Part10

トップページに戻る

過去の「KSつらつら通信」へ

メールはこちらへ:katagiri@kansai-u.ac.jp

 

<目次>

第358号 00年代はどういう時代として総括されるだろうか?(2009.12.26)

第357号 現代の若者の恋はどうやって始まるのだろう?(2009.12.23)

第356号 ミーハー社会学者の納得が行かない1日(2009.12.20)

第355号 アルバムを作ろう!(2009.11.29)

第354号 関大前の居酒屋で年齢チェック!(2009.11.27)

第353号 鞆の浦のタイヤキ(2009.11.20)  〔追記:2009.11.26〕「タイヤキ娘」さんからの手紙

第352号 「諸星あたる」と「五代裕作」(2009.11.3)

第351号 教員養成課程6年、教育実習1年?(2009.10.23)

第350号 鞆の浦埋め立て差し止め判決に思うこと(2009.10.2)

第349号 日本人は社会学的には150歳まで生きる!? (2009.9.27)

第348号 自民党の行方(2009.9.20)

第347号 今のところ100(2009.9.17)

第346号 ああ嬉しい!(2009.9.15)

第345号 鳩が来る!(2009.9.11)

第344号 若者よ、もっと政治に関心を持ち、もっと発言しよう!(2009.9.2)

第343号 次にすべきこと(2009.8.31)

第342号 今だから言う起死回生の一手(2009.8.29)

第341号 幻の新聞記事(2009.8.28)

第340号 新橋を歩く(2009.8.24)

第339号 夏の甲子園への疑問(2009.8.5)

第338号 大学生活の重要さ(2009.7.30)

第337号 麻生総理にまともなブレーンはいないのか?(2009.7.22) 〔追記:2009.7.30〕

第336号 ドラマ「官僚たちの夏」に注目(2009.7.8)

第335号 男性専用車両が導入される日は近い(2009.6.26)

第334号 東国原・橋下批判(2009.6.26)

第333号 違法ではないのだろうが……(2009.6.21)

第332号 菖蒲とホタルと月影と(2009.6.12)

第331号 政治家の世襲制限について(2009.5.22)

第330号 健康な人はマスクを外そう!(2009.5.22)

第329号 大人になった民主党、少し大人になった有権者(2009.5.18)

第328号 今年度の就職状況について(2009.5.17)

第327号 「害人」団体ツアー(2009.5.9)

第326号 笑顔のバリアーはどこまでもつか?(2009.4.19)

第325号 叩きすぎでは?(2009.4.17)

第324号 なんで?(2009.4.13)

第323号 醍醐・山科を歩く(2009.4.5)

第322号 「片桐おやじ」です?(2009.3.15)

第321号 JRに改善を求めたい(2009.3.13)

第320号 政治献金によい献金と悪い献金があるのだろうか?(2009.3.7)

第319号 WBCが始まるけれど……(2009.2.26)

第318号 WTC移転と関西州(2009.2.24)

第317号 「おくりびと」のアカデミー賞受賞に思う(2009.2.23)

第316号 なんか嫌なシナリオが見えてきた(2009.2.12)

第315号 定額給付金、政府紙幣、次は何が出てくる事やら……(2009.2.11)

第314号 小泉トラップ(2009.2.6)

第313号 「朝青龍場所」の回顧と今後の展望(2009.1.25)

第312号 「逆チョコ」は普及する(2009.1.24)

第311号 最近のお薦め番組(2009.1.23)

第310号 オバマ・ブーム(2009.1.21)

第309号 Y染色体が消滅する!? (2009.1.19) 【追記】(2009.1.23)

第308号 「優しい」社会は本当に優しいのだろうか?(2009.1.16)

358号(2009.12.26)00年代はどういう時代として総括されるだろうか?

 もうじき2009年が終わりますが、ということは00年代も終わるということです。10年前の19991231日から200011日に日付が変わる頃、私はテムズ川のほとりに家族とともにいました。100年続いた1900年代が終わり、新たな「ミレニアム」が始まるということでおおいに盛り上がっていたことを思い出します。(「2000年問題」でコンピュータが誤作動すると言われていましたが、思ったほど何も起こりませんでしたね。)昔話はともかく(興味のある方は、「ロンドン便り」第129号をお読み下さい)、今終わろうとしている00年代はどのような時代として総括されることになるでしょうか?現在進行形で考えるのはなかなか難しいのですが、人は10年単位で時代をまとめて語りたがりますので、数年経てば、00年代は○○時代だったといった言説が世の中にあふれ出すでしょう。どういう時代として語られることになるのか、先取りして考えてみたいと思います。

まずは、過去を振り返ってみると、40年代は「戦争と戦後の混乱時代」、50年代は「復興と戦後政治体制の確立期」あるいは「高度経済成長の準備期」、60年代は「高度経済成長期」、70年代は「オイルショックを乗り越えた安定時代」あるいは「一億総中流時代」、80年代は「過剰な豊かさを追い求めた時代」、90年代は「失われた10年」あるいは「バブル崩壊の後遺症への対応時代」。さて、では00年代はなんと呼ぶのがよいでしょうか?キーワードは、小泉純一郎、構造改革、格差、不安、政権交代、中国の成長などでしょうか。1955年に確立した政治体制、いわゆる55年体制(与野党の政党議席数のバランスだけでなく、政官財の「鉄の三角形」と利権誘導型政治の総称)の見直しやほころびは80年代後半から指摘され始めていましたが、バブル経済とグローバリゼーションの進展によって、完全に崩れ去ったことが誰の目にもはっきりしたのが、この00年代だったということになると思います。よく言われるように、小泉純一郎(や竹中平蔵)が登場したから旧体制が壊れたのではなく、彼らは時代の変化を見えやすくしただけの存在です。格差が広がり、不安定化する社会の中で、若者たちの保守化が進んだ時代だったような気もします。経済的には日本の衰退が明確になった時代とも、後に総括されることになるかもしれません。90年代は、「バブルのつけ」という一時的な「負の遺産」を回収しなければならないために、経済がうまくいかないのもしょうがないと、みんななんとなく思っていましたが、00年代になっても国の借金が膨らみ続けている現状は、根本的なところに問題があり、日本がかつてのような勢いを取り戻すのは無理だということを自覚させられた時代だったのかもしれません。しかし、無理にプラス成長に戻ることを求めずに、穏やかに衰退し、どこかで下げ止まりできるなら、それでもいいのではないでしょうか。経済はよくならなくても、いやよくならないからこそ、国民の政治関心・社会関心は今後高くなる可能性は小さくないようにも思います。経済が安定的な成長を続け、社会も安定していた時代は、国民も「誰が総理になっても一緒」「自民党がずっと政権与党でいい」と、社会について政治について深く考えずに、パワーエリートたちにすべてをお任せすることで済んでいたわけですが、こんな安定感のなくなる時代に入ってくると、自分たち1人1人がちゃんと政治関心を持たないと、痛い目を見るのではないかという不安感も増してきています。政治や社会の動きをしっかり監視しようという空気は徐々に醸成されてくるのではないでしょうか。まあでも、この予測は少し早すぎるかもしれません。多くの人の目には10年代が終わる頃にようやく見えてくることでしょう。で結局、00年代は何時代なのですかという問いに答えないといけないですね。強いて言えば、「格差拡大と不安定化の時代」ということになるでしょうか。要するに、1950年代半ばに確立した日本型安定的体制の賞味期限が切れたことが明確になった時代という意味です。それなりの結論でも出るのは早くて数年以上先ですが、完全な結論が出るのは、2020年代以降でしょう。それまでこのHPが続いていたら、その時はぜひどなたかコメントをお寄せいただければ、と思います。

たぶん今年の「つらつら通信」はこれで終わりです。今年は51本も書きました。過去最多です。意見を述べたくなるネタはいくらでも尽きないようです。来年もまた頑張って書いていきたいと思います。それでは、皆さん、よい2010年をお迎え下さい。

357号(2009.12.23)現代の若者の恋はどうやって始まるのだろう?

 学生たちとたくさんつき合って、その心情を理解しているつもりでいる人間ですが、最近よくわからないなあと思っているのが、恋の始まり方です。つい最近も、バイト先の先輩や、サークルの友人、某一流大学の学生からのアプローチを断ったという話を、複数の女子学生から聞きました。「何か違うんですよね」とか「その後、すぐにあきらめてくれなくて、恐いんです」とか言っていましたが、どうなんでしょうね。そんなに最初からぴたっと来る人なんかいないように思いますし、告白するまで思いを高めた人が断られてもすぐにあきらめきれないのも普通だと思うのですが……。もちろん、積極的に恋愛関係に入ろうとする人もいることはいるのでしょうが、まじめで感じがよく男子受けがよいだろうなと思う人に限って、妙にガードが固すぎて、これじゃ恋愛はずっと始まらないのでは、と心配になってしまいます。すぐにOKを出すのが無理でも、悪い人でなければ、互いをもう少しよく知るために、即断るのではなくて、まずは友達としてつき合ってみましょうなんて選択肢は、今はないのでしょうか?誤解されると恐いから、最初から白黒つけてしまうという発想なのでしょうか。「よく知らない人は恐い人=なるべく関係は深めない方がいい」というのが、今の時代の他者の捉え方なのかもしれませんね。私が若い頃は、もっとみんな他者に対してオープンでした。大学生の時に、友人たちと北海道を旅行した時には、ちょっとかわいいなと思う女性に巡り会うたびに、「一緒に写真を撮りませんか?」と声をかけ、「写真を送りますので住所を教えて下さい」と言って、住所を簡単に教えてもらっていました。10日間ほどの旅行で10数人の女性たちと写真を撮り、住所も教えてもらいました。もちろん悪用なんかしていません。ちゃんと写真を送って、何人かとは文通(なつかしい響きです)をして、再会したりしただけです。この話をすると、今時の学生さんたちは目を丸くして、「信じられない!」と言います。まあ確かにそうなのかもしれませんが、昔はそんなもんだったんですよ。みんな、初めて会った人であっても、気軽に心を開いていました。旅先で恋が芽ばえるかもしれないって結構みんな本気で思っていたものです。今ではありえない発想でしょうね。

 まあ旅先での恋の始まりは無理だとしても、よく知っているバイト先やサークルの友人もみんな「なんか違う」で処理されてしまっては、男子はどうしたらいいんでしょうね。2002年に「恋をしようよ!男の子」(「つらつら通信」第86号)という文章を書き、昨年暮れには「草食系男子」(第307号)にからめて、再度男子学生にハッパをかけましたが、こんな状態では無理ですね。もうまじめで誠実な男子は待つしかないのかもしれません。勇気を出して告白してもあっさり振られ、その後には「ストーカー」扱いが待っているなら、何もしない方がいいに決まっていますよね。ひたすら選ばれるのを待ちながら、草でもはんでいるのが、確かにベストの選択です。私も今の時代の若者だったら、きっとそういう風に過ごしていると思います。ただ、女子の多数派もそんなに肉食系になっていないと思いますので、結局恋が始まらないのではと思わざるをえません。最近もうひとつよく聞くのが、いっぺん別れた人とよりが戻ったという話ですが、これも相手のことがよくわかっているので、新しい恋を始めるよりは安心感があるからではないでしょうか。恋はドキドキ感を味わうものだと思っていましたが、「パートナーが欲しいんですよね」と言っていた女子学生がいましたが、今はドキドキ感より夫婦関係に近い安心感・安定感を、恋愛関係に求めている時代なのかもしれません。そのうち、「婚活」ならぬ「恋活(れんかつ)」が始まるかもしれません。20歳代はじめの女子大生たちが、将来も見据えたよきパートナー(彼氏)探しのために、詳細にデータを集め、ノウハウを練って、男子を選び、男子学生は、かつての花街の顔見せのように、おとなしく声がかかるのを待っている、そんな感じでしょうか。

もうひとつこれと関係するのではないかなと思うのが、もしかすると男子も女子もみんな以前の若者と比べたら「恋愛不要人間」になりつつあるのではないかということです。観察していると、男子は男子で女子は女子でグループを作って、それぞれ楽しくやっているようにも見えます。女子だけの飲み会というのは昔からあったでしょうが、男子だけの飲み会なんて2〜3人程度ならじっくり語り合うためにありえても、それ以上になるなら女子も入れなきゃうっとうしいだけだろと思うのは、昔の人間の考え方なのかもしれません。男子だけの10人以上のグループなんていうのも存在します。何をするのと首を傾げたくなりますが、結構楽しいそうです。同じような仲間たちと過ごしているのが一番楽で楽しいと考えるなら、同性で同い年で価値観も似ている人たちと一緒に過ごすことが多くなるのは当然と言えば当然です。そこに新たな刺激的な何かは生まれにくいはずですが、そんな刺激的なことも要らないのかもしれません。「保守化する若者たち」にとって、恋愛も刺激もなくても構わないものとなっているのかもしれません。

356号(2009.12.20)ミーハー社会学者の納得が行かない1日

 今日は見たい番組がいろいろあって、テレビづけの生活をしていました。でも、どの番組もちょっと納得が行かなかったので、憂さ晴らしに、ここに書いてみることにしました。まず、今日が最終回だったドラマ「JIN〜仁〜」ですが、あの終わり方はないですよね。あんなに伏線をいっぱい出して、何一つ片付けないで終わるなんて……。なんなんですかね、最後もまた伏線みたいなものを出して終わるとは。あの坂本竜馬らしき人物の脳から出てきた赤ん坊風の物体は一体なんなのでしょうか?そして、なぜタイムスリップは起きたのか?歴史は変わったのか?謎だらけで最終回です。納得行きません。続編があるってことでしょうか?原作はどうなっているのでしょうか?納得が行かないだけでなく、気になります。

次に、M-1ですが、まあ決勝第2ステージに残った3組の中では、パンクブーブーの優勝で、あまり疑問はないですが、なんであの3組が第2ステージに残ったのかが納得が行きません。NONSTYLEはいいですが、笑い飯がなんで1位で第2ステージに残るのか、私にはまったく理解できません。あの2人の漫才(?)で笑ったことは一度もありません。島田紳助と松本人志は、笑い飯に評価が甘すぎます。強いて解釈をすれば、プロデューサー的センスのある紳助が、決勝ステージを盛り上げるために、笑い飯を本命に見せかけるために、わざと高得点をつけたと見ることもできそうですが。NONSTYLEは第1ステージと第2ステージをあまりに同じようなネタでやりすぎましたし、連覇させるには華も足りないので、優勝できなかったのは仕方がありませんが、第2ステージに残ったのは当然でした。パンクブーブーは正直言ってあの程度の第1ステージの出来で第2ステージへの勝ち残りは甘いなと思いましたが、第2ステージの3組の中では相対的によかったのは確かです。一般にはあまり知られていないコンビでしょうから、来年は一気に仕事が増える「M-1シンデレラストーリー」が再びということにになるのでしょう。ただし、ネタを丁寧に作っていく芸風ですから、現代のキャラ立ちする芸人とリアクション上手の芸人だけが売れる時代の波には乗りにくいタイプです。露出は増えるでしょうが、サンドイッチマンやNONSTYLEと同じ程度の売れ方がせいぜいでしょう。むしろ、このM-1を境に注目を集めそうなのは、ハライチでしょう。ツッコミの子は、若いのにベテランの味があります。あの何にでもツッコミを入れられるのはたいしたものです。2人のキャラもまったく違うので、テレビ的にも使いやすいコンビだと思います。彼らは来年大きくブレークすることでしょう。私が審査員なら、第2ステージは、ハライチとナイツとNONSTYLE3組を残したと思います。まあでも、M-1の舞台は、動きの少ない正統派「しゃべくり漫才」には不利な舞台です。大きな動きと大きな声を出してテンションを上げていかないと、会場を沸かせられないようになっていますので、最近はそんなコンビばかりが優勝します。喋りのおもしろさなら、ナイツとハライチだったと思います。

3番目に、「たかじんのそこまで言って委員会」が納得行きませんでした。安倍晋三と櫻井よしこという保守派の論客をゲストに迎えての放送でしたが、パネラーが――そしてスタジオ見学している観客まで――そろってゲストに媚びすぎていて、見ていて嫌になりました。もともと右寄りの番組ですが、決してがちがちの右ではなく、柔軟に議論し、保守であろうと、だめなところはだめと言ってきたのが、番組のよさだったはずです。それが仲良し人間たちの媚びあいになってしまっては致命的です。安倍晋三は日本を放り出した元首相です。いくら体調が悪かったにしろ、あんな辞め時をわきまえない無責任な辞め方をしたことの責任はしっかり追及し続けなければ、「たかじんのそこまで言って委員会」の価値はありません。パネラー席には、国会議員パスを使って、愛人と泊まり旅行に行っていた鴻池祥肇と、弁護士資格のない人間に弁護士業務をさせていた西村慎吾が座り、偉そうなことを喋っていました。過去のミスは、それなりの償いをしたらいつまでも言うべきではないとは思いますが、安倍、鴻池、西村の3人は、ちゃんと償いを済ませていません。こんなメンバーにいい顔を見せるだけの、単なる右翼的な番組になるのだったら、やめてしまった方がいいです。観客席の拍手の起こり方なども、最近は気持ちが悪いです。田嶋陽子を代表とする左派があまりに説得力のない理想論ばかり言うので、こういう空気になってしまったのでしょうが、今は右に寄りすぎです。宮崎哲弥のようなバランスの取れた評論家まで、最近はこうした空気に流されています。こんなムードが広まるのは危険です。どのような思想的立場に対しても、健全な批判をできる精神が大切です。今のままでは、「たかじんのそこまで言って委員会」は、マイナスの方が大きい番組になりそうです。

355号(2009.11.29)アルバムを作ろう!

 今、梅田のHEP FIVEで、「アルバムEXPO」という企画が行われています。この企画に、うちのゼミの卒業生でカメラマンの卵(?)をやっているFT君が参加するということで、昨日見に行ってきました。50人の有名人(?)が自分のアルバムの一部とメッセージを展示しており、あとFT君も含めた6人がトークショーをするということで、それも見てきました。どちらの企画もせっかくの素材を生かし切れていなくて、もったいないなというのが率直な感想でしたが、確かに冊子体のアルバムを見直そうという意図はおおいに賛同したいと思いました。写真は間違いなく歴史に思いを馳せられる貴重な素材です。写真に写っている人々の人生に思いを馳せられるだけでなく、そこに写っている様々な物から時代を感じられます。最近は、デジタルカメラの普及に伴い、カメラは一家に1台から一人1台の時代になり、みんな写真を撮りまくっていますが、SDカードやパソコンに保存したままで、冊子体のアルバムを作らなくなっており、結果として撮ったままあまり見ておらず、そのうちパソコンが壊れたら写真自体を見られなくなってしまったなんて経験をした人も少なくないと思います。

私も、カメラをデジタルに変えた2002年頃から、冊子体のアルバムをほとんど作っていません。しかし、これまでには、たくさんのアルバムを作ってきました。生まれてから結婚するまでの個人のアルバムが6冊に収められており、結婚式のアルバムは独立して2冊あり、結婚後の家族のアルバム、いつの日か子どもたちが独立した時に渡そうと思って作っていたアルバム、他に旅のアルバムは数十冊にも及びます。特に見ていておもしろいのは、やはり自分の成長アルバムです。1冊目は1歳〜小12冊目は小2〜小53冊目は小5〜高24冊目は高2〜大15冊目は大1〜修士1年、6冊目は修士1年〜結婚直前まで。1冊目が1歳から始まるということは、私の0歳の時の写真は1枚もないわけです。今はおそらく1歳の誕生日を迎えるまでに、何百枚もの写真が撮られていることでしょうね。2冊目までのアルバムはすべて白黒で写真に父親がコメントを一言ずつ書いてくれています。その真似をしたかったのでしょうが、3冊目からは自分でコメントを書くようになっています。小5の時の自分の字が読めるのも楽しいものです。この3冊目の最後の方でようやく写真がカラーになります。4冊目以降は家族がほとんど登場しなくなり、旅行した時の写真が大部分になり、中には旅の切符やパンフレットなども貼ってあるところもあり、当時の旅の思い出が蘇ります。30歳で結婚したので、ちょうど1冊が56年きざみになっていて、30歳までの自分の人生を簡単にふり返ることができます。たまに、子どもたちに昔話をする時にも、アルバムを見ながらということができるので、便利ですし、話が伝わりやすくなります。きっとこの程度の量がちょうどよいのだと思います。結婚後、特に子どもが生まれてからは写真が多すぎて、簡単に見られなくなってしまっているので、改めて厳選した家族のアルバムを作り直しておこうと決意を新たにしました。

そうそう、アルバムをめぐるちょっといい話もありますよ。下の子が生まれる時に、早期出産にならないように、妻が1ヶ月ほど入院することになったため、当時1歳半だった息子を私の実家に預けたのですが、そんなチビだったくせにちゃんと親はわかるようで、息子は毎朝起きると実家にあったアルバムの私と妻が写っているページを開いて見ていたそうです。この話を聞いた時はいじらしくて本当に泣けてしまいました。こんなことも冊子体のアルバムがあったからできたことですよね。みなさんも、冊子体のアルバムを作ってみませんか?どうせなら、自分の思いを込めやすいレイアウトの自由なアルバムがいいですよ。

354号(2009.11.27)関大前の居酒屋で年齢チェック!

 先日、関大前のある居酒屋で学生たちと飲み会をやったときに、最初に店員さんが現れて、「年齢確認のできるものをお出し下さい」と言い、すべての学生たちの学生証チェックをし、未成年がいないかどうかの確認をされました。当然、「未成年にはアルコールは飲ませません」という店側の意思表示だったわけですが、この飲酒に関する法律の厳守にはおおいに疑問があります。ほんの少し前までの社会常識では、大学生は実質的にお酒を飲んでよい存在でした。1980年代半ばにNHK特集で流された東京大学の新歓コンパの映像を先日見たのですが、テーブルの上にお酒がいっぱいならんでいて、新入生が普通にお酒を飲んでいました。つまり、大学生がお酒を飲むことは誰も問題視していなかったことの表れです。それが最近急に厳しくなってきました。こういう変化が起きたきっかけは何だったのか、よくわかりませんが、私はよい変化だとは思いません。未成年の大学生がお酒を飲むことは、制限速度を10km以内のオーバーで車を走らせるのと同じくらい、社会的には許容されるべきことです。この飲酒に関する法律を厳守することは、社会的にはマイナス機能の方が多いと思います。私は常々大学の4年間を通して少しでも大人になろうと努力して、一歩でも「大人」に近づくことが大切だと訴えていますが、その中には、お酒の飲み方を覚えるということも入っています。もしも、最近始まったこの年齢チェックが一般化すると、学生たちの大部分は大学1年生の時は一切お酒は飲めず、早生まれの学生であれば、大学3年生が目の前にやってくるまで飲んではいけないことになります。半年も経ったら、就職活動も始まります。そして2年経ったら「お酒も飲めずに営業ができるか!」なんてことも言われかねない世界がすぐそこに迫っています。2年生の途中からしか全員が飲めないということであれば、クラブ、サークル、友人同士の集まり、すべて運営がしにくくなります。こんな法律厳守は「百害あって一利なし」です。まあお店も何かあったときに責任を問われては困るので、こういうお店のやり方を批判も仕切れないのですが、これが広まるようなら、法律の方を変えて、高校在学中でない18歳以上はお酒を飲んでもいいことにすべきです。こんなところばかり厳しくしていたら、ますます「子ども大学生」を増産し、ひいては「子ども社会人」をたくさん生みだすことになります。適切なお酒の飲み方(自分の飲める量を知り、「イッキ」などの無理な飲み方ではなく、楽しく飲めるようになること)を知ることは、人生を生きていく上でもとても大切なことだと強く主張したいと思います。ただし、私がこういう主張をしたからと言って、それを根拠に関大前の居酒屋で店員さんと闘ったりしないようにしてくださいね。問題行動が起きた場合、現行法律で罪に問われるのは、未成年で飲んだ側、飲ませた側になるのは間違いありませんので。今すべきことは、社会常識にあった法律改正を求めていくことでしょう。どこかの論壇にでも投稿しましょうかね。マスコミが取り上げたら、議論にはなると思います。20歳からなら飲酒可にしてよい科学的な根拠などは何もないと思いますので、それなら社会的な根拠に従うべきです。

353号(2009.11.20)鞆の浦のタイヤキ

 鞆の浦のSホテルには毎年ゼミ合宿でお世話になっています。まったくの偶然なのですが、現在の支配人さんが関西大学社会学部社会学専攻の出身ということもあり、特によくしてもらっています。このホテルでは夕食時に、ホテルの従業員によってなかなか迫力のある和太鼓の演奏が行われるのですが、今回の演奏では若い女性従業員の方も加わっていました。一所懸命演奏されていたのですが、まじめな表情というより、かなりつらそうな顔をしているように見えました。そして演奏が終わった瞬間、二の腕をさすっていたので、本当にきつかったんだろうなということがよくわかり、なんか可哀想だなと思ってしまいました。その後、ちょっと飲みに行ってホテルに戻ってきた時に、たまたま彼女と会ったので、「さっきは頑張ってたね。でも、もうちょっと笑顔があるといいね」と一言だけ声をかけました。「はい!」とさわやかに返事をしてくれました。その話を翌日、支配人さんにしたところ、「彼女から先生にそう言われたと報告を受けています」と話してくださり、彼女がまだ高校を出てから2年目の子だと言うのを聞いて、改めてすごく頑張っているんだなと一段と感心しました。「今の時間帯はホテル横のタイヤキ屋でタイヤキを焼いているのでよかったら寄って行ってやってください」と言われたので、タイヤキ屋さんに寄り、「頑張ってね」と一声かけてバス停に向かいました。歩き始めてちょっとした時に、後ろから「先生!」と呼ばれ、振り向くと、彼女がタイヤキを持って走ってきました。「よかったら、バスの中で食べてください」と彼女はアツアツのタイヤキを渡してまた走って戻っていきました。バスの中で食べたタイヤキはあんこがはみ出すほど入っており、まだまだプロのタイヤキにはなりきっていませんでしたが、心の温かくなる素敵なタイヤキでした。

〔追記:2009.11.26〕「タイヤキ娘」さんからの手紙

上でエピソードを紹介したSホテルの彼女から手紙をいただきましたので、許可を得て、掲載させてもらうことにしました。嬉しいですよね、こういうつながりができることは。手紙なんてほとんど書かない世代でしょうから、さぞや苦労したことでしょう(裏話は、「ゼミ生以外の方々からの声」102に掲載した支配人OT君からのメールをご覧下さい)。でも、この1枚の手紙が届けてくれた思いは、とても大きなものです。鞆に行く楽しみがまたひとつ増えました。

352号(2009.11.3)「諸星あたる」と「五代裕作」

 なんの話だろうと思わせるようなタイトルですが、特にひねったわけではありません。ここ30年ほどの間の男性たちの変化を調べていて、ふとこの2人のことが思い浮かんだのです。きっかけは、1977年に男性も保育職員になれるようになったという年表を見ながら、そういえば「めぞん一刻」の五代君って、保父さんになろうとしていたなと思い出したことです。その上、彼は酔っぱらわないと、響子さんに告白もできない優柔不断な男子だったなということも思い出したら、彼は今たくさんいる「草食系男子」のはしりだったんじゃないかと思ったわけです。このマンガは19801987年の連載ですので、高橋留美子はずいぶん早くに時代の変化を見抜いていたことになります。ただ他方で、1978年から連載が始まり同じ時期に並行して連載していた(終了も同じ1987年)「うる星やつら」の主役である諸星あたるは、かわいい女性には目がなく、ラムの電撃を受けながらもくじけることなく女性に向かっていく「肉食系男子」でした。ちょうど過渡期だったのでしょうが、「諸星あたる」と「五代裕作」の2人を1人の女性マンガ家が同時期に書いていたというのは、なかなかおもしろい事実だなと思いました。ちなみに、ヒロインであるラムと響子さんは行動の仕方は違いますが、嫉妬深く愛に生きるかわいい女性という点で、まったく同型です。そして、今の時代の女子学生たちもラムや響子さんのような存在たらんとしていますので、その点でも高橋留美子は時代を見抜いていたのかもしれません。

351号(2009.10.23)教員養成課程6年、教育実習1年?

 民主党政権になって、自民党政権時代とは異なる政策が次々と打ち出されています。しかし、その中には、よりよい政策とは言えないものも多々あると思っています。そのひとつが、今年4月から始まったばかりの教員免許更新制度を来年にはやめ、代わりに、教職大学院などをたくさん作り、教員になるために6年(大学4年+大学院2年)も大学に通わなければならない制度にし、教育実習も2週間から1年間にするという案です。私はこの民主党の改定案にまったく賛成できません。よりよい教師を作るのは大学や大学院の授業ではありません。実際に教育の現場で責任をもって生徒たちを指導していくことによって養われるものです。1年目などは悩みばかりでしょうが、3年、5年と経験をつむことで初めて教師としての実力をつけていくのです。責任が中途半端な実習なんて長くやっても意味がありません。人が好きで、分析力があり、しんどいことにもある程度耐える力を持っている人なら、きっといい教師になれます。無駄に大学に留めおかず、どんどん現場に出すべきです。

350号(2009.10.2)鞆の浦埋め立て差し止め判決に思うこと

 昨日、広島地裁で、鞆の浦埋め立て架橋計画を差し止めよという判決が出ました。新聞、ニュースで大きく取り上げられていましたので、ご存じの方が多いと思います。とりあえず、あの美しい景観を妨げる計画にストップがかかったこと、そして鞆の浦の歴史的環境が国民的財産であるという指摘がなされたことを喜びたいと思います。しかし、今回の判決は、差し止めを求め、現状を維持することの必要性を指摘しているだけのもので、よりよい保全のためのアドバイスなどは含まれていませんので、下手をすると、鞆の町はこのまま「凍結保存」あるいは「放置」ということになってしまうかもしれないという危惧の念も私は感じています。今は、「ポニョ」のイメージが作られた港町ということで観光客も来ているようですが、「ポニョ」ブームなんていつまでも続きません。「トトロ」は狭山丘陵だと言われていますが、今はそのことをどのくらいの人が知っていて、それを求めて訪ねて行っているでしょうか?20年前から鞆に通い、鞆の素晴らしさを、機会あるたびに伝えてきた私としては、鞆がただのアニメの舞台としてだけ語られるのが残念でなりません。もちろん、宮崎駿という有名アニメ作家が関わりを持ってくれたことが、鞆の歴史的環境を守るために大きな意義があったことを認めるのにやぶさかではないですが、わずか45年前に初めてやってきた人に、鞆のことがどれほどわかっているのだろうと疑問に思います。今日の朝日新聞に宮崎駿氏のコメントが掲載されていましたが、「不便を忍んで生きろ」とか「あの程度の渋滞はどこでも起こっている」とか「歩いていて人に会わない町だからいい」とか言っていますが、なんかひどい言い方だと私は憤慨しました。その町で暮らしている人にとって、不便であること、歩行者も歩けないほどのひどい渋滞にしばしば出会うこと、そして人がどんどんいなくなることは、深刻な問題です。東京の郊外で心地よく自分の好きな仕事だけしている著名作家が、安易に語っていい言葉ではありません。鞆にはまさに国民にとっての宝とも言うべき歴史的環境があることは間違いありませんが、多くの住民が不満と思う生活環境があるのもまた事実です。そのバランスを取らなければ、鞆は長期にわたって素晴らしい町として生き続けられません。一切手をつけない保存ではなく、その価値を壊さない範囲で適切な改善を加えていく保全にすべきです。おそらく、原告団住民の方がその辺はわかっていることでしょう。これからの鞆をどうしていくかに関する新しい計画案を作らなければならないはずです。参考のために、昨年私が朝日新聞に寄稿した鞆の問題に関する文章を掲載しておきます。

 

349号(2009.9.27)日本人は社会学的には150歳まで生きる!?

 最近ちょっとネタ枯れ気味でもうひとつおもしろくなかった「たかじんのそこまで言って委員会」ですが、今日の最後の10分でやっていたネタは実に興味深かったです。それが、「日本人は150歳まで生きられるようになる」というテーマでした。最初は何を馬鹿なことを言っているんだろうと適当な気持ちで見ていたのですが、あっという間に「なるほど!それなら150歳まで生きるかもしれない」と思ってしまいました。どういうことかというと、医学が進歩して生物学的に見て150歳まで実際に生きられるようになるということではなく、「社会学的」(実際番組で使っていました)な意味で150歳まで生きるという話です。まだよくわかりませんよね。つまり簡単に言うと、死亡届さえ提出されなければ社会的には死んだことにはならないということなのです。そして死んだことが確認されない限り、年金は支出されるのだそうです。この年金を受け取り続けるために、死亡届を出さないという家庭が実際にあるのだそうです。今日の番組で紹介された情報では、100歳以上の高齢者は4万人以上いると発表されていますが、それは住民基本台帳に載っている(死亡届の出ていない)人の数で、本当にそれだけいるとは厚生労働省でも思っていないそうです。実際に生存が確認されている100歳以上の高齢者は約半分の2万人強だそうです。考えてみると、学校に通う子どもたちなどと違って、超高齢者は家族以外に会わずに暮らしている人の方が多いでしょうし、誰もそれを不思議に思っていないので、生きているのか死んでいるのか確認するのは容易ではないようです。年金程度の収入でも貴重だと思っている家庭はたくさんあるようですので、このまま行けば、死亡届が出されずに、150歳まで生きている人が実際に出てしまう可能性があるという話でした。なるほどと納得してしまいませんか?私は納得してしまいました。こんな馬鹿なことが実際に生じないように、年に1回程度は役所から生存確認をしないといけないですね。しかし、死んだ人を生きていることにして年金をもらう、それを防ぐためにお年寄りの生死の確認を厳しくする……なんか世知辛い話です。

 

348号(2009.9.20)自民党の行方

 地味に始まったのであまり注目されていませんが、私は自民党総裁選に注目しています。当選するのは、谷垣禎一で決まりだと思いますが、その後河野太郎が離党をして、渡辺喜美の「みんなの党」と合流することになると思いますので、そこに何人ついていくか、誰がついていくかが最大の関心事項です。河野太郎の主張ははっきりしています。当選回数が多いだけで政治理念もないような政治家が幅を効かす政党は不要である。民主党が社会民主主義的政策を多く打ち出しているのだから、そのライバルとなるもうひとつの政党は自由主義的政策を打ち出すべきだと言っています。筋は通っています。ただ、広い支持は得られません。古い政治家を追い出したいというのは若者を中心とした世論の支持はありますが、年配者の多い自民党支持者には喜ばれません。また自由主義的政策を強く打ち出すのも、日本人の多数派が望んでいるものではありません。こうした主張は小泉純一郎と一緒なのですが、残念ながら河野太郎には小泉純一郎のような愛嬌がありません。それでも、河野太郎はやるでしょう。森喜朗や青木幹雄、町村信孝などの固有名詞を出して露骨な批判を展開していますから、自民党総裁になれなかった時には離党すると腹を決めているとしか思えません。さて、ここに何人ついていくでしょうか。総裁選の推薦人は20人いますが、そのすべてがついていくことはないでしょう。錆び付いていますが、まだまだ「自民党」という看板は価値があると思っている人がほとんどでしょうから、結局一桁の人数にしかならないだろうと思います。かつて河野太郎の父親である河野洋平が自民党を飛び出し、「新自由クラブ」を作り、一時的な人気を得たものの、その後じり貧となり、最後は実質的に自民党に吸収されてしまうという歴史を繰り返すのかもしれません。ただ、あの頃は自民党に代わって政権を担える政党がなかったので、ああなるのは当然と言えば当然でしたが、今は「民主党」という政権を担う別の大政党がありますので、かつてとは同じシナリオにはならないかもしれません。河野太郎の政治理念は、経済政策では現在の民主党の政策との距離はありますが、脱官僚依存・政治主導などに関しては、自民党よりも民主党に近いとも言えます。もしもこういうやる気のある政治家が全員自民党に戻らず民主党寄りになってしまったら、それこそ自民党の将来はないかもしれません。とりあえず、谷垣自民党は人気は出ないでしょうから、民主党の失点を待つ受け身の野党になりそうです。意外に民主党政権は長持ちするかもしれません。

347号(2009.9.17)今のところ100

 ついに、鳩山新内閣が船出しました。かなり期待できそうな内閣です。民主党は健全な野党でいる間に、人材をこんなに育てていたんだなと感心しています。森喜朗以前の自民党内閣は「派閥順送り内閣」で、当選回数が一定以上に達したら得意分野かどうかにかかわらず、ともかく大臣にしてやるというやり方でした。こうしたマスコミ受けの悪いやり方を一切やめた小泉純一郎が作った内閣は、毎回マスコミ受けのみの「サプライズ人事」ばかり考えて、意味なく民間人や女性、新人などを起用していました。小泉自身は「適材適所」と言い切っていましたが、法律をほとんど知らない南野千恵子を法務大臣にするなどというめちゃくちゃなことをぬけぬけとやっていたひどい内閣でした。その後を継いだ安倍晋三と麻生太郎は典型的な、仲良しばかりを集めた「お友達内閣」でした。どちらも、その「お友達」が失点を重ね、窮地に追い込まれていったのもむべなるかなという感じでした。もともとたいして総理大臣をやる気のなかった福田康夫はかつての「派閥順送り内閣」を基本にしたつまらない内閣を作っていました。そうした自民党内閣に比べると、今回の鳩山内閣の大臣の顔ぶれは堂々たるものです。新大臣恒例の記者会見でも、これまでの自民党内閣では必ず何人かいた「まだ不勉強ですので、これからしっかり勉強して、職務を果たしたいと思います」なんて頼りないことを言う大臣は1人もいませんでした。今回も、何人かは必ずしもその分野に精通していない大臣もいるようですが、「政治主導」を打ち出していますので、それなりにしっかり応対していました。一番難しかったであろう国民新党の亀井静香と社民党の福島瑞穂も上手に配置しました。亀井が郵政問題担当大臣になったら、国営に戻したりするのかなと不安に思ったりもしていましたが、そこまで戻すことはしないと、昨晩すでに明言していました。福島瑞穂の「消費者庁・少子化対策・男女共同参画・食品安全」はぴったりでしょう。私は、この内閣で、この10年以上議論が止まっていた「夫婦別姓制度」が実現されるのではないかと密かに期待しています。「別姓夫婦」を法的婚姻の選択肢と可とする案は多くの国民の支持するところだと思います。福島瑞穂自体がそういう実質婚を行っている人ですから、ぜひ実現させてほしいと思います。自民党の中堅・若手にも支持者はたくさんいると思いますので、法案さえ提出されたら、きっと可決すると思います。

 最後に鳩山由紀夫新総理についても一言。830日の総選挙以来、マスコミにつきまとわれていますが、実に対応がうまいです。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉通り、気持ちが入っています。決して不快感を与えず、かといってマスコミに冷たくすることもなく、ややこしい話は上手にかわしたり、語れないことはきちんと語れないと言い、国民にお願いすることはお願いし、見事に対応しています。前の総理はひどすぎましたが、人気のあった小泉のパフォーマンス発言とは違う誠実さを感じる発言で、ここでも100点を与えていいように思います。とりあえず、「政権交代」に期待感を持って投票した国民は、今は満足していることでしょう。

346号(2009.9.15)ああ嬉しい!

 この夏、私がなした最大の仕事(?)は、キッチンの大掃除なのですが、先週電子ジャーを磨いてピカピカにしたのですが、その際にスイッチボタンのあるパネル部分にも水をかけてしまったために、表示がおかしくなりボタンもまったく反応しなくなって、「壊してしまった!」と落ち込んでいました。ようやく時間が取れるようになった今日新しい電子ジャーを買いに行こうと思っていたのですが、なんと5日ぶりに電子ジャーが元気に復活していました!いやあ、嬉しかったです。ちょうど忙しくて買いに行けなかったのも結果的によかったようです。すぐに買いに行っていたら、せっかく使えるものを無駄にするところでした。きれいになって復活した電子ジャーで炊いたご飯はいつも以上においしかったです(快笑)。

345号(2009.9.11)鳩が来る!

 今や「鳩」と言えば、「鳩山由紀夫次期総理大臣」が思い浮かび、また政治の話かなと思った人も多いと思いますが、違います。本物のハトの話です。最近(というかここ数年前から)うちのマンションはハト公害がひどいです。うちのベランダにも朝になるとつがいでやってきて、クウクウとうるさく、そしてフン公害がひどいです。いろいろ薬品を撒いたりもしていますが、効果がありません。ベランダにネットを張って、シャットアウトする家も多くなってきました。ハトはなかなか賢く、安全地帯をちゃんと見つけて住み着いているようです。人を見ても普通に歩いている程度では逃げようともせず、なめきった態度です。ハトは平和の象徴とか言われていますが、なんか役に立っているのでしょうか?もう少し排除してもいいように思います。1960年代頃までは、町中に野良猫や野良犬がいっぱいいて、彼らが鳥の跋扈を押さえていたのではないかと思いますが、今や都会には野良犬や野良猫がいなくなり、さらには飼い犬すら室内ペットになってしまい、都会には鳥の天敵がいなくなってしまっています。当然、ハトだけでなく、カラス、トビ、ムクドリまで、都会で好き放題の行動をしています。現代の都市は鳥たちの天国です。小さな問題のように見えますが、本格的に対処方法を考えなければならない時期にきているのではないかと思います。

344号(2009.9.2)若者よ、もっと政治に関心を持ち、もっと発言しよう!

 3号連続で政治に関する文章を書きましたので、読んだ人から反応があるのではと楽しみにしていましたが、まったく反応がなく、がっかりしています。昨日は卒論特訓ゼミで4回生諸君と会いましたが、結局誰からも政治の話はなかっただけでなく、今回の衆議院選挙に行った人が半分もおらず愕然としました。これだけ政治に目を向けることの大切さを語り続けてきた私の下で学んでいるゼミ生の投票率が5割以下というのは非常に残念です。まあ、住民票を移していない我が家の息子も投票に行っていませんし、未成年とはいえ大学生になった娘たちもあまり私の政治の話に関心を持ってくれませんので、他人の子のことばかり言えないのですが(苦笑)。妻ももうひとつ本格的な関心は持ってはいないので、この3日間で一番政治について話したのは、床屋の親父さんとでした。しかし、妻はあきらめていますが、自分の子どもも含めて、若者(30歳代も含みます)に関してはあきらめたくはありません。もっと政治に関心を持って、わからないなりにでも考えて、感想でもいいから政治について発言してみませんか?わからないから興味が持てない、おもしろくないと言って逃げていたらだめです。今回の選挙で明らかになったように、われわれ有権者の意思で政権を変え、総理大臣を変え、政治を変えることはできるのです。そうであるからこそ、われわれ有権者はきちんと政治について知る努力をしなければならないのです。

343号(2009.8.31)次にすべきこと

 選挙から一夜が明けました。民主党308という議席はおおよそ私の予想通りでした。それにしても、歴史的な1日となりました。2009830日は日本史に残る日になることは間違いありません。麻生首相は最後の最後まで感じの悪い男でしたね。なんであんな風な応対しかできないんでしょうね。TVのインタビューでキャスターに挨拶すらしない態度は、まるで自分にNOを突きつけた国民に逆ギレしているかのようでした。「敗因は国民に聞いてみないとわからない」とはよく言ったものです。自分の不人気がわからないリーダーは困ったものです。負けっぷりが悪いというのは本当に後口が悪いです。もっとさわやかな印象を与えられないと、今は総理として通用しません。それに比べて、次期総理になる鳩山由紀夫民主党代表は勝ってもおごらず品のある態度で記者会見をしていましたので、民主党に勝たせた多くの有権者は自分の判断は改めて正しかったと納得したと思います。

選挙は終わりましたので、次を見据えて行きましょう。まず、自民党ですが、前号で書いたように、まとまりを保てるかどうか本当に心配です。健全な二大政党制になるためには、野党になった自民党にしっかりまとまっていてもらわないといけないのですが、当選した有力議員の顔ぶれを見ると、党内抗争はまだ続きそうです。おそらく次の総裁には最近分が悪かったリベラル派(加藤紘一、谷垣禎一)がなるような気がします(1993年に自民党が野党になったときも、リベラル派の河野洋平が総裁になりました)が、敗因を作った構造改革派(中川秀直、武部勤、小池百合子)と保守派(安倍晋三、麻生太郎)のうち、構造改革派は比例復活組がほとんどなのでしばらくおとなしくしていそうですが、反省をしない保守は妙に元気でリベラル派に対して大喧嘩をしかけそうです。「ラッキーマン」森喜朗もまた生き残ってしまいましたので、また大きな体でこそこそ動いて、影の権力者のポジションを維持しようとするのでしょう。彼が出張っている限り、「新生自民党」という印象は与えられません。彼や参議院のドン・青木幹雄などを押さえ込めるかどうかが、自民党再生のポイントになると思いますが、難しそうな気がするのが不安なところです。

さて、初めて政権を運営することになる民主党の方ですが、とりあえず国民(マスコミ?)がすべきことは2年ほどは我慢して見守ることです。初めて政権を運営するわけですから、最初からうまくいくわけはありません。なのに、最初から厳しすぎる目ばかり向けていては、新政権はうまく行きません。2年間はいろいろあっても少しずつ改善しているところが見えれば、まあよしとして見守らないといけません。来年夏に参議院選挙がありますが、ここで民主党政権の信を問うのは早すぎます。もしもそういう視点で選挙が行われるなら、民主党は負け、参議院で与党が半数を切り、不安定な政権になり、余計政権運営が難しくなるでしょう。できれば、来年の参議院選挙は片目をつぶっても民主党に勝たせて衆参ともに過半数を持たせて政権運営を託してみたいものです。その状態で1年以上経ってから、政権運営のチェックをしていきましょう。そしてそんな中でまったく希望が見えないなら、政権からひきずりおろすことにしましょう。しかし、できたら多少の希望を見せてもらって、8年ぐらいは民主党に政権を運営させてみたいものです。そうでないと、政治に対する期待感が消えてしまいます。1993年に成立した非自民連立政権があっという間に潰れ、国民の政治不信が高まったことの繰り返しはもうしたくないものです。政権交代が行われることで、よりよい政治に変えていけるのだと国民に思わせてほしいものです。

342号(2009.8.29)今だから言う起死回生の一手

 いよいよ総選挙が明日となりました。政権交代はほぼ確実で、私としてはようやくこの日が来たかという思いです。一貫して言っていますが、別に民主党のファンではありません。無責任でおかしな政治をやった政党は政権に留まれないのだということを、われわれ有権者が投票によって示せることが大事なのです。何年かして、民主党がちゃんとした政治をしていないと思えば、その時にはまた投票によって政権から引きずり降ろせばいいのです。しかし、その時に受け皿が自民党としてあるのかどうかが、多少不安です。今まで、与党であることのうまみのみでまとまっていた政党です。与党のうまみがなくなれば分裂する可能性も十分あります。政策的にはもともと、小泉・竹中路線を引き継ぐ構造改革派、「真の保守」を連呼する麻生・安倍グループ、そして憲法擁護の立場に立つリベラル派と、理念はばらばらの政党です。政権維持という求心力がなくなればどうなるかわかりません。まあ小選挙区制度ですから、2大政党のどちらかに所属していないと当選は困難ですので、大きな分裂はないとは思いますが……。麻生の後に誰が自民党総裁になり、どういう方針を打ち出して、そしてその下で来年行われる参議院選挙で党勢復活ができるかどうかがポイントになります。現状では、麻生の後任に誰がなるのかまったく不明です。マスメディアでは露出の多い舛添厚労大臣の名前がよく挙がっていますが、彼がそんなにいいですかね?麻生が総裁になった時もそうでしたが、マスメディアは単純にすぐに誰かに人気があると言いたがりますが、その根拠が実は非常に乏しいことは、今回の麻生総理の不人気で証明されていると思います。舛添もならせてみたら、なんか違うということになると思います。大きくイメージを変え「新生自民党」になったと思わせるには、女性党首にするしかないのではないかと思います。野田聖子が小選挙区で勝ち上がったら、結構可能性が高いのではないかと私は見ているのですが……。

 さて、それにしても自民党の不人気ぶりは、マスメディアも予想以上だと思っているのではないでしょうか。その原因はと言えば、根本的なものとしては、安倍、福田と内閣投げ出しをし、ついに麻生に至っては4年前の選挙で「支持された」政策をほぼすべて逆転させるような無責任なことをしながら、今日まで総選挙を先延ばし、有権者無視の政治を行ってきたことに対する怒りがあります。しかし、こういう中期的な視野で考えて投票行動を決める人は無党派層の半分程度でしょう。残りの半分は短期的な雰囲気で投票行動を決めています。前回であれば、小泉純一郎のスター性に惹かれ、彼が輝く場面をもっと見たいという思いで、自民党に投票した層です。そして今回の選挙で、この層が直感的に考えているのは「もう麻生総理を見たくない」という思いです。眉間に皺を寄せて、口をひん曲げて、ガラガラ声で、野党の攻撃ばかりしている総理大臣なんて、今すぐにも取り替えたいというのが、この層の思いです。この1年の麻生内閣の政策はそんなに失策ではなかったと思いますが、彼自身のもつ雰囲気が無党派層が嫌う雰囲気なのです。「政策が云々よりあんたが嫌だから、自民党に勝って欲しくない!」と思っている人がたくさんいます。ここを認識できなかったのが麻生の一番だめなところです。1年前にマスメディアの根拠薄弱な麻生人気報道で総理になれた彼は、今もネットや秋葉原や身近な人間には評判がよいということで、自分には隠れた人気があると思いこんでいる節があります。しかし、残念ながら、一般大衆はああいう苦虫を噛み潰したようなヤクザっぽい雰囲気の政治家は好きではありません。これが自民党が大敗するであろう最大の原因です。選挙日程が決まる前の麻生下ろしが成功していたら、ここまでの両党の人気の差は生まれなかったことでしょう。選挙期間に入ってからも、私はずっと自民党にとっての起死回生の一手は、麻生総理が「自公で過半数を取って政権維持ができたとしても、自分は総理にはなりません。自民党総裁選を前倒ししてやってもらい、その方に総理についてもらいます」という、無責任だけれど未知の期待感を有権者に持たせるという邪道に近い秘策を打ち出すしかないと思っていました。鳩山由紀夫もそれほど魅力的な人物ではありませんので、この手を打てば、ミーハーな有権者は、お楽しみがもう1回あるような気がして、自民党に入れてみようかなと思う人が増えたことでしょう。たぶんそれでも自公で過半数には届かなかったでしょうが、負けの程度を軽微に済ませることができたのではないかと思います。しかし、実際には麻生のプライドはそんな秘策を受け入れるはずもなく、ついに選挙を迎えるわけです。こんなマイナーHPですが、どこで誰が見ていてアイデアを利用するともわかりませんので、投票日の前日までこの策を書かずにいました(「第314号 小泉トラップ(2009.2.6)」や「第288号 「○○力」という本はもうやめませんか?(2008.6.28)」で書いた内容は、最近朝日新聞でほとんど同じようなことが語られていました)。ここまで来れば、もう今更なんの手だても打ちようはないでしょう。朝日新聞は320議席越えという予測をしていますが、少し自民党候補に対して厳しい見方をしすぎているように思いますので、私はもう少し少ないと予測しています。それでも、民主党が300前後の議席を取って大勝ちするというかつて想像もできなかった歴史的事態が今現出しようとしています。

341号(2009.8.28)幻の新聞記事

 ここに掲載したのは、2005912日付産経新聞夕刊〔第4版〕に掲載された私の談話をおこした記事です。4年前の「郵政選挙」の直後になぜか産経新聞から電話があり、今回の選挙についてコメントを欲しいというので、30分ほどいろいろ語りました。私は一貫して「郵政民営化は是か非か」だけで大事な衆議院議員選挙の判断が下されてしまうことに疑問をもっていましたので、そのスタンスでコメントを述べました。電話をかけてきた記者は一応納得したようで、おおよそ私の語った内容を談話記事として掲載しました。しかし、このコメントは産経新聞の上層部には気に入らなかったらしく、なんと同日の〔第5版〕では削除されてしまいました。たまたま最初に見たものは〔第4版〕だったようで、「おお、載ったな」と確認して購入したのですが、後でもう少し買っておこうかなと思って入手したものには、もう私の談話記事は消えていました。掲載についても、また削除についても、産経新聞からは何の説明もなく、掲載された新聞すらこちらが求めるまで送ってきませんでした。ひどく不愉快な気分にされたので、新聞も放置してしまい、その後どこに行ったかわからなくなっていたのですが、今回の選挙を前に探し出しましたので、ここに掲載しておきます。当時の私の見方は間違っていなかったことが、きっと今回の選挙で実証されるはずです。万一産経新聞からコメントを求められても、今回は拒否してやろうと心にかたく誓っています。ちなみに、前回は「郵政民営化」というワンフレーズで、今回は「政権交代」というワンフレーズで同じようなものではないかという声がありますが、同じワンフレーズでも含有する内容がまったく違うことに気づかなければなりません。「郵政民営化」を行うべきかどうかを問うためだけで衆議院選挙を行うことには正統性がありませんが、「政権交代」をすべきかどうかを問うために衆議院選挙を行うのは正統です。それこそ、衆議院選挙をやる意味そのものです。以下に、2005年の衆議院選挙をめぐって書いた「つらつら通信」の目次をあげておきます。よかったら、お読み下さい。

第167号 久しぶりに政治が熱くなりそう(2005.8.8)/第168号 なめるな、小泉!なめられるな、有権者!(2005.8.17)/第170号 「新党日本」の哀れさ(2005.8.23)/第174号 小泉的社会とホリエモン的夢(2005.9.10)/第175号 筋を通せ、造反組!(2005.9.21)

340号(2009.8.24)新橋を歩く

久しぶりに「歩く」シリーズを書いてみます。この夏、東京で時間があったので、新橋を中心とした散策をしてきました。まず新橋駅からゆりかもめに乗りました。汐留のビル街を抜け、竹芝、日の出、芝浦ふ頭の港の景色を見た後は、ぐるっと回ってレインボーブリッジの下を通ってお台場に着きます。ここにはフジテレビやデックス東京ビーチなどの人気施設があるのですが、今は期間限定で実物大のガンダムが立っており、人気を呼んでいます。まったくガンダムのファンではない私ですが、ミーハー社会学者としては当然興味があり、きっちり見に行ってきました。足の下を通り抜けることができたりして予想以上に迫力がありました。これだけのものを無料で公開してくれているのは非常にありがたかったです。(「2016年東京オリンピック」誘致事業の一環のようです。)再びゆりかもめに乗って有明方面に向かいます。窓の外に見える建物はまさに未来都市が現出したような奇抜な建物ばかりです。ずっと窓の外を見ながら、これは、70EXPOで未来に夢を見た少年たちが大人になって現実の世界に造りだした70EXPOの続きなのではないかと思いました。実際はどうなのか知りませんが、建築された時期から考えると、その可能性は結構高いのではないかと思います。有明を越え、豊洲の方に入ると埋め立て地もまだまだ空き地だらけです。しかし、ここもいずれ未来的な建物が建っていることでしょう。豊洲でUターンして汐留駅まで戻り、ここで降りてみました。ここには、日本テレビがあり、そのビルの横を歩いていると、地上に降りることもなくいつのまにか新橋駅に着きます。

次にJR新橋駅前を散策しました。新橋駅は「汽笛一声、新橋を、早我が汽車は発ちにけり」という「鉄道唱歌」にあるように、日本で初めて汽車が走った時の始発駅です。しかし、実はその時の新橋駅は現在の新橋駅より東側にありました。今は、もともとの新橋駅の場所に「旧新橋停車場」が造られ、一部は資料館になっています。ここを覗いた後、新橋駅前の古びた第1ビルに入ってみました。1階には知る人ぞ知る洋菓子店「小川軒」の本店がありますが、全体には人気の少ない寂れたビルです。しかし、こういうビルこそおもしろいはずと思い、地下の飲食街に降りてみると、そこは昭和の香り漂う飲屋街になっていました。ゆりかもめで未来の世界に行ってきた気がしていましたが、この第1ビルの地下は過去の世界です。時間が早かったせいもあり、飲んでいる方たちの平均年齢の高さと言ったらかなりのものでした。50代半ばの私が「若造」にしか見えない世界でした。新橋駅前の古びたビルはいずれもなかなか興味深いスポットです。よくニュース番組で酔っぱらったおじさんたちがインタビューを受けているSL広場があることで有名な烏森口の方はさらに怪しい世界です。ニュー新橋ビルの1階の金券ショップの店舗数は尋常ではありません。金券ショップばかり7〜8店舗も軒を連ねてずらっと並んでいる光景にはびっくりしました。ここには、それだけ需要があるのでしょう。このビルの地下の飲食店街は、第1ビルとまた雰囲気が違い、各居酒屋の店の前に、おそらく中国から来たのであろう若い女性が立ち、呼び込みをかけてきます。「お刺身、焼き鳥、何でもおいしいですよ。いかがですか?」なんだか普通の居酒屋なのかどうか不安になるほどでした。ビルを出ても、烏森口側の駅近くは男たちの欲望が造りだした町というイメージが強烈です。「飲む、打つ、買う」の店が所狭しと並んでいます。なるほど、ここならおじさんたちも調子に乗ってベラベラ喋ってしまうわけです。トータルで見ると、新橋は過去と未来の両方につながるタイムマシンの入口のような町でした。

339号(2009.8.5)夏の甲子園への疑問

 朝日新聞をとっているために、最近毎日、高校野球の記事を読まされます。長い歴史のある大会でファンも多いと思いますが、私はかなり前から疑問を持っています。高校生のスター扱いや不祥事への対応など細かいことを言い始めたらたくさんあるのですが、ここではあまり誰も疑問として指摘していないことをひとつだけ指摘したいと思います。それは、8月の炎天下になぜ甲子園球場で大会を開催し続けるのかということです。「甲子園」と言えば、高校球児の夢の舞台で、負けたら「甲子園の土」を持ち帰るのが慣例になっているほど象徴的な舞台だということはもちろん知っていますが、灼熱の8月に厚いユニホームに身を包んで走り回ることの危険性を、なぜ誰も指摘しないのだろうかと不思議に思っています。他にやるところがないならともかく、今は大阪ドームなどを使えば、身体的な危険性は大幅に減少した状態で、この時期に大会を開催することも可能なはずです。伝統だから、象徴的な舞台だから、といった精神的な理由だけで、甲子園で開催し続けることは、もっと問題視されてもいいと思うのですが……。

338号(2009.7.30)大学生活の重要さ

 大学生になった娘たちを見ながら、今改めて思っているのが、大学生になったら、少しずつ背伸びをして、大人になる訓練をすることの必要性についてです。高校生までは冒険をせずに、学校と家を往復してくれているだけで十分と思っていましたが、大学生になったら少し身の丈に合わなさそうなことにもチャレンジして失敗もしたりしながら、いろいろなことを学んでいくことが大切だと思い、なるべくチャレンジすることを勧めています。考えてみると、私が大学生になった時もそうでした。純朴な高校生で、高校卒業までに喫茶店も2回しか入ったことがなかった(それも同窓会の打ち合わせのためで、それでも「校則違反」で捕まるのではないかとドキドキしながら(笑))私は、大学生になった時点では、ビールもコーヒーも苦くて苦くて何でこんなものをみんな飲むんだろうと心の中で「?」をつけていました。しかし、大学生が「オレンジジュース」や「パフェ」なんか格好悪くて頼めないという強がりだけで、ビールもコーヒーも無理矢理飲んでいました。そしていつのまにかあまり苦いとは思わなくなり、そしてさらに時が経ったときには「おいしい」と思うようになっていました。日本酒もウィスキーも大学生になったら飲めないといけないのだろうと頭で考えて飲んでいました。

恋も大学生になったらすべきものと思っていました。うまくいかなかったことも多かったですが、1回、2回の失恋でめげていたら、女性とつき合う経験もできないからと、自らを鼓舞して、好きになれそうな相手を探していました。旅に出たら声をかけ、学園祭があったら声をかけ、図書館でも声をかけ、同窓会でも声をかけ、友人にも紹介してもらい、といろいろやっていました。今なら「肉食系男子ですね」と言われそうですが、当時は男子学生はそういうことをすべき役割なんだと素直に思っていました。たくさん失敗しましたが、今から思えば、そういうことをしていたからこそ、学べたことも多かったと思います。タバコも麻雀も、哲学も政治談義も、一所懸命背伸びしてついて行こうとしていました。あの頃は、大学生活は大人になるための準備期間だと多くの学生が思い、そのために多少背伸びをしながら徐々にそれが背伸びでなくなるように経験を積んでいたように思います。

私たちの少し前の世代であるベビーブーマーたちは大学紛争世代で我々の世代よりはるかに政治的な知識と大人度が高いように思っていましたが、おそらく彼らも背伸びをしてわかったふりをして政治闘争をしていたのだと思います。今から思えば、その稚拙な戦略や、すぐに「ナンセンス!」と叫んで議論を打ち切ってしまっていたことなどから、実は彼らもいろいろなことがちゃんとわかってやっていたわけではないと冷静な分析が可能です。紛争後に大学に入学した私たちの世代ですが、まだまだ大学生はいい意味でも悪い意味でも「頭でっかち」であるべきだという空気は強くありましたので、無理をして背伸びをしていたわけです。

翻って、今の学生たちを見ると、多くの人が現状に安住しすぎている気がします。それも「子ども」という気楽なポジションに。無理はしたくない、好きなことしかしたくないという生き方を親からも社会からも肯定され、大学4年間での伸び率が、我々の頃より非常に小さくなっているように思います。私は本当に純朴な高校生だったので、高校卒業時点では、現代の高校生より幼かったのではないかと思いますが、大学卒業時点では、現代の大部分の大学生より大人になっていたと思います。4年間の大学生活をどう使うかによって大きな差が生まれるのです。現在、多くの人が「子ども」というポジションに安住している中で、「大人」になろうと背伸びをする人は失敗もあるでしょうが、きっと得る物も大きいでしょう。学生たちがそういう背伸びをしたくなるようにするためには、われわれ親世代の役割も重要です。大学生になった子どもをいつまでもこれまでと同じように子ども扱いしていたら、子どもも自然に「子ども」というポジションに安住してしまいます。多少痛い目を見ることがあっても、適度に大人扱いをして放置することが必要です。手をかければかけるほどいいというものではありません。社会を生きていくたくましさを身につけさせること、それが子育ての基本です。大学生には背伸びを、親には見て見ぬふりを、勧めたいと思います。

337号(2009.7.22)麻生総理にまともなブレーンはいないのか?

 ようやく解散になりました。自民党は、反麻生勢力が「自民党公認」の看板を奪われるのを怖がって、とってつけたような挙党一致を演出して、各選挙区に散っていきました。麻生総理は両院議員懇談会でお詫びしたことを、自民党国会議員が肯定的に評価してくれたと思い、その後も国民向け記者会見、今日の自民党全国幹事長・政調会長会議でも、まったく同じような話を繰り返しています。1回受けたら、何度でも同じパターンを使うワンパターン人間の典型です。昨日、今日のニュースを見ながら、なんか大事なことを忘れていないかと言いたくてうずうずしています。衆議院を解散しても、内閣は総辞職したわけではありません。選挙が終わって新内閣が立ち上がるまで、麻生総理の下に作られている内閣が、日本の様々な事態に責任を持たないといけないのです。であるならば、この2日間の大ニュースである山口県防府市の土砂崩れについて、内閣総理大臣なら一言お見舞いの言葉も述べるべきでしょう。両院議員懇談会はともかく、昨日の午後6時からやっていた国民向け記者会見では、冒頭にお見舞いの言葉くらい述べるべきです。そして今日は、自民党全国幹事長・政調会長会議などという内向きな行事に出ている暇があったら、ヘリコプターでも飛ばして被災地に駆けつけるべきです。私が麻生総理のブレーンなら、こういうアドバイスをして、尻を叩いてでも現地に行かせます。こういう他者の痛みを理解できる政治指導者というイメージを与えることができれば、支持率は軽く5%は上がるでしょう。どうして、こういうことに気づかないのでしょうか。自民党をまとめて、民主党を批判するのに全エネルギーを使っています。「あんた、総理大臣でしょ?選挙のことばかりでなく、日本全体のことを常に考えていなさい!」と誰か忠告してやってほしいものです。国民は、選挙に必死で勝ちたがっている総理大臣より、国民のために働く総理大臣を求めているのです。その辺がわからないから、支持率が落ちているのだということが相変わらずわかっていないようです。

〔追記(2009.7.30)〕729日になって麻生総理はようやく被災地視察に行きました。遅すぎて話題にもになりません。大変な時に見舞いに出かけてこそ、国民のために働く総理大臣です。その代わりにこの1週間に何をしていたかと言えば、自民党総裁として各種団体からの支持を得るために挨拶回りをしていました。本当に嘆かわしいです。

336号(2009.7.8)ドラマ「官僚たちの夏」に注目

 今週日曜日から始まったドラマ「官僚たちの夏」は、久しぶりに見応えのある本格的なドラマになりそうです。城山三郎の小説のドラマ化ですが、高度経済成長期時代の通産省官僚を主人公としたドラマですが、古い映像や写真、セット、CGなどを組み合わせて、時代の雰囲気をよく出していますし、役者も力のある人をそろえた、重厚な作りになっています。もともとこの小説の主人公はモデルとなった通産省官僚がおり、歴史的な事実をベースにした話になっていますので、単なるフィクションではなく、日本の第2の青春とも言える高度成長期の日本の産業振興政策について学ぶこともできると思います。主役の通産省官僚を佐藤浩市がやっており、いかに官僚が無私の精神で国のために働いているかということを強く視聴者にイメージづける物語なのですが、「官僚バッシング」の激しいこの時期にこのドラマが放映されるのには、何か深い裏があるのだろうかと考えたくもなります。批判的に見るにせよ、肯定的に見るにせよ、見ておいた方がよい作品だと思います。

335号(2009.6.26)男性専用車両が導入される日は近い

 女性専用車両ができた時に、半分冗談のように「男性専用車両もあればいいのに」と言っていたのですが、ついにまじめに検討される時期が来たようです。先日行われた西武HD(西武鉄道を傘下に持つ)の株主総会で、株主から「痴漢冤罪から男性を守るために、男性用専用車両の設置を」という提案が出されたそうです。今回は却下されたそうですが、いずれ近いうちに、どこかの鉄道会社が男性専用車両を導入するだろうと、私は見ています。まったくそんな気がなくても、体が密着している満員電車の中で下手に体を動かそうものなら、あらぬ疑いをかけられてしまう(そして疑いをかけられたら、証拠は何もなくても逮捕される)ために、両手は上にあげて体は一切動かさないようにしているなんて話も聞きます。男性用車両があれば、そんな窮屈さから逃れることができるわけです。別にみんながみんな専用車両に乗りたいとは思わないでしょうが、女性たちの不信の目から逃れのんびりと車内で過ごしたいと思う男性は少なからずいると思います。導入したら、今の女性専用車両よりも人気が出るのではないかと思います。もうそんな時代です。

334号(2009.6.26)東国原・橋下批判

 間近に迫ってきた衆議院選挙を前に、当代人気知事の発言が過激化しています。東国原宮崎県知事は、この機会に国政への進出をぜひとも成し遂げたいようです。それもただの1衆議院議員におさまるつもりはないようで、最初から自民党の顔となり、地方分権を一気に推し進めたいと主張しています。橋下大阪府知事の方は、類似の考えをもつ首長たちと手を組んで政治グループ(政党?)を立ち上げ、やはり地方分権を旗印に、2大政党のどちらかに対する支持を明確に打ち出すと主張しています。大衆人気の絶大な知事だからなのかわかりませんが、マスコミの報道の仕方を見ていると、妙にこの2人に迎合した報道の仕方になっているように思います。私は、今回のこの2人の主張はきっちり批判すべきだと思っています。

まず東国原氏ですが、昨年10月に彼が最初に国政に向かいそうになったときに、「第300号 衆議院議員の仕事」(2008.10.5公開)という文章を書き指摘したことをもう一度言わなければなりません。彼は、「宮崎をどげんかせんといかん」というキャッチフレーズによく示されているように、宮崎を愛する知事として地方にいて発信しているから人気があるのです。14年も勤め上げずに、宮崎県知事の椅子を放り出すのなら、己の人気の源を捨て去ることになるというのがなぜわからないのでしょうか?県庁に届いている意見も今国政へ進出するのは反対であるという人が8割以上だそうですが、当然だと思います。本人は「組織票があるのでは?」などと勝手な解釈をしていましたが、世論の正確な反映だと思います。今回衆議院選挙に打ってでたら、東国原人気は地に落ちます。今人気の根拠となっているバラエティ番組に出ての軽いタレント活動も、宮崎にスポットライトを当てさせるためと思って見たら好意的に見られますが、あんなパフォーマンスを国を代表する人間がやるかと思ったら、まったく評価は変わります。本人が希望するように、万一総理大臣にでもなった日には、海外メディアに出て笑いでも取るのかと思うと、ぞっとします。

 次に橋下氏ですが、自分の力を過信しすぎて、知事の立場を逸脱しすぎています。一体大阪府民の誰が橋下氏に自民党か民主党かどちらかの支持を表明してほしいと望んでいるというのでしょうか?誰もそんなことは望んでいません。地方自治を預かる知事が、二大政党のある側にしか立たないなんてバランスの悪いことをしたときに、迷惑を被るのは住民です。支持基盤はそれぞれあってもトップに立った限りはバランスよく、行政を運営していくことが期待されているのです。無駄に国政に口出ししすぎるべきではありません。大体、橋下氏はもともと自民と公明の推薦で当選した知事です。いくら形式上無所属で無党派層の票をたくさん集めたからと言って、自民と民主を両天秤にかけるようなことを堂々とやっていることに、もっと批判が集まってもいいはずです。自民党が推薦しているから、公明党が推薦しているから投票したという人だってたくさんいるはずです。万一今度の衆議院選挙で民主党を支持しますなどと発言したら、裏切り行為のようなものではないですか。どちらかの政党を支持するなどというパフォーマンスは控えるべきです。

 最後に一番重要なことを語ります。彼らが国政に強い関心を示し、もの申す根拠にしているのが、「地方分権」を進めなければいけないからということです。今のままでは地方分権は進むわけがない。これを一気に進めるためには、現在の国と地方の不当な関係を肌身で知っている自分たち知事が国政に進出したり、影響力を与えたりする必要があるのだということです。確かに、日本の税制度と権限はあまりに国に集中しており、もっと地方に税収と権限を委譲する必要があると私も思います。しかし、「地方分権」と叫び続けるだけで、日本がすべてよくなりそうに思わせるのは大きな間違いです。たとえば、国際経済、環境問題、平和、人権、年金問題、等々いくらでもあげられますが、そうした国が抱える様々な問題は地方分権が進んだとしても解決されないのは、火を見るより明らかでしょう。このワンフレーズだけ叫んで、それですべてがよくなりそうに思わせるという戦略はどこかで見たことがあると思いませんか?そうです。4年前の小泉純一郎の仕掛けた「郵政選挙」です。郵政を民営化すればすべてがよくなるように思わせ大勝した、あの選挙です。彼ら(特に橋下)は、明らかに小泉の手法をまねています。過激な言辞を並べ、抵抗勢力を作り、自らを大衆のヒーローにし、ワンフレーズで大衆をつかもうとしています。もうこれ以上、このタイプの政治リーダーに騙されるのはやめましょう。それでも、近々行われる総選挙の争点をあえて一言で掴みたいというのなら、テーマは間違いなく「政権交替」です。「自民党−官僚−大企業」の「鉄の三角関係」を壊し、国民主権を実現するためには、2大政党制を日本にも根付かせないといけないのです。どちらの政党が政権を取るかわからないという政治にすれば、われわれ有権者の意向がより強く政治に反映できるようになるのです。そして、そういう環境ができてくれば、国民がもっと政治や社会に関心を持ち、自分で考え、ワンフレーズで騙されない有権者になっていくはずなのです。

333号(2009.6.21)違法ではないのだろうが……

 マンションを購入した際にかけた火災保険が満期を迎えるため、保険代理店から更新のお知らせが届いたのですが、案内書はわずかA4判用紙1枚だけで、あとは申込書、パンフレット(おすすめプランのものだけ)、返信用封筒しか入っていませんでした。案内書に書かれていた「おすすめプラン」はひとつだけ(それも前と同じ内容の保険ではなく、プラスアルファをつけて高くなったもの)で、あとは申込書に鉛筆で○がつけてあり、こことここに署名して印鑑を押して提出下さいという、不親切なものでした。内容があまりによくわからないので、電話をして聞いてみたところ、「なんで、そんなひどい案内書が届いてしまったのでしょうか?」と不思議がりながら、実は他に掛金も安くて保障も充実したもっとよいプランがあることを教えてくれ、前に送ってきたものの10倍以上親切な案内を速達で送り直してくれました。今回はプランも12タイプも紹介してくれて、その中でうちの住まいの形態を考慮に入れたもっともよいプランを的確に案内してくれていました。うちにとってはこれでOKなのですが、最初の更新のお知らせの仕方に見られるような、保険代理店の説明不足なやり方はもっと社会的には問題にすべきではないかと思いましたので、ここに書いておきたいと思います。

世の中には、私のように、納得しなければハンコは押さず、疑問点を追及するタイプの人ばかりではないでしょう。私が最初に受け取ったような不親切な更新書類に、よくわからないままハンコを押し、無駄に高いお金を払わされている人って、実はたくさんいるのではないでしょうか。このように情報を一部しか示さず、保険加入者に無駄払いをさせる保険代理店の行為は、ある種の詐欺的行為と言えるのではないでしょうか。違法ではないでしょうから、犯罪として立件するのは無理だとしても、社会的モラルや企業責任としては、もっと批判されてしかるべきだと思います。「気づかない消費者が悪い」とか、「自己責任」という名の下に、企業が不当に儲けることはもっと批判されるべきです。保険の問題だけでなく、様々な契約において、一見得になる話ばかりが強調されて、損を生じる可能性についてはきちんと伝えない、あるいはものすごく小さな字で欄外に書いてあるなどということもよくあります。保険会社にとってより儲かる商品を売るのではなく、加入者にとってもっともよい商品を売るという気持ちになってほしいものです。

332号(2009.6.12)菖蒲とホタルと月影と

 今、万博記念公園内の日本庭園で「ホタルの夕べ」という催しがやっています(明後日14日まで)。私はホタルをちゃんと見たことがなかったので、前々から一度行きたいと思っていたのですが、これまではなんかついめんどくさがって行きだしていませんでした。今回ようやく重い腰を上げて行ってきたのですが、とてもすばらしかったので、ここにも書いておくことにします。ホタルがきれいに見えるのは午後8時頃ですが、私は日のある少し早いうちに行きましたので、ちょうど今が見頃の菖蒲田も堪能することができました。菖蒲って好きな花なんですよね。あの折り紙のような花弁と繊細な色合い、そして和風な花の名に日本的な美を感じるのは私だけではないでしょう。日本庭園の入口前にはバラ園もあり、結構咲いていましたが、バラは名前と言い形といい非常に西欧的で菖蒲とは好対照です。さて、暗くなってきたので、いよいよホタルを見に歩き始めました。最初のうちは小さなホタル(平家ホタル)をたまに見つけられるぐらいで、「まあ、やっぱりこんなものかなあ」と「小満足」程度で歩いていたのですが、源氏ホタルがたくさんいるゾーンに入ってからは、そこここでホタルの光をたくさん見ることができて、感動しました。ホタルの光がついたり消えたりしながら、闇の中をすーっと動いていく様は、まさに「幻想的」という言葉がぴったりでした。群生地域を「大満足」しながら抜けたところ、今度は満月の美しい明かりが真正面に輝いていました。いつもは街の明かりがどこかにあるので、月の明かりがこんなに明るいのだということを知りませんでした。ここは、ホタルを鑑賞するために、足元に暗い明かりがあるだけだったのですが、なんと月の明かりで十分人の顔が判別でき、影すらできていました。「月影」という言葉が存在するのは知っていましたが、実際に見たのは初めてでした。昔の日本人なら、誰も当たり前のように見たり、経験したりしてきたことを、半世紀以上も生きてきて、ようやく初めて経験できたわけです。近代技術の発展はわれわれの生活を豊かで楽なものにしてくれましたが、他方でこういう自然の美しさを味わうことを難しくさせているんだということを、改めて感じました。菖蒲もホタルも月影も見たことがないからと言って困ることはないわけですが、ぜひ若い方々にも見てほしいなと思いました。

331号(2009.5.22)政治家の世襲制限について

 自民党が次の次の衆議院選挙から実施する予定だった、現役衆議院の親の地盤を受け継ぐ新人候補者に限り党公認候補としないという方針を、次の衆議院選挙から導入することを検討し始めました。はっきり言ってどうでもいい話です。無視してもいいのですが、それなりにニュースとして取り上げられていますから、そのしょうもなさについて述べてきます。まず、自民党の案ですが、まやかし以外の何物でもありません。現在のところこの措置によって公認がもらえなくなるのは、小泉純一郎の息子の進次郎と、千葉1区の臼井正一の2人だけですが、ともに公認はしないけれど、じゃあ他に自民党公認候補を立てるかと言えば立てないし、地元の自民党支部が彼らを応援することも禁止しないし、当選後は自民党に入党もできるそうです。まあ公認候補よりはお金の面など、いくつか厳しいこともあるでしょうが、少なくとも小泉進次郎は無所属でも99%当選するでしょう。そして、次回以後は誰からも文句を言われずに、親の地盤を受け継いだ世襲の公認候補として選挙にも出られるわけです。まあ本当にしょうもない「制限」です。まあ民主党が世襲制限をしたので、自民党もやっていますよと主張するためだけに、例の菅(すが)義偉という、選挙のみに関心のある「政治屋」が考えついたものです。ちなみに、民主党の世襲制限も穴だらけでしょうもない制度です。

 しかし、ここで私が一番言いたいことは、もっとしっかりした世襲制限にしろということではなく、世襲制限なんて別にしなくてもいいということです。というのは、世襲などというのは政治家の世界に限らず、ありとあらゆるところで当たり前のように存在する制度(慣習?)です。なぜ政治家の世襲だけ叩くのでしょうか?国の金を世襲でもらっているというイメージでしょうか?でも、選挙という洗礼をちゃんと受けているわけですから、その地区の代表としてはこの人でよいと有権者が選んでいるという正統性を彼らは持っています。それに比べたら、大企業などで創業者一家の人間がすぐに偉くなっていく慣習の方をもっと批判すべきだと思います。もっと言うなら、天皇家の世襲だって批判しないといけないのではないでしょうか。あげたらキリがないほど世襲制が社会の隅々まで浸透していることに気づくはずです。制度や慣習が長く存在し続けているとしたら、そこには社会を動かしていく上で、プラスの機能があるはずだというのが、社会学の考え方です。マイナスもあるかもしれませんが、プラスもあるはずです。そこを見ずに、感覚だけで批判するのは「百害あって一利なし」です。

 320号の「政治献金によい献金と悪い献金があるのだろうか?」(2009.3.7公開)に書いたように、政治家の世襲というのは、本人の意思と言うより、利益誘導マシーンとしての後援会が分裂・解体せずに、利益を確保し続けるために、後援会の強い意思で決めているものです。中には、やりたいと思う世襲議員もいるでしょうが、やりたくなかったのに無理矢理引っ張り出されたという2世、3世議員もかなりいると思います。それでもおかしいと腹を立てる人は自分が立候補すればいいのです。自分で政治家になろうとする気もない人が、世襲政治家はおかしいなんて言ったって、説得力も何もありません。

330号(2009.5.22)健康な人はマスクを外そう!

 新型インフルエンザのせいで、街中にマスク姿の人が溢れています。見ていて気持ちが悪いです。なんか無用にマスク信仰が広まっています。いろいろな専門家が言っていますが、マスクは予防効果は低く、飛沫をまき散らさないためのものです。つまり、咳が出る人、具合が悪い人は、本来は外出を自粛してもらうのが一番よいのですが、どうしても出なければならない時に、そういう人が着用すべきものです。具合がまったく悪くない人は本来マスクをしなくてもよいはずです。マスクをしているから感染しない、感染しにくいというのは、ほとんど科学的根拠はないようです。中には1人で車を運転しているのに、マスクをしている人がいますが、一体何のためのマスクでしょうか?こんなマスク信仰が流行っているために、街中からマスクが消えてしまっています。ちょっと考えていただければわかるように、これは、納豆やバナナがダイエットによいと言われたら、街中から納豆やバナナが消えてしまったのと、まったく同じ心理にもとづく現象です。日本人のこの「右へならへ」的行動は、単に気持ちが悪いだけでなく、全体主義的な志向性が出ていて怖いです。今回のマスク不足が納豆やバナナよりひどいことになっているのは、様々な企業や公共団体も深く考えず、とりあえずマスク着用を義務づける指示を出しているのからです。私は「嫌咳権の確立を」(「つらつら通信」第126号、2004129日公開)という主張もしている人間ですが、あれもみんながマスクしろとか、予防のためにマスクしろと言っているわけではありません。咳の出る人がどうしても外出しなければならない時は、ちゃんとマスクをすべきだと主張しているだけです。健康な人はマスクをはずして、日常活動に戻りましょう。施設も休校中だからと言って一律排除は止めましょう。もうここまで来たら、日本の都市はほとんど新型インフルエンザの蔓延状態に入っているものと言っても過言ではないでしょう。たまたま感染した人、感染者が多い地域や学校を、病原菌のように扱うのもやめましょう。まだ感染者が確認されておらずに気楽に構えている都市の方が危ない地域かもしれませんよ。感染者がいても普通に生活できる社会にしましょう。どんな病気の人がいたって、社会はそれを受け止めながら動いていくものです。

329号(2009.5.18)大人になった民主党、少し大人になった有権者

 民主党の新体制が決まりました。決め方、選挙結果、新体制の布陣、非常に巧みにやりきったと評価してよいと思います。決め方に関しては、時間をかけて党員全員の選挙にすべきだ、有権者の意見を聞くべきだといった意見が、マスコミ・自民党を中心に流されていましたが、それに対しては、鳩山由紀夫も岡田克也も「国会会期中なので、政治的空白期間を作らないためには、この方がよい」と説明していましたが、そのとおりだと思います。結果として鳩山由紀夫が29票差で勝ったこともベストに近い結果でしょう。私は岡田克也は好きな政治家ですが、今回は岡田が勝つと小沢一郎排除の空気が強くなりすぎて「全員野球」ができにくくなり、しこりが残るだろうと思っていました。鳩山では小沢に操作されると、これもマスコミと自民党を中心に流されていますが、鳩山由紀夫という政治家は、体質的には小沢一郎とはまったく異なるタイプの政治家です。「友愛」は以前から鳩山由紀夫が掲げていたメッセージですが、今時こんな言葉を臆面もなく本気で言える政治家は、鳩山由紀夫をおいて他にはありません。以前は「甘っちょろい」(by中曽根康弘)と言われたものですが、格差が大きくなり人に対する優しさが制度的にもっと必要ではないかと、多くの人が考え始めている時代ですから、今ほど鳩山由紀夫的「友愛」精神が人びとの心に届く時代はないかもしれません。その結果が、世論調査での高支持率につながっているのでしょう。そして、新体制の布陣ですが、見事に「全員野球」を体現した布陣が作れました。さすがに、敵を作らない鳩山由紀夫です。また、岡田克也も選挙前から、選挙が終われば「全員野球」と言っていたとおりに、妙な意地を張らずに、しっかり幹事長職(それももっとも大きな権限である選挙対策を小沢一郎に委ねた形で)に就任したことも、さすが言動一致の岡田克也と賞賛したくなりました。自民党の細田とか菅(「かん」ではなく「すが」です)といった姑息な戦術ばかり駆使したがる小物政治家が、小沢体制と何も変わらないと非難していますが、攻めどころがない体制なので、無理矢理批判しているにすぎません。岡田克也が幹事長で入ったこと、民主党が勝った場合に次の総理になるのは、強面の小沢一郎ではなく、「友愛」の鳩山由紀夫であるというだけで、小沢代表体制とは十分大きな違いです。

有権者の方ですが、世論調査でしっかり民主党支持、鳩山を次の総理にという意見が高く出たことに、有権者も大分マスコミ(「マスごみ」?)に操作されなくなったのかなとちょっと感心しました。ニュース番組でインタビューでは、「岡田の方がよかった」「なんで党員選挙をやらないのか」「小沢傀儡体制だ」なんてことを言う人の意見ばかりが取り上げられていましたので、ここまで高い鳩山民主党支持率が出てくるとは、正直に言って私も想定していませんでした。われわれ有権者が次の総選挙で投票する際に絶対に忘れてはいけないことは、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と、我々有権者が支持をした覚えもないのに、勝手に総理をコロコロ変えて、まったく民意を問わず、本音では反対していた「郵政民営化」だけで稼いだ衆議院3分の2以上の議席を使って、好きなように政治を壟断してきた政党がどこかということです。別に民主党がすばらしい政党で、永遠に日本の政治をになってくれればいいなんて、毛頭考えていませんが、どちらの政党に勝たせて政権を運営させるかは、われわれ有権者が決められるのだというシステムを作るためには、近いうちに行われる総選挙では民主党に勝たせないといけないのです。(これは、小沢一郎がずっと言い続けてきた主張です。)意外に若い人が保守的で「民主党政権になったら知識も経験もなく人材不足そうで、うまくいくのかなんとなく心配だから、自民党の方がいいような気がします」なんて人がいますが、自民党だって変わりはしません。ほとんどのことは官僚が決めてきただけです。官僚をうまく使いこなせば、政治は問題なく継続的に動きます。唯一気になることがあるとしたら、民主党が「官僚政治の打破」を強く打ち出していますので、官僚がそっぽを向くということです。(おそらく、官僚の89割は自民党政権が続くことを望んでいるでしょう。)しかし、官僚は本来「公僕」です。公のためであれば、個人的感情を抑えてでも働くはずです。また、民主党政治家も馬鹿ではないですから、官僚全員を敵に回すようなことはしないでしょう。とにもかくにも、われわれ有権者が政治の主導権を握るために、小金(定額給付金、高速道路1000円、エコポイントなど)をもらって喜びすぎないことです。あの財源はすべてわれわれの税金です。麻生太郎のポケットマネーや、自民党の政治資金から出ているわけではありません。また、視聴率を取るために、販売部数を伸ばすために、「マスごみ」が無理矢理作り出したがる「政界スキャンダル」や「噂話」に左右されないことです。政治の仕組みをどうしたいかをしっかり考えて投票権を行使すべきです。

328号(2009.5.17)今年度の就職状況について

 昨日から、神戸・大阪で、次々と新型インフルエンザ感染者が確認されたため、本日予定されていた「関西大学教育後援会総会」も午後の部は中止になりました。私は、その午後の部で、社会学部キャリアセンター主事として、就職状況について話すことになっていました。原稿も作ってあったので、ここにその一部を掲載しておきます。たぶん、このHPを読む人が一番興味のあるのは、今年の就職状況の現状と今後でしょうから、その部分を掲載しておきます。読んでいただければわかりますが、かつての氷河期時代に比べれば決して悪いわけではないということです。過去23年と比較すると、不幸せに感じると思いますが、5年以上前までの世代に比べれば、大分ましです。「有名企業、大企業、銀行がいい」という固定的な発想ではなく、自分に合った仕事であれば大企業でなくともいい、今は苦手な仕事でも期待して雇ってくれる職種ならチャレンジしてみようといった、ほんの前までの就活生たちが思っていたのと同じような発想に転換すれば、内々定が出る可能性は高くなるはずです。あきらめずに頑張って下さい。

<平成21年度の見通し>

 リーマンショック以降の世界的な経済危機の影響を受け、平成21年度の就職環境は非常に厳しい状況にある。主要企業の新卒採用予定数は、前年度比で19.6%減(日経調べ)で、この減少幅は石油危機後の1976年(41.6%減)に次ぐ大きさである。しかし、リクルートワークス研究所による大卒求人倍率調査(平成223月卒)によると、求人倍率は1.62倍あり、かつての「就職氷河期」と言われた平成123月卒の求人倍率である0.99倍のような落ち込みはしておらず、4年前(1.60倍)よりも少しよいぐらいである。それほど落ち込んでいないのは、かつての「就職氷河期」の際の採用凍結や大幅な採用抑制によって生じたいびつな年齢構成に対する企業側の反省があり、人数はある程度抑制するが、新卒採用は継続するという考え方があるためである。とはいえ、過去3年ほどと比べるなら、門戸が狭まったのは確かなので、自分たちが直接知っている先輩たちと同じような就職は難しいことを知り、発想を変える必要がある。

たとえば、1000人以上の企業の求人倍率は0.55倍で、これは5年前(0.56倍)の水準に戻っているが、1000人未満の企業の求人倍率は3.63倍もあり、これは3年前(3.42倍)より高い倍率である。また、業種別では、金融業の求人倍率は0.21倍しかなく、就職希望者が「就職氷河期」より増えたこともあって過去15年でもっとも低い倍率となっているが、サービス・情報業は3年前より、製造業は4年前より、流通業は5年前より高い求人倍率となっている。

昨年までの「売り手市場」と言われた時期にも、複数の企業から内々定をもらえる学生と、なかなかよい結果を得られない学生とに、二極化する傾向にあることが指摘されていたが、それは就職が厳しい状況になれば、一層明確に表れてくる。すでに複数の内定を得ている学生がいる一方で、いまだに内定をもらえない学生たちもたくさんいる。しかし、まだ就職レースは、第1レースが済んだにすぎない。これから第2レース、第3レース、それ以降と続いていく。なるべく早く決めたいという気持ちが学生たちにはあるだろうが、あきらめずに続けていれば、ゴールするチャンスは確実に増えていく。

327号(2009.5.9)「害人」団体ツアー

しばらく前から、外国人観光客が築地の魚市場でマグロに触ったり、京都では舞妓の写真を撮るために追いかけ回したりと、節度のない行動を取って非常に迷惑になっているという報道を見かけていましたが、先日京都に出かけた時に、実際にそうした光景を見かけて、確かにこれは問題だと感じました。掲載した写真は、祇園花見小路の老舗一力茶屋横です。路地から芸妓や舞妓が現れると、通り道をふさぐことになるのも気にせずに真正面からあるいはすぐ横から不躾にシャッターを次々に切っていました。その行動は、まるで珍獣を見かけたハンターのごとき不作法なものでした。舞妓たちは慣れているのか、あきらめているのかわかりませんが、まるで何もないかのように通り過ぎていましたが、私は日本人として心密かに憤慨しました。確かに、日本人も写真好きで有名人を見かけたり、事故などを見かけたら、携帯カメラを一斉に向けたりしますが、京都で、こんな風に芸妓や舞妓の出てくるのを集団で待ちかまえてシャッターを切るなどという行為はほとんど見かけません。文化に対する理解の違いというようなコメントをしているコメンテーターもいます。

しかし、昨日実際にあちこちで、こうした外国人ツアー客の姿を見かけて、これは文化の違いではなく、こうしたものを目玉にした外国人団体ツアーが増えたせいなのではないかと気づきました。以前でも、京都に観光に来た外国人がたまたま舞妓を見かけたら間違いなくシャッターは切っていただろうと思います。それが以前はそれほど目立たなかったのは、かつては欧米系の外国人は個人的な旅行として訪れることがほとんどだったためだと思います。ところが、最近は団体ツアーとして、日本人ガイドに案内されて、ちょうど舞妓が現れそうな時間に現れそうな場所に結構な数の集団でいるために、迷惑な「害人」たちと明確に見えるようになってしまったのだと思います。夕刻に一力茶屋近くにいれば確かに芸妓や舞妓に会う可能性は非常に高いわけですが、そんな情報は日本の人でも知らない人がたくさんいるのに、外国人がそこにちゃんといるのは、そういうツアーが組まれているからに違いありません。他にも先斗町の狭い路地にも20人以上の外国人団体ツアーが入り込み、芸妓や舞妓が現れるたびに、立ち止まりカメラを向けるために、普通に先斗町に用のある人たちの通行の妨げになっていました。小耳にはさんだ言語はフランス語でした。フランス人は日本文化が好きですから、こういうツアーは当たるのでしょう。昔と違って、円が非常に高くなりましたから、個人旅行では日本には来にくく、安い団体ツアーを選ばざるをえなくなっていることも、外国人の迷惑行為が見えやすくなった原因だと思います。考えてみると、日本人もかつて海外には団体旅行でしか行けなかった時代には、そろいもそろって、首からカメラをかけ、写真を撮りまくる奇妙なアジア人として、風刺画などにもよく描かれたものです。(今でもまだ観光名所や土産物売場に殺到してカメラと金で迷惑行為を行っている日本人団体ツアーはたくさんあることでしょうが……。)つまり、最近の「害人」ツアー公害は、彼我の経済的力関係の変化がもたらしたものと言えるでしょう。

もしも、この状態を見過ごしにはできないと考えるなら、手を打つのは比較的簡単だと思います。連れ歩いている日本でのガイドがいますので、もしも彼らが連れ歩いているツアー客が不作法な迷惑行為をした場合は、彼らガイドに罰をあたえることにすれば、彼らは外国人ツアー客を迷惑にならないようなところにだけ連れて行くようにするでしょう。ガイドに教えてもらわなければ、外国人が大量に築地や祇園に現れたりはしないでしょう。個人で調べて、そういうところに興味を持っていく外国人なら、もう少し節度のある行動が期待できるはずです。しかし、観光の目玉になるものは何でも売っていきたいと考える時代でもあります。この程度の迷惑行為に目くじらを立てて、外国人が日本に落としてくれる金を失うのはもったいないと考えるなら、何の手だても打たないことになるでしょう。そういう静観の立場を取った場合には、静かでよかった日本の鄙びた観光地などで、今後「害人」団体ツアーと出くわすことが増えるのは間違いないと思います。

326号(2009.4.19)笑顔のバリアーはどこまでもつか?

 今週の「たかじんのそこまで言って委員会」に、よみうりテレビに今年入社した新入社員が呼ばれ、「最近の若者たちは○○離れをしている」といったテーマで議論をしていました。様々な立場のパネラーや司会者からかなり厳しく突っ込まれていましたが、どんなきつい批判に対しても彼らが爽やかな笑顔で反応しているのを見て、私が感慨深く思ったことは、「彼らは、この笑顔で、これ以上突っ込まれないようにバリアーしているんだなあ」ということでした。超人気企業であるテレビ局に入社できる若者たちですから、どの人もとびきり爽やかな笑顔を作れる人たちばかりです。テレビ局に限らず、今人気企業に決まる人は、大体こういう爽やかな笑顔を作れる人です。確かに、こういう笑顔を作れる人は、初対面の人にも好感を持たれますので、受け入れてもらいやすく、まずは可愛がられるだろうと思います。でも、この笑顔だけでどこまでもつのでしょうね。この疑問は、別にテレビ局をはじめとする大企業に入った若者だけに言えることではなく、最近の多くの若者に当てはまることのように思います。とりあえず、笑顔を作っておくこと。それが、人間関係をうまくやるコツであると、多くの人が思っているような気がします。(「ジャパニーズ・スマイル」などという言葉もありますので、最近だけでなく、昔からずっと日本人はそうだったのかもしれませんが、あれはアメリカ人などと出会ってどうしたらよいかわからない時に出していた「曖昧な笑顔」なので、少し違うように思います。)確かに、笑顔が嫌いな人はいませんので、笑顔は相互作用場面での大きな武器になります。しかし、笑顔だけでは、人間関係は深まりません。どういう時は怒ったり、悲しんだりするのか、どういう時は真剣に語り始めたりするのか、そういうこともわからないと、そのうち、笑顔が嘘っぽく見えてきて、深いつき合いにならないだろうと思います。まあ、今日の番組や就職活動では、そういう笑顔の対応でちょうどよいかもしれませんが、長く在籍する集団でうまくやっていくためには、時には笑顔のバリアーを剥いで、きちんと言うべきことは言うということもできないとだめなのではないでしょうか。言い方が悪いと生意気だとか、感じの悪い奴だと思われてしまうかもしれませんが、ずっと笑顔だけでいることもできないでしょうから、上手に笑顔の奥にある感情を示せるようにした方がいいのではないでしょうか。そうなったときには、笑顔もただの「仮面」ではなく、本当の嬉しさを伝えるものになるのでしょう。もちろん、爽やかな笑顔は魅力的ですから、そういう笑顔を作るのが苦手な人は作れるようになった方がいいのは間違いないことなのですが。

追伸:「つらつら通信 第132号 気配り+α」(2004518日掲載)で書いた「気配り+笑顔で人間関係の達人になれる」という主張との関係性が気になる方もいるかもしれませんね。私としては矛盾しているとはまったく思っていません。人間関係の達人になるためには、笑顔だけではだめなのであって、気配りがより重要だと気づいていただければ、矛盾はしていないとわかると思います。気配りの中には、状況によっては自分の気持ちをちゃんと示す方が気配りになることは多々あります。2号前に書いた「なんで?」もそういう観点から読んでいただくと、理解しやすいのではないでしょうか。

325号(2009.4.17)叩きすぎでは?

 漢字検定協会の問題に一言。正直言って、叩きすぎではないかと思います。もともと、あの協会は大久保理事長が自分のアイデアで作ったもので、1975年から漢字検定を始め、こつこつ宣伝して1990年に9万人まで受検者を増やし、それを評価されて1992年からようやく財団法人に認められた団体です。その後は国のお墨付きの検定ということで、順調すぎるほど順調に受検者を増やし、昨年度は286万人にもなったわけです。そして、こんなに受検者が増えて儲かってしまったことによって、「公益法人なのに儲けすぎ」とか「ファミリー企業を利用しているのがおかしい」とか「私物化している」と非難されているわけです。しかし、大久保氏本人からしてみたら、自分がアイデアを考えて作った団体で、全国行脚をして少しずつ認知度をあげ、苦節17年でようやく国に認めてもらえるようになったのだから、自分が多少の所得を得ようと、ファミリー企業に業務委託をしようと、そんなことで非難されるのは納得が行かないというところでしょう。そもそも、自分が「オーナー社長」で経営もうまく行っているのに、なぜ追い出されなければならないのか、まったく理解できないという気分でしょう。たぶん見た目が悪いんでしょうね。でっぷりと肥えて色つやが良いだけで、なんか悪いことをして儲けたに違いないという見方をする人が世の中にはたくさんいます。(小沢一郎がその雰囲気で悪そうな政治家に見えてしまうのと一緒です。)もちろん、漢検の場合は私企業ではなくなっていたので、いくらその設立の経緯があるからと言って、「オーナー社長」一家の所得ばかりが増えるというのはまずく、改善の余地はあったと思いますが、理事長を犯罪者のように扱ったり、創業者一家をすべて追い出したりするのは、やりすぎのように思えてなりません。「公益法人は儲けてはいけない」なんて言っていたら、赤字の団体ばかりになり、潰さないためには税金をつぎ込まなければならなくなります。マスコミとそれに踊らされる大衆は、上手に経営をして、健全な黒字を出している団体を叩いて、公益法人をみんな赤字団体にしたいのでしょうか?

そもそも、漢検協会がこんなに儲かったのには、マスコミの貢献が大きいと思います。漢検協会は、毎年「今年の漢字」を募集し、それを清水寺でお披露目しますが、このイベントはテレビ、新聞で大きく取り上げられてきました。(私は毎年鼻白む思いで見ていました。)さらに、テレビ局は制作費が安くて済む安易なクイズ番組をたくさん作り、そこで漢字クイズを多用し、漢字ブームに一役買ってきました。大衆も、バブル崩壊後は何でもいいから資格がほしいとばかりに、資格に食いついたために、漢字検定を代表とする「○○検定ブーム」を生み出しましたし、大学も、漢検を入試で評価するような制度を作り、高校もここぞとばかりに学校が丸ごとそれに乗っかっていったわけです。こんなにみんなで漢検に儲けさせておいて、「儲けすぎだ」と批判するのは、妬み以外の何者でもないような気がします。ホリエモンの時と似た構図です。あの時の方が短期に上げてあっという間に落とした感じでしたが、今回はゆっくりと上げておいて、ここに来て急に落としたという点が違いますが、うまくやっている奴を叩くという構図は似たようなものでしょう。あと、今回の問題で密かに言われているのが、この漢字検定協会が理事に文部科学省の天下り役人を1人も入れていなかったために、文科省の不興を買って叩かれたのではないかという話です。この漢字検定協会とはまったく逆に、大衆から必要とされていないにもかかわらず存在し続け、国からの多額の補助金を受け、天下り役人に法外な給与と退職金を払っている公益法人が日本には山のようにありますが、そちらこそ叩くべきでしょう。漢検には「公益性」を意識した改善さえさせれば十分なのであって、理事長親子を追放するような叩きすぎは、天下り役人をしっかり抱え込んでいる無駄な公益法人を喜ばせるだけです。

324号(2009.4.13)なんで?

 今日感じた学生の「なんで?」と思う行動を3つあげさせてもらいます。その1。ある学生の名前の漢字を一文字ずっと間違って覚えていたことを、ゼミが始まって1年以上経った今日初めて指摘されました。なんで、1年間黙っていたのでしょうか?名前は時々間違えます。最初に、その学生の名前を打ち込んだ時に一番よく使う漢字に変換されますが、その時に確認し忘れると、そのままになってしまいます。指摘してもらわないと、気づかないものです。(ちなみに、今年の年賀状で、小学校時代の友人から「小生の名前を40年以上間違って覚えておられるようです」と指摘され、「あちゃー!」と思ったばかりです。)指摘されても訂正し忘れて、また教え子から怒られるなんて経験もしていますが、とにかく指摘してもらわないと始まりません。なんで1年も言わなかったのでしょうか?

 その2。時々、特定の2人の学生の名前を頻繁に言い間違えてしまうことがあります。これまでに、何ペアかそういう組み合わせがありました。たぶん、名前をインプットする最初のタイミングで、何か2人に共通点を見てしまい、頭の中の隣接箇所に2人が据えられてしまっているのだと思います。いくら指摘されても、何度も間違えてしまいます。しかし、間違えた時に、「先生、また間違えましたね!罰金ですよ(笑)」などと、明るくつっこんでもらえると、こちらも「ごめん。またやっちゃたね」と明るく返すことができ、雰囲気も悪くなりません。しかし、明らかに、私が間違えていることに気づいているのに、「私の名前じゃありませんから」と知らん顔などされた日にはたまったものではありません。悪意のあることではないのですから、なんでそんな冷たい対応をするのだろうと悲しくなります。まあ間違えられる本人はあまり気持ちはよくないかもしれませんので、多少は仕方がないと思うことにしても、周りで気づいている人も指摘してくれないというのは、なんで?という気持ちになります。ミスを見つけたら、それをうまくカバーしてくれる人たちがいなければ、傷口は大きくなります。小さなミスがすごく大きなミスだったような雰囲気になり、空気が悪くなります。なんで、そのぐらいのことがわからないのだろうと残念です。

 その3。報告の内容によっては、私はかなり厳しいコメントをしたり、場合によってはテーマ自体の持っている問題性を指摘することはよくあります。別に報告者の人間性を批判したりしているわけではなく、そのテーマなら、こういう議論の仕方もあるのではないか、こういう見方もあるのではないかと思って語っているわけですが、うまく受け止められない学生は、自己否定でもされたと思い、ひどく意気消沈したり、不愉快になったりすることもあります。そんな時に、救いの手を差し伸べられる学生がいたりすると、非常にありがたいのですが、残念ながらなかなかいません。それどころか、周りの学生たちの行動で逆に嫌な雰囲気になってしまうことがあります。「なんかやばい空気だね」と横の子と目と目で話したり、報告者の隣でこっそり慰めているなんて行動を取る学生たちが出てきた時です。「それは違うんじゃないの?」と言いたいです。ゼミは議論する場です。もしも、私の議論が過激すぎると思うなら、素朴でもいいから、なにか疑問点を指摘してほしいし、もしも報告者がうまく受け止められていないだけだと思うなら、私の説明に言葉を足して理解しやすくしてみようと努力したり、あるいは思い切って話題を変えようとしたり、何かしてくれないのでしょうか?なんで、こそこそ顔を見合わせていたり、個人的に慰めていたりするのでしょうか?こそこそ話している内容や、慰めている内容が間違っていなかったとしても、全体で共有してくれなければ、教師としてはやりにくくて仕方がありません。空気の読み方が間違っていませんか?

まあでも、こんなことを書くから、怖がられるのでしょうね。「先生、またやっちゃいましたね(笑)」って卒業生から思われるでしょうが、「やっちゃいます」。私には、この路線しかありませんので。疑問と思い、伝えるべきだと思ったことは伝えさせてもらいます。そして、ここに書くのは、こういうことが決して今日の学生たちだけの話ではないと思うからです。いろいろな場で、同じような状況に出会うことがあるはずです。その時にどういう行動を取るべきかの参考にしてもらえるのではないかと思っています。

323号(2009.4.5)醍醐・山科を歩く

 久しぶりに「歩く」シリーズを書いてみたいと思います。桜の季節なので、太閤秀吉の「醍醐の花見」で有名な醍醐寺に行ってみました。前から行きたいと思っていたのですが、なかなか実行に移さず、今回初めて行ってみました。いやあ、さすがに有名なだけのことはありました。日本でもっとも多い桜はソメイヨシノでしょうが、あの桜は接ぎ木でしか増えない品種なので、ほとんど同じような花の色や枝振りですが、醍醐寺の桜は枝垂れ桜が中心で、一木一木がそれぞれ個性を持っています。立派な枝垂れ桜が何本もあり、ソメイヨシノばかりの花見とはまったく違う気分を味わえました。桜の樹の下には死体が埋まっていると言われるのですが、枝垂れ桜を見ていると、確かにそんな気がしてきます。垂れた枝が幽霊を思い起こさせるのでしょう。昼間に見る分には大丈夫ですが、夜見たら、ちょっと怖いような気がします。でも、桜はやはりそれぞれの個性が出ている枝垂れ桜が見甲斐があって好きです。さて、桜以外の醍醐寺の見所も紹介しておきましょう。三宝院の庭はとてもよいです。写真を撮ってはいけないとのことだったので、お見せできないのが残念です。そして、霊宝館は、その名の通り宝だらけです。秀吉の花見がらみの歴史的資料も山のようにありますし、仏像をはじめとする仏教関係の品も素晴らしいものばかりです。(国宝・重文だけで4万点もあるそうです。未指定で同じ程度の価値があるものを含めると10万点!を超えるそうです。)三宝院、霊宝館、そして国宝の金堂や五重塔がある伽藍の3箇所が見られるセット券で1500円ですが、これは高くはないと思います。お金を惜しんで1箇所(600円)だけにしている人もいましたが、見ない方がもったいないと思います。

 さて、醍醐寺を見終わって、地下鉄で山科駅まで戻り、今度は山科周辺を歩いて見ることにしました。これが予想外に素晴らしく、隠れた穴場だと思いました。まずは、美しい枝垂れ桜があると聞いたので、とりあえず北に上がって毘沙門堂を目指しました。枝垂れ桜自体は、無料で見られる寺内にあり、ここだけ見て帰っている人もいましたが、私は当然500円払って堂内も見せてもらうことにしました。これが大ヒットでした。40歳前後とおぼしきお坊さんが説明をしてくれたのですが、この方の話が実にポイントを押さえた軽妙洒脱な話しぶりで、ここまで来てよかったなと思わせてくれました。(こんなに話のうまいお坊さんに出会ったのは、初めてかもしれません。)堂内には騙し絵の天井画や襖絵が何枚もあり、実に楽しめました。こんな素晴らしい寺院なのに、桜や紅葉の季節以外の時期には、訪れる人が23人ということもよくあるそうなので、私は心密かに、「山科毘沙門堂ファンクラブ」を創って応援しようと決めました。ぜひ、毘沙門堂に行ってみてください。数人でもお願いしたら説明をしてくださると言っていましたので。毘沙門堂を出て、南へ下ると山科疎水にぶつかります。この疎水沿いにはソメイヨシノがそこここに植えられていますので、この桜を見ながら散策が楽しめます。ずっと歩くこともできますが、私は安祥寺のところで、左に折れ、山科駅の方に向かいました。JRの高架下の風情のあるトンネルをくぐり、京阪の踏切を渡ったところの二股の道を右手にとると、珍しい「お箸の文化資料館」が出てきます。私的に運営されている資料館のようで大きなものではありませんが、なかなか興味深い資料館です。そのすぐ南は旧東海道です。今は古い建物もほとんどない上に、抜け道になっているようで、狭い道なのに、車が頻繁に通っていて風情を味わうことはできませんが、古そうな酒店があったりして、確かに昔は栄えていた街道なのだろうなと想像することはできました。このあたりで、三条大橋から約5kmだそうです。軽く一休みしたくなる距離かもしれません。その旧東海道を300mほど歩き、左に折れたら山科駅です。JRも京阪も地下鉄の駅もありますので、交通の便はいいです。ぜひ、山科散策をお楽しみください。

322号(2009.3.15)「片桐おやじ」です?

 今回は、娘のお馬鹿話をひとつ。ちなみに、前号のような社会的な問題提起にはつながらない、ただのお馬鹿話ですので、そのつもりでお読み下さい。娘が「お父さんの名前を結構間違えるんだよね」と言うので、「どう間違えるの?」と聞くと、「かたぎりおやじって書いてしまう」というので、「はあ?」と思って、さらに聞いてみると、「お父さんの下の名前って、変わっている字を書くんだって思っていたら、ついよく見かける「新」ではなく、「親」って字の方を選んで、「片桐親自」って書いてしまう」と言います。なんとアホな子だ、でも、1度くらいならそんなこともあるかと思ったら、「実は、この1年で3回くらい間違えた」と言います。ああ、嘆かわしい……。まあ確かに「親」ですし、「片桐親自」でも「かたぎりしんじ」と読めますが、一体何年娘をやっているんじゃ!と突っ込んでしまいました。それだけの笑い話です、はい。中身がなくて、すみません。

321号(2009.3.13)JRに改善を求めたい

 うちの息子はかなり「ドジ男」君で、いろいろしょうもないミスをします。この冬休みに帰阪する際には、学割証明書をなくしたために通常料金となり、春休みは往復切符の使用期間よりも長く帰省するのに、学割証明書を1枚しかもらっていなかったため、片道だけしか学割料金にならないという目に遭っています。たまたま、どちらの場面にも一緒におり、まあ今のルールでは仕方がないなと思いつつも、一抹の疑問が残りました。特に、後者のケースでは1枚の学割証明書で行きの切符と帰りの切符を買わせてくれず、「往復切符なら買えますが、今回の場合はそれぞれ別の片道切符ということになりますので、学割証明書は2枚ないと2枚買えません」と言われました。なんかおかしくないですか?学割とは、経済的に豊かでない学生たちに、少しでも安く移動をさせてあげようという考え方に基づいて作られた制度のはずです。本人が学生であることを証明する学生証を持っていても、学割証明書を持っていないと、学割料金にならないというのは、悪しき官僚的な対応です。映画館や博物館など様々な施設では、学生証を提示さえすれば、学生料金でチケットが買えます。どうして、JRの切符だけ、学割証明書が必要なのでしょうか?本人であれば、学生証を提示するだけで、学生料金で販売してもいいことにしたらよいのではないでしょうか。年間に1人で使える学割証明書の数が決まっているようですが、そんな制限を撤廃しても、トータルで見たら、JRが困るほど学割切符を使って旅行する学生が増えるとは思えません。若者にたくさん旅を経験してもらうためにも、無駄な手続きを必要とする今のやり方を改め、学生証を提示したら、学割料金で切符が買えるという方式に変えるべきです。枚数制限をかけるなら、国会議員のJR(グリーン車)乗り放題にこそ制限をかけるべきです。民営化されたのに、いまだにこういうサービスに関しては、「お役所仕事」のような煩雑な手続きを踏ませようとするJRに軽く腹が立ちました。また、朝日新聞の「視点」にでも投稿しましょうかね。それとも、国土交通省に直訴でもしましょうか。こんな無駄な制度は、国交大臣の一言で変えられるはずです。

320号(2009.3.7)政治献金によい献金と悪い献金があるのだろうか?

 民主党の小沢一郎の公設第1秘書が、西松建設がダミーで作った政治団体からの寄付を受領したことで逮捕され、マスコミはこれで小沢一郎も党首を辞任かと大々的に報道していますが、この事件の問題性がどこにあるのか、きちんとわかる人はどのくらいいるのでしょうか?正直に言って、私も完全に理解できているかどうか自信がありません。ただ、報道等から情報を得る限り、たぶんこういうことだと思います。現在の政治資金規正法では、政治家(=その資金管理団体)は、政治団体からの寄付なら受けてもよいが、企業からの寄付は受けてはいけないということになっているようです。なので、今回の事件の場合、「新政治問題研究会」と「未来産業研究会」という2つの政治団体が実際に存在し活動している団体であれば違法にならないが、これがダミーの団体で、実際は西松建設から寄付がなされていたということになると違法になるということのようです。このダミーの2団体は、二階俊弘や森義郎などを含む多くの自民党の有力政治家のパーティ券も大量に買っていましたので、慌ててそうした政治家たちはパーティ券代を自主的に返還すると言い始めています。ちなみに、パーティ券を買って貰うこと自体は違法ではないようですし、すでに2団体は解散しているので、どこに返却するのかは興味深いところです。まさか西松建設に返すわけにはいかないでしょう。そんなことをしたら、ダミーの団体だということを知っていましたと認めるようなものですので、結局ポーズだけで、返却なんかしないと思います。

しかし、私がここで言いたいのは、どこからが違法で、どこからが違法でないかという法律論ではなく、寄付でもパーティ券の大量購入でも、出すのが企業であろうと政治団体であろうと、送り先が政治家個人の団体だろうと政党だろうと、見返りを期待せずにそんな政治献金をする奴はいないということです。資本主義社会でお金を出すということは、それに見合う何かを期待しての行為です。「寄付」などという美しい名称を使っていますが、あくまでも見返りを期待した「事前支払い」です。本当に見返りを期待しない寄付をする気があるのなら、世界の貧しい国の人びとを救うために匿名で寄付でもすればよいのです。そんな寄付を一切せずに、政党や政治家に「寄付」をするのは、「お金は出しますが、その代わりいろいろ便宜を図ってくれますよね?」という意味以外の何者でもないということは、火を見るより明らかです。それゆえ、今回の事件も、小沢一郎の政治団体が、西松建設が東北で仕事を何か受注するにあたって、何らかの便宜をはかったかどうか、つまり影響力を行使したかどうかの追究に向かっていくことでしょう。眉をひそめたくなるほどの露骨な影響力行使があれば、小沢一郎も党首辞任まで追い込まれることになるでしょう。検察側は意地でも何か見つけようとするでしょうが、多少の口利き程度では、本来は罪に問うのは難しいはずです。紹介するという行動であれば、誰でもやっていることです。その紹介をしてくれた人が有力者だったり、恩のある人だったりしたら、その意向を多少加味するということも、誰もが当たり前にやっていることです。その程度のことで犯罪者扱いされたらたまったものではないでしょう。見返りを期待しているのは、企業だけでなく、個人だって同じです。政治家の後援会に入って票集めのために奔走している人も、その大部分は何らかの見返りを期待しています。自分が推している政治家が当選し偉くなれば、自分たちの地域や自分たちの家族のために便宜を図ってくれると思っているから、後援会に入るのです。2世、3世の議員が多くなるのも、政治家一家の意思というより、有力政治家が引退した際に、利権集団である後援会がもめずにその利権を維持し続けるためには、「殿様」の血をひいた息子が一番無難だからです。政治家のところに、毎日たくさんの後援会の人が陳情や請願に出かけているのも、そういうことなのです。

 過激な提案かもしれませんが、私は国民の税金を使って行っている今の政党助成金や政治家への特別すぎる便宜(新幹線グリーン車や飛行機のファーストクラス乗り放題、etc.)を廃止して、収支をすべて明らかにすることを前提に、政党や政治家への政治献金を自由化したらどうかと思っています。献金してくれたかどうかだけを重視して、国家全体、あるいは社会のことをきちんと考えないバランスの悪い政治をする政治家なら、いずれ消え去るはずです。メディアが政治家の行動とその収支をきちんと公開するなら、政治献金を自由化しても、監視の目はある程度行き届くはずです。こんな資本主義社会なのですから、政治をやるのにもお金はかかるでしょう。集めたければ集めさせたらいいのです。能力があって、人格的な魅力もあり、バランスも良く、よい政治をする人間なら、たくさんの個人、企業、団体が献金したいと思うことでしょう。たくさんになればなるほど、よりバランス良い政治をしなければならなくなるはずです。政治献金によい献金も悪い献金もありません。みんな「ひもつき」のお金です。今回の事件で、小沢一郎を有罪にするなら、「寄付」を受けたり、パーティ券を大量に売りさばいたりしている政治家もすべて有罪にすべきです。小沢一郎を特に弁護したいとも思いませんが、おかしな捜査であることは確かだと思います。

319号(2009.2.26)WBCが始まるけれど……

 もうじきWBCが始まります。私は最近は野球に関心が薄れてしまっているので、スポーツニュースで大々的にWBC情報が流されているのを見ながら、「日本人って、やっぱり野球が好きなんだなあ」と他人事のように思っています。で、関心が薄いのになぜここで取り上げようと思ったかと言うと、こんなに盛り上がっていると、WBCが良い結果が出なかった時に、何が起きるだろうかとふと思ったからです。昨年の北京オリンピックで金メダルを期待された野球でメダルが取れず、星野監督が大バッシングを受けたのは記憶に新しいと思います。WBCは前回たまたま優勝してしまったために、2連覇の期待が高まっていますが、冷静に考えれば、メジャーリーガーが山のように参加するWBCの方が、オリンピックより優勝は難しいはずです。なんとか3位以内に入りメダルを取れば、世間もまあ許すでしょうが、4位以下ということになった場合は、また戦犯探しの大バッシングが起きることでしょう。第1に叩かれるのは、やはり原監督でしょうね。選手の選考、起用法、戦術など、監督を叩くところはいくらでもありますので。まあでも、これは監督の宿命です。誰がやっても負ければ責任はあるわけですし、叩かれるのは仕方ありません。きっと原監督も覚悟しているでしょう。で、一番書きたいのは次の戦犯(場合によっては最大の戦犯)とされそうな人がイチローではないかということです。イチローは前回のWBCから、それまでの個人主義的な職人的選手というイメージを捨て、妙に熱いチームリーダー的存在に自己変革をしてきています。前回は優勝したので、イチローのリーダーシップが賞賛されていましたが、なんとなく私は好感が持てませんでした。それ以来、イチローって、ちょっと「ビッグマウス」っぽいのではないかと思っています。これで結果が出なければ、マスコミの格好の餌食となるのではないでしょうか。イチローも35歳で、体力的に衰えてきていますし、例年シーズン開幕当初はあまり活躍しないスロースターターです。3月に行われるWBCで活躍できる保証はまったくありません。「WBC惨敗→イチロー叩き」という構図が見えるような気がするのは、あまりにペシミスティックでしょうか?

318号(2009.2.24)WTC移転と関西州

 橋下徹氏が大阪府知事になってから、その評価を書いてきませんでしたが、テーマ毎の是々非々でしか判断できません。やっていることすべてをまとめて一概にいいとも悪いとも言えません。しかし、政治家のやることなど、常にそういう目で見るのが正しい姿なのではないでしょうか。全面的に支持するとか、全面的に否定するといった「オール・オア・ナッシング」の見方は、全体主義的で危険です。教育問題もいずれ書かないといけないと思いますが、こちらはもう少し様子を見てからにすることにして、今日は今彼が一番力を入れているWTC移転と関西州問題について語りたいと思います。まず結論から言うと、私はWTCへの大阪府庁の移転は賛成ですが、関西州は反対です。橋下氏にとってはセットになっているこの案ですが、切り離すことは容易です。現在の大阪府庁は便利なところにありますが、老朽化もしていますし、その周辺で大きな開発を進めることはできません。それに対して、湾岸地域はせっかく土地があるのに人が集まらないので、宝の持ち腐れになっています。大阪府庁が率先して湾岸地域に移転すれば、自ずと人は集まり、企業も商業施設も住宅も集まってきます。東京の湾岸地域ほどは望めないでしょうが、府庁が移転すれば、必ずそれなりには発展します。今のままでは、あまりにももったいないです。

 2点目の関西州についてですが、これは関西州だからだめだというのではなく、そもそも道州制に反対だからです。今は、道州制こそ地方分権の望ましいあり方だという議論をする人が結構いますが、私はそうは思いません。長い地域ごとの伝統と文化をもつ日本の地域を大雑把にまとめて、日本の中に10いくつかの州を作るなどというのは、アメリカかぶれをした人たちの暴論だと思います。そんな大雑把なまとめ方では、住民に行き届いたサービスなどはできなくなります。たとえば、橋下知事の希望通りの関西州ができたら、兵庫県や京都府の日本海側に住む人も、州政府に用があるときは、WTCまで来なければならないなんて、冗談じゃないという気分になるのではないでしょうか。私は以前からの持論(「つらつら通信」第91号「「平成の大合併」より「平成の大分割」を!」参照)ですが、道州制よりも、現在の都道府県と市町村という2重になった地方自治制度を廃止し、全国を100程度の自治体に分け、そこに財源を配分するというのがよいと思っています。その場合には大阪府は地理的大きさから言えば現状のままで、人口から言えば3つくらいに分けてもいいと思っています。100300万人ぐらいの規模なら、自治体らしい目の行き届き方も可能でしょう。ついでに言えば、首都機能の全国的な分散化も行い、国土の平均的な発展をめざすべきです。東京一極集中は、国土の有効な利用という観点からも間違っています。

317号(2009.2.23)「おくりびと」のアカデミー賞受賞に思う

 「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画部門で最優秀賞に輝き、今日のトップニュースになっていますが、なんだか私は白けた気分です。日本人って、相変わらずアメリカを崇拝しているんですね。アカデミー賞なんて、基本的にはアメリカ国内の映画賞です。そこで評価されたからと言ってそんなに嬉しいのでしょうか。彼らは、自分たちと違う文化に興味があるだけです。映画としては、2003年の同部門の候補作にはなったけれど受賞はしなかった「たそがれ清兵衛」などの方がよい作品だと思います。われわれは、われわれの目でちゃんと映画を評価しましょう。となると、むしろ重要なのは、「日本アカデミー賞」ということになりますが、はっきり言って、これも毎年ひどい選考をやっています。今年は、「おくりびと」が10部門も受賞したわけですが、そんなに受賞できる映画ではありません。「おくりびと」はもちろんそれなりによい映画ですが、あの映画のよさは、この企画を思いつき、鍛錬の末に見事に主役を演じきった本木雅弘氏にほとんど負っています。彼の主演男優賞は当然ですが、それ以外に取ってもいいかなと思うのは、久石譲氏の音楽くらいです。企画の良さという意味で作品賞は与えてもよいですが、監督の演出には私はかなり疑問があります。今日のアカデミー賞の受賞スピーチで、監督の滝田洋二郎氏は「これは私にとって新たな出発になる!」と興奮して言っていましたが、彼自身はあまり才能のない監督ですので、この映画の人気が自分の力によって得たものだと思ったら、彼は今後大失敗をするでしょう。これまで撮った作品でそこそこ当たった作品をあげると、「陰陽師」「壬生義士伝」「阿修羅城の瞳」「バッテリー」などがありますが、みんなひどい作品です。それも演出のまずさで原作のよさをだめにしているものばかりです。「壬生義士伝」は原作とTVドラマが非常によい出来なのに、映画はまるでだめでした。(しかし、これもあきれたことに、作品賞、主演男優賞、助演男優賞を取っていますが。)「阿修羅城の瞳」は舞台が素晴らしく、その舞台と同じく市川染五郎を主役に使ったのに、ここまでだめな作品にしてしまうかと嘆きたくなるほどの出来でした。「陰陽師」と「バッテリー」は典型的なB級映画です。この監督にかかると、どんなよい原作もB級になってしまいます。たぶん、かつてポルノ映画を大量に撮っていた頃から、「雇われ監督」として器用になんでも撮れる便利な人という評価なのでしょうが、自分の中から強く湧いてくる創造力はない人だと思います。あと、「おくりびと」は助演男優賞と助演女優賞も取っていますが、山崎努と余貴美子の演技は別に普通という感じで、他の役者さんでもできた程度の演技だと思います。むしろ、「容疑者Xの献身」の堤真一や、同作品および「デトロイト・メタル・シティ」の松雪泰子の力演にこそ助演賞を与えるべきだったと思います。脚本賞も、私なら「おくりびと」ではなく「マジック・アワー」に与えます。なんか、今年は「おくりびと」に圧倒的に与えておけばいいだろうという安易な選考姿勢を感じました。まあ今年に限らず、毎年「日本アカデミー賞」の選考はおかしいなと思うことが多いのですが……。賞を取ったかどうかで評価するのではなく、自分の目で見てしっかり評価できる人間が増えないと、よい作品も増えないだろうなと心配になります。

316号(2009.2.12)なんか嫌なシナリオが見えてきた

 小泉元総理が久しぶりにマスコミを前に思いきった発言をしました。全面的な麻生総理批判です。まああれだけ自分のやってきたことを批判され、人物評としても「常識が通じない」だの「奇人・変人」だの言われたら、一言言い返してやろうという気になるのも当然でしょう。まだまだ人気の高い小泉純一郎を敵に回すような発言を安易にしてしまうところが、麻生太郎の本当に計算のできない愚かなところです。今回の小泉発言の中で、郵政民営化問題よりも注目されているのが、定額給付金支給を含む第2次補正予算案を、3分の2条項を使って再議決する必要はないと考えていると言い切ったことです。これで、定額給付金はどうなるかわからなくなってきました。これまで、民主党からあれだけ批判されてきたにもかかわらず、衆議院では渡辺善美以外に1人の欠席者を出しただけで、小泉純一郎を含め、他の議員は全員賛成に回ったのに、再議決では反対あるいは欠席という実質反対に回るという「転向」をするつもりでしょうか。実に節操のない行動です。小泉元総理も反対なら、1回目から反対に回るべきです。1回目賛成しておいて、2回目は賛成しないというのは、筋の通らないことです。

 しかし、多くの国民は小泉ファンですから、「小泉さんがついに動き出した」と喜ぶのではないかと心配です。以前にも書きました(「つらつら通信」第213号参照)が、彼は「敵役」作りに関しては天性の才能を持っています。郵政民営化の時は、亀井静香にその役を担わせましたが、今回は麻生太郎と森喜朗でしょう。昨日麻生支持発言をした森喜朗は、今日マスコミからマイクを向けられると憮然とした態度で「うるさい!」と言い放って車に乗りこみました。まさに「ザ・悪役」というパフォーマンスです。定額給付金は通ったとしても、小泉元総理は麻生総理を支持していないことがはっきりしましたので、「構造改革派」(この一見「進歩派」風の名称に騙されてはいけないのですが)は勢いづき、麻生下ろしにかかるでしょう。麻生総理が逆ギレして、自分の手で選挙は絶対にやるんだと、解散総選挙を断行してくれればいいですが、今麻生を支えているお友達や古い議員たちも、麻生総裁では選挙は戦えないと考えていますから、断固阻止するでしょう。もともと小派閥の長ですから、かつての海部俊樹同様、自分の意思だけで解散はできず、結局天皇皇后結婚50周年とサミットを花道に内閣総辞職、国民無視の四度目の総裁選実施となりそうです。

 もう一度総裁選をやって自民党の顔を変えるにしても、もうこれといった駒もないと言われてきましたが、今日の小泉発言で、小池百合子の可能性が高くなったと思います。小池百合子は、細川護煕の日本新党から始まり、小沢一郎の新進党、自由党、そして自民党の傘の下に入った保守党、ついには小泉純一郎の自民党へと、常に風を見て権力者にすり寄りながら、政界を生きのびてきた節操なき政治家で、古い自民党政治家には、まったく人気がありません。おそらく、面倒見もよさそうではないので、若い政治家にも人気がないでしょう。しかし、小泉一派の顔としては、今は彼女しかいません。今日の「構造改革派」の会議の席順でも、真ん中に小泉がいて、その両隣はかつて愛人問題で失脚したことのある元森喜朗の弟分の中川秀直と、「小泉の偉大なるイエスマン」と言われた武部勤元幹事長で、その両隣が小池百合子と石原伸晃でした。石原伸晃は今「火中の栗」を拾う気はないのに対し、小池百合子はこういうチャンスを逃したら、自民党総裁になる目はないと考えるはずです。小泉が全面支援をする形で、世論を煽れば、2001年の「小泉ブーム」の再来のように、「小池ブーム」が起きてしまいそうです。小池嫌いの政治家たちも、小選挙区制度の下では、みんな筋を通すことよりも、勝ち馬に乗ることを第1優先として考えますので、小池百合子に大衆が味方したら、雪崩を打って、小池百合子に乗ってくるでしょう。そして、そのまま衆議院は任期満了・総選挙となり、日本初の女性首相という新鮮さで、自民+公明で過半数を超える結果を出す、そんな嫌な未来図が見えてきてしまいました。

 そんな不幸な未来予想図を崩すために、もう一度書いておかないといけないと思いますが、政権交替の行われない政治は腐ります。政治家と官僚と財界は癒着します。どちらの政党が勝つかわからないという政治にしておかないと、国民を軽視したシステムが維持されてしまいます。自民党の内部で顔が変わるだけで、政権交替が起きたような気になるのをやめにしましょう。もう一言言うなら、小泉純一郎は決して国民のことなど考えていません。もし本気で国民のために働く気があるなら、そして自分の政策が国民を幸せにするという自信があるなら、引退せずに、再度権力を握って、国民を導くべきです。でも、彼はやめるのです。そして、やめるくせに、今日みたいな生々しい発言をするわけです。自分の美学を貫いてやめるなら、何を言われても一切政治に口を挟まないぐらいの達観した境地には達していないのかと批判すべきです。再び、国民が「小泉劇場」に騙されることがないように願いたいものです。今のような格差社会になった一因には、小泉時代の政策があるのは間違いありません。国民を愛してもおらず、国民のために働く気のない、「元」政治家の魔法から、いい加減解き放たれるべきです。  【もうほとぼりが冷めたので、こっそり後半部分も含めた全文を掲載しておきます。2009.4.17

315号(2009.2.11)定額給付金、政府紙幣、次は何が出てくる事やら……

 定額給付金支給が一応決まりそうですが、1人12000円程度の給付金では消費意欲はたいして上げられないので、何十兆円分かの政府紙幣を作って配布したらいいという意見まで出てきました。なんかむちゃくちゃです。購買意欲が落ちたからといって、勝手に紙幣を作って配るなんてことをしていたら、そのうち誰もまじめに働かなくなり、円の価値は大暴落します。政府紙幣の積極論者は100年に1度の危機だからこんなことは今回限りだと言っていますが、一度開けてしまった「パンドラの箱」は2度でも3度でも開いてしまうでしょう。そもそも、今は100年に一度の経済危機なのでしょうか?アメリカ経済がおかしくなってきた余波を受けて、モノが売れなくなってきているのは確かですが、そこまで悪い時代になっているとは思えません。先日、キャリアセンター主事として10企業ほどを訪問しましたが、確かに昨年よりは採用意欲が落ちていますが、昨年までがずっと右上がりを続けてきたので、昨年より採用意欲が低いからといって、10年、いや5年前と比べても、採用数は多いのではないかと思います。これは、まさにデイビーズが「Jカーブ理論」で示した、人々が相対的剥奪を感じる典型的パターンです。長らく右上がりの経済上昇が続いた後、短期に急速な反転が起きると、絶対的なレベルではそれほど低いレベルになっていないのに、ものすごく事態が悪くなったと思い込み、強い不満を感じるという理論です。まさに、今の日本の状態です。

現在くらいの経済不況なら、公共事業を増やして内需で仕事を作り出せば、かなり回復するはずです。ここ10年ほどは無駄な公共事業はやめるべきだというのが世論でしたが、今のような経済状態になってきたら、のちのち赤字を生み出さない公共事業なら積極的にどんどんやればよいのです。つまり、ケインズ理論を再び適用すればいいのです。しかしそれにしても、アダム・スミス的自由経済が復活したら、格差が生まれマルクス的再配分思想が復活し、行きすぎた競争経済の結果不況に陥り、ケインズ流の公共事業中心の経済浮揚策に再び頼らざるをえなくなるなんて、まさに「歴史は繰り返す」の言葉通りです。ただし、かつては100年以上かけて経験したことを、今は30年ほどで経験しているというのが恐ろしいところです。歴史が本当に繰り返されるなら(こういう流れが必然なら)、次に来るのは「ブロック経済」です。いくつかの国が共同体を作り、その中で自給自足的な経済を営もうとするはずです。ヨーロッパはすでにEUを作っていますが、アメリカも北中米経済圏を作ろうとするかもしれません。そうなったら、日本は東・東南アジア経済圏を作らないと対応できないでしょうが、過去の歴史が邪魔をして、これは難しそうです。むしろ、江戸時代を参考に「鎖国」をした方がいいのかもしれません。休耕田をすべて復活させ、大部分のゴルフ場も農地にし、まずは食糧自給をはかり、「出島」で産油国とだけ取引をすることにすれば、現代版日本型鎖国はできるような気もします。ブータン以上の幸福な国になれるかもしれませんよ。

最後に、何でもありなら、こんなアイデアもいかがでしょうか。たいして消費意欲を向上させるとは思えない定額給付金を配るのをやめ、その総額2兆円を使って、超大型宝くじを発行するという案です。2兆円あれば、1億円を2万本出せます。5000万円、10000万円、100万円とかはすべてなしにして、1億円2万本のみの当たりくじにするのです。2万本ですから、結構当たりそうな気がすると多くの国民が思うでしょうから、この宝くじはかなり売れるはずです。昨年の年末ジャンボ宝くじは12億円70本で、2045億円の売り上げだったそうですから、1億円2万本なら、その45倍くらいの売り上げが見込めるのではないでしょうか?売場はすべての金融機関の窓口にして、売り上げた分の5%を手数料として金融機関に渡すことにしたら、どの金融機関も喜んで乗ってくるでしょう。(システムがうまく構築できるなら、基礎自治体を窓口にして、5%の手数料も、自治体に渡すというのがよりよいような気もします。)売り上げで8000億円〜1兆円のお金が動き、当選して1億円もらった人も12000円程度とは違いますから、その78割ぐらいは消費に回すと予想されます。結果として、2兆円をはるかに超えるお金が市場に流れ込むという経済効果が考えられると思うのですが、間違っているでしょうか?

314号(2009.2.6)小泉トラップ

 また麻生太郎が口を滑らせてしまいました。昨日のニュースで、自分の言葉で語っていない、役人の作った答弁通りだと言われていたのを意識しすぎたか、今日の衆議院予算委員会で、民営化されて1年半も経たない4分割案を見直したいと明言し、さらには、もともと「自分は小泉内閣の中で郵政民営化反対の立場だった」と言い切ってしまいました。当時麻生太郎は郵政事業を管轄する総務大臣であり、途中過程にはいろいろあったにせよ、最終的には小泉純一郎に屈服し、大臣を辞めもせず、この案に賛成票を投じ、郵政選挙でも賛成の立場で当選してきたにもかかわらずです。たとえ心の中では一度も郵政民営化に賛成していなかったとしても、表面に表れた行動では、彼は何度も郵政民営化賛成、4分割化賛成という意思表示をしてきているのです。ただの代議士でも、自民党と公明党の衆議院議員なら、今更「実は反対だった」なんて口が裂けても言ってはいけないはずです。なにせあの2005年の選挙は、郵政民営化に賛成するかどうかだけを、小泉純一郎が争点にした選挙だったのですから。その選挙の結果として得た数の力で総理大臣をやらせてもらっている人間なのですから、ここは役割に徹しなければならないはずです。これでは、前原誠司でなくとも、「詐欺だ!」と言いたくなります。なんでこんなに計算ができないのでしょうか。夜のぶら下がり(記者会見)では、早速取り消しにかかっていましたが、ますます男を下げただけです。まあしかし、麻生太郎のことはもういいです。もう語るのも飽きました。

 今確実に自民党政権崩壊に向かって流れができていますが、この流れは結局のところ、意図せずして小泉純一郎が作ったものだと考えています。一見すると、彼は衆議院選挙を大勝ちさせて、自民党を復活させたように見えますが、彼がやりたくてやったことが、意図せずして自民党政権を崩壊に向かわせています。これを、私は「小泉トラップ」と呼びたいと思います。第1のトラップは、構造改革を進めようとしたことです。もともと自民党という政党は、様々な階層の要望に応える「国民政党」でした。もちろん自由主義を標榜していますし、資金も欲しいので、大企業にもいい顔をしますが、個々の議員が選挙で当選するために、地方の農民、中小企業にも手厚い保護を、補助金や公共事業などといった形で与える政党でした。しかし、国際的な競争力のためには、そうした地方を見捨ててしまったのです。都会のお坊ちゃんで、地元のためになどという発想のまったくなかった小泉純一郎にとって構造改革は何の疑問も感じることなく進めうる改革だったでしょうが、自民党の多くの「どぶ板議員」にとっては、つらい改革でした。その代表例としてなされた郵政民営化が第2のトラップです。自民党の集票マシーンとして働いてくれる特定郵便局長会を敵に回すなどということは、もともとは小泉純一郎以外の自民党政治家は誰もやりたいと思っていたわけではありません。やったからと言って、自民党にとっては1文の得にもなりません。得するのは預金者と加入者を郵便局から奪える銀行と保険会社だけです。なぜ小泉が郵政民営化に関心を持ったのかわかりませんが、彼だって、郵政民営化をしたら日本がよくなるなんて論理は立ててはいなかったのではないかと思います。(感覚人間である彼は他のことでもほとんど緻密な論理など持っていませんが。)ただ、昔から言い続けてきたことだし、何か後世に残る仕事をした総理として名を残すためには、かつて中曽根康弘が電電公社、専売公社、国鉄の民営化に成功して、拍手を浴びていたので、自分もそれと同じ事をやろうと思っていたぐらいではないかと思います。すべての自民党議員は、小泉の「威光」を借りて当選するために、本音は別のところにあったにもかかわらず、この踏み絵を踏まされてしまっているので、今更本当は踏みたくなかったんだと言えば、「転向」したと非難され、あくまでも踏み続ければ、地方では冷たい政治家と烙印を押され、落選の憂き目を見ることも確実なわけです。

第3の、そしてもっとも大きな影響を与えたトラップは、「ぶら下がり」という記者会見を、小泉以降歴代の首相が毎日やらなければならなくなったことです。小泉は永田町の論理に押しつぶされずに自分の政策を実行するために、TVを通して国民を味方につける戦略を立てました。そのために、このぶら下がりを毎日2回もやっていました。パフォーマンス上手の小泉にとって、ぶら下がりは大きな武器になっていましたが、安倍晋三以後の首相は、このぶら下がりで国民の支持を落としています。安倍晋三は自分がこういう記者会見が得意でないことはわかっていたようで、1日2回を1回に減らしました。しかし、質問する記者を一切見ない奇妙なカメラ目線で、どこを見ているかわからない不安げな「若造総理」というマイナス印象を与えてしまいました。次の福田康夫は就任当初はニコニコ顔でいくらでも記者会見をやりますよという感じでしたが、事態が思うように進まず、記者の質問が厳しくなってくると、まるで当事者ではない「評論家」のようなことばかりを言い、国民に無責任感を与えてしまいました。ぶら下がりではなく、公式の記者会見でしたが、退陣を発表した時の「あなたとは違うんです!」発言は、毎日つきまとわれたマスメディアに対する怒りがそのまま出てしまったということでしょう。そして現在の麻生太郎も、あの片頬だけ引き上げたニヒルな顔をアップにされながら、乱暴な「上から」口調で、記者たちを小馬鹿にするような態度を取り、都合が悪い質問になると適当に答えてすぐに帰ってしまったりするところをすべてTVで報道され、国民に訴える気のない総理大臣だという最低の印象を与えています。若い方は、こういうぶら下がりという記者会見はずっと行われてきたと思っているかもしれませんが、こんな慣習は小泉総理以降にできたものです。(もちろん、「ぶら下がり」の本来の意味は、今のような場所を決めての定例の記者会見ではなく、総理大臣の行くところ、行くところについていって話を聞こうとすることから来ていますので、そういう不定期な「ぶら下がり」なら以前からやられていました。)それ以前は、官房長官が毎日公式の記者会見を開き、内閣の方針等を説明していたのです。官房長官を前に出すことによって、総理大臣の意向(=内閣の意思)を毎日のようにTVにさらけ出さずに済んだのです。こういうやり方でうまく回っていた時は、「あー」とか「うー」とかしか言わないような総理でも、「言語明瞭・意味不明」な総理でも、なんとかなってきたわけです。しかし、5年半の小泉内閣で、「ぶら下がりをやらない=国民軽視」という解釈が正統性を持ってしまいましたので、これからは民主党が政権を取ろうと、これは続けなければならないでしょう。(小沢一郎はこういう記者会見が苦手な人なので、もし彼が総理になった時どうするのか、その点でも非常に興味深いです。)いずれにしろ、こうして小泉が自分のやりたいことをやって、結果として意識せずに仕掛けたトラップに小泉後の総理がすべて見事にはまり、自民党瓦解への道を歩んでいるわけです。

313号(2009.1.25)「朝青龍場所」の回顧と今後の展望

 久しぶりに大相撲がおおいに盛り上がりました。理由は、朝青龍の復活以外にありません。千秋楽に決定戦になって結局朝青龍が優勝するというのは、これ以上ないシナリオでした。本割での朝青龍の負けは「打ち合わせ通りかな?」と疑いたくなるほどです。不人気総理・麻生太郎が総理大臣杯を渡すために国技館に来ていましたが、久しぶりにラッキーだったなと思っていることでしょう。「表彰状。内閣総理大臣。朝青龍明徳。」などとわけのわからないことを言っていましたが、それもご愛敬でしょう。(たぶん、「内閣総理大臣」のところは「内閣総理大臣杯」の間違いではないかと思います。)表彰状を渡してから、「数々の試練を乗り越えてよく頑張った。やっぱり横綱は強くないと」と言っていましたが、自分にも言い聞かせていたのでしょう。「横綱」を「総理大臣」に変えれば、まさに自分がめざす姿なのでしょう。

 力士のことを語る前に、相撲評論家とマスコミのいい加減さを指摘しておきたいと思います。まあ、マスコミなどというものはもともといい加減ですから、今更という感じですが、相撲評論家たちの見る目のなさと節操のなさは厳しく批判しておきたいと思います。元力士である舞の海、相撲記者の中澤氏とか、NHKアナウンサーだった杉山氏、相撲好きの漫画家やくみつるなど、みんな今場所で引退という感じのことを言っていました。見る目がなさすぎます。横審の総見で白鵬にボロ負けしたというだけで、もうだめだなんて見方は、「朝青龍憎し」の感情が強すぎる偏った見方です。長年朝青龍という力士を見てきた人なら、その集中力と運動神経の抜群さを見過ごしてはいけなかったはずです。その二つの能力が朝青龍を今の地位に押し上げたものです。彼が本場所に出ると決めたなら、それなりにその勘が戻っていると自分で思えたからでしょう。彼ら(特に専門家でもないやくみつる)は、しばらく偉そうな顔をしてTVで発言すべきではないでしょう。他方で、聖飢魔Uのデーモン小暮氏は非常に的確な見方をしていました。見る目のある人とない人の差がはっきりと出た初場所でした。

 さて、いよいよ力士自身についてですが、私は一貫して朝青龍ファンなので、今場所は本当に興味深かったです。彼の集中力のすごさは信じてはいましたが、左肘に力が入らないようなら、序盤に負けが込み、マスコミに「引退」を迫られるという展開だってあるのではないかとは、私も思っていました。しかし、初日の稀勢の里との一番を見て、「ああこれは行けるな」と思いました。あの一番で、彼の集中力と運動神経の良さが戻っていることと、左肘にも十分力が入ることが確認できましたので、優勝はともかく引退を迫られるほどのひどい成績には決してならないだろうと思いました。彼の勝負が決まった後でのダメ押しは評判が悪いですし、私もあまり好きではありませんが、ああいう振る舞いは、朝青龍のテンションが上がっていることを示すものですから、あれが初日から出たのも、彼の復活をさらに確信させるものとなりました。

 しかし、今場所復活できたからと言って、このまま朝青龍が毎場所よい成績をあげ続けられるかどうかは微妙です。今場所は本当に追い込まれていましたので、彼の力の最大の源である集中力がMAXに近いぐらい高まっていましたので、この成績を残せましたが、来場所以降はこんな追いつめられ方はしません。となると、今場所のような集中力は出ませんので、気の入らない相撲で何番か負けるということもおおいに考えられます。相撲ファンとしては、これから1〜2年は毎場所、朝青龍と白鵬が好成績のまま千秋楽で優勝を争う「青白時代」(とNHKは言っていますが、「龍鵬時代」の方が重みがあって私はいいと思うのですが……)を見たいものです。14戦全勝同士での横綱対決なんていつ以来実現していないでしょうか。今の大関以下との力の差から見れば、「龍」と「鵬」の千秋楽全勝対決は十分可能なはずです。白鵬はおもしろくない相撲ですが負けない相撲なので、朝青龍の集中力さえ維持されれば、来場所にも実現可能なのですが……。2人の間に割って入るとしたら、もう少し体重が増した後の日馬富士でしょう。彼の運動神経は朝青龍に負けないものがあります。しかし、まだ軽すぎるのがつらいところです。日馬富士の体重があと20kg増えたら、3力士で優勝を争う時代になります。(でも、その前に朝青龍の力が落ちてきそうですが……。)今場所は把瑠都がよかったですが、ヨーロッパ系の力士は脚が長すぎるせいか、膝が固いのかわかりませんが、大成できないように思います。いずれまた膝を痛めそうな気がします。いずれにしろ、大相撲はしばらくは「モンゴル時代」です。

312号(2009.1.24) 「逆チョコ」は普及する

 昨年のバレンタインデーに、娘たちの高校で男子高校生が手作りチョコを男女問わず渡していたという話を聞いて、新しいトレンドになるのではないかとここに書きましたが、今年は「逆チョコ」という名称で、男性が女性にチョコを渡すことを普及させようという動きが出てきました。もろに菓子メーカーの仕掛けだというのが見え見えで、おじさんコメンテーターたちは怒っていましたが、私は若い人の間では結構普及するのではないかと思います。もともとバレンタインデーは、欧米では男女どちらからでも愛を伝えてよい日ですので、日本もそうなってもまったくおかしくありません。それを、日本では女性からということにしたのは、従来は日本の女性は通常は自分から愛の告白をしたりはしないので、こういう日を作ることによって、女性にも積極的に愛を伝えてもいい機会を作り出そうとしたわけです。しかしその後、別にバレンタインデーでなくとも、女性たちも普通に自分から愛を伝えられるようになり、バレンタインデーは、「義理チョコの日」から「義務チョコの日」になり、そのうち「友チョコの日」や「自分チョコの日」と変貌してきたわけです。しかし、女性のみがチョコを買う日である限り、もうこれ以上市場の大きな拡大ははかれません。そこで、今度は男性を購買層にしようとメーカーが考えてきたのは、当然と言えば当然の戦略です。そして、このメーカーの仕掛けに乗りたいと思う男性は潜在的にかなりいる時代となっています。かつてのように、いつでも積極的に女性に愛の告白をできる男性は減ってきています。下手に告白して失敗でもした日には、彼女との関係だけでなく、周りの人間関係も気まずくなりそうだと心配性になっている男性がたくさんいます。彼らにとっては、バレンタインデーで「逆チョコ」が一般化してくれれば、とてもありがたいはずです。さりげなくなくチョコを渡して女性の反応を見ることができます。喜んでくれたら、「実はボク……」と持って行けますし、もしも反応が悪ければ、「義理だよ。義理。軽くもらっておいて。ちょっと新しいトレンドに乗ってみようかな、なんて思ってね」と逃げることができます。これなら、傷つかずに遠回しの愛の告白ができるかもしれないと考える男性は結構いるように思います。バレンタインデーという日が、そういうことをしてもいい日と広く認識されることになるのは、シャイな男性にとってはありがたいはずです。ついでに言えば、チョコという安価なプレゼントでも十分喜んでもらえるというのもありがたいはずです。男性の手作りチョコもさらに広まるでしょう。値段は安くつくし、家事が嫌いな人が多い現在の若い女性たちからは、「ええっ、こんなこともできるんだ!」と家庭的な男性として評価も高くなることでしょう。それと、何よりも今の若い男性たちは昔の男性たちと違って、非常に甘いもの好きです。女性に渡すという名目で、「自分チョコ」を堂々と買えるようになると考える男性も多いはずです。以上のことから、バレンタインデーに男性から女性にチョコをプレゼントする(男性がチョコを買う)という習慣は普及すると予測します。ただし、「逆チョコ」という名称はあまり適切な名称ではないので、いずれこの言葉は消え、男女どちらからでもチョコを渡してよい日として、日本のバレンタインデーは変貌していくことになるのではないかと思います。

311号(2009.1.23)最近のお薦め番組

 私はかなりのTV人間で、軽い仕事程度なら、TVを視聴しながらやっています。ドラマはそんなに観ませんが、情報番組はかなり見ています。今何が起こっているのかを知るにはもっともよい手段です。そんな私が最近お薦めできると思っている番組は、NHKの「東京カワイイTV」と毎日放送系の「水曜ノンフィクション」です。今週の両番組はともに非常に参考になりました。前者は再放送だったのだと思いますが、「ストスナ」されたい男の子たちというのがテーマでした。「ストスナ」ってご存じですか?「ストリート・スナップ」の省略形で、要するに街を歩いているおしゃれな一般の若者の写真を撮り、雑誌に載せることです。今は、プロのモデルさんに用意した服を着てもらうより、自分なりにコーディネートしてお洒落にしている一般の若者の写真の方が読者受けがいいそうです。少し前に「読モ」(=「読者モデル」)と言われる女の子たちが注目されていると聞いていましたが、それがさらに一般化したものなのでしょう。確かに、ファッションの参考になるかもしれないし、あるいはいつの日か自分も雑誌に登場できるかもしれないと思うと、こういう雑誌はある程度売れるのでしょう。で、今回の番組では、その「ストスナ」をされたい20歳前後の男の子たち3人が、なんとか「ストスナ」されるように、番組が協力するというものでした。女の子ではなく、男の子たちもそういうことに真剣になっている時代が来ているのだと、軽くショックでした。男たちも、中身より外見の時代になっていることはとうに気づいていましたが、雑誌に写真を載せてほしくて、こんなに必死になっている人たちが出てきているというのは予想以上でした。男も女も外見のかわいさ、魅力を誇示する時代になっているようです。ただし、私はこの趨勢を全面的に肯定することは絶対にしません。人間、最後は中身で勝負するものだと思います。若い時に外見を作ることだけに熱心で、中身を軽視してしまった人は、先々必ず苦労すると思います。おしゃれに関心があるのは結構ですが、それだけにうつつをぬかしていては絶対にだめです。他方で、こういう時代ですから、外見をまったく気にしないのも、それはそれで問題でしょう。結局、何事もバランスが大事だということです。

 さて、もうひとつの番組「水曜ノンフィクション」は、最近の民放TV局がゴールデンタイムに置くのは珍しい本格的なドキュメンタリー番組です。今週は、北京オリンピック後に経済が急速に冷え込み、格差がより露骨な形で表れてきている中国の現状についてでした。中国の格差は尋常ではありません。なんと0.1%の人口で、40%の富を保有しているのだそうです。平均年収は都市部で約18万円、農村部で約54,000円しかないのに、オリンピックの選手宿舎になっていたマンションは1部屋1億円で売り出されたりしているそうです。30年ほど前に始まった中国の「改革開放」路線は、確かに全体として中国経済を押し上げましたが、この格差はまるでフランス革命やロシア革命が起きる前の社会のようです。こういう貧富の格差をなくすために生まれた社会主義国で、資本主義国以上の格差が広がっていることに、不思議な気がするほどです。中国は政治体制こそ、共産党の一党独裁という社会主義的体制を維持していますが、経済的には完全に資本主義(それも初期資本主義)国になっています。他の先進資本主義国がその後進めてきたような格差是正の様々な社会保障制度を、中国が今後取り入れていくことができれば、中国も改善されていくでしょうが、その可能性はあまり高くないように思います。その理由は、人口が多すぎることです。12億人もの人々に広く豊かさや保障を与えることは、誰がリーダーになっても困難でしょう。このままでは、中国で現政権の方針に対する不満が高まり、体制変革を求める動きも出てきそうな気がします。ただし、そういう不満感が高まりそうになってきた時には、外部に敵を求め、その敵を憎ませることで、国民の内政への不満の矛先を変えさせることを、中国政府は得意としていますので、日本などはまたそのターゲットにされるかもしれません。

 違うタイプの番組ですが、ともに今という時代を知る上では有用な番組だと思います。時間があれば、ぜひ見てみてください。

310号(2009.1.21)オバマ・ブーム

 ついに、オバマ氏が大統領になりました。アメリカ国民だけでなく、世界中で大歓迎ムードで、すっかり「オバマ・ブーム」です。確かに、誠実そうで、頭も良さそうで、悪いことはしなさそうです。でも、あまりの盛り上がり方に、どうも引いてしまう私がいます。オバマ氏自身は、自らをリンカーンとキング牧師の継承者という位置づけをしているようですが、マスコミはその上に、その年齢とさわやかさから、ケネディのイメージも重ね合わせています。リンカーン、キング牧師、ケネディと言えば、アメリカだけでなく、世界でもっとも人気のある政治家です。もうそれだけで、世界は盛り上がってしまうわけです。(実際に、ケネディのやったことなどを知ると、そんなに評価できる大統領ではないのですが……。)でも、あんなに熱狂的に盛り上がる大衆を見ると、同時多発テロが発生した時に国家を歌いながらタリバン撃つべしと高揚していたアメリカ人を、小泉ブームに目がくらんでいた日本人を、そしてヒットラーの演説に陶酔していたドイツ人を思い出してしまいます。大衆は、何度痛い目を見ても、結局カリスマ性のあるリーダーを求めるもののようです。みんな、オバマ氏がどういう人物で、どういう政策を行おうとしている人なのかを何も考えないまま、新鮮さで支持をしているだけではないでしょうか。少なくとも、日本のオバマ・ブームはそういうものでしょう。

 正直言って、私もオバマ氏がどのような人物で、どのような政策をこれから打ち出していくのかよく知りません。だからこそ、諸手を挙げて、「オバマ支持」とは言えないのです。(当たり前の感覚だと思うのですが、違うでしょうか?)ただ、これまで彼が話してきたことや、今回の就任演説からすると、ブッシュ時代とはかなり異なる政策を打ち出してきそうです。民主党という政党は、共和党に比べ、もともと平等主義的志向性の強い政党ですが、それが外交面にも表れそうです。ブッシュは、アメリカ(の自由主義)にとって悪い国と良い国(日本は何でも言うことを聞く「手下」として、この中に入っていました)をはっきり分けて、悪い国には制裁を、良い国とは仲良く(ただし、アメリカの都合に合わせてですが)という方針でやってきました。オバマ氏は、就任演説でも言っていましたが、これまで仲の悪かった国とも仲良くすると述べていましたので、イラクや北朝鮮などとの関係はかなりよくなるでしょう。逆に、日本との関係は少し冷たい関係になっていくのではないかと予想されます。平等主義的観点から言えば、金持ち国・日本は、オバマ氏が好感を持つ国ではありません。そういうことが明らかになった時に、日本はどういう対応をするのでしょうか?

 しかし、私は、これを日本のチャンスにする手もあると思っています。しばしば「アメリカのポチ」とも言われる日本は、もしもオバマ政権が、日本との距離を取ろうとするなら、この機会に本当の独立を果たせばいいのではないかと思います。アメリカの顔色を見ながら、アメリカの意向に逆らわないように行動することをやめ、自らの意思ですべきことをするという国に生まれ変わる機会にしたらいいのです。日米安保条約も在日米軍基地も永遠に維持するべきかどうか議論してみてもいいのではないかと思います。まあそこまで一気にやらないにしても、オバマ政権になっていろいろ変わるであろう対日政策に、柔軟に対応し思い切った政策転換をはかるためにも、日本も新しい政権になるべきです。今の自民党政権では、何も変えられません。

309号(2009.1.19)Y染色体が消滅する!?

 昨日のNHKスペシャルをご覧になりましたか?「シリーズ・男と女」の最終回で、「Y染色体は遅くとも500万年後には消滅する」という衝撃的な内容でした。見る前は、何か条件があって、その悪い条件が整うと消えてしまうという話なのではないかと思っていましたが、そうではなく、「Y染色体の消滅」は、雌雄別体の生物に仕掛けられた、決して逃れることができない「時限爆弾」のようです。ご存じのように、Y染色体は、生物学的に雄を作る染色体です。雌の性染色体がXXであるのに対し、雄の性染色体はXYという組み合わせになっています。生殖の際は、雌のXXと雄のXYがそれぞれ分離し、新たなXXXYの組み合わせができて、新たな雌と雄が誕生するわけです。で、昨日の番組によれば、XXは互いに補って新たなXを生み出すのに対し、XYに含まれるY染色体はXとは補えないために、父から息子にひたすら単純コピーをされつづけざるをえないそうです。しかし、そのコピーの途中で、当然変異等で一部の遺伝子が欠落してしまうこともあり、そうなるともう復活はできないそうです。現在、遺伝子の数は、X染色体が1098もあるのに対し、Y染色体は78しかないそうですが、かつて(Y染色体が誕生した1億6600万年前頃)は、YXと同じくらいの遺伝子を持っていたそうです。そこから、Y染色体だけじわじわと減り続けて、こんなに少なくなってしまったのだそうです。ここまで聞くと、500万年後には、Y染色体が消滅しているというのも納得せざるをえないと思います。実際に、日本にいるトゲネズミの一部(アマミトゲネズミ、トクノシマトゲネズミ)はすでにY染色体が消滅してしまったそうです。彼らは、たまたまY染色体が果たしていた役割が他の染色体に移り、生きのびることができたそうですが、これは奇跡的偶然のようなもので、人間で同様なことが起きる保証はまったくないそうです。

 さらに番組は続き、人間の雄の精子の数も質も、他の哺乳動物に比べると、極端に悪くなっているということも紹介されました。デンマークでは、4割の男性が女性を妊娠させることが困難な程度の数の精子しかないそうです。質(動き)も悪く、チンパンジーの精子と比較した顕微鏡映像を見ると、人間の精子はほとんど死にかけているとしか思えないほどでした。この精子の不活発さは人間が作り出した単婚制という社会制度によるものなのだそうです。多婚制が基本の人間以外の動物においては、より活動的な遺伝子を持った雄の精子が雌を妊娠させることになり、活発な遺伝子が受け継がれることになります。つまり、「自然選択」の法則がそのまま適用されるわけです。それに対し、道徳や社会制度を発達させた人間においては、決められた相手との間でしか性交渉は行われないため、より活発な精子を持った雄の遺伝子が次世代に残されるとは限らなくなっていまいます。これが繰り返されることによって、こんなに不活発な精子しか持たない男性が多数存在する状況が生まれたそうです。しかし、こうした状況があるからといって、人間も一夫一婦制をやめ、多婚制にしましょうなんて方向転換は絶対に無理ですから、Y染色体が消滅するよりも早く、女性を妊娠させられない男性だらけになり、人類(特に先進国の人々)は滅びるという運命の方が余程先にやってきそうです。もしかすると、「草食系男子」の一般化も、生物学的な理由があるかもしれないですね。

【追記】(2009.1.23) その後も、つらつら考えていたら、ひとつ疑問が湧いてきました。それは、Y染色体の遺伝子数の減少についてです。もしもある父親から息子への継承において、一部の遺伝子が欠落することになったとしても、どうしてそれがその他の雄も含めて一般化されることになるかです。すべてのY染色体の減少が同時に起きることなど考えられませんし、遺伝子の数が少ない染色体の方が優性で、遺伝子の多い染色体を徐々に排除していくというのもおかしな気がします。1億6600万年前頃には、Y染色体がX染色体と同じくらいの遺伝子を持っていたというのは、確認された事実なのでしょうか。おそらく推測にすぎないのではないかという気がします。もしかすると、Y染色体は最初から78しか遺伝子がなかったということも考えられるような気がしてきました。しかし、精子が不活発になっていることの方は間違いないと思いますので、人類の危機はやはりやってきそうな気はします。

308号(2009.1.16)「優しい社会」は本当に優しいのだろうか?

 昨年末に男女関係において若い男性たちが「草食系」になっていると書きましたが、その後いろいろ意識して見ていると、「草食系」とは男女関係だけでのことではなさそうです。今の若い人は、車にもあまり興味がなく、免許は取るようですが、いずれ使う必要があるかもしれないと思っての取得で、車を欲しいと思っているわけではないそうです。「とりあえずビール」をしないだけでなく、お酒自体にあまり興味がないようです。中高年の男たちが、男としての価値を高めたり必要だと思ってきたことを、「草食系男子」は共有しなくなっているようです。自己紹介で、「ぼくはシャイなので……」とか「人見知りなので……」という男子学生が今はたくさんいますが、あれも「ぼくは『草食系』なので……」と自己紹介しているつもりだったのかもしれませんね。でさらによく考えてみると、女性の方も昔より「肉食系」になっているとはとても言えないように思います。バブルの頃は、男たちの文化を積極的に自分たちのものにしようとする「おやじギャル」なんて「肉食系」っぽい女性の登場が語られましたが、今はそんな女性もほとんどいなくなりました。確かに、男子とも対等に話し、一見すると昔の女性より元気そうですが、傷つくのも傷つけるのも怖がっていたり、家族仲がよくてあまり冒険心がないこと(実家を出て生活水準が下がることを嫌がり、結果として結婚する判断がつかないことなども一例でしょう)など、女子も草食系のような気がします。つまり、今、若い人(特に大学生)は男女を問わずみんな草食系になってきているように思います。

この原因のひとつとして、社会が豊かになり、「優しい社会」化していることが考えられます。社会が豊かになって以降、「弱者に優しい社会を」というタテマエに反対する人はいませんが、つい最近までは現実社会はそんなタテマエが通用しない「弱肉強食」社会だと思っていました。それゆえ、学生たちを育てるにあたっても、そういう厳しい社会に耐えられる人間に育てなければいけないとずっと思ってきました。しかし、最近の日本は急速に「弱肉強食」社会ではなくなりつつあり、「弱肉強食」社会を前提とした人育ては、不必要に厳しすぎるトレーニングと思われる可能性が増しているようです。育てるためには、欠点を指摘し、厳しいことも言わなければなりませんが、それを傷つけられたと受け止める人が増えてきているように思います。「ぼくは『草食系』なので……」の後に続く言葉は、「優しく扱ってください」ではないでしょうか。「パワー・ハラスメント」や「アカデミック・ハラスメント」という言葉が誕生し、どんどん適用範囲が拡大されていますが、訴える側が痛い思いをしたかどうかで「ハラスメント」を決めてしまうなら、「優しい社会」ではどんどん適用範囲は拡大していくでしょう。その痛い思いをさせた厳しい行為の意図は何だったのかが、より問われるべきポイントだと思うのですが……。育てる意図もなしに振るわれるムチは非難されるべきですが、「育てたい」という思いから振るわれるムチは、「ハラスメント(嫌がらせ)」ではありません。確かに意図の確認は難しいかもしれませんが、受け止める側の「受け止められない。痛かった。傷ついた」といった感覚のみですべてが決まってしまうことが一般化するなら、人育てをする立場にある人間は、もう誰も厳しいことを言わなくなる(つまり、本気で人育てをしなくなる)でしょう。それが来るべき「優しい社会」のあり方なら、そこで暮らす人間の魅力はどんどん低下していくことでしょう。

 しかし、本当に「弱肉強食」社会の時代は終わり、そんな「優しい社会」が来ているのでしょうか?格差は拡がり、非正規労働者は契約を解除され、仕事を得たくても得られない人がたくさんいます。善人を騙して金を奪おうとする人、殺人を犯す人だって決して少なくありません。受験戦争、就職戦線、出世競争は今後消えてなくなるのでしょうか?とてもそうとは思えません。「弱肉強食」社会とまでは言えなくても、能力のないものは置き去りにされる厳しい競争社会が現実の姿ではないでしょうか。百歩譲って、今後日本国内ではかなり「優しい社会」に近づいていくとしても、このグローバリゼーションの時代で、日本基準だけでは考えていくことはできません。下手をしたら戦争にだって巻き込まれ可能性のある地球規模での厳しい競争の中で、「みんな、優しくなろうよ」ですべてが済めばいいですが、そんなわけには行かないのが現実です。そんな現実がある中で、「優しい社会」で生きることを前提とした考え方のままに若者を留めおくのは、結果的には「優しくない」行動になるのではないでしょうか。「優しい社会」は短期的には若者にとって心地よいかもしれませんが、長期的には「優しくない社会」になってしまうのではないかと心配です。本当の「優しさ」とは何かということを、しっかり考えてみないといけないのではないでしょうか。