品川哲彦『正義と境を接するもの 責任という原理とケアの倫理』 

著者から江口聡さんのコメントにお答えして

 

 標記の拙著(ナカニシヤ出版、2007年)について、平成20年度科学研究費基盤研究(B)「生命・環境倫理における『尊厳』・『価値』・『権利』に関する思想史的・規範的研究」(課題番号20320004、研究代表者盛永審一郎)第1回研究会で合評会(2008年7月27日、桜美林大学淵野辺キャンパス)を開いていただきました。そのさい、江口聡さんからコメントをいただきました。江口さんの当日の配布物はネット上に掲載されています(こちら)ので、ここで著者から応答をしておきたいと思います。

 

レジュメ1頁1-3行

 「法哲学や政治哲学とほとんど見分けがつかなくなっている近年の国内の倫理学(道徳哲学)に喝を入れる書として読ませていただいた。綿密な調査と深い考察はすばらしい。註や文献情報も充実しており、この分野の研究を大きく進めるものとなるだろう」。

 ありがとうございます。

 

2.正義論と未来世代

2.1 各種正義論の理解

 に「法や社会制度を評価する際の『正義』と、人物や性格特性を評価する際の『正義』の正義の違いについて品川がどう考えているかわかりにくい」とあります。そのあとに、ロールズが「社会制度あるいは実践の徳」としての正義のみを論じ、「特定の行為や人物の徳」としての正義を論じないとする箇所が引かれているのをみると、江口さんは前者の文脈を選ぶほうを支持されているようです。

 ところで、ケアの倫理による正義の倫理への異議申し立て(拙著第二部の主題)では、ケアは志向ないし指向(orientation)や性向(disposition)を意味しています。すると、それと対置される正義もまた指向や性向ととるのが自然ですから、つまり後者の文脈で正義を語っているようにみえます。しかしまた、ケアの倫理が正義の倫理に対抗する社会政策論を打ち出している文脈では、法や社会制度を評価する視点ないし規準としての正義にたいして、ケアという別の視点ないし規準を打ち出しています。したがって、前者の文脈も語っているわけです。そういうわけで、拙著のとりあげた論点には、江口さんのいう二つの意味での正義がともに論じられています。 ですから、一方の正義概念だけに話を収斂させることはできません。

 文脈のちがいをそのつどもう少し明確にすることができればよかったかもしれません。とはいえ、制度か人物かという峻別それ自身が、近代ないし現代的な見方と結びついている面もあります(拙著第1章に言及しているアリストテレスの正義論では、一般的正義がプラトンの完全なる徳としての正義を継承していおり、一方、特殊的正義のほうが近代や現代の議論の正面に押し出されています)。この峻別のもとでは、ケアの倫理を徳倫理の一種とみる解釈が手近になります。私は両者のちがいを指摘して、この解釈を批判しています(拙著第7章2・4など)。そのために、この区別にのるのをさけた面があります。

 10に、「品川は『対等な関係』を『実際の能力の差がないこと』『権力(力)関係が対等であること』と解釈しているようにみえる」とあります。拙著161頁等に、A.Baierの「みかけの平等を達成させられるように上昇させられる」という指摘を引いています。そこからわかるように、実際には対等な関係ではないものが、正義の語り口(拙著199頁の表現)では、対等にみせかけられてしまうことを論じているのであって、私自身が「対等な関係」を「実際の能力の差がないこと「権力(力)関係が対等であること」に限定して理解しているわけではありません。

 なお、その直前のの拙著からの引用では、「現代の正義観念は、人間が人間であるかぎりは平等に尊重される権利を最も根底の基盤としている」のくだりは、「人間が人間であるかぎり」のところに力点があります。むろん、 人間が人間であるかぎり尊重されるというその考えを批判しているのではなくて、この捉え方では捉えきれない面を、責任原理やケアの倫理は指摘しているだろうというのです。

2.2 ヨナスの議論

 2の遂行論的基礎づけへの批判ですが、ご指摘どおりの拙著285頁註25にあるように、「ここでの議論は人類全体をひとつの判断主体として想定している」とあることにご留意ください。江口さんの指摘する「私は生きているべきか? いやそうではない」は、私ひとりが死んで、他の誰かは依然として生きている状況を想定されているように思います。

 私が遂行論的基礎づけを提案した背景には、ヨナスにたいして最も活発に批判をくりだしてきたドイツの討議倫理学者による議論が背景にあります。討議倫理学者からのヨナス批判のほとんどは、

「前提Pr-a1:現代は価値多元社会であって、特定の形而上学に依拠することはできない。前提Pr-a2:ヨナスは特定の形而上学に依拠している。結論C-a:ゆえに、ヨナスの議論は説得的ではない」

 あるいは/かつ

「前提Pr-b1:直観による基礎づけは、その直観をもたない人間には無効である。前提Pr-b2:ヨナスの議論は直観によって基礎づけられている。結論C-b:ゆえに、ヨナスの議論は説得力をもたない」

という形式をとっています。これにたいして、私は、ヨナスの特定の形而上学(自然哲学)、あるいは、乳飲み子の例(あれを基礎づけの例とみなす解釈自体が疑われます。拙著100頁)に訴えないやり方で、「責任が存続することが第一の責任だ」というヨナスの主張を支える議論を模索していました。遂行論的基礎づけはそうやって案出されたものです。

 したがって、江口さんが尾形敬次さんの論文から引用されたように、ヨナスが存在論に依拠した説明をしていること――ただし、それは”the”つき説明ではなくて、”a”つき説明です。彼は、拙著 第5章に記したように、かなりいろいろなタイプの説明をしているようにみえます――は、私としては承知のうえで、むしろ、ヨナスの形而上学や存在論にくみした議論にコミットしないで考えてみることが、遂行論的基礎づけの試みだったわけです。

 このあたりの事情は、著者からのひとことに別掲しておきます。

  で、江口さんは、将来世代の存続について、「(a)私が生きていることは私にとってよい。(b)私にとってよい(正しい)ことは他の同様の人にとってもよい(正しい)。←シジウィックの正義の原理 (c)したがって、将来も私に似た人びとが生きていることはよい」で片付くと主張しています。

 私には、これですむようには思えません。私自身には、原罪意識というと大げさですが、なにかそのようなものがあって、(a)のように単純にいいきるのをためらうところがあるか、あるいはもっと正確には、「私が生きていること」は「私にとってよい」としても「他者にとってはどうなのだろう?」と問うところがあります。そういう面が、ヨナスの「人類が存在することが全世界にとって喜ばしいことか、恐るべきことか」(拙著39頁)という問いかけにシンパシーを感じるところがあるのかもしれません。あるいはまた、拙著のはしがきiv頁に引用した「過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じだ。何のために永遠にものを造るのだ。元からなかったのと同じじゃないか。おれは永遠の無のほうが好きだな」というメフィストフェレスのせりふに、そうした発想がまちがいであるとただちに思いなおしながらも、一脈の共感を覚えてしまうような一面が。――ま、これはargumentとは別ですが。

 

3 「ケアの倫理」の解釈は妥当か

3.1 「ケア」と「ケアの倫理」の曖昧さ

 で、品川の「ケア」の記述にブレがあり、曖昧だと批判されています。この批判を受けるのはもっともで、ケア、そしてまた、ケアの倫理はそうすっきりした説明ができないものです。拙著を書くとき、私は、こちらを押せば、あちらがふくれてはみだす餅のようなものと格闘する思いでした。開きなおりのようにとられては主意ではありませんが、もともとそういうものであるように思います。むろん、「ダレソレのいうケア」といちいちことわれば別ですが、そのダレソレたちの多くは、少なくともケアなりケアの倫理という概念は共通に使っているのですから、それらをひっくるめて論じるなら、誰もが私のした苦労と似たような目に陥るかと思います。むろん、私以上にうまく切り抜けるひとがいるかもしれませんが。ただし、以上のことと、ケアが他の概念と同じじゃないかという批判にうなづくこととは別です。

 で、私が「愛していなくても、ケアする責任は消えない」(拙著147頁)と記したのにたいして、江口さんは「愛していなくても、愛する責任は消えない」と切り返しています。私はその箇所の直前に、「たまたま事故現場に居合わせれば、自分のなしうる範囲で見知らぬ他人を助けなくてはならないように」と例を出しています。私には、この例のようなケースに「事故にあった見知らぬ他人を愛さなくてはならない」と主張する気にはなれません。これにたいして、合評会の席上では、江口さんは、このケースは相手が行きずりの他人であって、ケアの用件たる「専心没頭」を満たしていないのではないかと疑問を出しました。しかし、私には、そのときにそのひとを助けるために(お礼を目当てに、とか、報道関係者のカメラを意識して、などというのではなくて)専心没頭することはありうるでしょうし、そのひとのためということで動いているなら「動機の転移」もあるように思います。もしかすると、江口さんが拙著を読んでうけとったケアの要請はあまりに高くて、愛に近づいているのかもしれません。

 4、5、7あたりで、江口さんには、ケアといわずに、仁愛や愛、アガペーといえばいいではないかという意向が働いているようです。私がケアをこれらと区別しているのは、ひとつには、宗教的伝統に依拠しないしかたでケアの重要性を主張する議論を重視したいからです。逆にいえば、当然予想されるように、キリスト教的な価値観や倫理観を背景にしたケア論が欧米にはあります(邦訳されているのでは、ローチのケア論がそうです)。宗教的伝統に依拠しないでケアの重要性を主張するとは、人間が生きていくためにはケアしケアされる関係が不可欠だという論拠による議論を念頭においています。

 ではまた、江口さんは、ケアはアリストテレスのフィリアとちがわないと主張しています。なるほど似たところはあります。しかし、私は江口さんとちがって、ある時代のある哲学者の思想のある概念をその時代やその哲学者の別の文脈とすっきりときりはなして、同じだということにためらいを覚えます。アリストテレスと彼の思想が生きた時代は、奴隷があり、その奴隷は自由人同士のあいだでありうる配慮の対象ではなく、もし奴隷にとってよいような措置がなされるとすれば、それはむしろ主人としての誇りや徳の高さゆえにそうしている、そういう社会のように思います。そのなかでできてきた思想のなかの、ある概念の意味は文脈全体のなかで特有な意味を帯びているでしょう。これにたいして、拙著でとりあげたケアの倫理は、近代・現代の倫理理論を背景にして生まれたものです。たとえば、「どのひともケアのネットワークからもれてはならない」という発想は、万人の平等を前提としています。歴史的背景ぬきに、ケアではなく、フィリアをとれるか。私には別物のようにみえます。

 なお、古代・中世の伝統に肯定的な論者がケアの倫理をどのようにみるだろうかという点については、ほんのひとことですが、拙著167頁にマッキンタイアに言及しています。

 で、江口さんは、ethic of careをケアの倫理と訳すよりも、思考法、態度といった訳語のほうが適切だし、ギリガン、ノディングス、ヘルドをケアの倫理でひとくくりにするのは誤解を招くと指摘しています。私はethicsは倫理学、ethicは倫理という訳語をあててきました。ギリガンの当初の発達心理学理論としてのethic of careは、たしかに、思考法、態度というニュアンスに近い。けれども、この語は、その後、規範倫理学、メタ倫理学のレベルでも用いられてきました。その点では、「倫理」という訳語のほうが柔軟性をもつように思います。

 二番目の指摘ですが、ギリガン、ノディングス、ヘルドらもethic of careを用いています。私はその用語法を受け継いだにすぎません。江口さんは、たとえば、クレメントやトロントがしたように、自分の立場から肯定できるethic of careとそうではないものを分けろといいたいのかもしれません。しかし、ともあれ、ケアの倫理についての私なりの大雑把な見取り図(完成とはいいがたい)を作ることが目的であった拙著では、自分の思想(の一部)をあらわすのにethic of careという表現を用いている論者をとりあげることが先決問題でした。

 なお、ケアの倫理のなかに相当に異なる内容をもった理論があることを表現するのにan ethic of careという言い方もあります。すると、その複数はethics of careになってしまいますから、ethics of careという語句に出会ったときには、そのethicsがもともとethicsなのか、an ethicの複数なのかを見分けなくてはなりませんね。

3.2 普遍性と一般性

 「自分の子どもを大切にする」ことは「世界中の子どもをケアすべきだ」より一般的ではないが、同じくらい普遍的であるという江口さんのでの指摘はそのとおりです。ノディングスのこのあたりの議論に弱みがあることは、私も気づいています。

 しかし、ケアの倫理は普遍性と一般性をとりちがえているのではないか、という批判の槍玉にあがっているのが、拙著からの引用箇所(拙著157頁)なのは、私には不適切に思えます。拙著から引用された箇所は、ケアの倫理が(だれももらさぬネットワークの形成を主張することで)「普遍主義的原理を密輸入している」という批判に答えたところですが、そこでは、ケアの倫理のいうネットワークのイメージと正義の倫理のいう「すべてのひと」の抽象的なイメージとを対比してもらえばけっこうです。(とくに、「権利」「平等」「正義」といった概念で「すべてのひと」を描く場合の、「すべてのひと」の抽象性を)

 拙著からの引用箇所については、拙著159頁に記した「ケアの倫理は、すべての人間に同類感情があることを示唆しながら、それが現実に賦活されるためには個別の当事者のおかれている状況を『生き生きと思い描く』必要のあることを説いたヒュームの発想に近い」という解釈のほうが、普遍性と一般性をもちだすよりも適しているようにみえますが。手前味噌か。

3.3 一次原理と二次原理/批判的原則と直観的原則

 ここでの批判は、ケアの倫理のいう親密な他者への特別な配慮は二次原理や直観的原則にあたるものであり、そのうえに位置する一次原理や批判的原則が欠けているのではないかというものです。3.2と同様に、ヘアの『道徳的に考えること』の訳者のひとりである江口さんは、直観的思考と批判的思考とによるヘアの議論ならば、ケアの倫理のいいたいことはすべていえるといいたいようです。

 拙著はしがきiii頁に「自分が研究している哲学者に成り代わってその論敵を論駁する代理戦争を買って出た本ではない」と記したように、私にはヘアの立場を論駁してケアの倫理を擁護する気はありません。しかし、江口さんの批判は、それを意図していないとしても、ケアの倫理バッシングのある種のタイプの描き方に通じるように思います。というのは、江口さんは、で「品川が正しく指摘しているように、われわれは誰かからケアされなければ生きていることさえできないし、誰かをケアしなければおそらく幸福であることは非常に難しい」といいながら、ケア関係を「家族関係、友人関係」に収斂しているからです。つまり、ここでは公的領域と私的領域の区別と、ケア関係を私的領域に閉じ込める論理が働いています。そこで、「基本原理と派生的原則」の区別が説かれ、ケアの倫理は「派生的原則」と位置づけられるのでしょう。ところが、(それに反対するにせよ、賛成するにせよ)ケアの倫理は、たとえばヘルドを引き合いに出してもよいが、ありうべき人間関係の、したがって広く社会的な関係の基本にケアをおいています。

 一次原理と二次原理の区別、批判的思考と直観的思考との区別の議論は、それはそれで成り立ちますが、その議論と公的領域と私的領域との区別という、ひょっとすると江口さんの批判がリアリティをもって感じられる理由のひとつになってい る要素とが切り離せないものかと、これはむしろお答えを聞くというより、ご指摘によって私のほうで考えているところです。

3.4 「ケアのジレンマ」と「規範レベルでの対立」

 で「正義とケアが規範レベルで両立可能であるとする品川の見解にも疑いがある」と書かれていますが、これは誤解です。江口さんの指摘されているのは、同じひとつのケースに正義とケアとが同じ結論を出す(両立する)という話ですが、拙著のなかで私がいっているのは、あるひとりの人間がふたつの規範をあわせもつということにすぎません。拙著148-149頁に「ケアと正義の統合を説く論者は多い。だが、そのほとんどが、たんに同一の人間のなかで二つの規範は並存しうるという主張か、ないしは、正義の倫理は規範としてのケアを排除するものではないという主張にすぎない。前者は規範レベルでの両立を説いているにすぎず、ギリガンの異議申し立てを根本のところでうけとめていない」と記しているとおりです。

 

6.「倫理の基礎づけ」

 倫理の基礎づけという語が多義的であることはご指摘のとおりです。江口さんは、で「私の理解では『倫理の基礎づけ』と言われる場合には、通常、説明の文脈と正当化の文脈の最低ふたつありうる。説明の文脈では、われわれがなぜ実際に利己的でなく道徳的であるのかをなんらかの道徳外の事実に訴えて説明しようとする。正当化の文脈では、特に道徳的であろうとしない人に対して『なぜ道徳的であるべきか』を正当化する。品川が『倫理の基礎づけ』として考えているのはどちらだろうか」とすっきりと整理されています。

 とはいえ、拙著に論じなくてはならない守備範囲には、このふたつのいずれもが関わっています。たとえば、ノディングスが、自然なケアリングがすべてのケアリングのもとだといっている脈絡では、道徳外の事実による説明が主題であるようにみえますし、しかしまた、彼女が倫理的ケアリングについて述べている文脈は正当化と無縁ではありえません。ケアの倫理全体に同様の問題があります。ヨナスについても、乳飲み子をみたときの反応の話は、道徳外の事実のようにみえるかもしれませんが、しかしまた、ヨナスが、私たちが乳飲み子を放置する可能性に言及している以上、正当化の文脈とは無縁ではありえません。要するに、拙著で基礎づけという語をもっと整理して使えばよかったのです。けれども、どれほど整理したにせよ、上に示された二者択一のどちらかを選ぶことはできないでしょう。

 

 以上、広範囲にわたるご指摘の一部にしか応答できませんでしたが、これをもって応答といたします。

 江口さんのコメント、別の会における野崎さんのコメントがWeb上でみられるようになっているので、私のほうも応答をWeb上にのせることにしました。しかし、私自身はこの手の議論をWeb上で展開するのは、あやうさも感じています。どうも、Web上でひろったジョーホーや、研究会や学会で聞いた耳学問だけで、あれやこれやと判断するひとが増えているように思えるからです。この手のやりとりが、問題となっているテクスト(この場合は拙著ですが)を読まないひと、読んでもわからないひとに利用されることがあるだろうことは、こういうかたちで公開する以上はやむをえないとはいえ、おそろしい気がいたします。


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