日々雑記


かんだい明日香 まほろば講座

2016-10-01

朝から上京、午後より東京センターにて講座。

苦心して作った史料集を早稲田大学名誉教授の大橋先生が講座で使用して下さり安堵する。

パネルディスカッションはもちろん飛鳥大仏。興味深かったのは、木造家屋の燃焼温度は800~900度、銅の融解温度は1100度以上。火事ぐらいでは銅は溶けないとの由。

つまり須恵器等を焼く登り窯のような構造でないと銅は溶けない。そういえば、中世都市の発掘調査で焼失家屋から銅金具が多数出土したことを思い出した。

16:30終了。結局上京して何も見ずに帰阪。

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右腰の穴

2016-10-02

久野健「飛鳥大仏論」。

論文には右腰後ろに穴が開いている挿図が掲載されている(左:「飛鳥大仏論(下)」『美術研究』301号 1975年)。現状では塞がれているが、中子の状態まで挿図として掲載(コーディネーターが『昭和期の調査記録』としたのは間違い)。
仏躰自身に穴をあけるのは文化財の破壊だが、美術院の修理からしても新補した部分をもとの状態に戻すのは破壊には繋がらない。

この穴から内部構造を観察すれば、何らかの判断材料が増えると思うのだが、どうもそこまでは出来かねるようである。

大橋先生との雑談中、「我々(大橋先生や桜庭氏の分析結果)が妥当なことが分かれば、各界の面目が立たないのかも知れない。どうしても声の大きい人が優勢となるのです」と。
「そんなんでいいんですか」と思わず。

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三角座布団

2016-10-03

『飛鳥寺発掘調査報告』『飛鳥寺』等にみえる台座の写真(図版)。

四角い須弥座の上に三角形(矢じり)状の座布団のようなものが載っている。須弥座とはまったく異なる質感。最初、台座の一部とみていた。発掘調査の事前調査で飛鳥大仏を移動させ、撮影したのだとばかり思っていた。かなり大掛かりな作業・・・。

しかしながら報告書でも大仏の移動やこの三角座布団に関してまったく触れていない。現地に訪れ確認してみても三角座布団は確認できない。
写真(図版)では、大仏の膝の部分が方形須弥座からはみ出ているが、実際は須弥座内に収まっている。無茶苦茶、不思議な写真。
不思議に思い図版をスキャンし拡大してみると、座布団の前方には衣文らしきものが映っている。また周辺には刷毛目らしき痕跡。むぅ?

考えられること。
大仏のほぼ直上(天井)から真下を写真撮影し、フィルムから大仏の部分をそっくり塗りつぶしていることしか考えられない。膝が方形須弥座から飛び出しているのは、カメラをあおったためだろう。
捏造とまでは言わないが、罪な報告書の写真である。

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落胆

2016-10-04

終日、明日開催の大阪歴史博物館「本山コレクションの精華」展の展示作業。

「事前に展示ケースの寸法計ってますんで、資料を置くだけ」と聞いてはいたが、かなり頭が痛い作業・・・・。
大型の行燈ケースに小さな埴輪頭部がひとつ・・・。えっ?
他はぎゅうぎゅう詰め。ま、伝統やからしゃーないのかも知れんけれど、あまり学生の展示と変わらへん。
結局、行燈ケースには贋作銅鐸。

おおかた資料が並んだと思ったところ、石器や縄文土器の展示で苦労しているスタッフ。「メリハリのない展示なんですが・・・」と。
サイコロを取り換え資料を並び替えてようやく展示らしくなり、ふと見ると展示ケースの最後に「糞化石」。
「贋作」にはじまり「糞化石」で終わる「精華」展ですか・・・。
もうがっくり。

何を展示して、どこを見せたいのかが全く分かっていない。
終了後、お疲れモードながら歴博の方々と一献。

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中央がない

2016-10-07

大阪駅前の中央郵便局(大阪駅前分室)がなくなり、非常に不便。
中央郵便局は駅前第1ビル内に移転したが、営業時間はこれまでの24時間から21時まで。
24時間の郵便局は大阪北郵便局となるが、大阪駅前の孤島 新梅田シティの一番北端。しかも窓口が2つしかないので、夜中は混雑。

19時過ぎに駅前第1ビルへ速達を出しに行ったが、隣の窓口のおばちゃんが「西宮やで~!」と息巻いていた。17時を過ぎたから梅田から西宮まで速達で翌々日になると。
他人ごとながら、「もう手紙持って阪神電車に乗って西宮郵便局に行ったほうが早いで」と。

営業時間も配達日数からみても第1ビル内のあの小さい店舗が「大阪中央郵便局」と名乗るのは絶対におかしいと思う。
ええかっこして(東京をまねて)吉田鉄郎の建物を潰すからやと思う。

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飛行機戦争

2016-10-09

午後、ミュージアム講座のため大阪歴史博物館へ。
船越学芸員による「本山彦一と近代大阪の新聞事業と文化」。次回は"手形"処理のコーディネターとして参加するので講座を聞いておかねば。

興味深かったのは、大毎(大阪毎日)と大朝(大阪朝日)の飛行機戦争。その影響もあって京都帝国大学考古学報告『大和島庄石舞台の巨石古墳』には大毎の航空写真を報告書に使用。もちろん新聞記事(昭和8年11月18日付)にも掲載され、石舞台古墳を「前方後円墳か」と報じている。
今も昔も誤報覚悟の勇み足の新聞記事は変わらんなぁと。

講座を聞きながら、末永雅雄『古墳の航空大観』は何時刊行されたのだろうかと(1975年)。
終了後、帰宅。和泉は秋祭真っ最中。

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ありゃ

2016-10-10

諸々の事があり、博物館へも行きたいが、大学へ。

祝日なのでJRはすいており、珍しく座席に座り、あれこれと考え事。
地下鉄に乗り換えると、やけに学生が多い。関大前で下車すると普段と変わらぬ状態。なんかイベントでもあるのか?

新しく出来た通学路を通って学内に。各事務室の電灯は灯っており、職員氏も普段と変わらぬ勤務。はたと気が付いた。今日はもしかして授業日?
危なかった。今頃、博物館にでも行っておれば、「センセ、どこに居てるのですか!」と大目玉をいただくところだった。

午後からの担当授業で幸い。
結局、諸々の事はあまり進まず。

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脱力

2016-10-13

全校務が終了して2週間。まだ2つほど“手形”処理が残るが、しばし脱力状態。
気の緩みからか、既に凡ミスが2つほど。

振り返ると、よくぞ頑張ったと自画自賛。
本来的には“ご褒美”(サバティカル)があるはずだが、学科の諸事情により取得できず。
ま、法人としてもお得な”教員”であったに違いない。

幾人かの先生から労いの言葉を頂戴し、自分自身が頑張っていたことに改めて気づく。
とはいえ、これまでも情にほだされるタチなので懇願されると断りきれない一面もあったが、これからは心を"鬼"にして研究に専念。
定年まで10年を切った。やりたいこともたくさんあり、これからは自身の研究に専一。

これでようやく、まともな末端研究者に。

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右翼

2016-10-14

授業では、神道美術4回目。授業終了後に、学生がこっそりとスマホを提示。

みれば、小林永濯《天瓊を以て滄海を探るの図》。2回目(近代神話画)の講義に掲出した画像。
「これが“アメリカの中学生用の教科書”に載っているんです」と。
ほんまかいなと思いつつ、ググると確かに。

もちろん講義の眼目はその事ではないのだが、学生曰く、「アメリカのオッチャンはこんなこと、信じているのでしょうか?」。「教科書に書いてあることは正しいと思っているのはどこ(の国)も同じだから・・・」「(神話について)聞かれますかね?」「聞かれたら“それは嘘です”って言えば」と。

明治の神話画について講義しただけで「センセは右翼ですか?」と評価アンケートに書く学生も現れる昨今、知る・知らないは自由だが、とりあえず知っておくことも重要だと思うのだが。
あなたがたも(年頃になったらなってる)出雲大社行かんか?行くやろ!と逆に問いたい。

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シナリオ

2016-10-15

残る“手形”は1枚。10/23のパネル討論。
進行役とパネラー三つ巴の激論バトルは傍目からは面白いが、収拾がつかない。そこで1時間の討論だが、終日かかってシナリオを作成。

個人的な関心は色々とあるが、なかでも大阪近代人のコレクション。
本山と関係した藤田傳三郎コレクションは「藤田美術館」、大毎と対抗した大朝の創業者の村山龍平は「香雪美術館」、また村山との共同経営者の上野理一の子息上野精一は京博の研究発表と座談会でおなじみの「仏教美術研究上野記念財団」。
なんで、本山だけが「農業博物館 本山考古室」なのか。本山コレクション中にもこちらが興味惹かれる美術資料は皆無。しかも”茶道”にもまったく関心がなさそう。

茶道はともかく本山彦一の不思議なコレクションについて聞く予定。

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よい子の皆さん

2016-10-17

エスカレーターでの「待ち」は、大阪以外は左側。京都駅で右側に立っていたら、睨まれた・・・。
いや、そんな話ではない。

9月から駅前からほぼ直線で第3学舎前に通じる新通学路が出来た。文学部的には中途半端だが、かなり利用している。
最後の直線はエスカレーター。学生に混じって右側に立つ。

「よい子の皆さん、エスカレーターのそばでは遊ばないようにしましょう」と自動音声。

「よい子の皆さん」???
主に大学生と教員しか利用しないのに「よい子の皆さん」とは。
誰を指して言っているんや、このアナウンスは と周囲を見回す・・・。

中学生の頃、スーパーのエスカレーターを逆走ダッシュした経験のあるこちら。「悪い子」だったので、新通学路のエスカレーターには乗られへんなと思うと、右側に並行して階段が設置されている。明日からはこっちか。
(写真は最寄駅のエスカレーター。もちろん右待ち。)

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吉川コレクション

2016-10-18

奈良県立美術館「禅(ZEN)関連企画展 雪舟・世阿弥・珠光 中世の美と伝統の広がり」展へ。

出品の多くは館蔵品(おそらく吉川コレクション)。「狩野派筆か」とか「応挙印」などかなり不安げな作品解説。製作時期も17-18世紀などかなり幅を持たせている。贋作でも真作でもない微妙な位置づけ。
贋作の話題は面白いが、春画と同じく公立美術館では扱われることはまずない。
とはいえ、某大学博物館の展示では“贋作銅鐸”が独立ケースに鎮座・・・。

お目当ては達磨寺達磨坐像(集慶・周文)と談山神社、長尾神社、狭川両西敬神講の面。
じっくり拝見した後、授業のため大学へ。

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緊急地震速報

2016-10-21

学内某所で小会合。
突然、キュイーンキュイーンの音に引き続いて「地震です」と。
大きいのか小さいのか分からないまま、とりあえず身構えていると、グラリグラリと横揺れ。
鳥取・倉吉市、湯梨浜町、北栄町で震度6弱。
正遷宮を今月末に控えた米子八幡神社もかなり心配だが、その後も小さいとはいえ、ずっと余震が続いている。熊本地震のように6弱も実は余震であったと考えられないことはない。

拙宅玄関の靴箱の上の飾り物も落ちたということだから、今日は早い目に帰宅。

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久々の大売立

2016-10-22

藤田美術館が所蔵する青銅器や書画など中国美術品のうち30点余がクリスティーズに出品との由。「施設建て替えを含めた館全体のクオリティー向上のため」の費用に充てられるとのこと。

ちょっと気になるのは「施設建て替えを含めたクオリティー向上」。
香雪美術館も中之島朝日新聞社ビルに移転するということで、何ゆえに大阪に拘るのか。泉屋博古館のように東京分館やいっそ東京移転にでもなれば、収益向上しそうなものだが。

大阪は文化・美術を受け入れる基盤クオリティーが低すぎ。
某美術館でもわざわざ美術館前まできて
「これ(写楽《三代目大谷鬼次の江戸兵衛》)、知ってるわぁ。(入場料)せんさんびゃくえ~ん?!高っ!ドリンク付きでランチ、食べられるやんか。」
と小声ならぬ声をあげて去って行ったおばさまがた。おじさんはそうしたことにはことさら興味なく、ゴルフか指の運動。これが大阪クオリティー。

そうした環境に敢えて飛び込んでいく気がわからない。藤田は太閤園のそば、香雪は神戸御影にあるからいいんじゃないか。

なぜ東京進出を含めて考えないのかと不思議に思う。

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本山彦一

2016-10-23

宮内庁徳田氏の講演のあと、大阪歴博船越氏、徳田氏とのパネル討論。お二方ともシナリオに沿って調べていただいた。深謝の至り。

本山が茶道に傾倒しなかったのは船越氏もよくわからないそうだが、講演後に「本山はオーナーではなく、“雇われ社長”だったからじゃないですか」と仰る聴講の方が船越氏にアドバイス。それならあり得るかもと・・・。
徳田氏が長年研究されてきた弄石社、神田孝平、本山彦一と続く“石”の継承もよく理解。

考古学への執着と戦前の日本史。
戦前の考古学の調査成果は、殆ど神武天皇以前の歴史に位置付けられるとのことで、これには目から鱗。
西都原古墳群の発掘も高天原と結びつき、国府遺跡の人骨や装飾も神武天皇以前の先住民の歴史へと収斂していく。だから坪井正五郎が埼玉・吉見百穴を“コロボックル”の住居と主張したのかと。

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鋳境

2016-10-24

一部で、飛鳥大仏に関して再燃。
研究者も含めてほとんどの方は再鋳造説をとる。こちらも熟考した結果が大橋説。

飛鳥大仏には鎌倉大仏のように鋳境(いざかい)が存在。土型鋳造にみられる特徴。配布されたレジュメには飛鳥大仏の鋳境図。 〔飛鳥大仏鋳境図
最後の図の網掛けは土製。

再鋳造説に従うと、鎌倉時代に躰部を再鋳造した後、頭部(当初)を吊上げて再鋳造の頸部あたりに据えたことになろう。

躰部の鋳境線と頭部(耳後・耳中央)の鋳境線が一致しているのは何故だろうか(鋳境図A-B・C-D *A~Dの記号はこちらが加筆)。
焼失後、据える予定の頭部の鋳境に合わせて躰部を再鋳造したのだろうか。また現状の頭部は僅かに前傾しているが、これも計算の上で躰部(頸部)を作り頭部を前傾させたまま据えたのであろうか。鋳境を残したままの鎌倉期の“下手な鋳造”者が、そんな面倒なことはしないと思うのだが。
頭部と躰部の鋳境が一致しているということは、同一工程で製作されたことに、ほかならないのではないか。
とすれば、すべてが鎌倉時代の再鋳か製作当初かということに。

頭部が当初である限り、再鋳造説は成立しないとは思うのだが・・・。
問題はなぜ鋳境の処理をしなかったのかという疑問。大橋先生はこれで完成品とされたが。

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ネットワーク

2016-10-25

和歌山県立博物館「蘆雪潑剌-草堂寺と紀南の至宝-」へ。

草堂寺(臨済宗東福寺派・白浜町)。応挙が若い頃、交流のあった棠陰令召(後の草堂寺住持)、文保愚海(後の無量寺住持)に新寺建立の際には絵を描こうと約束。後年 、草堂寺・無量寺の再建に応挙を招くも多忙ゆえ、高弟の長沢蘆雪が師応挙の絵を持って名代として派遣。ここから物語が始まる。
展示では草堂寺・無量寺のほか成就寺・高山寺も。

《虎図》は強い風雨のなか崖から飛び降りる虎。北斎《雪中虎図》をちょっと彷彿とさせる。応挙《雪梅図》は展示場コーナーを利用して上間一之間風に。見事というほかにない。しばらく凝視(立ちすくむ)。

《朝顔に鼬図》にほのぼのとした後、棠陰令召像・寒溪令遂像(水谷憬南筆)と貞和2年自賛の《虎関師錬像》(おぉ~!)と《虎関師錬坐像》。《洞外令中像》も絵所高橋素運による。水谷憬南ともどもかなりマニアック。伊藤若冲初期の作品《隠元豆・玉蜀黍図》。隠元豆図の蛙や玉蜀黍図に隠れる雀は《動植綵絵》池辺群虫図の祖形をうかがわせる。お馴染みの《鸚鵡図》も。

成就寺《唐獅子図》の後ろ脚で立ち上がり、目をむき毛を逆立てる獅子の姿はどことなく劇画風。あと岸駒《東方朔》や望月玉川《関羽図》、画稿類などなど。眼福にあずかり、様々なことを考える材料になった。
人物、寺、本山(宗派)、地域のネットワークが生み出し、蓄積された名品の数々を堪能。
顎をかなりひいた草堂寺地蔵菩薩坐像(10世紀)は必見の由。後期展示も来館したい。
「尤可拝見」。

その後大学。

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福井

2016-10-26

福井へ。 まずは越前市武生公会堂「正覚寺展」。

善光寺式阿弥陀如来立像(金銅)や法然上人絵伝《押出阿弥陀三尊及び比丘形像》、12幅にも及ぶ《法然上人行状絵図》、敦賀・西福寺「阿弥陀如来像」の写した《阿弥陀三尊来迎図》は請来仏画を直模した作品。そのほかにも、《十六羅漢図》(室町時代)、《阿弥陀如来立像》(鎌倉)、《涅槃図》等。
武生公会堂の展示は何時も裏切らない。

さて、福井市立郷土歴史博物館「福井の仏像」。
展示リストをみると、神社所蔵の仏像が多い。
さすが福井ならではといった感。
薬師神社《薬師如来立像》は12世紀で渦文が残る。法承寺《聖観音立像》は明快な衣文ながらごくごく浅い彫り。ちょっと限界にチャレンジしましたという雰囲気をたたえる。
荒谷観音堂《聖観観音立像》はノミ痕が残り、墨描きの衣文。赤系染料で用材を染める。神宮堂《虚空蔵菩薩坐像》ともどもじっくり。八幡神社《十一面観音立像》の頭上面は面相がなく1列。大安禅寺《文殊菩薩坐像》はもと胎蔵界大日如来像の改造。八坂神社の十一面女神像は右脇下に大きな節あり。
さて、滝波五智如来堂《大日如来坐像》。
螺髪、ほぼ偏袒右肩の衲衣をまとうが、左胸に条帛を織り込むような表現。左前膊以下後補ということだが、右腕の上腕以下もやや微妙に思う。12世紀の製作とみられ、他の四仏像より遅れての製作とすれば、これも如来像の改造バージョンなのかも。四仏像の後頭部の彫出具合に注目。
満足しながら帰阪の途につく。

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技法の出自

2016-10-27

明時代の羅漢像内部から700年前の紙幣発見(CNNニュース)。

明代の彫刻はこのパターン。耳と鼻先の線で四角く首下までを造形。前後の躰部材と両肩材で挟み込む独特の技法。
三道下で矧ぎ目がなく、胸上で水平に矧ぎ目の線。

ただ日本にないかというとそうでもなく、近世長崎仏師(山口平内など)がこういう寄せ方をする。

なんか長崎仏師の師匠は、京都や博多の邦人仏師ではなく、中国人仏師であるように思えるのだが。
造像技法は誰から彫刻を教わったのかを明確に示している。長崎・天草では曹洞宗寺院に広がっていくのも興味深い。

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元興寺

2016-10-28

吉本新喜劇の見過ぎか、先天的DNAなのか分からないが、独身の頃に足繁く通った大衆食堂のおばちゃんは、会計の時に決まって「はい、700万円!」と レジ前でのたまう。千円札を渡すと、「お釣り、300万円!」と百円玉3つを渡してくれる・・・。
もう完全な吉本新喜劇・大阪のノリ。

授業が終わって奈良・元興寺の『版木-刻みこまれた信仰世界-』展へ行く。
聖徳太子孝養像、如意輪観音坐像の背後に元興寺に葺かれた平瓦(室町時代)が展示。
凹面に以下の線刻。
「請取申候れう足(料足)/合三千貫文/六月五日 まこ□郎(花押)」
日野富子の遺産7万貫は約70億円、信長が堺・会合衆に要求した矢銭は2万貫(約30億円)、従って3000貫は3億から4億5千万円。添えられた解説は正しい。 まこ□郎はおそらく瓦職人。きっと100分の1、あるいは1000分の1の労賃で元興寺の瓦を製作したのであろう。
重労働ゆえか、つい”吉本”のノリで、瓦に書き付けた・・・かも。すでに室町時代にこのパターンがあったことを知り、驚愕。恐るべし、関西人のノリ。

元興寺総合収蔵庫では、智光曼荼羅特別展示のほかに『版木-刻みこまれた信仰世界-』。南都古寺での元興寺文化財研究所の研究成果が集約、展示。
長谷寺蔵「尊勝仏頂脩瑜伽法軌 巻下又乙」版木裏面。
中央に「文化三/丙寅秋/摺之/皇都住/河内屋利助」の墨書。この墨書と直交する形で「左之通/相違無之候」と記されている。 しかしその周辺に「いまいましい/摺にくい」「此板摺にくし」「こんな/しごと/いやなり」「甚富ん/しかし見事ニ摺也」と落書も。
学術成果の展示の楽しみともいうべきか。版木に関して大いに関心が広がる。

夕刻から奈良市某所で打合せ。

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秋の国宝

2016-10-29

朝から快晴。朝刊を眺めていると、突如「国宝が見たい!」と家人。「何処の?」「・・・。そう『正倉院展』!」。昨夜は奈良、しかも正倉院宝物は国宝ではないのだが・・・。

で、お昼前から奈良博へ。幸い10分待ちだったので行列に並ぶ(30分や60分なら興福寺国宝館だったのだが)。ほどなくして入館。
「順路は特に設けていませんので、空いているところをご自由にご覧ください」と係員。ケース前には人だかり。ケース上には写真パネル。
メイン資料が少ないのか分からないが、人だかりのなかに空隙もちらほら。
「象牙の笏(通天牙笏)、クジラの骨の笏(大魚骨笏 )・・・」などと迷解説を始めながら観覧。漆胡瓶では会場に掲げられたX線写真をみながら。
大幡残欠って巻物状にして保管されているのか・・・。粉地金銀絵八角長几や銀平脱龍船墨斗など主要作品を見ながらも、“人疲れ”してきたと家人(こちら同様田舎者ですから)。
展示品も杏仁形鈴や和同開珎、撥鏤飛鳥形など小型の作品が並ぶ。文書は殆どスルーして、45分ほどで終了。

その後、東大寺に向かって歩く。大仏殿までは混雑で辟易したが、大仏殿の横に入ると静かな秋の南都。正倉院外構(これも国宝じゃない)を見学。

このまま帰ると、正倉院は国宝と思い込む恐れもあるので、「国宝、みるか。仏像やけど有名な国宝・・・」と戒壇院に誘う。
堂内へ。既に壇上には上がれなく、四天王像も外向き。多宝塔の釈迦・多宝如来像も金銅仏から木造仏(江戸)に代わっている。拝観者もまばらでゆっくりと拝見。
「ここに“色”が残っている」「ほんまに“土”やね。」と感慨深く見ている。閉堂近くになって退出。結局、反時計回りにぐるぐる回りながら小1時間強ほど見学。 ちょっとメインから外れた秋の奈良を満喫。
本日の見学会、これにて終了。

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大麻

2016-10-31

このところ、大麻所持で町おこしの会社代表や元俳優が逮捕。

少し前に某神社の方との雑談。「最近、麻が少なく…」とお嘆き。
最初、仰ることがよくわからなかった。
神社などでお祓いに使う幣。これは大幣というが別名は「大麻」(おおぬさ)。今では紙製が多いが本来は麻の繊維。弓道に使う弦も麻。ファッションには至って鈍感な小生も麻のジャケットぐらい持っている。
ところが、本来は麻=大麻で、現在巷で言われる「麻」の多くは苧麻(ちょま・ カラムシ)や亜麻(リネン)だそうである。

「いや習いました。『租庸調』の調は麻布で、『麻布』『調布』という地名も残る」と。
「ところが、戦後に『大麻取締法』で、本来の麻は栽培禁止、今、『麻』と呼んでいるものは、苧麻か亜麻。今では本来の『麻』は栃木県の一部でしか作られないんです」と。
沖縄(の飲み会)でも「麻を育てるのは・・・」と聞いたことがある。

「なんとなく『悪貨は良貨を駆逐する』といった感じですね。」と答えると、「日本産はほとんど無毒なのですが・・・」と。悪用する一部の輩が伝統を潰していると言わざるを得ない。
(死刑じゃ!)

「取締りも厳しいですので、『伝統』だけではどうにもならない・・・」と愁いをみせる神社関係者。
栽培しても”御用”になるだけだそうである。

なんとかならないものかと思いつつ、大昔はきっと収穫しながらラリっていた輩もいたはずだと・・・。

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