日々雑記


仏師工房

2018-7-3

ここかあそこかで、数年来探しあぐねて確定できなかった近世仏師の工房兼住居。
今日、とある京都の方からご教示。

「そこやったら、町の東側、○○通から入って7軒目のお宅。間口は1間ほどでそう大きなお宅や、おへん!」と。
えっ!ちょっと待って。探しているのは18世紀後半の個人のお宅ですよ。突然ピンポイントで指摘され、分かった嬉しさよりも驚愕が先行。失礼ながらお幾つにならはるんですか。

京都人から「先の戦争で…」と言われると太平洋戦争ではなく蛤御門の変を示すとは聞いていたが、想像以上にマジやった。
今年は明治150年。でもこの感覚だと150年前の出来事が一昨日のような感じなんだろう。
恐るべし、京都。

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幕末四名匠

2018-7-4

狩野一信「五百羅漢図」(卒論)で港区文化財調査報告書をコピーしていると、一信の肖像彫刻(松本良山作)が掲出。河合正朝氏の論考註記「松本良山は山本茂祐のもとで修業」の1行に目が留まり、コピーする手も止まる。

高村光雲『光雲回顧談』にも良山作・成田山新勝寺五百羅漢羽目板の下絵は狩野一信筆と書かれ、また良山を“(江戸)幕末四名匠”の一人としてあげている。いっぽう山本茂祐は幕末明治の京都仏師。鳳凰堂阿弥陀如来像も修理している。
『光雲回顧談』「昔ばなし」では、幕末明治の京都仏師について「(京都仏師の分業制の)余弊は仏師の堕落となり、彫刻界の衰退となりました」と喝破、「京都では段々と仏師に名人も無くなり」とする。

名人のいない京都仏師のもとで修業し、江戸の“幕末四名匠”?「出藍の誉れ」?
たぶん光雲は良山の出自は知らなかったのだろうが、このことはほとんど伏せられて江戸の“幕末四名匠”。

これだから近代彫刻の冒頭に『光雲回顧談』を持ってくるのは危険やし、その危険を顧みずに“木の先に竹を継いだ”ような近代彫刻史研究の現状はアカンと思うのだが。

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緊急連絡

2018-7-5

夕刻から雨が強く降っている。少し小降りになったのをみて帰宅。

最寄り駅には明日の運転計画が張り出されている。JR各線、運転見合わせ、通常の3~8割の運転とならぶなか、「阪和線 *ほぼ通常の本数で運転します。」と。ほとんど信用していない。
近畿各地で、避難指示や避難勧告が続々と出されている。

夜中に思い切って携帯連絡メール。
「受講生のみなさんへ  昨日・本日(7/6)と各地で避難指示・避難勧告が出されており、JR各線も運転見合わせや運転計画が予定されております。本日2限の講義も通常通り行いますが、午前中に登校困難な受講生は無理をせずに状況をみながら登校して下さい。希望者には本日講義の資料を翌週に配布いたします。どうぞ、安全第一でお願いいたします。」

大学HPは相変わらずのイベントニュース。

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終日休講

2018-7-6

6時過ぎに起きネットの「路線情報」。
期待を裏切らず、阪和線は始発から運転見合わせ。南海も本線・高野線も止まっている。泉北高速のみ運転。JR・阪急も通常の3割とか辛うじて運転。千里山学舎が休校になるのは阪急電鉄(全線)かJR西日本(京都-三ノ宮間)が動かなくなった場合のみ。
出勤か・・・。

意を決して、車で泉北高速駅―中百舌鳥―地下鉄御堂筋線―同堺筋線―阪急線。
2時間半ほどかかって大学。駅に戻る学生も多く、なんとなく変。
研究棟入口で事務員氏と挨拶をかわしていると、「今日は終日休講になりましたよ」。
あらっ。

部屋で大学HPをみると、学長判断で「終日休講」との由。8:56に第1報。
学長判断は正しいと思う。でももう少し早く判断してもよかったのではないか。
8:56といえば、1時限の学生は教室入りし、教員も“いざ授業へ”という頃合い。無理をおして登校した学生もいるはず。状況によっては帰宅困難者も発生する可能性も。せめて駅前の新通学路に掲示1枚貼るだけでも印象が違うのだが(正門前のみ掲示あり)。

地震や大雨と続くなか、危機管理の甘さが露呈。敢えての苦言。
再び帰宅の途につく。

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「亡国のマスコミ」

2018-7-8

週末の豪雨で西日本各地で大きな被害。梅雨もあけ、皮肉にも猛暑。

ゼミ生の祖母宅が広島。かなりの被害が出て家族揃って現地へ行くので、来週は休むとの由。「気をつけろよ」と。

被害の甚大さを見聞するにつけ、マスコミのアホさ加減にはほとほとあきれてしまう。
家屋の下敷きになっている人を救出しようとしている上空でヘリを飛ばす、救出の邪魔となっている取材クルー、Twitterで救助を求めている人に取材申込みをするNHK・・・。
こういう大災害の折になぜ「報道協定」を結んで1社に絞らないのか。

地方だって「記者クラブ」代表で取材して複数カットの写真を撮って、各社に写真を渡して独自の記事にしてたやないか(していないとは言わせない)。なぜ緊急時にそれができないのだ。

いくら「東京ドーム260個分ほどの面積」が浸水といっても、皆目見当もつかない。そういう譬えが妥当かどうかもわからない人が世論だなんだと叫んでいる。
だから、新聞も読まない、TVも見なくなり、信用を失うんやで。人の生死を前にして「報道の自由」なんかあり得ない。
「亡国のマスコミ」。

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京都府立総合資料館

2018-7-10

京都も猛暑。京都府立総合資料館改め「京都府立京都学・歴彩館」へ図書を閲覧。
旧館を見ながら、ここまで屏風絵の展覧会を見に来たのは何時だったのかと回顧。

メモを取りつつ、図書を閲覧していると、時折、学生の姿が増える。京都府立大学附属図書館や文学部も同館に入っているとの由。
「では、今日は特別閲覧室で古文書を読みます」と階下に降りて授業、そして復習・・・。
こういう関係はいいなぁと思う。

ITの活用でずいぶん使いやすくなり、様々な情報が得やすくなった。日没に近い頃に退館。次回は京都市歴史資料館。

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仏師駒井

2018-7-12

とある方より「駒井友之進」銘の仏像があったとご教示。
「綾小路油小路東入住ス」と居所まで明示されている。データベースに1間だけあがるが、下関市にも古文書ながらもう一件の「駒井友之進」。

駒井名の仏師ですごく気にかかることがある。
『皇都書画人名録』(弘化4年(1847)冬序刊)には、「画 佛師職 故(柴田)義董先生門人」として「下河原 駒井鸞鳴 字蘭梅」がみえる。この「佛師職」は木仏師なのか絵仏師なのか不明。

『皇都書画人名録』には、渡辺丹涯(康雲)や樋口鶴秀(肥後)など本業の木仏師も混じっている。
駒井鸞鳴なる画人も本業は木仏師ではなかったかと、思う。

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李下に冠を正さず

2018-7-14

上娘再び帰郷。この時と思い、付き添ってもらって携帯を買い替えることに。

あれこれと説明を聞くもさっぱりわからない。上娘と店員とのやり取りを横で静かに聞いている。
6年前の機種だそうで、「いやぁ危ないところですよ。もう少しでLINEが繋がらないところです。」と店員。SNSの更新は予告ではなく通知らしい。そのために突然使えなくそうである。
そういえば、携帯でのメッセージ機能が使えなくなって久しい。

自宅であれこれとカスタマイズしてもらっていると、「父たん、これはまずいんじゃない?」と見せられたのが、LINEのリスト。
訝りながらリストをみると、「ひとみ」「みほ」など女性の名前がずらり。
「この人はもとゼミ生、この人は今のゼミ生、この人は仕事関係で同姓の女性・・・」と逐一説明するが、若干疑惑の眼差し。

まったく問題はないものの、カスタマイズされたリストをみると「長谷さんゼミ」「長谷ゼミ」などグループだけが残っており、家族以外の個人名はすっかり消えている。
「『李下に冠を正さず』っていうでしょ。」とひと言。それは誤解やて。

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掌から漏れたもの

2018-7-15

猪名川木喰会で講演。
猛暑のなかご来聴下さり、ありがとうございました。あつく御礼申し上げます。

レジュメを作っている時に改めて確認したのだが、ボストン美術館が《吉備大臣入唐絵詞》を購入した時期について、公式には
1923 sold at the Tokyo Art Club by Sakai Tadatae to Toda Yashichi the 2nd (1867-1930); 1932 Toda's son, Yashichi the 3rd (Toda Rosui, 1892-1942) sold the scroll to the MFA through Yamanaka & Company
とあって1932年(昭和7)に戸田露綏が山中商会を通じて購入したとある。
これを知ったマスコミなどが富田幸次郎を「国賊」と非難し、翌年「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が出来たことは周知の通り。

ところが、富田幸次郎の経歴をみると帰国したのは生涯5回で、第3回が1924年(大正13)、第4回が1935年(昭和10)。
お忍びで帰国したかもしれないが、第3回、つまり戸田露朝が絵巻を落札し、関東大震災がおこった翌年には絵巻がボストン美術館に入った可能性が高い。この年の1月に柳宗悦は木喰仏と出会う。
・・・というような話を交えながら木喰研究の歩み。10分ほど超過。

富田儀作、富田熊作、三和高麗焼、静思館、粟野頼之祐、木喰仏・・・すべて猪名川町に関わるものばかり。

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授業日

2018-7-16

朝、バス停で待っている時に気づいた。今日は祝日。ということは電車も・・・。
今年度初の休日授業日。

当たり前ながら、学内は普段と変わらぬ光景。
普段通り授業をこなす。

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初稿

2018-7-17

某出版社から10年ほど前に依頼を受けて書いた辞典項目解説の初稿を送るので、以前の住所と変わっていないかとの連絡があった。

しばらくして初稿が送られてきたが、いったいどの項目を担当したのかさっぱりわからない。現有のPCにも原稿は見当たらず、メールで送った記憶があるものの10年前のメールが残っているわけでもなく、自宅のプロバイダーも二転三転している。

他人が書いた部分も含めて一読したところ、特に問題なさそうなので「校了」としたいところだが、恥を忍んでこちらの担当項目を教えてもらうことに。

10年も音沙汰なしでは、企画自体がボツになったと思うでしょう、ふつう。

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健康的?な生活

2018-7-20

ここしばらく猛暑が続いている。
個研のクーラーが拗ねているようで、ちっとも涼しくならない。

授業を終えたあと、こまごまとした雑用を済ませて、夕刻には帰宅。
シャワーを浴びて、まずは冷え冷えのビール。その後の夕食でもう1杯。しばらくすると、眠くなってそのまま熟睡。
未明の3~4時には目が覚めて、水を飲んで仕事。その後に炎暑のもと大学へ。
お昼もしっかり摂取。

なんか、めっちゃ健康的?な生活。

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義経像

2018-7-21

北海道・平取町の義経神社で、義経公の神像奉納220年記念を記念し142年ぶりにご神像が一般公開。220年の節目を迎えたことを機に京都の職人に修理を依頼。その前に広く見ていただこうと一般公開を決めたとの由。(苫小牧民報)

近藤重蔵が蝦夷地探検で訪れ、義経がアイヌの人々に信仰されていることを知って、翌年に仏工に彫らせた義経像を平取ハヨピラに寄進したことが、確か『近藤重藏蝦夷地關係史料』(大日本近世史料)に記載されていたように思う。

台座裏には寛政11年(1799)4月の年紀と「江戸神田住大仏工 法橋 善啓」の墨書銘。

江戸仏師が制作した像を「京都の職人」が修理するのか・・・。

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古希のお祝い

2018-7-23

とあるお寺で調査。僧侶の肖像彫刻。ご住職曰く「どなたの像かわからない」との由。

高い須弥壇から降ろし、御首を引き抜いてみると、胎内に「宝暦十一年(1761)」「京都富小路二条下ル/大佛工/法橋友学康英/行年六拾四才」の墨書銘。
「重新開山」とされる高僧の肖像彫刻。
高僧は元禄4年(1691)年生まれ。なので古希のお祝いに制作されたことが分かる。寿像。

ご住職は像の由来も分かったし、こちらは友学の生まれた年もわかり、暑いなか実りのある調査になった。
まずは安堵。

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仏像と面談

2018-7-24

引き続き猛暑のなか朝から調査。
時代や状況の判断が難渋する仏像ばかり。
お世話いただいた関係者から調査風景の一コマが贈られる。

帰宅後、写真を見た家人曰く「何、話してんのよ?」
「お幾つになられました?」「530歳。」「え~と、室町時代後半ですね。」って、なるわけないやろ。

会話できれば、苦労はしない(悩まない)。昨日とうって変わって今日調査した彫刻は、できれば個人面談したいと思うほど、難しい作品ばかり。

額から流れ落ちる汗は暑さからではなく、あぶら汗。

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日々進化

2018-7-26

調査に行くと、同行の研究者などから教えてもら事が多い。

過日の墨書銘だって、カメラ付(ライト付)スマホを像内に突っ込んでぐるりと回して動画を取ってもらい、扇風機の前で再生しながら銘記の書き起こし。わかりづらい文字も拡大可能。
道具箱に入っている複数のデンタルミラーは、もはや無用の長物。
三脚もこちらは重量のあるものだが、某氏の調査道具は雲台がセパレートになっている。正面全体の写真を撮った後、面部拡大写真を撮って斜め全体写真を撮っても位置がずれない。
調査機材、ここらで見直しが必要なのかも。

午後に定期試験。数もそれほど多くなく真面目が学生が多かったので、終了時に混乱も少なく安堵。

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総持寺祖院

2018-7-27

能登へ。明日から調査、前泊。気になっていた総持寺祖院へ。

2007年の能登半島地震で伽藍は(震度6強)で大きな被害を受ける。
山門は建物自体が大修復中。山門に通じる回廊や香積台(庫裏)も仮設レールの上で修復を待つ。仏殿・法堂・僧堂は修復済。
放光堂の十王像は破損したまま放置。

人命>建物>仏像とはいえ、10年以上経つのに復興半ばの状況に驚愕。
放置せざるを得ないのが未指定文化財の辛いところでもある。

夕刻、現地入り。

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妙成寺

2018-7-28

台風で朝からTVは大騒ぎながら、こちらはフェーン現象で猛暑のなか調査。輪島37度。

日蓮宗妙成寺。重要文化財(建造物)てんこ盛りの寺院。
山門金剛力士像は寛永11年、七条西仏所康慶の作。山形・黄金堂像とは姻戚関係にあたる。

なにゆえ東大寺型の阿吽の配置にしたのだろうか。

日蓮宗の仏像は彩色をたびたび塗り替えるので制作時期の判断は外見からは難しい。汗まみれである。

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永光寺

2018-7-29

永光寺。案内されて本殿の本尊をみてびっくり。院派仏師の釈迦三尊像。

奥にある四天王像がメイン。某団体の修復を受けているが、以前に松井乗運の修復も。胎内には松井乗運の素描(現在は別保管)。

「江戸の仏像を専門にされているセンセで・・・」と紹介を受け、住職びっくりの態。 四天王像や十六羅漢像についてあれこれとご教示いただく。

世間的には、まだまだ珍しい存在(絶滅危惧種?)。

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過去ログ