品川哲彦『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』 

著者から野崎泰伸さんのコメントにお答えして

 

 標記の拙著(ナカニシヤ出版、2007年)について、大阪府立大学現代思想研究会&「生命の哲学」研究会で合評会(2008年7月21日、立命館大学大阪オフィス)を開いていただきました。そのさい、森岡正博さんからご自身の「生命の哲学」に立脚したコメントを、また、拙著第一部「責任という原理」については吉本陵さんから、第二部「ケアの倫理」については野崎泰伸さんからコメントをいただきました。そのうち、野崎さんの当日の配布物はネット上に掲載されています(こちら)ので、ここで著者から応答をしておきたいと思います。

 

1.野崎さんによる「構成の再確認」について

 野崎さんは拙著第二部の内容を「再確認」されていますが、著者として修正・補足を提案したいところを以下に記します。なお、著者自身によるこの本の背景説明等については、いずれ、別箇所に提示いたしたいと考えています。

 

第七章 ケアの倫理の問題提起

 野崎さんは反転図形について、「「根本的な規範」と「個人的な状況への還元」という「反転図形」」と要約されていますが、反転図形とは、ケアの視点からみるときと正義の視点からみるときとでは、同じ状況がまったくちがってみえるという話です(拙著163-164、216頁)。ケアの視点は「ケア」を根本的な規範にしており、正義の視点は「正義」を根本的な規範にしています。その具体的なちがいは同所に例示しました。「根本的な規範」と「個人的な状況への還元」が反転するわけではありません。

第八章 ノディングスの倫理的自己の観点

 この章では、28頁、171頁に記したように、通常は正義によって答えられるべき問いにたいして、正義に依拠しないでケア倫理の規範だけで答えることが可能か、答えるとすればどのような答えがありうるかという点について思考実験をしています。野崎さんの要約 にある「ケアされる対象の範囲」「ケアのディレンマ」「ケアの限界」についてがそれです。したがって、それにたいする回答を「倫理的自己」との関連で答えている点にご注意ください(本書184-187頁に明記しています)。

第九章 ケアの倫理、ニーズ、法

 イグナティエフとテイラーはケアの倫理ではなく、ニーズを論じている点で、ノディングスの議論と対比するために引用しています。

第十章 ケア対正義論争――統合から編み合わせへ――

 野崎さんの要約の末尾にある「オーキンとヘルドの主張の対立には、他者理解(「原初状態」における他者か、現実に生きている他者か)の違いがある」では、拙著がこの点においてオーキンとヘルドとを直接に対比しているように読め てしまいますが、実際に拙著が記している内容は次のとおりです。オーキンの援用するロールズの原初状態では、原則的に、一般的な情報によって構成される一般的な他者であり、そこに具体的な他者を 読みとろうとするオーキンの解釈は支持しがたい(237-238頁)。他方、(ヘルドだけでなく)ケアの倫理の論者が考えている他者は、個別の人生を生きている具体的な他者である(238頁)ということです。

第十一章 ケア関係における他者

 ベナーの議論はハイデガーの関心の概念に依拠していますが、そのハイデガー理解はドレイファスを経由している点(246頁)にご注意ください。なお、「ひとは世界のうちに投げ出されている(投企)」と要約されていますが、もし、投げ出されているほうをお書きになりたいなら、それにあたるのは「被投」のほうです。

 「他者論の系譜」という題目で要約されたのは、拙著第十一章第二節の箇所でしょうが、その箇所では、自然的(日常的)態度において理解されている他者と、現象学的態度ないし(日常的に流通している理解を徹底してあらためて捉えなおす)現象学的分析において現れてくる他者とが対比されています。野崎さんは、フッサールについて「他我」、ハイデガーについて「他者は私と同等の現存在」等とかんたんに記しておられますが、自他の「同等」が前提されているのはハイデガーでは日常性、フッサールでは自然的態度においてであって、ハイデガーでは本来性、フッサールでは現象学的態度ではそうではありません。そのちがいがその節の叙述にとって必須の論点であることにご留意ください。

第十二章 むすび

 (1)−(7)は拙著266-268頁に記した項目をほぼ再録していただいておりますが、そのあとの「財の再分配の根拠を正義の倫理の内部において語ることはできない(しなくてよい)」の一節は、理解できませんでした。財の再分配は、むしろ、正義の倫理の議論です。ひょっとすると、第十二章第二節「分配的正義への回収は可能か」のところをそのようにうけとられたのかもしれませんが、同所でいわれているのは、責任という原理やケアの倫理の 提起している提起は、分配的正義に依拠する議論で完全に解決できるものではないということです。

 末尾の「異なる理論をひとつの視点で見ることによって、今後の展開の可能性を示唆」については、「ひとつの視点」が「正義と境を接するもの」という視点のことだというご理解であればけっこうですが、もし、ケアの倫理と責任原理とをまとめるような「ひとつの視点」としてうけとられたのなら、それは拙著のスタンスではありません。拙著は「合わせ鏡のようにして」正義の倫理と責任原理ないしケアの倫理との両者をそのちがいを保ちながらみるというスタンスをとってい るからです。

 

2 野崎さんの提起される「議論したい論点」について

(1) 「個別具体的な文脈における配慮や世話は必要であるにせよ、たとえばそれを「権利」の言葉として「法」に書き込むこともまた必要であろう」は、まさに拙著第九章、第十章のなかでとりあげているケアの倫理による社会政策論の論点にほかなりません。ついでながら申せば、社会政策論にとりくんでいるケアの倫理論者は「個別具体的な文脈における配慮や世話」が必要だといっているだけではなくて、だれしもケアされる必要がある(それなしには生きていけない)という(個別的状況を超えた)一般的な根拠から社会政策を考え直そうとしています。

  ちなみに、野崎さんは、「正義の倫理とケアの倫理とは――統合でも編み合わせでもよいが――両者とも要請されるのではないか」と記しておられますが、「統合か編み合わせか」は正義の倫理とケアの倫理の基礎づけの問題であって、ある倫理理論の立脚する根拠を問うてきた拙著にとっては、どうでもいい論点ではありません。拙著は 、どちらの規範が倫理の立脚する最も根底的な基礎となるかという問題においては、正義の倫理とケアの倫理とは相互排除的だが、正義とケアという個別の規範は両立しうる(147-149頁)と主張しています。基礎づけのレベルの議論と個々の規範の両立如何のレベルの議論とを分けろというこの指摘は第二部の重要な鍵です。後者のレベルにおいて、一方だけでよいといっているわけではありません。つまり、野崎さんの上の問いにからめていうなら、両方とも規範として要請されるが、しかし、正義の倫理に立脚する論者はケアが要請される根拠を、ケアの倫理に立脚する論者は正義が要請される根拠を、どのようにして提示できるのかという別の問題も 、拙著は考えているのです。

(2) 拙著が「語り得ないものについては沈黙せざるを得ない」と抑制的な態度をとっているとうけとられたようですが、拙著は、正義の語り口と責任(ケア)の語り口(199-200頁)とのちがいを明示こそすれ、一方の語りを否定しているわけではありません。なお、ウィトゲンシュタインのこのことばは、私の理解では、命題(すなわち真偽の決定しうるもの)で語れないことは命題のかたちで語ってはならないということを意味しています。 命題というかたちではない別の語りもあることは、後期ヴィトゲンシュタインの言語ゲームの概念が示すとおりです。拙著第五章に紹介するヨナスのミュートスは 、まさに「ミュートス」という表現によって、真偽が決定できないことがらを語っているとことわりながら、なおかつ、命題ではなくミュートスというしかたでそれについて語ろうとする企てです。

(3) 「ケアの倫理における女性、子ども、年老いたもの、病人への視点は、まさにこうした「法」の外への目配りを大切にするという点において、意味あるものである。しかしまた、無法状態が正義を導くものでもないだろう」という箇所に、なぜ 、「無法状態」が出てくるのかが理解できませんでした。拙著は、責任原理ならびにケアの倫理を正義の倫理と対比していますが、だからといって、そのことが「無法状態」につながるわけではありません。「責任やケアの観念が正義の観念と対比されるとしても、もちろん責任やケアは不正義という意味で正義と相反するわけではない」(6頁)とことわっているとおりです。野崎さんの上記の疑問は、ひょっとすると 、「法の外」という語句を「無法」と理解されたためかもしれません。しかし、拙著に引用したその観念はデリダの法と正義との対比に由来しており、既存の法を超える正義を意味しています。野崎さんはのちの箇所で「現存する法を正義の方向に変えていく」と記されているので、上の趣旨は的確に理解してくださっていると は存じますが。

  結尾に出された野崎さんの「そうした正義論もまた、ケアの倫理の良質な部分を受け継いでいるのではないか」という問いかけについては、まずは、正義を根拠とすればケアの視点も含むことになるゆえに「そうした正義論」ができあがるのか、「ケアの倫理の良質な部分」とはどのような面をどのような基準で「良質」といわれるのか、を展開されることを望みます。

  野崎さんご自身の構想についてここでコメントする文脈でもありませんが、ひとこと申せば、「人権」を保障する根拠がどこにあり、また、それを保障する制度が実際にそのように機能しているかという点が、ケアの倫理の社会政策論の問いかけに通じています。前者については、ケアの倫理の社会政策論(たとえば、ノディングス)は、ニーズを権利の根拠におくことで答えようとし、後者については、千篇一律の官僚的対応ではないケアを要請しているわけです。この点では、野崎さんご自身がその方向性をケアの倫理のなかに見出されているのだろうと思っております。

  なお、「ケアの倫理が目配りする人たちに加えて、たとえばホームレス、障害者、ワーキング・プア、ニートと呼ばれる人たち」と書いておられますが、ホームレスについては、まさにノディングスの書名Starting at Homeは現代のhomeless的状況を重視したからの命名であり、実際にホームレスの人びとのことも扱っています。(このあたりに、伝統的な意味でのホームがこわれてしまった現代にたいする意識がうかがわれます)。また、ヘルドの議論もグローバリズムにたいする疑問を打ち出している以上、ワーキング・プアやニートも視野に入ってくるでしょう。障害者も、病気や老いに代表される人間の傷つきやすさに着目するケアの倫理の視野に入っています。つまりは、野崎さんが「加えた」人たちは、ケアの倫理がすでに「目配り」している人びとといってよいでしょう。

(4) 「パレスチナのことは遠いから気にかけなくてもよい、というなら、私たちは近い日本のことを考えているのか」という(岡真理さんを引用しながら)野崎さんの立てられた問いは、まさにケアの倫理の論者も共有するでしょう。むしろ、身近な他者へのケアを主張するケアの倫理は、まず、それを要請しているのです。しかし、その身近な他者は、関心や間柄の近さであってよいのですから、近親者にかぎられるとは断言できません。この点はなお議論の余地があるかもしれませんが、ケアの倫理に往々にして投げつけられる「家族や友人の偏重」という非難は、公的領域と私的領域の峻別の打破をめざすタイプのケアの倫理(拙著第九章)にはあてはまらないでしょう。

(5) 「私たちは何をどうされれば存在を承認されたことになるのか」という野崎さんの問いは、拙著ではイグナティエフにからんで「承認の弁証法――人間として認められるには人間とであるだけでは足りぬ」(205頁)という表現で論じています。野崎さんの「「いまここに生きて在ること」に何らかの要素がプラスされるべきなのか?」という問いに、イグナティエフは国家や集団 に帰属する必要を示唆しています。イグナティエフの移民としての経験に裏打ちされた鋭い洞察です。しかし、ケアの倫理はおそらくはそう答える選択肢をとらないでしょう。なぜなら、人間は完全に自己充足できないから、たがいにケアすべきであって、同属集団のメンバーであることやそのひとの値打ちに応じてケアすべきだということにはならないからです。しかし、それでは「いまここに生きている」ひととして認められるだけで、認められる側は満足するのか――野崎さんの疑問はそういう意味でしょう。私もその疑問はもちます。けれども、だからといって、「いまここに生きている」ことに加えられるプラスが、ある集団への帰属や個人の値打ちのことだとしたら、集団の外部やその値打ちをもたないひとは排除されることになります。ケアの倫理はその方向をとらないのです。その要請は、カントの概念を借りれば、感情価格や市場価格ゆえに尊重されるのではなく、人間の尊厳ゆえに尊重されなくてはならないという要求に似ています。とはいえ、ひとびとが求める「自分だけの価値」は、だれについても認められる尊厳ではなく、それを超えた感情価格や市場価格であることが通常なのですが。ご指摘の疑問はそこをついている重要な指摘と考えます。

 私には、他のだれかとそのひととのあいだの値打ち(市場価格であれ、感情価格であれ)を比較してそのひとを重視するというのではなくて、他のだれとも異なる(とはいえ、「個性的」といったこれまた比較可能な基準をもちこむのではないしかたで)「あなた」と呼びかけることに、ケアの倫理の求める人間尊重があるように思います。それがどれほど難しかろうとも。

 

  気づいた点、全部にお答えしたわけでもありませんが、以上をもって応答といたします。


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