なぜ、あなたはそんなことを勉強するのですか?

-近世彫刻史への道-    



 中学生の頃から歴史や古美術(お寺)が好きで、とある分野に入れ込んでおり、大学に入った頃もその分野への憧憬に心を寄せていました。でも夏のある日、蝉時雨の中、突然、頭のなかでプツンと音がして「なんか先がみえたような」気がし、目指すものが急に失せてしまい、どうしようかと迷っていました。
 まだ、専門の授業もそれほどなかったので、美術史といえば、新緑の林のなか、白いイスに座ってそよ風に吹かれながらコローやシャガールの英書(間違ってもゴヤやドーミエ、ドラクロアではない)を読みふける、そんなハイソなイメージしかなく、どう頑張っても「ぜったい、似合わんなぁ~」と思っておりました。

 その頃、彫刻史を学ぶ大学院生がおり、また院生や先輩も参加するという授業(確か日本・東洋美術史演習(2)だったような)の「見学会」がしばしばあり、しょちゅう参加していました。単位に関係なく、誰もが参加でき、難しい話のなかにも楽しい雰囲気があって、毎回、仏像や襖絵など色々な作品を前に、「へぇ~」とか「ほぅ~」とかほざいていました。神護寺や遍照寺、同聚院、真珠庵などあちこちのお寺をめぐりながら、楽しく遊んでおりました。なんだかわからないけど、絵画より彫刻のほうが好きだなぁ・・・。
今から思うとずいぶん勿体ないですが、国宝の仏像や絵画を前にしてもそんな漠然とした印象しかもっていませんでした。

 そんな時、ある先輩から「仏像調査」の手伝いに来てみては・・・というお誘いを受けました。「手伝いはボクがするので、傍でみているだけでいいよ、楽しいから。」という言葉に惹かれ、参加することにしました。
 調査当日、約束の町へ行くと、来るはずの先輩が事情で来られず、まったく見知らぬ彫刻史の先生とその助手らしき人、それと私の3人で調査をすることになりました。
「彫刻が専門なんだねぇ」
「えっ、まぁ・・・」
 お気楽気分がいっぺんに吹き飛んで「ヤバイ」状況になりました。調書取りを命じられたのですが、まず何を言っているのかよくわからず、鉛筆は微動だにしません。仕方がないので、言われるままに一日中動き周り、夕刻遅くになっても銘文や構造などの記録を傍で見ながら、あれこれと後片付けなどにバタバタ動き回っていました。
 それでも仏像の首をスポッと抜いて、あるいは仏像を寝かせて仏像のお腹のなかをみたりする調査は、驚きの連続でした。ツバイブツシ、シュクインブツシという聞いたこともないような言葉も聞こえます。調査終了後、とても疲れたのですが、「興味津々!面白い!」と感じました。

 仏像調査に新鮮な驚きと興味を見出した私は、それ以降もあまり役立たない補助員でしたが(調査のスキを見つけては外で煙草を吸い、写真用ランプを持ちながら居眠りをするという不真面目な一面もありました)、できる限り「仏像調査」に参加しました。 その後も、違う先生が担当する某市などの調査も重なって、年を経るごとに仏像調査に参加する機会が増えていきました。そのうちわずかながら、仏像調査の方法もわかるようになってきました(さまざまな方法論があることも・・・)。
 各地の調査に参加するうち、ひとつ気になることがありました。それは江戸時代の仏像が圧倒的に多いことです。古い仏像だと中型カメラ(6×7)での写真撮影となるのですが、江戸時代になるとストロボ付の普通のカメラで我々(調査補助員)が写真撮影を行います。ですから先生は、まず堂内をさぁーとみながら、「これとこれ、撮っといて!それと大きさも」とおっしゃいます。お寺によっては、全部普通のカメラで撮影します。

 なによりも、そうした普通カメラ級の仏像の大半に台座や仏像内部に製作時期や作者(しかも住所まで)、願主といった運慶の円成寺大日如来像の銘文にも劣らぬ(?)情報が書かれているのです。最初は驚き、「センセ~、銘文がありますぅ!」とその重要性を叫んでも、「写真を撮ってノートに(銘文を)写して」とまったく意に介されません。
 ひとしきり調査が済んで、「この仏師はどんな人ですか」と先生に聞いても「わからん。」と首を横に振るばかりです。最初は、重要な仏像なので緘口令を引いているとも疑いました。でも扱い方の程度(ノートの1行に名称、像高、構造のみ)からみても、どうも重要な仏像ではなさそうです。先生は、やはり誰に聞かれても―たとえ調査したお寺の住職にでも―平気で「わかりません」と言われます。
 やっぱり、気になって調査後にその仏師を図書館で探しましたが、どこにも載っていません。なにより江戸時代の仏像のことを記した本が、田辺三郎助『文化財講座 彫刻(南北朝~江戸)』しかなく、また同書に掲載された仏像は、それまでの調査ではみたこともない仏像ばかりでした。その時は、「彫刻史では江戸時代は基本的に扱わないんだ」と感じました。

 仏像調査の補助を繰り返しているうちに、せっかく仏師名が記された銘文でも、あいにく製作時期がない作品も出てきます。ふと「『人名辞典』があると、時代がわかって便利だろうなぁ・・・」と思い立ち、細々とノートを取り始めました。とりあえず、調査でわかったものは、調査ノートを写させてもらい、図書館で報告書や市町村史、あるいは『ミュージアム』や『仏教藝術』を借りては、近世の銘文を抜書きしました。

 そのうち、ある宗派の本尊になっている仏像には、共通してほぼ同じ銘文があることに気づきました。製作時期はわかりませんが、各地にたくさんの作例があります。以前、漠然とその銘記が「宗派お抱えの仏師」であると先生が言っておられたことを思い出したのですが、なぜ皆同じような銘記なのか、あるいは本当に「宗派お抱えの仏師」なのかは、どこにも説明されていませんでした 。
 そこで、書籍の抜書きを中断し、その仏像について色々と調べ始めました。1年、いやもう少しかかったでしょうか、ようやく、その銘記が意味するところがわかるようになったので、ひとまず終えて、また引き続き『人名辞典』の抜書きをしていました。

 自分が疑問に思って調べ、ひとつ解明できたのは嬉しかったですが、江戸時代じゃ論文にも出来ない、まぁ辞書でも作るかと思っていました。その頃は、鎌倉時代後期や室町時代の仏像でなんとか論文が書ければいいなぁ、と思って鎌倉・室町時代の仏像を勉強していました。フラフラと勉強を続けていくうち、抜書きした幾人かの仏師の作例が2例、3例と増え、ある程度の活動時期が推測できる仏師もぼちぼち表れてきました。「ライフワークで仏師辞書だぁ」、まだそんな程度でしか考えていません。

 その頃、東京から別の先生がやって来て、某町の仏像調査をすることになり、そこでも仏像調査のお手伝いをすることになりました。ある日、例の「宗派お抱えの仏師」の作品が出てきて、先生が「これはなんだ?」と不思議がっていたので、物知り顔で、説明すると、「よく出来た話だけれど、ほんとう?」と疑いの眼差しです。あわてて抗弁すると、「とりあえず文章にしてくれ」とおっしゃいました。
 そこで、後日B5用紙2枚程度に箇条書きにまとめて手渡すと、一瞥され「もっとちゃんとした文章にしなさい」と一喝されました。仕方なく、5枚程度に文章化したものを渡すと、真っ赤になるほどの修正、指摘が加えられて手元に返ってきました。そこでまた修正すると10枚になり、約1年半のやりとりで、20枚前後(400字原稿用紙40数枚)にもなりました。
 それからしばらくたって専門雑誌に掲載されることが告げられました。

 先生とのやりとりのなか、あるいは調査の手伝いをしているうち、近世の仏像が彫刻史の空白であること、誰もが気づいているけれども彫刻的な魅力に乏しく、作品も膨大なので、誰も手をつけていないことを教えてもらいました。
 私自身、そんなに「作品を見る眼」を養っていないし、持ち合わせてもいないので、「それじゃ、抜書きのノートもあるので、私がライフワークとして・・・」と言うと、大いに驚かれました。先生は、まず江戸時代の仏像のモノサシを作ること、そしてそこから遡って室町時代や鎌倉時代の仏像を考えることはとても重要なことであると、叱咤激励されました。以後、「あまのじゃく」と自称しながら、江戸時代の彫刻史をもっぱら勉強していきます。

 現在でも「もっと、ほかに考えることがいっぱいあるでしょう」と忠告してくださる方がおられます。また、「なぜあなたはそんなことを勉強するのですか?」と詰問されることもしばしばです。
 「『彫刻史のあまのじゃく』ですから」と、はぐらかして答えるのが常ですが、本当に大きなことをめざしたものだと自らあきれております。
 それでも最近は、先生の予言通り、普段、近世の仏像をみている眼差しが鎌倉時代などの作品に向けられた時、実は、ほかの多くの研究者とは違った視点で作品をみていると思うことがしばしばあります。鎌倉時代の作品だけをみていて、それがずいぶん「奇妙な」特徴であっても、室町や近世の作品になると普遍的な特徴として捉えられ、そうした変化を考えることによって、「奇妙」が奇妙でなくなることもしばしばあります。
 今でも高名な方から「いろいろお教えいただき有難うございました」などと言われると、そのあたりを見透かされているようで、もうほんとに赤面し小さくなるばかりです。

2003.2.5 当時のホームページより