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<目次>

第611号 「ししすせそ」(2016.12.24)

第610号 日本サッカーの未来が見えた日(2016.12.18)

第609号 懐かしい「ゼミ生の声」(2016.12.17)

第608号 ファーストは2つ使っては意味がない(2016.12.17)

第607号 タイ式マッサージ(2016.11.30)

第606号 「いきなり結婚」??(2016.11.25)

第605号 石原慎太郎は無責任すぎる(2016.9.19)〔追記:2016.9.22〕

第604号 北朝鮮(2016.9.10)

第603号 信じられない(2016.9.9)

第602号 尾崎裕哉に思う(2016.9.4)

第601号 ハリルホジッチは日本向きの監督ではない(2016.9.2)

第600号 酒は理性を弱める(2016.8.26)

第599号 K氏、LINEを始める(2016.8.23)

第598号 大東市?(2016.8.15)

第597号 気持ちの届くビジネスメールを書けない若い社会人(2016.8.4)

第596号 小池百合子新東京都知事(2016.8.1)

第595号 オリンピックは必要なのだろうか?(2016.7.28)

第594号 ドーピング問題(2016.7.26)

第593号 プリンターの突然死(2016.7.24)

第592号 「Pokemon GO」の次に来るのは……(2016.7.23)

第591号 参議院選挙と東京都知事選挙(2016.7.22)

第590号 地図を読めない人が増えている(2016.6.5)

第589号 サミットは壮大な無駄イベント(2016.5.26)

第588号 春場所総括(2016.5.22)

第587号 K氏捕まる(2016.5.22)

第586号 「男前女子/イマドキ男子」テスト(2016.5.20)

第585号 トランプ現象に何を見るか(2016.5.5)

第584号 社祭(2016.4.3)

第583号 「桑子ロス」(2016.4.2)

第582号 2015年度締め(2016.3.31)

第581号 白鵬の気持ち(2016.3.27)

第580号 「いいね!」文化に染まらずいたい(2016.3.21)

第579号 保育所不足を考える(2016.3.8)

第578号 記録を残すことの大切さ(2016.2.21)

第577号 学生にいたわってもらえない幸せ?(2016.1.31)

第576号 字の下手な学生が増えている(2016.1.28)

第575号 そろそろ琴光喜を許してあげてはどうか(2016.1.24)

第574号 SMAP問題を語る(2016.1.24)

第573号 片桐ゼミの楕円理論(2016.1.9)

第572号 そんな生徒がいいのですか?(2016.1.5)

611号(2016.12.24)「ししすせそ」

今クールのドラマで評判を呼んだ「逃げるは恥だが、役に立つ」が終わりました。「逃げ恥ロス」なんて言葉も聞こえてくるぐらい、話題になりました。私もはまってみていたのですが、私にとっては、今「逃げ恥」はさらに熱くなってきています。というのは、「逃げ恥」の最終回の感想が男女で大きく異なるという事実を発見したからです。女性陣は、この最終回に共感した人が多いようですが、男性陣は、やや肩透かしを受けたという声が多かったように思います。どうも同じドラマを楽しんでいたと言っても、男女で楽しんでいたポイントが違ったようです。結局、男性たちはガッキー演じるみくりさんの可愛さを楽しんでいたのだと思います。可愛いみくりさんがひらまささんという絶食系男子に尽くしてくれるというのを見ながら、「ひらまささん、羨ましいなあ」と思いながら見ていたわけです。なので、最終回のみくりさんは今までの中で一番イライラしていて可愛さが足りなかったというのが男性陣の肩透かし感の理由だと思います。でも、女性陣はそういう見方ではなかったみたいですね。結婚がテーマのドラマだったので、女性にとって愛情と家事育児のバーターはだめだよね、みくりさんがイライラするのも当然だよねということだったみたいですね。ひらまささんの絶食系の消極さが面白かったのに、最終回は女性に理解のあるちゃんとした男性になっていて、そこが男性陣にはちょっと物足りなく感じたところだったのですが、女性陣はああいう風に成長してくれたひらまささんは素敵だということなのでしょう。

ある女性の卒業生が「逃げ恥」最終回を見て、以下のようなメールをくれました。

いつからこんなに男女の労働(お勤め・家事)の攻防はめんどくさくなったんですかね。。最近思うのですが、私たちの世代って小学校の頃から「男女雇用機会均等法」だって言われて、「男女は平等で、同じように権利があります」って教えられて育てられて、大学まではそのつもりでバリバリいるんですよね。でも、社会に出たら、なんか違うというか。。「男女は基本平等だけど、男と女は違う」っていうのがはっきりしてますよね。なんとなーーくですけど、「家庭を大切にして、男性(夫)をたてて、笑顔が何より大切で、でしゃばらない女性」の方が圧倒的に受け入れられやすいですよね。それならそうと、最初からそう教えて欲しかったよなーーってすごく思うんです。まあ、実際に私もそんな周囲の心理に甘えて、時短で働かせて頂いて、子どもが熱を出したら休んだりという融通を快くきかせてもらってるんですが。。でも、そのおかげで私は自分のやりたい仕事に制限をかけるのが当たり前、子どもの看病も当たり前に私・・・でなんだかモヤモヤします。これって私のわがままですか?

彼女のメールにあるように、確かに今は男女の役割分担が、ジェンダー規定が強かった昔よりずっと難しいですね。「ゼミの集い」の際に配布した「卒業生の近況報告」に、「週末主夫業が板についてきて、家事全般、料理もできるようになりました。平等という言葉は、悪用する為に使われているとしか感じない今日この頃です」という近況報告をしてくれた子を持つ既婚男性もいました。そいう男性の状況を先取りして、私が「現代夫道鑑」という文章を「つらつら通信」に掲載したのは、今から10年前の2006103日でした。そこでは、今どきの既婚子持男性は、妻や子のために運転手になれる「車夫」、優しい父親である「慈父」、家事もできる「主婦」、料理も得意な「シェフ」、それでも仕事もできなければならない「ジョブ」能力(以上5つの頭文字を取って「シャシシュシェショ」と名付けました)を併せ持っていなければならないから大変だと指摘しました。

その時点では、かつて「さしすせそ」(裁縫・躾・炊事・洗濯・掃除)の能力を求められた既婚女性たちより、既婚男性が大変かもしれないと思っていましたが、現代の若い既婚女性――特に子どもを持ち仕事もしている女性――たちの声を聞くと、「裁縫」はそんなに求められなくなったけれど、他はなんのかんの言って、女性が中心になってやるように、まだ社会は求めてきている上に、「一億総活躍社会」とか言って、「仕事」もさせようとしているじゃないかという不満があるみたいですね。「さしすせそ」から「ししすせそ」(仕事・躾・炊事・洗濯・掃除)に少しだけ変わり、働きながら子育てもしている女性のしんどさは、増えることはあっても決して減ってはいないというのが実感のようです。こういう社会ですから、どこかのタイミングで現代の女性たちが家庭に入ってしまおうと考えるのも無理はないのかもしれませんね。

610号(2016.12.18)日本サッカーの未来が見えた日

 今日行われたサッカーのクラブ・ワールドカップの決勝は、日本サッカー史に残る試合となりました。世界最高峰のヨーロッパのチャンピオンであるレアル・マドリードに対して、鹿島アントラーズがほぼ互角の試合をしてみせてくれました。延長に入ってからはさすがに力の差がでてしまいましたが、90分間は十分勝機すらある試合でした。

試合開始前は、私も含めて多くのサッカーファンがレアルに攻められ続けて、それを必死に守るという試合になるのだろうと思いながら見始めたわけですが、どうしてどうして、FWからボールを取りに行く攻撃的な守備でレアル・マドリードにそれほど決定的なチャンスを作らせませんでした。やはり、これが日本のめざすべきサッカーなのでしょう。相手チームの選手より、1.5倍くらい走り切れる選手をそろえたら、日本代表も世界で勝てるかもしれないと改めて思った試合でした。

「ドーハの悲劇」「ジョホールバルの歓喜」などとともに、後々まで、「あの時のアントラーズとレアルの試合を見たか」と言われる試合になるでしょう。名付けるなら「横浜の夢」とでもしておきましょうか。とにもかくにも素晴らしい試合でした。

609号(2016.12.17)懐かしい「ゼミ生の声」

 今年も「ゼミの集い」が盛会のうちに終了しましたが、あたたかく歓迎されたはずの新ゼミ生からの感想が3日間も届かず、残念に思って、こちらから「感想を送りなさい」と言わんばかりのメールを送ってしまいました() そうしたら、ほとんどの人がメールを送ってきました。なんか、やっぱり「ゆとり世代」なのかなと思ってしまいました。「やりなさい」と言われたことは素直にやるけれど、自分で自主的には動かない、そんな世代なのかなと。しかし、大学生が「ゆとり世代」と言われ始めてもう何年も経つので、急に今年からではないよなと思って、昨年までの新ゼミ生はどうだったろうと思って、「過去のゼミ生の声」を探してみました。一部例外はありますが、この56年でも必ず新ゼミ生の少なくない数が当日あるいは翌日、遅くとも翌々日までには感想のメールをくれていました。

 イニシャルで掲載しているので、これは誰からのメールだったろうと思い起こしながら読んでいたら、非常に面白かったです。そうかあ、あいつは「集い」デビューの時は、こんなメールをくれていたんだと非常に感慨深かったです。感想メールから受けた最初の印象と、その後のゼミが始まって以降とでは随分と印象は変わるものです。この時は期待していたのになあとか、この時はあまりぱっとしない子かもと思っていたのになあとか、いろいろなことを考えさせられる時間でした。もしもこの文章を読んで興味を持った人は、ぜひ「過去のゼミ生の声」で、自分や同期が「集い」デビューの時にどんな感想を送っていたのかを探してみてください。ちょっと面白いですよ。

 新ゼミ生たちは早速私の「鉄槌」を受けてしまったわけですが、これにめげずに、後でこれを笑い話にできるようなゼミに育ってほしいものだと思っています。

608号(2016.12.17)ファーストは2つ使っては意味がない

 小池百合子が知事になり、東京オリンピックの会場建設などを見直す中で、水泳、カヌー、バレーボールの3つの会場を既存施設を使うことで、新設の建設費を浮かせるという案を出していましたが、結局3会場とも当初案通り、東京都内に新設することが決まりました。小池知事は、この見直しの結果として65億円ほど建設費が減ったことを意義として強調していますが、やはり肩透かし感は否めません。こういう結果になったことに関してはいろいろな要因があると思いますが、最初から私がひとつ気になっていたのは、小池知事が就任の初期の頃から、「オリンピック関連費用の肥大化に関しては、都民ファースト、アスリート・ファーストの観点でしっかり行う」という発言をしていたことです。「ファースト」はひとつでないと意味がありません。2つファーストというのは成り立ちません。結局どうなったかと言えば、「アスリート・ファースト、都民セカンド」になったということです。

 オリンピック組織委員長である森喜朗がいかにも古臭い偉そうな元首相として、小池百合子をいじめているような映像がしばしば流されていましたが、アスリートもこの機会に自分たちの種目を行う立派な会場を絶対に造らせるのだという我を強く主張していました。北島康介が「辰巳なんかでできるわけがない」と吐き捨てるように言っていたり、川淵三郎が「有明アリーナを絶対造るべきだ」と厳しく言い放っていた映像などが、私には強く印象に残っています。「アスリート・ファースト」なんて言ってしまっていたので、結局小池百合子もこういう発言には、何一つ反論できませんでした。

結局たった1回のイベントのために、都民どころか、国の税金もたくさん使われますので、国民の支払った貴重な税金が浪費されてしまうわけです。私は正直言って、オリンピックなんか誘致したのが一番の間違いだと思っています。石原慎太郎が都知事だった時に思い付きで言い出したアイデアが、なんとなく盛り上がるイベントが行われるのはいいじゃないかというムードで誘致にまで至ってしまったわけですが、これほどの費用がかかるかがあらかじめわかっていたら、国民の大多数は反対したでしょう。しかし、誘致の際には、非常にスリムに行うので、費用負担もそれほどではないと大嘘を言って誘致してしまったのです。この2兆円も3兆円もかかると言われるこの出費の責任を誰が取るのかと問いたい気分です。アテネ・オリンピックを開催した後、ギリシアが経済破たんしたことを、日本人は忘れてしまったのでしょうか。日本はとうてい返せる見込みもないほど国債を発行している大赤字の国です。ギリシアのように経済破綻をしないという保証なんてどこにもありません。アスリートをファーストにしてやっていけるほど、余裕のある国だとは私には思えないのですが、、、

607号(2016.11.30)タイ式マッサージ

 先日3回生ゼミで「癒し」について話をしていて、かなり多くの学生たちが「癒し」という言葉に惹かれると言うのを聞きながら、私は、「癒し」という言葉に惹かれないし、癒しグッズなどはまったく欲しくないどころか、何の意味もなく無駄にゆらゆらと首を振るようなおもちゃを見ると、逆にイライラすると言って、学生たちに引かれました() で、どんなものにみんな「癒し」を感じるのだろうと分析的に考えてみると、まるい感じのもの、ゆっくりした感じのもの、攻撃的でないものなどが「癒し」要素としてあがるようです。そう言えば、私は「癒し系って言われたことないなあ」と言うと、みんな「先生は、癒しの対極です」と声を揃えて言います。「癒し系」と言われたいわけではないので別にいいのですが、その「癒し」って、なんか本質的な意味はあるのだろうかと疑問を持っています。

 赤ちゃんやゆるキャラや癒し系グッズでストレスが癒されたような気になっているのは単に気持ちの問題だけで、根本的には何も解決してないですよね。ストレスの原因が仕事中の人間関係なら、その人間関係を何らかの方法で改善しなければ解決につながりません。癒しグッズを眺めていても何の解決にもなりません。私はどうやってストレスを解消しているのだろうと自問自答してみると、気の合う人と楽しくお酒を飲みざっくばらんに話をしたりすることでストレスを解消していると気づきます。楽しいコミュニケーションを取ることこそストレスを解消する方法で、強いて言えば、それが「癒し」ということになるのかなと思います。まあでも、いわゆる「癒し」というイメージとは遠いでしょうね。

 私は学生たちにとって「癒し」のような存在にはなれていないようですが、「タイ式マッサージ」の役割は果たしているのではと勝手に思っています。「タイ式マッサージ」は体験したことはないのですが、テレビなんかで見ていると、足のツボを強く押しかなり痛いようです。しかし、ツボを押すわけですから、悪いところを治す効果は多少なりともあるのでしょう。私の指導もかなり痛いところを突き激痛が走るのかもしれません。でも、それも学生の弱点、欠点を治してあげようと思うがゆえです。痛くて耐えられないほど圧迫してはいないと思うので、ゆるめの「タイ式マッサージ」くらいではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

606号(2016.11.25)「いきなり結婚」??

 昨晩NHKで放送されていた「クローズアップ現代+」をご覧になりましたか?「恋愛が面倒くさい!?若者草食化の謎に迫る」というテーマでした。日頃から、若者実態を十分に観察している私からすると目新しい視点はほとんどなく、この「つらつら通信」にすでに幾度も書いてきたようなことばかりだったのですが、唯一気になったのが、「いきなり結婚」という言葉です。恋愛が面倒なので、そこを省いて結婚したいと考える若者が出てき始めていて、彼らの望む恋愛なしの結婚の仕方を「いきなり結婚」と言うそうです。実際に、そんな結婚を望む人はまだ極少数でしょうが、そう言えば、女優の堀北真希の結婚の仕方って、ややそれに近い感じでしたね。今、大ヒットしている「逃げ恥(逃げるのは恥だが、役に立つ))というドラマの契約結婚――夫が雇用主で妻が家事労働を担当する雇用者で、肉体関係はなし――という設定がいいという声もたくさん生まれてきているそうです。昨日の番組で「いきなり結婚」の相手を探しているという女性は、男性7人、女性2人で、今シェアハウスに住んでいるそうです。仲良く住めているなら、その7人から相手を選べばいいじゃないかと思いますが、もうきょうだいみたいな関係だから、結婚相手としては考えられないんだそうです。「あ〜、ちゃんちゃらおかしい。何もわかってない子だな」と私は心でツッコミを入れてましたが……。

 「いきなり結婚」って「お見合い」とどう違うんだろうと素朴な疑問を持ちます。強いて言えば、お見合いは間に紹介してくれる人をはさみ、独身の2人の家庭環境、学歴などのつり合いを考慮して話が進んでいきますが、この「いきなり結婚」で紹介されていた事例では、SNSに自分で「恋愛なしで結婚してくれる相手を探しています。見た目や職業や収入は問いません」と情報を流していましたので、上記のようなプロセスも省略されているのが、現代的なのでしょう。しかし、不特定多数に向けてそんな情報を流して、そこで知り合った人と会ってみるのは大分危険だと思います。そもそも、こういう情報を流して異性がひっかるのは女性発信の場合だけで、男性が同じ情報を流しても女性はほぼ反応しないでしょう。逆に言えば、反応する男性の多くは、「ワンチャン」を狙っている人と見て間違いないでしょう。こんな危険度の高い馬鹿な行動をするくらいなら、親や親戚や近所のおばさんの紹介する相手と見合いして結婚した方がずっと確実です。

 しかし、まあどんな形であろうと面倒な恋愛を省いて結婚したいなどと考える若者の結婚は非常に高い確率で崩壊するでしょう。恋愛も面倒なのは事実ですが、結婚生活はそれよりもはるかに面倒です。面倒なことは嫌だと思い、その自分の感性を肯定しているのなら、半年も経たずに、相手と暮らすのも嫌になり別れたくなるのは確実です。女性の場合は子どもさえいたら別れても幸せに生きていけるとか思っているのかもしれませんが、大間違いです。子育てだって面倒なことはいっぱいあります。いつまでも「ママ、ママ」と言ってくれる可愛い存在ではないし、そんな状態のままに留めていたら、その子がまっとうな人生を生きられません。ちゃんと自立心をつけさせ、面倒なことも嫌がらずにできる人間に育て上げなければいけないのに、親自身が「面倒なことは避ける」という生き方をしてきていたら、どうして子どもに、その大事さを教えられるでしょうか?

 恋愛をするのは人が成長する上で大切なことです。好きな人ができ、その人に魅力的と思ってもらえるように自分を高める、もしも付き合えたとしても、いつも相手の気持ちと自分の気持ちをうまく調整しながら行動する、喧嘩してぎくしゃくしてもなんとか修復してまた付き合い続ける、万一別れることになったら、その痛手を乗り越えてまた次に向かっていく前向きな姿勢を取り戻す。こうした訓練が自ずとできるのが恋愛体験です。別に結婚は見合い結婚でも紹介結婚でもいいと思いますが、恋愛を通して、自己認識、忍耐力、調整力、回復力などを鍛えていない人間は、その後の人生を生きていく上でも弱いです。

 「草食系男子」と言われ始めた頃は、ジェンダーの平等化が進む中で、「男性は女性に積極的に声をかけるべきだという伝統的な男性役割」が継承されなくなったことがより目立つ原因でしたが、今は男女ともに草食化してきており、その原因は「しんどいこと、面倒なこと、苦手なことはしたくない」という「ゆとり教育」が生み出したものだろうと思い始めています。恋愛は面倒です。でも、結婚も面倒だし、人生を生きていくのだって面倒です。面倒だからって逃げまくっていてどうするんですか。「逃げるのは恥だし、役にも立ちません。」あのドラマだって、2人が逃げずに一所懸命相手のことを考え、自分の気持ちとの折り合いをつけようと努力している、全然逃げていない堂々たる恋愛ドラマからこそ、見ている人は惹かれるのです。若い独身の人たちは、ぜひ同性との生ぬるい人間関係だけに埋没せずに、失敗を怖れずに異性との恋愛を求めてほしいものだと思います。失恋こそ最大の成長の糧です。

605号(2016.9.19)石原慎太郎は無責任すぎる

 築地市場の豊洲移転問題が暗礁に乗り上げています。毎日報道され、少しずついろいろな事実が出てきています。いずれ豊洲市場をどうするかという対応の方に焦点が移っていくでしょうが、今は責任問題に焦点が集まっています。一体、誰が専門家会議や技術者会議の意向を無視して建物の下に空間を作り出すことを決めたのかが、一番注目されています。これまでの報道を見ると、まずは石原慎太郎がどこかの海洋工学の専門家(?)から聞いた話として、盛り土をするより箱を埋めた方が安上がりになるらしいというアイデアを示し、それを検討しろと当時の市場長に伝えたというのが、最初のきっかけのようです。(この頃、石原慎太郎が創った東京スター銀行が倒産しそうで救済のためにお金が必要だったようです。)ただし、これについては、当時の市場長は安上がりにならないということで無理だと報告をし、石原都知事もそれほどこだわっている様子ではなく、その話は白紙に戻ったと語っています。石原慎太郎は、最初は自分から指示など出していないと言い張っていましたが、映像にも残っているので、さすがに自分が指示を出したが、その後は何の報告も受けていないと主張を変えています。

 今できあがっている地下空洞と石原慎太郎が最初に興味を持った案は少し違うようですが、盛り土以外の方法も考えろと知事に言われたことで、都庁内部でそういうアイデアを作り出したのだろうと思います。今日の報道では、20118月に土壌改善工事の契約が行われた際に、そこにはすでに空洞を作る案になっていたことが紹介されていました。そこには都知事・石原慎太郎の印鑑も押されています。石原慎太郎はどうせ中身なんか知らない、勝手に印鑑を押されただけとか言うのかもしれませんが、立場上そんな逃げは通じません。都行政の最高責任者です。何か問題があったら責任を取る立場だからこそ、高い給与も権威もあるのです。それが、問題が起きたとたん「自分はだまされていた」とか「都庁は伏魔殿だ」とか、どの面下げて言っているのかと腹が立つほどです。

 マスメディアの報道もおかしいです。石原慎太郎にかなり責任がありそうだとわかってからは、そこへの切り込み方が非常に甘くなっています。石原慎太郎の傍若無人な振る舞いの対応に対しても、報道陣の方が「すみません」とか謝っています。通常は、自分たちが正義の使者だと言わんばかりに怒鳴りまくる報道陣がまったく違う態度です。石原慎太郎は批判されないようなタブー的存在になっているかのようです。(芸能事務所・石原プロとの関係を気にしているのではという噂もあるようです。)今回の問題では石原慎太郎にかなりの責任があることはほぼ確かです。批判されてもおかしくない立場の人間です。責任を取ろうとしないトップというのは最低です。石原慎太郎がこんな人間なのはずっと知られていたのに、選挙では圧倒的に強かったりします。どこがいいんでしょうね。でも、もしも日本も大統領制とかだったら、こういう厚顔無恥とも言えるような人間が勝ってしまったりすることもあるんでしょうね。怖いことです。

 それにしても、小池百合子が都知事になってよかったです。石原の後を継いだ猪瀬、舛添の時には、この問題がまったく出てこなかったわけです。もしも、自民党が推していた増田寛也が知事になっていたら、今のまま移転がされていたのでしょう。トップによって、自治体行政はまったく変わります。

〔追記:2016.9.22〕さすがに石原慎太郎も頭を下げましたね。このままでは世論を抑えきれないと思ったのでしょうね。まあ、とりあえず最高責任者の知事としての責任は認識していると頭を下げられたら、それ以上は非難はしにくいですね。確かに、都行政のすべての中身を知事が全部わかっているという風に考えるのはかなり無理がありますので。ただし、この問題の根っこには、石原慎太郎の肝いりで創られた「新銀行東京」がまったくうまく行かず、その救済をするために、追加資金を何百億円もつぎ込まなければならず、様々な部門でコストカットをはからなければならず、その一環として、この地下空間を造る方が安上がりになると考えたのではないかという推測が成り立ちます。しかし、今日のニュースなどを見ていると、それ以外に東日本大震災が途中で起き、液状化問題への対策として、工法を変えたという可能性も出てきたようです。それにしても、変更したことを印鑑を押す立場の人に、きちんと説明しないというのは、よりよいことをやっているという意識がなかった証拠とも言えそうです。とりあえず、もうしばらくこのニュースは追わないと、真相にはたどりつけなさそうです。

604号(2016.9.10)北朝鮮

 急速に軍事関連の技術開発を発展させてきた北朝鮮が現実的な脅威になってきました。ミサイル、そしてそれに装填する小型核爆弾も現実に使用できるレベルになってきたようです。日本政府は「強く非難する」とか「絶対に認められない」とか「独自の制裁を検討する」といった見解を発表していますが、この脅威に対しては何の意味もありません。ではどうしたらいいのでしょうか。考えられるシミュレーションはいくつかあります。まず思い浮かぶのは国連を中心とした対応ですが、これにも穏健な方法と強硬な方法が考えられます。穏健な方法は、すべての常任理事国を含む北朝鮮以外の国が北朝鮮に対して徹底した経済制裁をはじめとする北朝鮮孤立政策を実行することです。これができたら北朝鮮は干上がるでしょうから、音を上げる可能性はあります。しかし、それを達成するにはいくつものハードルがあります。まず常任理事国となっていて北朝鮮との関係がもともとそれほど悪くない中国やロシアが、この方針に賛成するかどうかが難しいところです。また国連加盟国の中には、北朝鮮よりもアメリカをはじめとする先進資本主義国に恨みを持っている国も少なくないので、北朝鮮包囲網は完成しないでしょう。万一包囲網ができたとしても、「窮鼠猫を噛む」の言葉通り、疲弊しきって国が崩壊する前に、一発逆転を狙って、核ミサイルを打ち上げそうです。標的になるのは、北朝鮮から近い日本の可能性が高い気がします。

 強硬な方法は、国連軍という名目で軍事力を使って、北朝鮮を崩壊させることです。しかし、かつての朝鮮戦争やベトナム戦争のように深入りすることは、国連軍の中心になるであろうアメリカでも支持は得られないでしょう。ましてや、中国、ロシアが賛成するとは思えません。ただ日本でより深刻な問題になるのは、万一国連軍が創られることになった場合です。国連軍を形成して北朝鮮に攻め込むとなった時、日本は後方支援でというわけには行かないでしょう。昨年成立した集団的自衛権がまさに適用されるケースとなり、ついに自衛隊を戦争遂行のために海外に派遣するという判断を下さざるをえなくなるのではないかと思います。果たして、そういう事態になった時、日本国民はちゃんと自衛隊派遣を支持できるでしょうか?

 もうひとつ過激なシミュレーションとしては、金正恩を亡きものとするというインフォーマルな解決策というのも浮かびます。しかし、まさか国連が暗殺指令を出すわけにもいかないでしょうし、どこの国もそんなイリーガルな手段を堂々と実行できる国はないでしょう。最近北朝鮮内部の粛清もひどいので、内部で反乱分子でも出てきて内乱や暗殺といった形で金正恩が倒れ、事態が改善してくれないだろうかと期待する向きもないわけではないでしょうが、大多数の人が洗脳され統制されているような状態ですから、内部反乱としてそうした事態が生じる可能性は限りなく小さいのでしょう。北朝鮮は、「金王朝」のような国で、すでに3代目に入っているわけです。簡単ではありません。しかし、改めて比較すると、初代、2代目より、今の3代目が一番危ない感じはします。

 最後に考えうるシミュレーションは、何もせずこの現実を受容するということです。考えてみると、ミサイルと小型核弾頭をもつ国は、アメリカ、ロシア、中国、イギリスなどすでに何か国もあるわけです。それらの国々が同じ脅威を持っているにも関わらず、それは非難せず、北朝鮮が同じだけの軍事力を持ったからといって、果たして批判することには正統性があるのだろうかと考えることもできるように思います。すでにそうした軍事力をもった国々は大国ばかりで無茶なことはしないだろうが、北朝鮮の金正恩は無茶もやりそうで怖いと思う人も多そうですが、アメリカでももしかするとあのドナルド・トランプが核発射の最終決定権を握るようになる可能性があることを考えるなら、根本的な違いはないかもしれません。金正恩も馬鹿でなければ、本当に他国の国民を核ミサイルで攻撃するなどということをした瞬間に、国連軍が動き、北朝鮮は潰されるだろうという計算くらいはできるでしょうから、他の核保有国と同様に、万一の場合はこちらも使うぞという核抑止力としての効果を一番狙っているとも言えそうです。であるなら、とりあえず、北朝鮮が核武装してしまったことを、そのまま認めてこれ以上刺激しないというのが一番いいのかもしれません。インドやパキスタンが核保有国になってしまった時も、国際社会は非難はしたものの、結局受け入れてしまったわけですから。

「平和主義」の日本国民の大多数は、この最後のシミュレーションが一番いいと思いそうです。しかし、こうやって徐々に核保有国が増えそれが実質的に黙認されていくとなったなら、さらに核保有国は増え、いつか日本も核保有国になるかもしれません。そして、いつか核戦争が起きることも十分考えられます。核兵器がこんなにたくさん存在するのに、それをどこの国も永遠に使わずについに廃棄させたなんて美しい未来を、果たしてわれわれは夢見ることができるのでしょうか。

603号(2016.9.9)信じられない

 日本財団という団体が、本気で自殺を考えた人が25%もいたという調査結果を一昨日発表し、朝日新聞でも大きく取り上げていました。20代〜30代は男女とも3割を超えているそうです。とても信じられません。どうやってこの調査を行ったのだろうと調べてみたところ、調査会社に登録しているモニターを対象にインターネットで4万人を調査したそうです。調査会社が間に入っているなら、まったくいい加減な調査ということもないのでしょうが、この調査結果はどう考えても信じられません。本気で自殺を考えた事がある人は年齢が上がるほど減っていきます。人生をより長く生きている人の方が辛いことにも出くわした経験は多いはずです。にもかかわらず、人生経験のより短い人たちの方が本気で自殺を考えた人が多いなんて結果が出ることは、常識的には考え難いです。

 もしもこのデータが、二重、三重回答だったり、集計ミスとかでないなら、どういう説明が可能なのでしょうか。まずは、サンプルの偏りが考えられます。インターネットで行われる調査に登録している人というのは、若い人では平均的な人かもしれませんが、年齢が上がると、インターネットに慣れている少数派になることが考えられます。本当に生活が苦しくて自殺を考えたことがあるという年配者はこんなインターネットの調査会社に登録などしていないでしょう。しかし、それでも65歳以上でも男女とも10数パーセントはいます。決して低い数字ではない気がします。

とにかく若い世代の比率が高すぎます。「本気で自殺を考えたことがある」という質問が具体的にどのような質問文だったのかがわからないのですが、シンプルに尋ねる質問文だったとしたら、答える方の受け止め方の違いということになるでしょうか。「死ぬ」ということの重みがわかっているとは思い難いです。軽い気持ちで、答えているとしか思えません。20代の若者の3分の1が本気で自殺を考えたことがあるなんて、私は絶対に信じられません。

602号(2016.9.4)尾崎裕哉に思う

 今晩NHKで放送していた「父・尾崎豊を見つめて――尾崎裕哉26歳の旅立ち――」という番組を見て一言書きたくなりました。尾崎豊の息子の尾崎裕哉の声が父親にそっくりで、まるで尾崎豊が生き返って歌っているみたいだというのは数年前くらいから聞いていました。今日テレビ欄でこの番組を見つけ、ぜひ見てみようと思い見てみました。見終わった率直な感想としては、「なかなかつらいなあ」と思ってしまいました。自分で詩と曲を創り歌うミュージシャンとしてやっていくのは、尾崎裕哉の場合は厳しいだろうなと感じました。人物的には非常にきちんとした青年で、まさに慶応大学出身のエリート学生という雰囲気が漂っていて、彼がもしも大手企業の就職を目指していたらどこでも決まるだろう思うような好青年でした。顔も頭もいいので、尾崎豊の息子でなければ、彼はそんな普通の道を選び、かわいい女性とも結婚し、かなり幸せな生活を築けるタイプだったと思います。しかし、彼は尾崎豊の息子で、尾崎豊にそっくりな魅力的な声も持ってしまっているがゆえに、普通の男性が求めるような普通の生活を求めるわけには行かなかったようです。母親の育て方もよかったのでしょうが、ひねくれもせず、ちゃんとものを考える青年になってしまったがゆえに、父親をどう乗り越えるか、いや乗り越えないまでもどう受け止めるかという問題を真剣に自問自答し、そして父親と同じ道に進み、父親とは違う自分らしさをそこに見い出すことで、父親を自分の中で昇華したいという気持ちにならざるをえなかったようです。

 しかし、声は受け継いでいても、詩と曲を創る才能は受け継いでいませんでした。というか、彼の環境が、尾崎豊とは異なり、彼がいい子に育ちすぎてしまったゆえに、彼には詩と曲が書けないのだろうと思わざるをえませんでした。尾崎豊の歌は、尾崎豊自身に語りたいことがあり、それにメロディがつく形で出来上がっている歌が多いそうですが、聞いていてもそれはわかる気がします。「15の夜」「卒業」「I LOVE YOU」などちょっと思い出しても、怒り、不満、愛など内面からほとばしるような感情が、そのまま歌になって表れています。しかし、息子の尾崎裕哉の場合は、強く出る感情は、今のところ寂しい思いをさせないように育ててくれた母親への感謝の気持ちだけのようです。そんなありきたりの日常を尾崎豊にそっくりな声で歌われても何も響いてきません。メロディもインパクトがなく、詩とのマッチングも悪く、正直に言って才能を感じませんでした。きっといずれこの道はあきらめることになるのではないかと思います。父親の印税がいくらでも入るので一生働かなくても生きていけるでしょうが、まじめな青年そうだったので、いずれ関連業界あたりでちゃんと働きエリートになっていそうな気がします。

 2世タレントが非常に多い時代ですが、俳優とかバラエティタレントにはなれても、2世の歌手はなかなか成功しないですよね。有名歌手の子どもで自分も有名になっているという歌手って、ぱっと思いつくのは宇多田ヒカル――母親は演歌歌手だった藤圭子――くらいです。山口百恵の次男は俳優として結構売れていますが、長男はバンドをやっていたはずです。まったく売れてこないですね。井上陽水の娘――母親も石川セリという歌手――も歌手をやっているはずですが、売れていないです。演技は経験を経るとほぼ全員うまくなるので、2世でも使えるようになりますが、歌手は親の光があまり反映しない、まさに才能が問われる分野のようです。

601号(2016.9.2)ハリルホジッチは日本向きの監督ではない

 昨日のUAE戦はレフリーのUAE贔屓が露骨で、それが敗因だったとも言える試合でしたが、それ以上に問題を感じるのは、ハリルホジッチ監督の指導者としての能力です。まず、選手起用が理解できません。最終予選の第1戦でまだA代表で出場したことのなかった大島を先発で使うというのは冒険のしすぎです。確かに、大島はオリンピックでよい活躍をしていましたが、それほど気の強い選手ではなく、錚々たるビッグネームとともに試合に出たら遠慮して委縮しそうなタイプだというのは、日本人指導者ならわかると思います。実際、大島のキレは前半から悪く、相手の2得点にはすべてからんでしまいました。せめて後半頭から、山口蛍に変えてくれたら、もっと違う展開になったと思います。しかし後半早めに実際に行った交代は、清武、岡崎と前半からしっかり機能していた2人を宇佐美と浅野に変えるという理解しがたい交代でした。2人ともヨーロッパリーグから帰国したばかりで体力的に不安と考えたのかもしれませんが、動きを見る限り、まだまだ2人は使えました。交代させるなら、香川にすべきでした。ハリルホジッチは選手をきちんと評価する能力があるのか非常に疑問を持ちました。

 そしてもうひとつハリルホジッチが日本向きではないと思うのは、試合中の感情の表し方です。ハリルホジッチは、自分の考え通りに選手が動いていない時に露骨に怒ったり、がっかりしたり、怒鳴ったりを大げさなほどのパフォーマンスで示します。しかし、監督自身がそんな露骨な不満感を表出することはまじめな選手が多い日本人選手にとっては百害あって一利なしの行動です。本田のような気の強い選手にとっては特にマイナスもないでしょうが、まだレギュラーとしての自覚のない若い選手などは、あんなに怒っている監督を見たら委縮するだけです。試合が終わってからなら、まだ厳しい指摘もよいでしょうが、試合中にあんなに不満や怒りを露わにする監督は日本チーム向きではありません。

 前のザッケローニやジーコはその点では大人でした。ハリルホジッチはトルシエ・タイプです。トルシエも日本人を子ども扱いして嫌な監督でしたが、あの頃の日本チームはまだ選手自身に自信も足りないところがありましたので、アホのひとつ覚えみたいに言い続けた「フラットスリー」も多少意味があったかもしれません。しかし、アジアの中では1,2の実力を持つことを自他とも認められるようになっている今の日本チームを率いる監督としては、選手を罵倒するだけの指導者は不適切です。まあ、日本人選手を大人として扱ったザッケローニもジーコも、戦術は不足していて、W杯の本番は予選敗退という結果でしたので、名監督とは言いがたいわけですが。歴代監督の中では、結局岡田が一番よい監督という評価が私の中では変わりません。選手を見る目、状況に応じて日本チームが対応できる戦術変更を行う能力、いずれも優れています。しかし、再び岡田の再登板では困ります。そろそろ、岡田以外の日本人監督に出てきてもらいたいものです。もう外国人監督を必要とする時代は終わったと私は思っています。

600号(2016.8.26)酒は理性を弱める

 高畑裕太という若手俳優の強姦致傷事件の報道を聞き、「今こんなに売れてきているのに、なんでこんなことをするのか」と疑問に思った人は多いと思います。ちょっと頭を働かせて計算すれば、こんな行動をするなんて100%ありえないことです。加害者になったこの若手俳優は、あまり頭が良くないことをバラエティなどで売りにしているタレントでしたが、この自分の行動が万一バレた際にどれだけの損害を周りに与えることになるかくらいは、普通に頭が働いていれば計算できるでしょう。

 私は、この事件は酒のせいではないかと思っています。アルコールは、理性の働きを弱めます。人間も動物であり、様々な本能を内に抱え込んでいます。しかし、高度に発達してきた人間社会においては、その本能を理性でコントロールしていなければ、社会生活は送れません。本能のまま生きることが許されているのは赤ん坊だけです。社会化されるというのは、その本能を自分が生まれ落ちた社会の基準に合わせてコントロールする能力を身につけるプロセスです。子どものミスが大人のミスより許されるのも、まだそのコントロール能力が子どもは不十分であるのも仕方がないと、社会が認めているからです。そして成人になれば、そのコントロール能力は基本的に身につけているものと解釈されるわけです。心神喪失状態にあったために罪に問われないケースというのは、成人でも自分をコントロールする能力を失っていたと判断される場合です。

 お酒を飲んで酔うことによって、人は日頃自らの本能や欲望をコントロールしている理性の機能を弱めます。たまに裁判官のような非常に堅いまじめな職業の人が電車内の痴漢で捕まったりしますが、ほぼお酒を飲んでいたケースです。日頃徹底して欲望をコントロールしすぎていたりしたりすると、酔って理性が弱まった時に、抑え込んでいた欲望が抑えきれなくなるパターンだと思います。そんな性衝動に基づいた犯罪は絶対にしないという人でも、飲むと人が変わる、素面では絶対しないようなことをしてしまったという経験を持っている人はたくさんいると思います。これも、日頃自らをコントロールしている理性が弱まるからです。

 高畑裕太事件の報道を聞いていると、「お酒は飲んでいたが泥酔というほどではなかった」と軽い紹介になっていて、お酒はあまり関係ないという雰囲気で伝えられていますが、わかっていないと思います。泥酔まで行くほどに飲めばこんな行動はしません。酔いつぶれて道端で倒れて寝てしまうくらいでしょう。適度に酔っていて自らの身体をコントロールできなくなるほどではないが、理性だけが薄れているという状態が一番危ないのです。お酒に弱い人はすぐに身体的にダメージを受けますので、こういう事件を起こすことはほぼないと思いますが、強い人が危ないです。強いといったって、飲めばアルコールは体――特に脳――に確実に回っており、大脳皮質の働きを確実に弱めています。身体的にはふらふらにはなっていないが、理性は弱くなっているという状態が、一番人が本能のままに、欲望のままに行動しやすくなる時です。社会学的概念を使うと、酔うと、目的合理的行為よりも感情的行為を行いやすくなると言えます。お酒をかなり飲む人は、高畑裕太事件を他山の石とすべきではないかと思います。

599号(2016.8.23)K氏、LINEを始める

 相変わらずガラケーのままなのに、iPadとパソコンでLINEを始めることにしました。最近は、メールに気づいてくれない人が多いことと、やはり社会学者としてこれだけ普及しているものの仕組み、使い勝手を実感してみたいという思いが勝ち、ついに禁断の扉を開いてしまいました。

 使ってみると、なるほどLINEというのは、まさに一緒にいて話しているような感じでやりとりができて楽しいものだということが実感できました。ざっくばらんに話せる相手とやりとりするのには、確かにLINEは向いていますね。無料でビデオ通話もできますし、家族などのコミュニケーションには実に使い勝手がいいなと思いました。でも、当然ながら、文章のやりとりは短めになりますし、件名もつけない、自分の名前も入れないという状態のやりとりですから、これに慣れきってしまったら、目上の人に丁寧に書かなければならない文章などを書けなくなってしまうだろうなということも実感できました。

 私は、これで日常的な情報発信の方法としては、メール、ホームページ、フェイスブック、そしてLINE4つ持ったことになります。若い人なら、これら以外にツイッターやインスタグラムなんかもやっているのでしょう。もちろん、電話、手紙、口頭という昔ながらのコミュニケーション手段もあります。これからの時代は、こうしたコミュニケーション手段をいかに上手に使い分けるかがポイントになりますね。私の場合、LINEはまだ始めたばかりなのでこれから考え方も変わるかもしれませんが、1日使ってみた感じでは、軽い情報交換用としては非常に便利だし楽しいのでLINEで、大事なビジネス連絡はメールで、一般に伝えたい考えや意見はホームページで、ちょっとした遊び要素を含んだ情報発信はフェイスブックで、ということになりそうです。

 LINEはトークでなされた情報交換を過去のものに遡って探すのはかなり面倒だろうなという気がします。まだ私は1日しか使っていないのですが、それでも10人以上の人とのトークが最新のものから並んでいます。当然LINEをたっぷり使っている方のトークの欄には何百というトーク相手が並んでいるだろうと思います。そこから、必要な相手を探し出し、その人と大事な会話をした内容を探し出すのはかなり手間ではないですか?メールであれば、分類して整理しておけますし、日時での検索も容易なので、過去の大事なメールを探すのも容易です。またLINEは写真を送るのは簡単そうですが、ワードやエクセルファイルを送ることはたぶんできないですよね?その面でも、ビジネス関係はやはりメールだろうと思います。

上記のような使い分けは、私のようなLINE慣れしていない人だけでなく、割と一般的にみんなが考えることだと思いますので、LINEにどっぷりはまってメールなんかほとんど開かないし書かないと言っている大学生たちも、今のうちから使い分けができるように準備をしておいた方がいいのではないかと思います。LINEは私的なコミュニケーション手段として使い、公的なコミュニケーション手段としてはメールを使うというのが、とりあえず妥当な使い分けではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

598号(2016.8.15)大東市?

 住んでいる方でこのHPを読まれたら、ちょっと傷つけてしまうかもしれませんが、先日教え子と話していて、「大東市」と言われ、「どこだろう?」とぱっと思い浮かびませんでした。聞いたことはあるけれど、大阪府内だったかなということすら確信が持てませんでした。沖縄の方に、よく台風情報の時に名前が出てくる南大東島とかあったなあとか一瞬浮かんだくらいです。地図はそれなりに頭に入っている方で、市名を聞けば、どこの都道府県にある市かくらいほぼわかるという自負を持っていたのですが、割と近いところにある「大東市」がまったく位置が浮かばないし、大東市に関する情報もまったく出てきませんでした。後で調べたら、東大阪市、生駒市、四條畷市、寝屋川市、門真市、大阪市鶴見区に囲まれた人口12万人ほどの市で、有名なスポットとしては野崎観音があることを知りました。野崎観音には行ったことがあったので、それが、私が大東市の地に足を踏み入れた唯一の機会だったことに気づきましたが、野崎観音に行った際には、車で行ったこともあり、そこが大東市という地域だと認識していませんでした。四条畷神社にも寄った時だったので、てっきり四條畷市にいるものだと思っていました。(ちなみに、四条畷駅は大東市にあるけれど、四條畷神社は四條畷市にあります。)

 ゼミ生で誰か大東市の人がいたかなあ、記憶がないなあと調べてみたら、たった1人だけいました。駅も、私がたぶん人生で一度も乗ったことがないJR片町線の住道、野崎、四条畷の3つしかないので、私の知識の中に、大東市がなかったのも仕方ないなあと正直思いました。3つの駅の名前というか、その地名はそれぞれ知ってはいましたが、それが大東市という市の中にあるということを、今回初めて知りました。また、近畿道を走っているときに、「大東鶴見IC」という表示を見ているはずですが、あれも鶴見緑地公園の施設とかが近くに見えるので、あの辺は鶴見区と認識していました。かつては、四条畷の戦いや野崎参りで有名だったこの地域がなんでこんなにマイナーなんだろうと逆に気になってきました。

 まずなんと言っても、大東市という名前が印象が薄いです。大阪の東といった意味でつけたようですが、そのものずばりの東大阪市というのがあるので、「大東市ってどこだろう?」ってなってしまいます。センスのないかぶせた名前の付け方で変だなと思って調べてみたら、なんと大東市の方が先に市名を決めていて、後でかぶせてきたのが東大阪市でした。東大阪市、ちょっと悪質ですね()。東大阪の方は、人口も50万人以上もいて、ゼミ生も何人もいましたし、町工場が多いとか、花園ラクビー場があるとか、妙な事件が起きるとか、なんか結構名前を聞くし、名前通り、まさに大阪市の真東に位置しているので認識しやすいですが、大東市の方は何かで聞いたことがあるかと言われてもまったく記憶が出てきません。逆に言えば、変な事件も起こらない穏やかでいい市なのかもしれませんが、ここまで知名度が低いのもどうなんでしょうね。後からかぶせてきた東大阪市に屈するのは屈辱かもしれませんが、知名度を上げようと思ったら、市名変更が必要かもしれません。

まあ市民も市もまったく気にしていないことかもしれませんので、余計なお世話みたいな話ですが、まだまだ知らないことはたくさんあるし、調べてみると、いろいろ面白いことがわかるなあと改めて思ったので、思わずに書いてみました。ちょっぴり「頑張れ!大東市!」と言いたい気持ちになりました。

597号(2016.8.4)気持ちの届くビジネスメールを書けない若い社会人

 最近、大学のある部署から届いたメールに非常に不快感を持ちました。その部署の都合でこちらに迷惑がかかる話なのに、「○○の件」という件名で、「こう決めたのでよろしくお願いします」という、思い切りビジネスライクというか、慇懃無礼なというか、上からの命令を伝えるようなメールで「ふざけるな!」と非常に腹が立ちました。そっちの都合で変更をし、こちらに迷惑をかけるのですから、もっと下手に出てお詫びとともにお願いするという姿勢であるべきなのに、メールからはそんな感じが一切伝わってきませんでした。たぶん、上から言われて若い人が用件だけを、とりあえず丁寧語で書いておけばいいのだろうと思って書いたメールという感じが露骨にしました。「○○の件」ではなく、「○○に関しまして」くらいのタイトルにするくらいはできないんだろうか。勝手に変更するのですから、低姿勢で「大変申し訳ないのですが……」といった切り出し方はできないのかと不愉快に思いました。

 実は、この部署からのメールで同じような不快感を持ったのは、これで今年2回目でした。同じ人が出したメールかなと思いましたが、違っていました。以前は年配の方が多く心配りのできている部署だったのに、最近若い人に事務が変わったようで、杓子定規で心のこもっていない対応が増えたなとずっと気になっていました。いくらビジネスメールとはいえ、そこに心が籠められるかどうかで相手の受け止め方はまったく違ってきます。なんでほんのわずかな気配りをした文章が書けないだろうと不思議に思っていましたが、たぶんこれはその2人だけの問題ではなく世代全体の問題なのだろうと思い始めています。原因は、LINEです。メールが手紙に取って代わり、顔文字、絵文字の流行でちゃんとした文章が書けなくなってきたと言われて久しいですが、それでもまだメール時代はよかったと思います。LINE時代になって、若者たちは文章で気持ちをちゃんと伝える訓練をまったくしなくなりました。今や、大学教師でも学生とはLINEでやり取りしているという人がたくさんいます。あんな吹き出しに文字が入っているマンガみたいなコミュニケーション手段に大学教師までが乗っかってしまっているようでは、学生たちが目上の人に文章を書く訓練がまったくできなくなります。

 そんなLINEのコミュニケーションに慣れ切った若い世代が社会に出て、いざビジネスメールを書かなければならなくなったら、結局用件のみを伝えるだけの気持ちの籠っていない文書しか書けなくなるのは当然です。気持ちを伝えるためのボキャブラリーが貧困すぎるのです。本も読まない、日記も手紙もメールすら書かない若い人たちは、伝える言葉が見つからないのでしょう。グローバル化もいいですが、日本語をもっとちゃんと使えるようになれよなと強く言いたいです。すべてはトレーニングです。日頃から書く訓練をしていなければ、仕事の上でも失敗しますよ。本を読み、文章を書きなさい、若人よ!

596号(2016.8.1)小池百合子新東京都知事

 小池百合子が新東京都知事に決まりました。722日にこの「つらつら通信」を書いた時には、増田寛也が当選するのではないかと予想していましたが、26日の石原慎太郎の登場で勝負は決まってしまいました。あんな暴言を吐いた石原慎太郎に増田陣営の誰もクギを刺さないどころか楽しそうに笑ってきているのでは、みんな同じ考え方だと評価されても仕方がありません。特に、増田寛也はその後テレビ番組等で、この石原発言について触れられると、毎回「自分のスピーチのことを考えていてあまりよく聞いていなかった」といった逃げばかり打って、挽回のチャンスを逃し続けました。最後の方はもう小池百合子の圧勝になるのは、多少政治がわかっているものなら全員わかるくらいの状態になっていました。やはり、東京では組織選挙を前面に出すと、むしろマイナスの方が大きいというのが再確認されたように思います。

 さてこれからどうなるかですが、小池百合子は立候補の際に都議会解散や舛添問題の追及を打ち出しましたが、たぶん本気でやらないでしょう。状況を読みそれに合わせて自分を変えるのがうまい人ですから、多数派を敵に回すことは避けるでしょう。自民党籍もまだ失っていませんし、安倍総理は増田寛也の応援に一度も出向いていませんので、すぐに関係を修復するでしょう。まあ、あまりも早く、自民党が支持した都知事と変わらないのではないかと見られては、世論の批判を受けますので、しばらくは自民党とも距離を取るでしょうが、1年も経てば、結局自公が与党という都知事になっているでしょう。ただし、そのためには、自民党都連の会長である石原伸晃と幹事長の内田茂の更迭は不可欠でしょう。自民党としても、今回の敗戦の責任を誰かに取らせないといけませんので、近いうちに、二人とも役職を辞任するでしょう。自民党との関係は修復したいと考えている小池百合子ですが、内田茂という都議に関しては、都議会の闇の象徴として議員をやめさせるくらいのところまで持っていかないと、修復のネックになるでしょう。また、それくらいやらないと、「何が行われているかわからない都議会を透明化する」と言った小池百合子にとっては、公約違反のような印象になるでしょうから、ここだけはなんとしても折れないでやるでしょう。舛添問題はほとんど何もしないでしょう。日本人の性格から言って責任を取って辞職した人間に対していつまでも批判し続けるのは好みません。いつまでも舛添問題を追及することは小池百合子にとってマイナスにしかなりません。まあ公約にしていたので、調査委員会でも作って追及しているふりくらいはするでしょうが、そのうちほぼたいした意味のない調査報告書でも作って終了となるのではないかと思います。

 一番、都民がそして国民が気になるのは、オリンピックをどうするかです。組織委員会の言うがままにお金を出すということをするなら、小池知事の評価は大幅に下落するでしょう。どれだけ無駄な支出を削減できるかがポイントです。そこをどれだけ変えられるかで、小池知事の評価は大きく変わります。世論の空気を読み風を作るのがうまい人ですから、何かわかりやすく変わったと見せるのではないかと思います。過去の政治資金等で何か出てきて追い詰められたらわかりませんが、そうならなければ次の選挙も勝って、2020年の東京オリンピックは小池知事の下で開催されることになるだろうと思います。

595号(2016.7.28)オリンピックは必要なのだろうか?

 大学教師になった頃からずっと密かに思っていたことに、オリンピックは必要なのかという問いがあります。4年後に、東京オリンピックが開催されることになり楽しみにしている人が多いとは思いますが、オリンピックを行うことによる順機能は何かと考えると、世界的なビッグ・イベントを間近で見られること以外に何かあるでしょうか。日本人、日本を応援する気持ちが高まるということをプラス(順機能)に見る人――もともと東京オリンピックを呼びたがった石原慎太郎元東京都知事のような保守派――もいるでしょうが、ナショナリズムや国家意識が強まり、国家と国家の競争意識を高め、潜在的な国家間争いの構造的誘発性を高めると見るなら、むしろマイナス(逆機能)という評価もありえます。特に、今年のように、イギリスがEUからの離脱を選択したり、アメリカ第一主義を前面に打ち出すトランプが大統領選挙の有力候補になってしまうような時代において、オリンピックでますます国家意識を高めることは、緊張感を増すのではないかと気になります。

 また経済面から見てもオリンピック開催は大きな負担になります。2020年の東京オリンピックのために使う費用は、誘致の時に示した3000億円強が6倍に膨れ上がり18000億円に達し、1兆円以上財源が不足するそうです。一体この費用を誰が負担するのでしょうか?いくら東京オリンピックと言っても東京都だけに背負わせるわけにはいかないでしょう。結局最後は国が負担をせざるをえなくなるのだと思いますが、ただビッグイベントを間近で見るだけのために、本来は支出しなくてもよかった1兆円を支出するなんてことがあってもよいのでしょうか?一体また国債をどれくらい刷り、国の借金をどのくらい増やすのだろうかと、考えたらぞっとします。日本くらいいろいろな競技施設が整っているはずの国で、そんなに新たにたくさんの施設を作らなければならないというのはおかしいと思います。サッカーのW杯と同じように、国全体の開催として、全国にある様々な施設をフル稼働させてやれば、そこまで施設負担は大きくならないのではないかと思いますが、なぜかオリンピックは都市開催を前提にしていますので、サッカーの予選など一部の競技を除いては、東京あるいはその近辺ですべての競技をやろうとするので、こんな無理が生じるのです。

 基本的には、各競技別で世界大会をやっているのですから、それで十分でオリンピックなんてやらないのが一番だと思いますが、もしもどうしても開催するなら、都市開催ではなく国全体での開催として全国各地の競技場がある場所でその競技は行うことにすれば、無駄な出費も減り、地域活性化にもつながります。開催地選定をめぐってもう何度も汚職事件を起こしているIOCなんか潰した方がいいくらいだと思うのですが、そうできない場合もIOCの権限が弱めるようにすべきです。競技場等に関して、何万人収容でないといけないとか、こういう設備がないといけないとか、そんなことまでIOCが口を挟まなくてもいいはずです。開催国がその経済力の範囲でやれることをやれば、それでいいじゃないですか。日本のような設備も整った豊かな国での開催で18000億円もかかるイベントを一体あと他に何か国が対応できるというのでしょうか。ブラジルで、警察官の給料も払えなくなって、警察官がストライキをするほどの事態になっているとニュースで見ましたが、そりゃ「オリンピックなんかやめちまえ!」と言いたくなるのも当然です。

 1896年に始まった近代オリンピックは、国民国家を単位とした近代国民国家中心社会――そしてその争いとしての国家間戦争――を維持させる機能を果たしてきたと思わざるをえません。「平和の祭典」というキャッチフレーズがむなしく聞こえるのは私だけではないでしょう。でも、こんな風な主張をする私でも、オリンピックが始まってしまえば、「頑張れ!ニッポン」とか応援してしまうわけで、いつも心の底に眠っているナショナリスティックな感情を呼び起こされてしまいます。日本を応援すべではないなんてとうてい言えませんし、この日のために頑張って努力してきた選手はすごいなと思いますが、ぜひ国のためとか思いこみすぎずに、自らのために最高のパフォーマンスを見せてほしいと思います。

594号(2016.7.26)ドーピング問題

 ロシアのドーピング問題が連日のように報道されていますが、聞いている視聴者のうち、ドーピングってどんなことをしているのかわかっている人はどのくらいいるのかなといつも疑問に思っています。かく言う私も、一体何が禁止薬物なのかまったくわかっていません。筋肉増強剤みたいなものはダメなんだろうなと思うくらいで、風邪をひいた時や炎症を抑えるためにわれわれが普通に飲んでいる抗生物質とかは禁止薬物なのかどうかもまったくわかっていません。オリンピック期間中は、風邪をひいても薬が飲めないなんて話も聞いたことがあるような気がしますので、だめなのかもしれませんね。少しネットで調べてみたのですが、難しい薬物名がたくさん出てきてよくわかりませんでした。唯一わかったのは、禁止薬物にも「1. 常に禁止されている物質と方法(使ってはいけない)」「2. 競技会において禁止される物質と方法(競技大会中だけ禁止)」「3. 特定の競技において禁止される物質(該当競技以外の選手は使ってOK)」という3基準があるということですが、正直言って余計複雑でわからなくなってしまいました。「使用可能薬リスト」なども出てきましたが、素人ではこんなことを意識しながら生活なんかできないよなとしみじみ思ってしまいました。

 そんなにもわからないのに、ここで書いてみようと思ったのは、そもそもドーピングはなぜいけないのかということも実はよくわからないからです。一般の人は、薬の力を使って身体能力を上げるのはずるいという素朴な批判意識を持っているとは思いますが、薬の力を使えばそんなに身体能力は激変するのでしょうか。たとえば、我々のような一般人でも、ロシアの薬を使用すればオリンピック選手になれるのでしょうか?たぶん、というか絶対なれないですよね。また薬を使えば、100m9秒を切れるようになるのでしょうか?たぶんそれも無理な気がします。薬物による効果が一体どれほどあるものか、きちんと把握されているのかすら、よくわかりません。

 あともうひとつ気になるのは、薬物以外の様々な科学的技術を使って身体能力を高めることは一切ずるくはないのだろうかということです。科学技術の進んだ先進国が、その知識と財力で優秀な選手の身体的特徴を詳細に分析し、徹底した食事管理と科学的トレーニングで肉体改造し、さらにウェア、シューズ、道具なども科学的に研究して作り上げたものを使用させることはずるくはないのでしょうか。浮きやすい水着が使われ世界記録が出まくった時代がありましたが、確かその後その水着は使用禁止になりましたが――メダルはく奪まではいかなかったはずですが――、それは問題ないのでしょうか。マラソンのシューズなら足にフィットし疲れにくい素材を使ったり、サッカーのシューズなら、回転がかけやすい摩擦が生じやすいシューズにしたりするのは、ずるくないのでしょうか?そんな技術と財力のない国の選手が勝てないのは当たり前だという気がします。薬物以外はどんな科学技術を使ってもOKなのだとしたら、それも変な話だなと思います。

 しかし、各国の選手をまったく同じ条件で勝負させるなんてことはどう考えてもできそうにないので、それだったら逆転の発想ですべてOKにしてみたらどうかなという恐ろしいこともふと思います。薬物の使い過ぎで身体や精神をだめにしてしまう選手も出てしまうかもしれませんが、それは薬物以外のトレーニングでもあることではないかという気もします。どうもドーピングだけが極端なほど批判される理由がよくわからないというのが正直なところです。

593号(2016.7.24)プリンターの突然死

 そう言えば、「つらつら通信」を更新していなかった時期に起きた「ええっ!」と思ったことに、自宅で使っているプリンターが「突然死」をしたという事態がありました。前日まで普通に使えていたのに、まさに「突然」電源が入らなくなったのです。「なぜ?そんな馬鹿な……」と思いながら、いったんコードをはずして付け直したりしてみたのですが、ピクリともしてくれません。仕方がないので、ヨドバシカメラまで買いに行きました。プリンター売り場にいたCanonのお兄さんに事情を話したら、「ああ、そうなんですよね。45年以上使ったプリンターだとそういうことが起きるんですよね。基盤がダメになってしまうと、電源も入らないんですよね。ちょうど今もそういう方がいらしたところです」とあっさり言われてしまいました。あまりにも普通のことのように言われてしまったので、「そうかあ、そんなものなのか」と妙な納得をして、新しいプリンターを買って帰りました。

 パソコンが調子が悪くなって困ったことは幾度かありますが、プリンターは初めてで、それもあまりに見事な「突然死」だったのでつい語りたくなりました。しかし、プリンターだったからまだよかったものの、パソコンに突然死されたら困りますね。基盤がダメになると電源も入らなくなるという事態はきっとパソコンでも起こりそうです。やはり、そうなる前に新しいパソコンにしないといけないということなんでしょうね。

592号(2016.7.23)Pokemon GO」の次に来るのは……

 ついに、日本でも「Pokemon GO」が配信され、早速大人気になっているようです。昨日、梅田のヨドバシカメラに行ったのですが、いつもよりずっと人が少なかったのですが、もしかして、それも「Pokemon GO」のせいだったのかもしれませんね。私は、スマホではなくガラケーですし、まったくやりたいとは思わないのですが、社会学者としてはこのブームに興味はおおいにあります。ポケモンで育った20歳代〜30歳代前半の人にとっては、懐かしさもあるのでしょうが、それ以上にこのゲームの魅力は、自分のいるリアルな世界にポケモンがいるというのが、リアルとバーチャルが融合した気がしてわくわくするのではないかと思います。もしもこの推測が当たっていれば、今後は次々にこうしたリアルとバーチャルの合体ゲームが作られていくことになるのではないでしょうか。ポケモンではなく、バーチャルの可愛い女の子がリアルな世界に現れ、その子をナンパできるゲームなんてできたら、やはり流行らないでしょうか?まあ、ポケモンと違って、他の人に気付かれると、ちょっと恥ずかしいかもしれませんが。いずれにしろ、今後、リアル世界とバーチャル世界を融合させたゲームが次々に出てきそうな気がします。

591号(2016.7.22)参議院選挙と東京都知事選挙

 最近ちっともこの「つらつら通信」を更新していなかったので、数少ない隠れファンをがっかりさせていたかもしれませんね。すみません。授業期間中だったという以上に、空いている時間はもっぱら「関西大学社会学部50年史」を調べ、資料を作り、原稿を書くことに勤しんでいて、ついつい義務ではない「つらつら通信」の更新をおろそかにしてしまいました。この間、参議院選挙は終わり、都知事選が始まり、学内でも学部長選挙、学長選挙がありと、選挙に関心がいくことが多い時期でした。学内の話は下手に語るといろいろ危険なのでここでは語らないことにして、参議院選挙と都知事選挙について語っておきます。

 参議院選挙は自公+改憲勢力で3分の2に届くかどうかがポイントだろうと見ていましたが、まさにそういう数字になりました。ただ、読みがはずれた部分もあります。私は、「おおさか維新の会」は橋下徹なき後、惨敗するだろうと思っていましたが、大阪で2議席取ったのをはじめ、議席を相当伸ばしたのが意外でした。「おおさか」とつけていることもマイナスに左右して、大阪以外では議席を取れないのでは(大阪でも1議席だろう)と思っていたのですが、結果は違いました。私個人としては、まったく支持する気になれない政党ですが、どこがいいのでしょうね?行政の無駄をはぶくというところを一番端的に出しているところでしょうか?

 都知事選は、野党候補が二転三転して、鳥越俊太郎になりましたが、正直言ってがっかりの候補です。見た目はスマートかもしれませんが、あまり深みはありません。彼を出すくらいなら、宇都宮健児の方がよかったと思います。保守は割れ、小池百合子と増田寛也の2人が立候補となりました。鳥越俊太郎と3つどもえの争いという構図になっています。私の予想は、政策がほとんどわかっていない鳥越、きつい感じが出すぎていて男性票はもちろん女性票も入りそうにない小池ではなく、地味だけど手堅そうな増田寛也が勝つというものですが、はずれるかもしれません。おおさか維新の会のように、浮動票の読みはなかなか難しいです。投票率が上がると、有名人である鳥越俊太郎や小池百合子が有利になるのかもしれません。まあ、増田寛也になったからと言って、東京が劇的に変わることはないので、誰でもいいと言えばいいのですが。本当は、増田寛也は、かつて主張していた「東京一極集中が日本をダメにしている」という主張を都知事になった暁に、実践してくれたら、日本の偏った産業配置が変わる可能性もあるのですが、元官僚はそんなことは決してしないでしょう。

 鳥越俊太郎は、万一都知事になったら、4年持つかが不安です。大分老けてきて疲れが目立ちます。ジャーナリストの仕事と都知事の仕事は全然違うので、心労も相当なものになるでしょう。途中でまた交代という可能性も小さくない気がします。一番元気なのは、小池百合子でしょうが、なんか彼女には人徳が感じられないんですよね。「政界渡り鳥」の異名ももつ人だというのもむべなるかなという気がします。都議会との対決姿勢を打ち出していることは多少支持を受ける気がしますが、長期的に見たらどうなんでしょうね。まあでも、女性都知事というのも、対外的にはいいかもしれません。なったらなったで、また週刊誌とかは徹底的に過去をほじくり返すので、また追い落とされることもありえなくはないかもしれません。

 まあそんなこんなで予想とも言えない程度のラフな感想ですが、とりあえず久しぶりに更新してみたということでお許ししください。

590号(2016.6.5)地図を読めない人が増えている

 私のゼミでは、毎年、万博記念公園で1970年の日本万国博覧会の跡を訪ねるというオリエンテーリングを実施しています。記念碑が記された地図を持って園内を探し歩くのですが、最近の学生たちを見ながら、年々地図が読めなくなっているなあと感じます。「僕は地図読めますよ」という学生でも、自分が歩いていく向きに地図をひっくり返したりしながらでないと向かうべきところへの歩の進め方がわからないようです。こういう地図の見方をする人が多くなっているのは、GPS機能のついたカーナビに慣れてしまっているからではないかと思います。もちろん、昔から地図をひっくり返したりしながら見る人は結構いましたが、道路地図を見て車の運転をすることが多い人は、地図をひっくり返したりせずとも、自分を地図の中に位置づけて南向き――地図上では下向き――に進行していても左右をきちんと把握して地図を利用できたものでした。かつては「地図の読める男性の脳と地図の読めない女性の脳は違う」なんてことを主張する人もいましたが、たぶんあれは車の運転を男性が女性よりはるかにする人が多く道路地図などを利用する機会がまったく異なることによる疑似相関にすぎなかったのだろうと思います。今やカーナビでの運転が基本となった男性たちも、地図は進行方向に合わせないと利用できないということになっているのだろうと思います。

 スマホでグーグルマップなど地図が容易に見られるので、地図自体は見る機会は増えているはずです。見る機会は増えているはずなのに読む力は確実に落ちてきているのはなぜでしょうか。グーグルマップなどでは、自分の現在地が「点」で表示され、そこに目的地を入れれば、目的地までの道筋が「線」で表示されます。ほとんどのスマホ地図の利用者にとっては、これで十分でこれ以上の地図に関する情報にはほぼ興味を持ちません。地図は「面」でできていて360度いろいろなところとつながっていることが見て取れるのですが、そういう利用の仕方をする人はほとんどいないのだろうと思います。そもそもスマホの画面は小さいので地図全体を見ようとすると、かなり縮小されてしまいます。現在地や目的地の周辺の狭い範域くらいしか見ることはないのでしょう。知識は、「点」が「線」になり、「線」が「面」となって面白さが増していくものですが、地図情報はまさに文字通りにそういうものです。「面」として地図を読める能力が落ちていくのは心配です。

さて、そんなことをさらに深く考えられる書籍が近々刊行されます。松岡慧祐『グーグルマップの社会学――ググられる地図の正体――』光文社新書(2016/6/16刊行予定 http://amzn.to/1PwxcMy)です。著者の松岡慧祐氏は、片桐ゼミ出身です。私の下で、学士号、修士号、博士号を取得し、現在、奈良県立大学専任講師になっています。学部生の頃から地図の社会学を研究テーマとしてきた彼の初の単著がこのたび刊行されることになったわけです。まだ刊行前なので私も中身は詳しく知りませんが、「「見たいものしか見ない」地図は、社会を、わたしを、どう変えるのか?」という帯の文章からすると、間違いなく上に書いたようなことをいろいろ考えられる内容になっているはずです。もちろん、それだけではなく、地図のもつ社会学的な魅力と可能性も語ってくれているはずです。刊行されたら、ぜひ興味を持って読んでみてください。

589号(2016.5.26)サミットは壮大な無駄イベント

 伊勢志摩サミットが開幕しました。私はサミットほど無駄なイベントはないのではないかと常々思っているのですが、テレビも新聞もちっともそういう批判的な意見を流さないので、私がここに書いてみます。サミットは1975年に初めて開かれ、一度も欠かすことなく、今年で42回目を迎えています。しかし、この42回もやったサミットで何か重要なことが決まってその後の国際社会に大きな影響を与えたということはただの一度もありません。私が知らないだけかもしれないと、いろいろ調べてみましたが、やはり何も出てきません。そりゃそうです。かってに自分たちで主要国とか自己規定している7つの自由主義国の首脳が23日一堂に会したからと言って、何か大事なことが決められるほど、世界は簡単にできていません。今回、安倍総理が「8年前の洞爺湖サミットの時は、そのすぐ後に起きたリーマンショックを食い止めることができなかった。今回はそうならないようしたい」と言ったようですが、食い止められるわけなど、もともとないのです。サミットは7か国の首脳が「俺は世界の先進国の首脳の1人なんだ」とスポットライトを浴びるという意味以外には何の意味もない壮大な無駄イベントです。サミットが開かれて喜んでいるのは各国の首脳だけです。

 マスコミ各社も実は内容的には取り上げるポイントが何もないことがわかっているので、サミットで話し合われる内容より、日本各地でテロ対策のために厳戒態勢が敷かれているとか、伊勢志摩というネーミングで真ん中にある鳥羽市が外され悲しんでいるとか、便乗したメニューができているとか、しょうもないことだけ報道しています。ちょっと真面目なニュースでは、オバマ大統領が沖縄の女性暴行殺人事件に遺憾の意を表したとか、広島に行くとか紹介していますが、そんなことはサミットとは本質的に何の関係もありません。サミットがなくてもオバマが日本にやってくればいいだけのことです。

 今回のサミットの日程では、今日は「世界経済、政治外交」、明日は「気候変動、アジア、開発」などが議題となるそうですが、こういう話を中国やインドといった世界経済や地球環境に大きな影響を与えている国や、イスラム教国を抜きで話しあったって何の意味もありません。GDP(国民総生産)の2位は中国、7位がインド、9位がブラジルです。人口の多さ、環境負荷などを考えれば、これらの国を巻き込まなければ何も変わりません。政治外交だって、現在の最大の危機はキリスト教国vsイスラム教国の問題です。イスラム教国なしで話したって、何も事態は変わりません。

 本気で世界の問題を話し合おうと思ったら、国連の下にテーマ別会議を開き、関係するすべての国を呼んでやるべきなのです。実際、1975年に国連はメキシコシティで「世界女性会議」を開き、その会議以降世界の女性の社会的地位の改善は急速に進みましたし、1992年には、リオ・デ・ジャネイロで開かれた国連地球サミットでは、激論の末「持続可能な開発」をめざすという宣言が採択され、その後の環境と開発へ影響を与えました。それに比べたら、サミットは何の成果も残していないし、残せないようにできています。先進国と思う国だけでも経済問題を本気で検討するなら財務や経済産業などを担当する大臣だけ集まればいいし、外交問題を検討するなら外務大臣だけ集まればいいのです。実際、財務大臣が集まった1985年のニューヨークのプラザホテルで行われた会議では、日本の円安是正が合意され、その後の世界経済に大きな影響を与えています。

サミットは主要国と勝手に自己規定している国の首脳陣だけが楽しい気分になれる無駄イベントです。こんなものは来年以降即刻やめるべきです。でも、スポットライトを浴びることが好きな政治家たちですから自分からはやめようとは言わないでしょうね。ならば、マスコミ等がもっと叩いてくれればいいのにと思いますが、そういう批判的報道が日本では全くなされていないようです。個人的には、舛添のちまちました金の使い方を微に入り細に入り批判している暇があったら、もっと莫大な金を無駄に使い、国民生活にも規制を敷いているサミットこそ批判してほしいと思っています。

 マスコミだけでなく、国民にもサミットを批判する雰囲気がないのは、たぶん日本が欧米主要国の中にアジアで唯一入っていることで、ちょっとした優越感を感じているからだと私は見ています。仲の悪い中国や韓国はサミットには入っておらず、日本だけが入れているという優越感が、日本国民に、そしてそうした空気をはんえいするマスコミにサミットは別に悪くはないと思わせている原因だと私は見ています。しょうもないプライドのために、こんな会議を続けていることの馬鹿馬鹿しさにそろそろ気付く人がもっと増えてもいいのではないかと思うのですが、そう思いませんか、みなさん。

588号(2016.5.22)春場所総括

 今場所は見応えがあり、また爽やかな印象を残す場所でした。13日目に白鵬と稀勢の里が全勝でぶつかり合うことになった日は、朝からスポーツニュース以外でも取り上げるくらいの注目度でした。好勝負でしたが、結果として白鵬が勝ち、翌日には稀勢の里がさらに鶴竜にも負け、14日目にして白鵬の優勝が決まってしまいましたが、最後の3日間の白鵬の相撲はすべて好勝負で相撲の魅力をよく示してくれていました。先場所後味の悪い優勝になった白鵬でしたが、今場所は堂々たる優勝で、優勝インタビューもそれを聞く観客も気持ちの良いものでした。稀勢の里が千秋楽に日馬富士に勝ち、来場所に綱取りがつながったことも多くのファンに白鵬の優勝を素直に祝福する気持ちにさせたのでしょう。稀勢の里には来場所こそこの強い白鵬を破って優勝、そして横綱になってほしいという期待感を多くの相撲ファンが持って、次の名古屋場所を楽しみにすることになります。

 さて、このあたりのことは誰もがスポットライトを当てる部分ですから、私は他の視点に目をつけてみたいと思います。私がここで取り上げたいのは、鶴竜と宇良です。横綱・鶴竜は地味なのですが、いい力士だと思います。穏やかで静かな性格ですが、内に秘めた情熱は素晴らしいものがあると思います。14日目に稀勢の里を破ったのも鶴竜がうまいからですし、千秋楽の白鵬との相撲も負けはしましたが、見事なものでした。知的な力士で私はひそかに応援しています。

 そして、今場所新十両で10勝をあげた宇良という力士が大注目です。関西学院大学を昨春卒業して角界入りし、なんと1年ちょっとで関取になってしまいました。以前レスリングをやっていたということで変則相撲として入門する前から注目を集めていましたが、入門してから徐々に体もできてきて前に出る力が強くなってきました。今年中には幕内に上がっていると思いますが、彼が上がってきたら、相撲人気はますます高まることでしょう。長年相撲を見続けてきた私の目には、そう遠くない将来、宇良が三役に上がっている姿が見えます。そこまでは確実に行ける力士だと思います。できれば、異能の小兵大関になってほしいのですが……。まあでも、そこまで行けるかどうかはわかりません。というか常識的に行ったら無理だと思います。しかし、そうした見方を覆してほしいなと密かに期待しています。超先物買いなのですが、ぜひこの宇良という力士に注目してほしいと思います。

587号(2016.5.22)K氏捕まる

 インパクトのあるタイトルに「なに?」と驚いた方も多かったかもしれませんね。実は、先日初めて高速道路でスピード違反に引っかかりました。京都南ICから高速に乗り吹田に帰ろうとしていた時のことでした。高速に合流したら割と空いていて追い越し車線に入り、ついスピードが上がってしまいました。でも、そんなにすごいスピードではなかったのですが、「妙に走行車線が遅いなあ、なんか一人だけ飛ばしているように見えるなあ」と思っていたら、急に後ろにパトカーが現れ、「えっ、なに?いつからいたんだろう?えっ、まさか僕の車?」と半信半疑に思いつつ、とりあえず気持ち悪いからパトカーを行かせようと思い走行車線に移動したら、横にピタッとつけられて、助手席に乗っていた警察官がマイクを握ってこっちを見て何か言っていました。よく聞こえなったのですが、こっちをしっかり見て喋っていましたので、「ああ、やっぱりか」と覚悟しました。でも、その瞬間「あーあ」と思いつつ、ちょっと好奇心が湧きました。高速道路でのスピード違反ってどうやって捕まえるんだろうと前々から疑問に思っていたので、自らの体験として経験できるんだなとちょっと興味が湧いたのです。

 パトカーは私の車の前に入ってきたと思ったら、後部の窓に「パトカーに」「つづけ」「パトカーに」「つづけ」と文字が繰り返し表示され、しばらく走ると、今度は「ひだりによれ」「ひだりによれ」と表示されました。「なるほどね。こうやって誘導するんだ。うまくできているなあ」と感心しながらついていきました。天王山トンネルに入る前のO型に分かれたすぐくらいのところで、左には出口もあるところだったので、いっぺん高速を降ろされるのかなと思いましたが、路肩の広いところがあり、そこで停車させられ、違反切符を切られました。

109km29qオーバーというかなり不運な捕まり方でしたが、捕まえる警察官もその自覚があったのか、妙に優しく丁寧な物言いだったので、逆らうこともなく、素直に住所も職業も、さらには拇印すら提出してしまいました。18,000円の罰金と減点3点と告げられましたが、ゴールド免許なので、3か月違反がなければ減点は消えるそうです。「この後また高速に戻れるのですか?」と聞くと、「ここは割と車が少ないので、すっと入れます」と言われて、「ああ、ここはそういうポイントなんだ」ということがわかりました。高速道路のスピード違反って、妙なところで捕まえたら、通行の邪魔になったりしますので、スピード違反を捕まえるちょうどよい区間があるんだなということがよくわかりました。18,000円の授業料を払って、日本の高速道路のネズミ捕り仕組みの一端を勉強した感じがしました。

586号(2016.5.20)「男前女子/イマドキ男子」テスト

 最近は「友達」になっている人にしか公開していないフェイスブックの方にせっせと書き込んでいて、私のネット発信の原点とも言えるこの「KSつらつら通信」の更新が滞っていますね。すみません。どうしても反応が多くの人からすばやく戻ってくる方が楽しいので、こうなってしまうんでしょうね。しかし、それではいけないですね。このHPにも隠れた読者はそこそこいてくださっていますし、こちらの更新も頑張っていきたいと思います。

 さて、まずは最近フェイスブックで公開し反応のよかった「男前女子/イマドキ男子」テストをこちらでも公開したいと思います。まず、以下に掲載するテストを深く考えずにやってみてください。

以下の質問にあてはまる場合はYESを、あてはまらない場合はNOに○をつけてください。

Q1.ディズニーランドにはあまり興味がない       ( YES ・ NO )

Q2.京都で抹茶のお菓子を買うのはちょっと恥ずかしい  ( YES ・ NO )

Q3.私物にピンク色をしたものはほとんどない      ( YES ・ NO )

Q4.ケーキひとつに500円を出すのはもったいないと思う ( YES ・ NO )

Q5.飲み会の幹事をしばしばやる            ( YES ・ NO )

Q6.化粧室(トイレ)の滞在時間は短い方だ       ( YES ・ NO )

Q7.カクテルよりビールが好きだ            ( YES ・ NO )

Q8.ハロウィンで盛り上がる気持ちになれない      ( YES ・ NO )

Q9.ファッション雑誌はほとんど見ない         ( YES ・ NO )

Q10.ご馳走になるのは抵抗を感じる          ( YES ・ NO )

 やっていただけたでしょうか?では、YESの数がいくつあったかを数えてみてください。そして、以下の解説文のあてはまるYESの数のところを読んでみてください。

<女性用解説ver.2YESの数による「男前女子度」分析>

0個……「女子度」100%。あなたは完璧な「女子」です。いつ見てもどこから見ても「THE 女子」です。

1個……「女子度」90%。かなり「女子度」が高いです。男性を支え、子どものために「キャラ弁」なんかも作れるタイプでしょう。

2個……「女子度」80%。少し「女子度」が高めです。現実にそうなっていてもいなくても、本音ではできれば女性役割を受け止めて生きたいと思っているタイプです。

3個……「女子度」70%。あなたは現代におけるもっとも多い平均的な女性のタイプです。あまり「女らしさ」を求められすぎるとイラッとするときもありますが、基本的には女性として生きることに肯定的なタイプです。

4個……「女子度」60%。ほんの少しだけ平均的女性よりはあっさりしているだけですが、周りからはあまり女性扱いされないこともあるかもしれません。男性のタイプ次第で、友人になったり、異性になったりする、柔軟なタイプです。

5個……「女子度」50%。結構「男前」です。そう見えていても見えていなくても、実は頼りになる責任感の強い女性です。

6個……「女子度」40%。かなり「男前」です。男性に仕えるといった生き方は難しいでしょう。

7個……「女子度」30%。女を武器にするなんてことは絶対にしないタイプです。こびない女性です。

8個……「女子度」20%。男だからと言って尊敬するなんて人生で一度も思ったことのないタイプです。

9個……「女子度」10%。もうほぼ男です。

10個……「女子度」0%。ここまで行けば格好良いです。

 

<男性用解説ver.2YESの数による「イマドキ男子度」分析>

01個……「イマドキ」というより未来の「男子」かもしれません。「専業主夫」も疑問なくできそうなタイプです。

2個……かなり進んだ「イマドキ男子」です。女性の行動にまったく無理をせずに付き合えるタイプです。

3個……「イマドキ男子」です。リーダーシップを取るより場の雰囲気作りに貢献する方が得意です。

4個……結構「イマドキ男子」です。流行には敏感だし、女性の相談相手にもなれるタイプです。

5個……現代の平均的男性です。バランスが取れています。女性とは相手次第で友人にも恋人にでもなれる器用なタイプです。

6個……現代の平均的男性よりは少しだけ古いところがありますが、それが逆に魅力と思ってもらえることも多いです。適度な男性性でモテるタイプです。

78個……結構古いタイプの男性で、基本的には男性役割を担いたいタイプですが、ものすごく古いタイプというわけではないので、相手次第では柔軟な対応もできるでしょう。女子度の高い人となら性別役割を基本としたカップルに、男前度の高い女性となら友人関係的カップルになれるでしょう。

910個……かなり時代遅れの男性です。「古い奴だとお思いでしょうが……」と自ら宣言した方がよいタイプです。昔の男性です。女性の日常行動に付き合うことは基本的にしませんし、万一しなければならなくなった場合は半日で疲弊しきることでしょう。

 いかがでしたか?当たっていましたか。このテストはもともと「女子度」を測定するイメージで作っていますので、大人の女性の場合、YESの数が増える傾向にあります。女子学生(112)の平均YES回答数は、3.09個に対し、20歳代の社会人女性(17)の平均は3.88個、30歳代女性(22)3.91個、40歳代以上の女性(25)の平均は4.68個になります。男性の場合は女性ほど綺麗には出ていませんが、それでも男子学生(74)の平均YESの回答数が4.68個に対し、社会人男性(37)5.78個とやはりそれなりに差があります。

 そして、このテストは夫婦の相性パターン分析にも使えるかなと思っています。まだデータが十分でないのですが、とりあえず現在までに集まっている20組の夫婦データから、以下のようなパターン表を作ってみました。

「性別役割分業型夫婦」は、伝統的ジェンダーに従って夫婦役割を演じることが自然な夫婦です。

「緩やかな性別役割分業型夫婦」は、基本的にはジェンダーに合った夫婦役割が演じられていますが、そうでない時もしばしばあるといった夫婦です。

「友達型夫婦」は、ジェンダー役割に基づく夫婦という面より、気の合う友人としての面がより強く感じられる夫婦です。

「やや妻主導型の友達夫婦」は、「友達型夫婦」ですが、どちらかと言えばイニシアチブを妻が取ることの多い夫婦です。

「妻主導型夫婦」は、夫が妻に合わせることの多い夫婦です。

「友達止まり」は、夫婦にはならず、同性の友人のような関係性の方がうまくいく異性関係です。左下の「友達止まり」は男っぽい友人関係(ex.酒飲み友達)になりやすいのに対し、右上の「友達止まり」は女子的行動(ex.ショッピング)をともにできる友人関係になりやすいと考えています。

 いかがでしょうか?まだまだ試行錯誤の途中で完成度の低いものですが、公開してみます。もっとデータを集めたいと思っています。興味を持たれた方は夫婦でテストをしていただき、結果をお知らせいただけると幸いです。また、今結婚を考えている相手がいる方も2人でやってみていただくと、将来の夫婦像が見えるかもしれません。楽しんでいただければ幸いです。

585号(2016.5.5)トランプ現象に何を見るか

 アメリカ大統領選挙の共和党候補者がトランプに実質的に決まりました。候補者として名乗りを上げた頃は、泡沫候補の扱いだったのが、ここまでたどり着いてしまいました。民主党は、ヒラリー・クリントンで決まりでしょうから、トランプvsヒラリーの一騎打ちになるわけです。多くの人が、まあ常識的にいったら、ヒラリー・クリントンの勝ちだろうと思っているでしょうが、ヒラリーも嫌いな人は多いので、何が起きるかわかりません。もしトランプが大統領になり、今まで選挙中に言ってきた過激な政策をすべて実行に移したら大変なことになると思いますが、なったらなったで、意外に落ち着き、23の政策以外はプロ政治家に任せて、まあちょっと変わった大統領だったくらいで終わるのかもしれません。

 予測はともかく、共和党の大統領候補になれるくらいの票が集まったのは厳然たる事実ですから、この「トランプ現象」とも言えそうな結果がなぜ生じたのかを考えてみたいと思います。テレビでアメリカ政治に詳しいという評論家がいろいろ語っていますし、私はアメリカ事情に詳しいわけではないので的外れになるかもしれませんが、要するにトランプ人気というのは、タテマエの綺麗事を捨て去ってアメリカの利益を100%前面に出していることによるものではないかという気がします。テロを仕掛けてくる可能性があるイスラム教徒、不法入国をするメキシコ人だけでなく、軍事的同盟国である日本も韓国も、みんなアメリカのスネかじりみたいなマイナスの存在だと切り捨ててしまうことに、拍手喝采をする人は、心の中での人も含めればたくさんいるのだろうと思います。いろいろな過激な発言も、その根っこにあるのは、「アメリカ・イズ・ナンバーワン!」という考え方なのだと思います。現代のグローバル化された世界の仕組みで儲かっているアメリカの支配層は、この仕組みを壊し、場合によっては鎖国――アメリカの場合は「モンロー主義」という方がいいのかもしれませんが――すらしかねない勢いのトランプの台頭には眉を顰めるでしょうが、このグローバリゼーションの下で不遇をかこっていると思う層は、トランプを支持するのだと思います。

 しかし実は、こういう芽はアメリカだけの特殊現象ではなく、日本も含めた先進国にはどこでも生まれつつあるように思います。ヨーロッパ諸国での移民排斥の動きはわかりやすい例ですし、日本での自主憲法制定や愛国的な動きも、そういう背景があってのものと考えられます。経済の必要性から、交通・情報網が発達し一気に進んできたグローバリゼーションですが、大多数の世界の大衆はその必要性を理解できていません。むしろ、グローバリゼーションなんか進んでおらず、国民国家単位で物事が決められた時代の方がよかったと思い始めています。これが、「俺は、アメリカの利益だけを考えるぞ!」と叫ぶトランプを共和党の候補に押し上げた原因ではないかと私は考えています。でも、この論理というのは、ひとつ間違えば、ヒットラーの「アーリア民族こそ最高の民族だ!」という主張ともオーバーラップしてきます。これだけグローバリゼーションの進んだ時代でも、ナショナリズムは、人々の心に簡単に火をつけられるもののようです。世界のあちこちで、第2、第3の「トランプ」が登場してくる可能性は決して小さくないように思います。

584号(2016.4.3)社祭

 新年度が始まりました。大学もフレッシュな新入生がキャンパスを埋め尽くしています。この時期には、各サークルも新人勧誘で気合が入っています。23回生とおぼしき女子学生たちは、ここぞとばかりにおしゃれをして新人勧誘をしているような気がします() さて、ここ数年よく聞くようになったのは、社会学部では、「社会学部祭実行委員会」(通称:社祭)というサークルが大人気で、希望者が多いため、選考まで行われているという話です。「社祭」の誕生から知っている私としては不思議な気持がする一方で、今の時代らしいなと複雑な思いで見ています。

もともと社会学部祭実行委員会は、社会学部自治会の下部組織として毎年希望者を募り構成されていた臨時的な団体でした。上部組織にあたる社会学部自治会が非常に問題のある組織で、出来た当初と違って、一般の学生の支持をまったく得ていない数人の政治的に過激な学生たちによって長らく運営されていたために、社会学部では1999年に、ついにこの組織を学舎から排除しました。そのため、翌2000年から、統一学園祭に向けて社会学部の指揮を取る団体がなくなり、社会学部だけ学園祭を実施できないかもしれないという状況になりました。当時の2回生以上は、社会学部自治会のことを知っていましたし、組織としては消えたものの、まだ関係していた学生も在籍していたので、関わりを持ちたくないと思ったのか、誰も動こうとしませんでした。当時1回生の授業を担当していた私は、「このままだと社会学部だけ学園祭の際に授業になるよ。誰か動かないとね」と1回生をちょっと焚きつけたところ、過去を知らない社会学専攻の1回生を中心に、自分たちが社会学部の学園祭の音頭を取っていきますという子たちが出てきて、これがその後「社会学部祭実行委員会」というサークルになっていったわけです。

その初代の社祭の子たちもうちのゼミ生に何人もなりましたし、その後も社祭からは、うちのゼミにはたくさん入ってきています。今は2年間で終ってしまう社祭ですが、かつては3年間やっていました。3年生が委員長を務めていた時代の最後の委員長と、その前の委員長は、両方ともうちのゼミ生でした。最後の3年生委員長だったY君が、「次の3回生は誰も委員長を引き受けてくれないので、結局2回生が委員長をやることになりました」と嘆いていたのは、もう10年近く前のことです。当時は3回生の10月から就活解禁でしたから、3回生の11月の学園祭なんかやっている場合じゃないという雰囲気になったのでしょうね。そこから、社祭は2年間で終わるサークルになったわけです。

確かに、就職活動とのバッティングはなくなり、人気はどんどん上がってきたかもしれませんが、そうなってからの社祭に入る子たちは、どんどん小粒な学生が増えてきている気がします。就職活動に一切影響を与えない、社会学部生だけのサークルで安心感がある、やることはお化け屋敷やちょっとしたアトラクション、後は模擬店の世話というほぼ高校の文化祭と一緒の活動、そりゃ安心ですよね。でも、つまらなくないですか。高校の文化祭でやったようなことを、大学生になってまたやって、何か成長があるのでしょうか。正直言って、こんなことしかやらない学園祭ならなくていいのではと思います。かつて学生たちを焚きつけて社会学部祭実行委員会を創らせた私が、最近は本当に魅力がない団体になったなとがっかりしています。こんなサークルが大人気になるというのは、しみじみ大学生が子ども化しているからなんだろうなと思います。

社祭だけでなく、学園祭当日キャンパスを歩くと、もうひたすら模擬店だらけです。タコ焼きだ、フランクフルトだ、焼きそばだと、あちこちから声がかかります。「ああ、くだらない」と心底思います。こんな学園祭なんかやめてしまって、ちゃんとした文化発表会あるいはクラス別、ゼミ別での学習の成果発表会にでもすべきです。そうできないなら、もうやめた方がいいです、学園祭なんて。

583号(2016.4.2)「桑子ロス」

 この1年間、NHKの「ブラタモリ」で、タモリとともに町歩きをしてきた桑子真帆アナウンサーが今日の番組で卒業してしまいました。とても残念です。取り澄ました感じがまったくない屈託のない笑い方と物おじしない性格、わからないことは自然にわからないと言えてしまう感じなど、本当にいい子だなと思わせてくれました。タモリも最後に思わず「性格がよくて」とコメントしていましたが、画面から性格の良さ、人生を楽しく生きていけそうな感じがよく伝わってきました。きっと町歩きが好きなおじさんたちは、「ああ、自分もああいう女の子と一緒に歴史や地理を語りながら、町を歩きたいなあ」と思いながら番組を見ていたと思いますので、しばらく「桑子ロス」が語られそうです。かくいう私もその一人ですが。「タモリさんだから、女子アナもあんな風に楽しく歩けるのであって、普通のおじさんには無理ですよ」という厳しい声が聞こえてくる気がしますが、それはおいておきます。

NHKのアナウンサーですから、担当番組はいろいろ変わるのは仕方がないですが、しみじみ残念だなあと思います。これからは毎日夜のニュース番組か何かをやるようですが、たぶんあまり見ないと思います。7時のNHKニュースも担当していましたが、その時の桑子アナウンサーはいわゆる普通のNHKの女子アナウンサーになってしまっていました。夜のニュース番組は午後7時のニュースほどには固くはないでしょうが、やはりニュース番組ですから根本的には変らないような気がします。タモリと街を歩くことによって、彼女の魅力が引き出されていたと思うので、他の番組でまじめにニュースを読むだけの彼女を見るのは、なんだか与えられた仕事を仕方がなくやらされている感じがして可哀想に見えてきます。いつかは「あさイチ」の有働アナウンサーくらいに肩の力を抜いてスタジオ内の番組もやれるといいのですが。

桑子アナの笑顔を「ブラタモリ」で見られなくなったのは残念ですが、タモリは番組進行が上手ですし、若い女子アナの魅力を自然に引き出す空気感を作りだしますので、きっと次の女子アナもそれなりにはフィットしてくることでしょう。おじさんたちの心の「桑子ロス」を埋めてくれる人材に早くなってくれるとよいのですが。

582号(2016.3.31)2015年度締め

 いよいよ明日から新年度が始まります。わが家では唯一家に残っていた娘が東京に引越して、ついに夫婦2人になってしまいました。3人も子どもがいたのに……と思ったりもしますが、自立させるのが子育ての最大の目標ですから、これでいいわけです。ただ、やはり少し寂しい気持があるのは間違いありません。でも、昨日1日、娘とゆっくり桜の咲き始めた京都を散策し、お酒を飲み、25年間の思い出をいろいろ語ることができたので、納得して今日送り出すことができました。結婚式の前夜には言わなかった感謝の言葉も述べてくれて落涙しました。よい年度納めになりました。ここぞという日は大事にしたいものです。わが家の娘だけではなく、たくさんの人が、この新年度に新しい生活を始めることでしょう。みんな頑張れ!とエールを送りたいと思います。

581号(2016.3.26)白鵬の気持ち

 今場所は琴奨菊の横綱昇進がなるかという話題から始まり、稀勢の里の初優勝がなるかという話題に変化し注目を集め、満員御礼が続いて、今日の千秋楽を迎えました。今日、白鵬が日馬富士に敗れれば、稀勢の里と豪栄道の勝者との優勝決定戦になるかもしれないということでみんな注目をしていました。期待通り、稀勢の里が豪栄道に勝ち、最後の一番をみんな固唾を飲んで見守っていたら、なんと白鵬が立ち合いに変化をしてあっけなく勝ってしまいました。午後3時から大相撲放送を見ていた私も正直言って拍子抜けしました。今場所後半の白鵬の充実ぶりと日馬富士の体調不良を考えたら、真正面からぶつかっても9割方、白鵬が勝利するだろうと誰もが思っていたのに、白鵬は変化してしまったわけです。勝負が決まった瞬間の館内のなんとも言えない失望感は、その後の表彰式を見ずに帰る多くの観客を生みだし、さらには優勝者インタビューの際に、白鵬に罵声を浴びせかけ、白鵬が言葉に詰まり涙し、謝罪をするという、半世紀以上相撲を見てきた私でも見たことのない場面を生み出してしまいました。

 変化で白鵬の優勝が決まった瞬間は、私も「それはないだろ。大横綱なのに」と不満に思いましたが、涙する白鵬を見ていたら、責める気はなくなりました。過去3場所連続して日馬富士に敗れていて、不調とはいえ、万一懐に入られて態勢を作られたら嫌だという意識が、とりあえず日馬富士の鋭い立ち合いをかわした後有利な態勢を作ろうとしての変化だったのでしょうが、予想以上の出足で突っ込んできた日馬富士がそのまま土俵外に出て行ってしまったということでしょう。まあ逃げずに受け止めてほしかったとは思いますが、大横綱と言えども人の子です。一瞬の弱気が今日の変化になって表れたのでしょう。褒められた立ち合いではないですが、罵倒しすぎるのも可哀想です。(9日目に稀勢の里も琴奨菊戦で、ぶつかった後、右にかわして簡単に勝ってしまいましたが、そこまで罵倒されてはいません。)

 最近は相撲人気が戻ってきていますが、56年ほど前に野球賭博問題と八百長問題で相撲界が叩かれ続けていた時に、白鵬は1人横綱として相撲界を背負って必死で戦っていました。本場所ではない技量審査場所で優勝した時にも、白鵬は涙を流していました。双葉山と大鵬を尊敬し、日本人より相撲をよく知り愛している力士です。朝青龍が現役だった頃は、悪童イメージの強かった朝青龍に対して、白鵬は模範的な横綱と評価されていたものです。

しかし、この12年、マスコミを中心に白鵬をヒール役に仕立て上げるような報道が多く、白鵬の心も大分荒れてきています。相撲自体も荒い相撲になり、立ち合いからの張り手とかち上げはまるで喧嘩のような立ち合いですし、土俵際の無駄なダメ押しも目立つようになりました。また、先場所の琴奨菊の「日本出身力士10年ぶりの優勝フィーバー」も、白鵬には面白くなかったことでしょう。自分が優勝35回という前人未到の大記録を作ってもちっとも喜ばない日本人が、たった1回琴奨菊が優勝したというだけで、こんなお祝い騒ぎになるのか、自分はやはり外国人力士として日本人は受け入れていないのだという思いを強く持ったことでしょう。今場所の白鵬は強かったですが、荒ぶる横綱という感じで、本来白鵬が尊敬し目指してきた双葉山や大鵬の相撲とは距離が離れ、朝青龍の相撲に近づいていました。

このままだと白鵬の気持ちはどんどん荒んでいきそうな気がします。単純な相撲ファンは、稀勢の里をヒーローにして、ヒール役の白鵬がヒーローに敗れるという構図を楽しみにしていくことになりそうですが、これはよい傾向ではないと思います。どこの国出身の力士であろうと、努力して結果を出している人はきちんと評価すべきです。そういう姿勢を日本人の相撲ファンが見せることで、白鵬の気持が和らぎ、再び本物の大横綱らしい相撲を見せてくれるようになるのではないかと思います。今場所の相撲だけでなく、もっと長期の視点に立って、白鵬を評価すべきです。

580号(2016.3.21)「いいね!」文化に染まらずいたい

 SNSが普及していくので、ひとつくらいは何かやっておこうと思い始めたフェイスブックももう4年ほどやっていることになります。時々しか書きませんが、「友達」になっている人たちの近況などは結構読んでいます。で、いまだに慣れないのが「いいね!」ボタンを押す事です。実はまだ一度も「いいね!」ボタンを押したことはありません。読んでいて興味深いなと思ったときは、コメントを書くかメッセージを送ることにしています。「いいね!」をたくさん押してもらいたいというのがフェイスブックをよく使っている人の思いだそうですから、どんどん押せば喜ばれるのかもしれませんが、なんか嫌なんですよね。思いはちゃんと言語化して伝えるべきだというのが私の信条なので、「いいね!」を押すことは自分の信条からずれてしまいます。まあ時代と合わない信条だと思いますし、かつて「()」は気持ち悪いから使わないと言っていたのに頻繁に使うようになってしまったという過去を持つ人間ですので、そのうち時代の流れに負けてばんばん押しているかもしれませんが。まあでもできる限り抵抗しようと思います。

 一方、若い人たちの間では、今や「いいね!」は不可欠なリアクションボタンになっているように思います。むしろ、人間関係は「いいね!」くらいで済ませるのが基本になっていて、文章で思いを伝えるなんていうのは、相手に負担を感じさせる重たくうっとうしい行為と思っている人が少なくないように思います。でも、本当に「いいね!」を基本にしてしまっていいのでしょうか?「いいね!」に慣れ切ってしまうと、思いを伝える言葉を忘れてはいきませんか?「いいね!」はLINEで言えば「既読」と同じようなものではないですか?「既読」はついたけれど返事をなかなか寄越さない人がいて困るという話をしばしば聞きますが、文章で気持ちや意思を伝えることから遠ざかっていると、返信もうまく書けなかったりするのではないですか。特に、断りの返事をしなければいけない時などは、どう文章にしたらいいのか悩んでしまうということもしばしば起きているのではと推測したりします。

 私は17年もこのHPを運営していて、誰が読んでくれたかどうかもまったくわからないまま、こうやって文章を書いていますので、「いいね!」が欲しいという感覚は持っていません。たまに、私の書いた文章に刺激を受けたと言ってメールをくれる人がいればそれで満足しています。まあ書くこと自体で満足しているという側面が強いのでしょう。たまに、これは反応が欲しいなと思ったときはフェイスブックに書きますが、その時は「いいね!」ではなくて、何かコメントを書いて欲しいと思って書いています。「いいね!」だけ押されると、「そうかあ、コメントを書きたいほどの内容ではなかったか」とがっかりしたりしています。まあ、時代に合っていないだろうなと自分でも思っていますが、もうしばらく頑張ってみようと思います。

579号(2016.3.8)保育所不足を考える

 もともと住みよい街でしたが、最近一段と住みたい街としての評価が高くなっているわが街・吹田市で、この4月からの保育所入所を申し込んだ市民が過去最多の2481人になり、その4割にあたる1018人が1次選考で落ちてしまったために、納得の行かない市民が、事態の改善を求めて毎日のように市役所に陳情に出向いているというニュースが流れていました。保育所不足問題は、吹田市だけでなく、お隣の豊中市も、あるいは首都圏でもあちこちの自治体で起きており、国会でも「こんなことでは1億総活躍社会なんてできないではないか」と安倍総理が詰め寄られたりしています。

 この問題に関して私が思うのは、自治体にのみ責任を追求するのは無理があるのではないかということです。私はこの問題の解決のためには、従業員数がそれなりにいる企業は保育施設を設けなければいけないというような法律を作り、もっと企業に子育ての責任を負わせることが必要だと思っています。ラッシュ時に乳幼児を連れて行くのは大変でしょうから、勤務時間に関する配慮も合せて行う必要があります。もちろん、自治体もなるべく保育所を増やす努力はすべきですが、自治体に子育て責任のすべてを負わせるのではなく、従業員が働くことで儲けを出している企業にも分担させるべきです。企業なら保育室を確保することも、保育担当者を雇うことも、自治体より簡単にできるはずです。

 男性従業員に積極的に育休を取らせよと政府は言っていますが、そんなことを推奨するより、保育施設の設置を義務付けるべきです。企業は新たなコストが生れるので嫌がるでしょうが、かつて男女雇用機会均等法の導入も、育児休暇制度の導入も反対してきましたが、決まれば従いそれが常識化してくるという歴史を経てきています。企業に対する保育施設の義務化法も、それほど難しいことだとは思いません。1億総活躍社会という名の下に、もっと女性に働いてほしいと思うなら、こういう法律が必要だと思います。

578号(2016.2.21)記録を残すことの大切さ

 サッカーに詳しい10期生のMK君とは、日本代表の試合があるたびに、感想をメールでやりとりするというのが我々2人の習慣になっています。彼が2003年に学部ゼミに入った時からこの習慣が始まったのですが、先日その往復書簡のようなメールのやりとりをひとつの文書ファイルにして読めるようにしたら面白いのではと思いまとめてみました。少し見つからないメールもあったのですが、それでも40字×40行で220枚近くの大部のものになりました。十数年間のサッカー日本代表を2人のサッカーファンがどのように分析的に見てきたかという記録で、個人的にはかなり貴重な記録だと思っています。

 最近記録を整理する作業をよくやっています。2012年夏に父の日記を読み始めたのがきっかけだったと思います。父の青春時代(23か月ほど)の日記をワード文書に起し、写真を探し出ししているうちに、どんどん面白くなってきて、結局父の人生年表を作ることまでやりました。父は日記を残していたので、この作業も比較的容易にできたわけですが、そう言えば私自身は日記を継続的につけてはいないので、こんな作業をいつか自分の息子がやろうと思ってもできないなと思い、せめて自分の思い出せる範囲で自分の記録も作っておこうと思うようになりました。継続的な日記はないのですが、中学、高校、大学の初め頃までは時々書いていたのと、あと大学時代入学以降の手帳はすべて残してあったので、それらを引っ張り出して記憶ととともに自叙伝を書きはじめています。アルバムに残された写真もこういう時は貴重な資料です。書きはじめると書きたいことがたくさん出てきてどんどん量が増えてきています。長期の休みの時くらいしか書く時間が取れないので、まだしばらくはかかりそうです。

 もともと記録を書き残すことは好きな方で、実はいろいろな記録を残しています。関西大学でのゼミの歴史はこのHPでも読めますが、他にも2000年に創設した遊びグループでのイベント記録(これまで行ったすべてのイベントの日時、場所、参加者名を記録しています)なんかも残していますし、1991年からの年賀状の記録も、自分が出かけた旅記録(661回)も、教え子たちの結婚披露宴での祝辞の原稿なども取ってあります。記録をつけ始めた頃は、特にこうしたことをすることに強い意義を感じていたわけではなかったのですが、10年、20年と時間が経って記録が積み重なってくると、こういう記録は貴重で残しておいてよかったなとしみじみ思えるようになってきました。記憶は徐々に薄れてきてあいまいになってしまいますが、記録しておけば思い出すことも容易になります。

 個人的な記録など本人以外には興味が湧かない自己満足でしょと思われる人もいるかもしれませんが、人は1人で生きているわけではないので、そういう記録から時代が見えてきたり、人間関係が見えてきたりしますので、後の世に残れば、これもまた貴重な歴史的・社会学的データになりうると思っています。実際に、平安時代の公家の残した日記や、江戸時代の武士がつけていた家計簿などが発見され、歴史的に貴重な資料として評価されています。50年後、100年後に、私が残す記録も、何かの役に立つかもしれません。まあでも、今はそんな大それた思いでやっているわけではなく、ただ単に楽しいからやっているだけですが。

このHPを読んでくださっている人にひとつだけアドバイスをしたいのは、今からでも記録はつけておいた方がいいということです。電子手帳やスマホを記録帳代わりにしていると、機種変更をした時にデータ記録が移行できなかったりすることもあるでしょうから、やはり紙の手帳がお奨めです。手帳を簡単な日記代わりにするというのが楽に記録を残せるやり方ではないかと思います。たいしたことではないと思うことでも記録に留めておけば、後で振り返った時にはきっと書き残しておいてよかったと思えると思います。還暦を過ぎた人間からの実感に基づいたお勧めです。ぜひ始めてみてください。

577号(2016.1.31)学生にいたわってもらえない幸せ?

 一昨日4回生の卒論発表会が終り、恒例で打ち上げをやりました。3回生も結構来てくれていい打ち上げになりました。私は翌日教え子の結婚披露宴だったので、1次会で帰ると宣言していたのですが、何人かに「ええー、先生、2次会にまだ行きましょうよ。披露宴は何時からなんですか?夕方から?じゃあ、いいじゃないですか」と強く誘われ、「いやいや、還暦過ぎているんだから、無理だよ。帰るよ」と言い続けたのですが、結局連れていかれ、12時半まで付き合うことになってしまいました。「ああ〜。明日、大丈夫かな?」と思いながら帰りましたが、ちょっと嬉しかったりもしました。学生からいたわられず、まだ行きましょうと無理を言われるのは、それだけ私が元気そうに見えているという証拠だし、私との心理的距離も近いことの表れなので、無理を言われる方が幸せだなと思ったわけです。

最近は大人しく遠慮気味の学生さんが多いので、1次会終了時に、私が「じゃあ、これで帰るよ」と言うと、「あっ、お疲れ様です」となることの方が圧倒的に多く、引きとめようとする人はほとんどいません。たぶん、今年の4回生もそんな感じでいつも飲み会は終っていたように思います。(六甲合宿の時に、寝ようとしたら引きとめられましたね。でも、引きとめた学生さんが泥酔して翌日使い物にならなくなりましたが(笑)。)昨年の4回生も、最後の鞆の浦合宿の時が唯一引きとめてくれた飲み会でした。まあ、実際、歳は歳なのであまり無理はしない方がいいのでしょうが、学生たちから、「先生はまだいたわる必要はない」とまだしばらくは思われ続けたいなと思います。電車で席を譲られる日と、学生たちから「先生もお歳ですから無理をされないように」と言われる日はなるべく遅く来てくれたらいいなと思います。ああでも、なんでも誘われたら付き合うわけではないので、その辺の御理解はよろしく。つまらなければ、さっさと帰りますし、さっさと寝ます。楽しいかどうかが基準ですので。

576号(2016.1.28)字の下手な学生が増えている

 学期末でテストやレポートの採点に追われていますが、読みながら、ふと「なんか字の下手な学生が増えたなあ」と感じています。ゼミの応募書類などでは、下書きをして書くので、かなり丁寧に書くと思いますが、時間に追われるテストやその場で書かされるミニッツペーパーだとそこまで文字に気を遣って書くことをしないので、普段の文字が現れるのだと思います。少し前までは、そういう時でも、女子学生たちの多くは、結構バランスの取れた読みやすい文字を書いていたのですが、今年は乱雑な字が目立ちます。これは、偶然だったり、私の気のせいではないと思います。たぶん、スマホやSNSの若い人への浸透がもたらした潜在的逆機能だろうと思います。日本でスマホが一気に普及してくるのは、20102011年くらいです。今の大学2年生以下は中学生の時からスマホにしたという人も出てきているはずです。SNSに至っては、20052006年くらいからかなり浸透してきていますので、今の大学生たちは中学校、あるいは小学校時代から、SNS(的なものも含めて)をやっていたという人が多いはずです。

 そういう状況になって急速に消えかけているもののひとつに「交換日記」があるのではないかと思います。つい最近まで多くの女性たちが経験したことのある交換日記の持っていた潜在的機能のひとつに、自分の字をかわいく綺麗に書きたいという気持ちを起させ、女性たちの字を読みやすい字に変えさせてきたというものがあると私は思っています。特に、中学生くらいの多感な時期の女子たちは、洋服や髪型とともに、字も自分を表すように思い、他の人から下手だと思われない字を書こうと努力してきたはずです。上手な字を書くのは難しいかもしれませんが、かわいい字、読みやすい形のそろった字なら、少し努力すれば書けるようになります。また、交換日記をしている友達の字を見ることができますので、その字がかわいければ真似することも容易にできたはずです。

 それがSNS全盛期に入り、悩みも相談も全部ネット上で行うようになり、字を友達に見せることはほとんどなくなってしまいました。こういう状況になれば、綺麗な字、かわいい字を書こうという努力もしなくなり、字の下手な女性たちがたくさん生れるのも当たり前です。そういう世代が、今や大学生の大半になりつつあるのではないかと思います。それが、今年、私に字の下手な学生が増えたなと思わせた原因だと考えています。男子学生は交換日記は基本的にしないし、そこまで文字が自分を表すなどと考えず、もともとあまり綺麗な字を書く人は多くなかったので、ここに来て、急速に字の下手な学生が増えたと私に思わせたのは、女子学生たちの字の劣化によるものだと思います。

 これだけのネット時代ですから、「もう字なんて書く機会はないので、下手でもいいのではないですか」と言う人もいそうですが、意外に文字を書かなければならない場面はまだまだあると思います。上であげたゼミの応募書類もそうですし、企業のエントリーシートも手書きがほとんどでしょう。文字だけですべて決まったりしませんが、初対面の外見と同様、情報が少ない時は、文字からでも「この人はこんな汚い字を書くからルーズな人だろう」とか「こんな几帳面な字を書くからきちんとした人だろう」と普通に人は思うものです。字の下手な人が増えている時代ですので、字の綺麗な人はそれだけでもポイントが高くなります。上手に書けなくても、大きさのそろった好感を与える字程度なら練習すれば書けるはずです。こんな時代だからこそ、少し字を意識して改善してみるのは、思った以上に効果的な結果を生み出すのではないかと思います。チャレンジしてみたらどうでしょうか。

575号(2016.1.24)そろそろ琴光喜を許してあげてはどうか

 先ほど、大関・琴奨菊が日本人力士(厳密に言うと、日本出身力士)として10年ぶりの優勝を遂げました。親方の佐渡ヶ嶽は「これで来場所は、先代親方が待望していた横綱をめざすことができる」とコメントしているのを聞き、そう言えば先代佐渡ヶ嶽親方(現役時代のしこ名は琴桜)は指導力があり、「琴」の文字をついた大関は、琴風、琴欧州、琴光喜、と3人も作ったなあと思い出しました。他にも、琴錦、琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽親方)、琴富士など、魅力的な力士を育てました。基本的な躾にもうるさかったようで、佐渡ヶ嶽部屋の力士は礼儀正しい人が多いという印象を持っています。そんな中で、琴光喜は野球賭博で多額の借金をしていたことが露見し、相撲界を永久追放になってしまいました。とても優しそうないい力士という感じだったのですが、軽い遊び気分で始めたものがドツボにはまってしまったのでしょう。これは、2010年の事件で、その後次々に関与していた力士が判明し、さらにはいろいろな力士の携帯を証拠として押収したら、今度は八百長の打ち合わせまでしていた力士がたくさんいることがわかり、大相撲界はマスコミの餌食となり、本場所中止、客は入らないという冬の時代を迎えました。しかし、2年ほど前から、相撲人気は戻ってきて、今場所はすべて満員御礼という、かつて「若貴ブーム」と言われた頃に匹敵する人気が戻ってきています。

 10年ぶりの日本人優勝が佐渡ヶ嶽部屋の大関・琴奨菊であったこと、その琴奨菊に唯一黒星をつけ、千秋楽まで優勝争いに顔を出していた豊ノ島も野球賭博に関与していたとして1場所の出場停止になった過去を持っていること、過去最高の前頭5枚目で勝ち越しを決めた蒼国来は八百長問題でいったん解雇になりつつも無実を訴え2年半後に勝訴して復帰して頑張っていること、などを知る私としては、そろそろ琴光喜の相撲界の永久追放を解いてやったらどうだろうかという気がしてなりません。かつて「第381号 どこまで本気でやる気なのだろうか?(2010.6.18)」に書いたように、野球賭博はいけないことだと思いますが、本当は非常にたくさんの人が関わっているにもかかわらずほんの一部の人だけがとかげの尻尾切りのように切り捨てられ、そのまま人生浮び上ることもできないなんて、少し罰が重すぎる気がします。解雇になったのは、琴光喜を含めて3名だけですが、関与が明らかになり謹慎や注意を受けた人は、親方で12名、力士22名もいます。親方の中には、当時の理事長や審判部長もおり角界の中枢まで汚染されていたことまでわかっているのに、罰の差が大きすぎます。今更、琴光喜が現役に復帰するのはもう無理でしょうが、親方でも事務方でもいいから大相撲に関わらせてあげたらいいのにと思います。

 大相撲野球賭博問題や八百長問題がマスコミ報道をにぎわせていた頃、一方で市川海老蔵暴行事件(参考:「第392号 歌舞伎界にはなぜ甘いのか?(2010.11.26)」)というのもありました。表面上は、市川海老蔵は被害者ということになったわけですが、事件が露見した当時は海老蔵の品行にもかなり問題ありと報道されたものでした。しかし、今や海老蔵は日本の伝統芸能・歌舞伎を支える若きエースのように言われ、いつかは「人間国宝」になるのが決まったコースに戻っています。なんか琴光喜が可哀想すぎて納得がいきません。とりあえず、琴光喜の相撲界永久追放は解き、相撲に関わらせてあげてほしいものです。

574号(2016.1.24)SMAP問題を語る

 今さらという印象もあるかもしれませんが、これだけ世間で話題になっていると、社会学者としてはやはり何か語っておきたくなります。とりあえず、TV番組の中で「謝罪」をしてSMAPは存続することになったということになっていますが、その「謝罪」というのをさせられたのがおかしいとさらに問題は広がっているようですね。私は生放送では見なかったのですが、YOUTUBEで映像確認はしてネットの意見もいろいろ読みました。まあでも、これについては山のように意見が出ているので。今さら同じようなことを語っても誰も興味を持たないでしょうから、特に意見表明はしません。ここで書きたいのはジャニーズ事務所を企業として見た分析です。

 今回の問題は簡潔にまとめてしまえば、オーナー社長一族がその権力を維持しつづけるために、有能な部下を切り捨てた企業内権力闘争事件ということになります。1事務員として入社した女性社員が自らの才覚と努力によって成功をおさめ、取引先企業から「次期社長という目もあるのでは?」と思われる程の実力を持ってしまったゆえに、オーナー一族から忌み嫌われ、石もて追われることになったという事件です。もしもこれと同じような事態が一般の企業で起こり、それが世間に露見した場合は、通常は「あまりにも前近代的なやり方だ」と、オーナー一族が批判され、そんな企業の商品は買うのを止めようというムードになり、経営が悪化し、オーナー一族は退陣せざるをえなくなり、その後は出自にかかわらず出世が可能になる近代的な企業へと変っていかざるをえないきっかけになったりします。

 しかし、ジャニーズ事務所という企業ではそういう事態になりそうもありません。メリー喜多川という副社長の昨年の『週刊文春』でのインタビューが今回の問題の直接的きっかけであることはよく知られていて、あまりにも冷たい仕打ちだと批判する人は多く、「メリー喜多川の退陣を求める署名活動」なども一時行われていたようですが、そんなものはなんの効果もありません。もしも、オーナー一族に鉄槌を加えたいなら、一般企業と同様に商品の不買運動をすべきです。

 商品というとグッズだとか思い浮べるかもしれませんが、芸能事務所という企業の商品は所属タレントです。ですので、不買運動とは、ジャニーズ事務所所属タレントが出ている番組は見ない、CM出演している商品は買わない、もちろんグッズもCDも買わないし、コンサートも行かないというのが不買運動になります。これを消費者(=ファン)が続けたら、ジャニーズ事務所は干上がり、オーナー一族の総退陣位まで持っていける可能性があります。しかし、今の「ファン」がやっている行動を真逆です。「世界にひとつだけの花」をトリプルミリオンにしようと購買運動をやっていますが、これでは事務所を潤わせてオーナー一族の力を増すばかりです。

 そもそも大マスメディアすら顔色を窺うほどの今のパワーをジャニーズ事務所が持てるようになったのも、ファン層がこの25年ほどの間に急速に広がったせいです。かつてジャニーズ・タレントに熱をあげるのは主として小学校高学年から中高生くらいまでの女子だけだったのが、徐々に大学生、さらには独身OL、主婦とどんどんファン層が広がってきました。今や50歳代以下にはジャニーズ・タレントに熱をあげる女性たちはたくさんいます。かつてなら少ないファン層を食い合うだけだったので、ジャニーズ事務所も何グループも抱え込むことはせず、1グループあるいはせいぜい2グループくらいしか人気グループを持たなかったのが、今や10以上の人気グループを持てるようになっており、このことにより歌番組、バラエティ、ドラマとジャニーズ事務所のタレントを出さないと視聴率が取れないという状況になり、テレビ局はジャニーズ事務所の顔色を窺わないといけなくなってしまったのです。CMでもかつてならお菓子のCMくらいしか出ていなかったのに、今や車、家電、ビール、化粧品など子どもが買わないものにもたくさん登場し、その商品が実際にたくさん売れるという事態が生れています。これが、オーナー一族の力の源になっているわけです。

このジャニーズ・タレント大好き女性たちが減らない限り、ジャニーズ事務所は体制を変えることもなく、ますますオーナー一族は力を持つことでしょう。もしも、こんな体制ではいけないと思うなら、不買運動が一番効果的です。特に、お金をもつ社会に出ている女性たちが行動を変えたら、このいびつなジャニーズ帝国も終るのですが……。

573号(2016.1.9)片桐ゼミの楕円理論

 「学遊究友」を標榜する私のゼミには、「学」と「遊」という2つの焦点があります。それぞれの焦点の中心に私がいて強力な引力でゼミ生たちを焦点に近づけようとします。ゼミ所属が決まるというのは、言ってみれば、私の引力圏内に入ることになります。3回生のうちは、この2つの焦点からの引力で片桐ゼミというまとまりを作っていきます。両方バランスよくいい距離を取って綺麗な楕円軌道を描く人もいますが、「学」の焦点からは距離を取って回り、「遊」の焦点では近い所を回るなんていびつな楕円軌道を描く人も結構います。しかし、いつまでも楕円軌道を描いてもらいたいわけではなく、徐々に「学」と「遊」の焦点を近づけていって、最終的には「学」と「遊」の焦点を一体化させて綺麗な円軌道を――それも水星や金星のように近いところで――描くようにさせるというのが私の理想です。「遊」で仲良くなれば、「学」の面でも切磋琢磨しやすいだろうという狙いです。

しかし、教師の狙いを知ってか知らずかわかりませんが、遊び好きの学年だったりすると、私のめざす2つの焦点の一体化を阻止して、「遊」の焦点の周りばかりたっぷりゆっくり回って、「学」の焦点の方に行くと、あっという間にその近くを取りすぎてしまうなんて学年もしばしばありました。もっとも遊び好きだった学年では、私より強力な引力を発する「遊」の焦点を作る学生が現れ、みんなそっちの周りを回るようになり、最後には、私自身もその周りを回り始めたなんてことも1度だけですがありました。こんな風に教師の狙い通りにならなくても、どこかで求心力が働いてまとまりができれば、それはそれで楽しかったりします。また学年全体では難しくとも、「学」の方でなかなか距離を縮められない人は、個人的に一体化を阻止して「遊」の焦点の方では楽しむということもあっても構わないと密かに思ってきました。勉強ができるとか、よい卒論が書けるだけで人間のすべてが決まったりしません。「卒論劣等生でも遊び優等生」なんて人はこれまでにたくさんいましたし、そういう人たちは、いびつな楕円を描きながらも、「遊」の方ではすごく近くにいてくれて大事なゼミメンバーになっていました。

 最近ちょっと難しいなと思うのは、学生さんたちがまじめになりすぎて、「卒論劣等生」になると「片桐ゼミ劣等生」になったと強く思いこんで、すべてから遠ざかろうとする人が少なからず現れてきていることです。確かに、「学」も「遊」もできるだけ一体化して納得の行くものにしてほしいと願っていますが、もしも「学」がうまく行かない場合は、「遊」は切り離して一体化させずに、そちらはそちらで別に楽しむという割り切りをしてくれる方が余程よいのですが、卒論がうまく行かないと遊び企画すら参加しないという遠心力を働かせてしまう人が少なくないのが残念です。社会学が大好きで、教えるのが大好きな教師ですから、研究レポートや卒論の指導はきっちりやります。いい加減なものだったり、論理構築がうまく行っていなかったりしたら、厳しく指摘もします。しかし、別に研究レポートや卒論だけで、ゼミ生たちのことを判断しているわけではありません。遊びの面などで積極的に貢献してくれたり、雰囲気を盛り上げてくれたりしたら、それはそれで高く評価しています。現役時代から、強い遠心力が働いていたら、卒業後は「ゼミの集い」という引力しかなくなるわけですから、あっという間に宇宙のかなたに飛び去って消えてしまうのだろうなと心配です。一生ものの付き合いもできるゼミなのに、卒論がうまく行かないというだけで遠ざからないようにしてほしいものです。今の学生さんたちだと、私も2つの焦点を一体化させようとせず、わかりやすく最後まで「学」と「遊」の焦点を2つ置きつづけた方がいいのかもしれないなと思い始めています。

572号(2016.1.5)そんな生徒がいいのですか?

 今日の朝日新聞の記事が気になったので、今年最初のつらつら通信を書くことにしました。右のグラフがそれなのですが、調査対象者は高校生1375人と教員500600人だそうです。記事の説明が丁寧でないのでややわかりにくいところはあるのですが、たぶん上の「生徒にとって勉強とは?」というグラフは高校生の回答で、下の「先生にとって好ましい生徒は?」というグラフは教員の回答だろうと思います。1979年と1997年の結果はそれほど変わらないのに、2009年は過去2回とは大きく変化しています。79年から97年への18年では、生徒にとっての勉強の意味も、教師にとっての生徒の評価もそう大きく変わっていなかったのに、その12年後の2009年調査では、生徒にとっての勉強の意味も、先生が評価する生徒も大きく変化しています。その中でもっとも気になるのが、下のグラフに表れている教員の回答です。1979年には20%以下の教員にしか好ましいと評価されていなかった「よく勉強し、テストの点数や席次にこだわる生徒」が30%台の後半に、同じく20%以下だった「試験の勉強はよくやるが消極的な生徒」が30%程度になり、かつて50%近くの教員が好ましいとしていた「授業中、先生をやり込める生徒」が25%ほどに下がっている点です。

 最近大学生たちを指導していて、教員に対抗しようと向ってくる学生が少なくなり、みんな大人しくまじめになったなあ(=ちょっとつまらなくなった)と実感していましたが、高校の教員がこういう評価しているのなら、当然大学生でも、上記のようなタイプの学生が増えてくるのは当然なわけです。しかし、こんな評価でいいのでしょうか。教師をやりこめてやろうというくらいの気持のある学生でないと、こちらはおもしろくありません。小さくまとまり、教師の言うことにはわかっていてもわかっていなくても「はあ、そうですか」みたいな顔をして聞く学生なんて、教える側からしたら、「のれんに腕押し」「糠に釘」みたいでまったく面白くありません。「よく勉強し、テストの点数や席次にこだわる生徒」も私から見たらまったくつまらない学生ですが、「試験の勉強はよくやるが消極的な生徒」なんて、そんなんじゃ社会は生きていけないよと説教しなくてはいけないような学生です。30%近くの教員が、こんな生徒を「好ましい生徒」にあげるなんて、本当に嘆かわしい限りです。教員の許容力もなくなってきているのかもしれませんね。こんな評価をする教員がさらに増えていったら、日本はつまらない国なるでしょうね。