書評 松田純著『遺伝子技術の進展と人間の未来』

 

            品川哲彦

『週刊読書人』2587号、2005年5月20日

 


 バイオテクノロジーは巨大なビジネス・チャンスであると同時に、一人の人間となりうる生命組織を道具に貶める技術にもなりかねない。経済か、倫理か。技術が開拓した新たな自由の享受か、人間の理念を侵さぬ自律の遵守か。高い失業率に悩みながら、ナチズムの経験を経て人間の尊厳を基本法第一条に掲げるドイツでは、この対立はとりわけ厳しい。著者松田氏はドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会答申の翻訳(『現代医療の法と倫理』知泉書館)を始め、これまでドイツの医療倫理学の紹介に努めてきた。二〇〇一年、シュレーダー首相は上記の審議会とは別に首相直属の国家倫理評議会を設置した。その底意にはバイオテクノロジー産業による雇用の増大があった。研究用クローンの可否が争点となる二〇〇四年に至るまでのドイツの動向を叙述したのが本書第一章である。その鍵概念である人間の尊厳を巡る論点は第二章に整理される。人間の尊厳という原理から個人の自己決定の尊重ばかりでなく、弱者としての人間の連帯を導く「現代医療の法と倫理」審議会答申の姿勢を、著者は評価し、ドイツの医療倫理学の特長とみている。第六章では独仏の事例を参照して、政治力学から独立に多様な意見を吸収できる「バランスのとれた常設倫理委員会」を日本にも設置する必要を説いている。第三章から第五章にかけては、ヒト胚の地位、遺伝子情報の取り扱い、能力を増進するための人体改造が論じられる。実質的な終章にあたる第七章では、著者は、遺伝子技術が人間と人間以外の動植物ともども対象とするようになった今、もっぱら人間の医療を論じる米国の生命倫理学とは異なり、個人と人間社会と自然界とを包括する「いのち」の倫理としてのドイツの生命環境倫理学を支持して、権利よりも義務を基盤に据え、人間相互の義務のうえに、自然に対する人間の義務を導くその構想を評価している。このように本書は一貫してドイツの動向を参照しつつ、バイオを巡る政治のルポルタージュ、最新の生命倫理問題の解説、著者が構築しようとしている倫理の展望など、複数の要素から成り立っている。著者自身が「暫定版」と断るように、本書は体系的な書物ではない。しかし、鋭い感覚と優れた語学力を備えた著者が二〇〇一年のドイツに居合わせた巡り合わせに読者の一人として感謝したい。


 いささか気になるのは、従来の日本の生命倫理学を米国流と性格づけ、ヨーロッパの議論をそれに対置する図式である。なるほど米国の議論の紹介は多かった。だが、問題を明確に裁断する功利主義的あるいは新自由主義的なその主張が日本で支持されているとはいえまい。他方、人間の尊厳という理念の出自は古くても、近代の自由主義はそれを支持し、強化してきた。つまり、独仏と米国の対立にみえるものは、自由主義の系譜のなかの対立でもあるわけだ。著者によれば、「人間の生死も自然という大いなる生命の懐に抱かれているという感覚をもつ」日本人にはドイツの議論はなじみやすい。だとしても、文化の相違に収斂しては、対立する主張や論点を一面的に理解してしまう恐れがある。著者の示唆する倫理に踏み出すには、人間以外の自然をも配慮する人間という人間観を特定の宗教や形而上学に訴えずにどのように根拠づけることができるかという問いに答えねばならない。価値多元社会において人間の尊厳を主張する最大の困難はまさにそこにあるだろう。


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