乱読ノート 2003年度


2004年3月 (1)遠藤周作『イエス巡礼』(文春文庫) (2)西山清『聖書神話の解読――世界を知るための豊かな物語――』(中公新書) (3)杉山忠平『理性と革命の時代に生きて――J・プリーストリ伝――』(岩波新書) (4)鹿嶋春平太『キリスト教のことが面白いほどわかる本』(中経出版) (5)金子晴勇『宗教改革の精神――ルターとエラスムスとの対決――』(中公新書)
(1)は著名なカトリック作家による画文集。筆者は、歴史的「事実」よりも(イエスの物語を創らざるをえなかった)人間の「真実」を重く見て、そこに作家ならではの想像力を飛翔させて、イエスの生涯を読み解こうとします。平易で潤いにあふれた文章は、学者の乾いた文章に慣らされた僕にとって、心の清涼飲料水でした。名画はカラーで収録。
(2)は、キリスト教の神話体系を旧約の神話体系を包摂したものとして、すなわち、新約聖書の内容を旧約聖書の内容を成就するものとしてタイポロジー(予型論)的に読み解こうとする試み。僕はキリスト教の諸宗派の相違(とりわけ近世英国における正統的教義と異端的教義の相違)を知りたいと思っているので、その点から言えば本書の主題は僕の関心の所在と少々ずれていますが、「へぇ、聖書はこんなふうにも読めるのか」と感心しながら、けっこう楽しく読み進めることができました。「三位一体」の説明(pp.119-122)はたいへんわかりやすかった。特に印象に残った一節を少々長くなりますが紹介しておきます。「考えてみれば、ただひとりの人間のたった一度の過ち[アダムの失楽の罪]によりすべての時代のすべての人間にまで罪がおよぶというのは、わたしのような異教徒にはいかにも不当であるかのような気がする。しかし、それが「原罪」という観念なのである。未来が現在を起点としてはじまるように、過去は内実として現在を支える。過去、現在、未来が直線的に連続する神話の枠組みの中では、どの時代に生きる人間にも過去は現在の本質的な部位にとどまる。このことは知らないでは済まされない。過去を否定することは、おおげさないい方をすれば、現在の自己存在そのものを否定することなのである。だから、たとえば戦争を知らない世代だから戦争責任を回避するなどという能天気ないい方は、ここではまったく通用しない」(p.187)。
(3)は30年前に刊行された小著ですが、今なおその輝きを減じていない名著です。プリーストリはアメリカ革命・フランス革命の時代に活躍した英国の化学者・思想家・聖職者。聖職者としては(英国国教会から見て)異端のユニテリアンに属します。その社会思想は神学論と密接に関係を有しているため、キリスト教の知識の乏しかった僕はこれまでなかなか通読できずにいましたが、今回ようやくできました。キリスト教の勉強の成果がいきなり出ました。キリスト教を抜きにしてはヨーロッパ思想史の理解は難しいと痛感した次第です。「自由意志論と必然論」「バーク、タッカー、プライス、ペイン、マルサスとの知的関係」「理性の支配と安価な政府」等、今なお考究に値するテーマが満載。近世イギリス社会経済思想の専門的研究者を目差す人向け。
(4)は「素晴らしい!」の一言に尽きます。細野真宏さんの経済本のベストセラーで一躍有名になった「面白いほどわかる」シリーズの一冊ですが、バカにしてはいけません。複雑きわまるキリスト教の教義と歴史を限られた紙面でこれほどまでわかりやすく解説した本を僕は知りません。これを読めばキリスト教が「宗教」である以上に一貫した体系を備えた「倫理学」であることがよくわかります。また、「イエスと釈迦はどう違う?」「宗教戦争はなぜ起こる?」といった誰もが抱く素朴な疑問に対しても、丁寧に解説してくれています。キリスト教の歴史を「カトリック vs プロテスタント」ではなく「教理主義 vs 聖書主義」という視角から整理しているのは斬新でした。自分の専門分野との関係では、スコットランドの長老派教会の仕組みがよくわかったのが大きな収穫。万人に薦めたい本当に素晴らしい一冊!
(5)は新書の外観が似つかわしくない本格的な研究書。昔の新書(1977年公刊)はこんなにも格調(敷居?)が高かったのですね。古代ギリシア思想、キリスト教、カント、ヘーゲル等々、読者に多くの予備知識を要求しているので、ヨーロッパ思想史を専門にする大学院生でも、通読には苦労するでしょう。でも、今の僕には「目からうろこ」の刺激的な一冊でした。肝心の中味はルターとエラスムスの間の自由意志論争――人間は自力で救済を達成しうる自由意志を持っているのか――をとおして、宗教改革の精神を解明し、その現代的意義を考察したもの。そのエッセンスは以下の一節に集約されているように思われます。「エラスムスとルターによる自由意志についての論争は、ヒューマニズムに内在する問題を剔抉したものであり、ヒューマニズムの歴史における決定的瞬間であったといえよう。・・・それでは、ヒューマニズムに内在する問題点とはなんであるか。それは・・・「ヒューマニズムの自己破壊的弁証法」にほかならない。つまり人間の自己肯定は高次の目標に結びつかないと自己破壊をおこすということである」(p.102)。こうしたヒューマニズムの悲劇の可能性を見据えている点において、筆者はエラスムスよりもルターに高い評価を与えています。重厚な内容なので、岩田靖雄『ヨーロッパ思想入門』あたりを十分に咀嚼した上でチャレンジするのがよいでしょう。

2004年2月 (1)若桑みどり『お姫様とジェンダー――アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門――』(ちくま新書) (2)正高信男『ケータイを持ったサル――「人間らしさ」の崩壊――』(中公新書) (3)中島義道『私の嫌いな10の言葉』(新潮文庫) (4)佐高信・テリー伊藤『お笑い創価学会 信じる者は救われない』(光文社知恵の森文庫) (5)日野啓三『台風の眼』(新潮文庫) (6)古森義久『日中再考』(扶桑社) (7)山形孝夫『聖書物語』(岩波ジュニア新書) (8)樋口雅一『マンガ版 聖書 旧約・新約物語』(講談社) (9)阿刀田高『新約聖書を知っていますか』(新潮文庫) 
(1)は美術史家によるジェンダー学入門書、(2)は動物行動学の専門家が日本の10代の生態を分析したもので、一見したところ、毛色のまったく異なる両著ですが、興味深いことに、両著に共通の問題関心として「私的領域の肥大化、公的領域の衰退」があります。
(1)は著者が担当する「ジェンダー文化論」講義の実況中継という体裁をとっており、プリンセス・ストーリーに対する女子学生の感想文の紹介を中心に、若桑さんの個人史も織り交ぜながら、平易な文体で「ジェンダー」という学問領域のあらましを説いています。お世辞抜きに面白く読め、よくできた本です。女子学生に授業中の私語が多いのは家父長制が女性の公的人格を剥奪したことに起因するという分析(pp.60-4)は、興味深いものではありますが、家父長制が「数千年かそれ以上も続いてきた」(p.16)という断定に対しては、(2)の155ページを反論として挙げておく必要があります。著者は「意図した結論を押しつけたり、初めから落としどころ決めつけているようでは、よいワークショップとはいえない」と言っていますが、少なくとも僕には、ジェンダー学の枠組みそれ自体が最初から落としどころ(根源悪としての家父長制)を決めつけてしまっているような気がしてならず、学問的な限界・狭量さを感じてしまうのですが・・・。
(2)のほうですが、その概要を著者自身の言葉を借りて一言で表現すれば、「現代日本人は年を追って、人間らしさを捨てサル化しつつある」(p.iii)となります。子どもの問題は、結局、大人(特に母親)の問題に帰着する。「耐久消費財としてのわが子」(pp.49-52)をはじめ、斬新な切り口の分析の数々は、知的興奮度満点。『バカの壁』が売れるくらいなら、こちらのほうがもっと売れてしかるべきでしょう。携帯電話への依存度の高い若者ほど、利己的に振る舞う傾向が強く、信頼関係の構築が下手であるという調査結果は、笑うに笑えず、むしろ恐怖です。「昨今は、本を朗読させたり、数の計算や九九をもっと奨励すると子どもの学力低下が防げるという声をよく耳にするが、全くのお笑い草である。現状認識の甘い日本の教育関係者のなんと脳天気なことだろう」(p.184)という批判は、おそらく斎藤孝さんに向けられたものでしょう。しかし、自分も含めて、現場の人間(教員)としては、グランド・セオリーだけでは周囲の人間を動かせませんし、自分も動けません。「脳天気」と言われても、煉瓦を一つ一つ積み上げていくしかないのです。斎藤さんは決して全体が見えていないわけではない。僕は正高さんと斎藤さんの議論は両立・相互補完しうると考えます。
中島義道さんのエッセイはこれまでかなりの冊数を愛読してきましたが、(3)はひときわ異彩を放つ一冊です。本書に漲っているのは、世の中の「真実」を隠蔽しようとする「マジョリティ」の「暴力」に対する「憤り」です。著者は自分の好き嫌いをどこまでも論理的に言い尽くそうとするのですが、嫌味はなく、むしろ痛快です。エゴイストぶりがあまりに徹底しているために、「もっと利己的に生きたい、世間に縛られずに生きたい」という読み手の潜在的願望をくすぐってくれるからでしょうね。著者のご両親の夫婦喧嘩の一シーンが引き合いに出されているのですが、身につまされました。「たしかにこういうプロセスを経て、意思疎通は遮断されていくよなぁ・・・」って。
「経済学説史」という授業科目を担当する大学教員になって以来、いつも思い悩んでいるのが、「経済学説史とは学生に何を伝えるべき科目なのか」という問題です。歴史が「現在と過去との対話」(E.H.カー)である以上、過去の学説を虚心に紹介だけでは不十分なわけで、過去の学説を学ぶことによって現代の経済政策を自力で論評するための視座を獲得してもらうことが肝要なのです。政治抜きの政策がありえない以上、現実政治に言及しないわけにはいかないのですが、関西大学のある大阪の地は、共産党も創価学会も勢力が強く、聴講している学生にも両組織と関わっている人が少なくないと思われるため、とりあげ方に神経を使います。そのような迷いを抱えているせいでしょうか、時々(4)のような本を発作的に読んでしまいます。正直なところ、佐高信はあまり好きな評論家ではありません。鼻息の荒い検察官のように、「巨悪を許さない」と正義感をむき出しをするあまり、議論はいつも「白か黒か」の二者択一で、グレーゾーンがありません。一言で言えば、議論が乱暴なのです。リベラル左派系の評論家・ジャーナリストでは、内橋克人さんや斎藤貴男さんのほうが好きです。それゆえ、(4)の内容に全面的に賛意を表明するわけではありませんが、一定の懐疑心をもって読むのであれば、この種の本はぜひとも読まれるべきです。社会科学への関心は、現実社会への関心なしにはありえませんから。100%真実が書かれているわけではないでしょうが、100%嘘が書かれているわけでもないと思われます。自分自身にも「なるほど」と思いあたる具体的な経験があります。
(3)と(4)は、一見したところ、まったく別のジャンルの本のように思われますが、僕の中ではつながっています。「エゴイズム」「欲望(の解放)」の正しいあり方について、見つめなおすきっかけを与えてくれています。(4)の44-8ページの指摘(「「欲望の肯定」という遺産」)は鋭いと思いました。
本は読み手ばかりでなく読むタイミングも選ぶものですね。(5)はそんな本の典型です。これまで幾冊も読み耽ってきた日野作品ですが、本書に限ってはなかなか通読できずにいました。読みにくい。進まない。(辻井喬で言えば『彷徨の季節の中で』に相当するような)自伝的小説なのですが、意識の流れ――「「意識」という言葉を、私はいわゆる無意識も含めた広い意味で使う」(p.186)――を言語化するという日野さんのスタイルが本書では極限まで貫かれていて、読者はあたかも哲学書を読む時と同じような忍耐を強いられます。今回ようやく通読できた(させてもらえた)のは、父を亡くしたという僕の境遇の変化が大きく影響しているように思います。主人公が死んだ父の墓を詣でる場面から本書は始まるのですが、その主人公自身も悪性腫瘍の手術を受けたばかりで、死の恐怖を背負っている。そんな主人公が人生のさまざまな場所で遭遇したさまざまな死を想起する。ある時それは植民地時代の朝鮮、またある時はヴェトナム戦争下のサイゴン。主人公はサイゴンで遭遇した死がきっかけで、小説を書くことを決意する・・・。本書には全編を通じて死の臭いが充満しています。僕の場合、その臭いを今になってようやく吸い込むことができた、というわけです。これが精神の成熟を意味するのかどうか、僕にはわからないのですが・・・。感性の近い作家の体験は信用できます。信用できるというのは、「僕が日野さんと同じ1929年にこの世に生を受けたとすれば、戦争を、見知らぬ他人の理不尽な死を、日野さんと同じように受け止めながら生きたような気がする」ということです。彼が共産党に入党していたという事実も他人事とは思えません。僕も彼と同じ時代に生きていたなら、「気分的な左翼」(p.193)として、同じ道を歩んだような気がします。そう思えるほど、僕にとって日野さんは特別な作家だと言えます。
(6)は産経新聞の連載記事をまとめたもの。読み進めるうちに苛立ち、悲しくなってきました。中国の子どもたちは、日本の過去の残虐行為を、あたかも現代の出来事のように教わっているのです。こうした反日教育は江沢民体制になってから強化されたようで、実際、中国の歴史教科書の内容の変化を時系列的にたどると、80年代の後半から90年代の前半にかけて南京大虐殺がクローズアップされ、日本の侵略への怒りを煽り、愛国心を高揚させるように改訂されているとのこと。市場経済優先で共産党のイデオロギーが権威を失いつつある中で、「共産党が統治の正当性を国民に確実に認識させつづけるには、国民向けに抗日の偉業、とくに闘争相手の日本軍の残虐行為に脚光を浴びせつづけねばならない」(p.39)という著者の指摘は、まことに鋭いと思いました。「統一された基準で日中両国の軍事動向をみるならば、軍国主義とか軍事大国という表現にふさわしいのは日本ではなく中国」(p.61)であり、日本は中国に比べれば「「平和国家」として十二分に胸を張れる」(p.41)のに、日本側で「この問題を正面から提起する人は少ない」(p.61)。中国にとって友好とは「中国への日本の奉仕だけを意味する」(p.116)。ああ、日本という国が、日本人が、あまりにも情けなく思えてきます。しかし、前向きな未来像を描けなくなった日本の若者が、根拠の無いプライドを日本人優越論に求めて、排外主義的な思想的傾向を強めていくことを、僕はいっそう恐れます。健全なナショナリズムとは何か? 正解が決して見つけられない問いですが、社会科学を学ぶ者であれば、一度は真剣に考えてみるべきではないでしょうか。なお、見えないカネ(対中経済援助)の流れについての、詳細な報告もたいへん興味深い。猪瀬直樹『日本国の研究』の日中関係版とも言えますね。
僕はカトリック系の中学・高校で学んだこともあって、キリスト教には概して好意的なイメージを持っています。しかし、恥ずかしながら、その教義についてほとんど何も知りません。中高六年間、宗教の時間や数々の式典で聖書の朗読を耳にしたはずなのですが、情けないくらいに何も覚えていないのです。こんなわけで、前々からキリスト教について(信仰の対象にするかどうかは別の問題として)ある程度は知っておきたいという願望を持っていました。加えて、僕の専門であるマルサスの社会経済思想の研究においても、彼がイギリス国教会の牧師である以上、キリスト教との関連を抜きにして論じることの限界を自覚するようになってきました。倫理思想としてのキリスト教への理解が必要になってきたのです。そろそろ重い腰をあげるべき時だと思い、その最初のとっかかりとして手に取ったのが(7)と(8)です。聖書にはたくさんの人物が登場するので、人間関係がこんがらがってしまいやすいのですが、両者を同時に読むことでそうした混乱は最小限に抑えられます。旧約の「創世記」は一大スペクタクルとして楽しみながら読めました。新約の「最後の晩餐(ユダの裏切り)」「ペテロの慟哭」「パウロの回心」には人間の卑小さを痛感させられました。なお(7)より(8)のほうがパウロの言行を大きくとりあげています。
(9)は、ミステリーの名手による、初級者のための新約聖書入門。「欧米の文化に触れるとき、聖書の知識は欠かせない。・・・そんな不自由さを少しでも軽減してくれる読み物はないだろうか。・・・私は信仰を持たない。だから・・・信仰の問題にはできるだけ触れず、知識の提供をのみ心がけた」(p.287)。まさしく本書は僕のような人間のために書かれた本です。「奇蹟は聖書に記された通りには起こらなかったけれども、そんなことは、さして重要でない。・・・大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実在していたことのほうである」(p.85)という著者のイエス像に、(著者と同様に)信仰を持たない僕はこの上ない共感を覚えます。ユダの離反の原因、ペテロとパウロのキャラクター比較等々、謎解きの要素も加味した素晴らしい一冊です。ただ、〈ヨハネの黙示録〉の扱いには苦労されたようで、まとまりの悪い叙述になっています。「千年王国」や「ハルマゲドン」について、もう少しきちんと知りたかったですが、ないものねだりはやめて、別の本に期待しましょう。

2004年1月 (1)日野啓三『断崖の年』(中央公論社) (2)池上彰『相手に「伝わる」話し方――ぼくはこんなことを考えながら話してきた――』(講談社現代新書) (3)遠藤徹『姉飼』(角川書店) (4)安部修仁・伊藤元重『吉野家の経済学』(日経ビジネス人文庫) (5)松原隆一郎・辰巳渚『消費の正解――ブランド好きの人がなぜ100円ショップでも買うのか――』(光文社) (6)筒井康隆『わたしのグランパ』(文春文庫) (7)森永卓郎『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社) (8)荏開津典生『明快マクロ経済学』(日本評論社) (9)中野民夫『ワークショップ――新しい学びと創造の場――』(岩波新書) (10)阿部謹也『世間を読み、人間を読む――私の読書術――』(日経ビジネス人文庫) (11)李登輝・小林よしのり『李登輝学校の教え』(小学館)
2004年の読書は日野啓三さんからスタートです。日野さんは、辻井喬さんと並んで、学部学生時代に最も惚れこんだ作家。お二人の作品に限っては、貧乏を恐れず、入手可能な全作品を蒐集し読破しました。両者の対談集『昭和の終焉』(トレヴィル, 1986年)がきっかけです。意識の流れを言語化しようとする強靭な意志の力が日野文学の最大の魅力です。それはフィクションの時もエッセイの時も変わりませんし、両者の境界が取り払われている点がまた、日野文学の特徴の一つとも言えましょう。大学院進学(1993年4月)後も、新作が刊行されるたびに購入し続けましたが、研究に追われる毎日のせいで、いわゆる「つんどく」状態が続いていました。このたび、正月休みを利用して、およそ十年ぶりに日野さんの作品に触れる機会を得ました。それが(1)です。本書は日野さんのガン闘病記(1992年初版)。父をガンで亡くしたばかりなので、父がどんな気持ちで最後の日々を送ったのか、無性に知りたくなり、思わず書架に手を伸ばしました。第二の作品「牧師館」で、自宅外泊を許された主人公は、急に水の近くに行きたい、と強く思う。父も同じでした。なお、日野さんは2002年10月14日にご逝去されました。合掌。(※「牧師館」に関わる興味深いエピソードが『台風の眼』第5章に紹介されています。2004年2月加筆。)
(2)はNHK「週間こどもニュース」のキャスターによるプレゼンテーションの指南書。本書を読んで判明したのは、ゼミ生(2期生)の多くが、「わかりやすい説明」のための5つのポイント(p.148- )を、自然に修得してくれたこと。「分類」と「関係性」はまだまだ不十分ですが、「図式化」のほうは相当なレベルに達しています。喜ばしいことです。僕がゼミ形式の授業を重視するのは、このプレゼン能力の涵養の重要性ゆえです。この能力は、社会人生活においていっそう重要視される、非常に汎用性の高い能力ですが、講義形式では身につけるのが困難です。ただ、やっかいなのは、ゼミで場数を重ねればプレゼン能力は高まるかと言えば、必ずしもそうでもないのです。だからこそ、プレゼン能力が劣っている学生に対しては、「ここをこういうふうに工夫すればもっとよくなる」と教員が具体的に指導する必要があります。そして、その指導の適格さを学生たちに認識させる必要があります。しかし、教員の大半はその指導力を欠いています。本書のような本を読み、教育指導に関する研究も進めてもらわねばなりません。趣味と紙一重の「研究」だけでおまんまを食べさせてもらえる時代は終わりつつあります。大学教員の皆さん、給料に見合った量の汗を流しましょう。社会の寄生虫になってはいけません。
(3)は日本ホラー小説大賞を受賞した表題作を含む短篇集。産経新聞のブック・レビューで激賞されていたので、思わず買ってしまいましたが、表題作は期待外れでした。比べる相手が大物すぎるのかもしれませんが、江戸川乱歩や鈴木光司と比べると、舞台装置を作りこみすぎて、かえって作為が鼻につき、作品の世界に没入できませんでした。可能性を感じたのは、むしろ残り3篇のほう。「妹の島」の暑苦しい猥雑さは、筒井康隆『宇宙衛星博覧会』に通じる。長編で読みたかった。
(4)は吉野家の安部社長と東大の伊藤教授との対談集。かつて「基礎経済学」で『流通革命の経済学』を輪読した時にも同じことを感じましたが、伊藤さんは経済学者としてだけでなくインタビュアーとしても一流ですね。そんな伊藤さんの好サポートに促されて、安部さんの発する言葉は一つ一つがまさに「生きた経済学」。メンテナンスおよび環境ビジネスの可能性(p.118- )、フランチャイズ・ビジネスの課題(p.189- )、会社更生(p.214- )等々、勉強になることばかりでした。吉野家の牛肉は99%が米国産。「牛丼のエマージェンシーのとき、うちで手がけているカレーや他の商品で、どこまでの数が緊急対応できるかということも研究しておかないといけない」(pp.12-3)と説く安部さん。研究の成果がこれから試されるわけですね。僕の関大での最初の教え子であるS君は、就職して間もなく勤め先であるM社の倒産という不幸な事態に遭遇してしまいました。今も彼は会社に残って再建のために尽力しています。吉野家倒産時の安部さんの言葉をここに引いて、彼にエールを送りたいと思います。「人が半分に減ったいまがチャンスなんだ。ここで頑張って認められたら、あっという間に幹部になれるんだぞ」(p.236)。事実、安部さんは33歳で取締役に、43歳で社長に就任されました。
(5)は、ベストセラー『「捨てる!」技術』の著者でもあるマーケティングプランナー辰巳渚さんが、東大の松原隆一郎教授の「消費経済学」のゼミナールを受講するという設定の対談集。「「景気」とはいったいなんなのでしょうか?」という素朴で直截的な質問から、「フイギュアがほしくてチョコエッグを買うのは明らかなのに、「チョコなしのチョコエッグ=フィギュアだけ」はみんな買わないのだとしたら、これはいったいなにを買っているのでしょうか?」というような、その奇抜さに思わず感心してしまう質問まで、辰巳さんが用意した多種多彩な質問は興味深いものばかり。それだけでつい最後まで読まされてしまいます。各章末尾ごとに「わかったこと」と「読者への問題提起」を辰巳さんがまとめておられ、その緻密な編集ぶりにも感心させられました。辰巳さんが自画自賛しているとおり、「ここまで「消費」についてひつこく考えている本は、ほかにない!」(p.304)。こんなに優秀かつ「ひつこい」学生が自分のゼミを応募してきたら、教える側の負担はかなり大きいですが、これこそ嬉しい悲鳴で、毎回のゼミの準備が楽しくて仕方がない気もしますね。「経済には興味があるけれど、理論はちょっと・・・」というあなたにおすすめの一冊。大平健『豊かさの精神病理』と併せ読むのも面白い。
十年来の親友Oさんのお父様が先日ご逝去されました。まるで僕の父の後を追いかけるかのように。その告別式の行き帰りの電車の中でたまたま読んだのが(6)です。中学生珠子と侠気あふれるグランパ(祖父)とが繰り広げる冒険活劇。最後はほろりとさせてくれます。ソクラテスではないですが、「よく生きること」の本質を考えさせられてしまう作品でもあります。筒井さんの魅力は、一方で、異化効果的文体を駆使する実験精神にあふれた作品を多数発表しながら、他方で、このような心温まる「素敵」な――「素敵」という言葉がこの作品には一番ぴったりだと思います――物語も生み出してくれることですね。
(7)は2003年を代表するビジネス本の一つで、売れに売れましたし、今でも売れ続けているようです。著者はニュース・ステーションコメンテーターとして有名。「たまにはベストセラーにも目を通しておこうか」という好奇心から手に取りましたが、肝心の中味は「どうしてこんな本がベストセラーに・・・」といった期待外れの代物。著者の主張はだいたい次のようなもの。「今後の日本社会は「所得の三層構造化」が現実になっていくだろう。1億円以上稼ぐような一部の大金持ちと、年収300万〜400万ぐらいの世界標準給与をもらう一般サラリーマンと、年収100万円台のフリーター的な人たちとの三層構造だ。・・・下の二つの階層のうち、いままではかなりの部分が正社員のサラリーマンだったわけだが、その割合がどんどん小さくなっていくのだ」(p.135)。「「景気が回復しても、企業が以前のようにどんどん正社員を採用するようになるかといえば、もうそういうことはありえない」(p.151)。「少なくとも9割の人たちはズルズルとすべり落ちていく。「負け組」にならざるをえないのだ」(p.154)。「9割の人が「負け組」になり収入も大幅に減るとすれば、不安はますます強まって当然だ。だが、大切なのはやはり人生の価値観の転換なのである」(p.182)。「年収300万でも十分健康で文化的な生活はできるのだ。要は、収入のレベルに合わせて、いかに生活をリストラできるかが問題なのであって、初めに消費レベルを固定して考える必要などないのである」(p.194)。つまり、収入が激減しても気の持ちようで何とかなる、というありきたりなことを言っているにすぎないのでは? これが「生き抜く」経済学なのでしょうか?
(8)は現時点で僕が一番に推すマクロ経済学の入門書。本書の姉妹書、同じ著者による『明快ミクロ経済学』もまた、現時点で僕が一番に推すミクロ経済学の入門書です。「初めてマクロ経済学を学ぼうとする人には、2つのタイプがある。ひとつは、経済学の専門家となることを目指して、将来は大学院に進もうとする人々である。これをタイプAとする。もうひとつは、経済のわかる社会人として、企業や官庁の現場で活躍しようとする人々である。これをタイプBとする。本書は、目標をはっきりタイプBにしぼった、マクロ経済学の入門書である」(p.i)。著者の目論見は成功しているように思われます。本書は経済成長理論ばかりかIS-Lモデルにすら言及しませんが、その代わりに初学者が躓きやすい基礎概念の説明に十分なページ数を割いています。豊富な例証と軽妙な語り口は、「経済理論の教科書=無味乾燥」という先入観を打ち砕いてくれるでしょう。「不景気はなぜなくならないのだろうか?・・・この本の主な目的は、この疑問についてできるだけ明快に説明することである」(p.1)。この疑問に正面から答えていないマクロ経済学の教科書(および講義)が案外多いのではないでしょうか。本書は「何のためにマクロ経済学を学ぶのか?」という初学者の問いを決して忘れていません。第10章「輸入と輸出」は国際マクロ経済学の導入として秀逸。
(9)は1回生配当科目「経済学ワークショップ」の授業運営方法の研究のために読みました。ワークショップとは、講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加体験型のグループによる学び方のこと。一読すると、著者が紹介するワークショップの実際が、あまりに非日常的でスピリチュアルな体験のため、自己啓発セミナーやカルト宗教と紙一重の印象を受けるかもしれません。しかし、著者はワークショップの限界や注意点についても十分に配慮しています。「意図した結論を押しつけたり、初めから落としどころ決めつけているようでは、よいワークショップとはいえない」(p.145)。ファシリテーター(進行役、引き出し役)は、「評価的な言動はつつしむべき」だし、「自己の間違いや知らないことを認めることに素直」(p.148)でなければならない。これはプライドの高い大学教員には荷が重い役回りかもしれませんね。この新しい学びのスタイルに、僕は100%の賛意を表明するわけではありませんが、第2部で紹介されている「自分の天職って何だろう」というワークショップは、ぜひとも中澤ゼミでも試してみたいですね。学部学生時代、僕は地球環境問題に強い関心を抱いていましたが、「物質的な豊かさが幸福の指標となっている現在の人間の価値観を根本的に転換しなければならない。しかし、そのためには何が必要で何ができるのか?」と自問自答して、容易に変わらない現実の前に半ば絶望してしまった地点で立ち止まってしまいました。悶々とした気持ちを抱えたまま、何の因果か、僕は経済学説史・社会思想史研究への道を歩み始め、今日に至るわけですが、本書を読んで今さらながらに気づきました。あの頃の僕がいちばん学びたかったのは「環境教育」(p.40- )だったのだ、と。発見の多い一冊でした。教職志望者にはぜひ読んでもらいたい。
「(同僚の)T先生が面白いと言ってましたよ」とゼミ生のM君が教えてくれたのがきっかけで、手に取ったのが(10)です。もともと読書論として書かれたものですが、著者が長年にわたって取り組んでいる教養論・世間論のエッセンスが随所に散りばめられており、その巨大な仕事の全体像を俯瞰するのに便利な一冊です。専門家ではなく一般読者に向けて書かれていますので、文体への自己抑制が時として緩んで、本音が洩れ聞こえてくるのも(例えば pp.124-5)、本書の魅力。身振りや動作は教養の原点なのに近代の教養ではそれらが看過されているという件(第3章)は、たいへん啓発的でした。たしかに、読書偏重の教養観は知識タンクを生み出すだけですね。
(11)は、ナショナリズム問題への関心を喚起してくれる、読後感爽快な対談集。この種の問題への最良の入門書の一つと言えるでしょう。ただし、批判的・懐疑的に読む努力が読者に求められます。現代が「アイデンティティ」――本書のキーワードの一つ――危機の時代であることは間違いないとしても、個人が自分自身をアイデンティファイするために国家が必要不可欠かどうかは、別の問題です。李登輝さんの言う「台湾アイデンティティの追求」は「新台湾人」概念の創出と不可分なわけですから、この議論を日本の現実と接合するためには、「新日本人」概念の創出可能性について検討すべきでしょう。ウェーバーの権力概念について予備知識のある者は、それを念頭に浮かべながら読むと、2倍、3倍楽しめるはずです。

2003年12月 (1)小野善康『景気と国際金融』(岩波新書) (2)小浜逸郎『人はなぜ働かなくてはならないのか――新しい生の哲学のために――』(洋泉社新書y) (3)金子勝+テリー伊藤『入門バクロ経済学』(朝日選書) (4)斎藤孝『読書力』(岩波新書) (5)小室直樹『経済学をめぐる巨匠たち――経済思想ゼミナール――』(ダイヤモンド社) (6)浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫)
国際金融論にはミクロ・マクロ・計量のような定番の入門書が存在しません。「ここ15年ほどの間に、各分野で大きな理論的進展を見せている経済学のなかにあって、国際金融論は未開拓の部分が多く残る分野」(p.iv)とのこと。まったくの初学者には、野口旭さんの『経済対立は誰が起こすのか』と『間違いだらけの経済論』をおすすめしますが、その次のステップにふさわしい書物をなかなか見つけられずにいました。しかし、ようやく発見しました。それが(1)です。新書ですので、国際金融に関する諸トピックを網羅的に扱っているわけではありません。しかし、ページ数の制約ゆえに、かえって見通しのよい本になっている気がします。私見では、本書の理論的エッセンスは、以下の二つの命題に尽きます。第一に、「経常収支[の適正水準]がどう決まるかという問題は、生産側が決める貿易パターンの問題とはまったく異なる。・・・経常収支は、需要側にある人々の消費・貯蓄行動・・・の問題なのである」(pp.22-3)という命題。第二に、「日本の金利が低く米国の金利が高ければ、ドルの方が有利だから、ドルに需要が集中して円安ドル高になる」(p.57)という「議論の信憑性は疑わしい」(p.58)。「為替レートは・・・円建て資産の収益率と外貨建て資産の収益率との差を埋めるように、変化」(p.43)する、だからこそ、「日本の利子率が米国よりも低いならば、円高が進み、高いならば円安が進む」(p.52)という命題です。先の命題にもとづいて、「好況期の円高」と「不況期の円高」の本質的差異を認識することの必要性が繰り返し説かれ、両者の混同こそが「誤解だらけの構造改革」の原因である、と主張されます。岩盤をくり抜くような思考の執拗さ。小野さんの思想には共鳴できなくても、その思考にはつい共感してしまいます。永井均さんの『〈子ども〉のための哲学』は、著者の個性が炸裂した哲学入門書ですが、それと同じ意味で、本書も同じ意味で型破りの国際金融入門書と言えるでしょう。後半の経済援助のコスト、アジア通貨危機、円の国際化に関する分析も非常に興味深い。
(2)はゼミ生Iさんの希望でゼミのテキストに採用したもの。小浜さんの哲学について語ることは、僕にはとても難しい。本当にたまたまなのですが、彼が書いていることは、ほとんどそのまま僕が普段考えていることなのです。自分と思想が近すぎるために、「それはちゃうやろ」というつっこみを入れる機会がほとんど見あたらりません。本書は「働く」をタイトルに掲げていますが、主題として論じられるのは全10章のうち1章だけ。全体を見渡せば、サブタイトルである「新しい生の哲学のために」のほうが、タイトルにふさわしい。。このようなタイトルになったのは、出版社が中島義道さんの『働くことがイヤな人のための本』のベストセラーを意識したせいかもしれませんね。本書が扱っているテーマは、「働く」以外に、「生死」「本当の自分」「学校」「恋愛」「国家」など多岐にわたりますが、いずれも「社会的存在としての人間」という観点からのアプローチで、この人間観を受容できるかどうかで、本書の印象は100%異なってくるでしょう。独我論者には、どこまで読み進めても自分の問題にたどりつけない、隔靴掻痒な本かもしれません。
(3)は「経済学界のアルカイダ」と「天才プロデューサー」による異色の対話集。『入門・反構造改革』と名づけても違和感がないほど、竹中平蔵さんの経済学が虚仮にされています。アメリカ経済学会の雄、グレゴリ―・マンキューの経済学テキストまでボコボコに。読んでいて痛快ですが、「経済学への不信感をいたずらに増幅するだけで、教育上よろしくない」との反論が同僚からあがるかも。しかし、「経済学には派閥がある」という認識を経済学教育の出発点に据えたい僕にとって、本書はおすすめできる入門書です。名著・五木寛之・廣松渉『哲学に何ができるか』の経済学版となるか?
12月16日に父が他界しました。死因は肺がん。享年61歳。診断の時点で「末期」でしたので、覚悟はしていましたが、あまりに早い永別でした。父は家庭の事情で中学しか出られませんでしたが、本が(特に経済小説が)大好きで、おそらくそのせいでしょう、とても知的な男でした。そんな父が僕に与えてくれた最大のプレゼントは、(4)の主題でもある「読書力」。幼い頃から本に囲まれて育った僕は、自然と「本の虫」となり、現在に至っています。「本当に、「本を読む読まないは自由」なのだろうか。私はまったくそうは思わない。少なくとも大学生に関しては、百パーセント読書をしなければ駄目だと考えている」(pp.2-3)と力強く主張する斎藤さんに、僕は全面的なの賛意を表明します。「分数(少数)のできない大学生」の存在がクローズアップされる昨今ですが、それ以上に深刻なのは「読書力」の衰退のほうではないでしょうか? 実践的指針に満ちあふれた力強い教育改革論です。
(5)はこれまで幾度となくお世話になっている(?)小室さんの最新刊。名著『日本人のための経済原論』を経済学説史のスタイルで書き直したかのような本です。平成不況を主題としてケインズ経済学のエッセンスを論じた『原論』では、最後に唐突に登場した官僚制分析に多少の違和感を覚えましたが、本書では「家産官僚制を駆逐しなければ古典派の理論もケインズ理論も機能しない」(p.110)として、ウェーバーの「資本主義の精神」論・「官僚制」論が詳細に論じられているため、いっそう見通しのよい本になっています。本書の主題の一つは、「経済学における議論を理論的に突き詰めると、その争点は「古典派か、ケインズか」という処に集約」(p.53)され、「ケインズか古典派か、いずれが正しいのかはセイの法則が妥当であるかどうかに掛かっている」(p.94)ということ。つまり、「セイの法則の理解こそ肝要なのである」(p.107)。本書のもう一つの主題は一般均衡理論。著者によれば、ワルラスの一般均衡理論の革命的意義は、「あらゆる経済(社会)現象は、原因と結果の一方通行(リニア)な関係においてではなく、相互連関(相互に影響を与え合うスパイラルな関係)において説明される」(pp.190-1)ことの解明に存します。本書においては、一般均衡理論とケインズ理論の革命性の強調によって、限界革命の革命的意義が相対的に低められており、学説史の一般的な解釈とは趣を異にしますが、限界革命は説明が煩瑣かつ無味乾燥になりがちなので、初学者に学説史の世界に親しんでもらうには、本書のような解釈のほうが効果的でしょう。予備知識なしですらすら読めて、読了後は経済学という学問の鳥瞰図が自分の頭の中に描けるようになります。おすすめ本です。
(6)はいわゆる「ハウ・ツー」ものではありませんし、暴露本の類いでもありません。著者自身の言葉を借りるなら、「甘えもきれいごともとことん排した、ほんものの大学談義」(p.25)。日本の大学は教育機関としてまったく機能していない。「われわれ日本人は、他人を「個」としてではなく、その人がどういう「世間」に属しているかによって判断する。・・・「大学OBの人脈」も当然、こうした「世間」のひとつにほかならない」(pp.102-3)。「この国では、どこかの「世間」に所属していないと、どこからもまったく相手にされない」(p.111)。「世の中が、四年後に大卒となるきみに期待するのは、こいつは、商品として堂々と自分を売りこめるだけの自己把握ができるくらい四年間を有意義に使ってきたか、なのである」(p.135)。この冷酷な事実を直視せよ。著者の筆致はクールで論理的。それでいて、ニヒリズムとは無縁。「大学が遅れているのなら、きみ自身が動くしかない。意欲を燃やして大学の諸機能のうち、使えそうなところを利用し、機能にないものは市販オプションを探してコーディネイトしてゆけばよい」(pp.128-9)。このしたたかさこそが「生きる力」なのでしょう。本書の「教養」観は、斎藤孝『読書力』と表面上は対立していますが、根底において相互に補い合える関係にあると、僕は理解しています。有り体に言えば、「受身」ではなく「攻め」の大学生活に徹するべき、ということです。あくまで大学生活に前向きになるための本です。著者の意図を誤読してはなりません。

2003年11月 (1)岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書) (2)プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』(講談社学術文庫) (3)田中美知太郎『ソクラテス』(岩波新書)
(1)は、西洋古代哲学の大家による、ヨーロッパ思想の斬新な入門書。本文244ページのうち、約3分の2が古代にあてられ、中世以降は100ページ足らずという、特異な構成をとっていますが、この点については、著者が「はじめに」でこのように説明しておられます。「この本で、筆者が意図したことは、ヨーロッパ思想の本質を語ることである。ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、2000年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパの哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざま形態におけるそれらの化合変容である」。それゆえ、本書に紹介される近代思想は、近代中心の従来型の入門書におけるそれらとは、かなり違った相貌を呈しています。ロールズ哲学の核心である「能力は個人のものではなく社会の共有財産」との思想の起源を、聖書の『マタイによる福音書』の「ブドウ園の労働者」の話に求めている点など、「目からうろこ」ものの指摘が満載されており、いい意味で、入門書をこえる入門書となっています。「ジュニア新書なのにレベルが高すぎる」、「中世哲学の解説が簡素すぎて理解しづらい」とか、欠点がないわけではないのですが、そうした欠点を補って余りある魅力に満ちあふれた快著です。小さなヨット(限られた紙幅)で大海原(ヨーロッパ思想)を独自の海図で航海しきった著者の力量には、ただただ脱帽するばかりです。このサイトでもかつてとりあげた土井健司『キリスト教を問い直す』と併せ読まれることを強く奨めます。安すぎる780円。
(2)は西洋哲学史上不滅の大古典。岩波文庫版、新潮文庫版も出ていますが、訳文の読みやすさ、解説の充実の点で、講談社学術文庫版に軍配が上がるでしょう。3期生の最初のテキストとして、分量的に大きくなく、予備知識なしで読める(専門用語が登場しない)原典を探し求めて――「原典は難しい」という先入観を払拭したかった――、最終的にたどりついたのが「クリトン」でした。恥ずかしながら告白しますと、古代ギリシア哲学の原典に本気で取り組むのは、今回が初めてです。高校時代に倫理の授業で『ソクラテスの弁明』の読書感想文を書かされたのですが、何も覚えていませんし、それ以降も、大学院生時代にプラトン『国家』とアリストテレス『二コマコス倫理学』をつまみ読みした程度でした。さて、いざ読み始めてみると、対話篇なのですらすら読めるし、中身もとても面白い。「クリトン」の主題である「よく生きること」は、ターミナルケアや尊厳死といった現代的問題と直結しており、全然、古くないのです。驚きました。そして、食わず嫌いの十余年を反省しました。ソクラテスの哲学には衒学趣味的なところがまったく見られません。死刑を目前に控えているにもかかわらず、友人との率直な語らいの中に、「よく生きる」ことへの深い洞察が表明されています。ソクラテスの言葉を追いかけているうちに、今は新聞記者として活躍中の畏友M君のことを思い出しました。彼とは大学時代に幾度となく人生について、国家について、夜を徹して語り合いました。まるでソクラテスとクリトンのように。虚勢を張らずに無防備な裸の自分をさらすこと、そして、生に裏打ちされた強い言葉を発すること、ここに「哲学する」ことの原点があるのではないでしょうか?
ゼミ生を指導するにあたり、ソクラテス哲学の研究史に多少は通じておく必要があると思い、手にとったのが(3)です。著者は、言わずと知れた、西洋古代哲学の碩学。類書を他に読んだことがないので、比較はできないのですが、随所に教養のにじみ出る、きわめて啓発的な本でした。論理と想像力を駆使して、断片的にしか残されていない史料を手がかりに、ソクラテスの生涯と思想の全体に迫ろうとしていて、さながら推理小説の趣を呈しています。マルクス主義の影響力が強大な1957年の出版でありながら、「ギリシア人が神々やダイモンと共に住んでいたのは、われわれがわれわれの言行や意識を、コンプレックスやリビドで説明したり、あるいは社会の構造や階級対立の関係によって、決定されると考えたりするのと、あまり違ってはいなかったのである」(p.106)と言い切れるのは、著者の柔軟で豊穣な歴史感覚の証左でしょう。天晴。

2003年10月 (1)池田晶子『14歳からの哲学――考えるための教科書――』(トランスビュー) (2)苅谷剛彦『知的複眼思考法――誰でも持っている創造力のスイッチ――』(講談社+α文庫) (3)猪瀬直樹『日本国の研究』(文春文庫)
(1)はゼミ生(1部)が後期のテキストに選定した本。今年度上半期のベスト・セラー哲学書で、著者が「ニュース・ステーション」にも出演するほどの話題の書となりました。「言葉を大事にすることが、自分を大事にすること」(pp.36, 134)と説いておられる著者ですが、皮肉なことに、秒刻みのスケジュールが支配するテレビの世界は、納得のゆく言葉を選ぶための十分な時間を彼女に与えませんでした。久米キャスターの矢継ぎ早の質問に対する、池田さんの困惑に満ちた表情が、やけに脳裏に焼きついています。「哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解」(p.208)を払拭するための導入としては、本書は永井均『〈子ども〉のための哲学』、野矢茂樹『はじめて考えるときのように』と同様に、成功をおさめています。僕の理解では、本書のキーワードは「当たり前」「不思議」「本当のこと」の三つでしょうか。「この世の中には、当たり前なことよりも不思議なことは存在しないんだ。・・・その不思議の感じこそが、君がこれから、君の人生にとって大事なこと、誰にも正しい本当のことを知るために考える、その最初の鍵穴だからだ」(pp.22-3)。これこそ著者が14歳の読者に最も伝えたいことのはずです。ただ、30のトピックの各々が数ページで完結する構成をとっているために、どうしても議論が淡白になりがち。すべての議論が「入口をくぐったとたんに出口」で、特に善悪に関する考察は煙に巻かれているような印象しか残りませんでした。ほとんどすべての哲学入門書に言えることですが、「親しみやすさ」という魅力は「淡白さ」という欠点と隣りあわせなのですね。
(2)は「どうすればステレオタイプの常識的な発想にしばられず、自分の頭で考える力を身につけられるのか」についての指南書。「考える」ことの本質を教育学的見地から入念に考察しており、『はじめて考えるときのように』のような、「考える」ことに関する哲学的見地からの入門書と読み比べてみると、たいへん興味深い。両者に共通するのは、「問題を問うこと」の重要性。経済学部生にかぎらず、すべての関大生におすすめします。卒論執筆の強い味方になってくれること間違いなし!
(3)は、道路関係四公団民営化推進委員会委員・政府税制調査会委員として、目下八面六臂の活躍を見せている著者の傑作ノンフィクション。1996年度文藝春秋読者賞受賞作。とにかく、騙されたと思って、読め!読め!読め!一言で言えば、「いかに国民の血税が無駄遣いされているか」についてのレポートなのですが、読者の眼前に突きつけられる重々しい事実の数々は、怒りを通り越して、もはや恐怖の域に達するほど。これこそが(経済学教科書に必ず登場する)「政府の失敗」の正体なのです。2部ゼミの夏期休暇課題の課題図書の一つ。

2003年9月 (1)筒井康隆『笑うな』(新潮文庫) (2)竹内靖雄『経済倫理学のすすめ――「感情」から「勘定」へ――』(中公新書) (3)坂口安吾『堕落論』(集英社文庫) (4)土井健司『キリスト教を問い直す』(ちくま新書) (5)加藤寛一郎『一日一食断食減量道』(講談社+α新書) (6)加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社現代新書) (7)金子勝『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書) (8)小此木潔『デフレ論争のABC――小泉政権の経済政策を考える――』(岩波ブックレット) (9)斎藤貴男『プライバシー・クライシス』(文春新書) (10)斎藤貴男『小泉改革と監視社会』(岩波ブックレット) (11)遠山顕『脱・「英語人間」』(NHK出版生活人新書)
(1)はエジンバラからの帰国便の機上で読みました。筒井さんは僕が高校時代に読み耽っていた作家の一人。本書は1975年初版のショート・ショート集で、初期の比較的「ひねり」のない文体には、懐かしさすら覚えました。「駝鳥」「マイ・ホーム」が秀逸でした。
(2)はとても思い出深い本です。1989年12月初版なのですが、公刊後すぐに買って読みました。経済学に完全に落ちこぼれ、何が学べるのか、何を学びたいのか、見失っていた2回生の冬でした。思想や歴史に惹かれながらも、文学部の編入試験を突破する自信もありませんでした。突破できたとしても、文学部は就職が悪いし・・・。そんな時、この本をたまたま見つけ、経済学部に居残りながら思想を勉強できる(かもしれない)可能性に気づきました。当時の印象を思い出せば、諸々の倫理的問題に対して筆者が書いた処方箋それ自体は、クールにすぎて共感を覚えるものではなかったのですが、経済書を一冊まるまる読み通せたこと、自分流の経済学への入門方法がおぼろげながらも見えてきたことが、何より嬉しかったのです。本書はきわめて簡明に書かれており、ヌケの良い、曇りのない本です。その印象は当時も今も変わりません。スティグリッツやマンキューでは経済学に入門できなかった学生さんにとって、起死回生の一冊になるかもしれません。今回読み返したのは、後期のゼミのネタ探しのためなのですが、講義・研究上の収穫も多かったですね。第二章はスミス『道徳感情論』へのすぐれた手引きとなっています。また、「事が自由の根幹に触れる問題であるような場合、功利主義的な計算に頼ることは意味がない」(p.135)との指摘は、バークやヒュームにおける保守主義と功利主義との結合を解き明かすヒントを与えてくれているような気がします。
(3)は「やっと読む機会を得た」というのが本音です。安吾は学生時代から気になって仕方のない作家の一人でした。夢の遊眠社の「贋作・桜の森の満開の下」の初演を南座で見て、強い感銘を受け、「暇ができたら原作を読みたいな」とぼんやり思っていました。また、僕が4回生の秋に、所属していた劇団の一学年後輩のY.T.さんが、安吾の作品に題材をとったとても魅力的な脚本を書き、「僕も参加したかった!」と悔しい思いをしました(すでに現役を引退していました)。気がつけば、それから10年以上が過ぎてしまいました。大学院進学後は小説の類いを読む時間がすっかり減ってしまって・・・。本書は安吾の代表的小説・評論を集めたもの。「桜の森の満開の下」の飾らない、それでいて妖艶な文章に、僕はすっかりやられてしまいました。僕は、この作品と倉橋由美子『ポポイ』との間に、文体・素材両面での強い引力を感じるのですが、それは思い過ごしでしょうか?
(4)は帯の宣伝文句にあるとおり、「だれもが抱く疑問や批判にしっかりと答え、キリスト教の本質に鋭く迫る、ラディカルな入門書」でした。「だれもが抱く疑問や批判」――具体的には「平和を説くキリスト教がなぜ戦争を引き起こすのか」、「祈ることは頼ることか」など――から議論を出発させることは、入門書の必須要件のはずなのですが、その要件を満たしていない似非入門書が巷には溢れかえっています。その点、本書は入門書として大成功しています。本書の主張を、僕の理解の範囲内でまとめるならば、キリスト教の本質は、(地位・立場・民族といった)彼我を隔てる境界線を乗り越えようとする点にある、となるでしょうか。だからこそ、筆者は「社会をまとめる原理を「宗教」と言うのであれば、イエスが説いたものは「宗教」ではない」(p.55)と言い切ります。さらに筆者は「目の前にいる人に向けて何かをすることが隣人愛」なのであって、具体的な人を対象としない募金のような行為は、「ヴァーチャルな関係」であるから、隣人愛ではない、とまで言い切るのです(pp.91-2)。本書はキリスト教をいわゆる「宗教」としてよりも哲学・倫理学として扱おうとしているようです。その点が本書のラディカルさの最たる点でしょう。ただ、キリスト教には様々な宗派がありますが、その差異について本書は触れていません。新書にあれもこれも要求するつもりはありませんが、僕自身が強い興味を抱いていますから――近世ヨーロッパの社会経済思想を研究している以上、キリスト教の勉強は避けられません――、土井さんには次なる機会にぜひそうしたテーマでも一書をものしていただきたいですね。バカ安の700円でした。
平凡すぎる事実ですが、人間は気性の面でも肉体の面でも千差万別です。何事であれ万人に通用する方法はありません。それは経済学であれ、英会話であれ、楽器であれ、そしてダイエットであれ(!)同様です。他人には無謀にしか見えなくても、実は本人にとってはベストな方法である場合が十分にありえますし、そうした自分流の方法に自覚的になれれば、成功は約束されたも同然です。僕はもともと太りやすい体質で(特に運動不足になりがちな大学入試・大学院入試の浪人時代には体重が著しく増加しました)、過去に何度かダイエットを試み、概ね成功させましたが(約10kg減)、僕の減量経験は(5)の筆者の経験と酷似しています。ここ数年、加齢からくる体質変化と運動不足のおかげで、背中と下腹部に贅肉が目立ち始め、風呂あがりに自分の姿を鏡で見て愕然とすることが増えてきました。父が30代末に糖尿を患ったので、遺伝形質面での不安もあり、減量の必要を切に感じ始めています。本書を読んで、かつての自分の方法は無謀ではなかったのだと、大いに鼓舞されました。タイミングよく、来月から約6年ぶりにドラムの本格的な練習を再開させます。今年の秋は財布も身体も「引き締める」秋にしなければなりません。[注:2003年11月11日現在、全然引き締まっておりません]
(6)は表題どおり倫理学の入門書。著者は我が国の倫理学会の泰斗。もともと放送大学のテキストとして準備されただけあって、包括的かつ平易に書かれていますが、レベルは笹澤『小説・倫理学講義』より少しだけ高いので、本書が難しく感じられた方は、笹澤さんの本から勉強を始められるのがよいでしょう。筆者によれば、「「してよいこと」と「して悪いこと」の違いを明らかにするのが、倫理学の目的であって、言葉を換えれば「許容できるエゴイズムの限度を決めること」が、倫理学の課題である」(p.57)。本書の中心となっているのは、ミルの功利主義的自由主義を再検討した11章であり、具体的には「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」という問題です。果たして「他人」とは誰を指すのでしょうか? 未来世代は含まれるのでしょうか? 「現在世代と未来世代の間には、きびしい利害関係が存在するのに、対話とその利害関係を調整する倫理的なシステムがない」(p.208)。ここに倫理問題としての環境問題の本質が存します。
最近あらゆるメディアで八面六臂の大活躍を見せている金子さんですが、彼の名が専門家以外の人々の間にも浸透するようになったのは、1999年3月に公刊された『反経済学』と同年9月に公刊された(7)がきっかけでしょう。少々遅すぎるのですが、ようやく精読の機会を得ました。野口旭さんや小野善康さんの著作を読む前であれば、反構造改革陣営の多様性に無自覚なまま、本書の言説を鵜呑みにしていたかもしれません。「市場競争の世界には、信頼や協力の制度が奥深く埋め込まれており、相互信頼を前提とする「協力の領域」があってはじめて「市場競争の領域」もうまく働くのである。この信頼や協力の制度に当たるのが、リスクを社会全体でシェアするセーフティ−ネットである」(p.57)。「労働・土地・貨幣的資本といった本源的生産要素・・・こそは、実は本来的に市場化になじまない性質をもっている。・・・それゆえ、セーフティーネットとそれに連結した制度やルールが必要である」(p.93)。こうした筆者の思考は、経済理論の勉強をマルクス(特に宇野理論)から開始した僕にとって、非常にとっつきやすいものでした。さらに筆者は、ケインズの期待の理論を援用しつつ、デフレスパイラルの最大の要因として、人々の慣習的行動を基礎づけてきた制度やルールの解体、人々の将来不安の増大を指摘します。それゆえ、「求められているのは、新古典派的な「小さな政府」でもケインジアン的な「大きな政府」でもない。市場の不安定化に伴うリスクの増大を社会的にシェアすることによって経済を再生への軌道に載せてゆく第三の道こそが、「セーフティーネットの張り替えを起点に展開する制度改革」という知的戦略なのである」(p.79)。「現在、経済再生に必要とされている具体的な政策は・・・雇用を安定させる雇用政策であり、年金や介護のような社会保障制度なのである」(p.89)。詳細については本書に直接あたってもらいたいのですが、本書の主唱する制度改革は、我々の生活実感にぴったりマッチするものですし、理論的に見ても、マルクスとケインズの思想的エッセンスをうまく結びつけているなと感心させられます。しかし、旧国鉄の民営化が失敗であるという主張(pp.13, 20)には、納得がゆきませんし、平成不況を見るにしてもアジア通貨危機を見るにしても、アメリカンスタンダードの強制の帰結という側面を過度に強調しているように感じられます。アメリカの覇権主義に対する嫌悪は痛いほどよくわかるのですが・・・。
「そろそろ新学期。ゼミのテキストを決めなければ・・・」というわけで、河原町三条の BOOK 1st の徘徊していて、たまたま見つけたのが(8)です。著者は朝日新聞の編集委員。職場の同僚や同窓生の間で、そして家庭で、デフレをテーマに話し合いが進む、という架空鼎談スタイル。「セーフティネット」や「アメリカンスタンダード」という言葉こそ出て来ていませんが、内容的には野口さんでも小野さんでもなく金子さん。「答えは第三の道、つまり「福祉・環境・教育」重視の社会をつくることだと私は思うよ」(p.26)。建設業界で失われる雇用は老人ホームや環境を守る仕事で埋め合わせできるはずといった楽観など、疑問点も多々あるのですが、景気対策論争を限られた紙幅で要領よく整理しており、ゼミでの討論のための叩き台としてはきわめて有益な一冊でしょう。
いわゆる高度情報社会の美名の下、「住宅基本台帳ネットワーク(住基ネット)」「納税者番号制度」はやがて「国民総背番号制度」へと発展してゆき、日本国民は生活のすべてを政府によって管理されるようになる・・・。(9)はそうした管理社会化の恐怖を克明にレポートしたもの。昔から僕はその種の恐怖を漠然と感じながら生きてきました。僕はここ10年ほどレンタル・ビデオの会員になっていません。映画に興味がないわけではないのです。むしろ、積極的に見たい。ただ、会員になるときに身分証明書のコピーを当然のように要求してくる、あの業界の体質が昔からどうしても好きになれません。宅配ピザ業界についても同様。自分で店舗に出向いても、電話番号を必ず要求してきます。個人情報が自分の手の届かない場所で勝手に売り買いされているかもしれない・・・。それが気持ち悪かったのです。こうした危惧が現実のものであることを、本書の第4章は明らかにしています。なお、住基ネットに反対している田中康夫・長野県知事は、公共事業に頼らない地域社会を実現するべく、「長野を日本のスウェーデンに」という目標を掲げておられるようなのですが、ちょっと待った。「スウェーデンという福祉国家は、同時に、国民総背番号制度に支配されるデータ監視社会でもあった」(p.227)という本書の指摘は、スウェーデンに対する過度の理想化を戒める上で、重要な指摘でしょう。
(10)は『機会不平等』と『プライバシー・クライシス』のダイジェスト版といった趣きの小冊子。筆者の主張を僕なりにまとめるならば、次のようになるでしょうか。小泉首相が推進する構造改革は、諸々の社会問題の解決をできるだけ市場原理に委ね、政府の役割を極力小さくしようとする新自由主義の思想が根底にあるはずなのに、現代の資本主義が監視という行為あるいはシステムをビジネスとして取り込んでしまっているために、むしろ改革の進展によって個々人の自由の領域はますます縮小され、監視社会・管理社会化はいっそう加速される・・・。自民党総裁選挙で小泉さんが圧勝し、長期政権が見えてきた今日、小泉改革の行く末を俯瞰する上で必読の一冊だと思われます。
哲学・倫理学系の本と日本経済(構造改革)に関する本が続いて、少々食傷気味になってきたので、久々の英語関係の本(11)で一休み。僕はかつて井上一馬『英語できますか?』を読んで、それまでの自分の英語(英会話)の学習法が根本的に間違っていることに気づかされ、大きなショックを受けましたが、本書にも「ショックの種」が満載されています。自分の経験を振り返ると、コミュニケーションの手段としての英語(通じる英語)とはどのようなものか、その点をきちんとイメージした上でトレーニングに励まないと、英語学習は泥沼にはまりこみます。呪縛から自由になるための本・・・でもなかなか自由になれないんですけどね。英語道は険しいですわ。

2003年8月 (1)小野善康『誤解だらけの構造改革』(日本経済新聞社) (2)斎藤貴男『機会不平等』(文藝春秋) (3)養老孟司『バカの壁』(新潮選書) (4)根井雅弘『「ケインズ革命」の群像』(中公新書) (5)根井雅弘『現代経済学への招待』(丸善ライブラリー)  (6)田原総一朗・西部邁・姜尚中『愛国心』(講談社) (7)竹田青嗣『自分を知るための哲学入門』(ちくま学芸文庫) (8)永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書) (9)林信吾『これでもイギリスが好きですか?』(平凡社新書)
(1)の著者は、我が国の代表的ケインジアンの一人で、平成不況脱出のために大規模な公共事業を提案する積極財政派。本書と7月(1)を併せ読むだけでも、ケインズ主義の多様性(悪く言えば「拡散性」)を実感できます。「政府は、自分がやるべき財政支出による労働資源の有効活用を検討することもせず、財政は縮小するほどよいと主張して、景気後退の責任を日銀に押しつけるのでは、お門違いもはなはだしい」(p.162)との主張は、野口さんと正反対の主張です。さらに小野さんは、野口さんがその効果を全面的に否定している産業政策についても、肯定的な見解を示しています(pp.61, 86)。さらに、両者ともがセーフティネットの構築を唱える金子勝さんとは一線を画しており、反構造改革派の足並みはなかなか揃いません。
(2)も構造改革がらみのルポ。「規制緩和」「市場原理」「自己責任」の名のもとに猛威をふるう「弱者切り捨て」「企業の論理の洗脳」の現実を告発。「雇用を産み出してくれる金持ちを大事にしよう。貧乏人は身の程を知れ。富裕層に迷惑をかけるな。ここ数年の審議会答申や財界提言の数々が、手を変え品を変えて日本人に刷り込んできた思考パターンだ」(p.205)。「政府や自治体、政治家との距離や親譲りの土地資産など、本人の努力とは関係のない要素が成功と不成功を隔ててしまっている現実をことさらに無視し、すべてが努力の賜物のような言い方で成功者にへつらう経済学者は、本当に困りものだ。既得権益が侵されるのを恐れて規制緩和に反対する人々を彼らは非難するが、甘えているのはどちらだろうか」(p.272)。経済学は誰のためにあるのか?誰のための改革なのか?本書は、内橋克人『規制緩和という悪夢』と並んで、そうした問題を考えるための格好の手引書と言ってよいでしょう。ちなみに、245-6ページに特講IVの期末試験で出題した「逆選択」が登場しています。これくらいは経済学部生なら常識として身につけておいてください。
(3)は目下ベストセラーを邁進中の話題の書。100万部突破とのこと。しかし・・・期待外れでした。主題がコロコロ変わる散漫な本で、全体として何が言いたいのかよくわからない。「身体を忘れた日本人」(p.87- )および「キレる脳」(p.146- )の件だけは、7月(3)を彷彿とさせ、楽しく読めましたが、「犯罪者の脳を調べよ」(p.151- )の件は、僕には科学者のエゴとしか思えず、どうしても同意できませんでした。「脳のタイプがわかれば、それにあわせて教育も出来るようになる。宮崎勤みたいな犯罪者が今後現れるかどうかはわかりませんが、出ないとは限らない。すると、同じような脳の持ち主に対して、警告したり、再教育したりすることが出来る。あえて言えば、見張ることも出来るのです」(p.152)。これこそ斎藤貴男さんが警告し続けている管理社会の恐怖ではないでしょうか。
(4)は1993年以来およそ10年ぶりの再読。突如発作的に読み返したくなりました。「衝動買い」ならぬ「衝動読み」。初読の時、マクロ経済学とミクロ経済学の基礎理論の理解がまったく不十分なバカ学生だったため、読み通すのにとても骨が折れた記憶がありますが、修行と紆余曲折を経たせいでしょうか、今回はすんなり最後のページにたどり着きました。経済学史上のロビンズとカレツキの位置を把握できたことは大きな収穫でした。ロビンズを主役に近代経済学史を描きなおせば、かなり面白いものができあがる気がします。ただ、ケインズの「有効需要の原理」の丁寧すぎるほどの解説(pp.19-25)と比べると、カレツキ理論の解説(特にpp.161-5)は数式変形中心の無味乾燥なもので、根井さんの売りの「わかりやすさ」が見られません。前提とされている読者の学力が章によってまちまちな印象を受けました。
(5)は再び根井さん。この本は(4)より初学者向きで、おすすめできます。特にスラッファの解説は根井さんならではの秀逸なもの。ずっと混乱していたヴィクセルとケインズ『貨幣論』との関係も、本書のおかげでようやくすっきり整理できました。
(6)は「この顔ぶれで対話が成立するの!?」と思わず言ってしまうそうな濃〜いメンツでの座談。しかし、アメリカの対イラク侵攻、日本の加担という現下の国際情勢に対して三者とも批判の気持ちが強いせいもあって、三者の思想的な隔たりよりも接近がむしろ目立つ不思議な座談となりました。座談の類いを読むのは昔から好きですね。著作からはうかがい知れない著者の意外な本音が露わになるからです。本書も同様。「僕はね、いってみれば国家のために亡くなった人を国家がきちんと儀式するのは当然」(田原)。「[天皇というのは床の間の]掛け軸でもいいんです。僕がいったのは掛け軸を軽んずるな、掛け軸はけっこう大事なもんだと」(西部)。最近売れっ子の姜さんですが、恥ずかしながら、その著作にはこれまで触れる機会がなくて(買ってはいるんですが)、今回が初めての姜尚中体験。しかし、少なくともこの座談においては、田原さんの単刀直入な質問に正面から答えようとしない場面が多く見受けられ(pp.102, 149, 189など)、イマイチ煮え切らない印象を受けました。西部さんが指摘した、小林よりのりとハイデッガーとの間の共通性(p.46)は、非常に興味深かったです。知的刺激という点では安い1600円だったとは思いますが、田原さんが司会進行役を引き受けているせいでしょうか、ドタバタなムードが強く、それが緊張感を損なっている気がしました。その点で、辻井喬・日野啓三『昭和の終焉』は昔も今も僕にとって最高の対談集です。静謐なテンションがたまらない。対談はこうでなくっちゃ。
(7)は後期の1部ゼミのネタ探しを兼ねて手にとりました。下鴨神社の納涼古本市で百円で買ったものですが、これがまぁ面白いのなんのって。安すぎる百円でした。本書の最大の魅力は、西洋哲学の第一の基本問題――具体的には「主観と客観の一致」の問題――を押えることの重要性が、竹田さん自身の人生経験に照らして、丁寧すぎるほどに繰り返し説かれている点でしょう。どうして哲学は難しいのか? それは哲学の問いが人間の常識に逆らって立てられているために、常識にどっぷり漬かっている人には問いそのものが理解できないからです。問いが理解できなければ、哲学者がその問いに対して練り上げた解答が摩訶不思議な言葉の羅列にしか見えないのは、当然のことです。「この基本問題(それは近代哲学の"根本問題"でもあった)がよく見えたとき、哲学の文章のどこを抑えていけばいいかということが呑み込めたのである」(pp.7-8)。僕には第2章第7節が本書の白眉だと思われました。カント美学の政治哲学的側面(ハンナ・アレント)、「消費に正解はあるのか」(松原隆一郎)といった問題を考える上での最良のガイドでしょう。本書にはヴィトゲンシュタインの名前が登場していないのですが、ギリシャ哲学を論じた章で言語ゲームについて論及されていたのが(pp.102-3)、たいへん興味深かったですね。大満足の一冊ですが、あえて不満点をあげるなら、デカルトとスピノザがきわめて平板にしか描かれていないこと。きっと竹田さんご自身の思い入れが乏しいせいでしょうね。
(8)はこれまで何度か斜め読みした本ですが、念入りに読んだことはなかったので、今回は一字一句腰をすえて読むことにしました。新書の体裁をとっていますが、その内容はきわめて重厚で、読み通すにそれなりの覚悟が必要です。正直、かなり骨が折れました。永井さんは「とりわけウィトゲンシュタインの哲学は、彼と同じ問いをみずから持ち、彼と同じように徹底的に考えてみようとする人しか受けつけない、という側面を持つ」(p.8)と述べておられますが、僕にとって独我論の問題が永井さんほど切実なものではなかったせいでしょうか、独我論との関わりを中心に把捉された永井流のウィトゲンシュタイン哲学は、どちらかと言えば縁遠く魅力の乏しいものでした。もちろん、それは永井さんの責任ではないのですが。僕自身の関心に引き寄せるならば、「使用、訓練、実技、慣習、生活形式といった概念を中心とする後期ウィトゲンシュタイン哲学」(p.134)、つまり言語ゲームの哲学の世界観は、バークやヒュームの保守的自由主義哲学の世界観と重なり合う部分が少なくなく、両者の関係はきわめて興味深い論点です。
(9)は『イギリス・シンドローム』の続編。エジンバラまでの機上で一気に読みました。読むタイミングがタイミングなだけ、ひねくれ者に思われるかもしれませんが、本当のイギリスを見たいのなら(単なる物見遊山に終わらせたくないのなら)、林さん的な視点は不可欠なのです。「私は決して「イギリス嫌い」ではない。・・・私がこれまで一貫して批判してきたのは、「事実を反映しないイギリス礼賛」であり、「イギリス礼賛の形をとった日本批判」を続ける著述家たちの姿勢であって、かの国の社会や風俗そのものではない」(p.192)。林さんはイギリスを語りながら、結局、今の日本を語って(憂いて)います。「ゆとりの国イギリス」の正体は、強固な階級社会であるがゆえの労働者階級の上昇志向の欠如にすぎないのであって、その意味で、英国礼賛の仮面をかぶった日本における「ゆとり教育」の唱道は、日本社会を英国型の階級社会に作り替えようとする陰謀なのだ、と警告しています。この警告は、斎藤貴男さんが『機会不平等』において行った警告と、基本的に同じものです。また、林さんは次のようにも論じておられます。「現在の日本の閉塞状況は、本当のところ経済政策の失敗と言うよりも、福祉政策の無策のツケなのである、と私は思っている。少なくとも、もう少し福祉に対する信頼を集めるような政策を採ることで、経済もきっと好転する。それこそが「イギリスに学ぶ」ことなのではないだろうか」(p.184)。これは金子勝さんのセーフティ・ネット論と基本的に同じ主張です。林さんの思想的ルーツはあくまでリベラル左派的なもののようですから、彼がしばしば語る「日本人としての誇り」を藤岡信勝さん的なそれと混同してはいけないでしょうね。

2003年7月 (1)野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社) (2)中島義道『うるさい日本の私』(新潮文庫) (3)斎藤孝『子どもたちはなぜキレるのか』(ちくま新書) (4)鷲田清一『ちぐはぐな身体――ファッションって何?――』(ちくまプリマーブックス)
(1)は今の日本経済に対して僕が考えていること・言いたいことのほとんどすべてがつまっています。「構造問題の解決なくしては、本格的な景気回復はありえない」という主張は「まったくの誤り」である。「確かに日本には解決されるべき多くの構造問題が残っているが、それは90年代以降の日本経済の停滞とは、基本的に無関係である」(.p.4)。「真に批判されるべきは、財政を拡大させた政府それ自体ではなく、デフレ・ギャップの拡大を放置することで、結果としてそのような行動を政府に強いることになった、90年代の日本の金融政策運営なのである」(p.192)。「「不況に耐えてこそ将来の成長がある」という構造改革主義のメッセージは、企業の立場からは適切であっても、政府や中央銀行を律する基準にはまったくなりえない」(p.198)。初歩的なマクロ経済学の知識があれば、十分に通読できます。ケインズ経済学再生のための希望の書。「目からウロコ」間違いなし。
(2)は中島哲学の真髄を垣間見させてくれる怪著であり快著。どうして「車内への危険物のもち込みはご遠慮ください」という車内放送は流されても、「車内で人を殺すことをご遠慮ください」という車内放送は流されないのでしょうか。どうして「盗難にご注意ください」という放送はパスするのに、「人の物を盗まないでください」という放送はパスしないのでしょうか。本当の哲学とは、自分を偽らずにどこまでも強く深く考えてみること、根源的な問いを自分自身にぶつけてみること。決してカントやヘーゲルといった「偉い」哲学者の難解な文章を読み解くことではないはずです。蛇足ながら、高校生の時に読んだ筒井康隆の短編「にぎやかな未来」を思い出してしまいました。
(3)は9月に予定されている竹下ゼミとの合同合宿のテキスト。本書の主張はきわめて明快です。「子どもたちはなぜキレるのか。・・・処方をこめて、あえてシンプルに答えるならば、それは、生の美学=倫理の基盤であった、〈腰肚文化〉に代表される伝統的な身体文化を継承することをおこたったためである」(p.12)。「〈腰肚文化〉に代表される「型の教育力」の再生」(p.205)こそが今日の教育の課題、とされています。しかし、本書を単に教育学の本して読むのはあまりにもったいない。本書には哲学的思索へのヒントが随所に見受けられるからです。例えば、97-8ページは、身体論への見事な導入になっており、ここから鷲田清一さんの一連の著作を経由すれば、メルロ=ポンティへと進むこともできるでしょう。また、「人と関わる機会が減るほど、人と関わるには、面倒になる。対人関係上のメンタルタフネスを鍛えられる機会が少ないからである」といった指摘は、アダム・スミスの『道徳感情論』を彷彿とさせます。読み手の想像力を飛翔させてくれる本です。
(3)を読んだ勢いでつい手を伸ばしてしまったのが(4)です。僕は服装に無頓着なほうなので、モード論・ファッション時評で名高い鷲田さんの著作の読者としての資格を満たしていないかもしれません。本書は高校生向けにやさしく書かれたものですが、色っぽさ・艶っぽさにあふれた独自の文体は健在です。ただ、永井均さんや中島義道さんのホットな文体に親しんできた僕には、「クールすぎる」「ふわふわしている」「つかみどころがない」という印象が拭えませんでした。ファッションを「おさまりのよいイメージの鋳型のなかにじぶんを成形して入れることの不断の拒否」(p.174)とまで言われると、なんだか「物わかりのよいお父さん」の発言のようで、少し興ざめなのです。ただ、身体に関する一連の考察にはかなり啓発されました。「ぼくらにとってはじぶんの身体がいちばん遠い」(p.7)。「僕の身体とは僕が想像するもの、つまり〈像〉でしかありえない」(p.11)。本当にそうだと思います。僕自身、最近は自分の身体が思うように動かせなくなってきて、とても苛立ちます。僕がドラムを叩くことをやめられないのは、じぶんの身体を少しでも近くにたぐりよせるため、〈像〉としての身体のもろさを補強するためなのかもしれません。

2003年6月 (1)斎藤孝『ストレス知らずの対話術――マッピング・コミュニケーション入門――』(PHP新書) (2)小島寛之『サイバー経済学』(集英社新書) (3)斎藤孝『子どもに伝えたい〈三つの力〉』(NHKブックス) (4)藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書
(1)はゼミ生のF君が薦めてくれたもの。今年度の経済学ワークショップ(旧「基礎経済学」)は、今までのどのクラスよりも雰囲気が良く、楽しく授業を進めることができているのですが、成功の理由が本書を読んでわかりました。今年度は班別討論の時間をはじめて設け、その班のメンバーを毎週シャッフルさせているのですが、本書はこれを、「コミュニケーションを鍛える〈三つの力〉」のうちの「ポジショニング力」を鍛える方法として、高く評価しているのです。自分の教授法を自覚的に振り返る機会を与えてくれる本でした。
(2)はここ数年に読んだ新書の中で最高の一冊。ケインズ理論が今日直面している問題状況を、具体的な経済問題(現代経済の変貌)と関連づけて、丁寧に論じています。また、「自己責任」社会の虚妄性に対して経済学の論理にもとづいて警鐘を鳴らしており、桜井哲夫さんの『〈自己責任〉とは何か』の経済学版としての側面も有しています。気軽に読み通せる平易な本ではないですが、初級のミクロとマクロをマスターした経済学部生なら、全員に読んでもらいたいほど、知的刺激に満ちあふれています。読了後、今自分が生きている社会がまったく違ったものに見えてくるはず。市場に棲みついている「魔物」の姿が浮かび上がってくるはず。
(3)は今月2冊目の斎藤さん。著者自身が述べているように、この本は教育学者である著者の「一般向けの主著」(p.253)であり、その教育観を全面的に開陳しています。著者のメッセージは明晰で力強い。「子どもに本当に伝えたい、伝えなければならない力とは何なのか。これを明確にし、多くの人が伝えるべき力についての共通認識を持つことによって、朦朧として浮き足立った教育の現状から抜け出すことができると私は考えている。私が提言する、子どもに伝えたい力の基本は、〈コメント力〉〈段取り力〉〈まねる盗む力〉という〈三つの力〉である」(p.4)。そして、この三つの力を育むための具体的な授業アイディアが満載されています。「ほめほめ授業」(p.71)「アイコンタクト・プレゼンテーション」(p.188)などは読んだその日に導入可能。研究者としてはプロであるかもしれないが教育者としては素人の域を出ない大学教員にこそ、この本を読んでもらいたいですね。自己啓発セミナーのからくりなど、教育学の領域を越え出た現代社会論としての側面も有しています。
(4)は10年ぶりの再読。「経済学特殊講義IV」では、当初「ベンサム(の功利主義)とロールズ(の功利主義批判)」について解説するつもりでしたが、結局準備不足でとりあげるのを断念しました。本書でこのテーマがきわめて要領よくまとめられているのを発見して、「もう数週間早く読み返すべきだった」と後悔しています。職場の同僚である植村邦彦さんは、2年前に『「近代」を支える思想』というご著書を公刊され、そこで「近代」を支える思想の主要形態として「市民社会」「世界史」「ナショナリズム」の三つをとりあげて検討しておられますが、本書は植村さんのご著書を執筆スタイルの点では先取りしていて、「近代」を支える思想の主要形態として「私有財産と市場」「議会制民主主義」「功利主義」の三つが俎上に乗せられています。両者を読み比べてみることで、新しい発見が得られることでしょう。功利主義に比較的多くのページが割かれているおかげで、「ホッブズ→ロック→ヒューム→スミス→ベンサム」というイギリス思想史の流れがすんなり頭に入ってきます。10年たってもやはり名著ですね。

2003年5月 (1)香山リカ『若者の法則』(岩波新書) (2)岩田規久男『経済学を学ぶ』(ちくま新書) (3)鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書) (4)野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書) (5)笹澤豊『小説・倫理学講義』(講談社現代新書)
(1)はゼミ生のM君が薦めてくれたもの。GWを利用して一気に読みました。「今どきの若者の、一見理解不可能・非常識とも思える行動の奥には、彼らなりの論理にもとづく真剣な思いや悩みが隠されている」というのが本書の基本視点です。若者の法則が、決して彼らの独りよがりの産物ではなく、(若者に模範を示すべき)大人の覇気のない生活態度に対する警告でもあるのです。「彼らは、先輩や上司を尊敬したくないない、と言っているわけではない。『尊敬に値すべき人を尊敬したい』という、ごくまっとうなことを思っているだけなのだ。『今の若者は上司を尊敬してくれないから』と相手のせいにするのではなく、自分がなぜ彼らに尊敬されていない(ように思える)かを考えてみるべきだ」(pp.198-99)。対人関係の結ばれ方は、その社会の本質を映し出す鏡です。その意味で、本書は、大平健『やさしさの精神病理』、水島広子『親子不全』、永山彦三郎『現場から見た教育改革』などと並ぶ、秀逸な日本社会論でもあります。
(2)は言わずと知れた新書版経済学入門書のベストセラー。「経済学特殊講義IV」のネタ探しを兼ねて気まぐれで手に取りました。関大経済学部でも、「基礎経済学」のテキストとして、多くの先生方によって採用されてきましたので、本棚に本書が並んでいる学生さんも多いことでしょう。僕と岩田さんとはどうも相性が悪いようで、これまでも何度か彼の本を読む機会があったのですが、いまいちしっくりきません。「自分だったらこんなふうに説明はしない」という反論がつい脳裏をよぎってしまうのです。今更ながらに読んだこの「名著」もそうでした。しかし、第4章「現代企業の行動」の「1 さまざまな差別価格政策」は素晴らしい。「弾力性」という概念一つだけで、これだけ多くの経済現象が分析・解明できるなんて、感動ものです。基本概念の徹底理解の重要性を痛感させられます。
(3)は『デパートを発明した夫婦』でお世話になった(1999年度2部「基礎経済学」テキスト)鹿島さんの新著。ゼミ生の卒論指導法のネタ探しに読みました。「論文指導とは問題の立て方を教えること」という鹿島さんの主張には100%の賛意を表明します。第一章(第一回講義)だけでも「目からウロコ」です。本書は単なる「論文の書き方」を超えた、「考えるとはどういうことか」をめぐる哲学書としての側面も有しています。
(4)(5)はともに対話形式の哲学入門書。(4)は同じ著者の『はじめて考えるときのように』と比べるとやや物足りません。第7章「意味の在りか」は面白かったのですが、全体的に対話としては不自然で、隔靴掻痒の感が否めません。対話篇としては(5)のほうが成功しています。(5)のキーワードは「力への意志」。倫理学史上のニーチェのポジションの重要性が全面に押し出されています。「功利主義」「ロールズ vs ノージック」の解説も充実。ただし、カントの「嘘をついてはいけない」という掟に対する、「ナチスやオウム真理教とあまり変わらない」(p.55)との評価は、辛口すぎる気がしました。

2003年4月 (1)永山彦三郎『現場から見た教育改革』(ちくま新書) (2)野口旭『ゼロからわかる経済の基本』(講談社現代新書)
新科目「経済学ワークショップ」のための輪読テキストとして、当初、野矢茂樹『はじめて考えるときのように』を予定していたのですが、生協書籍店に注文を出したところ、なんと「絶版」の返事。大急ぎで代わりのテキストを探さねばならなくなりました。「経済学を教えるのではなく、今後の経済学の学習において必要とされる基本的な読み・書き・プレゼンテーション能力をはぐくむ」というのが、ワークショップの本来の趣旨。「1回生が積極的に意見を表明したくなるような身近なテーマは何だろうか?」と考え、「小・中・高時代に自分自身が受けた教育を振り返ってもらおう」という結論にたどりつき、教育関係の新書を漁ってみたところ、たまたま見つけたのが(1)です。学校教育について僕が長年漠然と感じていた(しかし言語化できなかった)ことが、曇りのない言葉で語られていて、「僕が言いたかったことはまさにこれなんだ!」と心の中で歓喜の声をあげながら通読しました。この本を読んで、どうして自分が教育問題に強い関心を抱き続けているのかを、再確認させられました。「学校の閉塞感はそのまま日本社会の閉塞感」であり、「日本社会の危機はそのまま学校社会の危機」という筆者の主張を、僕は共有していたのです。GDPの成長率が再びプラスに転じても、若者に「あきらめ」「刹那」しか与えられない社会が幸福であるはずがありません。「ヤンキー文化とエスタブリッシュ文化」(120ページ)の対立が二世の時代に入った昨今、両者の溝を埋めることはますます困難になってきています。一億総中流はもはや過去の話、あるいは現代の神話です。
(2)は『経済対立は誰が起こすのか』『間違いだらけの経済論』で大いにお世話になった野口旭さんによる新しい経済学入門書。近年、経済学入門書は数多く出版されていますが、本書は小塩隆士『高校生のための経済学入門』と並ぶ傑作です。小塩さんの本が社会保障問題に詳しい反面貿易問題を論じておらず、野口さんの本が貿易問題に詳しい反面社会保障を論じていないのは、新書というページ数の制約と著者の専門領域の違いからして、仕方がないことです。入門書にすべてを要求するは不可能ですから、2冊を相互に補完させながら利用することをおすすめします。効果絶大です。野口さんのケインジアンとしての構造改革批判がどの程度説得的なものであるかの判断は、個々の読者に委ねられるべきですが、僕は好印象を抱いています。

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