日々雑記


県立博物館

2010-7-1

富山県立図書館へ。公文書館・県埋蔵文化財センターとも隣接。

富山の仏像といえば、二上射水神社神像や総持寺千手観音坐像が有名だがそれ以外はあまり知らない。富山県も真宗王国であるためにあまり目立たないのかもと・・・。果たして様々な文献をみるも、中・近世はもっぱら考古学と古文書。むぅ~。
講演会記録でも、富山に縁ある美術史の先生が、富山には県立博物館すらないと嘆き節。

全国に県立博物館(歴史系)がないのは、5県(熊本・福岡・富山・静岡・愛知)だそうだが、追加すると、大阪・奈良も県立博物館はあるが考古学系のみ。仏教美術の分野は、奈良は国立博物館が、熊本・福岡は県立美術館が肩代わりしているが、富山県は「県立近代美術館」があるだけで、仏教美術についてあまり関心はなさそうである。担当分野が、地域に不在だと、どうしてもこういう傾向になりがちである。

これを裏付けるように「富山県の郷土資料」も驚くほど少ない。氷見市など既知の資料以外にあまりめぼしい資料はなく、あっけなく終了。「仏像ブーム」とはいえ全くご縁のなさそうな県もあるものだと驚く。

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立山(その1)

2010-7-2

富山地方鉄道に40分ほど揺られて千垣駅。降り立つと、えっ!と思う古風な駅舎だが、ここから2kほど歩いて立山博物館へ。

奈良時代、越中守佐伯有若の息子である有頼は父が大切にしている白鷹をもって鷹狩りに行くが、白鷹は山に逃げてしまう。父は激怒し、これはまずい・・・と有頼一人で捜索。やっとのことで鷹を見つけるが、突如、熊に襲われて矢を射ると、熊は血を流しながらも逃亡。有頼は血の跡を追って山中深く追っていき、「玉殿窟」に至る。窟奥では阿弥陀如来像と不動明王像が立ち、阿弥陀の胸には矢が刺さり血を流していた。そこで有頼は熊は阿弥陀の化身と悟り、出家し「慈興上人」となって霊山立山を開く・・・。(唐突にも白鷹が不動明王というのは修験の影響か)。

立山は火山であるためにその光景から「現実の地獄」とみなされていた。弥陀ヶ原の湿地・池沼に生えるミヤマホタルイは稲に似た植物で、米がならないため「餓鬼の田圃」とされる。立山は連峰であるために地獄であると共に、帝釈天の住まう須弥山の頂上・とう利天とも阿弥陀浄土ともされた。館内には銅造男神立神(寛喜2年・1230)や平安時代と思しき不動明王頭部、左胸に穴や突起のある「矢疵の阿弥陀」像など。男神立像の左掌には孔が開けられ、持物(宝珠?)を持っていたとも。

圧巻は姥尊像(うばそん:おんばさま)。
片膝を立膝にし、醜悪な老婆の姿。永和元年(1375)の姥尊像も展示されるが、お地蔵様のようにすべて赤い布を纏っている。立山の地母神とも慈興上人の母とも称され、奪衣婆との関連も説かれる。
博物館がたつ芦峅寺は、山麓に位置する宿坊集落。女人禁制の立山へ登れないため女性のために「布橋灌頂会」が行われた。閻魔堂(此岸)から境界である布橋を渡って、立山に見立てた姥堂(彼岸)に至り、堂内で受戒、血脈を受け、死後の往生が約束されるというもの。「擬死再生」。
姥堂には姥尊像が祀られ、その形姿は奪衣婆ながら、奪衣婆が「閻魔・地獄グループ」からは独立し彼岸に居るのはやや不審で、独自の信仰に拠るものか。
博物館を見学後、姥堂跡へ行ったが、布橋(工事中)を渡るとすぐさま墓地が広がり、遠方に立山が見える。まさに彼岸の地である。

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立山(その2)

2010-7-2

以上のような説話と地獄・極楽の情景をすべてまとめて大画面に仕立てたのが「立山曼荼羅」。概ね4幅の掛軸構成。

芦峅寺で宿坊を営む者(衆徒)は半僧半俗の身分。
芦峅寺には33の宿坊があり、衆徒は農閑期に全国の得意先(檀那場)に行って祈祷札などを配り、講元宅で立山曼荼羅を開陳、絵解きして「立山ツアー」に勧誘。
熊野比丘尼と同様。

立山登山(男・夏)は、まず宿坊の岩峅寺・芦峅寺で前泊。そこから室堂までは「中語」(現地ガイド)の案内、室堂から三山・雄山(標高3003m)までは宿坊衆徒による案内となる。池大雅が韓天寿・高芙蓉とともに立山、富士山、白山に登山した折のメモを貼交屏風にした《三岳紀行図》によれば、実際にはかなりごじゃごじゃと金銭が入用だったとも。

明治の神仏分離令によって、神仏一体の立山信仰は大打撃。立山権現の称号が廃止され、仏堂は破壊され、仏像も北陸三県に散逸し、布橋灌頂会や衆徒の活動も廃止され、山と信仰の結びつきは失われる。
それでも大正期には勅命によって知事が雄山神社への奉幣使となって整備が進められたりもした。

長い間、展示を見た後、宿坊の教算坊や布橋、閻魔堂、姥堂跡を見学しつつ、神の世界に仏教が入り込み、仏教自体が複雑に変容を遂げながら展開していく様子が手に取るように理解。

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一乗谷朝倉氏遺跡

2010-7-3

終日、雨。
福井で資料調査の後、一乗谷朝倉氏遺跡へ。

戦国時代(織豊政権期)に限らず、考古学で扱う遺跡は、出来る限り短命であるほうが資料的価値は高い。弥生時代から明治までダラダラと継続する遺跡よりも、短命ながらも時代がフリーズ・ドライされているほうが、遺構・遺物の性格・傾向がよりよく把握できる。

“お館さま”である朝倉のもとに文明年間(15世紀後半)頃に家臣が集住し、天正元年(1573)に灰燼に帰した一乗谷遺跡。もちろんこの間も細分可能。
足羽川の支流を挟んだ細い谷あいに、朝倉氏の館と家臣と庶民が住んだ城下町である。城下町の一部は復元され観光スポットとなるが、多くは復元された門をくぐると、礎石などの遺構が展示。

資料館には“ビスケット”や釉裏紅、元・染付の破片などが展示。全て重要文化財。仏像はもっぱら近郊で産出する笏谷石製石仏。
驚くべきは、建物が洛中洛外図屏風にみるように板葺きに丸石を載せる仕様ながら、鬼瓦・鬼板も笏谷石。復元建物(庶民住宅)では太い木材の棟柱なのだが・・・。

当時、一乗谷に暮らしていた人が日参した寺院址は知られても、手を合わせたであろう木製の仏像はいまだ知られない。
かつて陶磁器片が出ると調査・研究対象ではないとした考古学も今や明治の汽車土瓶や戦中遺物まで扱うようになった。
一律には扱えないかもしれないが、鎌倉時代までが仏像研究の対象と思っている向き(地域)もまだまだ多い。
某所で拝見した14世紀後半頃と思われる仏像も全く関心の埒外で、詳細な地域史のなかに裏付けられないでいる。(だから面白いと思うのだが・・・)
越美北線で福井に戻り帰途に。最近1時間に1本の列車ダイヤが苦痛に思わなくなってきた・・・。

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求人あれこれ

2010-7-4

晩酌傍ら、相変わらず新聞の求人情報を見る。これがいつも面白いもので・・・。

資格系の某専門学校「専任教員」(正社員)募集。
7つほどの課程があり、税理士とか中小企業診断士なども含まれているが、介護福祉士以外は全て「実務経験不問」「教員免許不要」と。ヲイ、本当に大丈夫か。
HPで確認すると(HPで内容確認の上エントリーせよとある)、「有資格者優遇」「実務経験者優遇」とある。やっぱり・・・。
「学校法人」ながらなんか不誠実。

そのやや下には「フラワー・コーディネーター」(正社員)。
すぐ下の3行案内には「葬儀花祭壇の制作・飾り付け・供花の制作や式場での設営・運搬」とある。
なるほど。下心みえみえの花束や需要が一定しない花卉を売る花屋よりも年間通じて手堅い需要が望めるということだが、(結婚)式場よりも葬祭が前面に出ており、こちらは誠実すぎるほど誠実。
「しっかりとした研修があるので未経験者も安心」とも(←まちがいがあっては困る)。

ビールを片手に熟読?していると、「どこに決めた?」と周囲から揶揄。
「フラワー・コーディネーター!」というと、え゛っ~!
何か、場違いなこと、言いましたか?

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らじゃ

2010-7-5

某月某日、学内某所より問い合わせ。あの話題 はどういうことかとご下問あり。
「盛唐はバツ」という話題か「文化財保存の理念」なのかと問うと、前者だという。とうとうクレームがキタ―(゚∀゚)― !!と恐れつつ、決して間違ってはいないと思うので、「ですから・・・」と丁寧に理由、事情を説明。
「よくわかりました」と仰られ、ひとまず安堵、安堵・・・。ふぅ~。

「それで、今の話を東京でしてもらえませんか?」「はぁ?」
・・・というわけで、関西大学東京センターで話をすることに。
その頃には、東京・三井記念美術館で「奈良の古寺と仏像展 會津八一のうたにのせて」(新潟で開催前にトラブった展覧会、秋には奈良でも)が始まった頃。
決して「アンチ 平城遷都1300年記念」ではないので、三井記念美術館の展示作品にも触れながら資料を準備。せっかく目と鼻の先に来ている奈良の仏像を話題にしないわけにはいかない・・・。

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福井・西塚古墳(1)

2010-7-6

福井でちょっと面白い(部外)資料を見つけた。

大正5年9月8日、福井県遠敷郡瓜生村で国鉄小浜線建設のため盛土用土砂を採取したところ、「石槨」や遺物が出て古墳とわかり、土砂採取は中止、折しも当地に来ていた宮内省御用掛課長が視察、「高貴族方の古墳」との旨にて大切に保存するように指示。

ところが県・警察・郡役所・村の代表者が立ち会いのもと、同年10月11・12日に“発掘調査”。初日は8:00~日没、徹夜の守衛を経て、翌日は5:00~18:00まで。出土遺物は銅鏡、甲・冑をはじめ22件。翌日、瓜生小学校にて村民に遺物見学会をひらき、その後は小浜警察署で保管。

出土遺物はその後、宮内省諸陵寮に渡ったようで大正6年5月18日付の「諸陵寮ヨリノ受領書」が残る。翌年6月14日に宮内省から通達があり、「再三の伺出」があったが、先に「皇別ナル若狭国造ノ祖ノ墳墓ニ関係有之モノ」と認めて保存を希望したにも関わらず、「昨年」既に発掘したとの報告を受けるとは何事だと強い抗議。残った後円部と前方部の一部はこのまま現状保存するように再び指示。

なにゆえ地元は宮内省の指示を無視してまで発掘を強行したのだろうか。
福井県上中町(現若狭町)にある西塚古墳(脇袋古墳群)での出来事。 永原から若狭行のJRバスからも見える・・・。

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福井・西塚古墳(2)

2010-7-7

遊び(?)呆けているので、危うく「召還命令」(?)が下るところだった。あぶない、あぶない・・・。

西塚古墳の続き。
地元では宮内省の受領書を受けた直後に、発掘担当者(師範学校教諭)が福井新聞に西塚古墳出土品の成果報告を掲載。(大正6年5月24日付)。
その後も動向があった(「再三の届出」)ようだが、本格的に動くのは昭和7年。地元では瓜生村長を会長とした「皇陵刊行会」(翌年、「起陵同盟会」と変更)や「済美会」(学習会)を組織し、在野での古墳(陵墓)研究の大家である尾上金城氏や京都大学教授濱田耕作氏を招いて宮内省への請願書の形式や西塚古墳の境界確定のための測量について助言を受け、翌年1月23日には県庁経由で宮内大臣一木喜徳郎あてに西塚古墳の調書と請願書を提出している。

一件綴り書類には「磐鹿六雁命御墳墓確認并請願書」とあり、これまでの運動が、西塚古墳を景行天皇の侍臣である磐鹿六雁命の墳墓として認め、宮内省での調査確認のうえ陵墓として「然るべく御指定」にする運動であったことがわかる。
かくして昭和10年に宮内省の「陵墓」ではなく、文部省の「史蹟」(史蹟名勝天然紀念物保存法)に指定され、今日では雄略天皇が任那王に任じた「膳臣斑鳩」の墓ではないかとされている。

戦前の行政発掘や「起陵運動」、史蹟指定など、当時古墳を巡る具体的動向がうかがえる貴重な資料で、以上の件も『若狭上中町の文化財』(上中町教委/1975.6)に拠ったが、掲載されているのは抄報で、添えられた写真だけでも帳簿5冊が確認できるものの、その詳細はあきらかでない。
現在、陵墓公開を巡る運動が盛んながら、こうした戦前の“生”資料は、そうした運動にとってまずいものなのだろうかとも疑問に思うが、誰か論文にでもしているのだろう、きっと。

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安中新田会所跡 旧植田家住宅

2010-7-8

JR八尾駅そばの旧植田家住宅へ。
1704年に大和川が付け替えられ、旧川床に多くの新田が開発。とはいえ、砂地(旧川床)なので、もっぱら綿作がメイン。
植田家住宅は新田支配人植田家の住居兼新田会所(管理棟)。おそらくここの土間や座敷でも「今年の年貢はどうする?」などと会合がもたれたのだろう。
(そばの平野では綿を売った売上げで米を買い、それを年貢として提出)

表門と右脇の土蔵と奥の主屋などが、植田家伝来の什物とともに展示公開。2Fには「おばあちゃんの部屋」も。中国・明末清初の呉須手や南京赤絵(いわゆるスワトウ・ウェア)も所蔵。ダイドコにはタイ産四耳壺もごろりと。
奥には小さいながらも作品空調の出来る展示室があり、常設展(基本展示)と企画展が開催。常設展といえども2ヶ月スパンで展示替え。現在は「河内名所図会にみる八尾」(~7/12)。
メインは正徳元年(1711)の「安中新田分間絵図」(1.5×6.5m)。「分間図」とは、1間(1.8m)を1分(3mm)で表した1/600の地図。
展示のほかにも様々な催しが行われており地域に密着したミュージアムである。旧大和川流域の住民は川址の恩恵もあり、とりわけ愛着が深い。大和川付け替えの立役者「中甚兵衛」は小学生でも知っている偉人。柏原や平野・東大阪と資料を融通しあえばよい企画もと皮算用。
小さく設置して大きく育むというのも今後の方向かもしれないと思ったり。ちょっといい気分。

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東京の展覧会

2010-7-9

再び東京駅。4月以来頻繁に東京駅ホームに立っている有様。

台東区根岸の世尊寺へ。ここに神田宗庭要信が描いた六地蔵図を線刻した「福智六地蔵菩薩石塔」があるという。半信半疑ながらも見ると「神田宗庭藤原要信」の落款・印章までが線刻。石塔背面にまわると「東叡山」の文字もあり、なるほどと思う。

その後、久しぶりに出光美術館「屏風の世界」展へ。美術館内部はリニューアルしたが、1Fエレベーターの“螺鈿 扇面散し扉”は昔のまま。

屏風の多くは左・右隻の一双ながら、画面端に松樹や竹がなく、落款・印章もない作品を展示する際に、左・右どちらに置くべきか迷うことがある。狩野探幽による「土佐光信筆」の極め書きがある《四季花木図屏風》は左右どちらでもOKな構図で、展示では極め書きが中央に寄っている。つまり片隻ずつ向い合せに立てて、鑑賞者は屏風の間に座すということか。向かい合わせた屏風の間に座す場合、中央・両端ではそれぞれに見え方が違う。光琳筆「燕子花図屏風」鑑賞パターンと理解。
そこで、今日は屏風を正面から見た後、左右の端から斜めに眺めることもしてみた。

《西湖図屏風》。雪舟筆「山水長巻」に出てくるような岩穴や人物、水平線が強調された画面から、雲谷派か秋月等観の作品と思ったが、狩野元信75歳の落款。絵画のほうは(も)、まだまだ素人と納得。これは展示の場所がら「斜め見」は難しいので、スロープに腰掛けて全体を拝見・・・。
伝俵屋宗雪《業平東下り図屏風》での「斜め見」は感動もの。
右斜めからは、業平一行と遠くに聳え立つ富士山が遠近感を伴って生き生きと描かれ、左斜めから見れば、遅れてついてくる最後尾の傘持ちに覆い被さるような富士山の姿。もちろん《南蛮屏風》や伝岩佐又兵衛《蟻通・貨狄造船図》の「蟻通」も斜め見すると驚くほどの立体視。

とはいえ、大画面形式を獲得しただけで、屏風の“特性”を活かしていない屏風もある。
展示では池大雅《十二ヶ月離合山水図屏風》を評価していたが、偶数扇、奇数扇を見ると、確かに「離合山水」ながらも遠近感はなく、各扇で高岳を描いたために、でこぼこした画面構成でイマイチに思う。それよりも与謝蕪村《山水図屏風》のほうが斜め見の完成度は高い。

その後、陶磁器展示室で“絞り手”とよばれるベトナム陶磁器やエジプト・フスタート、中国や朝鮮の陶片をじっくり。くわえて板谷波山の陶片も。

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東京の仏像

2010-7-10

朝より三井記念美術館へ。
開館間もない時間にも関わらずかなりの入館者。展示(美術館)は三井本館7Fで開催ながら、1Fでは飛鳥園主催で「仏像写真家・小川晴暘没後50周年記念写真展〈祈りのかたち〉」、隣の三越1Fでは「入江泰吉写真展-奈良・大和路巡礼の旅-」が同時開催。館・民あげての仏像展である。

実は朝からたいへん緊張。日本の仏像に一番親しんでいるのは、関東とりわけ首都圏の人たちではないかと確信めいた思い。こうして朝から仏像展を見に来る、東博本館では名品が展示され、法隆寺宝物館で金銅仏がこれでもかと並び、東京駅構内には「鑑真和上像」のポスターが貼られ、いやがおうにも仏像に触れる機会(見る人々)は関西より多く、仏像鑑賞レベルはかなり高い。三井記念美術館の土曜講座(有料・7月下旬~9月上旬)も既に全てsold out。今週水曜日に開幕したばかりなのに。そうした仏像への関心が高い「東京」の地で、午後から初めて話をする・・・。
スライドに採用した作品を中心にじっくり見ていると、はや約束の時間。

JR東京駅日本橋口を出るとすぐさまサピアタワーに直結し、9Fに関西大学 東京センターがある。
センター長・職員氏と挨拶、話をするうちに、時間の都合で割愛した「余談」(←いつも多い)を急遽採用することに。
午後より講莚。受講の方は100名ほど。90分間、話をしながらも緊張しており、いつもの“迷”調子は出ずじまいながら、終了後、寝る人も咳き込む人もおらず、(内容も含めて)好評だったとの由。喫煙コーナーで受講された方とのひと時のオフ会も。ひとまずは安堵。

疲れていたとみえ、講座後、根津美術館へ向うもなぜか辿り着かず、迷子の果てにやむなく帰阪。
「青山荘清賞」ということで「青山一丁目」で下車するという混迷ぶり。

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奈良に奈良なし

2010-7-11

投票を済ませた後、三井記念美術館で買った図録を見る。
奈良(奈良県立美術館)では何が出品されるか・・・。個別解説に展示会場が記号で記されており、とりあえず、先行して出品リストを作成。
拓本・古瓦・會津八一・・・。半数は會津八一資料である。仏像は伊賀上野・見徳寺薬師如来坐像と法隆寺・六観音像とのセットにあった根津美術館蔵観音菩薩立像の2躯のみ。うーん。
いくら横に奈良国立博物館「仏像館」があるといえ・・・。
仏像の出品は三井記念美術館がほぼ最後。

仏教美術の宝庫である奈良国立博物館の目と鼻の先で仏教美術展を企画するには、少々コツがいると思うのだが、まともに対峙せんとして不戦敗になったのだろう、たぶん。

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蓮笠

2010-7-12

梅雨本番。降ったり止んだりの1日。
そろそろ蓮が咲く頃でもある。おすすめは唐招提寺 戒壇横・・・。

「熊野観心十界図」には、蓮の葉をかぶった男女が描かれている。施餓鬼の祭壇に向かいつつあるので、餓鬼(亡者)であるとわかるのだが、なぜ蓮の葉をかぶっているのだろうか。
既に室町時代の六道珍皇寺本「熊野観心十界図」に見られる図像ながら根拠がよくわからない。生死を賭した千日回峰行の行者が被る笠も未敷蓮華笠と称される。ニューヨーク・バークコレクションの狩野探幽「笛吹地蔵図」も蓮の葉を頭に被っている。
十王図や餓鬼草紙にもみられないので、中世以降に成立した餓鬼(亡者)の図像であることは確かなのだが、必ずしも男女一組では描かれない(六道珍皇寺本では単身、立山曼陀羅では4~6人)ので夫婦とは限らず、(生前の)何らかの身分、職種を示しているのかもしれない。

絵を読み解くのは、殊のほか難しいと実感。

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放光寺・大善寺

2010-7-13

山梨・放光寺へ。雨空で湿度急上昇。
山門には奈良仏師 成朝作の金剛力士像。寺の記録では、「南京彫工浄朝」と記されている。成朝は、康朝(康慶の親方)の子息。
成朝は文治元年(1185)に鎌倉幕府の招きで関東へ下向、頼朝発願の勝長寿院本尊阿弥陀如来像や永福寺丈六阿弥陀如来像の制作にあたっている。
放光寺(法光寺)は元暦元年(1184)安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創建され、創建当初の仏像として、大日如来像、天弓愛染明王像、不動明王立像が残る。大日如来像や愛染明王像は円派仏師の作品という。不動明王像も作風を若干違えるが、京都仏師の作品とみるべきか。三尊とも、高野山にでもありそうな都ぶりの作風。

大日如来像・愛染明王像と金剛力士像、数年の間に京都仏師から奈良仏師に交替したのは、どのような理由があったのだろうか。建久4年(1193)、永福寺薬師堂の落慶供養に際して、義定の息子義資は梶原景時の讒言によって殺され、翌年義定も自害。仏像からみても、なんとなく予感できそうな展開・・・。

「勝沼ぶどう郷」駅を挟んで南側に大善寺。
檜皮葺きの本堂(薬師堂)は弘安3年(1286)の建立で、関東最古の建造物。薬師三尊像は秘仏(「甲斐の仏像」展に既出品)、鎌倉時代の日光・月光菩薩像は、美術院で修理中との由。

堂内で嘉禄3年(1227)から安貞2年(1228)にかけて大仏師蓮慶によって制作された十二神将像をゆっくりと拝見。もうこの時期には、快慶も亡くなっている・・・。
群像ながら作風にかなりの精粗。蓮慶は隣の笛吹市・福光園寺吉祥天像(寛喜3年・1231)も制作している。
ふと思い出したのが、先ほどの放光寺住職の話。
義定が成朝を甲州に招き、放光寺から1kほど離れた仏師原(武士原)に工房を構え金剛力士像を作って安置した・・・。慶派工房甲斐出張所ということか。いろいろ考えれば考えるほどに興味深い仮説で、とても一笑に付すことなどできない。

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甲斐・善光寺

2010-7-14

県立図書館で資料調査の後、甲斐・善光寺へ。

信濃善光寺が川中島の戦いで戦火を受け、武田信玄が什宝、僧侶一切を甲府へ疎開したのが甲斐・善光寺とされる(逆に上杉謙信が疎開させたとするのは新潟・十念寺)。
秀吉の方広寺大仏(完成まじか)が慶長元年(1596)の「慶長の大地震」で崩壊し、代わって善光寺本尊を京都へ持ってきて安置したが、「徴発」元はここ。
ただし、秀吉の夢告で返還された(翌日に秀吉没)が、返還先は信濃・善光寺。そこで前立像(147.2cm 建久6年(1195)に尾張・熱田の僧定尊が造立)を本尊とした。

堂内に入ると信濃善光寺と同様に戒壇巡り。そこに至るまで幾つかの仏像が安置される。江戸仏師高橋政信や京都仏師清水定運も。ただ月蓋長者夫妻像(月蓋長者と愛娘如意姫と思うのだが)は、寛政6年(1794)大坂仏師の藤村隆水。なぜ、甲府に大坂仏師の作品がと思う・・・。

宝物館には12世紀前半の阿弥陀三尊像(旧千塚村光増寺像)や源頼朝坐像。源頼朝像は信濃・善光寺からの伝来。そのほか地蔵十王図(李朝・万暦17年(1589))も。

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朝鮮古陶磁の神様

2010-7-14

甲府にもどり中央線(普通)に乗って長坂駅へ。車窓右手には、八ヶ岳が見えるはずだが、厚い雲に隠れて全く見えず。
長坂から「北杜市民バス」清里行に乗り高根総合支所で下車し、「浅川伯教・巧兄弟資料館」へ。高根町は浅川兄弟の生誕地で、いわば「朝鮮古陶磁」の“聖地巡礼”である。

兄 浅川伯教(のりたか・1884~1964)は、師範学校卒業後、小学校訓導を経て彫刻家新海竹太郎に入門、結婚直後の1913年に朝鮮へ渡る。既に学生の頃、小宮山清三(後に柳宗悦に木喰仏を紹介)宅で高麗青磁など朝鮮美術の魅力に惹かれていた伯教はソウル・李王家博物館へ通ったが、ある時、骨董屋で李朝白磁の壺を見つけて心を奪われ、以後、安価であった李朝白磁を収集する。伯教が見出した代表作品は、「青花辰砂蓮花文壷」(現 大阪市立東洋陶磁美術館蔵)。
翌年、彫刻家を目指すため日本にもどり、ロダンの彫刻を見せてほしいと「染付秋草文面取壺」を手土産に柳宗悦に訪ねる。その後帝展入選を果たすも後は落選が続き、再び朝鮮古陶磁の研究へ。
1921年に柳宗悦、巧とともに「朝鮮民族美術館」設立を企画し、翌年再び朝鮮へ渡り、朝鮮半島に広がる700以上の窯跡調査を行い朝鮮古陶磁の変遷をまとめる。この時、通訳兼案内人となったのは池順鐸。二人の窯跡調査のジオラマがしぶい・・・。

巧(1891~1931)は、県立農林学校を卒業後、秋田・大館営林署に勤務。1914年、兄をしたって朝鮮半島に渡り、朝鮮総督府農商工務部山林課へ。
パジ・チョゴリを着、朝鮮の人々が日常で使う雑器や工芸品をそのまま取り入れた生活をし、独学で言葉を学び、朝鮮の国と文化と人をまるごと理解しようとした。1916年に巧宅を訪れた柳宗悦も驚き。
1922年 ソウル郊外に林業試験場が設置されると、巧は「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発し、長年の陶磁器生産などで荒廃した山の植林・緑化につとめる。兄弟ともども山に分け入る生活。

朝鮮の人々に愛された巧は急性肺炎で40歳の若さで亡くなる。パジ・チョゴリをまとった巧の葬儀は朝鮮式の葬儀で執り行われ、巧を知る村人30人から棺の担ぎ手の申し出があり、村長が10人を選んだという。まさに巧は「朝鮮の土」となった。

はるばる来てよかった・・・。
なお京都・高麗美術館で「浅川伯教・巧が愛した朝鮮美術」が8/15まで開催中。

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神仏分離

2010-7-15

信濃国一之宮 諏訪大社本宮へ。
諏訪大社は、上社(本宮・前宮)と下社(春宮・秋宮)の四社。この春話題となった御柱祭も各社4本、計16本。本宮の四隅にも真新しい木がそびえ立つ。

仏教では肉食厳禁ながら、神道は肉食OK。熨斗鮑をはじめ海の幸、山の幸が供えられる。奈良・春日大社「春日若宮おん祭」でも大宿所には鯛、鮭、雉の「懸鳥」がズラリとならぶ。
殺生は罪悪と思いつつも生きるためには止むを得ないと、諏訪大社の「鹿喰免(かじきめん)」の御札(免罪符)と鹿喰箸(かじきばし)が今でも頒布中。
仏教と神道との板ばさみの食生活。

参拝後、すぐそばの諏訪市博物館へ。入口前には「足湯」(上諏訪駅構内にもあった)。
「世界のチョウ展」はパスして、2Fへ。江戸期の諏訪上社(本宮)境内模型と延慶元年(1308)銘の塔伏鉢残片や風鐸、それに塔本尊の五智如来像(現万福寺蔵)が安置。四方四仏像は寛永年間頃の、大日如来は寛政年間頃の作。「再興」は大日如来像が主だったか。他にも多くの神宮寺の仏像が諏訪湖周辺の寺院に散在。
その後、来た道を引き返して下社秋宮・春宮へ。
秋宮社殿は工事中。下社のうち、神宮寺があったのは秋宮。仁王門、千手堂、護摩堂もあったが、神仏分離で田畑に変わり、仏像も各所に引き取られて現存。

春宮と秋宮は同じ規模・プランで、細部彫刻(彫刻師・宮彫師)のみが異なる。春宮は大隈流の柴宮長左衛門、秋宮は諏訪立川流 立川和四郎富棟による彫刻。
明治になると、石川光明や佐藤朝山ら宮彫師の一部も近代彫刻誕生に一役買って出ることになる。
春宮の彫刻を見ていると、明治維新までまだ90年近く(春宮は安永9年(1780)作、秋宮は翌年)もあるが、「置物彫刻」への距離はずいぶんと短いようにも。

その後、2時間かけて長野へ。

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石仏の国

2010-7-16

朝より長野図書館へ。

長野県は広い。旧国でも「信濃」一国とし、「長野」「佐久」「諏訪」「松本」「木曽」「伊那」と分かれそうだが、文化的、地理的関係はあまり知らない。「信州新町」と聞くと、長野駅前か松本駅前あたりの地名に思えるが、実はかなり山深いところに所在する・・・。
予想以上に資料が多く、終日「郷土資料」の棚を行ったり来たり。

松本市洞光寺にある「真言八祖画像」〔応永13年(1406)銘〕は、もと「泉州万代宝性院」に安置された作品。元和7年に河内観心寺槙本坊照秀が求め いつしかへ信州へ来た作品、などとメモ。
また「道祖神」盛んな土地がら、圧倒されるほどの石造物関係の資料も。各市町村ごとに「○○町の石造物報告書」が既に刊行済(ほとんど見なかったが・・・)。
写真は昨日見た、岡本太郎大絶賛の「万治の石仏」。向って左側側面に「万治三年(1660)」の銘。タローちゃん好みの石仏らしく、後は巨岩のままである。

日中は猛暑ながら夕刻から落雷激しく、時折、ゲリラ雨。
梅雨明けまじか。

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信濃・善光寺

2010-7-17

朝から猛暑。信濃・善光寺へ。
周知のように善光寺は天台宗大勧進と浄土宗大本願からなる。仁王門には金剛力士像のほか、背面に青面金剛(三宝荒神)像と三面大黒天像。高村光雲・米原雲海の作。
山門は特別拝観。楼閣上には、中央に騎獅文殊像と四天王像。いずれも山門創建(寛延3年・1750)の頃の作品。弘法大師坐像や十一面観音立像、長押の上には四国88ヶ所本尊像も。いずれも江戸時代。

本堂へ。堂内には閻魔王・十王像や弥勒菩薩とされる如来像や地蔵菩薩半跏像が安置。二十五菩薩には比丘像も付属。
これら諸像の詳細は不明。往々にしてあることだが、善光寺関係の書籍でも「一光三尊像」のみ触れられ、あとはパス・・・。
本尊は本田善光・弥生・善佐像の左側にある瑠璃壇内。片寄った本尊(内陣)の配置は神社本殿の内部を思わせ、初期仏像受容のあり方を妄想。
さくっと戒壇巡りを済ませ、善光寺史料館。平安から近代(羅漢)に至る仏像が展示。あと、チベット砂曼荼羅、ダライラマ関係や仁王像雛形(高村光雲)も。あれこれ見ながら思うのは、ここは仏像のストック・ヤードであるとの思い。
善光寺(本山)と何らかの関係が出来て末寺が創建された時、ここに展示してある仏像は本山から「下賜された」尊い仏像として末寺に安置される。さすがに仁王像雛形は無理としても、次の出番を待っている仏像にも見える。逆にみれば、本山は常に仏像・仏画を備蓄(準備)していないと本山の沽券に関わるのではないかとも。「善光寺仏師」も本来の職務はそういうストックを制作していたのかもしれない。

続いて大勧進宝物館へ。鉄パイプ製の手摺りによって順路が決定、ぺこぺこガラスの陳列ケース。何年も変化なさそうな展示品。こういう宝物館(陳列館)はむしろ興味津々。ここにも輪王寺宮参拝の折の仏画が2点ほど。やっぱり・・・。

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北斎のエンジェル

2010-7-17

善光寺を後にし、小布施「北斎館」へ。小布施は観光地・・・。

「夏の風物詩・秋の風物詩」展。《西瓜と包丁》や《菊》、扇面を縦に使った《秋草》など新鮮。
収蔵庫内の周囲をガラス貼りにした「屋台展示室」には「東町祭屋台」と「上町祭屋台」が展示。東町屋台の天井絵は北斎 85歳(天保15年)の「龍」と「鳳凰」、上町屋台の天井絵(弘化2~3年)は「男浪図」「女浪図」が描かれる。
共に縁取りは北斎の下絵に基づいて地元の豪商兼画家、文人として名高い高井鴻山が描いたもの。そこに植物や鳳凰に混じって天使の姿も描きこまれている。

切支丹禁令下で、よもやと目を凝らすも「森永のエンゼル」を小さく丸めたような有翼天使。これを違うモノに見るほうが難しい。以前、浮世絵の授業で似たようなことを指摘したのもまんざらでなかった・・・。

絵葉書の写真は小さく、大型ポスターはピントが甘く、仕方ないので「大型ハンカチ」を購入。これからの授業はこれを持って「大風呂敷」を広げる・・・わけにはいかないが、面白い素材(教材)。

夕刻、長野に戻り帰阪の途。

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続 奈良に奈良なし

2010-7-18

ようやく梅雨明け。 この話題 の続き。
奈良国立博物館本館が、「なら仏像館」として21日からオープン。国宝10件、重要文化財120件を含む500件の仏教美術品が保管されているとの由。この門前で、如何に仏教美術・彫刻展を開催するのか・・・。

もったいぶるほどのことではなく、奈良国立博物館が扱わない仏教美術を扱えばよいだけである。鎌倉時代以降の彫刻や摺仏などの仏教版画、室町時代以降の絵巻物など、いくらでも県内に散在している。これまでも県立美術館では「森川杜園」や「曽我直庵・二直庵の絵画」「大和の近世美術」など開催しており、最近でも「志水文庫の仏教版画」も通好みの展示として好評だった。
いわば美術全集や概説書には載らない「通好みの展示」(仏教美術:上級者向け)を目指せばそう難しくはないと思うのだが。よもや、未だに「奈良・京都に行って目を洗って出直して来い」などとは思ってもいないだろう。こういう言い方は好きではないが、最近もマニー・ヒックマンが「画僧明譽古磵(1613~1717)の概要」を発表しており、奈良博でも「宿院仏師」が既に開催済。

奈良県は中央でありながら一地方でもある。興福寺・阿修羅像や新薬師寺の仏像、正倉院宝物などに飽きたマニア向けの展示企画をすれば、地元のみならず新たな仏教美術史の地平も開かれ、その評価も決して低くはないはず・・・。
奈良が日本の奈良であることを意識せず「奈良地方」と見れば、作品も多く、『大乗院寺社雑事記』や『多聞院日記』もあって、展示ネタの宝庫のようにみえるのだが。

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なにか質問はありませんか?

2010-7-19

不在中、今年も家人が高校PTAの大学見学会に参加してきた。見学先は京都衣笠のR大学と某国立大学。

「R大学の学校案内の学生が言うてた。関大は近畿の学生が多いが、R大学は全国から集まるんだって」とのご報告。
よう、考えてみぃ。この辺から朝9時までに大学の教室に着こうと思えば、何時に家を出ないとアカンと思う?しかも京都市バスでラッシュの京都市内に突入しないと大学に着かへん。「京都で下宿した~い!」と言われても反論できへん。近畿以外の人なら大阪で下宿させようが京都で下宿させようが大差はないけど、関西に住んでいながら京都に下宿させるのは勇気(資金)がいると思うけど・・・。
そうか、となお不満足な家人に「一度、雨の日に朝9時までに堂本美術館へ着くように行ってみたらよろし。これが毎日続くと思えば・・・」と、思わずネガティブ・キャンペーン。

他方の国立大学。三桁の億単位のレーザー装置を見せられ、「ディズニーランドのアトラクション」や「シミなどの美肌対策」の話と思っていたらしい。そんなアホな・・・。
案内の先生曰く「レーザー光をミリメートルサイズの球殻燃料ペレットに照射、高圧プラズマによって爆縮が発生し、固体密度における超高密度状態は・・・」と。参加者はみな次第に「白川夜船」。

「・・・と言うことになります。最後に、何かご質問はありませんか?」と、語り切った満足げな先生に対して会場内、思わず爆笑。怪訝な表情の先生。
「何で世界1位でないとダメなんですか?」と聞いた国会議員もいたが、ハッタリでもいいから「この実験が成功すると、“シミが消えます”とか“電気代が10分の1になります”とか、もう少し一般向けに話をアレンジできないものだろうか。
「あんな感じで授業するんやろね。」と家人。そうか、そういうウケ狙いもありか・・・とは、こちら。
大丈夫か?科学立国 ニッポン。

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蜂須賀家の憂鬱

2010-7-20

「これって、隠れキリシタン資料ですよね?」と見せられる十字模様の入った資料。
歴史系博物館に勤めると、必ず一度は経験するであろう問合せ。笑顔で対応しながらも心のなかでは、「あなたが分かるような資料では、既に“隠れ”キリシタン資料ではない!」とか「薩摩藩の資料は、全てキリシタン資料で、薩摩は「隠れバテレン」の国なのか!」と思いつつ、新発見者を夢見る来訪者を前に四苦八苦・・・。

ところが現実問題として、仏教の共通文様として「卍」が知られる。阿波徳島藩主 蜂須賀家の家紋も丸に卍紋。国際交流盛んな中、蜂須賀家の家紋入り資料は、ナチスの「ハーケンクロイツ」を連想させるため、あまり海外に出品されない。かつて「阿波踊り」の浴衣着も自主規制されたほど。

欧米にちゃんと説明したらと思いながらも、洋の東西に限らず、無知ゆえに勝手な妄想をする人たちがいる。徳島・鳴門には第一次大戦の時にドイツ俘虜を収容した板東俘虜収容所もあって、ドイツとは友好ムードが高い。にもかかわらず、蜂須賀家の家紋、仏教の「卍」すら説明できないとは、逆に無知を広める結果に繋がるのではないかと危惧。

文化共生とは相手が嫌がることを避けるのではなく、根拠なきデマを矯正する作業と思うのだが。

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迷走

2010-7-22

色々と鬱陶しいこと多し。

とある地方にあるほぼ未公刊の史料(挿絵入りの大福帳ぽい)。これをなんとかせぃということに。
最初の打合せでは、「翻刻」という話。となれば、判読できるだけの写真を撮影してデータを持って帰って翻刻作業に取り掛かるという方向。(挿絵は別撮影)。
ところが、今日の打合せで「影印本」ということに。そういう話では素人写真では対応できない。
あぁ、まただと思いつつ拝聴していると、黙っておればよいのに、某氏が「業者(カメラマン)に撮影委託すれば・・・」と。いや、アンタには“前科”があるだろうと。
「ちゃんとした資料に予算は必要・・・」という言葉に騙されて撮影委託したものの、結局金がないということで支払いが出来ず、身銭を切った(私費で委託料を支払った)某先生もいる。

100頁程の大福帳が約30冊。撮影委託はほぼ絶望的。皆、最初から無理だと分かっていながら、出来もしないことをのたまうだけで、はや身を引く算段をする者も。いったい、最後は誰が尻拭いをするのかと思う。

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ゲーセン

2010-7-22

猛暑が続き、大いに弱る・・・。

実家そばにレトロなゲーム機ばかり置いてある(2F)ゲーセンがある。フランスから取材やツアーが組まれるほど、その筋では有名らしい。
今年1月末から「しばらく休業します」の貼紙があり、春になっても夏になっても貼紙はそのままで、なかなか更地にならないともいぶかりながらも、閉店かと思っていた。
今日、その前を通ると貼紙が外され、1Fだけは再開した模様。なんとなく安堵。

関大前通りにもゲーセンがひとつ(?)。それもネットカフェと併存状態。
いまやゲームは自宅でするというのが一般的で、ゲーセン自体も巨大化しており、大学前とかで営むのはなかなか厳しい状況と察する。
雀荘やゲーセンや喫茶店がなくなる一方で、新たな飲食店も進出。学生相手だと半年は開店休業状態となるのがネックである。

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レッドカーペット

2010-7-26


とある相談にて。

デジタル写真のコピーをみながら「写真は全部使えません!」と。
はぁ?という表情とともに相手方が次第に不機嫌になっていくのがわかる。
「重要な資料であるのはわかるが、なぜバック(紙)が赤色?、これもバックが青。白とか薄いグレーでもあるはずでしょう。モノ自体の色がおかしくなるのがわかりませんか。緑や青っぽい資料に(バック紙が)紺色ではおかしいとは思いませんか?

とある業界での写真。「わかりました。」と不服そうに帰らはりましたが、何考えてんねんと思う。
仏像や工芸品の写真ではありえない感覚。「それは“美術”の世界ですから・・・」と反論していたが、どっちも「文化財」やないか。
ちょっと気弱になって、手元にある出版物をみると、センス(というよりも常識)がある機関の写真のバックは薄いグレーか白バック。レッドカーペットの前にモノ置いて、何が言いたいねんと再び沸騰。
写真は陝西省博物館での展示。馬の腹が赤く変っているのがわかるハズ。

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貧しい

2010-7-28

某県立図書館にて。

資料を目指して、「郷土資料」室の書籍を片っ端から眺めたのだが、既に知っている資料が3つほど確認できただけで、結果としては重要文化財はそれなりにあるものの「スカ(ハズレ)」・・・。
目指す棚は「県史・市町村史」「仏教」「文化財」「彫刻」の分類、時には「調査報告書」も。4~5連からなる棚を上から下、左から右へと、“舐める”ように次々と見たのだが・・・惨敗。

指定作品も昭和40年代は新しいほどで、大正や明治年間に指定された「旧国宝指定」がおらが町の“宝”となっている(さすがに写真は戦後になって撮影(しかもピンボケ))。

脅すわけではないが、これらの書籍に写真掲載されている以外の仏像は盗難に遭っても何時なのか、どのような大きさか、ひょっとするとなんの像なのかすら分からない。肝心の『町史・村史』では、「民俗:信仰」の項目で、「○○さんと呼ばれて親しまれている像が置かれている」としか記されておらず、もちろんスナップ写真すらない。歴代議長や三役は正装姿で大きく掲載され、時には数章を割いて在任中の自慢話すら掲載されているにも拘らず・・・。
3分冊で「考古」「中世・近世・近代」(中・近世は総頁の10分の1)「町の現在」というようなモノもザラにある。県外者からみれば、土器の消滅が町・村の滅亡となったように思えるほど、地域の歴史が貧困すぎる。(確認すると市町村合併で予想通り、町・村は消滅していたが。)

午後から多くの人が郷土資料室に来て「ゼンリンの住宅地図」をコピーして帰るのをみると、なるほど「郷土歴史同好会」の会報(俳句・川柳・挿絵有)がこれみよがしに配架されているのも無理はないかと、思ってしまうほどに。

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きらぎらし

2010-7-29

『日本書紀』では、欽明天皇13年(544)冬10月に百済・聖明王から金銅釈迦如来像とその荘厳・経論がもたらされた時、「西蕃献仏相貌端厳 全未曾有 可礼以不」(西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)る仏(ほとけ)の相貌(かお)端厳(きらぎら)し、全(もは)ら未(いま)だ曾(かつ)て有(あら)ず、礼(うやま)ふべきや不(いな)や)と、記されている。

「顔、なげぇー!」とか「髪の毛、パンチ(パーマ)!」(←さすがにこれはないか)など、姿・形への驚きではなく、「端厳(きらぎら)し」という光り輝くことへの驚嘆であった。

いうまでもなく『日本書紀』は養老4年(720)に舎人親王らの撰によって完成。日本書記編さんのネタがあったとはいえ、あるいは“初仏像”に対する他のコメントがあったとしても、奈良時代のエリートが採用したのは、「端厳」という仕上げ(色彩)とも読み取れる。

これを舎人親王が生きていた奈良時代の仏像に当てはめると、「その極彩色に驚き、信心を深めたのではないか」ということも十分想像できると思うのですが、前段がすっぽりと抜け落ちて、どうやら周囲では「はぁ?やでぇ。」「意味分からん!」と散々な模様(ご丁寧にも連絡)。

もっとも初球は「奈良時代の極彩色が、以後、どうして無くなるのか?」という“危険球”。
即、退場やで。

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御殿

2010-7-30

某町を歩いていると、二条城の御殿を思わせる建物が出現。なんだあれは?寺院か?お寺にしては、ちょっとおかしい・・・。
興味津々で近づいてみると、柱や外壁はコンクリート製で新しい建物には違いないが不思議感いっぱい。実は図書館。
内部は広く快適な近代的設備。和本や漢籍が似合う図書館と思っていたら、大正解。色々と所蔵・・・。

こうした御殿風の和風建築にしたのは、それなりの由縁があるのだが、ちょっとビックリである。
雨が降ったり止んだりの蒸し暑い天気ながら、終日あれこれと。

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