書評:越智貢・金井淑子・川本隆史・高橋久一郎・中岡成文・丸山徳次・水谷雅彦編『応用倫理学講義』岩波書店、二〇〇四年(継続中)
品川哲彦
『倫理学研究』35号、関西倫理学会、2005年4月20日、135-143頁
岩波書店から『応用倫理学講義』全七巻が刊行されつつある(I『生命』、U『環境』、V『情報』、W『経済』、X『性/愛』、Y『教育』、Z『問い』。以下引用する際には大文字のローマ数字で巻数、小文字のローマ数字およびアラビア数字で頁数を示す)。この書評を執筆している二〇〇四年十二月の段階では、T・U・X・Zが上梓されているにすぎない。この時点で書評を求めた編集委員会はいささか性急すぎるようだが、それだけこのシリーズは注目されているというわけだろう。本企画には本学会員三名が編者を務めている。本誌第33号などに先例のあるように、三名のうちの誰かが自著解題という形式で執筆してもよいのだが、三名とも現在、本誌の編集委員であり、編集委員自身は執筆しない慣習が本学会にはある。私自身もIの一章を担当しているけれども、企画そのものには関与していないので、編集委員会から執筆する資格ある者とみなされたのだろう。既刊部分にもとづいて企画について論評せよという意図とうけとめ、責めを塞ぐこととする。各巻の細部をとりあげる紙幅はないので、既刊の巻の編者が執筆した部分にしぼることにしたい。
一 企図と構成
応用倫理学と総称される分野の展開は三〇年余りの歴史をもつ。回顧と展望の時期にあるといってよい。Applied
Ethics: Critical Concepts in Philosophy, (eds. R. Chadwick and D.
Schroeder), Routledge, 2002はその先例で、『本性と展望』『医療、技術、生命科学における倫理的諸問題T』『同U』『環境』『ビジネスと経済』『政治』の六巻から成る。欧米の蓄積を広く収めた同書と標記の企画とを比較するのは当を逸したことかもしれない。だが、本企画もまた回顧と展望を意図している。「日本の応用倫理学は、欧米からの輸入の域を脱し、啓蒙を超える学としての対象領域の確定や方法論の吟味と立ち入った議論の必要性が、改めて求められる段階にさしかかっている」(I/Vvi、II/VIIv。各巻編者による執筆部分に先立つ「はじめに」の文言は全巻共通ではないので頁が異なる)。しかも、本企画は応用倫理学の既存の領域区分を踏襲せずに、「個別の問題領域を脱領域化することによって、応用倫理学の転換を図ろうとする狙い」(I/Vviii、II/VIIvi)を秘めているという。その意味から編者は『性/愛』『問い』を独立した巻とした意義を特記している(同)。
なるほど、前掲のチャドウィック編のシリーズでは、生殖技術関連を除けば、性差に言及した論文は『政治』の巻にわずかにみる程度である。また、The
Oxford Handbook of Practical Ethics, (ed. H. LaFollette), Oxford
University Press, 2003は、巻頭に「セクシュアリティ」「愛」「家族」の三論文を掲げているが、それらを「個人的生活」という章にまとめている。これに対して、本企画のVは「性/愛」を切り口として、近代社会の夫婦制度・家族制度が崩れつつあること、そうかといって、個々人の自己決定ですべてを処理するわけにはいかない事態を描き出している。公的生活と個人的生活とはくっきりと裁断できるものではないのだ。この問題意識は本企画の評価すべき点だろう。
他方、VIIは応用倫理学がどのようなものかを論じる巻で、実質、目新しい試みではない。しかし、それを「問い」と名づけたところに意味がある。というのも、そこには「問う者に向けて、課題と向かい合うその姿勢が常に問い返されている」(vii)という自己認識がこめられているからだ。なるほど、「倫理学研究に携わる者には、現場に立ち合い、その声に耳を傾け、そこから課題を抽き出してくる力と感性が求められている」(I/Vvii、II/VIIv)と宣言されているが、現在、日本で応用倫理学に携わっている倫理学者は、ひとによって程度の差はあれ、応用倫理学に携わる意義を模索している状態にある。どこが現場か、自分がどのような課題を抽き出すことができそうなのか、自分自身と他者に対して説明する責任を感じているといってよい。本企画の帯には「のっぴきならない問題を考える」とある。では、誰にとってのっぴきならないのか。私は以前、生命倫理学を「多様な分野の入会地」と呼んだことがある(「哲学や倫理学の研究者は生命倫理学において何をすべきか」、加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』世界思想社、一九九八年)。応用倫理学が扱う問題には一般のひとびとと多様な分野の研究者とが関わっている。倫理学者の占有地ではない。問題が発生している場にいるひとびとにとって、のっぴきならない問題なのだ。だから、丸山徳次が的確に指摘しているように(VII223)、応用倫理学の必要性と倫理学者がそこに招請されているということとは別である。しかしそのために、現在の日本では、倫理学者が応用倫理学に関わるときには、その問題がその倫理学者にとってのっぴきならない理由が――とくに哲学や倫理学の研究者仲間から――求められる傾向がある。(倫理学者からの厳しい視線の一例は、Zの大庭論稿の「“応用倫理”ブーム、とりわけそこに巻き込まれている若手の倫理学徒の現状には、目を覆いたくなるものがある」(VII80)というくだり。公平を期するためには、同じ倫理学徒が応用倫理学について書いた論文をそれ以外の論文と比較してそうなのか、それとも、そのひとの仕事はすべて目を覆いたくなる代物なのか、を調べないといけないだろうが)。考えてみれば、奇妙な話である。なぜ、応用倫理学についてはあらためてその理由を確認しなくてはならないのか。哲学や応用倫理学以外の倫理学では問わなくてすむのか(日本応用倫理学会を創設するときには、入会申込書に「あなたにとってのっぴきならない事柄」という欄を作るべきだろうか)。おそらくそのわけは、ひとつには、応用倫理学が扱う問題は社会制度や政策決定に深く関わっており、倫理学の研究者はそこでいかなる資格のもとにいかなる役割を果たせるのかという点に疑念があるからだろう。だが、もしこれが理由のすべてだとすると、哲学や応用倫理学以外の倫理学は社会的影響が乏しいから、当人にとってのっぴきならない事情でなくても、研究してもよいことになるのだろうか。それとも、哲学や応用倫理学以外の倫理学の研究者は、あらためて問うまでもなく、のっぴきならない問題ととりくんでいると信頼してよいのだろうか。だがいずれにしても、本企画の執筆者は、本人にとっての現場はどこなのかという問いを突きつけられ、それに答えようとしている。
「個別の問題領域を脱領域化することによって、応用倫理学の転換を図ろうとする狙い」に話を進めよう。応用倫理学における各個の領域がたがいにクロスオーバーしていることについては、たとえば、チャドウィック編のシリーズでも指摘されている。「論文を複数の巻に分類するのは簡単とはかぎらなかった。複数の見出しに関連する論文もあり、そのため、たとえば、中絶や遺伝学についての論文をそのセクションにおかず、特定の理論的アプローチを示すために用いた場合もある」(op.cit.,p.1)。とはいえ、欧米の応用倫理学の論文をみると、複数の領域にわたる著者はそれほど多くないようにみえる。専門家を表わす語尾istのついた”bioethicist”という呼称が示すように、ある研究者が応用倫理学の単一の領域に特化しているという場合もあるだろう。これに比べて、日本では、少なからぬ研究者が応用倫理学の複数の領域に目配りしている。本企画が掲げる「個別の問題領域を脱領域化することによって、応用倫理学の転換を図ろうとする狙い」は、欧米に先駆けた、しかも日本でこそ有利なものかもしれない(ただし、周知のように、ポッターの生命倫理学は環境倫理学でもあった)。とはいえ、ここにも日本の特殊事情があるように思う。ひとつには、問題領域が個別化されているという意識もまた日本特有なのではないかという疑問である。日本の応用倫理学を主導したひとりである加藤尚武は、生命倫理学については生命という基盤的価値が問われる根本的に新たな学として紹介し、環境倫理学については生命倫理学の近代的パラダイムと対極的な問い(自然の生存権、世代間倫理、地球全体主義)にとりくむ新たな学として描き出した。水谷雅彦は情報倫理学をすべての応用倫理学の基礎学として位置づけている。各領域の新しさ、射程の広さ、問いの深さを示すためにそのように性格づけたとはいえ、あまりに鮮やかな対比は領域の違いを必要以上に意識する傾向を生み出したとも考えられる。ちなみに、加藤については丸山(II3-5、34)、水谷については中岡(I4)が言及している。欧米と比べて日本が特殊かもしれないもうひとつの点は、応用倫理学にも、功利主義、義務倫理学、リベラリズム、共同体主義、ケアの倫理などさまざまな立場が関わっているのだが、日本の倫理学の研究者はたしかにそれぞれの身近な固有の立場をもっているものの、ひとつの立場に依拠して徹底した論戦を繰り広げることが少ないということだ。そういう意味で、個別の問題領域の脱領域化による応用倫理学の転換は、日本でこそ進捗しやすいと期待できる半面、対立点が厳しく明確化されず、結局、あいまいな融合に陥るおそれもある。
二 既刊各巻の編者執筆部分について
本企画は各巻ともに、「はじめに」とその巻の編者による導入部、ついで第一部として編者による「講義の七日間」を掲載している。以下、既刊の巻のその部分について、主として、執筆者が何を自分の《現場》と見定めているのか、応用倫理学をどのような営みとして把握しているのかに焦点をあてながら、順不同でコメントする。
丸山はUの導入部分で、まず、応用倫理学が生まれてきた背景(一九六〇年代アメリカの政治状況、倫理学界内部におけるメタ倫理学に対する不満)に言及し、応用倫理学の主要部門として生命倫理学、環境倫理学、ビジネス倫理学をあげる。そのうえでこれらが「科学技術の進歩に関わりながら(中略)〈生〉そのものにつきつけられた問題」(IIviii)だとまとめている。ここに丸山からみた応用倫理学を通底する問題の在処が窺われる。では、応用倫理学はそれにどのように応えるのか。丸山によれば、応用倫理学とは、既存の理論の応用ではなく、「具体的な問題に関わった行為の全般を評価しながら、一般的な規範の内容をさらに書き加えてゆく、その意味で『規範形成作用』」(IIviii)である。しかもその問題は哲学内部で発見されるものではない。その「問題の倫理上の側面を分析し、倫理の面から当の問題を再定義し、その解決のために哲学・倫理学の諸概念および理論装置を豊かにすること、あるいは場合によっては日常言語そのものを豊かにすること、それが応用倫理学の目標」(IIix)である。では、分析、再定義、豊かにするのは誰か。「具体的な社会問題に応答しようとする哲学者が、その社会的責任を果たす営みとして、『応答倫理学』と呼んではどうか」(同)とあるように、さしあたりは哲学・倫理学の研究者が想定されているが、それには限定されない。丸山は、アメリカの環境倫理学が生命中心主義と生命非中心主義との「メタ倫理学」(II6)上の対立を軸にして進展したあげく、「人間非中心主義の価値論が、哲学者の哲学者たちによる哲学者たちのためだけの議論に閉塞」(II11)していった経緯を批判的に説明しているからだ。丸山が提唱するのは、原理上の違いにとらわれず、道徳多元主義に立って実践にくみする環境プラグマティズムである。したがって、丸山は論点や概念を整理するにとどまらず、特定の倫理にコミットしている。「自然を守らなければならない究極の根拠を示せ、というのであれば、レオポルドがここで語っている一種の直観」「生きた大地・地球を未来世代に継承することが人間の高貴さだ、という直観」(II17)しかないというのがその立場である。その直観は「経験から学ぶ」(II26)につれて育まれていく。「価値は私たちの経験とともに生成してくる」(II20)。里山保全活動に参画している丸山のこの発言には、共同体主義的な人間観を嗅ぎとる読者もいるかもしれない。だが、生と時間に対する鋭敏な感覚がこうした発言に通じているのだろう。だから、丸山はヨナスの責任概念に言及し、責任と時間の関わりを指摘している(II42-5)。というのも、生と時間に対する鋭敏な感覚は、一方では、衰え、消滅し、過ぎ去っていくものをいとおしみ、惜しむ気持ちを、他方では、積み重なり、統合し、伸びていくものへの信頼を産み落とすものだからである。
丸山にとっての《現場》は水俣病である。「私は、日本の圧縮された近代化がもたらした象徴的事件でもある水俣病事件を無視して、日本で応用倫理学を始めることはできない、と考えてきました」(II68)。公害の原因となった企業が大企業であり、被害者は貧しい者に集中する。「差別のあるところに公害が起こり、公害が差別をさらに助長する」(II34)。チャドウィック編のシリーズにある『政治』の巻が本企画には欠けている。が、丸山の分析は環境問題から環境正義の観念を介して政治・経済の次元に進んでいく。さらに批判は、環境汚染を看過する結果となった要素主義的な科学観(II52)、地球規模での問題のみを環境倫理の問題とみることで公害の問題を視野から落としてしまうタイプの環境倫理(II33)にむけられてゆく。その意味で、丸山の分析は本企画が標榜している「個別の問題領域を脱領域化」した好例である。水俣病というひとつの事例から多様な系を引き出してくるそのやり方は「応用倫理学の転換」していく先を示す指標のひとつだろう。
Xの編者金井淑子にとっては「『私』自身が臨床の現場」(V51)である。金井は、家父長制が女性のアイデンティティのなかに浸透させてきた主婦性とみずから切り拓いた知的エリート意識との分裂に苦しんだ経験を叙述し、「女性の身体と性の自己決定に関わる問題は、現代の倫理的難問が集約的に表われる場であり、女性の身体と性が現代倫理のアリーナ(闘争場)となっている」(V57)と指摘する。「フェミニズムはもともと近代の落とし子であり、自由主義・個人主義原理に立つ。家族の価値や共同対主義との関係では、リベラリズム〈対〉コミュニタリアニズムの構図の中で、リベラリズムの側に立つ」(V60)。だが、セックスワーカーになろうとする女性に対して、金井は「あなたの決めたことなら」と認める気にはなれない。かといって、相手に自分の価値観を押しつけるパターナリズム的共感の倫理に身をゆだねることもできない。そのはざまで金井は「自由主義的自己決定論とパターナリズムに代わる当事者のエンパワーメントと自尊感情への、またアイデンティティと自己決定の倫理への視点」(V63)という隘路を切り拓こうとする。金井のとりあげる問題は実に幅広いので一部にしぼろう。一九七〇年代から八〇年代にかけての日本では、女性のセクシュアリティを描く文学作品が開花した。だが、九〇年代ではもはや性愛も幻想となる。女性たちは「恋愛をする自由」とともに「恋愛しない自由」「カップルを作らない自由」「セックスをしない自由」を宣言しはじめた(V42-3。この時代経緯から『性/愛』という巻名は採られた)。この非婚・シングルライフ・晩婚・少産・少子という問題は、近代社会で自明とされた「内面での規範的女性像の液状化」(V40)を示している。金井の分析の焦点は「現代倫理のアリーナ」である女性の問題にある。しかし、上の事態が示唆している「愛の不可能性」(V69)「倫理の土台にあるべき共同性の崩れ」(V33)は男性にもあてはまる。丸山の指摘するように応用倫理学の根底に生への脅威があるとすれば、関係を欲しない自閉化とは――金井がそう明言しているわけではないが――性のみならず生への嫌悪ではあるまいか。そう捉えると、金井がフェミニズムにとって難題の母性の問題に立ち入っていく論脈が理解できるように思われる。「女性の身体・セクシュアリティの中での『母』のもつ意味について、母の世話労働のもつ意味について、ここにあえて提起し、そこに問いが向けられるべきであると主張したい」(V72)。「『母の領域と倫理』の課題には、個体としての類の継承性、いのちの連続性への責任の感情が編みこまれている。しかもそれは一般的ないのちの連続としてではなく、家父長制的な家や血の継承性ではもちろんなく、のっぴきならぬ関係を背負ってそこにある存在としての具体的な他者の、それも一方的にその関係を切断することの難しい関係性への配慮と、そのことに向かい合うところから立ち上がる倫理へのまなざしが含意されている」(V73)。私はこれを、脅かされている生を出産というぎりぎりのところで肯定へと転ずる転換を模索する企てとして読んだ。そして、生の肯定なしには、自尊感情はありえない。
金井は応用倫理学を「中範囲の理論」(V33)と位置づける。だがそれ以上に注視したいのは、金井論稿に「倫理が問われている」といった表現が多い点だ。金井はフェミニズムと倫理学の両者を足場としている。だから、この表現はときには近代の正統的倫理学の告発を意味し、ときには新たな人間関係を築く倫理の懇求を意味している。つねに視点の相対化を働かせるその分析は、その場に居合わせている多様なひとびとの異なる声を聞き届けるべき応用倫理学を賦活し、個別の問題領域を脱領域化させる力をもっている。
Tの編者中岡成文は応用倫理学に対する違和感を明言している。「応用倫理学者は『原理』から考えたがる傾向がある」(I5)。これはたしかに(たとえば、ジョージタウン風な生命倫理学をモデルとした)応用倫理学に対する一般的理解だとしても、私見では、応用倫理学そのものが実は原理原則主義と状況の個別性を重視する思考法との闘争の場である。ただし、現場感覚を大切にしたいという中岡があえて応用倫理学と対比して臨床哲学の企てを性格づけようとしているのは理解できる。それでは、中岡にとっての《現場》はどこか。「生命のぬくみ」(I4)「自分への近さに応じた異なった取り扱い」(I6)にしたがい、自己へのケア、将来のもはや自己コントロールのできなくなった場合についての事前指定、医療者・介護者とのコミュニケーションの必要性と話は進んでいく。こうした視野の広がりのなかで、心臓移植のために渡米する小学「五年生の子どもの話を聞いた人たちが、もはや『無垢』ではいられなくなる」(I40)とも指摘される。臓器移植に賛否いずれであるにしても、「『自分ならどうする』ということだけでは、倫理は語れないのではないか」(I41)。普遍妥当的な原則にしたがって裁断しがちな応用倫理学の思考法(ただし、私見では、この思考法は応用倫理学に限らず、近代の正統的倫理理論が共有していると思うが)に対する異議である。気になったのは、中岡が「ケア」と「マネジ」を結びつけている点だ。マネジド・ケア(規定の医療費の範囲内で行う医療)という意味ではない。「何とかやってのける」(I12)という意味のマネジ。たしかに、生命や身体はコントロールしがたい、どうにかやりくりのつくものである。だが、そこにはマネジする主体とマネジされる客体の対比の構造が隠れているように思われる。マネジすべき主体自身も崩壊する。なるほど、事前指定の困難にそれは語られている。けれども、マネジしがたいという消極的な性格づけは、自己決定する近代の主体観念を準拠として生じてきたものではあるまいか。結論部分で、中岡は「生命・健康のマネジメントは医療者と患者の共同作業であり、社会的・公共的な意味をもつ出来事」だから「自分の生命や健康を自分でケアし、マネジする」(I61-2)患者の責任を主張している。だがこの責任の根拠は、医者患者関係という臨床現場から語るよりも、医療資源の配分的正義というマクロな文脈で語るほうが適切に思われた。
中岡は倫理学者の役割をコーディネーターにみる。「倫理学者の役割は、一方で何らかの一般的原理を掲げてそれに注意を促しつつ、他方で(各自の利害が絡む)人々のさまざまな直観、信念、中間的理論をコーディネートすることにあると思われるのです。ここで言うコーディネートとは、介入せずにただ調整に徹することではありません。生命に関する市民の直観、信念、また専門家の中間理論をそれぞれ尊重し、傾聴しつつも、それらが単に個人的・職業的な利害の枠にとどまることを戒め、それらの枠組みの柔軟な変更(リフレーミング)を促すのです」(I62)。文脈からして「戒め」「促す」のは倫理学者だろう。しかし、それで充分だろうか。むしろ、倫理学者にそれができるのは現場にいる当事者たちの意思に支えられてのことであるはずだ。また、この文脈をみるかぎり、中岡が想定している現場は医療・看護などの専門職についているひとたちとの関わりに収斂しているようでもある。(ちなみに、私も倫理学者コーディネーター説を出したことがある(VII223、日本倫理学会第五〇回大会シンポジウム)が、私の主張は二〇世紀前半の情動主義による倫理学批判を念頭におき、Anne
Macleanらの応用倫理学者ソフィスト説に応答したものである)。
Zの編者高橋久一郎によれば、「倫理学は、それに意味があるとすれば、その時代の『倫理』問題に答えることにその主眼があります。ですから、現代においては応用倫理学が倫理学です」(VII3)。時代性という超時代的性格づけゆえに、現代の応用倫理学が生じた固有の歴史的経緯は言及されない。高橋の関心は「(応用)倫理学の哲学」(VII4)にある。これが高橋の《現場》なのであろう。そこで扱われるのは、倫理や価値の意義、よさの分析、道徳の根拠の有無、道徳の存在理由、道徳の普遍性といった問題である。明らかに、これらは倫理学の根本問題であり、むろん応用倫理学にも無縁ではない。だがすると、応用倫理学の哲学は倫理学の哲学にほかならないのだろうか。応用倫理学特有の分析はないのか。なるほど、倫理学の時代性を重視する高橋は、現代の倫理学の有力な理論(義務論、帰結主義、徳理論)を説明している。ただし、高橋が提唱するのは背景理論の違いを超えた反照的均衡である。反照的均衡は「倫理の最終的な基礎づけの断念」(VII68)ではあるが、事実との反照を通して射程を限った倫理を探り当てることができる。高橋の結論は、「さまざまな科学・技術・情報を利用してわれわれの社会の必要を満たし、解決する仕組みを考える」「工学としての倫理」(VII70)である。
それでは、倫理学者はそこでどのような役割を果たすのか。高橋は三点あげている。倫理的問題に対する解答のもっともらしさの検討。「この点では、倫理学者はラディカルな『虻』となります」(VII73)。暫定的な解答の提出。「倫理学者はここでは、対照的に『健全な保守主義』的スタンスをとることになります」(同)。Bあるべき倫理のあり方のデザイン。「倫理学者は『理想』『理念』をも語ることになります」(同)。気になるのは、倫理学者が自発的に選んでそれぞれの対応のしかたを採択するように聞こえる点だ。倫理学者がこれらに寄与できるのは、倫理学者をとりまく状況やそこにいるひとびとによって迫られてのことではないか。応用倫理学の現場性とは、むしろ、倫理学および倫理学者が応答できるとはかぎらぬ問いにさらされ、追い込まれる事態なのではないだろうか。
以上、足早に既刊の巻を論じたが、各巻には論評した編者執筆部分と他の執筆者による数編の論文のほかに、問題集、シンポジウム、年表が配され、読者の便を図っている。本企画は、全巻そろった時点であらためて、その巻頭に宣言されている@対象領域の確定、A方法論の吟味、B個別の問題領域の脱領域化、Cそれによる応用倫理学の転換、D欧米からの輸入ではない独自性、の観点から評価されるべきだろう。
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