでに破棄されていて、売却額をその年の国有地払い下げ地の中では唯一非公表にするなんて、状況証拠的には完全にクロです。ドラマや小説なら完全に事件として成立していて、犯人探しが始まる展開です。そして、この小学校の名誉校長が安倍首相の妻・昭恵氏だったのですから、安部首相への特別配慮がこうした前例なき特別契約を生み出したと考えるのが当然です。

 安倍首相本人は、「自分も妻も一切関わっていない。もしも関わっているなら、総理も議員もやめる」と言い切っていましたので、直接的には関わっていない可能性が高いのだろうと思います。しかし、側近や関係者が、安倍晋三の名前を出して、財務省に圧力をかけたという事実は必ずあったはずです。そうでなければ、とうてい理解できない契約です。まあ財務局は絶対に口を割らないでしょうから、圧力などなかった、すべて正規の契約に基づいているという回答で逃げ切ろうとするでしょう。世論的には完全にクロですが、法的にはシロになることは十分ありえます。せいぜい、森友学園の小学校認可を大阪府が却下して、いずれ幼稚園もなくなり、学園自体が消滅することで矛を収めようとするのではないかと思います。(昨日あたりから、森友学園の教育内容の偏りがずいぶん取り上げられるようになっていますが、そちらに関心が移れば、財務省はほっとするでしょう。)

 しかし、首相本人が直接の働きかけをしていなかったと言っても、妻が名誉校長を務め「素晴らしい教育理念だ」と述べ、自分の名前を使って寄付金集めをされていたことに、国会で問題にされるまで抗議もしていなかったのですから、関係者が「この学園は安倍首相が肝入れしている学校だ」と考えるのは当然です。そういう風に思われている時点で責任は十分あります。不人気の首相だったら、この問題で辞任に追い込まれてもおかしくないと思います。しかし、今の安倍首相は、党内にライバルもおらず、世論調査での内閣支持率は高いままです。自民党の中でも、この問題は首相をやめさせるほどの大問題ではないという位置付けでしょう。何か他に大きな事件でも起こったら、人々の関心もこの問題から薄れるだろうと、財務省も自民党もたかをくくっているような気がします。

安倍首相は、201911月まで首相を続けたら、戦前からも含めて歴代最長の総理になれるそうです。2020年の東京オリンピックまではやる気満々でしょうから、来年12月までには必ず行われる総選挙に勝てば、その可能性は十分です。そこまで素晴らしい首相だとはとうてい思えないのですが、小泉首相がやめた後の政局の混乱・不安定さが、とりあえず見た目がよく大きな失敗をしない政治家に長く安定的に政権を維持してもらうのがよいという空気を生み、それが安倍首相にとっては大きなプラスとして作用しています。この森友学園問題は、9割以上の国民がおかしいと思うでしょうが、じゃあこれで安倍首相はやめるべきだと思うかというと、そう思うという人は23割もいないでしょう。この問題を乗り切ったら、さらに安倍首相は盤石になりそうです。

唯一これで少しやりにくくなったのは、安部首相が今年ぜひやろうとしていた憲法改正発議でしょう。森友学園の幼稚園児たちがやらされていることを見たら、安倍首相や日本会議がやりたがっている保守化の方向に乗るのは嫌だという思いが国民の中に増したでしょう。歴代最長政権をめざすなら、憲法改正の発議はしない方がいいはずですが、そんな事なかれ主義で政権維持を考える安倍晋三は支持できないという動きが逆に保守派から出てくることも考えられなくはないです。こうやって考えると、この森友学園問題は、安部首相にとって、やはりなかなか厄介な問題だとも言えそうです。

619号(2017.2.24)すぐに消えるプレミアムフライデー

 今日から月末の金曜日は、仕事を3時に切り上げるという「プレミアムフライデー」という制度(掛け声?)が始まりました。世耕経産大臣が頻繁に出てきて宣伝しているので、経産省の肝入りなのかもしれません。しかし、こんなものは長くて2年もしたら、もしかしたら1年後にはもうすっかり忘れされているだろうと思います。働ぎすぎを改善し、金曜日の夜に消費活動を積極的にしてもらおうというのが狙いだそうですが、現実社会が受け入れる素地はまったくありません。国が音頭を取っているので、とりあえず役所などは導入しようとするかもしれませんが、役所に金曜日の3時で業務を終えられたら、住民は不便になるだけです。企業もこんな「制度」を導入できるのは、会社にいなくても仕事ができるような業種だけではないでしょうか。とりあえず、今日は試しにやってみた会社もそう遠くないうちに、こんなものには付き合わなくなるでしょう。金曜日が3時までしか仕事ができないので、木曜日は夜遅くまで残業をせざるをえないというようなことも十分起こりそうです。まったく意味のない、定着可能性のない掛け声だけの新制度です。そう言えば、何年か前に、金曜日はスーツにネクタイではないラフな格好で仕事をしようというようなことも普及させようとしていた時期がありましたよね。なんて言ったでしょうか?「カジュアルフライデー」とかだったでしょうか?その頃は、紳士服売り場にカジュアルに着ていけるファッションが売られていたような気がしますが、まったく定着しなかったので、名前すら思い出せません。この「プレミアムフライデー」も確実に同じ運命をたどります。

 働き方改革は必要だと思いますが、こんな形ではなく、残業の大幅な削減と有給休暇取得の義務化などをもっと徹底させるべきです。サービス残業は当たり前、有給休暇は取りにくいという社会慣習こそ変えるべきですし、それを本気で変えようとする制度を打ち出したら、必ず支持されるでしょう。まあ、これも簡単ではないとは思いますが、効果が絶対に出ない「プレミアムフライデー」とかを大宣伝している暇があったら、もっと頭を使ってほしいものだと思います。

618号(2017.2.16)衰え

 「マリアンヌ」という映画を観てきました。本来なら、「本を読もう!映画を観よう!」のコーナーに書くべきところですが、映画の紹介や感想以上に書きたいことがあったので、こちらのコーナーで書くことにしました。映画は、第2次世界大戦中のフランス領モロッコから始まります。フランスはこの当時ドイツの占領下にありましたので、実際はドイツの支配下にある都市だったわけです。ここに、ブラッド・ピット演じるイギリス軍将校が密命を帯びて潜入し、同じく潜入していたマリアンヌという女性スパイと協力して、ドイツ大使を殺害し、その後2人は恋仲となり夫婦になり、子どもも生まれます。しかし、マリアンヌには秘密があり、それが明らかにされるかどうかがこの映画のストーリーの核になっています。最後までどうなるのかとドキドキさせる展開でなかなか見応えのある映画でした。

 さて、ここで書きたくなった理由ですが、まず第1に、映画の中の銃声――特に最初のドイツ大使が撃たれる場面――に心臓が過敏に反応し、その後ずっと心臓が収縮したような状態のまま映画を観、終了後も30分ほど正常な状態に戻らなかったことです。ちょうど前号で書いた「飛行機恐怖症」の時の心臓の状態の軽度なものでした。どうも心臓が弱くなっているような気がします。若い時はこんなことはなかったので、やはりこれが年齢に伴う衰えなのかもしれないと思わざるをえません。昔、力道山のプロレスを見てショック死したおばあさんがいたのですが、その時はそんなことあるのかなと思っていましたが、やはり年とともに心臓の働きは弱くなるということを、この頃実感させられています。

 そしてもうひとつ。実は、この映画は私にとって久しぶりの字幕スーパーの映画でした。最近邦画や洋画も吹き替えで観ることが多くなり、映画館で字幕スーパー映画を観たのは半年ぶり以上でした。それで、何が起きたかというと、脳がすごく疲れてしまい、その晩は疲れで早く寝てしまうくらいの状態になりました。なぜこんなに疲れたかというと、映像と字幕と俳優が語る英語を同時に全部理解しようとしたことによる疲れです。この疲れも昔はなかったもので、以前は映像と字幕とセリフは自然に融合して頭に入ってきてなんなく消化できていたものでした。それが今や3つの作業を同時にやらなければいけないということを脳が意識するようになり、すごく大変な作業となり疲れ切ってしまったわけです。

実は、以前は自然にできていたことができなくなってきたという、こういう実感をもつのは初めてではありません。それは、マンガに関してです。マンガも若い時によく読んでいた時には、絵と吹き出しが同時に情報として入ってきて自然に統合できていたのですが、30歳代半ばくらいから子育てが忙しくなり一気にマンガ離れをしてしまってからは、久しぶりに読もうとすると、「絵を見ながら文章を読む」という二つの作業を無理にやる感じになってすごく疲れるようになってしまったのです。これも、昔母親が「マンガは絵と文字を両方見なければいけないから疲れる」と言っていた時にはまったく共感できなかったのですが、今や「まさにその通り」という気分です。

 脳は多数の情報を取り込んで瞬間的に統合理解し、それに対する対応をする臓器です。若い時はやはり脳の働きがいいのでしょう。様々な情報があっという間につながって適切な対応を一瞬で出しますし、それに特に疲れも感じません。しかし、歳を取ってくると、この情報統合のスピードが落ちるというか、つながりにくくなるというか、ともかく脳の動きが悪くなり、疲れやすくなり、さらに疲労回復も遅くなります。車の運転なんかも視覚情報、聴覚情報、運動機能をすべて一瞬の間につなげていかなければいけない作業なので、歳を取ってくるとしんどさが増してきます。そう言えば、今や長距離運転した後の脳の疲れは運転した時間と同じくらい休まないと回復しなくなっている気がします。車の運転ももうあまり長い距離はやめた方が良さそうです。

 教え子から若いと言ってもらうことが多い私ですが、確実に衰えているなと感じる私の心臓と脳です。ただし、心臓はごまかしがききませんが、脳の方は長い時間をかけて詰め込んだ知識の引き出しは若い人の何百倍もありますので、通常の研究・教育・行政といった大学教員の業務に関してはまだまだいくらでも対応はできます。同時に複数の情報を処理しなければならない状況への対応が遅くなっているだけですので、うまく整理して優先順位をつけられる業務であれば余裕をもってこなしていけます。ということで、そんなに心配しなくていいですよ。自らの状態をなるべく正確に把握して、無理なく対応できるように準備するのが私の信条ですので、こういう自己分析も実益を兼ねた趣味みたいなものです。「衰え」などというタイトルでちょっと心配させたかもしれませんね。すみません。でも大丈夫ですので、ご安心ください。まだまだ元気です。無理せずに自分の状態に合わせて適切に走りますので、ついてきてください。

617号(2017.2.8)飛行機恐怖症

 高所恐怖症とか閉所恐怖症とか、様々な神経症があることは知っていましたが、自分はあまりそういうことには関係がない方だと思っていましたが、今回久しぶりに飛行機に乗って、自分が「飛行機恐怖症」になってしまっていることに気づきました。もともと飛行機はあまり好きではないのですが、さすがに遠距離に行くときには使わざるをえません。今回鹿児島で地方入試の担当になったために、4年ぶりくらいに飛行機に乗りました。行きもそれなりに緊張感はあったのですが、それでも鹿児島空港の近くまでは順調に飛び、「着陸に向けて高度を下げていきます」という放送があり、実際に高度を下げていったので、「ああ、もう着くな。意外と大丈夫だったな」と安心しきっていたのですが、急に飛行機が再び機首を上げ高度を上げました。機長の説明では、「雲が低いところまで降りており、チェックポイントで滑走路が視認できなかったため、着陸を取りやめ、上空を旋回しながら、雲が切れるのを待ちます」という話でした。スピードのある飛行機ですから、旋回してもせいぜい10分後くらいには再度着陸を試みるのだろうと思っていましたが、なんと30分以上も旋回をしていました。そしてようやく再チャレンジする際も「もしかしたら、またやり直す可能性もあります」という放送が流れたので、もうびくびくものでした。結局、この再チャレンジで私の乗っていた飛行機はなんとか着陸することができたのですが、後で聞いた話では、同じ日に神戸発鹿児島行きの飛行機は2度着陸をやり直し、燃料切れの恐れが出てきたため、いったん長崎空港に行き、そこで給油をして3時間遅れでようやく鹿児島空港に到着したそうです。

 そんな話を聞いたものですから、帰りの飛行機に乗る際には乗る前から強い緊張感があり、1時間ちょっとのフライトの間、心臓が収縮する感じがずっとあり、冷汗をかき続けていました。本を読んだり、音楽を聞いたり、飛行機事故の死亡率は確か自動車事故の死亡率よりも低いはずだと、自分に必死で言い聞かせたりしていましたが、ダメでした。頭の中で、「もしもこの飛行機が落ちたら確実に死ぬんだな」とか「なんでこんな金属の塊が空中に浮かんでいられるんだろう」とか、「1985年の日航ジャンボ機墜落の時はどんな状態だったんだろう」とか、嫌なことばかり頭に浮かんできて、文字通り真っ青な顔をしていたと思います。座っていたので、意識は失いませんでしたが、立っていたら、確実に貧血を起こして倒れていただろうという身体的不調を引き起こしていました。もちろん、飛行機は無事に着陸をしたわけですが、私の心臓が正常な状態に戻るには、着陸から2時間以上を必要としました。「ああ、これが恐怖症というものか」と初めて実感しました。極度な不安という心理的な状態――厳密に言うと、脳なのでしょう――が、身体に強い影響を与えるわけです。昔、中学くらいの長距離走を走る前とかにお腹が痛くなるという身体偏重の経験はしていましたが、心臓に来てしまうという症状とは比べ物にならない軽微なものでした。

 今どき、飛行機なんて、みんなが普通に使っている乗り物で、そんなものを怖いと思うのは極少数なのでしょうが、1度そう思ってしまうとだめですね。なんか簡単に克服できなさそうな気がしています。われわれの世代は、上にも名前を出した「1985812日の日航ジャンボ機墜落事故」が強烈な印象として焼き付いています。そのせいで、私は日航機がより怖くなっているので、全日空を選べるなら、全日空をいつも選んでいます。でも、全日空機でも、もちろん気流に舞い込まれたりしたら、揺れます。そのたびに、自分の中では「落ちるのでは?」という恐怖感にすぐつながってしまいます。これが、まさに恐怖症なのでしょうね。

 ちなみに、鹿児島空港は海抜200mの高さにあり、霧が出やすい空港だそうです。東京や沖縄から鹿児島をめざした飛行機が着陸できなくてUターンしたということもあったそうです。空港の近くには霧に浮かぶ島のように見える霧島連山もあるわけですから、そもそもこの空港の立地は間違っていたのではないでしょうか?まあ、それはともかく、人生で初めてかかってしまった恐怖症をなんとか克服しないといけないですね。なんかいい方法はないですかねえ。

616号(2017.1.29)男性のワーク・ライフ・バランス

 ワーク・ライフ・バランスというと、主として女性が仕事と家庭をいかに両立させるかという話だと思われがちですが、男性のワーク・ライフ・バランスもきちんと考えられるべきでしょう。先日、この春卒業する男子学生たちに、「4月から働き始めた時に、自分のワーク・ライフ・バランスを保つために、ここだけは譲れないというのはどんなことか?」と聞いてみました。ある子は「夕飯はちゃんと落ち着いて食べること」、そして別の子は「夜は横になって寝ること」と答え、「なんか、俺たち生存権の主張しかしてないな」と言って苦笑していました。「ワーク・ライフ・バランス」は通常「仕事と生活のバランス」という意味ですが、彼らにとって「ワーク・ライフ・バランス」は「仕事と生命のバランス」になっているようです。「ブラック企業」「サービス残業」「過労死」なんて言葉を毎日のように聞いている間に、これから働こうという若い学生たちの中には覚悟が出来すぎてしまった人もいるのかもしれません。アニメ好きな子で「年に1回はコミケに行くこと」という回答をした子がいましたが、そういう趣味があると、「ワーク・ライフ・バランス」もわかりやすくなります。

 翻って、私の「ワーク・ライフ・バランス」はどうなのだろうと考えてみました。夕飯をゆっくり食べることや夜横になって寝ることはちゃんとできていますが、それだけで「ワーク・ライフ・バランス」が取れているとは思えません。趣味はというと、これがまったくないんですよね。強いて聞かれた時は、「教育が趣味」と言ったりしています。教育は、私にとって仕事でもありますが、楽しみでもあり、「教育が趣味」という回答は決してタテマエではありません。特に、ゼミ生の教育に関しては、一番力を入れる仕事でもあり、彼らの成長が見えたり、思いが伝わってきたりすると充実感がありますし、飲み会や合宿で楽しい時間を過ごせたら、これこそ自分にとっての楽しみだと実感します。また、卒業後も付き合うことができて、幸せな人生を歩んでいる姿を見せてくれたり、よき友人となり、楽しくお酒を酌み交わすなんてこともできたりしているので、すべては大学時代の教育が原点だと改めて感じます。

 もちろん、家庭もありますし、子も孫もいますので、そうした私生活も大事ですが、仕事をし、家庭をきちんと維持しているだけでは、「ワーク・ライフ・バランス」が取れているという気にはなれません。「ライフ」には「楽しい時間を過ごすこと」という意味が含有されているべきだと思います。自分と自分が守らなければならない家族の生活を維持できる収入を稼ぎだせることと楽しい時間を過ごせること、その両立が私の考える男性の「ワーク・ライフ・バランス」です。それが、すべて「教育」から生み出せたら、私としては最高の人生ですが……。

615号(2017.1.23)稀勢の里の優勝をひとひねりして考える

 ようやく稀勢の里が優勝しましたね。まだ幕下の頃、萩原というしこ名で出ていた頃から注目していましたので、私にとっては長い成長物語がようやく完成に近づいた気がします。日本中が「ようやく稀勢の里が優勝できた」「ついに横綱だ」「日本出身の横綱は19年ぶりだ」と喜んでいます。当然だろうなと思いますが、「よかった、よかった」と私も書いているだけでは、せっかくこの「つらつら通信」を読んでくれる数少ない読者の期待に応えられないでしょうから、少しひねってメディアが取り上げないようなことを書いてみたいと思います。

 まず、稀勢の里という力士に関して、「実力はあるが、精神力が弱くて、なかなか優勝のチャンスがつかめなかった」という人がたくさんいますが、私は稀勢の里の精神力が弱いとはまったく思いません。相撲の質――言い換えれば実力――に不十分さがあるために勝ちきれなかったと考えています。腕力を含む上体の力は現在のどの力士よりも強いと思いますが、足が長く腰高になりやすい癖が抜けないのが取りこぼしやここ一番で負けてしまう原因です。今場所は141敗という好成績で優勝しましたが、負けていてもおかしくない紙一重の勝負は何番もありましたので、この問題点はまだ克服されていないと思います。これから横綱になりますが、12勝、13勝という横綱として合格点のつく安定した成績は残すでしょうが、全勝できる相撲ではないと思います。しかし、稀勢の里のこの相撲のタイプはもう今更変わらないでしょうから、横綱になっても、かつての白鵬のような圧倒的な強さを誇る横綱にはならないでしょう。まあ、そこがまたはらはらさせて人気を維持するのかもしれません。顔の雰囲気や力任せの相撲という意味では、かつての力士で言うと、北の湖タイプで、憎まれ役のタイプです。北の湖は一時強すぎて、輪島や貴ノ花といったシュッとした人気力士のライバル「ヒール役」となり、「北の湖、負けろ!」とか言われたものですが、今は周りがモンゴル出身の横綱ばかりですから、あの顔と相撲でも稀勢の里は「ヒール役」にはならないでしょう。でも、本当は「稀勢の里、負けろ!」と言われるくらいの強い横綱にならないといけないのではないかと思うのですが。

 次に、稀勢の里の所属部屋が「鳴門部屋」から「田子ノ浦部屋」になっていることについてです。昨日からのメディアの報道を見ていても、元横綱・隆の里の前鳴門親方の指導のおかげだったと稀勢の里自身も言い、キャスターもそう語っていますが、現在の稀勢の里の所属は「鳴門部屋」ではなく「田子ノ浦部屋」です。なぜこうなっているかというと、稀勢の里の兄弟子にあたる隆の鶴が、前鳴門親方が急死した後、鳴門部屋を継いでいたわけですが、当時は親方株の所有権は前鳴門親方夫人が持っていました。その後、二人の間で所有権移譲について話がまとまらなかったようで、隆の鶴は、急死した田子ノ浦親方(元・久島海)の株を入手して、力士を連れて旧鳴門部屋を出て、名跡変更して田子ノ浦部屋を創設したのです。力士はどこかの部屋に所属していないと本場所に出られませんから、稀勢の里ら力士は、この段階で田子ノ浦親方となった隆の鶴についていかざるをえなかったわけです。ちなみに、隆の鶴が田子ノ浦部屋を創る前に存在していた田子ノ浦部屋の力士は、春日野部屋と出羽の海部屋に分かれて移籍したそうです。こんなごたごたがあったせいなのか、昨日から現在の師匠である田子ノ浦親方のコメントなどは一切報じられていないです。15歳の時から稀勢の里の面倒を見てきた元鳴門親方夫人のコメントなんかも出てきてもよさそうですが、まったく出てこないところに、この問題の複雑さを感じます。

 ちょっと専門的になりすぎたでしょうか。最後にもうひとつ。「日本出身」ということが強調されすぎることへの危惧についてです。昨年の琴奨菊の優勝あたりから、この「日本出身力士」という言い方が広まっています。日本に帰化して日本国籍になっていた旭天鵬の優勝と、同じく帰化していて横綱になった時は日本国籍だった武蔵丸の存在を飛ばすために、この「日本出身」という言い方が使われています。わからなくはないですが、こうした分類の仕方になんの疑問も提示せずに、マスメディアが広めるのは、潜在的にナショナリズム意識を高める効果を引き起こすのではないかと気がかりです。今、世界的に再び「ナショナリズム」が台頭しつつあり、世界戦争の可能性を少しずつ高めつつあります。日本でも「日本」を強調する空気が強まりつつあります。オリンピックへの疑問はすでに書きましたが、大相撲でも最近は、この「日本」強調が多く、気になります。確かに、外国育ちの力士が席巻するのは残念だという気持ちになるのはわからなくもないですが、この日本の神道文化とも深いつながりのある相撲の世界に飛び込み、日本語を覚え、日本の文化になじみ、最高位を勝ち得た外国人力士をもう少し評価してよいのではないかという気がしています。柔道などは、国際化が進む中で、力任せの選手が増え、ルールもずいぶん変わってきましたが、相撲はいくら外国人が入ってきても、彼らがちゃんと相撲文化を学び、適応してくれるので、相撲は基本的な姿を変えずに続くことができています。白鵬をはじめとする外国人力士をヒールにせずにきちんと評価するべきではないかと、今回の稀勢の里フィーバーの中で改めて感じました。

614号(2017.1.20)社会学は面白いよと伝えてください

 このところ、社会学部社会学専攻の人気が目に見えて落ちてきています。関西大学社会学部の4専攻のうち、心理学専攻とメディア専攻はそれなりに人気を保っていますが、もともと何を学ぶ専攻なのかよくわからないと言われていた社会システムデザイン専攻とともに、今や社会学専攻が最下位争いをしている状況です。

 社会学を自分の専門に決めてから40年以上経ち、いまだにこんなに面白い役に立つ学問はないと日々思い、20年ほど前から「社会学の伝道師」を自称している私からすると、この状況は非常に残念です。確かに、心理学やメディアの方が高校生にはわかりやすく人気が出やすいのは理解できるのですが、逆に言えば、大学で学ばなくても独学でもある程度理解できる学問・領域なのではないかと思います。それに対して、社会学は、大学できちんと社会学を教えられる教師から学ばないとなかなか身につかない学問です。そして、社会学が身につけば、自分が生きている社会について、他の人が気付かないことにいろいろ気付けて生きやすくなる有用な学問です。

 しかし、私自身はこんなことはもう何百回も言ってきたし、書いてきたし、オープンキャンパスや高校訪問、出張講義でも語り続けてきましたが、現状は「社会学の危機」になっているわけです。もう私1人で「社会学を伝道する」なんて言っていても限界があるなと最近はしみじみと感じています。で、ひとつ思いついたのが、大学で社会学を学んだ卒業生、そして現在学んでいる現役学生たちに、「社会学は面白いよ。大学では社会学専攻を選ぶといいよ」と広めてもらおうというアイデアです。

 社会学を学んだ多くの学生たちが、「社会学はそれなりに役に立つし、面白い。選んでよかった」と思ってくれています。しかし、それを広めてくれているかというと、あまりやってくれていない気がします。たぶん、社会学は個人的には面白いと思っているけれど、どこが面白いのかとか、社会学って結局どういう学問なのかと問われたりすると、うまく答えられそうにないので、あまり自分から社会学の話をしないのではないかと思います。確かに、そういう思いに囚われやすいのもわからなくはないです。でも、それではせっかくの社会学の魅力が伝わらなくなってしまいます。そこで、とりあえず深く考えすぎずに「社会学は面白いよ。大学で学ぶのに一番適した学問だよ」と言ってみてほしいのです。「社会学を専門に選べば、自分が生きているこの社会について視野が広がり新たな気づきに出会える素晴らしい学問だよ」と。

 社会学を専攻した卒業生・現役生が、これから大学で専門を選ぼうとしている高校生にそう伝えてくれることが一番効果的ではないかと思っています。私1人で社会学を伝道しきれません。みなさん、「社会学のミニ伝道師」になってください。

613号(2017.1.13)「ゆとスマ世代」

 久しぶりに新語を思いつきました。「ゆとスマ世代」がそれです。その定義は、ゆとり教育で義務教育の大部分を過ごし、大学生活においてはスマホ利用が不可欠になっている世代のことです。その世代の特徴は、競争心が弱く協調性が強いこと、与えられた課題はこなすがプラスアルファはしないこと(=ハードルをできる限り低めに設定すること)、軋轢を避け表面的な付き合いを大事にしていること、中身(知識量や思考力)よりも外見を重視すること、長期的な努力が苦手で短期的に結果を求めること、とりあえずそんなところでしょうか。

具体的にどのあたりの世代から、この「ゆとスマ世代」に当たるかですが、私が学生たちを観察している限りでは、2011年度大学入学世代以降が典型だと思っています。「ゆとり教育」は一般には2002年度からの導入なので、その時に中学に入学した世代(大学入学は2008年度)が「ゆとり第1世代」と言われたりしますし、本人たちもしばしばそんなことを言っていました。でも、私はその頃はまだそれほど学生たちが大きく変化したとは感じませんでした。実際、その後3年間くらいの学生たちは、勢いのある子もかなりいて、「ゆとり、ゆとり」と言われるような大きなマイナスポイントは特にないなと思っていました。

しかし、その3年後くらいから、「あれっ、なんか違うな」と思うことが増えてきました。2002年度に小学校4年生になった世代以降です。まあ変化というものは、そんなにくっきりと分かれるものではないので、たまたまなのかもしれませんが、正規授業の一環として行うゼミ合宿はちゃんと参加するけれど、授業の一環ではなく最後の思い出作りのために行う卒業旅行は半分くらいしか参加しないとか、卒論でも自分で納得するものを仕上げるというより、どうやったら私に「怒られない」で済むかばかりを考えているとか、ゼミイベントをやっても特に感想も伝えないという人がかなり目立ってきています。他のゼミではとっくのとうにゼミ合宿すら自由参加のように思われ集まりが悪いとか、卒論はぼろぼろという話は聞いていましたが、厳しく指導する私のゼミでは比較的最近までそういう状態にはならず、卒業旅行もほとんどの人が参加する、卒論も自分なりに精一杯頑張ろうとする人が多かったように思うのですが、最近は「あれっ?」って思うことが増えています。

「ゆとり教育」は詰め込み型教育から、「ゆとり」の時間を作ってそれぞれの個性を伸ばすことをめざしたものですが、実際に起きたことは、突出しないように自らの個性を消し平準化されたルールを守る小さくまとまった「いい子」作りでした。それをさらに加速させたのが、スマホとSNSの普及です。かつてでは信じられないほどのたくさんの「友人」と日常的につながることを可能とし、軽く「いいね!」を押すことで、その表面的なつきあいを維持できるようになり、コスプレでもしてインタグラムに写真をアップすることが個性の表出と理解されるようになってしまいました。SNSで当たり障りない情報交換をするのに慣れてしまい、対面状況でじっくり話すという経験をほとんどしていないために、飲み会をやっても毒にも薬にもならない話に終始します。人間関係を深めるより、その場を当たり障りなく過ごせたらOKという感じで終わります。

そういう場に40歳近く歳の離れた教師が長くいるのはなかなか辛いものです。昔は、「先生、2次会行きましょう!」とか言われて、こちらも会話が楽しく思えていたら「じゃあ行こうか」なんて付き合って飲みすぎになるなんてこともしばしばあったものですが、最近はほとんどなくなりました。1次会を仕事の一環として付き合い、終われば即帰宅します。まあ時代とともに学生が変わりそれに合わせて対応できなければ、「プロ大学教師」とは言えないので、今後もなんとか対応していきますが、「へえー、こんな子がいるんだ」「へえー、こんなアイデアがあるんだ」といった新鮮な刺激に出会うことはどんどん減っていきそうです。

もうしばらくしたら「脱ゆとり世代」が大学に入ってくると思いますが、基本線は変わらないだろうと思っています。教科書の内容が少し増したからと言って、「ゆとり教育」の根幹をなしている「競争より協調」「無理はさせない」といった教育観まで変わったわけではないし、スマホ・SNSの影響力はさらに強まっていますので、「脱ゆとり世代」が入ってきても、「ゆとスマ世代」であり続けるだろうと思います。この状況が変わるとしたら、日本が戦争に巻き込まれるなどの、日本の安定が崩れるような状況が生まれた時でしょう。しかし、私が大学教師でいる間にそんなことは起こってほしくないので、とりあえず「ゆとスマ世代」に対応できる教育観を再構築しなければいけないのだろうなと思い始めています。

612号(2017.1.5)年賀状送付率の推移についての分析

 記録が趣味のような私の意欲が特に湧くのが年賀状です。今年は、学年ごとに、現役時代の2年間、およびその後5年間ごとに、どの程度年賀状を送ってきてくれているかをグラフ化してみました(201714日到着分まで)。やや見にくいかもしれませんので、文章でも説明しておきます。

 まず各学年ごとに1本〜5本の棒グラフが立っていますが、これは「現役時代(2年間)」「卒業後15年目まで」「卒業後610年目まで」「卒業後1115年目まで」「卒業後1620年目まで」ごとに、毎年何%の人が年賀状を送ってくれたかを表しています。なので、上の方の学年である16期生のところは5本立っていますが、若い学年である17期生以降は1本か2本しか立っていません。

 さて、グラフの作られ方についてはご理解いただけたかと思いますので、中身の分析に入ります。まず、年賀状世代ではないはずの16期生以降の現役時代の送付率の高さが目に付くと思いますが、これは私が意識的に「年賀状をぜひ送ってください」と現役生に強く言うようになってきた時期がその頃からだったからだと思います。これ以降の学生さんたちは、現役時代は課題レポートの一種として年賀状を送ってくれているわけです。卒業してからは、その課題から解放され、年賀状を送るのは自由意思になるために一気に減ります。特に、2割未満になってしまう19期生以降は、現役時代はまさに「義務」として年賀状を送っていたのだろうなということが、寂しいですが、確認されるように思います。

 逆に、20世紀中に大学を卒業した1期生から6期生の「レジェンド世代」はまだ年賀状世代だったと言えるでしょう。彼らが現役時代だった頃は「年賀状を送ってください」なんて言っていないだけでなく、返事も正月明けの授業で口頭で済ませるという適当さだったのに、大体半分くらいの人は送ってくれていたわけです。卒業後も減少率は小さく、「卒業後1620年目まで」という大学時代がはるかに遠くなった今でも各学年ともに2割以上の送付率があります。特に、卒業後15年目まで5割超えを維持し(卒業後に、送付率5割を超えたのは4期生だけです)、20年目まででも45%を超えている4期生はさすがという感じです。また、1期生と3期生は、卒業後10年目で下がっていた送付率を、15年目、20年目で上げていますし、2期生と6期生も15年目より20年目の方が送付率が高くなっています。年齢を増すとともに、改めて年賀状の大事さに気づく人が増えているということかもしれません。

 7期生から16期生の世代では、9期生、10期生の健闘が目立ちます。特に、9期生は現役時代より「卒業後15年目まで」と「卒業後610年目まで」の方が送付率が高いという唯一の学年です。ほぼ毎年、夏に恒例で同期会をやっているので、私との距離が遠くなっていないというのが大きな要素になっているのだと思います。10期生と13期生は5年目までで一度落ちた送付率をその後また上昇させています。

 若い方の学年では、卒業後5年目を過ぎても、まだ3割以上の送付率を保っている16期生が希望の星です。ちょうど昭和最後の年に生まれた世代です。このまま「昭和の年賀状文化」を引き継いでくれるとよいのですが……。他の学年も10期生や13期生のように、また徐々に送付率を戻してくれたらいいなと思います。

 各学年に集ったメンバーの性格や私との距離感にも影響される部分も大きいですが、40代前半以降の若い大学卒業世代と年賀状とのかかわりが多少なりとも見える貴重なデータではないかと思います。