乱読ノート 2001・2002年度
2003年1月 (1)森村進『自由はどこまで可能か――リバタリアニズム入門――』(講談社現代新書) (2)トマス・ペイン『人間の権利』(岩波文庫)
(1)は、これからの僕の講義に大きな影響を与えてくれそうな、そんな予感に満ちあふれた本です。これまでの「経済学説史」の講義では、佐和隆光さんの「《保守派経済学》対《リベラル派経済学》」の図式と、小野善康さんの「《供給側の経済学》対《需要側の経済学》」の図式とを合体させたものを利用して、スミスとケインズの経済思想の基本構造を説明してきました。その際、リバタリアニズム(自由至上主義)を保守派経済学の市場観に基礎づけられた政治思想のごとく説明してきたわけですが、そうした単純な理解を拒否すべく、この本は書かれたと言ってもよいでしょう。「・・・「国家(政府)対市場」あるいは「政治対経済」という二分法を前提として、リバタリアニズムが、それぞれの対のうち後者の優越を唱えると単純に考えるのは不正確である。・・・リバタリアンにとって重要なのは、市場と非市場の区別ではなく、市場と社交の両方を含む、民間の領域と政府の領域との区別である」(105-7ページ)。著者のハイエク批判は、僕が長年考えていたことを、明快な言葉で代弁してくれていて、強い共感を覚えました。共和主義やコミュニタリアニズムといった政治思想史の近年の主要潮流に目配りしながら、臓器売買、代理母といった生命倫理学の諸問題へも果敢にアプローチ。新書とは思えないほどの豊穣な内容。安い660円でした。
(2)は、僕が専門的に研究している思想家の一人バークの論敵ペインの主著。ディキンスン先生が最も偏愛する思想家ということもあり、この機会に読み返してみました。前回読んだ日付が1993年11月と書き残されていたので、10年ぶりの再読になります。本書が「民主主義の偉大な古典」であることは間違いないのですが、今回はこの本を生み出した1790年代イギリス社会をより深く知るための史料として読むように努めました。ピット内閣の高い人気は前政権(フォックス=ノース連合政権)に対する幻滅の裏返しであるという診断(第1部第7章)、共和制・民主制・代議制の関係を論じたくだり(第2部第3章)が、特に印象深かったです。
2002年12月 (1)クヌート・ホーコンセン『立法者の科学――デイヴィド・ヒュームとアダム・スミスの自然法学――』(ミネルヴァ書房) (2)野矢茂樹『はじめて考えるときのように――「わかる」ための哲学的道案内――』(PHP) (3)永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書)
(1)は、1981年に出版され、その後のスミス研究に圧倒的な影響を与えた名著の邦訳。文献実証の裏づけを丁寧にとりながら、丹念に論理を積み重ねて、スミスの未完の法学体系を再構成しようとしています。今回この本を精読して、つくづく「読書にはタイミングがあるな」と実感しました。大学院生時代の僕がこの本に出会っても、学力不足からまったく理解できず、悪印象だけが残ったことでしょう。関大で「経済学説史」の講義を何年か担当してきて、スミスに対する理解が大学院生時代より数段深まったからこそ、本書を通読できたし、その真価にも触れることができました。著者の議論の展開の緻密さは感動ものです。こんな研究書を書いてみたいものです。本書から得た知見はたくさんありますが、あえて一つ挙げておきます。スミス経済学のキーワードとしては、「見えざる手」があまりにも有名ですが、経済学・法学を含むスミスの道徳哲学体系の全体を俯瞰しようとすれば、「公平な観察者」と「軍事(防衛)」を追加する必要がある、ということではないでしょうか?
新ゼミ生の課題図書に指定した関係で、(2)を約1年ぶりに読み返しました。この本は昨年度に読んだ本の中で最高の本でした。哲学入門書なのですが、誰もが経験する身近な例によって読者を哲学的思考へ誘ってくれるので、私小説の香りすら漂わせています。野矢さんは本当に「例え」がうまい人です。彼の講義はきっとわかりやすいでしょう。一度受講してみたいですね。「わかる」ということがわからなくて苦悩していた3回生までの自分を思い出して、切ない気分になりましたし、「わかる」ということがわかりだした4回生からの自分を思い出して、胸が熱くなりました。野矢さんの思考の感触は、僕が大好きな小説家の一人、日野啓三さんの世界(特に『天窓のあるガレージ』『夢を走る』)の感触ととてもよくなじむ気がしました。なんとなくですけど。
(3)も哲学入門書ですが、来年度のゼミの準備のために、約3年ぶりに読み返してみました。当時は一気に読み通した記憶があるのですが、今回は読む進めるのにすごく苦労しました。難解だったというのではなくて、1ページ読み進めるごとに、さまざまな連想が脳裏を駆け巡り、それらを整理するのに時間がかってしまったのです。どうも前回は読んだ気になっていただけで、実は全然読めていなかったようです。本書から得た知見は数え切れないほどたくさんあります。これまでウィトゲンシュタインは僕にとっていろいろな意味で鬼門の哲学者だったのですが、ようやく彼の世界観の一端に触れることができた気がします。また、カント倫理学と功利主義との関係、「現存在」概念、ニーチェの「超人」概念も、ようやく自分なりに把握できたように思えます。「いじめ」問題についての新しい視界も開けました。そして、真の「批判」(107ページ)と「議論」(111-2ページ)のあり方を、自分のゼミ生にもぜひ伝えたいと思いました。永井さんの<子ども>の問いを自分がどの程度共有できたのか、正直なところ、自信がありません。だから、僕はこの本をコメントする資格を欠いているかもしれません。それを承知であえて書かせてもらえば、永井さんの真摯な思考スタイルには強い共感を覚えたものの、中島義道さんの著作からの影響が大きすぎるせいか、カント倫理学の厳格さを積極的に理解したいという気持ちを捨てきれません。「思想を持てば、思考の力はその分おとろえる」(110ページ)、「なぜ、そこまで純粋に道徳的に清潔でなければならないのだ?」(190ページ)といった永井さんの問いかけが、僕を揺さぶっています。
2002年11月 (1)田中秀夫『原点探訪 アダム・スミスの足跡』(法律文化社) (2)デイヴィド・ヒューム『人性論(四)――第三篇 道徳に就いて――』(岩波文庫)
田中先生が新著(1)をエディンバラまで贈ってくださいました。アダム・スミスの入門書はこれまでも数多く出版されていますが、彼の著作活動の全体(『道徳感情論』、『国富論』、『哲学論文集』、法学講義、文学・修辞学講義)を視野におさめて、その史的背景(アメリカ問題・ローマ問題・民兵論争・限嗣封土権論争・ヒューム=タッカー論争 etc.)をこれだけ深く掘り下げた入門書は本邦初でしょう。スコットランド啓蒙思想の全体を研究対象にしてきた田中先生の本領がいかんなく発揮されているように思います。簡にして要領を得た本文168ページ。18世紀イギリス史にある程度通じた読者を想定して書かれていることが、入門書としての難点かもしれません。細部の解釈については異論もありますが、それは後日書評の形で公にしたいと思っています。
(2)は18世紀イギリスの代表的哲学者ヒュームの主著。ようやく精読の機会を得ました。カントの『道徳形而上学原論』やスミスの『道徳感情論』をはじめて読んだときと同じで、脳みそが「難しい!」と悲鳴をあげています。「正義は個人の行為の結果であるが意図された結果ではない」という「正義の起源」論と、「正義を行う義務は自然的動機からではなく同感から生じる」という「正義の道徳的義務」論は、おおむね理解できたのですが、スミスの同感論との関係はまだまだ理解不十分です。一度や二度通読したくらいで古典を理解するなんて無理ですから、これから何度も読み返して少しずつ理解を深めてゆこうと思います。
2002年10月 (1)藤岡信勝『汚辱の近現代史』(徳間文庫) (2)中島義道『戦う哲学者のウィーン愛憎』(角川文庫)
(1)の著者は「新しい歴史教科書をつくる会」の中心メンバーとしてここ数年話題の論客。「教科書に従軍慰安婦はいらない」「植え付けられる自虐史観」等々、挑発的なタイトルのエッセイが目次に並んでいるため、購入に一瞬躊躇しましたが、いざ読んでみると、相当に面白かった。学部学生時代に川勝平太の著作に初めて触れた時に、「へぇ、こんな歴史の見方があったんや」と強い感銘を受けましたが、それに近い印象です。「高校までの学校教育でも、多様な歴史の見方を教えることは可能であるし、むしろそれを第一に教えるべきである(単一の歴史観=自虐史観を一方的に押し付けてはいけない)」というのが藤岡の中心主張だと、僕は受け取りました(もちろん、彼の主張のすべてに同意できませんが)。リチャード・マイニア教授は、著者との対談のなかで、「いろいろな解釈や世界の見方があることを子どもたちに気づかせてほしいのです。私が歴史の教師として学生にすすめていることは、歴史自体についてと同じくらい歴史家に焦点をあてて考えてみてはどうか、ということです」と述べていますが、まったく同じことが大学における経済学教育にも言える気がします。多様な経済学観(新古典派、マルクス派、ケインズ派等々)の可能性を皆さんに理解してもらうことこそ、「経済学説史」という科目の存在意義だと、改めて感じました。なお、本書で紹介されている石橋湛山の植民地放棄論が、アダム・スミスのそれと酷似していて、たいへん興味深かったです。来年度の「経済学説史」講義でとりあげて、比較・論評してみようかな?
(2)は哲学者中島義道の名を一躍世に知らしめた出世作の文庫化。実はこの本、日本から持参したわけではなく、ロンドンの日本語書籍店で購入したわけでもありません。10月中旬に田中ゼミの後輩の川名君がエディンバラの僕を訪問してくれた際、日本で買ってきてもらったのです。大昔に一度読んだ本なのですが、イギリス生活も半年をこえ、予期しないさまざまなトラブルに巻き込まれてしまったので、この本を無性に読み返したくなったのです。この本は中島さんの4年間のわたるウィーン滞在記=闘争記。彼が描き出している「頑固・高慢・偏見に凝り固まったウィーン」は、かなりの程度、エディンバラにも当てはまる気がしてなりません。「戦うことと、哲学することはどこか似ている」(裏表紙より)。本当にそうです。僕も異国の地で不動産屋と戦い敗北し、電話会社とガス会社に振り回され、日本人としての自分を見つめ直しました。林信吾ともども、ヨーロッパ崇拝の解毒剤です。
2002年9月 (1)シェリー『フランケンシュタイン』(角川文庫) (2)江戸川乱歩『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)
(1)は前々から読んでみたかった古典。とにかく翻訳が悪くて参りました。特に怪物の台詞が・・・。著者メアリ・シェリーは、マルサスが『人口論』のなかで批判したゴドウィンの娘なので、「マルサス研究のネタに少しは使えるかな?」と期待したのですが、どうやらハズレだったようです。
(2)はおそらく20数年ぶりの再読。明智小五郎が登場する前半の推理ものは、凡庸な印象を受けましたが、後半のグロテスクものは、時代を超越した美意識にあふれていますね。「赤い部屋」「人間椅子」「芋虫」などは今読んでも本当にすごい!
2002年8月 (1)小塩隆士『高校生のための経済学入門』(ちくま新書) (2)水田洋『マルクス主義入門』(教養文庫) (3)石川文康『カント入門』(ちくま新書) (4)カント『永遠平和のために』(岩波文庫) (5)坂部恵『カント』(講談社学術文庫) (6)カント『道徳形而上学原論』(岩波文庫)
エディンバラ留学の最大の課題である英語論文の執筆が一段落したので、8月は思う存分読書に耽ることができました。(1)については、「落ちこぼれ経済学部生のための本棚」を参照してください。
(2)は久しぶりにマルクス関係の本が読みたくなって、気まぐれで読み始めました。これまでうまく整理できなかった新カント派やサンディカリズムの思想が、マルクス主義との関連で平明に解説されていたのが、一番の収穫だったでしょうか。
(3)から(6)までカント関係の本が4冊続きました。カントはここ数年僕が一番力を注いで勉強している哲学者です。学部学生時代、田中ゼミではじめて(6)を読んだとき、まったく理解できなくて、ずいぶんと落ち込みました。しかし、今思えば、それもある程度は仕方のないことでした。カントの著作は抽象的で難解な用語のオンパレードで、しかも、それらに対するすぐれた入門書が非常に少ないからです。「カント山にはいったいどの登山口から登ればええねん!?」と叫びたくなるほどです。(3)は一般には評判の高い本ですが、僕はそれほど高く評価しません。例えば、「純粋理性」「独断論」といった(カント研究者には常識かもしれませんが)素人には理解困難な概念が説明なしでいきなり登場します。これでは入門書として失敗でしょう。(5)も素人には読めません。ある程度カントを学んだ後で、別の視角からカントを眺めるための本、といった趣きです。カント入門の決定版はまだ登場していない気がします。僕がこれまで読んだもののなかでは、黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門』(講談社選書メチエ)が一番良かったでしょうか(後半がちょっと難しいけれど)。(4)(6)はカント自身の著作の邦訳ですが、ようやく精読の機会を得ました。彼(の倫理学)を理解する第一の鍵は、その禁欲的な独自の「自由」概念にあるような気がします。彼の厳格で禁欲的な倫理思想が僕の肌に合っているのでしょう、読めば読むほど彼の思考の徹底ぶりに惚れこんでしまう昨今です。
2002年7月 (1)斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫)
ベストセラーの文庫化。斎藤貴男は林信吾と並んで僕が最近惚れこんでいるジャーナリストの一人。「今の日本はどこか狂っている気がする。なんとなくそう思うだけで、うまく説明できないんだけど・・・」。そういう漠然とした不安を抱いている皆さんには、経済学の教科書を投げ捨てて、こういうすぐれたルポを読んでもらいたい。日本的経営の崩壊後、人間の自我を失わせ思考停止に陥らせるオカルティズムがいかに蔓延しているか・・・。著者のような健全な批判精神こそ社会科学の出発点だと僕は思います。
2002年6月 (1)林信吾『我輩は【黒帯】である』(小学館) (2)D・ウィンチ『アダム・スミスの政治学』(ミネルヴァ書房)
(1)は大阪堂島のジュンク堂をぶらぶらしていて、「少林寺拳法」のコーナーでたまたま見つけた本。実は林信吾は少林寺拳士で、ロンドン道場での修行記を『月刊少林寺拳法』に連載していたのです。その連載をまとめたのがこの本ですが、少林寺拳法について何も知らない僕にも楽しく読めました。武道をテーマにした秀逸な日欧比較文化論です。
(2)は僕のアダム・スミス解釈に大きな影響を与えた古典的研究書。これまでつまみ読みしかできずにいたのですが、このたび精読の機会を得ました。「学会報告」のコーナーに「スミスが自分の生きていた時代の課題――例えば、アメリカ独立問題や国防問題などが挙げられます――と真剣に向き合っていたからこそ、彼の思索はそれだけ徹底的になり、『国富論』という偉業に結実したのです」と書きましたが、そのタネ本がこれです。読むのにかなりの(特に18世紀イギリス史の)予備知識が必要ですので、学部生には難解すぎて手も足も出ないかもしれませんが、大学院でスミスを研究したければ、この本なしでは始まりません。3回通読しましたが、読むたびに新しい発見がある、本当に魔法のような本です。
2002年5月 (1)林信吾『イギリス・シンドローム』(KKベストセラーズ) (2)林信吾『英国ありのまま』(中公文庫) (3)林信吾『ロンドン再発見の旅』(中公文庫)
5月(1)から6月(1)まで林信吾の本が4冊続きました。彼は僕が尊敬し偏愛するジャーナリストの一人。彼の著書『これが英国労働党だ』(新潮選書)をゼミのテキストとして使用したこともあります。実際イギリスに住んでみて、日本で売れているイギリス論の多く(林望やマークス寿子など)は、イギリスを過度に理想化している(イギリスのごく一部分=中流階級以上しか見ていない)ことが、よくわかりました。林信吾の著作には信頼できる情報が満載。観光客として訪れるだけではわからない本当のイギリスの姿(光と影)が、軽妙な筆致で描かれています。イギリスを知りたければ、まず林信吾を読みましょう!
2002年2月 (1)中島義道『哲学の教科書』(講談社学術文庫) (2)五木寛之・廣松渉『哲学に何ができるか』(中公文庫)
(1)はベストセラーの文庫化ですが、同じ著者の『哲学の道場』と同様、哲学素人にはかなり難解(抽象度の高い)議論が含まれています。この本から哲学に入門するのはしんどい。哲学入門書としては同じ著者の『<対話>のない社会』(PHP新書)と『「哲学実技」のすすめ』(角川書店)のほうがよくできている気がします。
(2)は画期的な哲学入門書。作家五木が哲学者廣松の講義を受けるという設定。学生五木が様々な質問をぶつけ、それに廣松が答えます。廣松の著作の大半は、難解な漢語が頻出して読むのに非常に苦労させられますが、この本は対話形式なので、そういう心配はありません。廣松の哲学観(マルクス主義哲学)が率直に語られているため、バイアスこそ強いですが、そういう欠点(もちろんそれが同時に魅力でもあります)を考慮してもなお時代を超越した名著であることは間違いありません。哲学・思想に興味のある学生には一読を強く勧めます。ただし、マルクス主義に関する多少の予備知識を仕入れてから読んだほうが、よく理解できると思いますが。
2002年1月 (1)川崎修『アレント』(講談社) (2)中島義道『哲学の道場』(ちくま新書) (3)中村雄二郎『哲学の現在』(岩波新書) (4)中島義道『人生を〈半分〉降りる』(新潮OH!文庫)
(1)は2001年度後期「経済学特殊講義IV(記憶の思想史)」のタネ本の一つ。当初の講義プランは『人間の条件』と『革命について』が中心だったのですが、『全体主義の起源』を大胆かつ詳細に論じているこの本と出会って、講義プランを変更。『起源』にも多くの時間を割くことにしました。戦後のアメリカ社会と思想との関連も概観できる点で、僕にとってはお買い得の一冊でした。
1月(2)から2月(2)まで、哲学関係の入門書・啓蒙書を5冊連続で読みました。2003年度のゼミのテーマを「経済学部で哲学する」にしようと思い、そのテキスト探しを始めたからです。(2)の著者は僕がここ数年追いかけている哲学者。最近急に名前が売れててきて、去年はAERAにまで取材されていました。(2)には哲学素人にはかなり難解(抽象度の高い)議論が含まれています。この本から哲学に入門するのはちょっときつい気がしますが、キルケゴール『死に至る病』の解説は秀逸でした。(3)は文体や問題関心がやや古い。今の学生さんには受けないだろうな。(4)は哲学者をネタとするエッセイとしては面白かったけれども、この本で議論をするのは少々しんどい。