乱読ノート 2004年度
このコーナーは、もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。研究の必要に迫られて読んだ専門書・学術雑誌・学術論文などは除外しましたが、専門性が強くても講義やゼミのネタに利用したものは記載しています。通読した著作のみを記載しています(全体の8割を1月に読んで、しばらく中断して、残り2割を4月に読んだ場合、4月の欄に記してあります)。欠落している月は、英書や学術論文などを集中的に読んでいたということです。
2005年3月 (1)デカルト『方法序説』(岩波文庫) (2)谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』(岩波書店) (3)竹内均『哲学的思考のすすめ――デカルト「方法序説」に学ぶ、感性の時代の理性開発法――』(PHP) (4)野田又夫『デカルト』(岩波新書) (5)小泉義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書) (6)ヴォルテール『カンディード』(岩波文庫) (7)斎藤美奈子『物は言いよう』(平凡社) (8)長谷川眞理子『科学の目 科学のこころ』(岩波新書) (9)グレン・サリバン『「日本人英語」のすすめ』(講談社現代新書) (10)ソニー(株)教育事業室『ソニー式英会話 英語は3秒で話せ! [普及版]』(中経出版) (11)高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』(岩波新書)
最近僕の周囲ではいろいろな方面で人間関係がややこしくなっていて、気苦労がたえません。ストレスがたまりまくっています。こういう時は思いきり浮世離れした本を読んで現実逃避、心の浄化。というわけで、突然、デカルトなのです。『方法序説』は「ワレ惟ウ、故ニワレ在リ」という文言で有名な哲学史上不滅の大古典ですが、実は、数ある大古典の中でもいちばん読みやすい部類の一つです。41歳のデカルトが半生を振り返りながら、自らの学問方法論を平易に語っています。デカルトの基本構想は、数学的方法にもとづく諸学の統一ですが、僕個人としては、第3部の道徳論(日常生活の3つの規則)を興味深く読みました。心の平静を愛するストア主義者デカルトは、今まで僕が知らないデカルトでした。僕もこうありたい。また、第5部で論じられた、人間とロボットとをどう区別するかという問題は、学部ゼミでそのまま使えそうなコンテンポラリーなものです。学部生でも自力で通読できますが、さらに理解を深めたい人には(2)(3)というすぐれた解説書があります。(2)の著者は岩波文庫の翻訳者、(3)の著者は地球物理学の世界的権威で、科学雑誌NEWTONの編集長としても著名(2004年4月20日ご逝去)。デカルト思想の歴史的背景は(2)が、その現代的意義については(3)が詳しい。文章もきわめて平易。(2)を読んで、デカルトとヴィーコの対立関係にも興味を持ちました。僕は断然ヴィーコ派。
デカルトの勉強を続けます。(4)は(2)(3)より少しだけレベルアップした感のある概説書。古き良き時代の「岩波新書」の香りがあふれています。自然神学、魂の不死、目的原因・運動原因、心身問題といったトピックがデカルト思想においてどのように位置づけられているのか、たいへんわかりやすく書かれていました。広い意味でのデカルト主義に対する反動として現われたロマン主義・伝統主義への目配りも忘れていません。伝記的記述も充実。バランスのとれた良書です。
(5)は(4)よりさらにレベルアップ。外見こそ新書ですが、中身は本格的な研究書。デカルト哲学を「精神的生活」を生きるための倫理学として読む。そのユニークな読解は「読む」というより「読み破る」というほうが正しいかもしれません。著者によれば、デカルトの「私」とは、死にゆく者の「私」である。「死にゆく者が「私は…」と語り出すと、空所を埋めるべき言葉は「存在する」しかありえないということが大人にもわかってくる。死にゆく者は、まだ生きていることを告げるために、「私は」と語り出したのだと了解されてくる。…〈私は存在する〉という言明は、死にゆく者が生きていることを示すために発する最後のサインとして聞き取られなければならないのである」(p.97)。父が永眠した時のことを思い出して、不覚にも目許がウルウルきてしまいました。永井均さんがウィトゲンシュタインを経由して到達した「私」と、著者がデカルトを経由して到達した「私」は、とても似ている印象を受けたのですが(特に90ページ前後)、本当のところはどうなのでしょうか? 気になるところです。第4章の神学論は難解なので覚悟が必要。第5章デカルトの慈善(救貧)論はたいへん興味深い研究。「食物=公共財」という視角は経済思想史研究にも応用可能でしょう。こんなに格調高い研究が新書で読めるなんて、日本っていい国ですね。
(6)はフランス啓蒙思想の大御所による風刺小説。1759年刊。18世紀のベストセラーの一位はルソー『新エロイーズ』で二位が本書。主人公カンディードを「これでもか」とばかりに様々な困難が襲います。風刺の対象は「善意をもつ神によって創造されたこの世は、悪や厄災に満ちているように見えても、全体的には調和している」というライプニッツの楽天的世界観。当時支配的だったこの世界観を体現している登場人物が、主人公の恩師である哲学者パングロス。苦労に苦労を重ねた主人公が最終的に発見した真理とは、楽観でも諦念でもなく、この世は悪に満ちているけれど、「何はともあれ、わたしたちの畑を耕さねばなりません」(p.172)。本書成立の背景には、一説には死者3万人とも言われるリスボン大地震(1755)の大惨事があります。大震災にもかかわらず神の善意を信じることは可能か、という問いが隠されています。しかし、そんなことを知らなくても、本書は十分に楽しめます。ドラえもんに「くろうみそ」という名編がありますが、「この小説の登場人物、全員、くろうみそをなめたんじゃないか」などと不謹慎なことを考えながら楽しく読みました。なお、僕が読んだのは吉村正一郎氏による旧訳。現在は植田祐次氏による新訳が出ています。
(7)は、文芸評論家・斎藤美奈子さんが、今はなき『噂の真相』に連載していたコラム「性差万別」を、加筆・修正のうえで単行本としてまとめたもの。著者曰く、「人を不快にさせないため」「自分自身の品位を下げないため」(p.iii)の「実用書」(p.331)。森前首相や石原都知事の「妄言」から、歴史教科書、ジェンダーフリー教育、女帝論にいたるまで、どのような発言がFC(フェミコード=言動がセクハラや性差別にならないかどうかを検討するための基準)的にイエローカードであるのかを、軽妙に解説しています。毒気をかなり含んでいるのですが、それが決して嫌味にならず、男の僕でさえ痛快さを覚えるのは、著者の才気煥発とユーモア、地雷地帯をあえて突っ走る勇敢さ、どこまでも正論で攻めようとする潔さゆえでしょう。「ペンは剣よりも強い」という言葉がありますが、著者のペンは本当によく「斬れる」のです。著者は心に浮かんだ小さな「なぜ?どうして?」を決してゆるがせにしません。中澤ゼミ生にはこの「なぜ?どうして」感覚をぜひとも身につけてもらいたい。とりわけ印象深かったのは、東浩紀さんの「一人称=僕」問題をとりあげた「心得43」、ジェンダーフリーに対する誤解を「12色の絵の具」の例え話で説明した「心得57」でした。着眼点の鋭さに脱帽です。ただ、このHPの文章がFCに抵触していないか、正直、こわいです。著者が批判的にとりあげている岩月謙司さんの著作に、僕は一定の評価を与えていますしね。こんなに頭のいい人、絶対に敵に回したくありません(苦笑)。3期生Sさん、読み終えたので貸せますよ!
(8)は、生物学者(行動生態学)・長谷川眞理子さんが、雑誌『科学』に掲載していたエッセイを、加筆・修正のうえでまとめたもの。著者自身の言葉を借りるなら、「科学技術のどんどん進んでいくこの時代に、専門の科学者ではない人々が、科学とどのようにつきあうべきか、サイエンティフィック・リテラシーと呼ばれるものの基本はどうあるべきかというのが、本書のエッセイを通じての、一つの思考の結び目のような役割を果たしてはいる」(p.213)。(2)に本書所収の「デカルトの誤りとデカルトの慧眼」が紹介されていたことがきっかけで手に取りました。斎藤哲也編『使える新書 教養インストール編』(WAVE出版)でも、「この人の新書はまずハズレなし。どれを読んでも勉強になる」(p.340)と絶賛されていますが、まず文章がうまい。深山の天然水を彷彿とさせる澄み切った文体は、読んでいて気持ちがよい。あっと言う間に最終ページにたどりつきました。扱われているテーマは、クローン羊ドリー、科学者の倫理的責任、大学改革、科学史など多岐にわたります。「理系方面はまったく興味なし」という人にはおすすめできませんが、僕のように「物理・化学は全然ダメだけれど進化論と天文学くらいなら興味がある」という人なら、かなり楽しめる一冊です。テーマに関係なくどのエッセイも5ページで完結してしまうので、「え、もう終わりなの!?」という尻切れ感を覚えるものもありますが、それは我慢しましょう。
ただ今恩師ディキンスン教授が来日中(3月10〜24日)。ほとんど毎日英語漬け。こんな時こそ自分の英語を振り返る格好のチャンスです。「英語は決して国際的な言語とはいえない。英語はおのおのの地域によって異なった形を持っている、地域的な言語なのである。…英語を国際語と決めつけているオモテ英語学習法を切り捨てて、地域語としての英語に対応できる新学習法を見出そう」(p.61)というのが、(9)の中心的なメッセージ。いわゆる「日本人英語」の特徴だとされているカタカナ発音、冠詞・前置詞省略、単複無視などをまったく恥じる必要はない。ethunic English (民族英語)には何の不自然さもない。「本物の英語」「標準英語」への憧れが強すぎる日本人ほど、「日本人英語」を軽蔑しがちであるが(このような考え方に僕自身もかつて汚染されていました)、それは間違っている。「私は、日本人みずからがその潜在的な英語能力に気づき、それを引き出していけば、日本社会で日本人英語と触れ合うことだけで、英語力を磨き上げ、英語を自分たちのものにすることができると考えている」(p.19)。その潜在的能力を自覚させてくれる、自信と勇気を与えてくれる一冊。わが国の英会話学校の盲点・弱点を自身の経験にもとづき指摘している箇所は傾聴に値します。「大切なのは、正しいか間違っているかではなく、意味したいことが意味したいとおりに通じるかどうか」(p.185)。著者の見解に全面的に賛同します。まさしく隠れ名著です。
本日(3月24日)ディキンスン教授が帰国されました。卒業式前後の数日を除いて英語漬けの2週間でした。自分の英語力(聞く・話す)にはまったく満足していませんが、2年前(エディンバラ留学中)と違って、日常的なコミュニケーションはおおむね不自由なくできました。僕がガイド役をつとめながら、二人で京都・姫路を楽しく散策しました。また、碩学の言葉一つ一つは知的刺激に満ちていて、世界が一段と広がりました。帰国後も地道に英語の勉強を続けてきてよかった、と実感しています。地道な勉強を続けられたのは、2年前の失敗・屈辱ゆえです。もっと教授と話がしたいのに聞き取れない。言葉が出ない、続かない。僕の拙い英語に耳を傾ける教授の表情が辛そうに見えて、申し訳なく思いました。しかし、失敗・屈辱を通じて、それまでの自分の英語学習に何が欠けていたのかを、ようやく理解することができました。「読む・書く」と「聞く・話す」はまったく別物であり、別種のトレーニングが必要です。「聞く・話す」場合に、日本語を介在させていては、「間に合わない」のです。スピードがすべてとは言いませんが、最優先だとは言えます。言語はコミュニケーションのためのツールであり、コミュニケーションの本質はキャッチボールなのですから、「即座に」返答することが何より重要なのです。空虚な間は相手の会話継続へのモティべーションを減退させてしまいます。したがって、スピード感を失わない表現、つまり、日本語を介在させなくても英語のままで意味がとれるような短いシンプルな(語数の少ない)表現から、文単位で、頭の中にたたき込むべきです。シンプルな表現を使うほうが、コミュニケーション上の誤解は少なくなるし、英語独特のリズムを身につけやすいぶん、カタカナ発音でも通じやすくなります。こういったポリシーで著されたのが(10)です。エディンバラ留学時代、とっさに口をついて出てこなくて悔しい思いをした表現が、本書には満載されています。「もうおいとましなければ。 I'm sorry, but I have to leave.」「今日のお勧めメニューは何ですか? What's today's special?」等々。「レベル低くないですか?」なんて言ってバカしている人ほど、かつての僕のように泣きを見るかもしれません。
ディキンスン先生とのすばらしい2週間のおかげで、スコットランドへの特別な思いに再び火がついてしまいました。それで手に取ったのが(11)です。スミスを中心にスコットランド啓蒙をかれこれ十数年勉強してきましたし、実際にエディンバラに1年間住んだので、スコットランド通を密かに自認していたのですが、(11)を読んで「まだまだ修行が足りないなぁ」と痛感させられました。ダリエン計画の背景、長編叙事詩「オシアン」の贋作騒動などは、恥ずかしながら、ほとんど知りませんでした。合邦前のスコットランドの地域的分裂状況(ハイランドとロウランド)、悲劇のヒロイン=女王メアリ・ステュアート、民族衣装の歴史などは、来年度の「経済学説史」講義のネタにさっそく流用できそう。新書ですが、「スコットランド近世史概観」というよりは「スコットランド近世史研究入門」といった趣の、専門的研究者をもうならせる充実の一冊。お得な買い物でした。
2005年2月 (1)米倉誠一郎『勇気の出る経営学』(ちくま新書) (2)岩月謙司『男は女のどこを見るべきか』(ちくま新書) (3)藪下史郎『非対象情報の経済学――スティグリッツと新しい経済学――』(光文社新書) (4)小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書) (5)大平健『ニコマコス流 頭脳ビジネス学』(岩波書店) (6)荘司雅彦『男と女の法律戦略』(講談社現代新書) (7)梅森浩一『面接力』(文春新書) (8)山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』(筑摩書房) (9)松原隆一郎『長期不況論――信頼の崩壊から再生へ――』(NHKブックス) (10)山田ズーニー『伝わる・揺さぶる!文章を書く』(PHP新書) (11)高橋信『マンガでわかる統計学』(オーム社) (12)野中郁次郎・紺野登『知識経営のすすめ――ナレッジマネジメントとその時代――』(ちくま新書)
(1)の著者は一橋大教授(経営史)。序章で説かれている「経営史を学ぶ意義」には、同じ歴史家としてたいへん共感しました。序章だけでも本書を読む価値があります。第2章の組織論もなかなかよい。環境問題への意識の高さも好感が持てます。ただ、IT革命、ベンチャービジネス、規制改革の持ち上げ方が尋常ではありません(小泉政権への期待をはっきり表明しており、竹中大臣とも交友があるようです)。「マイレージになびいてJALやANAに乗ったら自分の国の未来を売ることになります」から「エア・ドゥやスカイマーク」に乗りましょう(pp.148, 169)。この提案は理解できます。しかし、高コスト体質について、「コストを下げていけばお金が余る。お金が余れば人が雇える。人が雇えれば余裕が出る。余裕が出れば笑顔が戻る」(p.174)と述べ、雇用リストラについても、「われわれ日本人は困難にあっても絶対に新しい産業をつくりだして、そこに雇用を吸収していく力があると信じます」(pp.46-7)と述べているのはどうでしょうか? ただの主観的・希望的観測でしょう。信じるのは自由ですが…。「昨日までホワイトカラーだった人間が…セブン・イレブンの店頭に立ったり、クロネコヤマトで荷物を運んだりすることに対して、忸怩たる思い」(p.48)を持ってしまう。こうした当然の思いに対して、著者は「そこに就労することで、より便利な生活をつくりだす新しいサービス産業を興しているのだ、という意識をもつことこそ、時代の変化に適応した考え方ではないでしょうか」(p.48)と説きます。要するに、気の持ちよう。僕には粗雑な精神論にしか思えません。人間の自尊心を軽視する社会経済システムはうまく機能しない。これは現代の社会科学者が忘れてしまっているアダム・スミスの教えです。自尊心が傷つけられているからこそ、嫉妬が渦巻く社会になっているのです。本書から勇気はもらえませんでした。小野善康さんの議論のほうがはるかに元気が出ます。
(2)は男女の思考法の差異を丁寧に掘り下げて考察しています。僕自身の経験(妻とケンカした時など)を思い返すと、相当に説得力のある分析だと感じました。しかし、女性のダークな側面があまりに赤裸々かつ冷静に示されているので、読んでいてつらくなってきました。知りたくない現実を知ってしまったと、いうのが本音です。怒れる女性の暴君性、「蜘蛛の巣作戦」など、目を背けたくなるような事例も挙げられていて、かなりどぎつい内容です。一種のホラーですね。「独断的だ」「間違っている」と拒絶反応を起こす女性読者もきっといることでしょうが、「女性はそれ無自覚に行っている」「怒れる女性ほど真実を認めようとしない」と著者は断じているので、議論がこれ以上先に進みません。心理分析のやっかいなところです(4期生諸君、ゼミで恋愛論をとりあげるのは本当に難しいよ)。本書を出発点に、いじめ問題一般を考えたり、アダム・スミスの「共感」概念を再検討してみるのも面白いかもしれません。
名著・伊東光晴『ケインズ――“新しい経済学”の誕生――』(岩波新書)が刊行されたのは1962年。それから40余年。ようやく最新の(?)「新しい経済学」の全体像が(3)において素描されました。本書も、伊藤『ケインズ」に劣らぬ、新書の歴史にその名を残す名著と言えます。普通に勉強している経済学部生であれば、3章まではすらすら読めるはず。4章で躓く人もいるでしょうが、何とか踏ん張って最終ページまで読み進めて欲しい。現実の市場は情報が「不完全」「非対称的」である場合が大半です。市場の不完備、モラルハザード、価格の硬直性といった現実を説明するために、新古典派経済学は分析ツールをどんどん進化させてきました。本書を紐解けばその進化の歴史が手に取るようにわかります。労働市場における摩擦的失業と非自発的失業との関係は、僕が前々から関心を寄せていたトピックであり、そのわかりやすい説明はたいへん有益でした。僕はマルクス思想の今日的意義を決して否定しませんが、マルクス経済学がその理論的ツールの研鑚において相対的に低調(悪い言い方をすれば「怠惰」)だったことは否定できません。その意味で、「近経」を食わず嫌いしているマルクス経済学者にこそ、本書を誰よりも読んでもらいたい。なお、確信は持てないのですが、136ページに誤植が含まれている気がします。
(4)は歴史学の入門書。意外に思われるかもしれませんが、この手の本は本当に少ないんです。特に良書が。法学・経済学・哲学のすぐれた入門書はたくさん出ているんですけどね。本書は、歴史書と歴史小説との違いや従軍慰安婦問題といった身近な素材を出発点に、歴史学の科学性の本質に迫ります。構造主義が歴史学に与えたインパクト(科学性への疑念)という問題設定は新鮮かつ的確。果たして「相対化」が「何でもあり」(歴史の物語化)にならないためには何が必要なのでしょうか? 「史料批判などによって、「コミュニケーショナルに正しい認識」に至り、さらにそこから「より正しい解釈」に至ること、これが歴史学の営みです。歴史学ができること、しなければならないことは、それ以上でもないし、それ以下でもありません。ここに歴史学の存在可能性があります」(p.81)。平易かつ軽妙に書かれていますが、内容は重くて深いです。
(5)の著者は『やさしさの精神病理』などの著作で有名な精神科医。どうして精神科医がビジネス本を!? 著者の多芸多才には驚くばかりです。本書はビジネスの現場で企画を立案し実行に移すための具体的ノウハウを述べたもの。アイデア・ストックについては、僕が普段からやっている方法そのままでした。ただ、自分の方法を汎用性のあるものと自覚して文章化できるかどうかは別の問題。情けないことに僕は全然自覚していませんでしたね。プレゼンテ―ションやブレイン・ストーミングの技法は、ゼミ運用にそのまま利用できそう。ゼミ生の誰かがこの文章を読んで、さっそく新学期から実行してくれれば、最高なんですけどね。企画力は才能ではありません。日頃からの研磨です。ゼミはそういう能力を育むのに最適の場。ゼミ生の皆さん、単位ではなく未来の自分のために、もっと汗を流しましょう。
(6)は amazon.co.jp に読者レビューが8本出ていますが、すべてが5つ星(満点)。弁護士である著者が実際に体験した男女間の法律トラブルを素材に、法的な戦略思考のエッセンスを素人にもわかりやすく説いています。読み物として面白いし(エッセイストとしての才能を感じます)、異色の法学入門としても使えます。しかも、実用性がきわめて高い。ローンの残っているマンションがある場合の財産分与、連帯保証人制度の陥穽、裁判官は何に弱いか等々、最初から最後まで「へぇ〜」の連発で、巷の高い評価も納得がゆきます。本書のキーワードはリスク。「人生の会計学においては「リスクを取るよりも損失をなるべく小さく確定する」方針を維持することが、賢明なのではないでしょうか」(p.201)。これこそ著者が本書でいちばん言いたいことだと思います。ゲーム理論の知識がある人は、それと関連づけながら読むことで、知的刺激が倍増するでしょう。超おすすめ。素晴らしい。
3期生(新4回生)の就職活動もそろそろ本格化してきました。そのフォローアップのネタ探しのために手に取ったのが(7)と(8)です。(7)の著者は外資系企業での経験が豊富な人事コンサルタントで、(8)は長年にわたり進研ゼミ小論文講座の編集長として活躍してきた人。どちらも、面接官に気に入られるための面接の小手先のテクニックを紹介するのではなく、コミュニケーション力や論理的思考力の本質に迫ろうとする力作です。「話すこと」だけではなく「書くこと」一般(企業へのエントリーシート、ゼミの志望理由書、卒業論文等)にも、ただちに役に立つヒントが満載。(7)は現実の厳しさ(コミュニケーションの難しさ)を読者に直視させるのに対して、(8)では人と通じあうことの希望に力点が置かれています。夢見がちな自分に喝を入れたい時は(7)を、人間関係で落ち込んでいる自分を励ましたい時は(8)を読めばよいでしょう。
(9)は、社会経済学の立場から、1990年代以降の日本の長期不況の本質を分析したもの。構造改革の実行それ自体が国民の将来不安を増大させ消費を減退させている、つまり、制度破壊と信頼の崩壊が不況を長期化させている、という反構造改革論が著者の基本的な立場です。文章は粗い。決して読みやすくはありません。(著者のライフワークとも言える)景観問題への頻繁な言及は、本書の主題に照らせば、やや強引な印象を与えます。分野横断的に文献を渉猟する著者のフットワークの軽快さに、散臭さを覚える専門家もいるでしょう。しかし、本書にはパワーとアイディアが漲っています。構造改革論は反証可能性を欠く「科学的に無意味」(p.39)な言明である。「よくぞ言ってくれた」と拍手したい。これこそが構造改革論に対する僕の違和感の根幹なのです。香山リカ『若者の法則』がラブジョイ『人間本性考』へとつながっていく末尾はスリリングです。
(10)は(8)と同じ著者による文章論。いい文章とは機能する文章、つまり、「自分が言いたいことをはっきりさせ、その根拠を示して、読み手の納得・共感を得る文章」(p.38)。そういう文章を書くための7つの要件を豊富な事例とともに懇切丁寧に解説しています。就職活動での自己推薦文などを書く際に即効性を発揮してくれるでしょう。しかし、本書の素晴らしさは、単なる技術論に終始するのではなく、考えることそれ自体の本質に迫っている点にあります。「問いの発見」「思考停止ポイントの発見」など、ゼミ運営のためのヒントとしても読めます。
突発的に理数系のトピックを勉強したくなりました。とはいえ15年以上のブランクがあります。こわばった脳みそをほぐすウォーミングアップとして手にとったのが(11)です。数理統計学の初歩の初歩をマンガで解説したものですが、期待の10倍、いや、100倍は素晴らしい本でした。これこそ理想の数学教科書と言えるのではないでしょうか。偏差値、単相関係数の説明などは、これ以上丁寧には説明できないだろうと思うくらい、わかりやすい。121ページの相関比あたりから、徐々に難しくなってきますが、説明に飛躍はないので、繰り返し読めばきっと頭に入ります。僕はすでに3回読み返しました。マンガもかわいい。この本の製作に携わったすべてのスタッフの愛情が感じられます。歴史に残る一冊であって欲しい。超おすすめ!(なお、124ページの「級内変動」は明らかに「級間変動」の間違いですね。)
(12)の内容を端的に表現している文章を2つ引用しておきます。「現在、時代の大きな変化のものと、価値を生み出すのは必ずしも工場やハードでなくなり、製品を媒介にした問題解決(ソリューション)、サービス、情報提供などに移行しています。これは業種・業界を問いません。人々や組織が創り出す知識、あるいは知的な資産が価値の源泉になっているのです。…重要なのは、これからの企業や経営のあり方が大きく変わること、企業が知識を糧に成長するようになるという観点です。その大きな座標の中に、知識経営あるいはその狭義の手法であるナレッジマネジメントを置いて見てみよう、というのが本書の展望です」(pp.10-1)。「知識経営の考えは、知識創造プロセスをつうじ、あたらしい組織論に結びつきます。…組織が自己超越の場となるのです。おうした視点から、私たちはナレッジ・プロデューサーと呼ぶべきあらたなリーダー像を描く必要があるでしょう」(p.191)。ギブソンのアフォーダンス理論、M・ポラニーの暗黙知なども動員され、経営学という学問の懐の広さを知るには格好の一冊のはずなのですが、そのわりにはいまいちピンとこなかったのは、どうしてなんでしょう? 抽象的、あるいは、理想的すぎるから? 「経営学ってもっと泥臭いはず」という僕の思いこみのせい?
2005年1月 (1)田中朋弘『職業の倫理学』(丸善) (2)溝上憲文『隣りの成果主義――症例、効能、副作用――』(光文社) (3)杉山幸丸『崖っぷち弱小大学物語』(中公新書ラクレ) (4)金井壽宏・高橋俊介『部下を動かす人事戦略』(PHP新書) (5)沼上幹『組織戦略の考え方――企業経営の健全性のために――』(ちくま新書) (6)井口俊英『告白』(文春文庫) (7)小嵐九八郎『妻をみなおす』(ちくま新書) (8)高橋伸夫『できる社員は「やり過ごす」』(日経ビジネス人文庫) (9)橋本治『上司は思いつきでものを言う』(集英社新書) (10)今村仁司『近代の労働観』(岩波新書) (11)岩月謙司『娘の結婚運は父親で決まる――家庭内ストックホルムシンドロームの自縛――』(NHKブックス)
(1)は、数ヶ月前に斜め読みした時、「無味乾燥なつまらない本だ」という印象しか残りませんでした。このたび丁寧に読み返してみたところ、印象が180度変わりました。たいへん面白い。第一印象があてにならない時もあるのですね。本書は職業に関わる倫理的問題を様々な角度から論じたテキスト。カントの「嘘」論とヘーゲル『精神現象学』の「相互承認」論が変奏曲のように本書のいたるところに登場します。内部告発の「後ろめたさ」「わだかまり」の謎を解き明かした第11章は見事なできばえ。売春する自由について論じた第9章も興味深い。「売春の否定には合理的な根拠はないけれども、道徳的な規範に従うことは、それに合理的な根拠があるかないかとはそもそも無関係なのだ」とする筆者の立場は、結論だけとりあげれば「ダメなものはダメ」という独断と紙一重ですが、しかし単なる独断と違って説得力があります。蛇足ながら、第5章に8月(5)『貨幣とは何だろうか』の議論が援用されていて、今村さんの関心が「社会主義に付随する暴力」の本質の解明にあったことに、今になって気づきました。
(2)は、100社を超える上場企業への取材を通じて、成果主義の「今」を克明に描き出したもの。12月(11)と同じタイプの本ですが、執筆のスタンスは異なっています。感情的に成果主義批判を叫んだところで、得るものは何もない。「いったん導入された以上、成果主義が日本企業から消え去る日は絶対に来ない」(p.22)。「それならば、真剣に「改善」の道を探るほうが、賢明な選択とは言えまいか」(p.217)。成果主義の成否は制度そのものにはない。成果主義に対する社員の不満の矛先は、制度そのものよりも、上司の評価能力に向けられている。「会社の方針、ビジョンを熱く語り、そのことで社員を吸引する力を持つリーダーの存在があってこそ、成果主義は機能する」(pp.219-20)。成果主義は経営者・管理職に高度なリーダーシップ、コミュニケーション能力を要求するが、真にマネジメント能力に優れた経営者・管理職は一朝一夕には育成されない。目下、マネジメント能力のない上司が日本中の職場を混乱に陥れているのです。
(3)は、京都大学を退官後「崖っぷち弱小大学」に再就職した著者の、学部長としての4年間の奮闘記。教員はサービス業である。大学教授のプライドをかなぐり捨てて学生と向き合うことなしに、弱小大学の教員稼業は成り立たない。社会に役立つ人間を作ることこそ大学の使命。社会に役立つ人間とは、つまるところ、コミュニケーション能力の高い人間ということだ。コミュニケーションは双方が同じ地平に立ってこそ成り立つ。相手の立場に立つことは、上の者から先にしなければならない。「学長や学部長は一般教職員と同じ地平に立つこと。教職員は学生と同じ地平に立つこと」(p.148)。著者の主張をまとめれば、以上のようになるでしょうか。教育とは地道に愚直に進めるもの。「先日は午前中の授業の終わりに「○○を列挙しなさい」という簡単な問題を出した。するとどうだろう。「先生、列挙って何ですか。・・・こんな学生の書いた答案をふくめて200枚も採点し、採点結果を受講者名簿に記載し、来週発表するための講評をまとめていたら、窓の外はもううす暗くなっていた」(pp.100-1)。世間的には、僕の勤務している関西大学は決して「崖っぷち弱小大学」とは言えないでしょうが、程度の差こそあれ、(一部のエリート大学を除く)すべての大学が同様の問題を抱えており、僕自身、日々悩みが絶えません。本書に紹介されている様々な教育実践は、おおいに参考になりました。大学はハードよりもソフトが大事です。理事長や学長の地位にある人にこそ読んでもらいたい一冊。
(4)は経営戦略としての人材マネジメントに関する入門書。特に印象に残った叙述を二つほど紹介しておきます。一つは、成果主義には二つの考え方、「マネー・リード型」と「マネー・フォロー型」とがある、ということ。「マネー・フォロー型成果主義の場合、お金は仕事の直接的なモチベーションにはならない。…個人の内発的な動機を最大限活かせる環境を整え、成果を上げた人にはお金で報いる。ただし、この場合のお金は、その人にとって副次的なものである。このようなマネー・フォローズの視点に立って設計された成果主義なら、いまの日本でも通用するのではないか」(pp.25-7)。第二に、今、会社の中で閉塞感を覚えながら働いている若者は二つのタイプ、「上昇志向の持ち主」と「自分らしいユニークなキャリアを望む層」に大別できる、ということ。優秀な人材が必ずしも上昇志向の持ち主とは限らない。もともと上昇志向の希薄な後者のタイプに出世や報酬をちらつかせても、やる気が高まるわけではない。そういったスローキャリア型人材を戦力として活かすには、会社は多様なキャリア形成を可能にする制度を構築する必要がある。どちらの場合も、部下へのフィードバック能力にたけたリーダーの存在が鍵を握るのですが、こういった新しいタイプのリーダーはどこの会社でも不足しており、その育成が急務となっています。昨今は、組織の人口ピラミッドが寸胴型になっており、年功序列に任せていると、リーダーとしての経験を積む機会が若手社員になかなか回ってこないので、著者は早期選抜制度を効果的だと評価しています。
(5)はすばらしい一冊です。野口旭さんの『間違いだらけの経済論』の組織論版といった感じの本で、組織設計や動機づけの基本を丁寧に解説し、常識的な論理をひとつひとつ積み上げて、組織設計をめぐる多くの誤解を解き明かしています。本書の魅力は何よりその論理の丁寧さにあります。「人々の相互行為が織りなす社会現象をワンステップずつ読み込んでいく作業を展開している」(p.14)ので、説得力と深みがあります。第5章「組織の中のフリーライダー」は、経済学部生なら誰もが学ぶ「公共財」の理論を組織論に応用したもので、「こんな使い方があったのか」と感嘆してしまいました。経営組織の話なので、学生時代に手にとってもピンとこない人がいるかもしれませんが、会社に入って組織の一員として働き出したら、本書の内容は間違いなくリアルに胸に響いてきます。「落としどころ感知器」「厄介者の権力」「ルールの複雑怪奇化」といったトピックを読むと、つい「あの場面(人)が該当するよなぁ」と想起しています。だからこそ本書は面白い。
1995年7月に発覚した大和銀行ニューヨーク支店の巨額損失事件。損失額は実に970億円。逮捕されたトレーダーが獄中で執筆したのが(6)です。プロの文筆家ではないかと錯覚するほど、その文章は流麗。本書は様々な読み方が可能でしょう。金融業界の舞台裏の生々しいレポートとして。会社の期待に応えようと頑張りすぎた(にもかからわず、事件の責任の一切を会社から押し付けられた)一人のサラリーマンの悲劇として。あるいは、企業管理者がリスク・マネジメントを考えるための教訓として。「私が無断取引に手をそめざるをえなかったのも…もとはと言えば銀行の経営管理に欠陥があったからだ」(p.191)といった独りよがりな記述に憤慨する読者もいるでしょう。僕にとっては、本書の主題から外れてしまうのですが、著者が仕事と家庭と板ばさみに苦しんでいた箇所の記述がとても印象に残りました。「その年(1984年)の春、私の住んでいたニュージャージーのリンカンパークというと ころで大洪水が発生し、床上40センチの浸水に会った。電気、電話、ガスは遮断、車 も窓のところまで水に浸かっていた。・・・私はこの日、米国債取引で1億5千万ドルの決済をすることになっていた。…とにかく業者に電話せねばと子供のゴムボー トに乗り、町外れの公衆電話まで無我夢中で漕いだ。…それにしても家の中がまだ水びたしのままだというのに、私が一番先にしたのは仕事のことで電話に走ったことだった。家内(アメリカ人)は日本人のこうした仕事人間的なところが最も耐えられなかったようであった。…後始末を妻にまかせて出社した私はこの時点で夫としての資格を失っていた」(pp.157-8) 。日本人男性なら読んでいて怖くなりませんか? 夫として要求される資格の厳しさに。著者は離婚後二人の息子を引き取ります。思春期を迎えた二人の息子が引き起こす様々なトラブルに心を痛める父。家族って何だろうか? ふと、そんなことを考えさせてもくれる、人間ドラマがいっぱいつまった一冊です。
(7)に対しては「文体が下品」(amazon.co.jp)というレビューもありましたが、僕はそう思いません。女性特有の醜さをとことん直視した上で、それでも死の直前まで妻の美点を探し続けよ、妻の魅力を幾度も幾度も自分に言い聞かせよ、と本書は説きます。腹立たしいこともあろう。つらいことも多かろう。「しかし…」と踏ん張るのが男の美学。真の男らしさとは、闘いに勝つ力ではなく、自分が得る以上に他人に与える自己犠牲の精神である。「半分、不安に脅えた方が良い。時代時代、場所場所で、常に試練に問われ続けてきたのが夫婦であり、いつも崖っ淵にあるということなのだ。不安はしかし、冒険と挑戦を生む。二人で悩み、工夫し、努力をすれば前代未聞の素晴らしいものを生めるかも知れない」(p.156)。その「素晴らしいもの」って? 「無声映画の弁士から漫談家、俳優などあれこれ頑張った徳川夢声は、1971年、77歳で死す枕許で、妻に《おい、いい夫婦だったなあ》と言い残し、こと切れたという」(p.237)。その一言のなんて重いことか。泣けますね。著者は元新左翼の活動家で逮捕歴あり。刑務所暮らしの間も奥さんは著者を見捨てなかった。そんな彼女への恩返しのために書かれた本なのかもしれません。
(8)は先月に引き続いて高橋さん。知的刺激抜群の一冊です。素朴な疑問と小さな納得を積み重ねて、広範な視野を持ったユニークな研究成果へと結実させるその手腕は、さながら阿部謹也さんの経営学者版といった趣きです。「やり過ごし」「尻ぬぐい」などという(一見しょうもない)現象に、日本企業の本当の強さが隠されていることを、調査データをもとに丁寧に解明していきます。著者は、この研究に着手した時、尊敬する諸先輩方から「それはアカデミックなテーマにはならないだろう?」との親切な忠告をいただいたとか。(阿部さんも、ハーメルンの笛吹き男の伝説の研究を開始した際、仲間の研究者からそのような忠告をされたらしい。)上司の思いつきに対して、(9)は「できる社員がやり過ごしているからこそ、組織の機能的な破綻が回避されているのだ」と分析するのですが、頭のよい上司であれば、その様子をみて、自分の誤りに気づくでしょうが、とことん無能な上司の前では部下はどうすればいいのでしょうか? (9)は「部下は声に出してあきれるべき」と主張します。橋本さんは、「古墳に埋葬する埴輪」のメーカーという奇抜な例を用いて――この部分を読んだとき僕は声に出して笑ってしまいました――、部下が提出した画期的なアイデアを本能的に拒絶する上司の心理を追跡し、儒教の伝来にまでさかのぼって、上司が「現場」の声を聞く能力を持ち合わせていない理由を探っていきます。上司と部下の関係を出発点に、日本とアメリカとの関係にまで発展させて考えていくなど、たいへんスケールの大きな本なのですが、大胆かつ面白い「仮説」の域を出ず、どこか胡散臭さが残ります。よく売れているらしいのですが、『バカの壁』のようにタイトルの勝利という側面が大きいような気がします。
沼上幹さんは、『組織戦略の考え方』において、「カネを稼ぐためという動機だけで働いている人は日本の大企業にはほとんど見られない。生活に必要な額を超えていれば、それ以後はむしろ上司から、同僚から、部下から、この会社に不可欠な人材なのだと認められたいという気持ちに動かされて行動しているはずである」と述べておられます。つまり、他者からの承認を求める願望こそが、労働の喜びの源である、というわけです。このような主張を思想史的に跡づけたのが(10)です。現代消費社会が人間の承認願望を極限まで強めた結果、労働は「社会的地位の顕示のための記号」(p.154)になってしまっている、という見解はたいへん説得的。ゼミ生の就職先選びを見ていても、その傾向が強まっているように感じます。小倉千加子さんも『結婚の条件』において「働くことにお金を消費することが許される特権専業主婦」の登場を指摘していました。「何のために働くのか」という問いを考えるにあたって、「消費」という分析視角は今や不可欠ですね。
(11)は、動物生理学・人間行動学の専門家による、男女関係の心理分析本(恋愛指南本ではありません)。小倉『結婚の条件』と双子のような関係にあります。ストックホルムシンドロームとは、銀行強盗の人質が犯人を好きになってしまう現象にちなんで命名されたもので、弱者が生き残りのために(生殺与奪の権を握る)強者を自分の心を偽って無理やりに好きになる現象のことです。これと同じことが家庭で起こることがあります。親が犯人に相当し、子が人質に相当します。これが本書の主題である「家庭内ストックホルムシンドローム」(著者による新説)です。快と不快という感情は、人間にとって最も重要な感情であるのに、それを慢性的に偽って生きるわけですから、子どもは恋人選びや職業選びなどに際して正しい判断ができなくなってしまいます。とりわけそれは父親の愛情に飢えて育った娘に多く見られるらしい。当該領域に関して門外漢である僕は、著者の学者としての力量を評価できる立場にはありませんが、数多くの興味深い(と言うよりは「ドキッ」「ハッ」とさせられる)事例が紹介されており、自分と周囲との人間関係を見つめ直すのに最適な一冊であるように思います。タイトルから想像するよりも、ずっとまじめな本です。「いい男がいない」が口癖になってしまっているような女性にとりわけ読んで欲しい本です。(付記:著者は昨年準強制わいせつ容疑で逮捕されました。彼の「育てなおし」のボランティア活動については、ネット上でも賛否両論が喧しい。本書の価値・魅力はこの事件から独立して存在しうると僕自身は考えていますが、とはいえ、近年多発している大学および大学教員の不祥事が著者の心の片隅にでもあれば、こうした事件は起こらなかったでしょうし、逮捕に相当するかどうかはともかく、著者の軽率さ、リスク管理の意識の低さは責められてしかるべきでしょう。)
2004年12月 (1)中村雄二郎『共通感覚論』(岩波現代文庫) (2)遙洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(ちくま新書) (3)太田肇『選別主義を超えて――「個の時代」への組織革命――』(中公新書) (4)佐々木正人『知性はどこに生まれるか――ダーウィンとアフォーダンス――』(講談社現代新書) (5)木村政雄『笑いの経済学――吉本興業・感動産業への道――』(集英社新書) (6)陶智子『不美人論』(平凡社新書) (7)高橋伸夫『虚妄の成果主義――日本型年功制復活のススメ――』(日経BP社) (8)荒井一博『文化の経済学――日本型システムは悪くない――』(文春新書) (9)荒井一博『終身雇用制と日本文化――ゲーム論的アプローチ――』(中公新書) (10)藤田英典『教育改革――共生時代の学校づくり――』(岩波新書) (11)江波戸哲夫『成果主義を超える』(文春新書)
(1)は目下執筆中の論文(バーク論)の肉付けのために読みました。1979年の初版以来22刷を数え、2000年に文庫化された名著中の名著。〈常識〉を意味するコモン・センスはもともと五感(視・聴・嗅・味・触)を統合する〈共通感覚〉を意味しており、「両者はどのように結びついているのか」という問いは、日常経験の自明性、近代知の問い直しにつながっている、というのが本書の主題です。バークの「慎慮」概念に対するアリストテレスとキケロの知的影響を探りたかったのですが、「アリストテレス的な〈センスス・コムーニス〉がキケロにおいて共通感覚(五感の統合)から常識(人々の健全な判断力)へと変わった」(p.256)という指摘を発見して、大きな収穫でした。正直に告白しますと、何について書いているのか、一読しただけではまったく理解できませんでした。著者の博覧強記は尋常ではなく、精神医学や大脳生理学の知見まで披露されているのですが、どういう脈絡でそれらが援用されているのか、頭に入ってこなかったのです。いつもの僕ならここで放り投げるのですが、今回にかぎっては悔しくてできませんでした。それには理由があります。本書は田中ゼミで一緒に学んだ小寺君の(『魔女ランダ考』と並ぶ)愛読書で、学部時代の僕は彼の薦めで本書に挑んだのですが、まったく手も足も出ずに撃沈。あれから13年。本書は因縁の一冊なのです。今度こそ読破しなければ・・・。脳みそをキリキリさせながら根性で通読。さらにもう1度通読。すると、ようやくおぼろげながら、本書の背骨が見えてきました。。「体性感覚あるいは身体性から切り離されたことば…分析的な理性によって一義化され、概念化されたことば、イメージを奪われたことばに対して、イメージを含み多義性をそなえたことばを、学問や理論にあっても正当に回復し、駆使する」(pp.143-6)ことの必要性を著者は説いています。学生時代に演劇にどっぷり浸かっていた僕にはなじみやすいの考え方で、これが本書理解の鍵となりました。今の学問、とりわけ経済学の言葉は全体性・身体性を欠いていますよね。第4章「記憶・時間・場所」は知的刺激満載の章でした。ベルクソンの〈純粋記憶〉の社会的性格の指摘は、佐藤光先生の『ポラニーとベルグソン』の世界像と重なっています。(実質的にアレント論になってしまった)2001年度担当の特殊講義「記憶の思想史」は、この章を援用すれば、いっそう充実をはかれるはずです。他にも、(大好きな)エッシャーのだまし絵の思想的意味、戸坂潤の〈常識〉論の再評価など、読みどころ満載。しかし、何より驚かされるのは、こんな高度な内容の学術書を大学3回生にして愛読してた小寺君の頭脳です。
(2)はとても思い出深い本です。2001年4月初版。その年の秋に、1部ゼミ(1期生、当時3回生)と2部基礎演習(1回生)でテキストとして用いました。どちらのクラスからも「人生観・世界観が変わりました」「勉強の楽しさが見えてきました」という感動の声があがりました。僕も大学4回生の時に、川勝平太『日本文明と近代西洋』という本と出会い、感動で身体が打ち震えました。「もっと勉強したい!」と心から思いました。一冊の本が人生を変える。読書習慣のない人には、にわかに信じがたいかもしれませんが、本にはそれほどの力があるのです。本書は、タレント遙洋子さんがフェミニズム社会学の権威である東大上野千鶴子教授のゼミに入門して、そこでの悪戦苦闘と成長の日々をレポートしたもの。このたび、3期生ゼミのテキストとして、4年ぶりに再読しました。フェミニズムへの格好の入門書であるばかりでなく、秀逸な学問論・大学論でもあり、「学び」への意欲をかきたててくれる本。「遊びにいく私に父はよく言ったものだ。『金もったか?』『いらん。』『お金はないより、持っているにこしたことはない。無理して使わなくていい、助けてくれることがある。持っていきなさい。』学問もしかり。無理して使わなくていい。持ってるにこしたことはない。だから勉強する」(pp.190-1)。他にも「ゼミ運営はどうあるべきか?」「直感と論理の関係は?」「オリジナリティとは何か?」等々、本書は数多くの有益で興味深い問題を提起してくれています。また、大学の教壇に立つことを生業としている者は、末尾の東大批判(知の占有)に謙虚に耳を傾けなければならないでしょう。
(3)は、11月(5)と同じく、成果主義で卒論を書いているゼミ生H君がいる関係で手に取りました。本書の主張を手短にまとめれば、こうなるでしょう。1990年代のバブル崩壊後、日本企業は人事制度において、かつての年功序列主義から成果(選別)主義への移行に心血を注いでいる。しかし、この成果主義は、組織(あるいは管理者)が他の人々を評価・序列化・選別できるという暗黙の前提にもとづいている点において、また、組織の内外を隔てる厚い壁の内側に個人を囲い込み管理しようとする傾向を有する点において、かつての序列主義と本質的に異なるものではない。同じ時期、日本の若者は、会社への一体化や忠誠を忌避し自律性を重視する傾向を強めてきており(個人主義化)、それは今後いっそう大きな潮流となることが予想される。そうであるならば、組織の論理にもとづく選別主義は、今後ますます通用しなくなる。個人の能力を評価するのは、組織(管理者)ではなく、市場や社会といった不特定多数でなければならない。選別主義に代わる新たなパラダイム=「適応主義」への転換が求められる。「組織が個人を評価・選別し、それによって地位や賃金などの処遇が決まるのではなく、環境に対する個人の適応の度合いによって個人の評価、収入、地位などが決まるシステム、ならびにそれを尊重する考え方」(p.96)への転換が必要だ。本書を番外ゼミのテキストに使ってみたところ、ゼミ生からは「転換には相当な期間がかかるのでは?」「理想的・楽観的すぎるのでは?」との疑問の声があがりました。僕も彼らに同意します。日本の企業には、既得権益と組織の論理に守られて地位とカネを得ている人たちがまだまだたくさん残っています。現時点において、著者の讃美するような個人主義者の多くは、組織の囲い込みを忌避すれば人生における選択肢が著しく
縮小してしまうので、「負け組」を運命づけられているように思えるのですが、それは僕の杞憂でしょうか? 「組織に属しながらもなかば独立自営に近い感覚で働く」(p.104)という、新しい個人と企業の関わり方の実例がたくさん挙げられていたことに、希望の光を見出すべきなのでしょうが・・・。
(4)は、生態心理学の入門書なのですが、「この本には、むずかしいことは一つも書かれていません。あたりまえのことだけが書かれています」(p.4)と謳われているわりには、なかなか読み進めませんでした。amazon.co.jp のブック・レビューを覗いてみたところ、やはり本書の評判は芳しくありません。「わかりにくい」「難しい」という感想ばかりです。ですから、本書は初心者には薦められません。繰り返し(4回)読んで、ようやく著者の言いたいことがぼんやり頭に入ってきました。アフォーダンスという考え方は、既存の心理学の枠組みを徹頭徹尾否定したところに成り立っているのですね。既存の心理学は、感覚器官から入ってくる刺激を脳が処理して意味を作ると考えるのに対して、生態心理学は、環境に潜在している意味(アフォーダンス)を行為が発見する、と考える。「行為のプランが行為に先立ってどこか(脳?)に「スケジュール表」や「フローチャート」のようにあるという説明の仕方」(p.118)に我々は慣らされてしまっているけれども、それは正しい考え方ではない。行為はアフォーダンスに動機づけられて始まる。生き物の行為と環境は二つで一つ。云々。本書への不満を表明するならば、第一に、タイトルの「知性はどこに生まれるか」という問いへの解答が明瞭に示されていないこと。生き物の行為と環境が出会った場所に生まれる、という答えでいいのでしょうか? いまいち自信がない。不満の第二は、「ぼくは「こころ」とぼくらがよんでいることも、さんご礁をつくりあげたサンゴの行為のように、まわりにあることと二つで一つのことであると考えてみたいと思っている」(p.25)と問題提起されているのに、著者の考える「こころ」の正体が結局最後まで読んでもはっきりしない。結局、「こころ」って何ですか? 「知性」「意図性」との関係は? ダーウィンの心理学の本質は? エピローグでまとめてほしかった。ただ、アフォーダンスそれ自体は非常に面白い考え方なので、他書をあたって勉強を続けようと思います。
(5)は4期ゼミ生が自ら選んだ最初のテキスト。著者は吉本の常務。口述筆記のような軽妙な文体で、躓くことなくすらすら読み進めることができます。演芸という枠の中にとどまらず、人に夢と元気を与えることなら何でもなんでも取り組む「感動産業」への飛躍を目指す吉本の経営理念がよくわかりますし、「プロデューサー」という、わかっているようでよくわからない職種の仕事内容も、具体例に即してわかりやすく説明されています。新喜劇のマンネリ化、それを打開するためのリストラの裏事情は興味深かった。ゼミのマンネリ化阻止の参考になるかも。本書が刊行されたのは2000年ですが、その後、吉本と蜜月関係だったマイカルは倒産、大阪オリンピックの招致は失敗。木村常務がそれらをどう受け止めたのか、知りたいところ。。結果オーライで強引に理屈を後からつけたような叙述が散見され、学術書として読むのはちょっとしんどい。あくまで読み物。
(6)は3期生ゼミ2004年度最後のテキスト。著者の専門は化粧文化史。不美人「論」と題されていますが、「論」は展開されていません。これまた読み物。例えば、「私は漠然と美人は一点へと向かっているような、向っていけるような代物であると感じている。そして、一点へ向かっていくことができないものが不美人であると感じている。これは、何か本能的なものである」(p.209)。「感じている」とか「本能」とか言われると、そこで思考を停止させられてしまいます。バーク研究との関係で美学をかじっている僕にとって、「自然のままは決して美しくなく、自然に見えることが美しい」(pp.113-5)、「シンメトリーは美しくない」(pp.198-200)とする著者の立場は、フランス式庭園よりもイギリス式庭園を称揚する立場と重なるように思えましたが、直感・印象にもとづく叙述が大半なので、それ以上は何とも言えません。ないものねだりはやめておきます。「氾濫している情報に踊らされて、何もそこらへんにありがちな安直な美人になどなってしまうことなどないのだ。…自分の所有している不美人の素を数え上げて、これからも朗らかに生きて行こう」(pp.216-7)というのが本書のメッセージ。でも、これを読んで女性は元気になれるかな? 男の僕にはよくわかりません。
(7)と(8)(9)は双子のような関係にあります。経営学者である高橋さんはテイラーの科学的管理法の理論的欠陥を、経済学者である新井さんは新古典派経済学の理論的欠陥を指摘しつつ、ともに「ゲーム論」の手法を援用して、日本型年功制(終身雇用制)のメリット、成果主義のデメリットを説いています。そして、会社全体の長期的なビジョンを描き、組織内の「不安」を払拭し「信頼」を回復することこそ、経営者の責務であると主張します。「要するに「成果主義」はみなダメなのである」(高橋, p.231)。(7)は『週間ダイヤモンド』で「2004年ベスト経済書」の第1位に選ばれました。雑誌やインターネット上のブック・レビューを探ってみたところ、本書に対する評価は真っ二つに分かれているのですが、僕は「五つ星」の評価を与えます。高橋さんの言うとおり、成果主義は自前で人を育てることを断念した企業が採用する論理だと思います。「我が社は目先の数字合わせに必死です。長期的なビジョンを描く余裕はありません」と公言しているに等しいのです。そのような企業にいったい誰が魅力を感じるでしょうか? (8)は新古典派経済学(特に一般均衡理論)の枠組みを理解するのにたいへん有益。2000年公刊の(8)の3年前に、同じ著者によって公刊されたのが(9)です。(9)では(8)と比べると新古典派経済学批判がやや背景に退き、日本的システムの構造的欠陥と目される企業不祥事、その温床たるインフォーマル・グループの分析に多くのページが費やされています。「血液市場」(pp.151-3)の例は、薬害エイズ問題の本質を理解する上でも、一読の価値があるでしょう。
(10)は現在進められている教育改革のロジックと構造を比較社会学的に考察したもの。「自己実現」「個性の伸長」「自由の拡大」といったスローガンの内実は空疎であり、空疎であるからこそ多様な教育観をもつ人びとがスローガンとして一様に掲げることができるのであって、「言葉の魔力に蹂躙されているのが、近年の教育改革動向である」(pp.246-7)と指摘しています。市場経済が「選択」を基本理念としているのに対して、民主主義社会は「共生」と「公論」を基本理念としている、というのが筆者の思考の基本的な枠組み。教育の私事化・市場化・商品化は、「選択」という価値の肥大化、「共生」と「公論」という価値の衰退、民主主義社会の礎の破壊を引き起こす、と警告しています。
(11)は、電機業界ケースを中心に、各社の人事システム改革(能力主義・成果主義の導入)の現状と今後の動向を探ったもの。成果主義人事の最大の問題点は、「能力を客観的に計ることには根源的な難しさがつきまとう」(p.57)ということです。「能力主義・成果主義人事は「能力の要素は必ず客観的モノサシで計れる」という仮説を前提にしなければ成り立たない」(pp.57-8)わけですが、そもそもそんなことが可能なのでしょうか?目標管理制度の場合を考えてみましょう。「大きなプロジェクトを複数で組んで営業活動する場合は、目標をどう個人に下ろしていくか、ケースバイケースであり単純な方程式はない。こうした条件の違いがあるところで、当人も周囲も納得する目標を設定するのは至難の技である。…営業部門のように、目標を数値化しやすい部署でも、目標を割り振るのが難しい。ましてや目標の数値化がほとんど不可能な管理部門、総務部門などでどう適正な目標を立てるかは、かんたんではない。…「目標管理制度」の運用に当たっては、目標の設定でも評価のさいも、それを部下に納得させるのは、あくまで上司の部下に対する説得力、部下から見れば上司に対する信頼感なのである」(pp.76-9)。つまるところ、成果主義の成否を握っているのは、上司の人格、コミュニケーション能力なのです。このような上司をいかにして作るのでしょうか? 成果主義人事の盲点はここに存するように思われます。「私は本書の執筆をとおして、ほとんど確信するにいたっている。“人材のジャスト・イン・タイム”を目指しているかのような現在の成果主義は日本企業には定着しないであろう、と」(.p.238)。
2004年11月 (1)森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス――その政治、経済、教育――』(岩波新書) (2)太田肇『囲い込み症候群――会社・学校・地域の組織病理――』(ちくま新書) (3)広田照幸『教育には何ができないか――教育神話の解体と再生の試み――』(春秋社) (4)広田照幸『日本人のしつけは衰退したか――「教育する家族」のゆくえ――』(講談社現代新書) (5)内田研二『成果主義と人事評価』(講談社現代新書) (6)橋爪大三郎『幸福のつくりかた』(ポット出版) (7)潮木守一『世界の大学危機――新しい大学像を求めて――』(中公新書)
来年度の講義準備の関係で、最近「教育の市場化」に関する文献を集めているのですが、そんな時にたまたま遭遇したのが(1)です。著者は先ごろ亡くなった世界的に名高い数理経済学者。本書はいろいろな読み方が可能です。タイトル通り、サッチャー首相時代のイギリス社会(政治・経済・貿易・教育・福祉等)についての知見が得られることはもちろんですが、知識人論、経済体制論の入門書としても有益。また、イギリス政治から照射された日本政治文化論として読むことも可能です。1979年にサッチャーが首相の座に就いてから、今日までイギリスの首相はメージャー、ブレアが務めただけ。25年間でたった3人。他方、1979年の日本の首相は大平正芳で、以後25年間に首相を務めたのは、鈴木、中曽根、竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、村山、橋本、小渕、森、小泉、合計14人。日本とイギリスは(大統領制ではなく)同じ議院内閣制なのに、いったいこの差は何なのでしょう!? イギリスの首相はどうして長期政権が可能なのか? どうして絶大な権力を揮うことができるのか? 本書を読めばよくわかります。
ゼミ生のF君が薦めてくれた『ホンネで動かす組織論』をそろそろ読もうと思い立ったのですが、同じ著者による(2)を先に読むことにしました。ともにちくま新書ですが、(2)のほうが公刊が古く、おそらく「正・続」的な意味合いが込められているでしょうし、(2)には「組織論から見た学校」という非常に興味深いテーマが含まれているからです。中学・高校の内申書を例に挙げて、「成果よりプロセスを重視することが囲い込みを助長している」(p.47)と喝破している件は、非常に啓発的でしたし、「組織の個性化と個人の個性化とのトレードオフ関係」の指摘もまた、学校選択制がもたらす帰結を考える上で、示唆に富んでいます。他には、「真の民主主義」を考えるためのヒントも数多く含まれていますし、ジンメル社会学の組織論への応用としても読むことができます。(自分が担当している)ゼミも一つの組織なので、その運営のあり方を本書に即して反省してみた場合、同じ指導方針のもとでも、ある学生は「囲い込まれている」「そこまで深くコミットしたくない」と感じ、別の学生はそんなふうに全く感じていないという歴然たる事実があります。万人受けする教育はない(教育の確率論的限界)という現実にどう対処すればいいのか、わけがわからなくなってきました。とにかく、いろいろなことを考えさせられる、非常に面白い本でした。ただ、フリーターの増加の原因が自律型個人主義の浸透に求められている点については、議論がやや単純化されているように感じました。
感動本『教育』に続いて同じ著者の(3)(4)を読み進めましたが、さらなる感動を得ました。この感動をどう表現すればいいのかわかりません。一言で述べるなら、まさに広田照幸さんのような仕事こそ僕が研究者としてやりとげたいタイプの仕事なのです。広田さんのご専門は教育史を中心とした社会史ですが、歴史的事実を踏まえて、世間に跋扈する教育言説の嘘や誤解を明快に指摘し、公教育の未来を展望しています。二、三、興味深い指摘を紹介しておきます。「家庭の教育力が低下している」という事実誤認が生まれているが、真実は「親の教育責任が以前に比べて重くなってきている」。現代の学校や教師は、一方で、子供の内面とその形成過程を把握することが求められ、他方で、家族関係や子どもの個人的な事情に立ち入るべきでないという規範にも縛られているため、とりわけ「家族から受けた心の傷」という問題に対処するにあたり、二つの規範の構造的なジレンマに苦しめられている。「家庭・学校と地域の連携」「親や地域に開かれた学校」という美しいスローガンは、草の根民主主義がもつコストやリスクを軽視している、等々。特に(3)は教育問題に関心を有するすべての人に読んでもらいたい画期的な一冊だと思います。「へぇ〜」が連発しますよ。
ゼミ生H君が成果主義をテーマとした卒論を準備しているので、その関係で(5)を手に取りました。ジャンル的には経営学なわけですが、評価する人/される人の心の動きを丹念に描写しており、少々おおげさかもしれませんが、スミスの『道徳感情論』を彷彿とさせてくれます。長期不況のもと、多くの企業が従来の年功賃金制度を見直し、成果主義の導入を進めつつありますが、著者はマルかバツかの二分法をとりません。「人事評価は、経営者と社員あるいは上司と部下のあいだのコミュニケーションの結晶」(p.163)というのが、著者の根本テーゼです。職場のOA化の進展によって、仕事の自己完結性が高まってくる反面、自分の仕事のプロセスが他者にどう評価されているのかが、ますます見えにくくなっている。そんな中、人事評価は、自分の存在感を証明する役割を担っており、「評価の納得性を高めるためには、経営者が全責任をもって最終評価をする必要がある。・・・客観的評価を納得感を高めると言われるが、それはその評価方法を利用して人間が人間を真剣に評価する場合である。客観的指標のみによる人間不在の評価は、むしろ納得感を生まない。」(p.51)。経営者が、社員と真剣に向き合おうとせず、不安を表面的に緩和するために成果主義を導入するような場合には、それが組織の活力の低下という無残な結果に終わるのは、ある意味、当然とも言えるのです。「目標は明確に定めるべきである、何かを獲得するためには何かを捨てる覚悟がなければならない。その覚悟なしに、成果主義によってリストラと業績主義を同時に狙おうと考えるのは虫が好すぎる発想なのだ」(p.46)。しかし、著者は決してリストラ反対派ではありません。経営側に、単なるコストダウンではなく、投資であるとのビジョンがあれば、そのリストラは成功する可能性が高い。「適正規模の人員配置で権限と責任を付与し、良好なコミュニケーションで人的リスクを回避しようとする企業には社員に働く喜びがあり、この喜びが企業に生命力を与える」(p.184)。ブラック・ジョークめいていますが、香山リカさんが『就職がこわい』なら、本書は別名『就職してもこわい』。経営者も中間管理職も一般社員もみんな「不安」を覚えています。不安は人間を利己的にするから、不安の原因を放置したまま成果主義が導入されても、会社は責任転嫁の温床となってしまうだけ。「コミュニケーション」「信頼」を回復し「不安」を除去するために、人事評価は行われるべきなのです。
ゼミ生のNさんから「卒論で幸福の定義が必要なので何かいい本はないですか」と尋ねられたのですが、すぐに思いつかなくて書架を漁ってみたところ、かなり前に買って未読だった(6)をたまたま探り当てました。著名な社会学者の講演集ですが、たいへん読みやすく、著者の幅広い言論活動を俯瞰するには最適の一冊と言えるでしょう。「幸福な学校」「幸福な社会」「幸福なわたし」という3章構成。第1章の主題は教育改革で、小・中学校の改革として、「学区制の廃止」「校長への経営権の付与」「相対評価ではなく絶対評価の導入」が提言されていますが、正直なところ、僕にはどれもうまく機能するとは思われません。「教育にゆがみを与えている、諸悪の根源」(p.51)だと著者自身が認めている大学入試システムのためです。「いったいどうして大学の入試がなかなかなくならないかと言うと、大学の入試にはそれなりの社会的機能(企業の人材リクルート)があるからです」(p.52)。だとすれば、小・中学校改革の成功には、大学改革の成功が前提となるはずです。この順番を軽視してはいけないと思います。第2章収録の「民主主義はよみがえるか」、第3章収録の「幸福原論」は、とても読みごたえがあり、この2本だけでも本書は「買い」です。前者は、限られた紙幅にもかかわらず、日本の政治文化の特質が(欧米・中国との対比のもとで)見事にまとめられていて、「さすが」とうなってしまいました。後者は「幸せとはその真っ最中には気づかないもの」という切り口がとにかく新鮮。経済学者にはまず浮かんでこない切り口ですね。「幸福と幸福感とはまったく違うものです。…幸福とは自分の生き方のスタイルの完成度のことですから、自分のフィーリングではない。幸福がフィーリングだと思ってしまうのは、公の世界が薄弱になり、自分の行動スタイルが曖昧になっているということで、幸福からは逆に遠ざかっているんです」(p.230)。何やらカントっぽいぞ。この考え方、僕は好きです。
(7)は、もともとは著者が勤務する桜美林大学の通信課程用教材として準備されたもので、コンパクトなボディに欧米主要各国の大学の歴史と大衆化の現状、それに伴って発生した問題が平易な文章でみごとにまとめられています。カレッジ制度、ゼミナールや大学院の起源の説明には、思わず「へぇ〜」。読みごたえ満点のお買い得な一冊です。「大学院の登場の背後には、一つのパラダイムの登場があった。つまり、専門研究こそが優れた教師を養成するという発想である。それ以降、教師は専門研究の成果によって評価され、それによって昇進することになった。しかしながら、それによってもたらされたものは、研究の果てしない細分化の過程であり、極端な場合には、博士論文を書いた当人と審査委員以外には読む者もいなければ、引用する者もいないという状態さえ出現した」(p.173)。遺憾ながら、とりわけ経済学部にはこうした傾向が強い気がします。かなり前から西部邁さんあたりが批判していたことですけどね。主題である「新しい大学像」については、著者の大胆な提言に拒絶反応を起こす大学教員も多いはず。大学は多様な学生層、多様な社会的ニーズを引き受けなければならない、というのが著者の基本的な立場。「同一年齢層の50パーセント以上の青年層が大学に進学してくる現在、同じ学習形態ですべての大学生が満足するはずがない。…フルタイムで大学に通うのか、それとも職業と並行させながら、パートタイムで学ぶのか、イーラーニング、在宅学習の部分をどの程度織り込むのか、長期在学型をとるのか、短期集中型をとるのか、さまざまな選択肢を選びながら、それに応じた学習サービスを開発する必要があろう」(pp.220-1)。また、生涯教育については、このように論じています。「職業経験10年を経た(中卒の)人を、まだ高校を卒業していないという理由で、一六、七歳の青年ばかりの高校に受け入れるのには、さまざまな障壁があることであろう。そうであれば、大学のなかに高校の教育内容、場合によっては中学校の教育内容を教えるクラスを設ければよい。大学は教室という場を提供し、高校、中学校の教育内容を教えられる教員を委嘱すればよい。一方の教室では高度な理論物理学が教えられているかと思えば、その隣では初級数学が教えられている。人々が年齢に関係なく、それぞれの必要に応じて学べる、そういう学習空間に大学は変化してゆくはずである。これは決して、「大学の水準を低下させる」ことではない。大学が「知識・技能のディズニーランド」となり、「成人のための学習センター」になることである」(p.226)。昨年61歳で他界した父は、本が大好きで頭の回転がとてもはやい人でしたが(僕が本の虫なのは完全に父の遺伝子ですね)、経済的な事情のために中学卒業後すぐに社会に出て、生活に追われ、結局最期まで働き通しでした。「年金もらえるようになったら大学に行きたい。時間に追われずにじっくりと経済の勉強がしたい」というのが口癖でした。「でも、わしは高校出てないからなぁ。経済は勉強したいけど、英語や数学はこの歳からやとしんどいなぁ」とも。もし著者が言うような大学が多数生まれれば、父のような人間にも大学で学ぶ機会が与えられます。素晴らしいことだと思います。最後に一つだけ著者に反論。「人生のいかなる段階でも、必要に応じて学習できる仕組みが作られていれば、20歳代なかばまでの教育機会に社会的な格差があっても、あとからいくらでも回復可能である」(p.204)。そうであって欲しいけれど、現実はそれほど甘くない。やはり日本は勝ち逃げ社会です。生涯学習への過大な期待は禁物。詳しくは広田照幸『教育』を参照。
2004年10月 (1)内田茂男『基本のキホン これで納得!日本経済のしくみ』(日経ビジネス人文庫) (2)住出勝則『「使える英語」へまっしぐら!』(研究社) (3)馬場練成『中国ニセモノ商品』(中公新書ラクレ) (4)入江曜子『教科書が危ない――『心のノート』と公民・歴史――』(岩波新書) (5)重松清編著『教育とはなんだ――学校の見方が変わる18のヒント――』(筑摩書房) (6)宮本みち子『若者が《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書y) (7)広田照幸『教育』岩波書店
(1)は外国人留学生科目「日本事情II」の講義準備のために読みました。これはまさに隠れ名著ですよ。「高校生でも理解できる」(p.4)とまでは思わないけれど、最初心者のための入門書とも言える小塩『高校生のための経済学入門』、野口旭『ゼロからわかる経済の基本』の次の段階のための入門書としては、本書以上に充実しているものはないでしょう。コンパクトなボディーながら、日本経済の基本のキホンをしっかりとおさえた上で、マンデル・フレミング・モデル、アメリカの貯蓄率ゼロの謎、内外価格差の意味、企業組織の本質等、中級者の世界への架橋も忘れない。本当に素晴らしいです。ただし、ほとんどがマクロな話です。
英語の学習において一番大切なのは努力・忍耐・目的意識。自分の英語レベルを見極めること、一つの教材を時間をかけて繰り返すことの重要性。音の連結こそがリスニングのポイント。発音できない単語は聞き取れない。音読の効用。達人のアドバイスは同じですね。類書と比較した場合の(2)のメリットは、受験英語を実用英語へと架橋するためのヒントが満載されていること。第7章「辞書で英語をモノにする方法」、第9章「「書く英語」をモノにする方法」を読めば、受験英語それ自体が悪いのではなく、受験英語で培った知識を実用化するための訓練が不足していただけだということに気づくはず。とりわけ159ページ以下の「和英辞典の活用方法」は啓発的。本書で薦められていた『最新・和英口語辞典』と『私はこうして英語を学んだ』をさっそく購入しました。
(3)は日本企業を悩ませている中国製ニセモノ問題に関するルポ。これも外国人留学生科目「日本事情II」の講義準備のために読みました。ジャーナリストの筆によるだけにたいへん読みやすい。日立ブランドの傘やトイレット・ペーパー、三洋電機ブランドの自転車やオートバイ(もちろん両社とも製造していない)。「SQNY」「PIQNEER」「TAYOTA」「HONGDA」「BROSISTER」といった、失笑寸前の類似商標。「日本企業の中国での[ニセモノ]被害は700社以上であり、被害額は年間1兆円以上」(p.27)。「日本企業のニセモノ被害にあっている国は、中国32%、韓国18%、台湾17%にのぼり、この三か国・地域だけで実に全体の3分の2にあたる67%にのぼっている」(p.28)。もちろん、日本企業はこの問題を黙過しているわけではなく、相当深刻に受け止めています。しかし、中国では、ニセモノ製造が地場産業の中核になっている地域が多いために、官民一体でニセモノ作りに精を出す地方保護主義が根深く、加えて、知的財産権の保護制度が未整備で、裁判で勝っても賠償額は微々たるもの。日本企業の多くは泣き寝入りしてしまい、それが結果的にニセモノ製造業を跋扈させるという悪循環を生み出してしまっています。WTOに加盟した中国が真の意味での経済大国へと飛躍するためには、元の切り上げ問題に加えて、この知的所有権侵害問題をどうしてクリアする必要があります。知財管理は、グローバル経済下のホワイトカラーにとって、これからますます重要な仕事となっていくでしょう。本書を通じて「ブランドとは何か」という哲学的問いにアプローチしてみるのも面白いかも。ちなみに「中国のCDは90%以上が海賊版」だそうです。唖然とさせられます。
(4)は、話題の教科書『新しい公民教科書』『新しい歴史教科書』や道徳補助教材『心のノート』の内容を詳細に検討し、その隠された本質を明らかにしようとしたもの。著者によれば、それらの教科書や教材は、平和憲法と教育基本法を支柱とする戦後民主主義に強い疑念を示す一方で、権利よりも義務(それは国防の義務、天皇のために死ぬ義務へと容易に発展する)を尊重することの崇高さを子どもの心に刷り込もうとしており、つまるところ、「皇民化教育の復活」「国家権力による人心操作」を目指している、というのです。限られた紙幅に要領よく論点を整理した著者の力量は評価に値しますが、そのあまりに旧態依然たる左翼的言辞には、正直うんざりさせられました。多数の保守派の論客を含む「つくる会」は、著者のようなステレオタイプな批判をすべて折込ずみで、それをいったん乗り越えて、「新しい」教科書を作成したはず。著者の批判は彼らには痛くも痒くもないでしょう。「つくる会」の言説は復古主義・伝統主義の単なる復活ではありません。広田照幸さんが指摘しているように、彼らの言説は「ポストモダン論による価値の相対化、「伝統の発明」論をくぐりぬけた上で、人々のアイデンティティの基盤として「伝統の再創造」を意図」しているのです(『教育』p.4)。僕は「つくる会」を支持するわけではありませんが、硬直化した左翼的言辞に対する解毒剤として、「つくる会」には一定の意義を認めたい。「…「つくる会」がめざしているのは、科学としての教科書をつくるのではなく、自己の思想を語るために教科書という場を利用しているということなのである」(p.221)。それでは、旧来の教科書は「思想」ではなく「科学」だったのでしょうか? そんなはずはないでしょう。どのような史実を選び出し、どのように配列するのか? その作業自体が一つの思想を含んでいます。もし著者が、旧来の教科書を「思想」ではなく「科学」だと信じているのなら、それはあまりにも脳天気で自己撞着がすぎます。「新しい」教科書が「思想だからダメ」ならば、同じ意味で古い教科書もダメなのです。そのダメな所以を両者均等に説明して、その上で「どちらの教科書(史観)が自分にしっくりくるか」を生徒に考えさせることができるのなら、それが歴史感覚を育むという意味で最良の教育法でしょう(中学・高校段階で実現困難なのはわかっていますが)。また、「形から入って心をつくるという発想」(p.184)に全体主義への兆候を読み込むような、「羹に懲りて膾を吹く」態度も辟易です。形の軽視が学校教育にもたらした弊害については、斎藤孝さんがつとに指摘していますが、著者は彼の言説にまで全体主義の脅威を読み込むのでしょうか? 「権利と義務どちらが先か」「心と形どちらが先か」という二者択一に問題を読みかえてしまった時点で、こぼれ落ちてしまう真実があるのです。著者は「味方じゃなければ敵」という二分法にとらわれている気がします。西部邁『新・学問論』、藤岡信勝『汚辱の近現代史』などと併せて読めば、本書の印象はずいぶんと変わるはず。
(5)は、さまざまな立場で「教育」とその現場に携わっている人たち(17名)へのインタビュー集。インタビュアーは作家・重松清さん。テーマは、英語・数学・家庭科といった個々の教科、民間人校長・遠隔教育といった学校改革に関するもの、教員のメンタル・ヘルス、若者のフリーター問題など多岐にわたっています。個々のインタビューはかなり短く編集されていますが、内容はきわめて充実。いずれにも「へぇ、そうだったのか」と思わず目を見張る事実が満載で、教育に関心のある(無関心な人がいては困るのですが)すべての人に読んでもらいたい一冊です。一部を紹介しておきます。「現代の若い世代は「活字離れ」なんかじゃなくて、むしろ「活字まみれ」なんだ」(国語, p.73)。「日本の中学は、先生の質としては世界でもトップレベルだと思うんです。それに比べると、小学校は問題なんです。というのは…ほとんどの先生が文系出身だから。…自信がないから、やっぱり授業でも実験をやりませんね」(理科, p.85)。「隅々までまったくなにも事故が起きないように丁寧に丁寧につくって、その結果どういう空間ができあがるかというと、刑務所のような空間しかできないんですね」(校舎, p.165)。「日本だと、これだけ女の先生が増えて、子育て中の先生も多くなっているのに、保育室もないでしょう。日本の公立の学校になぜ保育室がないのか、僕は不思議でしょうがない」(保健室, p.201)。「冷凍食品業界にとって、学校給食は大市場なんですよ。いま、冷凍食品は年間150万トン生産されているんですが、そのうちの51%が学校給食用なんです」(給食, p.211)。「教員採用の世界は、基本的に談合なんです」(教員免許, p.261)。どうです? 読みたくなったでしょう? なお、永山彦三郎『現場からの教育改革』では、現場の混乱が強調され、どちらかと言えば「悪者」扱いだった「総合的な学習の時間」ですが、本書には成功の実例・ヒントが多数掲載されています。
(6)は、近年深刻度が高まっている若者のモラトリアル期(経済的依存期)の長期化――フリーターと未婚・晩婚現象――を、心(労働意欲のない若者の「甘えの構造」)の問題としてではなく社会経済構造の問題として、豊富な文献やデータを援用して論じています。1980年代以後、我が国の社会経済構造は、労働的価値の強い産業社会から消費社会へと変貌をとげました。「労働的価値の強い社会では、稼ぐことのできない者は低い地位に甘んじることになる。しかし消費社会では、彼らが何をしているかにかかわりなく、彼らの購買力によってのみ社会的地位が決定される。…経済的依存者であるはずの青年や子ども、そして扶養される女性が、消費市場では高い地位を得ることができてしまう」(p.77)。労働ではなく消費を通じての「自己実現」「アイデンティティの探求」が一般化したのです。しかし、その高い消費能力を(そればかりか彼らのライフチャンスをも)規定しているのは、つまるところ、親の経済力です。「現代の消費社会に生きる子どもや青年は、自由になるお金なしには何事もままならない」(p.142)から、経済的依存期は長期化してしまう。それは同時に、「商業市場に深くからめられて、消費人間としてアウトサイダー化していく若者や、さらに、社会的に排除された状態にいる長期失業者や無業者が増加していくこと」(p.166)も意味します。今日の危機の本質はこの点にあります。著者は、包括的な青年政策の必要性を説き、具体的には、「教育コストを自己負担させる」「学生の仕事を職業につなげる」「社会的意志決定を若者に託す」しくみの構築を、ヨーロッパ諸国の取り組みをもとに提案しています。扱っている領域が広すぎるため、新書のスペースに収めるには少々無理があり、現状分析にしろ政策提言にしろあと一歩踏み込んだ叙述が欲しいのですが、若者問題の基本テキストとしては高い評価を与えることができます。一日で通読できる簡明さも魅力。大平健『豊かさの精神病理』、香山リカ『就職がこわい』などと比較しながら読めば、理解がいっそう深まるはず。
(7)は「思考のフロンティア」シリーズの中の一冊。著者は「社会化/配分」「個人化/グローバル化」という概念枠を援用して、思想としての「教育」の危機の本質を解き明かし、教育の未来に向けて、新自由主義な経済-教育モデルとは異なる新たなモデルを展望しています。著者のリベラルな教育観は、冒頭に引用されているローティの言葉に集約されている気がします。「子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちとの運命との不平等を、神の意思だとか、経済効率のために必要な代価だとかではなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ必要がある」。教育哲学・思想の本にしては、一見畑違いの文献が多数利用されていますが(例えば、ネグリ&ハート『帝国』)、それが本書の議論に独自の色彩と魅力を与えています。取扱われている論点は多岐にわたり、要約は不可能ですので、一箇所だけ、(6)との関係でとりわけ印象に残った部分を紹介しておきます。「不登校よりもっと大規模に起きているのが、「勉強嫌い」「学校離れ」といった、学校へのコミットメントの部分化である。…代わりに、青少年の多くが消費社会の空間を浮遊するようになってきている。見落としてはいけないのは、そこには、長期化する就学期間によって宙釣り、先延ばしになったアイデンティティの空白を、消費社会の空間でさがし求めようという、青少年の切実な思いが存在しているということである。…不登校の苦しみや、学校の外に「自分らしさ」を探し求める青少年の切迫感を考えると、彼らの〈生〉を丸ごと肯定してしまいたくなる。…しかしながら、「でもやはり…」という思いを禁じえない。…知識集約的な経済への転換は、学校で学ぶものの重要性を一層高めてきている」(pp.32-3)。自分自身がアンチ新自由主義であることを再確認させられた一冊。理論的な本なのに感動させられました。
2004年9月 (1)加藤節雄『英会話秘密特訓法』(青春出版社) (2)林信吾編『達人のロンドン案内』(新潮OH!文庫) (3)小野田博一『英語は「論理」』(光文社新書) (4)森田ゆり『しつけと体罰――子どもの内なる力を育てる道すじ――』(童話館出版) (5)高橋祥友『英語力を身につける』(講談社現代新書) (6)田辺洋二『はじめてのヒアリング』(講談社現代新書) (7)杉田敏『はじめてのビジネス英会話』(講談社現代新書)
(1)は実家に帰省した際に書架にたまたま見つけて京都に持ち帰った本。購入は1985年(高2)で、読んだ形跡がありましたから、約19年ぶりの再読ということになります(さすがに内容は完全に忘却)。日本人の英会話の上達を妨げている受験英語(文法)の弊害を指摘し、その呪縛から解放されるための発想の転換の必要性を説いています。今やその弊害が懸念されるほど受験英語にしっかりととりくんでいる中高生がどの程度いるのか疑問ですが、大学入試・大学院入試・予備校講師と人並み以上に受験英語にどっぷりと浸かってきた僕にとって、本書は過去の自分の躓きの石を再発見させてくれるものでした。おっとも、丸暗記の弊害を説く本書と丸暗記の効用を説く野口悠紀雄さんとは、一見反対の立場のようですが、そうではありません。本書は発話状況を無視した断片的な言い回しの丸暗記を戒めているのであり、言葉は状況とともに身につけるべきと言っているわけですから、名演説などまとまった長文を暗記することで言葉の運用状況の勘を体得しようとする野口さんの方法と、根底で通じ合っています。ただ、成人のための英語指南本としては、本書は物足りない。「いかに話すか」の前に「いかに聞きとるか」という問題があるはずなのに、本書では後者の問題がほとんど扱われていません。また、受験英語のマイナス面が強調されすぎている嫌いもあります。「理屈っぽい人は(英会話が)上達しない」のは事実なのかもしれませんが、反面、英語の表現習慣の根本に「論理」があり、それを会得するのに受験英語が強い味方となってくれるのも事実です。受験英語自体が悪いのではなく、受験英語を実用英語に架橋するための技法が我が国では未発達なだけなのです。(3)は論理的な英語を書くためのハウツー本ですが、英会話にも益するところ大。仕事上英語が必要な人であれば、世間話のレベルにとどまらず論理的に英語を話すことも求められますから、その意味では話すことと書くことは別物ではありません。英語を使って自己を表現したいのなら、日本語の表現習慣を捨てて、英語の表現習慣に従うべき、と本書は説きます。英語の表現習慣とは何なのか? それが「論理」なのです。内容の詳細は省きますが、英語文化の根底に触れさせてくれる啓発的な良書です。
(2)は渡英の予習として読みました。「滞在の方法から、交通システム、怪談名所、留学、おたく事情、音楽シーンにいたるまで。それぞれの道の達人たちが、ロンドンをめぐる奥深い情報を伝授する」(裏表紙より)。たしかに奥深い。でも、奥深すぎて、素人にはついてゆけないかも。僕はロンドン体験が4回あるので、地名もある程度頭に入っており、土地勘もありましたから、なんとか読み通せましたけれど。ロンドン全体の簡単な地図が付されていればよかった。
(4)は3期生合宿の参考書。3期生自身が選びました。日本人の75%が支持する「子どもをしつけるのに体罰は必要」との見解に全面的に異を唱え、体罰に代わるしつけの方策を具体的に提案しています。本書には同感できる叙述が多く見受けられました。「スキルとは、さまざまな状況に対して対応できる、方法や選択肢のことです。教師や保育士は教育のプロなのですから、この選択肢をたくさん持っていないければなりません。…一発なぐればこちらの愛情は伝わるはずだと、体罰をする教師は、教育のプロとしてのスキルのない人だといえるでしょう」(pp.85-6)。この発言は、「教育改革の行く手をはばむ大きな桎梏が、人生経験さえ豊かであれば誰でも教師はつとまるという人々の安直な見方にある。一度でも教壇に立った者なら認識していることだが、教師は、誰にでもつとまるどころか、誰にもつとまらない複雑で高度な知的専門職である」という佐藤学さんの発言と共鳴しあっています。また体罰と戦争との共通点との指摘(第6章)も、なかなか斬新な分析視角で、3期生ゼミが本年度前期に扱ったテーマである「戦争」と「教育」がこんなふうにつながりうるとは、驚きでした。ただ、「子どもの人権」(p.33, 98, 111)という表現には違和感を覚えました。「子どもの権利」が正しいのでは?
(5)はこのところ集中的に読んでいる英語学習法に関するもの。著者は国際的に活躍している精神科医。英語を学ぶことは甘くない。絶えざる努力が必要。それを著者は自分自身の経験から繰り返し説いているので、楽しく学びたい初学者は精神的ダメージを受けるかも。しかし、内容的には(僕が強く共感している)井上一馬『英語できますか』、野口悠紀雄『「超」英語法』と重なる部分が多く、すごくまっとう。言い方が硬派なだけです。僕自身の英語学習に対する考え方は、今まで読んだ本の中では本書が一番近い。「早いうちから子供に英語を学ばせたほうがよいかというと私は疑問です。…子供は外国語をすぐにマスターするとよく言われますが、私の観察ではかならずしもどうではないように思います。というのも、「君はだれ?」「それを貸して」「一緒に遊ぼう」といった単純なことを言っているにすぎないので、そんなことをいくら流暢に話せたからといっても、あまり意味はないように私には思えたのです」」(p.13)。ごもっとも。「ある時期、真剣に英語を勉強しようと考えたら、最初の数年は、寝ても、起きても英語、英語といった環境を自分自身の周りに作り上げなければ、けっして上達に結びつきません」(p.15)。「「何年も勉強しているのに、少しも上達しない」と嘆く人は、ある時期に集中的に学習するのが足りなかったのではないかと私は思うのです」(p.17)。たしかに僕はNHKラジオの英会話を長年聞いていたけど、聞き流しているかテキストに頼るかであって、耳を強化する時期を持たなかったな。これじゃ聞き取れないのも当然。「大人にとって、読んで理解できないことは、まず聞いても理解できないのです」(p.61)。「大人が英語を勉強しようとする場合には、読む力が総合的な英語力の基礎になるというのが私の持論なのです」(p.76)。受験英語は決して無駄ではない。受験英語は使える英語に改造できます。それは今の僕が強く感じていること。
(6)のエッセンスは野口『「超」英語法』に簡潔にまとめられているので、『「超」英語法』を読めばあえて本書を読む必要はないかもしれません。"I don't know what you have."という文章の"what"が疑問代名詞であるか関係代名詞であるかの相違はアクセントの強弱によって判別できるという指摘(p.163)には、「なるほど!」とうなってしまいました。
(7)は10年前に購入し読みかけたものの、難しすぎて途中で挫折してしまい、そのまま書架に眠っていた一冊。10年たってやっと通読できる英語力に達したようです。しかし、今読んでも相当にハイレベル。何度も読み返して、一つでも多くの表現を頭の中に定着させたいものです。イギリス留学中に痛感したことですが、いくら中国経済が目覚ましい成長をとげているといっても、日本は依然として世界第2位の経済大国であり、諸外国の日本社会・経済への関心は依然として並々ならぬものがあります。幾度となく日本の社会制度や経済システムについて英語で説明しなければならない場面に出くわしました。劣悪な住宅事情、長時間労働(サービス残業)などはイギリス人の興味をひくトピックでした。著者は「中学生程度の語彙(2000語)で、日常生活の8〜9割がこと足りるというのは本当でしょうが、いっぱしのビジネスマンが Father, mother Asakusa go. 式の「カタコト」英語では教養が泣きます」(p.27)と記していますが、本当にそうだと思います。尋ねてきた相手が親しい人であればむしろ余計に。「日本式英語の限界から脱却できなければ、相手に負担をかけることになります。…やがて面倒になって、相手の注意が散漫になれば、そこでコミュニケーションは中断します」(p.41)。いつまでも友人の寛容さに甘えるわけにはいかないのです。「終身雇用」「定年」「接待」「人員削減」「生きがい」「協調性」…言えそうで言えない表現が満載。
2004年8月 (1)丹治愛『神を殺した男――ダーウィン革命と世紀末――』(講談社選書メチエ) (2)なだいなだ『権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理――』(岩波新書) (3)小林章夫『ロンドン・シティ物語――イギリスを動かした小空間――』(東洋経済新報社) (4)山田詠美『蝶々の纏足・風葬の教室』(新潮文庫) (5)今村仁司『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書) (6)H・G・ウェルズ『タイムマシン』(偕成社文庫) (7)吉村正和『フリーメイソン――西洋神秘主義の変容――』(講談社現代新書) (7)二澤雅喜・島田裕巳『洗脳体験〈増補版〉』(宝島社文庫) (8)小林カツ代『アバウト英語で世界まるかじり』(集英社文庫) (9)野口悠紀雄『「超」英語法』(講談社) (10)岸本周平『中年英語組』(集英社新書)
(1)は、ダーウィン革命――生物の進化が神の摂理を示すことのない、自然選択というまったく唯物論的なメカニズムを通じて行われると主張することによって、種を創造する神という観念を排除し、キリスト教的な世界観を解体した――の思想的磁場の影響を、19世紀後半の西欧およびアメリカのさまざまなジャンルのテクストを通じて検証したもの。著者の専門は英文学ですが、マルサスがダーウィンに与えた影響力を考慮すれば、本書が経済思想史家の興味をそそる文献でもあることは、言うまでもありません。「生命の進化を、過剰にうみだされる個体間に必然的に生じてくる生存競争のなかに認めるダーウィニズムは、たしかにマルサスの経済思想の直接的な応用であると言えるのかもしれない」(p.41)。自由意志、ユートピア、存在の連鎖等、社会思想史上の重要トピックとの関連への言及もたいへん興味深かった。植村教授担当の「社会思想史」講義の「世界史」「ナショナリズム」の単元に知的興奮を覚えた学部生には、ぜひとも一読を薦めたい。少しだけ背伸びできます。
(2)は、精神科医である「私」と高校生「A君」との対話の形式をとりながら、日常の身近な事象の分析から、権威と権力の本質に迫っています。「権威は、権威を持っているといわれるものの中にではなく、権威を感じるものの内部にあるものが投射されたものだといえるね」(p.68)。これは、当たり前のようでありながら、日常生活ではつい見過ごされがちな事実ではないでしょうか? ヒュームやバークが論じるように、美の基盤が(事物それ自体の中にではなく)事物に対する我々人間の精神の反応の中に存するのならば、美と権威は密接な関係を有するはず。「権威の落ちたあと権力がはだかの姿をさらす」(p.38)と述べられているのは、非常に印象的です。「はだか」の権力は美しくありませんが、権威という衣服を着せることによって、美しく見えてきます。ですから、「少なくとも、権威の問題も、権威をうちたおすことよりも、権威を感じなくなることに、大きな意味がでて来る」(p.219)という著者の結論に、僕は賛成できません。権威は必要なのです。統治に「権威の原理」と「功利の原理」の両者が必要であることは、アダム・スミスも指摘しているところです。本書の反権威主義は僕にとっては go too far。岩波新書、しかも、1974年初版ですから、ある程度は仕方がない気もしますが。
(3)はロンドンのシティ(ニューヨークのウォール街と並ぶ金融・信用市場の中心地)の歴史を通してみる英国二千年史。買った時(4年前)に途中まで読み進めたものの、そのまま放置してしまい、今回ようやく再チャレンジ。シティとウォルポール、ウィルクス、ロスチャイルド家との関わりなどは興味深かったですが、ページ数の都合で叙述が簡潔すぎて、「物語」と題されているわりには、物語性は希薄。物語としても概説書としても中途半端で、正直、物足りない。
(4)は初めて体験する山田詠美の世界。3本の短篇を収録していますが、表題の2作品はともに少女同士の葛藤を中心にしたサスペンス・テイストの物語。主人公の少女はとてもよく似ています。二人とも自分の生れ落ちた環境を冷徹なまでにドライに観察していて、人間関係のディーテールが見えすぎるがゆえに、大人の世界にも子供の世界にも居心地の悪さを感じている。「私はもしかしたら人よりもはるかに沢山のことを知っているのではないかと思うことがあった」(p.48)。「私は人間には大人と子供という分け方があるのだといつも思います。…クラスのお友だちには子供が多い。そんなふうに思って教室を見まわし、時折り、私は大人を見つけて驚くのでした」(p.113)。「私は、子供の世界に合わないのじゃないかな、などとも思えてきました。すると、年齢によって住む世界を決められてしまうのは、ひどい差別のような気がしてきます」(p.153)。主人公は、居場所がなくて孤独なのですが、孤独な自分を楽しんで(自分から求めて)いるようなところもあって、その点において、「孤」が「個」へと昇華しています。主人公の欲望(特に肉欲)の解放に、読者が共感を覚えてしまうのも、「現実逃避」としての「欲望解放」――「孤」の恐怖――がそこに見られないからではないでしょうか?
前期の4回生(2期生)ゼミではジンメルを読んだわけですが、その授業準備として購入したのが(5)です。第2章がジンメルの『貨幣の哲学』の解説だからです。本当は前期のあいだに読みたかったのですが、他に読むべき本が多すぎて、結局、夏休みになってようやく手に取りました。学部生時代に愛読した今村さん(特に『現代思想のキイ・ワード』)ですが、今になって振り返ると「どこがよかったんだろう」と不思議な気分にさせられます。彼の文章はわかりづらい。啓蒙書であっても抽象度が下がりません。学部生に理解できるレベルのものではありません。(5)は、最初に通読した時はほとんど内容が理解できず、二度目の通読でようやく本書の眼目――「貨幣形式としての貨幣が廃棄できないのは、貨幣が存在することと人間が社会的存在であることは同一の事象であるから」――が頭に入ってきましたが、細部についてはわかったようでわからないもどかしさがいくつも残っています。説明なしで「自己現前」「言語論的旋回」「伝統的な超越論的問題」と書かれて、すんなり理解できる読者というのは、いったいどのような読者層なのでしょう? どの程度の予備知識を有している読者を前提として書かれているのでしょうか? 正直、首をひねってしまいます。学部生は手を出さないほうが無難でしょうね。ただし、僕が専門的に研究しているバークとの関連で言えば、第3章のゲーテ『親和力』の解読は非常に興味深かった。バークとゲーテは20歳違いですが、大まかに言えば同時代人。シャルロッテが計算合理的に庭園と建築を設計して、幾何学的な美観を追及している件(p.97)は、バークの美学およびフランス革命論と明らかに共鳴しています。
(6)は1895年に発表されたSF小説の古典中の古典。(1)において進化論の影響下に成立した小説の一つとして紹介されており、それが脳裏に残っていたところ、タイミングよく古書店にて200円で発見。この偕成社文庫というのは児童文学のシリーズで、奥付にも「小学上級から」と記されているのですが、本書は大人になってから読むほうが何倍も楽しめます。単なるSFにとどまらずホラーの要素もあり、娯楽作品として読みごたえ満点なうえ、秀逸な文明批評でもあるのです。80万年後の社会は、無気力で頽廃した地上人(イーロイ)と獰猛で残酷な地底人(モーロック)の対立する社会であり、両者は資本家と労働者の末裔だとされます。このような悲劇的未来を文明の完成の帰結として描くことで、著者は文明の進歩の意味の再考を読者に迫っています。
フリーメイソン。名前くらいは耳にしたことがあっても、「どんな団体?」と尋ねられて、きちんと説明できる日本人はほとんどいないはず。「フリーメイソンは、国際陰謀事件を背後で操る秘密政治結社であるなどと本気で考えているひとがいまだにいるかもしれない」(p.12)。恥ずかしながら僕もその類いです。無知って怖い。(7)を読めば少なくともそうした無知からは解放されます。もともとフリーメイソンは貴族や上層市民層の社交クラブとして発足しましたが、それが発展した18世紀の時代精神――神秘主義と啓蒙主義の融合――の影響を受けて、儀礼と講義を重視し「人間の完成」と「社会全体の完成」を目的とする団体へと変貌をとげます。きわめて平易に書かれていて、一気に読めます。しかし、著者の依拠するヨーロッパ史・アメリカ史の理解が平板なためか、いまひとつ説得力に欠ける叙述になっています。「日本国憲法とフリーメイソン精神」という節については、「こじつけ」以上のものは感じられませんでした。著者がこだわりを見せている17世紀の薔薇十字運動についても、もう少し詳しい説明が欲しかった。いまいち。
(7)は以前からずっと読みたかった本。僕は新興宗教・カリスマ・洗脳といったトピックに高校生の頃から興味を持っていて、断続的に読書を重ねてきました。古くは藤原弘達の創価学会本や上之郷利昭『教祖誕生』、最近では『カルト資本主義』など。本書は「洗脳」の実体を自己開発セミナーへの潜入体験をもとに克明な記録を試みたノンフィクション。「人をある閉鎖された場所に置いて刺激を加え、ある価値観だけを与えて、その理由は言わない、という方法によって、人は簡単に「変わり」ます。自分が今まで頼ってきた意味を否定されると、別の意味にすがろうとするわけです」(p.175)。これはまさに「マインド・レイプ」と言ってよいものです。「セミナーで私が目の当たりにしたのは、私自身の周囲でごく当たり前に生活しているであろう人びとの、「変わりたい」という、「自分を知りたい」という、「他人を知りたい」という、「他人から嫌われたくない」という、ほとんど脅迫観念にも等しい願望だった」(p.183)。「エアロビクスやエステティックと同じような手軽な感覚で、心をリフレッシュさせてくれる方法を、人びとは求めた」(p.259)。「彼らは自分の力で自分の人格をよりよいものに向上させていこうと考えるよりも、他人の力に頼ることによって一気に自分の悩みが解消され、心のよりどころが与えられることを望む」(p.264)。「あらゆる事柄を商品化していくことが、現代の社会の特徴でもある。どんなことでも容易に商品化されてしまう。心の領域も、その例外ではないのだ」(p.267)。著者がセミナーに参加したのはバブル真っ只中の1989年のこと。日本人が物質的な豊かさだけでは満足できず、精神的な豊かさを求め始めた時代です。そうした流れは、バブル崩壊以後十余年たった今、むしろ加速しているのではないでしょうか? 香山リカ『若者の法則』に「確かな自分をつかみたい」「どこかでだれかとつながりたい」といった法則が挙げられているのは象徴的です。そうした私たちの心の隙間を今日も誰かが狙っています。「他人の心を意のままに操る詐術に対する免疫をつける」(p.204)ために、この種の本を学生時代にぜひとも読んで欲しい。蛇足ながら、セミナーのネタとして「囚人のジレンマ」の例が使用されていた(p.40の「赤白ゲーム」)ことが、とても印象深かった。
(8)は著名な料理研究家によるエッセイ集。渡英が近いので、そろそろ脳みそを英語環境にしようと、手に取った次第。とはいえ、本書は英会話の技術指南本ではなく、アバウト英語でも相手に通じさせてしまう著者の世界漫遊記。相手にとって自分は外国人なのだから、発音が悪くても棒読みでも気にしない。単語の羅列でも十分に話は通じる。とんちんかんな返事をしても気にしない。相手が自分にきちんと聞きたいことがあるのなら、また言ってくれるはず。変な英語でも、喋らないよりは喋るほうがいい。伝えたいという気持ちがあれば、ほとんど伝わる。英語コンプレックスに悩む人にとっては、肩の荷を軽くしてくれる一冊。一気に読み通せます。
英語強化週間が続きます。(9)はすばらしい一冊。英語(特に英会話)学習の指南本としては、井上一馬『英語できますか?』と並ぶ強烈なインパクトを僕の心に残してくれました。おそらく万人に通用する英語学習法はないと思いますが、著者の英語学習歴、学習の目的、学習上の苦労・躓きが、ほぼ100%自分と重なっているために、書かれていることのすべてに説得力を感じました。本書は「口頭英語に必要なのは聞く訓練。話す訓練は必要ない」という立場に徹して、「聞く訓練をどのように行なうか」をメインテーマとしています。聞き取り上の最大の問題は、子音の消失・連結・変化であり、例えば "You ain't nothing but a hound dog." が「ユエン・ナツバラ・ハウンドー」としか聞こえないことなのです。子音の消失・連結・変化のルールをまとめた第3章は出色の出来です。もっと早くこんな本と出会いたかった!
(10)は(9)が薦めていたもの。まったく英語ができないにもかかわらず、38歳にしてアメリカで留学生活を送らねばならなくなった著者の奮闘記。前半が「聞く」「話す」「読む」「書く」の実践的学習法、および、窮地に陥った時の打開策(ごまかし方)の紹介。後半は英語を通しての日米文化比較論。新書でありながら、この限られたスペースでは紹介できないほど、豊富な内容を誇っています。英語の専門家ではなく、一人のユーザーの視点から書かれているためでしょう。著者のメッセージを一つだけ紹介しておきます。(9)でも主張されていたことですし、僕自身も共感する内容です。「おそらく、これからのインターネット社会においては、日本人にとっての英語は、インターネット上の情報を理解し、電子メールで意思疎通するための道具ということになるのではないか。英会話ももちろん大事ではあるが、ほとんどの日本人にとっては、日常生活で使う英語は読み書き中心になってくると思われる。そうだとすると、基礎的な英文法と英単語の学習の重要性を軽視できないことになる。「小学生から、英会話を!」という今の風潮に対して、英会話を教えるネイティブ・ランゲージ・スピーカーが少な過ぎるとの批判がある。できるだけ、ジェットプログラムのような仕組を拡充し、ネイティブ・スピーカーの発音を子供のころから聞かせるとともに、日本人の先生は、インターネット時代に対応した読み書き英語を教えることで貢献する道もあるのではないか」(pp.194-5)。同僚の山本千映先生もHP上の日誌で指摘されていたことですが、日本人は英語が書けません。「読む」「書く」は得意だが「聞く」「話す」は苦手、というのはまったくの嘘です。僕は英文レターが上手く書けないことに日々悩まされています。
2004年7月 (1)仲正昌樹『「不自由」論――「何でも自己決定」の限界――』(ちくま新書) (2)鷲田清一『教養としての「死」を考える』(洋泉社新書y) (3)福澤一吉『議論のレッスン』(NHK出版) (4)福田歓一『近代の政治思想――その現実的・理論的諸前提――』(岩波新書) (5)小野善康『節約したって不況は終わらない。――日本経済に答えはある――』(ロッキング・オン) (6)梅津光弘『ビジネスの倫理学』(丸善) (7)塩原俊彦『ビジネス・エシックス』(講談社現代新書) (8)小池滋『ゴシック小説を読む』(岩波書店) (9)J=J・ルセルクル『現代思想で読むフランケンシュタイン』(講談社選書メチエ)
『「みんな」のバカ!』が面白かったので、同じ著者の近著をもう一冊手に取りました。それが(1)です。この著者は本当に僕のテイストに合います。問題の設定の仕方がいいんですよね。近年喧しい「自己決定」「自己責任」の賛否両論に対して、その陥穽をはっきりと指摘しています。「何をどこまで知ったら、「自己決定」に必要な情報を得たことになるのだろうか。…これこれの問題について、これくらいは自分で知っておくべきだ、とはっきり限定した形で論じない限り、「自己決定」に賛成するにしろ反対するにしろ、ほとんど意味をなさない」(pp.13-4)。問いそれ自体を問い直しているのです。「言わば、市場における効率性の原理にしたがって、「主体」であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて“不自由”な状態に置かれているのである」(pp.201-2)という指摘は、構造改革、規制緩和、市場主義を支持する人たちが決して語ろうとしない現実でしょう。「僕が言いたいことを言ってくれてありがとう!」という気分です。「本書は、一応、現代思想・哲学のキーワードに対する「入門書的なもの」のつもりで書いたものである(p.17)が、ハーバマスとアーレントの比較は、入門書を域をこえた素晴らしい仕上がり。「リベラリズム」「リバタリアニズム」「コミュニタリアニズム」の解説も明快。ただ、デリダの「音声中心主義」の説明は舌足らずだったかも。僕は十分に理解できませんでした。
(2)は、『バカの壁』にあやかったであろう語りおろしですが、できは本書のほうが格段にいいですね。死の脱社会化(他者性の喪失)現象の背後には、生産力と効率性を重視する市場主義の思想が隠されています。「生産力を重視する考え方は、当然若さを優先する思想につながります。あるいは、生を尊重して死を軽んじるという傾向を生み出します」(p.60)。他者性の喪失は、若者の仕事観にも深刻な影響を及ぼしています。「仕事というのは、誰にでもできる簡単なことから始めて、試行錯誤を重ねるうちに自分にしかできないやり方を見つけていく」ものなのに、「それ以前に自分がその仕事をすることに意味があるかどうかをかなり性急な形で問わなければならな」(p.48, 96)くなっています。他者性を欠いたままで自己決定を強要されることの恐怖が、徒党やいじめを加速させているような気がします。はっきりそう述べられているわけではありませんが、その問題を考えるためのヒントが満載されています(p.193- )。「人称態の死」(p.101, 148)という考え方は、少々議論の抽象度が高く、学部生にはしんどいかも。(しかし、ゼミ生はちゃんと理解できていました。嬉しい誤算です。)
(3)は、会議やプレゼンの対策用のノウハウ本のような響きのタイトルですが、中味のほうは本格派。身近な例を用いて、「考える」ことの本質が平易に解説されています。例えば、「今日のお昼はカレーにしようよ」「どうして」「だって、昨日はラーメンだったじゃない」「そうだね。そうしよう」という会話1と、「今度の被告は終身刑にしておこう」「どうしてですか」「だって、前の被告は死刑だったじゃないか」「そうですね。そうしよう」という会話2を比べてみた場合、両者は同じやり取りの形式になっているのに、どうして前者だけを我々はすんなりと受け入れられるのか? 著者は「主張」と「根拠」をつなぐ「隠された根拠」=「論拠(Warrant)」にその謎を解く鍵を求めます。「論拠がわかれば議論がわかる」というのが、本書の主たるメッセージです。野矢茂樹『はじめて考えるときのように』と並ぶ、画期的な哲学入門書だと評価できます。なお、斎藤哲也編『使える新書――教養インストール編――』(WAVE出版)の28-9ページにも本書のガイドが収録されているので、参照してもらいたい。
近代思想史上のジョン・ロックの位置を確認したくて、(4)を9年ぶりに再読しました。中世から近代への転換期において、「自然」と「理性」の観念がその意味を180度転回させたことに着目して、近代政治思想の流れを概観しています。「現代の政治思想のほんとうの課題…の核心は…感性と結びつきながら、しかも人間の自律性、その自己と自ら生み出した文化とを規律する能力としての理性の問題」にあり、「それがロックがように個人に求められようとも、またルソーのように人間と人間との間に求められようとも、この能力を欠いた人間は結局自らの生み出したものの奴隷になるほかないではありませんか」(p.194)というのが著者の主張の核心です。抵抗の二側面(pp..79-80)、ユートピア思想の歴史的意義(pp.57-61)等は完全に脳裏から消えてしまっていたので、勉強になりました。
(5)は、我が国の代表的ケインジアンで反構造改革派・積極財政派である小野さんの対談集。本書を読んで、「なーんだ。いろいろな人がもっともらしいことを言っているけど、結局、経済学って正解のないエエカゲンな学問なんだ」と落胆するのか、派閥抗争に学問のダイナミズムを見いだすのか、それは読者次第でしょうが、「答えが決まらないからこそ面白い。考えてみる価値がある」と思っている僕には、たいへん刺激的な一冊でした。とりわけ、構造改革派の吉田和男さん、伊藤元重さんとの対談は、紙面に火花が散っていて、知的興奮度極大です。例えば121ページ。小野「例えば40年先、我々が死んでしまったあとにも国債が残っていた。そうすると我々の子供たちから税金をとらなければならない。その子供たちには負担だということですね。」吉田「それは負担でしょう。」小野「私は、それはまったく論理的な間違いだと思っています」等々。ここまではっきりと対立すると、むしろ痛快です。「自分はどちら側なのだろう?」と考えながら読むことで、経済学的思考が磨かれるように思われます。ところで、宮台真司さんって小室直樹さんの弟子だったのですね。知らなかった。援交女子高生の理解者という一面的なイメージに囚われていたのですが、「学者に今求められていること」を真摯に語る意外(失礼!)な一面を知ることができました。偏見はいけませんね。反省しなければ…。
「ビジネス・エシックス(企業倫理学・経営倫理学)」は、1980年代になってアメリカで台頭してきた新しい学問分野で、我が国でもビジネス・スクール(経営大学院)の設立の進展に加えて、近年の企業犯罪の多発(雪印食品・三菱自動車等)によって、巷の関心をにわかに集めています。実は、僕はこの4月から学内の共同研究班「ビジネス・エシックス」のメンバーなのですが、昨年10月から教学主任として執行部入りしていた関係で、この分野の勉強がまったく進んでおらず、少々焦っていました。前期の講義が終了し、ようやく少しばかり時間的余裕ができたので、まず学部生向けテキストとおぼしき(6)と(7)を手に取った次第です。結論から書きますと、テキストとしては、(6)のほうが成功を収めている気がします。限られた紙幅内に、ビジネス・エシックスにおける「理論」「実践」「制度」の関係を、これ以上平明には書けないだろうというくらいに平明にまとめあげています。実際に起こった事件を題材として、ケース・メソッドの具体例を多数掲載しており、「頭の体操」感覚で新しい学問分野の全体を俯瞰できます。(7)は、新書ではありますが、かなり個性的で非教科書的な議論を展開しています。そもそも著者の専門はロシア経済。ロシアにおける腐敗問題を考えるところから、著者のビジネス・エシックスへの関心は始まっており、それに「日経クーデター」事件が拍車をかけたのです。「米国流の「個人」ではなく、本書でいう「個人の主体性」の「確立」を前提として、そこに「信頼」に基づいた広義の「信認関係」が構築されること、それこそが日本に「ビジネス・エシックス」が定着するために必要なのではないか」(p.186)というのが著者の基本的立場で、「米国流ビジネス・エシックス」を「日本流ビジネス・エシックス」へと架橋するべく、大澤真幸さん・柄谷行人さんの業績を援用しながら、「主体性」「自由」「世間」「信認」といった概念を再検討しています。「…「ビジネス・エシックス」の問題も、ビジネスに限定された倫理という本来の範囲を超えて、全般的な倫理の問題として、資本制国民国家から人間をどう解放するかまでを問わなければならないのではないか」(p.232)という著者の主張は、一つの社会哲学の表明としては傾聴に値しますが、問題の範囲を必要以上に大きくしまい、結果的に、個々の論点の絞りこみを不十分なものにしている気がします。我が国における「個の未確立」という論点は、ありきたりで新鮮味を欠きます。
僕が専門的に研究している思想家エドマンド・バークの初期の著作に『崇高と美』という美学論文があり、その『崇高と美』の文学史的背景を知るために手に取ったのが(8)です。岩波市民セミナーの講演録だけに、軽妙な語り口がそのまま活字になって、一気に読み進めることができます。ホラー小説・映画は怖いのに(恐怖の感情は本来嫌悪の対象であるはずなのに)どうして面白いのか(その怖さはいかにして面白さに転化するのか)」? その謎が解き明かされます。バークの「崇高」論のエッセンスがしっかり理解できたにとどまらず、「崇高」とゴシック(ホラー)小説が密接な関係を有していること、その影響がエドガー・アラン・ポーにまで及んでいることがわかりました。英文学に関する知識が皆無に近い僕にとって栄養満点の一冊でしたね。
(9)も教育用ではなく研究用。メアリー・シェリーのゴシック小説『フランケンシュタイン』(初版1818年)は、文学史のみならず思想史においても、黙過できない文献です。テクノロジーによるモンスターの創造は、啓蒙の限界を象徴していますが、実際、本書が著わされたのは、フランス革命の高邁な理想の挫折が露わになった時代でした。第2章「語りの矛盾」、第3章「歴史の矛盾」は、『フランケンシュタイン』のコンテクストとして、「イギリスにおけるフランス革命」を据えながら、父ウィリアム・ゴドウィン、母メアリー・ウルストンクラフト、夫パーシー・ビッシュ・シェリーのみならず、ロック、バーク、マルサスとの知的影響関係にまで検討を進めた、たいへん刺激的な研究です。「モンスターは崇高なる世界に属する」(p.74)、「メアリー・シェリーにとっては…モンスターは…フランス革命…の積極面と消極面とを同時に表している」(p.102)という指摘は、バークの「崇高」論の二面性と関連づければ、たいへん興味深いものです。フロイト、ジェイムスンの理論に依拠した第4・5章は、恥ずかしながら、ほとんど理解できませんでしたが(フロイトについては無知同然なのです)、第3章まででも本書は「買い」です。(8)と続けて読んだのは大正解。内容がつながっています。
2004年6月 (1)斎藤貴男『希望の仕事論』(平凡社新書) (2)長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書) (3)香山リカ『就職がこわい』(講談社) (4)門脇厚司『子どもの社会力』(岩波新書) (5)小倉千加子『結婚の条件』(朝日新聞社) (6)仲正昌樹『「みんな」のバカ!――無責任になる構造――』(光文社新書)
(1)は僕が敬愛する斎藤さんの新著。これまで決して少ないとは言えない量の本を読んできましたが、彼ほど人生観・世界観を共有できる人を僕は知りません。育った環境もすごく僕と似ています。彼の父は屑鉄屋、僕の父は(もともとは長距離トラックの運転手で後に)大衆食堂のオヤジ。まるで自分の分身のようで、読むたびに興奮を覚えます。本書の構成は、第1章で会社で働くことの意味を問い直し、第2章でフリー労働者の悲惨な現状を告発し、第3章でフランチャイズ・システムによる独立の虚妄を暴き出し、第4章以下が(著者を含む)成功した独立生産者・企業家の経験のルポになっています。第3章は、かつてこのコーナーで紹介した安部・伊藤『吉野家の経済学』と併せ読むと面白い。雇う側と雇われる側の視点のコントラストが興味深いですね。本書に99%の共感を寄せつつ、あえて不満を述べるならば、第1〜3章の現実を見知っていながら、自分の可能性に自身が持てずに、第4章以下の世界に踏み出せずにいる多数の人々の存在が意外とぞんざいに扱われていること。「一度きりの人生だ。自分の可能性に賭けてみろ」と叱咤されて、「はい。勝負に出ます」と答えられるほど、人間は単純な生き物ではない。「脆い自分」とどう向き合うか? この意味において、中島義道さんの『働くこと…』のような本の存在意義もあるのでしょう。ゼミ生(4回生)のIさん、Nさんが「仕事」「労働」をテーマにした卒論をどんなふうに仕上げてくれるのか、楽しみです。
(2)はフリーターを主題とした辛口エッセイ。近年深刻化を増しているフリーター問題をめぐる諸論点がほぼ網羅されており、「フリーター概論」として読むこともできます。著者が文芸評論家(兼歯科医)であるためか、(フリーター問題とは普通であれば結びつきそうにない)夏目漱石や谷崎潤一郎などの作品の登場人物のライフスタイルが、しばしばフリーターのライフスタイルと比較・論評され、僕のような社会科学畑の人間は最初その切り口の奇抜さに少々戸惑いましたが、読み進めてみると、フリーター問題が日本近代の必然的帰結のようにも見えてきて、興味深かったです。時おり、論理(というよりも感性)の飛躍についていけない箇所もありますが(例えば、宮崎事件→自動車規制)、ごった煮的な評論スタイルは、フリーター問題の射程の大きさを示唆しているようです。もちろん、好き嫌いは別れるでしょうけれど。「生活水準が高くなってしまった現代日本では、子供時代に親のおかげで享受していた生活水準を、自分の労働によって獲得するのが難しくなった。…現代の若者たちにとって、社会に出るということは階級的下落、没落の不安を伴う出来事となっている」(p.205)という見解は、佐藤学『教育改革をデザインする』と基本的に同じですが、僕はリアリティを感じます。
「仕事・就職」を主題とした本が続きます。(3)は就職活動という視角から「当世若者気質」を論じたもの。著者はもともと精神科医ですが、数年前から大学教員として勤務するようになり、そこでの就職委員としての経験が本書の成立の背景にあります。入口は軽い(若者の就職率の低下)のに、出口はとてつもなく重たい(絶望的な不全感・無力感にとりつかれて生きている若者)。著者と同様に大学に勤務している僕にとって、本書に紹介されている事例は、心あたりのあるものばかりで、若者の就職問題の深刻さを痛感すると同時に、今の仕事をこれから先も続けてゆけるのか、不安に襲われました。ゼミ選考に面接を導入したとたん応募者が激減したのはなぜか? オフィス・アワーを設けても学生がなかなか利用してくれないのはなぜか? 面接官のあらゆることばや態度をネガティブかつ感情的にしか解釈できない若者(pp.50-60)、オンリー・ワン幻想にとらわれすぎて自分だけに届けられたメッセージにしか耳を傾けなくなった若者(pp.168-176)が、その謎を解明してくれますが、謎が解けたところで解決策を講じられない自分の無力さは、ただただ悔しいばかりです。すべての大学教員に読んでもらいたい一冊。見たくなくても見なければならない現実がここにあると思います。
「いじめ」「学級崩壊」など、子どもをめぐる深刻な状況の根本的原因は、「社会性」――「場に適応する力」――ではなく「社会力」――「場を作り変革していく力」――の衰退にある、というのが(4)の主張の眼目です。子どもの社会力の育成のために何が必要なのか? 「子育てする大人がなすべきことは、徹底して子どもとかかわり、適切な応答を繰り返すこと」(p.164)。「子どもの社会力は、生きることに対する大人たちの前向きな姿勢があり、それから発する強いコミュニティ意識があり、それに根差した大人たちの、地域づくりに連なるさまざまな活動があり、その中に子どもを取り込みつつ重ねられる大人と子どもの相互行為の過程で育てられ強化されていくのだと考えるべきである」(p.201)。ありきたりな結論ですが、「当たり前のことを手抜きせずにやること」(p.97)がいちばん大事だと、著者は力説します。他方、教育改革への過度な期待を、「子どもや個人を操作の対象としてしか見ていない」(p.159)と戒めています。ゼミも一つの社会である以上、本書の分析・提言はゼミ運営にとっても参考になります。ゼミの充実に必要なのは、ゼミ生の社会性ではなく社会力なのです。ゼミの空気に「適応」するという受身な態度では、自分がその空気を作っている一人であるという当事者意識が希薄になり、ゼミが自分の思うように動かなくなった時、その原因を自分以外の外部(他者)に押し付けてしまい、被害者意識ばかりが強くなってしまいます。「社会力」は「当事者意識」と言ってもよいのではないでしょうか?なお、詳しい説明は省きますが、著者の人間観はアダム・スミスのそれに酷似しているという印象を持ちました。
(5)は妻に薦められたもの。現代女性の仕事観と結婚観をこれほど正確に言い当てている本はない、というのが彼女の評価ですが、手にとってみて「なるほど」の連続でした。キーワードは「階層」ですが、これは本書だけではなく今の時代のキーワードだと言えます。「女性問題は階層問題」だと著者は喝破します。「高階層にいるフェミニストが、すべての女に「結婚しても働き続けよ」と叱咤激励する資格はなにもない」(p.47)。現代の若者、とりわけ女性にとって、「今の階層の維持は至上の課題であり、その一番有力な方法が結婚」(p.70)である以上、「結婚の条件」は高まるばかりで、その結果、永遠に「適当な相手」が見つからない。結婚難と少子化の真の原因だというのが著者の判断です。「経済は夫に責任をとってもらい、自分は趣味を兼ねた仕事をする。いわゆる「夫は仕事と家事・妻は家事と趣味的仕事」という新・新・性別役割分業に向っているのである」(pp.37-8)。「働いて家計費を稼がなければならない二等主婦の上に、働かなくても青山でお洋服を買って消費できる一等主婦がいる。さらにその上に、働くことにお金を消費することが許される特等専業主義がいるのである。消費としての労働の登場だ。専業主婦の階層化ここにきわまれりである」(p.97)。こうした現代女性の願望に応えられうる男性が、女性と同じ数だけいるようには思われません。結婚難と少子化はこれからいっそう加速しそうです。辰巳・松原『消費の正解』の中に、消費社会では、「あなたはどんな人ですか」と問われて、特定の消費行動をとることで、「私はこういう者」だと表現するようになる、という件(p.31)があるのですが、「消費としての労働」はそんな消費社会のさらなる進化形態だと感じました。
(6)は、「みんな」という言葉を主題に繰り広げられる現代思想の運動会、あるいは、非常に美味なちゃんこ鍋。森首相や道路公団の藤井総裁の発言、ローカル新聞を素材に、日本人の「みんな」観――「みんなの責任→みんなの無責任」――を再構成していく手法には、新書らしい遊び心が感じられます。また、ハイデガー、デリダ、「啓蒙の弁証法」等々、以前から興味があったもののなかなか勉強できずにいた人物・トピックが、簡潔に解説され、楽しく勉強できました。著者曰く、「いつのまにかエッセイなのか、現代思想の重要テーマのポイント解説なのか、「私」自身にもよく分からない変わった本になっていた」(p.206)。たしかに変わった本ですが、面白くてためになるという意味で、理想的な新書だと評価できます。もっとも、某ベストセラーにあやかったとしか思えないタイトルはいただけない(責任は著者ではなく出版社にあるのでしょうが)。
2004年5月 (1)高橋哲哉『「心」と戦争』(晶文社) (2)藤原帰一『デモクラシーの帝国――アメリカ・戦争・現代世界――』(岩波新書) (3)藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在――』(講談社現代新書) (4)北川東子『ジンメル――生の形式――』(講談社) (5)佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店) (6)中島義道『働くことがイヤな人のための本』(新潮文庫)
(1)も3期生ゼミのテキスト。僕は高橋さんを『記憶のエチカ』――2001年度後期「経済学特殊講義IV(記憶の思想史)」のタネ本の一つ――の著者として知りました。アレントの勉強を本格的に開始した大学院(博士課程)時代に手にとったのですが、哲学者らしい骨太で緻密な論理に加えて、現代政治(平和論・戦争論)への積極的な発言も織り込まれて、新しい哲学の可能性を期待させる素晴らしい一冊でした。このたび久々に高橋さんの著作に触れたわけですが、カルチャーセンターでの公演録であることを斟酌しても、正直なところ、期待外れの内容でした。議論が浅薄で単純なのです。特に「有事法制」を論じた第三講では、「・・・らしい/はず/説もある/可能性も高い」といった言い回しが頻発し、著者が主観(信念)を壇上から押し付けているようにしか僕は受け取れませんでした。「現在、私たちの社会は敗戦後、最大の歴史的分岐点に立っていると私は思います。「有事法制」を認めて政府に対し戦争の禁止を解除してしまうのか、それとも逆に、かつての失敗からあらためて教訓を引き出し、自国の「外」でなされる戦争や自国が勝利する側にいる戦争にも参加することを拒否し、戦争の加害者にも被害者にもならず、地域と世界の平和に非暴力で関与していくことを選ぶのか。私たちみながそれぞれに問われており、選択を迫られているのです」(p.169)云々。「基本教育法」改正や「有事法制」問題に対する著者の危機意識は痛いほど理解できますし、僕もその危機意識を共有していますが、だからと言って、どうしてこんな単純な二分法に立脚しなければならないのでしょうか? これでは、「われわれ」[=正義]と「やつら」[=悪]とを截然と区別してしまうアメリカ大衆映画の世界観と大差ない気がしますし、「暴力の行使が不可避な場合、それをどうすれば最小限に抑えられるか」というもっとリアルで切実な問題が背景に退いてしまいます。藤原帰一さんが「ラブ&ピースだけじゃダメ」と言っているとおりです。
帝国論には高校生の頃から興味がありました。ルイ16世は国王なのにナポレオンは皇帝。イギリス国王でありインド皇帝でもあったビクトリア女王。王国と帝国はどこが違うのか? こういう素朴な疑問にとらわれていた僕にとって、帝国論から「9・11」という国際政治の現実に迫ろうとした(2)は、十数年来の便秘を癒してくれる、読後爽快な一冊でした。国際政治の世界は、「過去の理解」が同時に「現在の理解」でもあることを体感させてくれます。デモクラシーの理念の普遍性ゆえに、デモクラシーを強制する帝国が正当化されてしまう。「罪なき人々を加害から守るために、なぜ他の罪なき人々が犠牲とならなければならないのか」(pp.133-4)という筆者の悲痛な叫びは、今日の世界がいかにやっかいなパラドックスを背負い込んでいるかということを物語っています。「非公式の帝国」概念の有効性を認めつつも、伝統的な帝国主義論とは一線を画して、アメリカ外交の展開は経済的利害だけでは説明できないという見解を筆者が提出していることは、注目に値します(pp.80-7)。本書の最後に筆者は「国際関係を「帝国」状況から変えていくためには、やはりアメリカが対外政策を転換することが、必要となるだろう。…いま求められるのは…国連機構を再編成し、その機能を強化することである」(pp.200-203)と述べています。だとすれば、日本にできることは? やはり無力なのでしょうか?
どのような切り口を選ぶにしても、藤原帰一さんの国際政治学は、「正しい戦争は本当にあるのか」という問いに収斂していくようです。(2)の切り口は「帝国」、(3)の切り口は「記憶」ですが、なぜ「記憶」なのでしょうか? 「現在の国際関係を分析するだけでは現実の国際関係の説明ができなくなってきた…。すでに終わった戦争の解釈が、現在の国際政治の争点になってきた」(p.8)からなのです。広島の平和記念資料館が伝えようとしている戦争の記憶(絶対平和への願い)と、アメリカのホロコースト博物館が伝えようとしている戦争の記憶(絶対悪に立ち向かう義務)との著しい対照は、つまるところ、「武力が平和を壊すのか、それとも、武力によって平和が保たれるのか」という問題に帰着します。どうすればこのパラドックスを克服できるのか? 著者の知的苦闘がひしひしと伝わってくる、情熱に溢れた一冊です。被爆という受難が日本国民に「平和愛好国民」(p.140)としての使命感を与えたという件は説得力に溢れています。「[『戦争論』や『国民の歴史』に象徴される]新しいナショナリズムを「政府の陰謀」に還元することはできない。むしろそれは社会のなかから生まれたナショナリズムであり、「物語」の回復を求める市民や読者によって支えられているのである」(p.170)という指摘は重要です。この指摘に従えば、高橋哲哉さんは「政府の陰謀」を誇張しすぎている嫌いがあります。なお、第2章「歴史と記憶の間」は、秀逸な歴史学概論。第5章の戦後啓蒙批判も簡潔でありながら実に鋭い。共感を覚えます。
(4)はジンメル思想の入門書。著者は『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)の編者でもある、我が国のジンメル研究の第一人者ですが、類書である4月(2)と比べると、僕の本書に対する評価は相当に低いものです。ジンメル思想のエッセンスが何なのか、何度読んでも理解できません。ジンメルが人間のあらゆる活動を「生の形式」という観点から捉えたこと、「哲学的文化」というプログラムを実行したことは読みとれますが、肝心の「生の形式」「哲学的プログラム」とは何なのか、具体的な説明が見あたりません。著者はどの叙述をもって説明した気になっているのでしょうか?基本概念の解説が不十分なのは、入門書として致命的な欠陥でしょう。おそらくこうした欠陥の原因は、(著者の方針か編集上の方針かは定かでありませんが)網羅的であろうとしすぎたためでしょう。「脆弱な自己」「女性論」といった特定のテーマを徹底的に掘り下げて、そこから思想の全体像を俯瞰するスタイルをとるべきだったように思われます。もっとも、「あらゆる社会関係が、制度や機能だけでなく、感情や感覚のネットワークを基盤として成立している」(p.175)という指摘はアダム・スミスを彷彿とさせ、非常に興味深いものでしたし、「売春」「旅の大衆化」など現代日本に深く関わる論点も数多く指摘され、部分的には評価もしています。
かつてこのコーナーで野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』、小野善康『誤解だらけの構造改革』を紹介しました。(5)は、それらにあやかって『教育改革論の誤解』、『誤解だらけの教育改革』と名づけてもよいほどの、刺激的・論争的な一冊です。昨今の我が国の教育改革においては、「個人の自由な選択と競争を基礎とするネオ・リベラリズムの路線と多様な人々が共生し合う社会を求める社会民主主義の路線」(p.52)という、二つの異なる改革の方向が衝突し合い対立を深めており、その意味で、教育改革論争と景気対策(構造改革)論争は同じコインの表と裏の関係にあると言えます。本書が提唱するのは社会民主主義的な教育改革です。「教育改革論議の10のウソ」(pp.12-47)をはじめ、「目からウロコ」の指摘に溢れています。小・中・高等学校が念頭に置かれていますが、その提言の多くは大学の授業の改善にも応用できそうです。「教室の改革においてもっとも重要な課題は「一斉授業か個人授業か」にあるのではなく、中間領域の小グループの「協同学習」にある」(p.101)。「教室のコミュニケーションの基本は聴き合う関係である」(p.109)。「校内の同僚関係の悪い学校では、分掌や委員会の数が増える傾向にある」(p.134)。「教育改革を混乱させてしまうもっとも大きな誤謬は、人間性にあふれ情熱さえあれば誰でも教師の仕事を遂行することができるという教職に対する安直な理解にある」(pp.172-4)。思わず頷いてしまう指摘ばかり。自分自身のゼミ運営を反省させられました。
「仕事とは何だろうか?」という問いは、究極的には、「よく生きるとは何か?」という問いへと連なってゆく。大切なのは、ただ働くことではなくて、よく働くことだ。「金になる仕事から金にならない仕事へ」という仕事概念の大転回が必要なのだ…。煎じ詰めれば、こんなことが書いてある(6)は、さながら現代版『クリトン』。本書はもともと2001年に日本経済新聞社から公刊されたもので、今月文庫化されたばかりですが、斎藤美奈子さんの秀逸な解説が付されているという理由で、僕は文庫版のほうをお薦めします。「仕事とはそもそも「社会」と「個」の接点に位置するテーマなわけですが、中島義道はあくまで「個」の側から仕事について語ります。哲学的、人文科学的アプローチといってもいい。ところが、仕事ってやつは残念ながら「社会のしくみ」に規定されている以上、個人がいくらあがいてもどうにもならない部分がある。社会科学的なアプローチがほんとは不可欠なはずなんですがね。この本がグチャグチャして見えるのは、社会のしくみの話しぬきで社会との接し方について語ろうとする、その根本的な矛盾に由来するように思います」(p.220)。実に鋭い指摘です。やはり中島さんの思考は徹頭徹尾哲学的だったのですね。「経済学部で哲学する」(中澤ゼミのテーマ)ことの意味を本書を素材にゼミ生と話し合いたくなりました。
2004年4月 (1)堀米庸三『正統と異端――ヨーロッパ精神の源流――』(中公新書) (2)菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』(NHKブックス) (3)藤原帰一『「正しい戦争」は本当にあるのか』(ロッキング・オン)
(1)は同僚のK先生に薦められた一冊。現在絶版で古書店を何軒か回ってようやく手に入れました。なぜ、教会の腐敗を一掃してカトリック的な世界秩序を確立しようとした教皇グレゴリウス7世の改革は、この秩序の本質に矛盾する異端的秘蹟論(執行者重視論、人効論)の強行をもって行なわれたのか? この小さな「なぜ」を出発点に、中世ヨーロッパの歴史を貫く宗教的・世俗的両権力の緊張関係の壮大な見取り図を描こうとしています。外見は新書ですが中味は完全な専門書。昔の新書(初版1964年)はこんなにも浩瀚な内容を誇っていたのですね。覚悟して読むべし。
(2)はゼミ生F君お薦めの一冊。著者である菅野さんと社会学との関係は、僕と経済学との関係に酷似しています。社会学を専攻したものの、主流派社会学の無味乾燥な世界にどうしてもなじめず、苦悶し続けた学生時代。著者にとって、天下国家や社会全体のことより、音楽や小説や好きになった女の子のほうが、はるかに切実な問題でした。「自分はほんとうは社会のことなんてどうだっていいと考えているダメな奴なんじゃないか…」という自己嫌悪。そんな時ふと手にしたゲオルク・ジンメルのテキスト。「社会学なのに社会学じゃない!」ジンメルの〈相互作用的社会観〉の中に「私」と「社会」をつなぐルートを発見した著者は、ようやく社会学徒への第一歩を踏み出すことができました。そんな著者の紆余曲折の学問道に僕は強い共感を覚えました。「まず何よりも、自分の〈弱さ〉をいったん受容することから出発しよう」(p.246)というメッセージは、今の学生さんの心にも強く訴えかけるはず。本書は、ジンメル思想の入門書にとどまらない、学ぶことに対する希望の書です。
(3)は3期生ゼミの最初のテキスト。ゼミ生Y君の推薦。イラク戦争を正面から論じたタイムリーな一冊。僕は国際政治学に対してある種の偏見を抱えています。事実のとりあげ方、配列の仕方で、どんな結論でも――本書の場合、正戦論に対する支持も不支持も――もっともらしく導き出せてしまうのではないか? 政治の世界と経済の世界では、ファクトの「えげつなさ」が違いますから、「えげつない」ファクトを二、三並べられると、僕たちは簡単に圧倒され納得させられてしまう。でも、別の機会に、別種の議論を耳にすると、今度はそちらの議論に容易に流されてしまう自分がいます。右へ左へ。それをこれまで何度となく繰り返してきました。ですから、最近では、知らず知らずのうちに身構えて、「こんな考え方もあるかもね」と冷めた読者になってしまっています。「ラブ&ピースだけじゃダメ」だとすれば、何をセカンド・ベストとして、必要悪として受け容れなければならないか? ダーティ・ワークを誰が引き受けるべきなのか? これが問題の核心であるはずです。