論議なきはてに −臓器移植法成立にさいして−

 

品川哲彦

『人間文化研究 広島大学総合科学部紀要III』、第6巻、広島大学総合科学部、1997年12月20日、77-104頁

 

 「臓器の移植に関する法律」(以下、臓器移植法)(1)は平成9年6月17日午前に参議院、午後に衆議院を通過し成立した。

 成立までの経過を簡単にふりかえる。法案が国会に最初に提出されたのは平成6年4月12日だった。同案でとくに争点となったのは第六条の二つの点である(2)。第一に、同案は移植に使う臓器を「死体(脳死体を含む)から摘出することができる」と表現し、それによって、脳死をひとの死と認めたことを含意している。脳死をひとの死とすることからはさまざまな示唆がひきだされるが、そのひとつに脳死状態にたいする医療処置の停止がある。死者への治療は無意味だからだ。だが、同案は付則第十一条でこの処置を「当分の間」健康保険法などの医療給付関係法にもとづく医療の給付の対象とみなすとしている。これにたいして、脳死がひとの死であるという社会的合意はまだできていない、同案さえも脳死状態のひとはまだ死んでいないと信じているからこそまさに付則第十一条で医療の継続を認めたのではないか、等の反論が出された。第二に、同案は臓器摘出が許される場合として、死者が臓器提供する意思を書面によって示しており、しかも遺族が拒絶しない(か、いない)場合とともに、死者が臓器提供しない意思を示しておらず、しかも遺族が摘出を書面で認めた場合をあげている。これにたいして、後者の場合、本人の事前の意思が不明なのに家族に臓器提供を認める資格があるかという反論が出された(3)。第一の争点はひとの死、第二の争点は自己決定をめぐるものである。この二つの観念は脳死と臓器移植の問題の中核をなしている。けれども、同案は国会審議の進まぬまま、8年9月、衆議院の解散とともに廃案となった。

 8年12月にふたたび出された法案(中山案)は、前案同様に「死体(脳死体を含む)」とする一方、死者が書面により意思表示していた場合に限って臓器提供できるように定めた。これにたいして、9年3月、対案(金田案)が出された。対案は「脳死状態にあるひとの身体」という表現によって脳死をひとの死とは認めないことを含意している。臓器提供は本人の書面による意思表示を要件とする。それゆえ、前述の第二の争点については、提供者の事前の自己決定を必須とする方向で事実上決着した。残る第一の争点をめぐって、両案は対立したが、9年4月24日、衆議院は中山案を可決、金田案を否決した。それゆえ、脳死をひとの死とする方向が一応は採択されたことになる。しかし、決着したわけではない。審議のあいだに、社会的合意ができているかという問題へ、脳死をひとの死と認めないひとについても脳死段階で死んだとするように法で定めることは適切かという問題に捉えなおされていった(4)。と同時に、対立の度は増した。なぜなら、争点は、もはや合意の進み具合という、ともすると曖昧にされかねない程度問題ではなくなり、法の安定性と(第二の争点の決着をとおしていっそう強力な切札となった)個人の選択の自由とのいずれを選ぶかという決断に変容したからである。

 審議は参議院に持ち越されたが、会期末ぎりぎりになって提出された中山案の修正案は後者を選んだ。それが可決されてできたのが臓器移植法である。第一の争点は社会の合意にではなく、個人の決定にゆだねられたわけである。すなわち、同法は、「死体(脳死した者の身体を含む)」(第六条第1項)という表現によって、脳死はひとの死であると法によっては一律には定めないことを含意している。また、同法は、臓器提供のみならず、脳死判定を受けるかどうかについても本人の書面による意思表示を要件としている(第六条第3項)。第3項は、最初の法案が提出されて修正中山案が提出される三年あまりのあいだ国会では一度も審議されてこなかった重大な修正である(5)。しかし、修正中山案が提出されたのとそれが可決されたのは同日だった。第1項は中山案の修正というよりも金田案の摂取である。参議院では金田案を継承した猪熊案も出されていた。修正中山案と猪熊案の両方を採決したなら、前者の内的整合性の問題が浮き彫りにされたろう。だが、猪熊案は採決しなかった。この経緯から明らかなように、臓器移植法は、ともあれ脳死状態からの臓器移植を認めるために、対立点を隠蔽することでいっそう多くの支持を得ようとしてできた法である。

 したがって、同法は議論できなかった問題を多く残している。実質上、心臓死と脳死の二つの死があることになるが、他の法との整合性をどのようにつけていくか等、法の問題がある。脳死に陥りそうな状態の患者の家族にだれがどのようにして脳死判定と臓器提供を申し出るか等、臨床の制度上の問題がある(6)。臓器移植を前提としない脳死判定についても本人の事前の同意を要するかという問題は、法の解釈と臨床の制度の両方にわたっている。臓器移植は医療費を削減しようとする政策とどの点でどのように関わるか、たとえば保険からの手当と受益者の負担それぞれについてどのような方針が立てられるか等、医療経済の問題がある。脳死状態への医療処置を「当分の間」医療給付の対象とみなすという付則第十一条の問題も残っている。

 以下では、倫理学の観点から、どうして議論は深まらなかったのかについて論じることとする。それがそのまま国会での審議が深まらなかった理由になるわけではない。倫理学の関わる論点は政治上の決定にとってわずかひとつの因子にすぎないからだ。けれども、「脳死はひとの死か」という問題の枠組みにとっては本質的な論点である。まず、脳死はひとの死かという問いに含まれている「ひと」の観念の両義性を指摘して複数の立場を分ける(II)。ついで、それらの立場の相互関係のなかから脳死をひとの死とする根本的な立場をとりだし(III)、この立場を批判的に検討する(IV)。最後に、成立した臓器移植法にたいする若干の意見を記す(V)。

 

II

 脳死という観念はすでにひとという観念とひとの死という観念を示唆している。というのも、人工呼吸器その他を備えてはじめて成立する脳死状態は、実験を別とすれば、ひと以外の動物には起こらないし、また、脳死はたんに脳の状態を指すのみならず、その脳をもったそのひと自身の死との関係で問題となるからである(7)。しかし、そこに言及されるひとの観念は両義的である。その意義しだいで、脳死状態の捉え方も変わってくるし、場合によっては、脳のどの部分の機能の不可逆的喪失を脳死と呼ぶかも変わってくる。二つの問いをとおして差異を析出しよう(8)

  Q1:脳死はひとの死だと思いますか。

  Y:はい。   N:いいえ。

 この問いだけでは、ひとも脳死も多義的なままである。世論調査では、脳死を全脳の機能の不可逆的喪失とする定義に限定している。ただし、それにもすでに批判はある。脳の複雑さからして機能を検査するだけでは足りず、脳細胞が壊死していくことが確実に約束される状態を、つまり全脳の機能死ではなく器質死を確認すべきだという、竹内基準(9)にたいする批判である。この立場をWと呼んでおく。だが、ここでは、脳死を全脳死に限定せずに問いを重ねてみよう。

  Q2:犬を実験的に脳死状態にしてみました。この犬の状態と脳死のひとのおかれている状態とを同じものと考えますか。

  y:はい。    n:いいえ。

 yの答えはもっぱら生理状態に着目している。つまり、生物学に基礎をおいた医学の知識から同定できる事実を判断しているわけである。そうみるかぎり、ひとと犬とのあいだに、homo sapiensとcanis familiarisという種の違いはあれ、有意な違いはない。だからこそ、動物実験は有意義である。このように捉えられたひとを生物としてのヒトと呼んでおく。一方、nの答えによれば、生理状態は同じでも、ひとはその他の生物とは異なり、したがって、異なる(おそらくはとりわけ尊重する)態度で遇するべきである。ここで判断されているのは、評価やなすべき行為についての規範である。だから、この判断は倫理的判断である(10)。こうして捉えられたひとを人格(person)と呼んでおく。ひとという観念はこのように生物医学次元と倫理的社会的次元の二つの意義をもっている。

 さて、Q1とQ2とは独立の問いだから、Yy、Ny、Yn、Nnの四つの答えの組み合わせがありうる。先のWと同様に、それぞれのイニシャルでその答えを支持する立場を表わすことにしよう。

 

図 表

Q1:脳死はひとの死だと思いますか?

:はい

:いいえ

:脳死判定に異議あり

Q2:いま、動物を実験的に脳死状態にしてみました。この動物がおかれている状態と脳死のひとの状態とを同じものと考えますか?

:はい

:いいえ

Yy:脳は呼吸、循環の中枢だから脳死状態の動物は死んでいる。

Yn:脳は自己意識・精神活動の中心だから、脳死のひとは死んでいる。

Ny:全身の循環は生のしるしだから、脳死状態の動物は死んでいる。

Nn:ひとは関係的存在。関係を捨象した脳死はひとの死ではない。

 

 Yyによれば、脳死はその脳をもった生物個体全体の死を意味している。というのは、脳は呼吸と循環を統御して全身を統合する機能をもっているからである。肺は呼吸筋によって動かされるが、呼吸筋の動きは脳からの神経に支配されている。心臓は脳からの神経の支配を受けているとともに自動的に動く能力をもっているが、その動きを続けるには脳からのホルモンを要する。脳の機能が不可逆的に喪失すれば、呼吸と循環が停止する。したがって、呼吸と循環を人工的手段で代替している脳死状態は個体の死とみなすというのがYyの立場である。ただし、統合する中枢を呼吸や循環を支配する脳幹に局限するかしないかに応じて、採択する脳死概念は脳幹死と全脳死に分かれる。

 Nyによれば、全身の循環があるかぎり、その生物個体を死んだとみなすことはできない。その根拠には、さしあたりは対象をひとに限定した直観をあげることも、生物一般に共通する死の概念をあげることも、全身の相互依存をあげることもできる。すなわち、脳死状態では循環が続いているので、体のぬくもり、血色、発汗などから、死んだと思われない。あるいは、硬直し、乾き、冷たいということが植物を含めた生物すべてに共通する死の兆候であって、死のこの概念の一義性と妥当範囲の広さを保持すべきである。あるいは、脳はたしかに重要だが、脳もまた脳以外の全身のシステムに依存しているのだから、脳だけを統合の中枢として重視することはできない。こういうわけで、Nyはひとの死として全身死つまり心臓死を支持している。

 Ynは、Yyと同様に、脳死をひとの死と認める。しかし、Ynが脳を重視するのは全身の統合機能ゆえではない。ひとと他の生物とを分ける基準の解剖学的対応物を脳に求めているからである。その基準とは、自己意識や自己意識を核とした高度の精神活動をいう。ひとはそれによってみずからよかれと思われることを判断し、そのもとで自分自身の目的を設定し、事実として成立していないさまざまな状況を想像しつつ、目的を達成するためになすべきこととそのもたらす結果とを推論し、目的実現に不利な欲求を自己抑制しながら行為していく。そして、行為の結果にたいする責任は、自己意識の連続性のゆえに、そのひとに帰することができる。高度の知的能力は、大脳がつかさどる。そこで、Ynのうち、大脳の重要性を力説する論者(以下Yn’)は全脳死ではなくて、大脳の機能の不可逆的喪失、つまり大脳死の場合にも、そのひとは死んだと考える。ところが、永続的な植物状態もまた大脳の機能の不可逆的喪失に対応するであろう。大脳の器質を生まれつき欠いている無脳症もある。けれども、これらの状態では脳幹の機能は残っているから、全脳死や脳幹死とちがって、自発呼吸ができ、全身の循環を保つこともできる。Yn’もこの状態で生物としてのヒトが生きていることは認める。だが、Yn’によれば、人格という意味でのひとは死んでいる。つまり、ひとが他の生き物とは区別されて尊重されるべき資格を失い(無脳症では、欠いており)、さまざまな権利や責任の主体ではなくなった(無脳症では、もともとない)と考えるわけである。この結論は、Yn’によれば、ひとが尊重されるべき根拠を精神活動におき、精神活動を解剖上の構造に結びつけるかぎりは必然的な帰結である。

 これにたいして、Nnはひとを尊重すべき根拠を解剖上の部位に遡及せず、人間関係そのもののうちにおいている。死は人間関係の途絶であるとともに完成でもある。Nnが脳死をひとの死と認めないのは、概念上は人格を脳に還元するのを否定するからだが、現実の場面では、脳死判定から臓器摘出にいたるまでの経過が家族と死にゆくひととの最後の関わりを奪い去り、少なくとも性急に切りつめてしまうからである。

 以上の四つの立場はいわば理念型であって、ある個人が漠然としたしかたでYyかつYnだったり、NyかつNnだったりすることもあるだろう。しかし、これらの理念型を使うことによって明らかになるのは、論争が、たとえば、YyとNyとのあいだでは生物医学次元で展開し、NyとNnとのあいだでは倫理的社会的次元で展開するということであり、それに応じて、「ひと」がどのような含みで語られているか、論争のなかで意味が齟齬していないかということである。そして、Q1が世論調査で幾度も繰り返されながら、議論を深めるのに役立たなかった理由もわかる。なぜなら、Q1だけでは、YyとYn、NyとNnという次元を異にする見解がそれぞれひとつにまとめられてしまうし、Q1で語られている「ひと」の意味の曖昧さを少しでも感じとった回答者は「わからない」という選ぶからだ。

 日本でこれまで論じられてきた争点を上記の理念型を使って整理してみよう。

 まず、脳死の定義として全脳死と英国のみが採用している脳幹死のいずれを選ぶかは、Yy内部の問題であり、医学研究者のあいだで全脳死をとる方針が定められた(11)。大脳死については、生命維持に不可欠な脳機能の喪失ではないという理由で、流通すべき脳死概念からはずされた。ただし、ここでの論議がそもそも「脳死はひとの死か」という問いにふれない次元で進んだことに注意しなくてはならない。したがって、Ynの主張や、YnがNnとともに切り開く倫理的社会的次元の問題はもともと埒外なのである(12)

 Wの立場が提起した器質死か機能死かという論争は、立花隆の著作をつうじて、脳死にたいする関心と理解を普及させた。しかし、判定基準の信憑性から判定方法の適否と適用可能の技術の選定へと展開していったこの論争は、つまるところ、生物医学の次元に収斂している(13)。もちろん、立花が器質死を強力に主張するのは、脳死判定がひとの死に関わるからにほかならない。立花は、早すぎる脳死判定、つまりまだ脳死ではない状態を脳死と判定してしまう偽陽性判定の危険を繰り返し指弾する。慎重な判定をめざすという姿勢は、Yyで脳幹死ではなく全脳死を選ぶ理由のひとつでもある。WやYyもひとを尊重する姿勢とまったく無縁ではない。なぜなら、IIの冒頭に記したように、脳死はすでにひとの観念を示唆しており、しかもひとの観念は多義的であれ同一の語だから、生物医学の次元での議論も、暗黙裡に素朴なしかたで、ひとを尊重すべしという倫理的社会的含意を含みうるからだ。しかし、それにたいして、Ynとその論敵であるNnが行なったのは、その含意を再検討し明示化するということなのである。したがって、両者にとっては、「なぜ、ひとは尊重されるべきか」という根拠こそが問題である。脳死状態のひとに限れば、Ynならそのひとを死んだとみなしてよい理由を、Nnならそのひとを死んだとみなしてはいけない理由を求めている。それと比べると、立花の問いは、ひとに関わるからこそ問うたにせよ、究極的には「脳死は死か」に帰趨する(14)。ちなみに、Yn’論者のエンゲルハートは、「重大な脳の損傷を蒙りながら生き残ったひとには生きるに値する生はない」から、偽陽性判定のほうが、脳死者に高度の治療を継続するはめとなる偽陰性判定よりましだと主張した(15)。脳死をめぐる議論のなかでは、ひとへの尊重はもはや素朴に自明な観念としては通用しなくなっているのだ。

 しかし、日本における論争には、私のみるところ、Yn’を正面きって主張する論者は現われていない。それとともに、Ynの視点も顕在化していない。それゆえ、脳死はひとの死か否かという論争は、YyとNy、YyとNnのあいだでかわされてきた。Nyのうち、全身のシステムの相互依存性を論拠とする見解は、Yyとのあいだに、生物体の有機的統合とはどういうことかという議論を展開するだろう。だが、その議論はヒト以外にも妥当する。また、Nyは、脳死状態のひとのぬくもり、息、出産の可能性などに言及し、脳死を死とすることの反直観性を指摘する。この指摘は、脳死は少数の医者たちだけで判定される「見えない死」だというNnの批判に通じている(16)。Nnによれば、脳死は脳死状態のひとと親しい者たちとの関係を断ち切る疎外された死である(17)。Nnの論点は重要である。けれども、NnとYyのあいだでは、議論はまともには噛み合わない。なぜなら、倫理的社会的次元と生物医学の次元とのずれがあるからである。もちろん、脳死はひとの死ではないという主張が、Yn、とくにYn’の帰結に言及していないわけではない。すなわち、脳死をひとの死と認めて臓器移植を進めても、臓器は不足する。そこで、移植によって回復する見込みのあるひとを助けるために、救命できないひとや重篤な状態から回復する見込みのないひとが臓器提供の候補者と目されるようになる。たとえば、植物状態や無脳症のひとであり、さらに重度精神障害者にも及ぶかもしれない。このひとたちは脳死と同様に死者とみなされるようになり、すでに医療資源の負担の軽減から治療を放棄されるようになるだろう。このように、Nnは糾弾する。

 こうしたタイプの推論によって論敵を反駁するのは、滑りやすい坂道論(slippery slope argument)と呼ばれている。B・ウィリアムズによると、滑りやすい坂道には二つある。滑って行く先が恐ろしい結果になるというタイプ(horrible result argument:以下H型)と坂のどこかで止まる理由がないというタイプ(arbitrary result argument:以下A型)である(18)。H型とは、S1をpと認め、その認識が根づくと、それまでS1とは区別されていたS2もpだとみなしてしまうという推移で、脳死状態からの臓器移植でいえば、たとえば、いったん認めると、いずれ、脳死が判定されるまえに救命治療を放棄したり、脳死と無関係な場合にも治療停止を早めたりして臓器提供者の数を増やすことになるだろうというのがその例である。この滑りは、先行事例が慣習化して理解が変化することに起因する。A型とは、(論敵からすると区別すべき)S1とS2とのあいだに有意な違いを認めないために、S1がpであればS2もpとしてしまう推移で、たとえば、意識の不可逆的喪失ゆえに脳死と永続的植物状態とを等しく扱うYn’は、論敵からすると、その例である。この滑りはpの概念設定に起因する。

 脳死をひとの死と認めない論者が滑りやすい坂道を危惧するのはまったく正当である。じゅうぶんな論議がなされずに法案が通った経過をみるとますます正当である。しかし、それにもかかわらず、Yyにたいして臓器提供者の範囲の拡大を危惧する滑りやすい坂道論で反論するのはさして効果がない。なぜなら、Yyはまさに脳死と植物状態との違いを力説することでYn’を批判してきたからである。それゆえ、いくら滑りやすい坂道を危惧されても、Yyは繰り返し脳死と植物状態の違いを「啓蒙」し、臓器提供者の範囲の拡大は「杞憂」だと答えつづける。議論は深まらないまま平行線をたどるほかない。ひょっとすると、戦略的にYyのふりをしているYn’もいるかもしれない。だが、Yyの力説する違いに耳を貸さずに、Yyは必ずYn’に通じると非難すれば、みずからA型の坂道を滑ってしまう。

 こうして「脳死はひとの死か」という問いは、とりわけその倫理的社会的次元において、議論が深まらなかったわけである。

 

III

 けれども、倫理的社会的次元での考察が重要であるにしても、それは、所詮、生物医学の次元での考察に事後的に付加されるだけでじゅうぶんなのではあるまいか。というのも、YyやWがひとを尊重すべしという倫理的社会的含意をすでに含みうるのにたいして、Ynは生物医学の次元で脳死はひとの死かという問いを考えるかぎりは無関係ではないか。ところが、そうではない。

 Yyが依拠するのは、脳が呼吸と循環を統御し全身を統合する機能である。心臓と肺は人工的手段で代替できるが、脳の機能は代替できない。だから、脳死状態になれば、数日のうちに心臓死に移行するといわれてきた。ところが、抗利尿ホルモンを投与することで、数十日間、脳死状態を維持することができるようになった(19)。抗利尿ホルモンは、原尿から水分を再摂取して排尿量を制御し、体内の循環を確保する。また、血管を収縮させて、併用されている昇圧剤(カテコールアミン)のききめを高めもする。この働きによって、抗利尿ホルモンは、脳死状態から急激に血圧が低下して心臓死にいたるのを防ぐ効果をもっている。このホルモンは生体では視床下部で作られている。だとすれば、このホルモンを投与するということは、脳の全身の統合機能を、一部ではあれ、人工的に代替するということにほかならない。統合機能が代替可能であれば、Yyは脳死をひとの死とする根拠を失う。ペースメーカーの助けをえて心臓を動かしているひとが生きており、人工透析によって腎機能を補っているひとが生きているのと同じように、抗利尿ホルモンを投与されている脳死状態のひとは生きているといえないだろうか。もっとも、ペースメーカーや人工透析を用いているひとは社会生活を営める。それにひきかえ、抗利尿ホルモンの投与は脳死状態を延長するだけで回復させることはできない。とはいえ、回復できない状況とは、心臓死が差し迫っていて防ぐすべのない状況にすぎず、脳死と無関係な末期患者がそうであるとおり、まだ死んだわけではない。こう論じつめていくと、Yyの論者には、二つの選択肢しかない。ひとつは、IIに記したように、Yyの論者がYn’を排除した理由である生命維持に不可欠な条件、呼吸と循環を重視しつづけることによってNyに転向する選択肢である。すると、脳死状態のひとは生きていると認めることになる。もうひとつは、呼吸と循環とは別の理由から脳機能を重視することによって、脳死をひとの死とする主張を変えない選択肢である。それでは、その理由とはなにか。それは「脳がわれわれの意識やわれわれが人格であることと結びついている」からである(20)。これはYnの主張にほかならない。したがって、脳死をひとの死とする究極の根拠は、YyではなくてYnのあげる根拠なのである。

 こうしてYnは脳死をめぐる論争に必然的に登場してくる。けれども、上の議論からは同時に、YnはYn’にかならず収斂するということにならないだろうか。というのは、Yn’は意識がとりわけ関わるのは大脳だと主張しているからだ。もし、Yn’を支持するなら、植物状態もまた死とみなすことになる。それでは、Yn’は現実的にも論理的にもじゅうぶん支持されうる立場だろうか。

 臨床上の現実性については、D・ラムが厳しく批判している(21)。批判は多岐にわたるが、とくに重要なのは、Yn’が用いている概念の混乱と規準の不明確さである。Yn’は意識に関わる部位をさらに限定して新皮質の死を提唱することがある。この新皮質の死と呼ばれる事態は神経病理学の概念だが、永続的な植物状態は臨床上の概念である。植物状態の患者の新皮質の状態について脳波計を用いて調べてみると、後者の多くは前者ではない。後者は前者ほどの無酸素症や虚血による深刻な打撃を受けていない。また、どれほど新皮質が損傷すれば植物状態と呼べるようになるかについても確たる規準がない。意識の欠如の診断からすでにむずかしい。たとえば、閉じ込め症候群(筋萎縮性側索硬化症などで、意識はしっかりしているが体で反応を示せない状態)は植物状態との区別がつきにくい。そもそも脳幹が機能しているかぎりは、感覚能力がまったく欠如しているとは証明しがたい。Yn’にならってこのような曖昧な規準のもとで死を判定すれば、境界例を死とみなしてしまう滑りやすい坂道を進んでしまうにちがいない。ラムの批判から引き出せるのは、少なくとも、Yn’の主張は死を判定する規準が明確ではないという理由ですでに臨床には受け容れられないということである。

 ちなみに、ラムは大脳死批判をつうじて脳幹死を支持している。脳幹の下部には、循環や呼吸を支配する中枢がある。上部にある網様体は大脳の新皮質を賦活して意識を覚醒させているとみなされている。そこで、ラムによると、脳幹死には網様体の賦活機能の不可逆的喪失が含まれているので、脳幹死は大脳死の十分条件である。これに加えて、脳幹死には呼吸や循環の不可逆的喪失も含まれているから、結果的に、全脳死の成り立つ条件をすでに満たしていることになる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などで認められてきた伝統的な死の規準とは、意識の不可逆的喪失かつ自発呼吸の不可逆的喪失だが、脳幹死は以上のようにしてこの死の規準を満たしているから倫理的文化的にも問題はないと、ラムは結論する。だが、ラム自身も引用しているように、アメリカ大統領委員会によれば、意識や認知はおそらく脳幹と大脳新皮質の複雑な相互関係から生じている(22)。しかも、脳幹が死んでも大脳の機能が残っている可能性が指摘されている(23)。脳が複雑だからこそいっそう確実な判定を求めて、多くの国で脳幹死ではなく全脳死を採用しているわけである。さらに想像を進めると、網様体の賦活機能が人工的に代替できるようになったなら、抗利尿ホルモンの場合と同様に、ラムもまたNyかYnのいずれかの選択肢を迫られることになろう。ラムは伝統的な倫理に忠実であろうとしているが、一般にYyの論者がそうであるように、ひとを尊重すべき倫理的根拠を再検討し明示化しようとはしていない。だから、ラムの倫理面でのYn’批判はずれがある。ラムは「自発呼吸をしているかぎり、道徳共同体の一員にふさわしい尊敬をうける」と断定するが、Yn’はまさに自発呼吸が尊敬の根拠になることを疑っているからである(24)

 しかしまた、脳幹死と大脳死をめぐる論争からは、Yn’の論理の組み立てについての疑念もひきだされる。すでに、ラムが大脳死と植物状態との概念上の混乱を指摘しているが、それ以前に、意識という概念が多義的である。網様体の賦活機能によって意識が覚醒されるという文脈では、たとえば睡眠状態では、意識は失われている(25)。しかし、Yn’が人格の概念の基礎におく意識は自己意識を意味している。たとえば、私がいま論文を書いているのも、あなたがいま論文を読んでいるのも、夢かもしれない。けれども、デカルトを引用するまでもなく、夢においても自己意識は持続している。自己意識とは、自分が自分であることを自覚していることにほかならないからだ。したがって、概念上、他者は私の自己意識を意識できないし、私も他者の自己意識を意識できない。ただ、ことばや身振りやしぐさや表情などの外に客観化して表われるしるしによって、他者に自己意識があることを把握する。Ynが援用する脳の構造もそうした外からみえるしるしのひとつである。たしかに、そこには解剖学や生理学などの知識の裏づけがある。だが、全体の推論は、身体上物質上の条件がある程度発達していなければ意識は成立せず、いわんやいっそう高次の意識である自己意識は成立しないというように、自然科学の観念と哲学の観念が付会されてできあがっている。Yn’が現実的かつ論理的に支持されうるには、Yn’が人格の根拠としてあげている自己意識やさらに高度な知的能力が成り立つための身体上物質上の基盤を大脳の特定の部位に局限できること、かつ、その部位の機能の不可逆的喪失を判定するための明確な規準が立てられること、この二つの難関を克服しなくてはならない。そこで、Yn’が支持できないとすると、脳死をひとの死とする論者が選べるのは、Ynの立場に立って全脳死を主張する選択肢だけである。

 

IV

 Ynは、IIに記したように、脳死はひとの死かという問いを倫理的判断として捉えており、脳死をひとの死とするその答えの根拠には自己意識の不可逆的喪失をあげている。

 ところが、後者の「そのひとはもはやそのひとではない(isnot)」という存在論的次元と、前者の「脳死状態にあるひとへの態度」という倫理的次元とを峻別するYn論者もいる(26)。それによれば、本来は、自己意識の消失ゆえに死者と遇する態度が根拠づけられるのに、倫理的次元を強調すると、これまで死者でなかった存在を死者として遇する態度がまず承認され、ついでその態度をとるべき対象が当初の事例をこえて拡大されかねない。というのも、いっそう多くのひとを助けるために臓器不足を解消したいという「倫理」的根拠が援用されるからだというのである。この滑りやすい坂道こそ、Iの末尾に記したとおり、Nnの論者が最も危惧する点である。

 しかし、これはあくまでもYnがその種の功利主義の倫理と結びついた場合にすぎない。以下、まず、Ynの示唆する倫理的次元が必ずしも功利主義と結びつくものではないこと、第二に、人格の観念はYnの主張それ自身も相対化するものであることを示そう。

 ひとが他の生物と異なって尊重されるべき根拠、したがって人格である根拠は自己意識にある。自己意識の連続性のゆえに、人格には行為の主体としてその行為にたいする道徳的評価や責任を帰することができる。だが、責任は自由なしにはありえない。人格が行為の主体であるのは、その人格がみずから意志してその行為を行ないうるときのみである。それゆえ、人格の自己決定の尊重は道徳が成立するための第一の前提である。ただし、どの人格も等しく尊重されるべきだから、ある人格が他の人格の自己決定を蹂躙して、つまり自己の欲求達成のたんなる手段としてあつかってはならない。この規範のもとに相互に尊重する人格の共同体が築かれる。そして、もし、遵守すべき道徳規範が人格相互の討議をとおして採択されるとすれば、たとえ採択される規範が従来と大差ないにしても、それは、ラムのしたように伝統的な倫理とたんに折り合いをつけることではなく、人格自身がみずから規範の妥当する根拠を承認しなおすことなのである。

 だとすれば、まず第一に、人格であるかどうかが問題となっている境界例を、その他の人格にとって功利にかなうからというので、人格から除くことはできない。なぜなら、それをしたら、規範を根拠づける基盤そのものをほりくずし、人格共同体の討議の正統性そのものを否定することになるからだ。それゆえ、エンゲルハートの偽陽性判定への評価はこの段階では支持できない。脳に負った障害がどれほど重くても、救命の努力を続けなくてはいけない(27)。けれどもまた、場合によっては、討議の結果、死の定義を広げて臓器提供者を増やす方針が採択されるかもしれない。人格共同体の討議こそがすべてを決定するからである。だが、もちろん、それは反論を論駁する討議を経てのことで、滑りやすい坂道を滑ることによってではない。ちなみに、先に、死者の範囲を拡大する見解をある種の功利主義と限定したのは、討議をとおして、死者の範囲の拡大がもたらす社会不安と臓器移植の機会の増加とを秤量した結果、まさに功利主義の見地から後者を断念することもありうるからだ。

 第二に、脳死と臓器提供をめぐる問題もまた討議に付される。このとき、Ynは、Nnやその他の意見と同様に、討議をとおしてのみ採否されうる主張にすぎない。かりに、一義的な解決ができずに、脳死をひとの死とするか否かは個人の決定にゆだねるという結論になったとしよう。また、臓器摘出は、本人が事前に脳死判定と臓器提供の意思を書面で示しており、家族が承諾するか、家族がいない場合に限定するという結論になったとしよう。その結論にしたがって、本人と家族の意思を尊重するならば、たとえば、脳死判定と臓器提供を望んでいないときには心臓死まで待って、本人と家族との別れの時間を確保しなくてはならないし、また、脳死状態のひとへの医療措置の費用の負担を介して、家族の意思決定に圧力を加えてはならない。臓器提供を本人と家族が承諾しているなら、臓器受容者のための医療措置を提供者にすみやかに開始すべきだろう(28)。こうした指針が導き出されるだろう。ここから示せるのは、Yn自身が支持する自己決定の尊重を推し進めると、自己決定の原理はYnの解剖学的含意に優先し、Ynもまた一選択肢と化して、脳死をもって死とするひととそれを否定するひととの棲み分けが成立しうるということである。もちろん、以上の仮説は、日本での論議を人格共同体の討議にすりかえようとするものではない。まったく逆で、まともに論議されてこなかったというのがIでの批判だった。結論が正統性をもつのは討議されたからで、結論の内容ゆえではない。ただ結果的には、臓器移植法は上述の棲み分け論に符合している。

 ところが、Nnの主張を徹底していくと、まさにこの棲み分け論が批判される。なぜなら、本人の選択にゆだねると、死が人間関係から剔出され、死者個人の問題に還元されてしまうからだ。小松美彦の見解を参照しよう。かつて、死は、死にゆくひとのみに帰属せず、そのひとを取り囲んでいる家族や医療関係者などにも関係し、それら「看取る者に受け入れられつつ、徐々に到来するもの」だった(29)。だが、十八世紀半ばから十九世紀にかけて死を宣告された者が蘇生する事例が頻発し、この早すぎる埋葬への恐れからいっそう明確に生者と死者とを弁別する規準が要請されていった。科学者はその規準をひたすら死者の身体に起こる変化を観察することでつきとめようとし、その姿勢が社会のなかに一般化するとともに、死はもっぱら死ぬ本人の問題として捉えられるようになった。脳死はこの死亡判定の研究史の延長にある。そして、死が本人のものとなり、本人の所有であるゆえに自己決定の裁量にゆだねられたからこそ、棲み分け論が成立してくる。けれども、本来、他者の死とは、死者を失ったからこそ痛烈に身近に感じ、同時に、失ったからこそ極限に遠く感じるしかたで死者と共鳴する体験である(30)。脳死は死者との関係を断ち切り、看取る側のこうした体験の可能性を封じてしまう。棲み分けが実施されても、脳死状態への医療給付の打ち切りによって、脳死を死と認めないひとも脳死を死に選ばざるをえなくなるにちがいない(31)

 しかし、あえて問うなら、なぜ死者と共鳴しなくてはならないのか。たしかに、死について思いめぐらすことは、生を真に意義深いものにするにちがいない。だが、そうした意義深い生を選ばないという選択肢さえあるのではないか。そもそも、これが意義深い生き方だ、善き生とはこれだなどとみなに共有される価値は存在するのか。当然、自己決定権を支持する近代の自由主義はこう応じてくる。小松自身も自由主義批判をなお考究すべき課題であることを認めている(32)

 生命倫理では、自由主義に功利主義を結びつけた主張が力をもってきた。私は前者から後者を切り離すように試みてきたし、ここでもそうしている(33)。しかし、自由主義こそ唯一選択しうる原理であるのか。他の思想、たとえば共同体主義がそれを補完しうるとすれば、どのようにしてか。これらの問題は、私にはなお課題である。ここでそれを展開することはできない。ただし、自由主義とそれに対抗する別の選択肢が共存するあいだは、選択の自由の原理が基盤にあるから、明らかに、自由主義の勝利である。したがって、自由主義を根本から論駁しようとする論者がいるなら、その論者は、A・マッキンタイアが試みたように、自由主義の示す主張がそれだけでは存立できず、むしろ別の選択肢のなかでこそ十全な根拠をもちうることを示そうとしなくてはならない(34)。当面の主題では、Nn論者が棲み分け論を論駁するには、脳死をひとの死と認める論者が擁護するさまざまな価値が、死を関係のなかで捉えることにおいてこそ意義をもつことを示さなくてはならない。たとえば、脳死判定と臓器提供を認める事前の意思決定は、他者との関係のなかでこそ十全の意味をもつ自己実現であるのか。その特定の人格の死をまぎれもないしかたでうけとめたからこそ承認されることなのか、などである。むろん、できあいの移植擁護論では満足されない。たとえば、移植によってだれかが助かるというだけでは死の隠蔽にすぎないし、不特定の人格間の善意だけではNnが主張するかもしれない連帯や友愛ではない。一方、Nnが棲み分け論を論駁できないまま批判するなら、Nnは(脳死はひとの死だという「科学」的啓蒙と逆の方向で)生と死についての「適切な」理解を啓蒙するにとどまるだろう。

 さて、関係に依拠するNnは、当然、Ynの前述の存在論的次元をも批判する。Ynは、Xが人格である根拠をもっぱら「私はXである」というX自身の自己意識の連続にもとめた。しかし、Nnによれば、XがXという人格であるのは関係のなかでの意味づけによってである。すなわち、他者がそのひとをXと意味づけることが、そのひとがXであることのすでに一部となっている。しかも、その認識には、その他者にとってXが何であるか、その他者にとってのXの役割ないし間柄(父、母、子など)が不可分に結びついている。Nnの重んじるこの関係をコミュニケーションという観念によって説明することはできない。コミュニケーションは相互の意図した表現によって成り立つからだ(35)。むしろ、私の考えでは、この関係は存在を表情として捉える直観に根ざしている。この場合の表情とは、意図した表現に限らず、その存在がそれとして捉えられるためのありよう、たたずまいを意味している。たとえば、私たちは、顔、体つきから、影やにおい(さつき待つ花たちばなの香をかげば昔のひとの袖の香ぞする)からすら、そのひとがそのひとであることを看て取ることができる。だからこそ、もはや意図した伝達のできない脳死状態のひとが、依然としてXなのである。さらには、私たちは、顔色、肌のつやなど、本人が表現する意図を託していないものからなにかを、たとえば体調、気分を読み取ってしまう。そして、読み取られた気分は、そのひととの関係や状況しだいで、そのままこちらの気分に移ってくる。家族が人工呼吸器の停止を決心するまえに、脳死状態のひとに「相談」をしたり「許し」を求めたりする気分になれるのもそのためである。一般的には、こうした直観にもとづく判断は真の場合も、偽の場合もある。しかし、その直観は、それなしには真偽いずれの判断も成り立たないような根底的な理解の次元なのである。その直観は、私たちが見たり触れたり聞いたり他人と出会ったりしている生活世界の認識の基盤であり、最終的には知覚や生活の実践とは切り離されてしまう科学知識がもともとそこに由来している知覚の世界に属している。したがって、直観にもとづく判断が直観に反する脳死判定によって否定されてしまうとき不当に感じるのは正当なことである。なぜなら、私たちが交際しているひととは生活世界の観念であって、科学の観念ではないからだ。ただし、表情として捉えるこの直観についても、ここでは深入りすることはできず、課題に残さなくてはならない。課題の例をあげるなら、たとえば、Xというひととして捉える以上、ひととしての把捉は当然そこに含まれているが、しかし、後者の把捉が前者を基づけている(fundieren)のか。ケンタッキーフライドチキンの店先の人形をひとと見まちがえる。そういう例では、たしかに、たんなるひとが把捉されているといってもよい。だが、目下の文脈では、たんなるひとの把捉をもとにして考えること自体が誤りかもしれない。なぜなら、Nnが言及するのは不特定のひとというより、特定の関係のなかでのひと、つまりひとである以前にすでにX氏であり、親であり、子である存在だからだ。それゆえ、もし、関係が築かれていない状況でその場の直観にそのまま依拠したなら、重篤の患者をひととして捉えそこなうことさえありうる。たとえば、ある哲学者は重症水俣病患者をはじめてみて、「人間の尊厳というときの、『人間』の定義まで撹乱しかねない異状の存在」と記した(36)。しかし、近親者にとっては、患者はXというかけがえのないひとなのだ。大学の医師に「魂はもう残っとらん人間」と診立てられた重症水俣病患者の親が、「うちは不思議で、よくゆりば嗅いでみる。やっぱりゆりの匂いのするもね」と語る状況を、私たちは少なくとも思い描くことができる(37)。共感できると断言するのは控えたい。たしかに、身をもって体験している人間関係を手がかりとしてその状況へと近づいていくことはできるが、もしかすると、親子、近親者等の間柄や役割、あるいは、人称といった一般化されうる観念によって関係を分類し、想像することさえ粗雑にすぎるのではあるまいか。関係がそこまで醸成するための特定の過程こそがその関係の本質を成しているからだ。だとすれば、相応の交渉を経てはじめて、ひとは勝義の意味でひととして捉えられるようになるのであろうか(38)。そういう意味での「ひと」とは、未分化の共同的な体験に由来するものであって、それと比べると、だれもが生まれつき人権をもっているというときのような独立の存在を指示する自由主義の依拠する人格観念はそこから抽象されてできたものであろう。だが、この点についてもなお考えなくてはいけない。

 このような考察は脳死の問題から逸脱しすぎているようにみえるかもしれない。けれども、・に記したように、脳死はひとの観念やひとの死という観念を示唆している。死者と死者を看取る者との関係は、ひとの死の観念の一部をなしている。表情による理解は、ひとをひととして捉える過程の一部をなしている。それゆえ、ここに言及したわけである。

 以上、IVの要点を確認しておくと、Ynの支持する倫理的含意からはYn自身も一選択肢に相対化されうること、しかしまた、YnやNn等を相対化するこの棲み分け論自体もふたたびNnからの批判を受けて相対化されることが示された。倫理学の観点からは、論議は依然継続中なのである。

 

V

 とはいえ、たとえ論議がじゅうぶんに展開されてこなかったにしても、臓器移植法が国会の手続きを満たしているという意味で正統性をもつことに変わりはない。最後に、同法が今後も正統的であるために、これまでの議論からとりだされる若干の意見を記しておく。

 第一に、同法が成立するまで顕在的に論定された根拠を維持して、危惧されている滑りやすい坂道を徹底的に避けなくてはいけないということである。とくに滑りやすい坂道としてあげられてきたのは、臓器提供候補者の範囲の拡大だった。IIに記したように、脳死状態からの臓器移植の推進派の日本での主流はYyであって、Yn’ではない。したがって、推進論の根拠をことあるごとに確認することによって、Yn’へのひそかな転向、推移を阻まなくてはいけない。

 第二に、脳死をひとの死とみなすか否かは個人の選択にゆだねられたわけだが、その選択がほんとうに個人の自由にもとづいてなされるためには、第六条は厳格に守られなくてはいけない。その第六条の第3項では、脳死判定をするにも本人の書面による事前の意思表示が必要とされた。第3項が、臓器提供の場合に限るのか、臓器提供と無関係な脳死判定にも適用されるのかは、同条項それ自体では明らかではない。これまでは、臓器提供と無関係であっても、脳死と判定されると、回復をめざしたそれまでの治療を続けてももはや無効だから、医療措置のレベルが切り下げられてきたのだが、第3項が臓器提供と無関係な場合にも適用されるとすれば、本人が脳死判定をするように意思表示していなかった場合には、この切り下げはできなくなるはずである。だが、本人の希望が心臓死まで待つことであって、心臓死をできるかぎり延期することではないなら、切り下げたほうがよい。そのためには、臓器提供と無関係な場合の脳死判定には、本人の文書による意思表示は必要ないとするほうが実際的である(39)。適用事例をもっぱら臓器提供をする場合の脳死に限定している点を強調して、法を読めば、臓器提供に無関係な脳死判定については従来のとおりに黙認しているとうけとれる。厚生省は運用指針を示しているが、実際の運用にはこれまで述べてきた複数の立場の争点に関わることも多いのだから、本来、省令や指針などによるのでなく、公開の論議が必要である(40)

 第三に、臓器提供の意思がないひとも脳死判定を受け、脳死と判定された場合、脳死状態への医療措置の費用の負担によっては、本人の事前の意思や家族の意向に反して、脳死状態を早く打ち切ることになりやすい。したがって、付則第十一条は、少なくともこの事例では、医療給付を「当分の間」に限らず続行しなくてはならない。そうしないと、第六条に宣した選択の自由を実質的にほりくずすことになる。付則第十一条の意図はもともとほりくずしにあったとも疑いうるだけに、滑りやすい坂道は防がなくてはならない。

 第四に、本人の意図に反して臓器摘出をされたり、脳死段階で死んだとみなされたりするのを阻むために、自己決定が尊重され、第六条が精錬されてきたのだが、自己決定は臓器提供者だけでなく、受容者についても尊重しなくてはいけない。この問題についてはすでに日本弁護士連合会が指摘しているが、臓器移植法第四条は依然として医師が説明する内容が明確ではない(41)。臓器移植以外に救命手段がなければ、患者が移植を望むのは当然のように思われる。だが、移植が普及すれば、たとえば、人工透析よりも脳死状態からの腎移植のほうがQOLが高いというので、移植が提案される事例も出てくるだろう。移植が成功すると人工透析を継続するよりも医療資源の負担が軽減するのであれば、その理由から移植が勧められる場合もある。患者がどちらを選ぶかを自分の意志によって決めるには、移植手術と予後についての的確な情報が保証されていなくてはならない。

 そのほか、需要に満たない臓器をどのような基準で配分するかなど重要な問題は多いが、本論では、脳死はひとの死かという問題と自己決定の原理に文脈をしぼってきたので、他の問題にふれることはさし控える。

 論議ないし討議を強調して、滑りやすい坂道を防ごうとする本論の論旨は、あまりに楽天的にみえるかもしれない。議論そのものが滑りやすい坂道を滑っていくことも当然あるからだ。また、政策の決定と実施には、議論とは別の力関係や策略が働くこともたしかである。しかし、力と策略に同じ手段で対抗することができないかぎり、なしくずしの運用を防ぐには、主張をする者に論拠を明確にさせ、他の論拠と区別させ、そうして得られた言質によってその主張をする者を論理的に拘束していくほかない。その効果がどうであれ、それを無力というならば、すでに坂道を滑っていくのをみずから許したといわざるをえない。

 

1) 平成9年法律第104号(7月16日付官報、第2181号に公布)。10月16日より施行。同法の施行規則は、平成9年厚生省令第78号(10月8日付官報、号外第204号に公布)に定められている。

2) 同案への反論を定式化するのに、日本弁護士連合会が平成7年3月に出した「『臓器の移植に関する法律案』にたいする意見書」(町野朔・秋葉悦子編『脳死と臓器移植』第二版、信山社、1996年)を参照した。

3) 反論を紹介する文脈では、反論は脳死状態のひとを死者と認めていないのだから本人と記し、したがって、遺族は家族と記す。

4) 平成4月18日の衆議院厚生委員会では、「すべての国民が脳死をひとの死と判断いただけるところにいたっていない。こういう法律を書いて、国民にわかりやすくしてあげるのが大事だと思っている」(厚生省 保健医療局長)と「国民がわかっていないからと法律で押し付けるのではだめだ」(鴨下一郎議員)というやりとりがあった。同委員会は同日審議を終了した(4月19日朝日新聞)。脳死と臓器移植については、情報を開示しない医療への不信がすでにあったが、法案の成立経過をとおして、拙速な審議をする国会への不信と暮らしに干渉する官僚への不信がさらに重なっていったように思われる。朝日新聞が5月24、25日に実施した電話による世論調査では、法律で脳死をひとの死と決めることに賛成40%、反対42%。また、脳死をひとの死とするかにたいして肯定40%(心臓死に限るという回答は48%)。後者の質問は、1996年9月の面接調査では53%(同38%)で、衆議院で中山案を採決したあとに、肯定回答が減っている。

5) 平成6年1月に脳死及び臓器移植に関する各党協議会が出した「臓器移植法案(仮称)要綱(案)」(町野・秋葉、前掲)は、脳死判定にさいして、家族にたいして脳死の説明を行う必要を注記している。ここから、脳死判定には家族の納得が要るという解釈もある(中山研一・福間誠之編『本音で語る脳死・移植』、メディカ出版、1994年、106頁)。ただし、同要綱も本人の脳死になる以前の脳死判定にたいする態 度決定には言及していない。

6) 厚生省の運用指針では、移植コーディネーターが家族への説明をすることになったが、救急医、コーディネーター、移植医の役割分担を明確にしないといけない。

7) 脳死という表現がすでにひとの死を論点先取してしまうのを避けるために、別の表現(脳不全など)を用いる論者もいる。

8)以下の議論は、品川哲彦「死の問いというよりはむしろ〈ひと〉の問題として」、和歌山県立医科大学進学課程紀要、第21巻、1991年、35-37頁の内容を発展させている。

9) 厚生省科学研究費特別研究事業脳死に関する研究班が昭和60年度研究報告として出した「脳死の判定指針および判定基準」のことで、研究班長竹内一夫杏林大学教授の名をとって竹内基準と呼ばれる。厚生省令 第2条にあげられている脳死判定の必須項目(深昏睡、瞳孔拡大、脳幹反射消失、平坦脳波、自発呼吸消失、以上の項目の6時間以上後の再確認)、判定対象の範囲(ジャパン・コーマ・スケール300かつグラスゴー・コーマ・スケール3で原疾患が明確な場合)と除外例(6歳未満、薬物中毒、低体温、代謝性障害・内分泌性障害、自発運動・除脳硬直・除皮質硬直・けいれんのある場合)は竹内基準にしたがっている。立花は、脳細胞が壊死していくための決定的な前提として、さらに血流停止を確認するように主張した。

10) 評価と規範を含むから倫理的判断である。ひとを尊重するから倫理的判断だというのではない。他の生物をひととまったく同等に(ないしはそれ以上に)尊重する倫理が、たとえ常識に反しても、ありうるからだ。

11) 日本脳波学会脳死と脳波に関する委員会は第一回委員会で全脳死を採択し、厚生省脳死に関する研究班によって支持された(同研究班、「昭和60年研究報告」。町野・秋葉、前掲)。

12) 厚生省脳死に関する研究班は、報告第二章末尾で、同報告が「あくまで全脳死の判定指針と基準であり、わが国において、脳死をもって死とする新しい『死』の概念を提唱しているわけではない」と明言している。

13) 機能死が事実上採択されたが、この論争も決着がついたとはいえない。立花は脳細胞の壊死が不可避に起こる条件の確認を主張しているのに、反論は論点を壊死そのものの確認に移している。(厚生省脳死に関する研究班「脳死判定基準の補遺」日本医師会雑誌105巻4号、1991年。町野・秋葉、前掲)。

14) 死とは何か、脳死は死とどう関わるか、が立花にとっての第一の問題である。(立花隆『脳死』、中央公論社、1986年、94頁)

15)H・T・エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』加藤尚武・飯田亘之監訳、朝日新聞社、1989年、255頁。なお、同書第二版では、同じ箇所は「重大な脳の損傷を蒙りながら生き残ることができたときに、そのひとがあの状況では[生き残るように]処置してほしくなかったと思うかもしれないと考えると、偽陽性判定をさほど心配する必要もないかもしれない」と修正してある。Engelhardt,H.T., The Foundation of Bioethics, 2nd. Oxford, 1996, p.244.

16) 中島みち『見えない死』、文藝春秋社、1985年。

17) 森岡正博は、私の死(一人称の死)、親しい他者の死(二人称の死)、見知らぬ他者の死(三人称の死)を分け、生物医学の次元の脳死論は三人称の死しかあつかえないと指摘している(森岡正博『脳死の  人』、東京書籍、1989年、144-145頁)。また、小松美彦は脳死を「無人称の死」「平板な死」と表現している(小松美彦『死は共鳴する』、勁草書房、1996年、215-216頁)。小松は、科学史、心性史、哲学など不可欠かつ多様な観点から脳死を考察している。柳田邦男は脳死状態になった次男についての記録のなかで二人称の視点の重要性を主張している(柳田邦男、『犠牲』、文藝春秋社、1995年)。ただし、個人の不幸に酷な言い方かもしれないが、この書物には、脳死についての柳田のそれまでの見解にたいするジャーナリストとしての責任の意識が明確ではない。

18) Williams,B., Making Sense of Humanity, Cambridge, 1995,p.213.(M・ロックウッド『現代医療の道徳的ディレンマ』加茂直樹監訳、晃洋書房、1990年、238頁)

19) 杉本侃大阪大学教授(当時)らが1985年に開発した。Singer,P.,Rethinking Life and Death, St.Martin's Press, 1994, p.31.立花、前掲、437-439頁。阪大病院「脳死」と臓器移植の問題を考える会・大阪 大学附属病院看護婦労働組合編『臓器摘出は正しかったか』、あずさ書店、1991年、69-71頁。

20) Singer, ibid., p.32.

21) Lamb,D., Organ Transplants and Ethics, Avebury, 1996(Routledge,1990),Ch.3.

22) Lamb, ibid., p.45.

23) 立花、前掲、337頁。

24) Lamb,D., op.cit., p.50.

25) 立花もまた意識の多義性を指摘している。立花、前掲、141-155頁。立花の関心は内的意識から臨死体験におもむいた。

26) M・B・グリーン、D・ウィクラー「脳死と人格同一性」、加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』、東海大学出版会、1988年。

27) 救命のさなかに予後の回復の程度の見込みから、その患者を人格ではなくなったと決めることはできない。規準が曖昧だからである。また、脳死となるのを防ぎ、従来よりはるかに優れた回復に通じる脳低温 療法も開発されつつある。

28)脳死状態のひとへの医療措置は、そのひとのためというべきもの(たとえば、家族が別れを受容するまで心臓死を延ばす)と臓器受容者のためのもの(たとえば、臓器の状態を保つために輸液する)に分かれ る。付則第十一条にいう医療給付の対象をこれによって分けるべきか、また、後者の措置は臓器受容者側が負担するのかなどの問題がある。

29) 小松、前掲、81-82頁。

30) 小松、同上、209頁。

31) 小松、同上、157-158頁。

32)小松、同上、224頁。しかし、小松のいう死者との共鳴は、脳死導入によって起こりにくくはなるにしても、ひとが他人の死を経験するかぎりはなくなるとは考えられない。小松の論理はときに滑りやすい坂道論を多用しすぎるきらいがあるように思う。

33) 品川哲彦「哲学や倫理学の研究者は生命倫理学において何をすべきか」、加藤尚武・加茂直樹編『生命倫理学を学ぶ人のために』、世界思想社、1998年。「生命と倫理」、宇都宮芳明・熊野純彦編『倫理学を学ぶ 人のために』、世界思想社、1994年。

<34) マッキンタイアが別の選択肢としてあげるのはアリストテレス的伝統である。それと近代の自由主義との対決については、A・マッキンタイア『美徳なき時代』、篠崎榮訳、みすず書房、1993年、とりわけ14-18章。

35) 1992年11月にエアランゲン大学で妊婦が脳死になった事件を機に、ドイツでは、脳死はひとの死かという問題が再燃した。1994年12 月16日にボンで開かれた『「脳死」規準と臓器摘出』シンポジウムでは、脳死状態を死体とみなすG・シェーラーに、「死んだひとと私たちとの関係をどう思うか」という質問が出た。シェーラーは、社会関係のなかで自己実現するからこそひとであって、脳死状態は社会関係を失っ たから死体だと答え、「死んだひと」という表現を拒んでいる。シェーラーは意図的な交流を関係と呼び、質問者はおそらく生者の死者にたいする態度も関係と呼んだのだろう。そこにずれがある。(Jahrbuch für  Wissenschaft und Ethik, Bd.1, Walter de Gruyer, 1996, S,222.)

36)市井三郎「哲学的省察・公害と文明の逆説」、色川大吉編『水俣の啓示』上、筑摩書房、1983年、404頁。このことは、市井が素朴で無前提な直観によっているということを意味していない。市井が事態をこうみた前提には優生学がある。それについては、最首悟「市井論文への反論」(色川、同上)、さらに両者の論文をあわせて検討している丸山徳次「水俣病と倫理学」、『倫理学研究』第26集、関西倫理学会、1996年を参照。

37) 石牟礼道子『苦海浄土』、講談社文庫、1972年、229頁。

38) 村瀬学は、「自分が世話をしなくては死んでしまう」と思って障害児を育ててきた母親をとりあげて、「はじめに『人間』の定義があって、そういう『人間』の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる『内部』があったと理解すべきなのであろう」と記している(村瀬学『「いのち」論のはじまり』、洋泉社、1995年、181-186頁)。

39) 修正中山案の提案者は、救急医療現場などで診断のために脳死判定を実施することを認めている。その場合、脳死であっても死んだとはみなさない。(4月16日参議院臓器移植特別委員会での木庭健太郎議員の発言。4月17日付朝日新聞)。だが、条項そのものはどちらともとれるので、医師側からは、「我々が行っているのは脳死の診断であって判定ではない」(桂田菊嗣大阪府立病院救急診療科医務局長の発言。6月18日付読売新聞)という解釈も出た。しかし、用語のいいかえでは患者の家族が疑念をもつだろう。

40) 朝日新聞は、厚生省令の運用指針が脳死判定をしたあとで家族に本人の臓器提供の意思を確認するように示唆していると解している(9月25日付朝日新聞社説)。ところが、脳死判定を受ける意思と臓器提供をする意思との確認は一体だから、すでに脳死判定がなされるまえに本人の意思は確認されているはずである。むしろ、上のやり方は、脳死判定を受けるには本人の事前の意思表示を要するという要件をなしくずしにしていくおそれがある。また、同社説は「脳死なのかはっきりしない時点で、家族に臓器提供の話を切り出すことも起こりかねない。『救命に最善を尽くしていない』との疑惑も出るだろう」と記している。ところが、事故などで運ばれてきた本人に脳死判定を受けて臓器提供をする意思を確認するいとまはないから、実際には、臓器提供の前段階である脳死判定をするまえに、つまり、脳死かどうかはっきりしない時点で、家族に本人の臓器提供の意思を問い合わせなくてはならない場合が多いだろう。だから、上の順序は、本人の持ち物からドナー・カードが発見されるなどして家族を経ずに本人の意思が確認された場合を除けば、「起こりかねない」どころか、起こるのが当然である。

41) 日本弁護士連合会、「『臓器の移植に関する法律案』にたいする意見書」、前掲。


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