日々雑記


神様

2013-4-1

午後、某所で彫刻(神像)調査。今年度も神様でスタート。

事前に「スナップ写真」を拝見していたので、調査しながらも脳裏で御調八幡宮の女神像(奈良博『神仏習合』展)の記憶を反芻。作風が異なる2体の神像は同時期の製作とされるが、このたびは・・・。

採寸の後、眼鏡を外して(老眼)観察。彩色は後補(白地に金泥の縁取り彩色)で、一木造・内刳りなしで、特に難しいことはなかったが、像底を見ると材質は広葉樹環孔材ながら、あらっ・・・。

一般に像底の年輪は同心円を描いており、「木芯は前方右斜めに外し・・・」などと調書に記す。しかし、像から外しているが、どう見ても木芯は右斜め前と左斜め前にふたつある(参考写真)。こんな像底は初めて。“異質材”を使用したか。
確かに写真のように年輪が重ねる部分にはウロにようなものが出来ている。この部分は像前方を辛うじて外しているのだが、幹に出来た瘤状の隆起部分か、枝分かれした根元?の部分なのだろうか。丁寧に“お絵かき”。

なぜか、マスコミ(2社)や地元関係者も調査に立会い。毎度の事ながら馴染みの少ない存在なので、コメントに四苦八苦。だから、仏像をつくる人(仏師)が神像も造るんだって・・・。またGW前までに調査報告をとの由。
対応後、共にお帰りになられ、その後はゆっくりとバック紙を貼って写真撮影。

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牛後となるなかれ

2013-4-3

地方紙Sの某記者(若手)より過日の神像の件で電話取材。当日は来ておらず、第一報が出た後、「後塵を拝した」形で。実は、昨夕、2度ほど電話があった。たまたま自宅でPCに熱中、PCを閉じるのも面倒なので、携帯電話を「スピーカー」モードにて会話(便利!)。

「どうして10世紀末と分かるのですか?」「観察した作風や造形の特徴からの判断です。」
「なにか、別な科学的根拠などはないのですか?」「???」
傍にいた家人や娘たちが目をパチクリ。
「それが仕事!」(家人)「ケンカ、売られてんで!」(末娘)とタオルならぬメモ用紙がPCの前に投げ込まれる。
2度目の電話。おもろいので再び「スピーカー」モード。
「先ほど仰った『大きな影響』というのは、この地方を勢力下に置いたということですか?」
「いいえ。地域でも一二を争う“由緒”のある神社ですので、それなりの歴史があるという意味です。」
歯車が噛みあわぬまま、会話終了。
「アホや、こいつ!豪族の古墳とまちごうとる!日本史、知らんのとちゃう?」(上娘)と。
そうかも知れん。

そして今日、3度目。
「度々すみません。全国で神像はどのくらいの数がありますか?」「はぁ?」
馬鹿馬鹿しいと思ったが、大学にいたので『国宝・重要文化財大全』を繰りつつ、「指定品だけでも100以上・・・」と応えると、「じゃ、それほど大したことじゃないんですね。」と。
なんのネガティブ・キャンペーンなんや。
ほどなくして、再び。「デスクにはまだ見せていないんですけど原稿を読み上げますのでチェックして下さい。」「いや、原稿をメールで送って下さい。それにチェックします」と返答。
届いた原稿をみるとやっぱり・・・。

あれこれと聞いたことはまったく書いていないばかりか、「第一級の史料」などと。モノだから普通、「資料」じゃないの。(歴史学研究ではない。一般向けの新聞)。「両手が失われ・・・江戸時代の彩色も残る」って、第一級資料としてはマイナス要素全面。これって、いわゆる「ほめ殺し」というやつか。
「後塵を拝した」のに、独自(取材)性を持たそうとするからこうなるのだ。あっさりと記事にしないか、もっと時間をかけて掘り下げるなど・・・って、無理か。

いったい何様のつもり。
(追記) 4/4 ボツ原稿になったようです。

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ミニシアター

2013-4-5

今日から授業開始。
昨年と同じAV-B教室に行くと、あらっ。

春に改造工事をすると聞いてはいたが、ここまでするかと思うほどの変わりよう。
若干の階段教室になっており座席数80、おそらく教室のなかでも最も上質な座席でふかふか。机は座席横から引き出す・・・。

配布資料をどこに置こうかと迷いながら、新しくなった装置をあれこれ触る。教卓背後の大スクリーンは温存されたが、その前にも小ぶりなスクリーンが降下。まるでミニシアター。
暗幕を引いて、スライドやDVDを流すと、学生は絶対に夢心地となるはず。

昨年まで、この教室の端から端まで絵巻物(複製)を広げていたが、こうした造作では広げることも出来ない。
はや思案をしながら講義初回のガイダンス。

はやお疲れ気味の学生を前に、こちらは“舞台挨拶”に立った三文役者のよう。

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遷宮

2013-4-8

大学。授業も始まり、終日にぎやか。

今年は出雲大社と伊勢神宮が遷宮。
伊勢神宮では建物をはじめ御装束、神宝もすべて新調する。旧(撤下)の御装束・神宝類は明治までは燃やすか、地中に埋めていた(現在では神宮徴古館で保管)。
重要文化財となっている「神宮古神宝」のうち太刀や鉾は敷地内の造営工事で発見されたもの。

とはいえ、状態のよいモノまでわざわざ撤下し、新調するだろうか。「奉献」ということからも、費用負担もあって一部は新調することなく伝わった御装束・神宝もあると思うのだが。
新調に際しては神職立会いのもと、工人が詳細な図を描き、記録を取って全く同じものが作られる。もっとも中世最後の遷宮を記した『寛正三年造内宮記』(寛正3年・1463:『神宮遷宮記』第4巻)では奉献された神宝に対して「粗悪前代未聞なり」と憤っている。手抜き。

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せどり

2013-4-9

今は子供だけでなく、大人(特に女性)も「絵本」への関心が高い。「メイドカフェ」ならぬ「絵本カフェ」まであるという。人気ある稀少な絵本は高額で売買されるとも。

メルヘンチックな雑談の中で、おっちゃんは別のことを妄想。
古物商の鑑札を取って、ブックオフあたりで「稀少絵本」を探し、それをヤフオクあたりで転売。差益を得ようなどと。しかし「高額絵本」ってどういうものだろうか。そういえば、学生の頃に行った「ボローニャ絵本原画展」で(図録代わりに)買った「絵本」はどこにあるのだろうか・・・。

「センセ、センセ。」「あ、すまん、すまん。」
授業中やった。

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会議

2013-4-10

朝より会議3つ。終わると早や夕刻・・・。

いよいよ、大学の日常が始まったと実感。

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食い倒れ

2013-4-11

近世・近代の各種『案内記』をすがめつ ながめつ。

曲亭馬琴は『羇旅漫録』のなかで、大坂の「よきもの三ツ。良賈・海魚・石塔 あきしもの三ツ 飮水・鰻・料理。」と酷評。うかむ瀬も「鹽梅名ほどは高からず。」と一蹴。

『案内記』をみると、大坂は概して「料理店」と総称されるが、江戸では「鰻」などそれぞれの料理専門店が名を連ねる。一方で、大坂では、料理法(解説書)の出版が盛ん。『素人庖丁』、『豆腐百珍』、『甘藷(いも)百珍』などなど(「百珍」とはレシピ集)。
専門店(江戸)VS家庭料理、素人料理(大坂)。

「大阪の食い倒れ」は都市伝説なのかといぶかってしまうことに。でも思わず、たこ焼、お好み焼など「こなモン」が大阪名物となるのもむベなるかなと。

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地震

2013-4-13

早朝、家族全員の携帯電話が聞いたことのない着信音が同時に鳴る。その音で目覚めた途端に、強い縦揺れ。ゴォーという地鳴りも。しばらくすると横揺れ。横揺れの時間が短い分、上から物が落ちてくることはなく、起き上って玄関の鍵を開けてTVを付ける。
震源は淡路島。最初、震度5弱に驚くが、震度4に修正。阪神大震災の時と同じ震度だが、あの時よりは被害は軽微な感。再び、余震と思しき横揺れ。

その後も大きな余震はないものの鉄道(JR)はストップしており車で出かけることに。
18年たっても阪神淡路大震災の余震なのか・・・。朝からびっくり。

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頼政

2013-4-14

ここしばらくの土曜、日曜は「大祭(例大祭)」のピーク。朝から奈良・天河大弁財天神社へ。

「天川開山ハ役行者」(『多聞院日記』)とあるように休憩所には大峰講の案内がいくつも。弁財天は芸能の神でもあり、神事の後、午後からは観世流の神事能「頼政」。

神事能の前に、写真を示しながら世阿弥の嫡男 十郎元雅の寄進銘がある永享2年(1430)の「阿古父尉(あこぶじょう)」の解説。これを含む30面の能狂言面も今年度、国の重要文化財に。
神事能終了後、参拝者や地元の人に混じって「餅撒き」に参加。

神社横には「南朝黒木御所跡」。隠岐じゃないのかと少し不思議にも。

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点検

2013-4-15

某所で調査(真宗大谷派)。
仏像には触るなということで、聖徳太子や浄土七祖像など。

絵画の調査も済み阿弥陀如来像を拝見。16世紀後半っぽい。足ほぞにも書いてありそうだが、いかんともしがたい。
よく見ると、左肩口はこのような形状。これは大谷派の阿弥陀如来像ではない。大谷派はここに吊環を表わすはずで、江戸時代にも本山での点検が行われて、こういう形だと本山仏師が改造する。現在でも同じことが行われている。

とはいえ本願寺派の本尊のように衣がまっすぐ下がっておらずに、“異質”な衣文表現。台座はまさに大谷派の台座であるだけに余計に不思議。
「触るな」ということなので、そうした東西の矛盾を知っているのかも思ったが、そうでもないらしい。
「本山仏師講」の皆様、点検ですよ!

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今でしょっ!

2013-4-16

授業で、30年程前の英国・ヴィクトリア&アルバートミュージアム(V&A)の展示室(陶磁器室)を映しながら思う。

デザインの総本山でもあるV&Aという蓄積のもとに人は集い、新しいデザインが生み出される。いわばグラスのほとんどに水が入っており、そこへ新たな水が注がれて、溢れ出たのがデザインであると考える。

いっぽう、日本は毎回新しいグラスを用意することに終始し、水はグラスから溢れようもない。新しいグラスもすぐさま飽きられて、次のグラスへと目移り。「古いモノ」には関心はあろうはずもなく、新しさだけが追求される。これでいいんだろうかと、熱っぽく語るも“空振り”。

そうしたことが学べるのも“今(だけ)でしょっ”。

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ア(亜)ミュージアム

2013-4-18

研究棟の通路に貼ってある各地の展覧会ポスター。とある博物館の特別展ポスターを見て、びっくり。
「集え!婆裟羅たち」とあって伊達政宗、片倉小十郎、徳川家康、石田三成などの戦国武将キャラ(!)のイラスト。よく見ると、下に「共催:CAPCOM」のロゴ文字。をいをい。

それまで“気合い”の入った企画展をしているなら、たまには“お遊び”もよかろうと思うのだが、「話題作り」のためだけに貸館状態にしたとしか思えない。今の日本史業界では、徳川家康は「婆裟羅(大名)」なのか。

刀剣を専門とした博物館が「ヱヴァンゲリヲンと日本刀」展をした時も眉をひそめた(今度、大阪にも来る)が、博物館の役割を果たしているとでも思っているのだろうか。同じやるなら、「コミケ 地方版」18歳以上限定、入館料も一般料金のみ ぐらい“突き抜け”やんとアカンのと違うか。

大昔、「『アミューズ』と『ミュージアム』で、アミュージアムを目指します」と「上」が外部で言った途端、ゲーム機のパンフレットが山ほど届いたが、これからは「太鼓の達人」でも置くことになるのだろうか。
世も末である。

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あと2年

2013-4-19

このごろ、学生、特に1回生の対応が難しくなってきていると実感。(身近にもひとりいる)
ワルでもないし不真面目でもない、フツ-の学生にみえるのだが、某議員のように「2位じゃダメなんですか」みたいなことを言うし、古美術と現代アートとを同一視しているところもある。高校「日本史」が選択で、中学校からのおぼろげな用語しかわからず戸惑うことも多い。悪しきは、暗記物と堕した高校日本史(授業)である。

とある人に愚痴っていたところ、「あと2年は続きまっせ」と。
今年の入学生は1994年生まれである。小学校2年から高校卒業まで文系は「ゆとり教育」を受けた世代(理数だけは脱ゆとり教育)である。来年、再来年の入学生(文系)は小学1年から高校卒業まで、ずっとゆとり教育。文系学生が完全にゆとり教育を脱するのは2004年生まれからだそうである。

個々に学生を見ているとそうでもないのだが、なんとなく歯車が合わないというか、歯車が摩耗してこちらが上滑りしているような・・・。

いつしか別の話題となり、対処法を聞き損ねてしまったのが、痛恨。

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七星剣

2013-4-21

朝、子供がお出かけとなり、仕事しようとすると、「法隆寺へ連れて行け」とのお達し。「ホウリュウジ?はぁ?」今更門前の小僧でもあるまいに。
ガイド代、高いゾ!と言いながら、斑鳩の地へ。

中門金剛力士像を見た後、金堂、五重塔へ。日光が差し込んでいたのか、LED照明のためか釈迦三尊像はよく見える。天蓋の鳳凰も指さししながら説明。四天王像の邪鬼がいたくお気に入り。
五重塔塑像は金網が張ってあり、こちらは以前より見えづらくなった。
大講堂、聖霊院を廻って大宝蔵院へ。修学旅行生や中国の団体客に行く手を遮られながら檀像や地蔵菩薩像。もとは大神神社の神宮寺にあったと言うと、「そういう感じよね」と。はぁ?
一番のお気に入りは「七星剣」。ケース斜めに導き、「ここから切先をみてみぃ、なんか見えるやろ」。しばし凝視した後、「おっ~、北斗七星。それに雲も。」「もとは金堂四天王像(持国天)が持っていたもの」。しばらくは剣をじっくりと凝視する有様。

その後、特別公開中の夢殿・救世観音像へ。岡倉天心の発見談を話しながらも関心はかなり低い。
関心の個人差は大きいというが、今度はこちらが凝視。

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彼女が他人にとられたような・・・

2013-4-22

3月頃より凹むことが続き、気分が滅入った“底”の時期にとどめの一撃。

自宅前の田圃を潰して作った青空駐車場に、我が家の産直御用達の“お買い物”車が置いてある。

某日朝、一瞥した折、普段よりなんとなく車高が高いと感じ、近づくとこの有様。なんだか廃車同然。
警察へ連絡し、事情聴取、現場検証。ジャッキで四隅を上げて、全てのタイヤとホイールを盗んでいる。ジャッキアップの位置へ正確に当てており、警察によればプロの仕業と。ジャッキはホンダ、ニッサン(2個)、ダイハツと、全て盗難車からのものとの由(被害車はスズキ)。ひとつには軍手らしき繊維も付着。
指紋(をとっても)も無理だろうと。幸い、車内は防犯アラームがあり被害なし。
ひと通り、現場検証も済んで、近くのカーショップから店員を呼び、新しいタイヤを嵌めてもらう。店員いわく「この(クルマ)のホイール、純正でしたよね。人気あるんで、よく盗まれていますよ」などと。

その後、ジャッキ4点、捜査協力資料として警察へ提出。
「なんか彼女が他人にとられたような・・・」と口走って家人の嫌味も賜り、しばらくの間、気分は奈落の底へと沈んでいく・・・。

ようやくのこと回復。

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履修相談

2013-4-23

帰宅すると、娘たちがネットで公開?されている「授業評価」を見ている。
大学生になったばかりの末娘が履修した授業がどうもシラバスとは(徐々に)違っているらしい。上娘は「そんなん、しょっちゅう」と軽く聞き流しているが、何事も不安いっぱいの一年生の脳裏には暗雲。

「人様相手の“商売”やから、顔色(理解度)見ながら進めるので、全くその通りに授業は進まん・・・」と不安に拍車をかける。「ここには“楽”ってあるんやけど・・・」と画面を示す末娘。

「ちょっとパソコン、貸してみぃ」。画面のトップに戻って 関西大学-文学部-親爺の名前 をたどっていくと、担当の全学共通科目。「出席はたまに取る」「出席はとる」などの文字が並ぶ。極めつけは、「この情報は役にたちましたか」との問いかけに何人も賛同を示す。
全部、虚偽の情報。
ここ4、5年は出席は取らずに試験一発勝負。出席を取っても後方座席でずっと携帯いじっていては何の意味もない。

「あのな、来年からは取りやすい科目を取ったらアカン。この話を聞きたいねんという思う科目をとりなさい。そのほうが絶対、面白いし」。

よもや、この時期に履修相談をするとは。灯台もと暗し。

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都合により表示できません

2013-4-24

終日会議。
とある会議でWEB版紀要の話。
こうした内容で辛いのは美術史関係。図版掲載がWEB版では難しい。西洋・東洋美術と日本美術でも温度差。出典名を記すだけならOK(西洋)かといえば、日本では難しい。
京都国立博物館『学叢』(ホームページ版)でも判別しがたいほどまでに図版は黒くなっており、奈良国立博物館『鹿園雑集』でも一部の図版は「都合により表示できません」とマスキング。

資料所蔵者との関係が大きく、ありていに言えば「学問研究とはいえ、所蔵者には嫌われたくない」。図版がないと、美術史にとっては死活問題でもある。

授業後に見慣れぬ学生が質問。「西洋の美術館・博物館では写真撮影OKなんですか?」と。
多くの人たちが美術作品を「銭儲け」のひとつとしてしか見ていない風土(老若男女、金銭の話題をしないと、その価値が理解できない)が、こうした不自由なことを引き起こすのかも。

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平野鉱泉

2013-4-25

午前中、平野(川西市)へ用事。
平野は幕末期まで温泉場(冷泉)。明治14年(1881)にはウィリアム・ガラン(ガウランド)が、平野鉱泉水を飲料水(サイダー)として製造、3年後には「平野水」として販売している(商標は「三ツ矢」)ことから、その頃にはもう温泉場ではないが、今でも傍の小川にはポコポコと炭酸水が湧出。

現在の原形である「平野シャンペンサイダー」(明治40年発売)は10銭。当時の蕎麦が3銭ということなので、高級飲料。もちろん、「御料品」としても採用。塔屋背後の建物は「御料品製造所」。
ご存じのとおり、三ツ矢サイダーは炭酸がややきつめ。平野温泉も効能豊富だが、強炭酸からくるものだろうか。

用事が済んだ後、アサヒビール工場のある吹田へ戻る。午後からは授業。

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群書類従

2013-4-26

2006年に倒産した「続群書類従完成会」の版権を継承したA社が「群書類従」「続群書類従」「続々群書類従」のオンデマンド版を刊行。各冊分売も行うとのこと。価格もそう高くはない。品切、入手不可の巻もかなりあり待ち望んでいたところ。なにしろ計133冊3750余のタイトル数、全冊揃える気は毛頭ない・・・。

ところが、既にB社から「群書類従」「続々群書類従」のCD-ROMが発売。両方でCD-ROM5枚。「群書類従」だけならUSB1本。価格はオンデマンド版10冊分ほど。この際、必要・不必要に拘わらずCD-ROMで揃え、CD-ROMにない「続群書類従」だけはオンデマンド版などと考える。

どうしようかと窮屈になった本棚をみながら、しばし考え込む。考えれば、実に贅沢な悩みである。

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東京(1)

2013-4-27

早朝より東京へ。まずは東京藝術大学陳列館へ。
美術研究科文化財保存学専攻 保存修復・彫刻研究室による「2012年度研究報告発表展」。TVでも放映されたので、かなりの入場者。内容は東京美術学校(岡倉天心)以来の伝統でもある模刻と修復。

天心は同校校長を辞職後、日本美術院を創設し、第一部を横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らによる新日本画の制作、第二部を新納忠之介らによる国宝修理事業とした。現在の(財)美術院国宝修理所の前身である。
見ながらそうした伝統がひしひしと伝わってくる。ぶっちゃけた話、研究ならいいけれど、正式に修理を頼むとかなり高額になりそうと実感する。「美術院やからね・・・」との在野の声も聞こえそう。

その後、美術館「藝大コレクション展-春の名品選-」。
《絵因果経》(奈良時代)や狩野芳崖《不動明王像》、上村松園《序の舞》、鏑木清方《(樋口)一葉》も見ごたえがあったが、修復された小磯良平《彼の休息》に驚愕。
小磯良平の卒業制作でモデルは竹中郁。画面での竹中の顔には石膏がひび割れしたような傷があったが、修復ではすっかりと消えて艶のある青年の面立ちに。
また、日本の都市景観モチーフは、19世紀半ば以降のパリ改造による都市の変貌を描写した印象派による影響が大との指摘は、“目からウロコ”。眼前の作品をみながら想起・同調することも多し。

千葉に移動し千葉市美術館「仏像半島-房総の美しき仏たち-」展。
美術館は旧川崎銀行千葉支店(1927年)を包み込む形で建てられた新しいビル内で中央区役所との複合施設。7・8Fが美術館。

龍角寺薬師如来坐像(頭部:飛鳥時代後期)や勝覚寺四天王像(弘安年間頃)、正覚寺《清凉寺式釈迦如来立像》など興味深い作品が目白押し。中でも小松寺薬師如来立像(9世紀)には驚愕。
まったく悪気はないが、地方の仏師が造像の命を受け、叡山か神護寺へ向かい仏像の姿を暗記、地元に戻ってその通りに制作するが、頭体のバランスがおかしい・・・という、みうらじゅんの珍説?を肯定するような像。9世紀とすることに異論はないが、不思議のひとこと。全体に、地元、京都、鎌倉とよくわかる資料である。

仏画も法華経寺《十六羅漢像》(元時代 第1扇は伊川院栄信、第2扇は晴川院養信の補作)や成田山新勝寺・狩野一信《十六羅漢像》、片山尚景《開山日親上人徳行図》などの作品が並ぶ。

じっくりと拝見し、外に出ると、夜の帳。あらら・・・。

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東京(2)

2013-4-28

朝より東京国立博物館。
本館2Fで「平成25年 新指定 国宝・重要文化財」展。
願成就院不動明王・二童子像や福島・長福寺地蔵菩薩坐像、清水寺・摩多羅神像、天河神社狂言面(尉・三番叟)などを見たが、浅間神社の神像にはびっくり。
拱手する女神像3躯を外向きに一木から表し、中央には如来像の上半身。なんだか神と仏の「組み体操」を見る思い。

新指定品展ではいつも“面白い?史料”も登場する。
「万昆嶋主解」。天平宝字2年(758)7月28日に、官営写経所で働いていた経師の万昆嶋主が、姑の看病のため、4日間の休暇取得を願い出た文書。文書には姑が重病で起き上がれず、また看病する者もおらず・・・と記されている。今も昔も介護は同じながら、実は夏季休暇だったりして。
次いで建治2年(1276)の宗性発願による「法華経」。宗性と彼周辺の19名の僧侶らによって書写された経ながら、書写の動機は年来同宿していた稚児が殺害され、その一周忌供養のため。「男色」モロばれの写経。

その後階下に降り、滋賀・天満神社の四天王像(新指定・鉈彫り像)、キリシタン関係資料(福知山城の城壁には墓石だけでなくロザリオやメダイも埋まっていたのか!)や萩原祐佐作の踏絵を見た後、平成館「大神社展」。
特別協力:神社本庁なのでやむをえないが、神仏習合がすっぽりと抜け落ちていたのが残念。優品を揃えた「神宝展」である。会場でも「なぜ、『平家納経(観普賢経)』が厳島神社なの?」とごもっともな指摘。沖縄・斎場御嶽の青磁や勾玉が出ていたのにはびっくり。まぁ、カミには違いないが・・・。
あと七支刀や神像群をじっくりと。

遅い午後からはリニューアル後の東洋館へ。存在がないような透過度の高いガラスケースを採用。多武峯伝来の十一面観音像も唐時代なので、こちらに展示。長谷川路可の模本を含む大谷探検隊将来品やクメール彫刻やインド・ミニュアチュール(地階)も。
最後は法隆寺宝物館。金銅仏を眺めた後、唐(長寿3年・694)の「細字法華経」や法隆寺裂。「細字法華経」の付属品として「経筒」(白檀・唐)が展示してあったが、どうみても経巻が納まらないようにみえたのだが、疲れていたせいなのだろうか。

閉館時間まで一歩も外へ出ることなく、東博三昧。
写真上は寄贈者顕彰室改め新ミュージアムショップ。下は東博で一番知られていない(と思う)重要文化財「旧十輪院宝蔵(校倉)」。床下(腰)柱間には十六善神の線刻石。

疲労困憊で東京駅へ。

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大和名所図会

2013-4-30


過日より考えあぐねることがあって「大和名所図会」をみる。
秋里籬島著・竹原春朝斎コンビで“取材旅行”に出かけ、名所をよく観察しているとは思うのだが、時には ??? ということもある。
興福寺の挿絵では短冊の「講堂」「金堂」が実際の配置とは逆。法隆寺では講堂の裏山に八角堂(西円堂)が出現。本来あるべき上御堂はそのまま東側へスライド。
紙面の都合か、確信犯か・・・。ちょっと不思議な光景。

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