乱読ノート
このコーナーは、もともとは自分自身のための備忘録として設置したものですが、「隠れ名著、忘れられた名著に関する情報を学生の皆さんに発信したい」というささやかな期待もこめられています。研究の必要に迫られて読んだ専門書・学術雑誌・学術論文などは除外しましたが、専門性が強くても講義やゼミのネタに利用したものは記載しています。通読した著作のみを記載しています(全体の8割を1月に読んで、しばらく中断して、残り2割を4月に読んだ場合、4月の欄に記してあります)。欠落している月は、英書や学術論文などを集中的に読んでいたということです。
2005年9月〜2006年3月〔はてなダイアリー版「乱読ノート」へ移行〕 (1)橋本治『宗教なんかこわくない!』 (2)廣松渉『今こそマルクスを読み返す』 (3)なだいなだ『神、この人間的なるもの』 (4)山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』 (5)小川洋子『博士の愛した数式』 (6)森岡孝二『働きすぎの時代』 (7)広田照幸『教育不信と教育依存の時代』 (8)リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』 (9)三枝誠『整体的生活術』 (10)見田宗介『現代社会の理論』 (11)永井均『ルサンチマンの哲学』 (12)広井良典『ケアを問いなおす』 (13)森岡孝二『粉飾決算』 (14)藤野美奈子・西研『不美人論』 (15)山田太一『異人たちとの夏』 (16)辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』 (17)堀尾輝久『人権としての教育』 (18)トマス・ペイン『人間の権利』 (19)レヴィ=ストロース『悲しき熱帯T』 (20)レヴィ=ストロース『悲しき熱帯U』 (21)小浜逸郎『大人への条件』 (22)ニーチェ『道徳の系譜』 (23)土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』 (24)藤田健治『ニーチェ』 (25)森永卓郎『リストラと能力主義』 (26)山本容子(絵)・池内紀(文)『絵本ファウスト』 (27)三島憲一『ニーチェ』 (28)丹羽宇一郎・伊丹敬之『まずは社長がやめなさい』 (29)植村光雄『哲学のえほん』 (30)ミヒャエル・エンデ『モモ』 (31)城山三郎『鮮やかな男』 (32)市川伸一『学ぶ意欲の心理学』 (33)斎藤孝『コミュニケーション力』 (34)東浩紀『動物化するポストモダン』 (35)清水泰博『景観を歩く京都ガイド』
2005年8月 (1)川本敏編『論争・少子化日本』(中公新書ラクレ) (2)田口ランディ・寺門琢己『からだのひみつ』(新潮文庫) (3)片山洋次郎『整体 楽になる技術』(ちくま新書) (4)巽孝之『プログレッシヴ・ロックの哲学』(平凡社) (5)佐倉統『進化論の挑戦』(角川ソフィア文庫) (6)金村義明『在日魂』(講談社文庫) (7)松永俊男『近代進化論の成り立ち-ダーウィンから現代まで-』(創元社)
3期生Sさんが少子化をテーマにした卒論を準備しているので、その関係で(1)を手に取りました。当該問題に関する21本の論文のアンソロジー。収録された論文の論調は多岐にわたりますが、おおむね少子化危機論、少子化歓迎論、少子化心配無用論の三つに整理できるでしょう。個人的には小川直弘論文と八代尚宏論文を高く評価しています。小川さんは、晩婚化・未婚化よりも有配偶出生率の減少のほうがが少子化の主要因であり、その背景には長期不況による経済的不安感がある、と論じています。八代さんは、パラサイト・シングルは少子化の原因ではなく結果である、と説いています。どちらも非常に興味深い論点です。本書を読むだけで、少子化問題の全体が俯瞰できます。良書だと思います。
ここ1、2年、公私ともに疾風怒濤の日々が続き、疲労感が慢性化してしまいました。無意味に脳が興奮していて、眠りも浅い。立っていても座っていてもだるい。マッサージに行っても、2、3日でもとに戻ってしまう。「これは局部的な問題ではないな。からだ全体のバランスが崩れているな」と思い、先月から整体に通っています。すでに4回通いましたが、効果は絶大。重心の位置や呼吸の深さなどへも意識が働くようになり、自分でも驚いています。そんな折り、整体関係の本を2冊手に取りました。(2)は小説家と整体師の対談。身体的要求に素直に生きることの大切さを実感できます。「対話4 セックスのひみつ」は、学校ではまず教えてもらえない(教えられない)だけに、学生時代にこそ読んでもらいたい気がする。自分がいったい何に縛られているのかに気づくことができれば、そのぶん自由になれると思いますし。4-5ページに田口さんが記している「はじめに」は、37歳になった今の僕が感じていることとほとんど同じ。あまりに同じなので、びっくりというか、感動すらしてしまった。身体って本当に私なのか? これからもずっと考えてゆきたい。(3)は整体師が自身の施術経験をふまえて身体論を展開したもの。タイトルに反して、技術書ではなく、ほとんど哲学書。電車の中での携帯電話や化粧の問題、いじめの問題を身体=メディア論から読み解いた第1章は秀逸で、大きな収穫。第3章の「間」に関する考察を読んで、どうして(毎回お約束のパターンなのに)大木こだま・ひびきの漫才に大笑いしてしまうのか、その理由がよくわかりました。骨の名前がたくさん出てくる第2章には、もう少し図表等が欲しかった。(蛇足:それにしても、こだま・ひびきは面白い。20年来のファンなのです。今度生まれかわって、ひびきになったら、「あ、そういえばこないだ僕もあったんですよ…」と言った時、こだまさんに絶妙の間合いで「そんなヤツおれへん」とつっこんでもらいたい。ちなみに、こだまさんは吹田・豊津のご出身で、大昔キノハチにも来店歴あり。ますます親近感がわきますね。)
(4)は気鋭の英米文学者によるロック評論。プログレッシヴ・ロックとは、1960年代終わりから70年代にかけて、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマー、イエスといったバンドを中心に黄金時代を迎える音楽ジャンルで、クラシックやジャズとの融合を積極的に図ったロックのこと。変拍子やポリリズム、壮大でありながらもめまぐるしく変転する曲調、それらを支える超絶的な演奏テクニックをトレードマークとしている。そして、このプログレッシヴ・ロックこそ、僕が偏愛してやまない音楽なのです。(1955年生まれの著者と違って、1968年生まれの僕はプログレ全盛期をリアルタイムで体験していません。1982, 3年ごろにプログレと出会い、そこから70年代の作品を遡って聞きました。)著者は、プログレをプログレたらしめている理論的本質を、@自分自身をたえず《脱構築》しようとする実験精神、A死と背中合わせの壮大な自然風景を想起させる《崇高》の美学に求めています。そして、その典型をパトリック・モラーツ、アルバム『レフュジー』に見ています。ロック評論としては、その独自の分析視角ゆえ、なかなかの面白さなのですが(特にpp.80-3のブラッフォード評価)、著者の『レフュジー』評価は過大ではないか、という気がします。著者自身が述べているように、そこには「調和の場」(p.114)が実現していて、僕がいちばん望んでいる「楽器同士がからみあって生まれるテンション」が不足しています。また、アンダーソン抜きのイエス(アルバム『ドラマ』)を高く評価している僕は、「地球全体の自然をガイア的に見直す視線さえ備えるジョン・アンダーソンの生態学的態度こそは、イエス思想の根本をなす」(p.76)という意見にも頷けません。いつか時間ができたら、僕も本格的なプログレ論を書いてみたい。ちなみに、巽さんにとってのモラーツは、僕にとってはU.K.とラッシュです。アルバム『デンジャー・マネー』のA面、『ムービング・ピクチャーズ』のA面は、いつ聞いても鳥肌がたちます。Terry Bozzio と Neal Peart のドラムは最高!
(5)の著者は、もともと文系(心理学)出身で、大学院から生物学へと理転。そんな経歴にふさわしく、本書は自然科学と人文科学を架橋しようとする野心的な一冊。「進化論という考え方はこんなにもいろいろな分野で使えるんですよ」とばかりに、道徳、フェミニズム、認識論、フリーライダー現象、自然保護などの諸領域を縦横無尽に探訪。さながら「知の狩人」といったところでしょうか。第5章「ダーウィンとフェミニズム」は面白かった。「人の心理傾向は、自己正当化するように進化してきたのではないか」(p.136)という仮説は、読者の実感に訴える部分が多いと思います。著者は自分の立場が「遺伝的決定論」とは異なることを強調しています。「まともな生物学者にとっては生物の性質がすべて遺伝と環境との共同産物であることは常識だ。…遺伝的であることは、決定的なことでも改変不能なことでもないのだが、あいもかわらずDNAは運命を決める神様扱いされ続けている。もし遺伝子が生物のすべてを決めているというならば、音楽の演奏は楽譜がすべて決めているということになる」(pp.131-2)。遺伝子は楽譜。なかなかわかりやすい例えです。優生学がホロコーストを生んだという悲しい過去がありますから、著者の論の運びは時に大胆でありながらも、慎重であるべき部分は慎重です。けれど、残念ながら、全体としては僕にはいまいちピンとこない本でした。そういう考え方が「できる」のは理解できるのですが、なぜか魅力を感じません。「したい」とは思わない。著者の作品を読むのは、学部学生時代に『現代思想としての環境問題』を読んで以来、2冊目になるのですが、最初の本もたしかピンとこなかった記憶があります。内容はいまだに覚えているんですけどね。著者の断りにもかかわらず、僕が「決定論」的に読んでしまったからでしょうか。僕はマルクスを読む時も、構造主義的よりも実存主義的に読むほうに、魅力を感じてしまいます。それと関係があるのかもしれません。
(6)は元近鉄バファローズの主力選手の半生記。朴一『〈在日〉という生き方』、野村進『コリアン世界の旅』を読んだ時にも感じたことですが、在日の人々について考えることは日本人としての自分について考えることでもあります。当たり前を問いなおす、ということです。ただ、本書を読んでいちばん印象深かったのは、著者が家族に向けているどこまでも温かいまなざしです。家族への愛情が深まる一冊だと思います。著者の「熱血おやじ」ぶりは、父の若い頃を思い出させました。真摯な言葉で綴られた破天荒なその半生は読みごたえがあります。そして、その次に印象に残ったのは、著者が近鉄球団に寄せる思い。著者が指摘している近鉄球団の選手無視、ファン無視の体質には、長年近鉄を応援してきた人間として、憤りを抑えきれません。文庫版の新章で著者はこう記しています。「ぼくは、四年前に『在日魂』を書き下ろしたとき、あえて、近鉄という球団の選手無視のトンデモ体質を取り上げ、苦言を呈した。言いたくても言えない立場にある、現役の選手たちに代わり、OBの立場から古巣の球団に注意をうながしたのだ。だが、それがまったくの無駄骨だったことは、今回の出来事で明らかになった。ハッキリ言おう。近鉄球団が消滅することになったには、常にお役所感覚でしか球団、選手を考えてこなかった親会社、フロントにすべての責任がある。…近鉄は選手を「商品」としてしか見ていない。だから、こんな理不尽な吸収合併を、平然とやってのけられるのだろう」(pp.269-70)。球団存続を求める署名(僕も加わりました)は結局実りませんでした。「奇跡」は再び起きなかった。ただただ悔しい。僕の机の中には今でも2001年9月27日のスポーツ新聞が大切に保管されています。
![]() |
![]() |
(7)はダーウィン進化論への簡にして要領を得た入門書。ダーウィニズムの全般的特徴、神学や社会思想との関係、ラマルキズムやメンデリズムとの関係等、主要な論点が200ページに満たない紙幅内に一通り網羅してあります。ただ、叙述が簡明すぎるのか、僕に理系的素養が不足しているのか、どちらが理由なのかはわかりませんが、第4章「分岐の原理」、第9章「ダーウィニズムとメンデリズム」は、読み通すのにかなり骨が折れました。いまだに十分な理解に到達していません。第3章「マルサスの原理とダーウィニズム」は、マルサス研究者にとってはたいへんありがたい研究。佐倉さんより松永さんのほうが、僕には読みやすかった。
2005年7月 (1)伊藤勝彦『デカルト』(清水書院) (2)高橋伸夫『〈育てる経営〉の戦略-ポスト成果主義への道-』(講談社選書メチエ) (3)ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(佐藤高子訳、ハヤカワ文庫) (4)ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(高橋義孝訳、新潮文庫) (5)米倉誠一郎『脱カリスマ時代のリーダー論』(NTT出版) (6)アーサー・C・クラーク『2001年宇宙の旅』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)
(1)はデカルト哲学の入門書を銘打っていますが、実際は中級者向けの本格的な啓蒙書です。デカルトの「絶対確実なもの」への病的とも言えるほどの執着は、どんな入門書にも詳細に描かれていますが、本書の場合、コギトの確実性から、完全なる存在としての神の存在性が確証され、神の完全性(誠実さ)から、「私が明晰・判明に認識するとおりに物体が存在する」ことが結論される、というデカルトの思考のプロセスが、類書のどれよりもクリアに描かれています。正直なところ、これまで僕は、神や自己の認識(形而上学的省察)がいかにして自然の認識(自然学の基礎)と結びつくのか、よく理解できていませんでしたが、本書を読んでようやく理解できました。『情念論』における心身問題の解説もすぐれています。一歩一歩着実に歩みを進めながら読みたい一冊。
(2)はベスト・セラー『虚妄の成果主義』の続編ですが、特に目新しい主張はありません。<育てる経営>を貫いてきた会社だけが、生き延び、成長してこられた。成果主義は<育てる経営>とは相容れない。日本的年功制こそ<育てる経営>に適した人事システムだ。今こそ日本的年功制を再構築すべき、云々。ただし、『できる社員』や『虚妄』と比べると、議論の専門性は少しばかり高くなっています。第6章のレント論はかなり理論的で、読むのに骨が折れます。ところが、第7章では一転して「青色LED訴訟」というコンテンポラリーな話題をとりあげて、その経営学におけるインプリケーションを探っています。統計学やゲーム理論といった分析ツールへの習熟、産業技術や特許といった生々しいファクトへの密着、しかも両者が絶妙のバランスでブレンドされている。加えて、日本の未来を担う若者への限りない愛情。「クール・ヘッド、ウォーム・ハート」な高橋経営学が炸裂しています。
『オズの魔法使』は、『サウンド・オブ・ミュージック』と並んで、僕がこれまで観た中で最も好きな映画の一つですが、その原作が(3)です。ずっと前から読みたくて、何度か手に取ったものの、必ず雑事に中断されてしまい、今回ようやく通読することができました。ブリキ男やオズの大魔王の生い立ちなど、映画では省略されてしまっているエピソードが興味深かった。たしかに、映画では、オズの大魔王は魔力を持たない人間なのに、どうしてオズの国に君臨しているのか、説明されていませんでしたからね。この原作を読んで「なるほど、そういうわけだったのか」と頷いた部分は多いのですが、そういった細部のつじつまが気にならないほど映画は素晴らしかったのです。原作ではいまいち印象の薄い魔女が、映画では強烈な個性を放っています。音楽も夢と希望に満ちています。比べるのが野暮なのでしょうが・・・。訳文は読みやすく素晴らしいです。
(4)について、「なぜ今になって?」と問われると、答えに窮します。手に取ったのは気まぐれ以外の何ものでもありません。たまたま頭が物語を欲していた状態だったからでしょう。最初岩波文庫版(竹山道雄訳)で読み始めたのですが、訳文が堅くて読みづらかったので途中で新潮文庫版に乗り換えました。訳文は新潮のほうがベターですが、訳注・解説は岩波のほうが親切な気がします。言わずと知れた古典的名作(1774年公刊)で、主人公ウェルテルが許婚者のいる美貌の女性ロッテに恋をするが、かなわぬ恋であることを知って苦悩の果てに自殺する、という筋書きの書簡体小説。訳者解説によれば「青春そのものを爆発的に歌いあげた世界文学史上最高の傑作」(p.194)であるとか。「これはそれまでの小説の常識を完全に打ち破る作品であった。「18世紀の小説は…読者に娯楽を提供し教訓を与えることを目的としていた。…『ウェルテル』は、根源的に人間の生き方そのものを問題にしようとしていた」(pp.205-6)。しかし、僕はウェルテルの中に、青春時代の普遍的な苦悩よりも、ストーカー的な異常心理を感じてしまいました。彼の思いこみのあまりの激しさに思い入れできませんでした。ゲーテ研究者には怒られそうな感想ですが。やはり僕には文学的センスがないのかな?
(5)はイノベーション論を専門とする経営史家(一橋大教授)によるリーダー論。かつてこのコーナーでもとりあげた『勇気の出る経営学』と同様、僕の評価は辛口です。同じ事例(IBMのパソコン事業部の中国企業への売却)が」何度も登場するし、つまみ食い的にビジネス倫理の話が出てくるし、本の作りが雑なのです。隔靴掻痒という言葉がぴったり。第4章「ベンチャーにおけるリーダー」では、著者の本領が発揮されているように思われますが、この章をそのまま一冊の本に仕上げて欲しかった。
映画史上屈指の名作と評価の高いキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』。遅まきながら、つい先日DVDではじめて見ました。本当に約40年前の映画なのかと疑いたくなるほど、圧倒的な映像美を誇っています。。荘厳な音楽が「圧倒」を「完璧」へと高める。しかし!まったくストーリーがわからない。特にラスト。いったいボーマン船長に何が起こったんだ?途方に暮れました。「ストーリーがわからなくてどうしてすごいと言えるのか」と問われると、「なんだかわからないけどすごいんだ」としか答えられません(苦笑)。やはりストーリーが知りたくなって、小説版(6)を手に取りましたにも手を伸ばしました。説明(ナレーション)が皆無に近い映画と違って、小説はひたすら言葉で説明してくれています。謎の石盤の意味もわかりました。しかし、読後感はむなしい。作者に作品の解釈権を100%握られてしまったために、想像力の飛翔する空間がなくなってしまいました。読むんじゃなかった!!!
2005年6月 (1)木原武一『ぼくたちのマルクス』(ちくまプリマーブックス) (2)鷲田小彌太『学者の値打ち』(ちくま新書) (3)大野誠『ジェントルマンと科学』(山川出版社, 世界史リブレット34) (4)小阪修平『考える技法−小論文で頭がやわらかくなる−』(PHP新書) (5)内田義彦『資本論の世界』(岩波新書) (6)内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書) (7)ポール・ストラザーン『90分でわかるデカルト』(青山出版社) (8)河合香織『セックスボランティア』(新潮社)
番外ゼミも4期目(2001, 2003- )に突入。ゼミ生のS君が「マルクスを勉強したい」とリクエストしてきて、「やろう!」ということになりました。マルクスのマの字も知らないビギナーが最初に読むべき本として僕がいつも推奨しているのが(1)です。番外ゼミ1期目にもテキストとして使用し、このたび4年ぶりに再読しましたが、やはり相変わらず素晴らしい。マルクスの生涯、彼の生きた時代、彼の簡明に描ききっています。階級闘争、搾取、唯物論、剰余価値、疎外、類的存在といった初学者が躓きがちなテクニカル・タームを丁寧に説明、文章に飛躍や曖昧さがないので、書かれている内容がすべて頭にすっと入ってきます。著者はマルクス思想の核心(今日的意義)を「疎外された労働」概念の中に見ています。「マルクスより手強いソロー」という節で紹介されているソローの言葉−「たいていの人びとは、いくら賃金を得るためとはいえ、塀越しに石を投げ、またその石を塀越しに投げかえす仕事に雇われてはどうかといわれたら、侮辱されたと感ずるだろう」(p.176)−は、初読の時から胸に焼きついています。同僚の植村さんは、マルクス思想の内容理解という点で、本書を「実存主義的な読み方への退却だと言っていいかもしれない」(経済学史学会『年報』34, p.106)と辛口に評しておられますが、「にもかかわらず」僕は本書が大好きなのです。何のてらいもなく「好き」だと言えるのは、研究者としてではなく一読書人としてマルクスに触れられる者の特権かもしれません。
(2)は「学者の(摩訶不思議な)世界・論理」のガイドブックのようなもの。大学院志望者は(免疫をつける意味で)読んで損はないでしょう。ただ、口述筆記なのでしょうか、とにかく文章が軽い、中味も軽い。何度も読み返して味わう類いのものではないですね。著者は売れっ子哲学者ですが、僕は『大学教授になる方法』くらいしか読んだことがありません。どちらも雑書の類いなので、僕には多くを語る資格がありません。
(3)は小著ですがなかなかのすぐれもの。近代英国の科学史の平易な概説であり格好の入門書。扱っている時代が18世紀までなので、ダーウィニズムへの言及はありませんが、そのぶん「社会的イデオロギーとしてのニュートン思想」という思想史家にはたまらない論点が、丁寧に説明されており、これだけで僕は大満足です。英国ではなぜデカルトよりニュートンの権威がまさったのか? その謎を解くカギは、自然神学の伝統にあります。科学は神学を否定することによって成立したと一般に受けとめられていますが、そうではありません。少なくとも英国においては、神学が科学の形成母体だったのです。
(4)は、大学入試の小論文の問題を解きながら、「哲学する」ことの本質を教えてくれる快著。高校での勉強(受験勉強)と大学での勉強とを架橋してくれるので、1・2回生向けの教材にいいですね。著者は市井の哲学者で、駿台で小論文講座を長年担当。そうした経歴が見事に生かされています。「美しさの発見」(p.40-)「富士山の観察と表現」(p.110-)といった問題を通じて、近代美学の輪郭がすっと頭に入ったのが、僕には最大の収穫。ネーゲルも登場。レベルは決して低くない。残念ながら、ところどころ悪問(と思しきもの)も含まれていますし、解説が舌足らずな問題もあります。良問を厳選して、解説をより丁寧にすれば、もっといい本になったと思います。
6月は目が回るほど忙しい。本を読む時間がありません。読書は僕にとって呼吸のようなものなので、読めないとひどく落ち着かないのです。「読まなければならない」本だけでどんどん時間が過ぎ去り、なかなか「読みたい」本にまで手が回りません。さて、(5)は次回の大学院テキスト。「ザ・岩波新書」と言ってよいくらいのロングセラー、歴史的名著です。通読するのはおそらく十数年ぶり、三度目かな。初めて読んだのは、今でもはっきり覚えていますが、学部3回生の冬のことで、八木紀一郎先生の経済原論(マルクス経済学)の試験対策用でした。僕は本書を通じてはじめてマルクス思想に触れました。そして思想が「わかる」という手ごたえ、「わかる」ことの喜びを初めて手にしました。改めて読み返すと、その文体は(最近の新書と比べると)格調高いものの少々いかめしく、最近の学生は古くさく感じるかもしれませんが、マルクス思想の入門書としての価値は、初版刊行後40年をすぎた今でも、まったく減じていません。内容はほとんど覚えていました。疎外論の哲学者マルクスと『資本論』の経済学者マルクスが、『資本論』の労働過程論を媒介環として、統一的に把握されます。フリーター、ニート問題が喧しい昨今、疎外論(『経哲草稿』の「疎外された労働」)は今の学生にも強く訴えかけるでしょう。そこから彼らを経済学の世界へと誘うことは、経済学の教育法として、もっと注目されてしかるべきだと僕は考えます。「一体教育とは何だろう。人間を作ることか。労働力商品を作ることか」(p.192)。著者のこうした問題意識を僕はいつまでも大事にしていきたい。
(6)は番外編(大学院)の次回テキスト。マルクス、フロイト、ニーチェを前史として、構造主義の始祖ソシュール、構造主義の「四銃士」−フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン−の思想を初心者向けに平易に解説したもの。(著者自身が断っているように)ラカンの解説だけがもたもたしていてわかりにくいですが、他はパーフェクトと言ってよいくらいクリアな解説です。いちばん感銘を受けたのは、ニーチェの解説でしょうか。これだけクリアな解説を僕はこれまで読んだことがありません。『道徳の系譜』が読みたくなりました。フーコーにおける「国王二体論」(カントロヴィッチ)の意味を説いた件(p.96)は、入門書らしからぬ格調の高さ。レヴィ=ストロースの「脱人間主義」に対する通俗的な批判を退け、「隣人愛」や「自己犠牲」が人間性の「起源」であることを説いた件(p.166)は、感動で身体が震えました。とてもいい本です。「寝ながら」流し読むのではなく、きちんとした姿勢で精読するべき。学部生にもおすすめします。
これだけ忙しいと小さな軽い本しか読めないのが残念。(7)は本当に90分で読み終えました。デカルトという人、その生活、彼の生きた時代についての簡明なガイド。彼の一生を特徴づける狂おしいまでの「確実性への探求」。それはよく表現されていますが、残念ながら、彼の思想それ自体はほとんど説明されていません。あるゆることを徹底的に疑ったとしても、否定しようのない事柄が一つだけある。それは「私が考えている」という事実。「私が考えている」ということは、「私が存在している」ということに他ならない。つまり、「私は考える。それゆえ、私は存在する」(pp.48-9)。実質これだけなのです。さすがに淡白すぎますね。この否定しようのない事柄を基礎にして、「どのように」一度疑ったものを確実なものとして呼び戻すのか、それを知りたかったのですが…。
(8)は話題の一冊。障害者の性というこれまでタブー視されてきたテーマに真正面から挑んだ野心的なルポです。刊行は2004年6月。新聞のレビューで高い評価を獲得していたので、すぐに買ったのですが、その後本棚に眠っていました。今回手に取ったのは4期生N君がゼミ・テキストの候補として考えている旨の相談を受けたたためです。大学の授業で読むには相当きわどい内容も部分的に含まれていますが(やはり性は最もプライベートな領域ですから…)、切り口次第では相当に面白いゼミができそうです。「性の商品化」(p.105)をキーワードとして経済学的な議論、「Quality of Life」(p.58)をキーワードに哲学的な議論など。オランダの「セックス・ボランティア」事情が詳細に報告されています。21世紀の福祉社会を構想する上で、オランダの経験から学ぶことが不可欠であることを痛感しました。四国学院大学の教員が、知的障害のある夫婦の寝室に入って、性の介助を行った経験が報告されていますが(p.133)、これはさすがにやりすぎでしょう。いくら意図としては善意でも。岩月謙司さんの事件も同種の善意から生じたような気がしてなりません。
2005年5月 (1)長谷川眞理子『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書) (2)八杉竜一『進化論の歴史』(岩波新書) (3)ピーター・J・ボーラー『進歩の発明−ヴィクトリア時代の歴史意識−』(平凡社) (4)松永俊男『博物学の欲望−リンネと時代精神−』(講談社現代新書) (5)長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書) (6)斎藤慶典『デカルト−「われ思う」のは誰か−』(NHK出版)
岩波ジュニア新書は「中高生向け」を銘打っていますが、プロの研究者も思わずう なってしまうような名品が多数ラインアップされています。専門外の分野の基本的知見を手際よく仕入れたい時はおすすめです。なぜ進化論なのか? 昨年初頭あたりから、経済学の形成母体としてのキリスト教に興味を持ち、断続的にキリスト教の勉強を続けてきたのですが、そのうちにキリスト教的世界観の変容・解体プロセス、その中で生まれてきた進化論への関心も膨らんできました。また、学部生時代、今西錦司の自然学にはまっていた時期があり、ある意味、原点回帰でもあります。加えて、4期生Kさんがクローン人間に興味を持っていることもあって、指導上、生物学の知識をもう少し仕入れる必要も感じていました。しかし、文系出身の悲しさで、生物学に関する予備知識はほとんどゼロ(大学受験は地学でした)。こんな僕が「なるほど」を連発するくらいですから、本当によくできた本です。著者の長谷川眞理子さんに関して、新書ガイド『使える新書』が「この人の新書にまずハズレなし」と絶賛していますが、その通りだと思います。本書の主張を強引にまとめれば、「進化に目的はない」「進化は進歩ではない」ということ。進化に関して一般の人々が抱いているこのような誤解を正すことが、本書の主題なのです。簡明にまとめられた進化論の歴史(第10章)もたいへん便利。絶滅した鳥ドードーのエピソードは、人間の愚かさと卑小さを思い知らされるようで、切ないですね。
ヨーロッパの場合、アリストテレス以来の目的論の強固な伝統があり、それがキリスト教と結合していっそう強化されたため、「進化に目的はない」というダーウィンの進化論の主張は、ヨーロッパの知的伝統との全面的な対決を意味していました。(2)も(3)も、正確な理解にもとづくダーウィンの学説の普及がいかに困難であったかを、我々に教えてくれます。(2)は、タイトル通り、古代ギリシャ時代からの簡明な通史。ルイセンコ論争やプラグマティズムの部分は、わかりにくい叙述になっていますが、全体としてみれば、非常によくできた本です。体系的な進化論の最初の主唱者ラマルクの進化論は、「18世紀的な自然の秩序への関心を大きな背景として生まれたもの」(pp.87-8)であり、その意味で「18世紀的なのである」(p.106)という主張が印象的でした。(3)は、啓蒙書と言うよりは専門書で、読み通すには一定の基礎知識が必要。翻訳もよくないので読みづらい。しかし、刺激的な内容なので、けなしたくありません。要約すれば、こんな感じになるでしょうか。「生物の進化も社会の進化も、神が自然に課した法則に従って神の計画が開花したも の」というヴィクトリア人の強固な信念が、唯物論的な傾向の強いダーウィニズムの普及を困難にした。ダーウィンは、自説の普及のために、自説を進歩主義の枠組みの中に組み入れることに妥協した。「ダーウィンの思考の根底に潜む傾向は、当時支配的であった進歩への信仰に逆行す るものであった。…大部分のヴィクトリア時代人は、自分たちの方へ向かう進化の 「主系列」がないという事実を受け容れることは全くできなかったので、19世紀末の 「ダーウィン主義」は、歴然たる進歩主義の特徴を持つことになった」 (pp.292-3) 。ダーウィニズムの勝利と言われたものの正体は、スペンサー哲学とラマルク主義であった(pp.231-2)。
(4)はダーウィン研究の第一人者によるダーウィン前史。18世紀スウェーデンの博物学者リンネの生涯・思想・後世への影響を簡明にまとめたもの。「近代科学は本来キリスト教信仰と不即不離の関係にあった」というのが著者の科学史研究の基本的スタンスで、そのスタンスは本書にも貫かれています。「博物学にかけたリンネの情熱を支えていたのは、キリスト教の信仰であった。リンネの博物学だけでなく、18世紀の科学は宗教と一体になっていたのである。近代科学はキリスト教の中から生まれてきたのであって、これと対立するものではなかった。現在でも通俗的な科学史では科学と宗教の対立を強調することが多いが、科学史家の研究によってこの歴史解釈は大幅に修正されている」(p.78)。残念なのは、平易な叙述が本書に薄味感を与えてしまっていること。例えば、生物の分類方法に関して、人為分類はアリストテレス論理学に、自然分類はイギリス経験論哲学に基づいている(pp.37-42)と指摘されていいますが、どう基づいているのか、もっと詳しい説明が欲しいところです。ところどころ隔靴掻痒なのですね。
(5)は3期生Y君がゼミ・テキストとして選定してきたもの。こんなに良質な新書を自力で探してくるとは、うちのゼミ生も大したものです。本書は、東大法学部の憲法学教授 が、「日本国憲法第九条を改正すべきか否か」という大問題に真正面から挑んだ野心作。著者によれば、巷の憲法改正論議には立憲主義という視点が欠けている。立憲主義とは、憲法典の文字面に従うことではなく、社会の根幹(比較不能な価値の共存)に関わる問題をめぐっては民主主義にもとづいて行使される国家権力でさえ制限される、という考え方である。「民主主義を使うべきでない場面がある。この世の中には、社会 全体としての統一した答えを多数決で出すべき場面と、そうでない問題がある。その境界線を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を整備するのが、立憲主義の眼目である」(p.41)。社会の長期的な利益を支えるような公共財の適切な供給の決定は、その時々の政治的多数派ではなく、専門的法律家の手に委ねられねばならない、と著者は説いていますが、ここで言う公共財とは具体的には「自由な表現の空間」や「平和」などを指します。「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない。…「一切の表現の自由」を保証する憲法二一条の文言にもかかわらず、わいせつ表現や名誉毀損を処罰しても憲法に違反しないと解釈するのが判例・通説の立場である」(pp.142-3)。憲法第九条の改正の是非を考える際にも、同様の思考法が必要です。「憲法第九条が準則ではなく、原理を示しているのであれば、自衛の ための最低限の実力を保持するために、この条文を改正することが必要だといえない ことになる。他人の名誉やプライバシーを侵害する文書を規制するために、憲法二一条を改正する必要のないことと同様である」(p.173)。著者は「強い日本」を希求する保守派の論客ではないし、メリットクラシーを説いているわけでもありません。同性同士の性的交渉をめぐる著者の見解(pp.68-9)から明白なように、著者の政治的立場は本質的にリベラルです。にもかかわらず、著者は改憲に消極的であり、「ともかく軍備を放棄せよという考え方は・・・立憲主義と両立しうる平和主義ではない」(p.179)とも言います。 こうした著者の主張は、既存のいかなる政治的党派のそれからも距離を置いており、その点で「わかりやすい」ものではありません。しかし、著者自身が「まえがき」で断っているように、「単純でない問題を単純であるかのように説明するのは、詐欺の一種である。戦争と平和という、正邪の観念や情緒論が入り込みやすい問題を冷静に考えるには、少々の複雑さを我慢していただく必要がある」 (p.9)。我慢できれば、読者は本書を通じて法的思考のエッセンスを学ぶことができるわけです。文句なしの名著です。
4月末からゼミ生有志数名とデカルト『方法序説』を読んでいるのですが、読み込めば読み込むほど新しい発見があって、「これぞ古典!」の醍醐味を堪能しています。(6)はその準備のために手に取ったものですが、啓蒙書っぽい外見に似合わない重厚な本格的研究書です。解説書ではないので、『方法序説』それ自体を読んだことのない人には、まったくちんぷんかんぷんでしょう。読む順番を間違えてはいけません。デカルトの方法的懐疑を徹底し、デカルトの懐疑そのものをも懐疑する、強靭な思索が展開されています。「私」と「神」というまったく別の主題に見える二つが根本において一つの主題に収斂するさまを示すこと、これが本書の主題です。「「思うこと」の端的な存立(これが「われ思う」の「われ」、すなわち「私」の内実だった)と、そこに「無限」が「触れて」いることは、コインの両面のように切り離しえないのであり、両者は同じ一つのことなのである」(p.107)、というのが著者の結論ですが、哲学に関して所詮アマチュアの僕には、なかなかすっと頭に入ってきません。読み耐えるしかありません。「他者=外部=神=無限」と理解していいのでしょうか? 自分の読みに自信がありません。しんどい本です(特に第二章)。でも、読み終えると、奇妙な爽快感に身体が包まれていました。これが「哲学する」ってこと?
2005年4月 (1)苅谷剛彦・西研『考えあう技術−教育と社会を哲学する−』(ちくま新書) (2)辻井喬『詩が生まれるとき−私の現代詩入門−』(講談社現代新書) (3)浜林正夫『ロック』(研究社出版) (4)冨田恭彦『観念論ってなに?−オックスフォードより愛をこめて−』(講談社現代新書) (5)田中浩・浜林正夫・平井俊彦・鎌井敏和『ロック』(清水書院) (6)ポール・ストラザーン『90分でわかるロック』(青山出版社) (7)茂木英昭『ザ・ディベート−自己責任時代の思考・表現技術−』(ちくま新書) (8)新田義弘『哲学の歴史−哲学は何を問題にしてきたか−』(講談社現代新書)
(1)は先月刊公刊されたばかり。新刊をすぐに買って読むという習慣を僕は持ち合わせていないのですが、気鋭の教育社会学者と哲学者の対談、しかも副題が「教育と社会を哲学する」ともなれば、思わず手が伸びてしまいます。両者に共通の問題意識は、教育の目的を「子ども本来の個性をのびのびと実現させる」「主体的な学び(生きる力)を育む」といった個人主義的なものから、「“社会の一員としての自分”というメンバーシップの感覚を育てる」という関係論的なものへと位置づけ直そう、というもの。「結社の自由」の重要性が強調されている一方で、『心のノート』的な徳目主義がきっぱりと否定されているのは、両者のリベラリズムを理解する上で重要でしょう。理想主義や原理主義から距離をおいた地に足がついた思考は、多くの読者の共感を得ることでしょう。ただ、全体的には、期待していたよりもやや薄味な対談だと感じました。「概念」をめぐる箇所などは、内田義彦『読書と社会科学』の「自前の概念装置」の議論の二番煎じという感じでしたね(もっとも、本質的な議論であるからこそ、繰り返されるのでしょうが)。
(2)は慶応大学における「詩学」の講義録。辻井喬とはセゾン・グループ元総帥堤清二さんの筆名。今話題の堤義明元コクド会長の異母兄でもあります。辻井さんは、日本を代表する知識人の一人であり、僕がもっとも長く敬愛している(約20年)文人の一人でもあります。彼の文学には常に自分自身の過去および現在との格闘が刻まれています。例えば、本書の次のような一節。「マス・カルチャーは毎日のように新しい言葉を生み出す。そして、そのなかの人がある言葉を使うと、詩人にはもうその言葉は使えない。言葉はどんどん商業主義に収奪されていくというわけです。…「じぶん新発見」だとか「おいしい生活」だとか、コマーシャルは詩から言葉をうまく奪ったものほど成功する。そのことによって詩人はいよいよ窮屈になっていくのです」(pp.38-9)。しかし、この「おいしい生活」というコピー(糸井重里作)は、自身が経営していた西武百貨店のコピーなのです。経営者堤清二として、詩人から言葉を奪き、詩人辻井喬として新たな言葉を紡ぐ。この分裂寸前で踏みとどまっている自我が、僕にはたまらない魅力です。詩を書こうとするなら「疑似体験を自分自身の体験であると錯覚してはいけない」(p.58)。「自分だけが確実に体験したものを、自分の意識の中だけにある内容物に還元してできるのが詩である」(p.64)。「生活を離れてきれいなものを書こうと思うその瞬間に、それを書く主体は詩人ではなくなる」(p.73)。辻井さんは、自分自身が詩人であり続けるために、消費社会を加速させている経営者としての自分の原罪と対峙し続けたと言えるのではないでしょうか。
(3)はイギリス思想叢書(全12巻)のうちの一冊。二百数十ページという限られた紙幅にジョン・ロックの生涯と著作をコンパクトにまとめています。ロック思想の全体(哲学思想・政治思想・経済思想・宗教思想)を把握しようとする意欲、史実や研究史への細かな目配りには敬意を表しますが、記述の圧縮度が高すぎるため、通読にはかなり難渋しました。僕は経済思想史家ですが、経済思想の部分がいちばん退屈でした。レジュメのようです。ロックの魅力が伝わってきません。欲張りすぎた(限られた紙幅に詰め込みすぎた)せいでしょうね。水田洋『アダム・スミス』(講談社学術文庫)のロック版を期待していたのですが、そういう本ではなかったようです。どのような人が読者として想定されているのでしょうか? 学部生はもちろん院生でもかなりしんどい気がします。ロック思想に相当通じている人(準専門家以上)であれば、知識の整理に役立つかもしれませんが…。
(3)ではロックを消化できず、「もっと食べやすいロックはないものか」と探して見つけたのが(4)です。小説形式のバークリ哲学の入門書ですが、ロックとの対比で説明されているので、ロック哲学にも入門できます。説明が丁寧なので、予備知識ゼロでも大丈夫。第三章「歪んだ論理」は、著者のロック研究の成果がふんだんに利用されており、第一・二章と比べればかなりレベルアップし、読むのに骨が折れますが、第一・二章だけでも十分に読む価値があります。本書を読めば、木々の緑がこれまでとは違った意味を帯びて見えてくるはず。また、神の存在について思いをめぐらせるきっかけになるかもしれません。僕の学生時代と比べると、昨今はすぐれた哲学入門書が本当にたくさん出版されています。喜ばしいことです。おすすめは笹澤豊『小説・倫理学講義』『自分の頭で考える倫理』、黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』、野矢茂樹『はじめて考えるときのように』、永井均『〈子ども〉のための哲学』など。本書も「おすすめ」のラインナップに新たに加わりました。
(5)の刊行は1968年。(3)よりも約30年も古いわけですが、僕には(5)のほうが格段にすぐれているように思われました。ロックの経済思想(浜林)、哲学思想(平井)については、本書から入門するのがベストでしょう。平易かつ啓発的な説明です。政治思想(田中)の解説もなかなか面白い。ハリントンにまで言及している入門書はあまり見かけませんからね。宗教思想(鎌井)はいまいち。文章がよくない。特に149ページの後半はほとんど理解できません。宗教思想をわかりやすく解説するのは、経済思想や政治思想と比べると、はるかに難しいですから、鎌井さんだけの責任ではないでしょう。
(6)は「90分でわかる哲学者シリーズ」のうちの一冊ですが、本当に90分(出町柳〜関大前)で読み終えることができました。本文100ページ足らずの小著ですので、「広く」かつ「深く」はさすがに無理。『人間知性論』と『統治論』のほんのさわりだけ。多くを期待してはいけませんが、伝記的叙述と思想の概説をバランスよく配置したなかなかの良書だという印象を受けました。ただ、「?」と首をひねった叙述もいくらか見受けられました。「ロックは「本質」という概念を持ち出さず、「観念」という道具立てを使う。…対象の内部に本質のようなものが存在しているという見方を拒否する。その代わりに、純粋に心が構築するもの−観念−が持ち出されるのである」(p.69)。これでは、ロックが(バークリと違って)「物そのもの」の存在を認めていた、という重要な事実が見えてこないのでは? また本書は、(3)(5)とは違って、ガッサンディがロックに与えた影響を強調しています。その真偽はいかに?
4期生O君の提案で中澤ゼミ史上初のディベートに挑むことになりました。試合の手順や審査の方法について詳しくないので、(7)を読んで勉強することにしました。ディベートは相手を理屈で言い負かす詭弁術に近いものと思われがちですが、それはまったくの誤解。「本書はディベート自体の正しい全体像の紹介を試みたものです。ディベートは思考・表現する技術として、個人の知的能力としても有益なものであること、社会における問題解決や意思決定にも応用できること、そして日本の民主主義にとっても不可欠であること、という視点で書きました」(p.219)。著者の試みは成功していると思います。形式論・技術論に終始せず、「論理とは何か」「考えるとはどういうことか」といった哲学的問題にまで迫っています。「弁証法としてのディベート」(p.212)とは言いえて妙。アウフヘーベン(止揚)とは何かをディベートを通じて学生に体感してもらうことができる、哲学書を読まずしても哲学的な思考法を手に入れることができるというわけですね。いやぁ、いい本だ。3期生T君、陪審制の導入の是非をめぐるディベートの例(pp.112-48)、卒論執筆の際の参考にして下さい。
包括的であろうとする哲学系新書はたいていこけます(逆に、たった一つの問いを例証を駆使してしつこく掘り下げるスタイルが成功しやすい)。紙幅の制約ゆえに、どのトピックも文章が過度に圧縮され、初学者の理解力をこえてしまうのです。(8)もそう。古代から現代までの西洋哲学の通史ですが、それなりに勉強してきたデカルトやロックに関する叙述は何とか理解できるものの、予備知識に乏しいフッサールやハイデッガーについては何が書かれているのか「???」。アリストテレスの目的論に関する説明はよくまとまっており、近代科学の宇宙論の先駆としてのクザーヌスの重要性、疎外論と弁証法との関係の指摘も啓発的。著者の力量の高さがうかがえるだけに、紙幅に余裕のある単行本で同種の企画を望みたい。
「乱読ノート」(2004. 4〜2005. 3)はこちらにあります。
「乱読ノート」(2003. 4〜2004. 3)はこちらにあります。
「乱読ノート」(2002. 1〜2003. 3)はこちらにあります。