ゼミ生以外の方々からの声(2)

HPを開いていると、ゼミ生以外の方々からも時々すてきなメールや興味深いメールが届きます。せっかくですので紹介させてもらいます。

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83.ST君(2007年商学部3回生・05生) 2007.12.9

お久しぶりです。2007年ももう終わりが近いですね。今年もあっという間に時が過ぎ、自分が成長出来た部分は見つけられないながらも、こうして小さなきっかけでもって片桐センセイに会えたことは僕の中でもとても重要な出来事のひとつです。センセイにとっての今年1年はいかがだったでしょうか。さて、随分と前から始まっていた奈良のマルク・シャガール展が16日をもって終了するとのことだったので今日友達と2人でバイクにまたがって行き、鑑賞してきました!センセイはもう行かれたのでしょうか??目玉は恐らく「誕生日」という作品で、僕もこれ以外の作品は全く知りませんでした。全体を通してみて気になったことは@色の使い方に特徴がある、A何故か多くの作品に雄鶏と馬(ペガサスやロバであるかも??)が登場する、というこの2点が大きく挙げられます。まずこの@なんですが、一言で言えばとても派手であるといえそうです。そして基本的にこの人の特に晩年なんかの作品は赤、青、黄の3色でその全てを表現したいように見えました。この仮定で何故3色に偏るのかな、ということを考えると色によって感情を表現したいのかなあということを感じます。ここで今回の展覧会の副題の「愛と自然の讃歌」の“愛”に注目して考えるとうまく表現出来ないですが、赤青黄の3色が色々な愛の表現をしてくれているな、と感じました。次にAですがそれぞれの動物たちはそのほとんどが人間の愛の描写と共に出てきます。これをヒントとして考えると彼らは客観視をする物としての役割と、様々な自然の上に立ってこそ人間の愛があるという一種の人間に対する戒めとシャガール自身の自然への畏敬、(これも副題を頂戴して、)あるいは讃歌の表れかな、と感じました。最後に残念なのは県立美術館があまりにも殺風景すぎてシャガールの絵が浮いたような感じを受けたことです。というか、何の展覧会するにしてもダメですね。あの美術館は。でもやっぱり良いですね。何かしら自分の精神に影響与えてくれます。まったく芸術的なセンスは無いですし、よく何でそんな好きなん?て聞かれることがありますけどこのちょっとした影響をもらいたくて行ってるのだ、と言えるかもしれません。ここから発展して他の人の感想を交わし合いたいなと思いました。それこそ本を読んだり、映画を見る感覚で。いつも長々とすいません!それでは失礼します。

82IYさん(エコリゾート赤目の森代表) 2007.11.26

ご利用 誠にありがとうございました。毎回の合宿に際し、時々の関心のあることを青年や学生さんに真っ先に伝えたくて苦心をしています。今回も充分に活躍して頂いて、ありがたいと思いました。20人×(2時間+2時間)=80時間 となります。1人の人が日曜日に8時間頑張るとして 2ヵ月半 頑張った時間です。こんな時間の集まりで赤目の森は支えられている訳です。

さて、今回の合宿で、片桐ゼミホームページの「ゼミ生の声」で、気になるメールがありました。 『赤目のIさんのお話についてなんですが…。田舎出身であり、実家が諸事情で山を持たざるを得ない、という立場の私から言わせていただくと、完全にあれは理想です。現実を見て欲しいです。他のナショナルトラストも含め、ナショナルトラストの活動でずっと疑問だったのが、ナショナルトラストの団体が守っている「里山」はあるべき姿みたいに話されますが、それがあるべき姿なのか、それじゃぁほとんどほったからかしの今私の実家が持ってる山はあるべき姿じゃないのか。それに現代の生活で実際に山を持つことがどれだけ大変か、なんかご存知じゃないんじゃないかと思ってしまいます…。』

これは、ただの勘違いということではほっとけないと思いますから、一言言わせていただきます。片桐先生のコメントも私の望むものと違っていましたから。なぜなら、エコリゾート赤目の森は、この学生がいうような山の所有者の厳しい現実を目の当たりにして、大規模開発に対して反対や賛成という二者択一ではない、第三の道つまり、「オルタナティブ」の取り組みとして、お金を出し、知恵を出し、涙を出して取り組んでいる施設です。自らが、見捨てられた里山や森林を如何に、現代社会に価値あるものにしていくかということを試行錯誤で取り組んできた歴史が、エコリゾート赤目の森の歴史です。ナショナル・トラスト団体が守っている里山があるべき姿などと、誰が言っていますか。里山にあるべき姿があるとすれば、それは昔と同じように里山に人々が多く関わり 活用しているということですよ。そのような姿つまり、そんな自然に復活できるように全国各地で様々な取り組みが行われているのです。

学生さんの実家の山をどのようにすれば、立派な森林にできるか、どうすれば、小規模山林地主さんの悩みを解決できるかを、赤目の森ではモデル事業として取り組んでいます。この学生さんは自らが「それじゃぁほとんどほったからかしの今私の実家が持ってる山はあるべき姿じゃないのか。それに現代の生活で実際に山を持つことがどれだけ大変か」といっていますが、ほったらかしに山を持つ事は大変なことではありません。「ほったらかしに持たない」から大変なのです。公共財としての森林の価値が社会で認知されれば、されるほど、小規模に山を持っている人たちは、「人手がない、育林する資金がない、技術がない」と三重苦に陥る中で、それでも山の管理をしなければならないと努力していますが、大規模開発計画が起これば、その開発に消極的に委ねたい心理が働くのです。決して、静かな山村にゴルフ場などを作りたいとは誰一人思っていません。

そんな中で、私たちは自らの立場を鮮明にして、この15年間頑張ってきました。それまでの環境保護運動は、開発に賛成か反対かで、開発がなされれば反対を唱えた人たちもその後は何も取り組みません。反対の結果 開発が断念されても その地域の人たちが三重苦に陥っていることに対しての活動等は、何も行われません。賛成 反対を言っても、地元の人たちは実りは少ないのです。そんな中で、エコリゾート赤目の森という環境保全型ペンションを設立して、宿泊サービスを提供する事業を取り組みながら、雇用を確保し、交流の拠点としての施設を維持し、新しい21世紀型の環境保全モデル事業を提案し続けているのです。

この学生さんは 実家の山をどのように考えているのでしょうか。これが現実だから、と思って何もしていないのなら、「大変なことは」ないはずですよね。この学生さんにこのメールを読んでもらってください。相手の取り組みを正確に理解してほしいということです。そして、老婆心にがら、少なくとも自分の実家の山林の所在地位は、親族の方に教えてもらっておいてください。学生さんに対しては、以上です。

それから、全く別の展開ですが、片桐ゼミを卒業して、講演者を紹介する仕事を行う会社に就職される学生さんがおられますか。実はその会社から、過日電話がかかってきました。「ゼミ合宿でたまたま聞いた話が良かったので、会社との連絡をした際に紹介をさせてもらいます」という話だったと電話をかけた方が仰ってくれました。他にある講演comという会社のページで紹介をされていますから、その趣旨は充分理解していましたから、快諾をさせていただきました。私の経験と話で、経済的な価値を失っている地域や環境が、話を聞いた人たちにより復活させることが出来れば、どれだけ嬉しいか、まさに赤目の森での様々な取り組みがモデル事業として、発揮されたということができるのでしょうね。今回もありがとうございました。片桐先生のような大学関係者が増えることを祈念しています。

81.KCさん(関西大学社会調査実習準備室職員) 2007.10.30

・・・片桐ゼミのみなさんへ・・・
今日は私のとりとめもない話を聞いてくださって、ありがとうございました。みなさんのお顔を一人一人拝見していると、胸がいっぱいになってしまって、話そうと考えていたいろんな気持ちを言葉にすることが全くできなくなってしまいました。ごめんなさいね。あらためて、メッセージを贈らせてください。10年間、社会学専攻の先生方と一緒にお仕事をさせていただき、数え切れないほどの学生さん達と出会い、本当にたくさんの事を学ばせていただきました。その全ての巡り会いが、心の財産になっています。私は関大の卒業生ではありませんが、もし大学受験の頃にタイムスリップして戻るなら、絶対に関大の社会学部を受験したいと思います。本当に関大の社会学部、社会学専攻が大好きでした。その中でも特に片桐先生のゼミ生は、いつもみんな元気が良くて、一生懸命で、キラキラ輝いて見えました。「学遊究友(学べ、遊べ、究めよ、友と!)」 片桐ゼミのモットー、すごくステキな言葉だと思います。もし私も学生なら、片桐ゼミの一員としてみんなといろんな事を語り合い、真剣に勉強して、一緒にいっぱい笑って・・・そんな生活を送りたかったな・・なんて思います。今、みなさんはそんな私の憧れの片桐ゼミのゼミ生です。うらやましい限りです。片桐先生ほど学生さんと真剣に熱く真正面から接してくださる先生は、他にいらっしゃらないかと思います。それゆえ時に厳しい言葉でゼミ生を叱咤激励されることもあるかと思いますが、それは全てみなさんへの愛情からだと受け取ってくださいね。私は明日、関大を卒業しますが、この10年の関大ライフを自分の糧として、自信を持って新しい生活に歩みを進めたいと思っています。みなさんも学問だけでなく、社会人としてのマナーや礼儀などもきちんと教えてくださる片桐先生のゼミ生になれたことを誇りに思って、学生生活をめいいっぱい楽しんでくださいね。陰ながら応援しています。ありがとうございました。

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関西大学社会学部社会調査実習準備室で長年お仕事をしていただいていたKCさんが10月末日をもって、ご出産のため退職されることになりました。本当なら、社会学専攻の学生さん全部に集まってもらい、Kさんからのメッセージを聞き、見送ってもらいたいぐらいだったのですが、さすがにそこまではできないので、せめて片桐ゼミ14期生諸君に社会学専攻生代表となって、Kさんを送ってもらおうと思い、「ミニ送る会」を行いました。学生、教職員、老若男女を問わず、知り合いになった人がみんなファンになってしまうKさんの退職は本当に寂しい限りですが、ここからまた新しい関係が始まるのだと思っています。約10年間にわたって、本当にいろいろな面で支えていただいた上に、こんな素晴らしいメッセージをいただき、感謝の思いは言葉では表しきれません。Kさん、本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いいたします。(K)

80.ST君(2007年商学部3回生・05生) 2007.10.30

お久しぶりです!インターンの際はお世話になりました。どんなトピックを持ち出してメールを送ろうかな、と考えるとなかなか自分の考察が入るような出来事がなかなか少ないことにびっくりしたり落胆しています。さて、この間テレビ番組の特集で今年出版された単行本の売り上げランキング10位に絡めて、社会の活字離れを指摘していました。そのランキング10位中の実に7(正確に覚えていません)が横書きで書かれた小説であって、更にその中の8割方がいわゆるケータイ小説であったのです。僕は知らなかったのですが、ケータイのweb上などケータイ小説を載せるブログやサイトが大変流行っているそうで、その作品数の累計は180万タイトル位になる規模で、1部の出版社ではこうしたものの中からヒットするような作品をピックアップして依頼、出版までに至るのだそうです。ケータイで打つ文字は横書きであるからといって書籍も横文字にする必要は特に無いのではないかな、と思うのですが新聞や本を普段読まない若者を中心のターゲットとして出版社は発刊しており、実際のランキングを見てみるとその効果は出ているのだろうかな、と考えさせられます。横書きの読み易さがどこにあるのだろうか、ということを調べてみました。すると、@人間の目は横並びなので、ヨコ方向の視野が広く、ピントも合わせやすいA逆にタテの視野はせまく、ピントを合わせにくいB部屋の広さは感じ取れるが、見上げた建物の高さがわかりにくいのもこのせい。こういった人間のからだのつくりからきているもので、なるほど言われればそんな気がしますね。けれども実際は横書きであることが逆に読みやすすぎて読み飛ばしてしまったり、読みやすいがために集中して読んでいない(読めない)というデメリットもありそうです。でも”横書き小説が流行る”≒”活字離れ”ということがいえるか、といえばそれは絶対とは言えないと感じます。確かに現代の若者の集中力の無さは僕も感じるところがありますし、決してそれを否定することは出来ないでしょう。でもそれは集中力の無いといえる若者が少なからず活字に対する興味を持ち、活字体を読むという行為に挑戦をしている姿に僕には映ります。どうでしょうか?先生は僕らに対して活字離れが進んでいるな、と感じていますか?また、横書きの小説が流行り始めていることをどう感じているでしょうか?長々となり、上手くまとめることが出来ませんでした。それでもご意見頂ければ大変嬉しいです。

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ST君、なかなか目の付けどころがいいですね。社会学専攻生がもっとこういうことを語ってほしいところです。さて、携帯小説、横書き小説についてですが、とりあえずそういう形であっても、小説を読む楽しさを知れば、いずれ縦書きで書いてある小説にも手を伸ばすのではないでしょうか。(K)

79.ST君(2007年商学部3回生・05生) 2007.10.3

今日はお疲れ様です。感動が冷めやらぬうちにメールを作成しようと思ったのですが、実際にメールをテーマを指定されずに書くというのは難しいな!という印象です。そこで最近感じたことをづらづらと綴らせてもらいます。あ、まず自己紹介が先ですね。商学部3回生のSTと申します。出身は山形県S市。江戸時代には北前船で交易が栄えた港であり、奥羽山脈を代表する鳥海山から臨む庄内平野で育つコメ、地酒の味は新潟魚沼に負けず、豊かな山と日本海が育てる岩ガキやハタハタといった魚介も日本一と自負しております。長々となるのでこの辺で郷土自慢はおいておきます。今日僕がセンセイに言った最近読んだおもしろい社会学の書籍ということで間違ったタイトルを述べていたので訂正させてもらいます。「下流社会」ではなく内田樹著の「下流志向」でした。本書の副タイトルにある「学ばない子どもたち」について述べられた章がグサッとくる内容でした。まずは現代の若者が分からない事を飛ばす能力に長けているということ。著者が指摘しているように意味がわからないものにストレスを感じない、というのが大きな要因になっているな、と自身も若者?である僕もそこに共感します。「知的欲求」が足りないというよりは基本的には、ない。この基本的というのは自分の興味があることについては別という意味です。「興味ない」という言葉の使用率が高くなっていることがこのことの裏付けになってるのではないかなと感じています。余談ですけど、僕はこの興味ないという言葉が仲間内のコミュニケーションの中で用いられるのが嫌いです。本人が熱意をもって語っていることがこの言葉で一瞬にして葬られる瞬間がとても嫌いです。だから自分の人間関係に対する好き嫌いがはっきり出てしまう傾向があり正直、センセイにそれを指摘されたときは正直ショックでした。いろいろこの性格のメリット、デメリットを考えましたが、今だにガツンとした答えは出ていません() この問題に加えての大学で出来た友達未満の知り合いとの関わりの難しさからくる問題も答えが出せずです。また、「勉強しなくても自信たっぷり」という項も共感、推察するものがありますが長くなりすぎたのでやめておきます。最後にこんな僕の気持ちからくるのかもしれませんが社会学の先生は身の回りの出来事の多くに関心を寄せられる力に長けているのであろうからとても日々の生活が楽しいのだろうなと思います。ホームページ早速拝見させてもらいました。写真のコーナーがたまんないっす。僕も休みになるごとにレンタカーで旅にいっていて四季おりおりの風景とか食べ物なりを楽しんでいます。また近づけるチャンスがあることを楽しみにしております。それでは!!

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今日行われたインターンシップ事後報告会後に開かれた立食パーティで知り合った学生君ですが、早速メールを送ってきてくれました。久しぶりにおもしろい新人君の登場かもしれません。(K)

78MTさん(12期生MiT君のお母様) 2007.7.27

ご無沙汰しております。先日は、メールアドレスの訂正メールを生徒さん達に送って頂きまして、本当にありがとうございました。嬉しい事に、4人の女子学生さんからお礼のメールを頂き、その後メール交換をさせて頂いております。また私のケーキ&クッキーが、ことのほか気に入って頂けた様で、熱いメールも一杯頂きました。ケーキ作りは、食べて頂く人の嬉しそうな顔をイメージしながら焼くのが至極のひとときであり、上達のコツです!だから、ますます美味しいケーキを焼くぞ!!という意欲に燃えていますので、先生にも食べて頂けて幸せです。こうして片桐ゼミに参加させて頂いたおかげで、可愛い学生さんとの交流が出来、先生にはとても感謝しています!先日、一人の学生さんが日本橋に遊びに来られ、さっそくあの魔法使いカフェに一緒に行きましたよ♪(笑)好奇心旺盛の私でも、一人じゃとても入れないので、おかげで興味深い体験が出来ました。息子が社会人になった今、こうして気軽に友達に会うように遊びに来て下さったり、また第二の大阪のお母さんと呼んで慕って下さったり・・・私は、人に恵まれて幸せな人生だなとつくづく思います。後期の授業が始まったら、また甘いもの大好きなゼミ生の事をイメージしながら焼いたケーキをお届けしたいと思います!今日ぐらいで前期のテストは終わりなのでしょうか・・・?どうか片桐先生、14期生のみなさんに、楽しい夏休みを満喫して下さい!とお伝え下さいませ。

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ゼミ参加以来、ゼミ生とすっかりなじまれたMTさんの近況報告です。こんなつながり方も素敵ですね。(K)

77MTさん(12期生MiT君のお母様) 2007.7.4

片桐先生、こんばんは。昨日は、厚かましく片桐ゼミに参加させて頂きましてありがとうございました。卒業生の父兄とはいえ、三回生の生徒さんにとっては知らないオバサン、さぞかし驚かれたと思います。私の方も、いつもながら後先考えないで大胆な申し出をしたな・・・なんて思いながらも、片桐先生のリードの旨さですっかり馴染んでしまいました。それにしても、なんて可愛いくて茶目っ気があってお行儀のいい生徒さんでしょう!(片桐先生のしつけの賜物?)数少ない男性陣は、シャイで誠実でイケメンの多い事(オバサンの見解ですが・・・)、そして女性陣は明るくて活発で可愛いくて個性的!何より嬉しかったのは、皆さんの乗りの良さ!そして緊張の局地にいたオバサンに、優しい微笑みと気遣い・・・ありがたかったです。後先になりましたが、さすが片桐先生、息子に聞いていた以上に魅力的な授業でした。私は社会学の勉強をした事は全くありませんので、一応(なぜか?)フィールドワークと観光人類学をネットで少し検索して行きました。でも、1時間目は「ふるさと納税に関して」・・・皆さんの意見がすごく新鮮で「えー、そんな考え方もあるの?」なんてとても興味深く、いい勉強になりました。自分は大阪生まれの大阪育ち・・・だからどちらにしても大阪に納めるのだからと、安易な考えしか持っていなかった自分が恥ずかしく反省もしました。でも「ヨン様が地方の都市をPRしたらどうする?」って言いながら、片桐先生がヨン様のモノマネをした時には、妙にリアルに似ていたので思わず笑ってしまいました。そんな片桐先生の人柄が、このゼミの魅力なんでしょうね。まだまだ片桐先生や生徒の皆さんと話したい事が一杯あったのですが、片桐先生が帰り際に「お母さん、M君がこのゼミで2年間話した以上に、今日は話しましたよ!」って言われて、ちょっとショックでした・・・息子と私を足して、2で割ればちょうどいいのかな・・・笑 とにかく片桐先生のご好意で、「卒業生の父兄がゼミに初めて参加」という第1号の栄冠を得られました事、心から感謝します。また来年の七夕の頃、「2回目募集」のメールが頂けたらな?・・・と勝手に思うMTでした。本当に、ありがとうございました。

P.S. 14期生のDS君、KR君、OAさん、TTさん、オバサンの事を書いてくれてありがとう!昨日の皆さんのパワーに圧倒されたのか、自分のパワーに溺れたのか、今日は少々疲れ気味でした。でも、あなた達のメールを読んで、あっと言う間に疲れが吹っ飛びましたよ。言葉の力はスゴイですね!その言葉で、家族や友達や恋人を幸せにしてあげて下さいね!心から、ありがとう!

76MTさん(12期生MiT君のお母様) 2007.6.21

空梅雨とはいえ、アジサイの美しい季節となりました。片桐先生、ご無沙汰しております、MTの母です。もっともっと早く、4年間お世話になったお礼を述べたかったのですが、卒業から3ヶ月が過ぎてしまいました事どうかお許し下さい。就職先のことでは、先生に色々ご相談に乗って頂きましたが、最終的には本人の意思に任せました。おかげさまで、今は本社内のデジタルメディア営業部という部署に配属され、毎日元気に通勤しております。T15年ぶりの新人とかで、37歳の先輩に指導してもらいながら、真面目に(不器用に?)仕事を覚えているようです。マザコンとかボンボンとか、親としても責任を感じるような評価の息子でしたが、今は一歩一歩自分の足で力強く歩いております。おそらく関西大学、とくに先生のゼミで学んだ事が土台となり、今自信となって発言や行動に反映しているんだと思います。本当に、片桐先生にはどれだけお礼を言っても言い尽くせないくらい感謝しております。本当に、ありがとうございました。

P.S. 「はつらつ通信」は、私のパソコンのお気に入りに入っております。そして、毎回楽しくうなずきながら拝見しております。先生お薦めの竹内まりあのTVも見ましたし、先日『人生の扉』が入ったCDアルバムも買いましたよ♪ ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ/ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ♪ 私も五十路を越え、自分なりに人生を楽しみ、これからは愛する人たちの為に役立ちたい!なんて思っています。(息子はそろそろ卒業します!)近頃の学生さんが希望する、専業主婦でもありますので・・・(笑)最後になりましたが、これからも、片桐先生の「はつらつ通信」楽しみにしております♪出来る事なら、学生時代に戻って、先生の授業(ゼミ)が受けたーいと思っている、MTでした。

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メールをありがとうございました。73番に掲載させていただいたWKさんに続いて2人目の親御さんの登場です。こういう形で、ネットワークが広がり、社会学にも興味を持っていただける「大人」の方々が増えることを、自称「社会学の伝道師」としてはとても嬉しく思います。ゼミへの参加もぜひどうぞ。ちなみに、「はつらつ通信」ではなく、「つらつら通信」なのですが、なんか素敵な間違い方なので、訂正せずに掲載させていただきました。(K)

75.YA君(D大学2005年卒業・01生) 2007.5.6

お久しぶりです。D大学2005年卒のYです。GWももう終わりですね。いかがお過ごしでしたでしょうか。先生のHP脇町の写真を拝見しました!GWに実家へ帰っていたので、つい先日見た新鮮かつ懐かしい風景です。このように自分の町が紹介されているとやはり嬉しいですね。ご紹介ありがとうございます。徳島は間もなく公開の『眉山』で、多少盛りあがっていました。僕も前売りチケットを買って準備完了です。先生もどうぞご覧ください。あと、GW中にSさんCさんのところへ部活の先輩たちとおじゃましてきました。ご家族の方も集まってわいわい楽しくバーベキューをしたのですが、「あ〜家族に必要なんはこの感じやねんっ」っていう家族のあるべき姿を見せてもらいました。自分もあんなふうな家庭を築けたらと思います。まずはその第一歩、相手探しから励みます。以上、連休の報告みたいになってしまいました。では月曜から休みボケで世間に置いていかれないよう、社会復帰に努めたいと思います。僕と同じような学生さんにはぜひ優しく接してあげてください。

74.YA君(D大学2005年卒業・01生) 2007.3.25

こんにちは!先日、YCさんNSさんの結婚式二次会でお会いしたYAです。今日ゼミのホームページを拝見したので、そこからさっそくメールさせていただきます!土曜日は片桐先生やゼミ仲間の皆さんとお会いでき、たいへん楽しく過ごすことができました。ありがとうございました。ホームページから、故郷の脇町や祖谷へ旅行いかれたときの写真もばっちり発見しましたよ!祖谷のかずら橋と滝の写真は僕がこの夏に撮ったものと全く同じカットで驚きましたが。。。ぜひ皆さんでまた徳島を利用してやってください!夏の阿波踊りとか。5月に徳島を舞台にしたさだまさしさんの『眉山』が映画公開されるので、そちらも併せてどうぞっ。(松嶋菜々子さん主演というのが個人的にはさらに惹かれます)

『本を読もう!』のページ、参考にさせていただきます!学生時代になぜ本を手にしなかったのかと、社会人になった今感じています。自分から文字を読むとか、本物を体験することの大切さにやっと気づきつつあります。最近は藤沢周平さんの『蝉しぐれ』を読んでいます。今後「藤沢ワールド」にハマりそうです。片桐ゼミの皆さんは、Cさんを始め気さくな方が多くて楽しそうですね☆先生の明るさが生徒さんを引き寄せているんだなと、納得しました!大学の課外活動や講演などで勉強させていただける機会があれば、ぜひ参加させていただきたいと思いますので、そのときはまたよろしくお願いします。理系人間ですが、社会生活の中の心理学などにも興味があるので、ホームページも随時チェックさせていただきます!では、長々と失礼しましたが、これから桜の美しい時期、寒暖の差も激しいと思いますのでお体に気をつけて新入生へのご指導がんばってください!

73.WKさん(12期生WMさんのお母様) 2007.3.22

この度、娘が無事卒業できました事に、心より感謝してメールをさせて頂きます。進路決定の折、「大学でしか学べない社会学を専攻したい」と言い切った彼女の姿を昨日のことのように思い出します。彼女のようなタイプが”社会学”なのと、“?”マークをつけたまま送り出した2003年の春。でも4年経って、親の知らないところで彼女はきっと多くのことを学んだのだろうと今、感じております。彼女が片桐ゼミ生となりホームページを拝見する機会を得た頃から、私は隠れゼミ生として、物事の捉え方や今どきの若者の考え方に接し、彼女と共に大学生活をおおいに楽しませて頂きました。ホームページは、彼女を理解する上でとても貴重な存在でもありました。彼女のスローペースに、先生がじれったいと感じられたことは1度や2度ではないだろうなと思いますが、よく諦めずにご指導下さいました。その気力は同じ50代として見習いたいものでございます。そして、学生への先生の熱き思いは必ずゼミ生の方々に届いていると信じております。フィールドワーク、ゼミの集い等色々な時を過し、「楽しかった」と言える学生生活を送れたことは、彼女にとって大いなる財産になりました。決して1人で得たものではなく、先生との出会いがあり、友との出会いがあったからこそ。それを忘れず、これからも歩んでいってくれたらと願わずにはいられません。そして、いつか彼女の卒論が完成する日を待ちたいと思います。保護者がメールとはいかがなものか、この乱文はいかがなものか、まして感謝の気持ちをメールで伝えるのはいかがなものかと色々な思いがおありでしょうが、どうか、”卒業祝い”のつもりでお許し下さいませ。先生の益々のご活躍をお祈りいたしております。ほんとうに、ありがとうございました。

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私は、社会学という学問は専門家だけのためにあるべき学問ではなく、社会学に興味を持つ人、あるいは社会に関心を持つすべての人に伝わる力を持たなければならない学問だと思っています。ですので、こうして学生さんの親御さんにもHPに興味を持ってもらえるというのは、一社会学徒として、この上ない喜びです。これが呼び水になって、「隠れゼミ生」がたくさん出てきてくださったら、嬉しいのですが……。これからも、大学生とはまた違う立場で、いろいろご意見をお聞かせいただけたら幸いです。(K)

72.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2006.4.13

3限目に授業が入ってまして、延長しそうで非常にドギマギしていました。今後ともギリギリになるかもしれませんが、また先生の授業の邪魔は決していたしませんので、よろしくお願いいたします。さて早速ですが今日の前説の感想です。結論といたしまして前説としては非常にキレイでして、いいんじゃない、っていうようにも思われるんですが、私的に気に入らないのは、入りです。今日はこれが非常に弱かった。ダルイとか加齢といったネタではいるのなら、もっとインパクトが欲しかったです。そして、内容といたしましては、【KAT−TUN】ネタからジャニーズの戦略に入るといったところで、弱い入りを覆すかのように、一見学生が喰い付いたようにも思ったのですが、意外や意外、あまり私の周りの学生はあまり喰いついていませんでした。【カンジャニ∞】のところで前のほうの子が【小爆笑】していましたが、私はあれ以上の力を先生が持っている事を知っていますので、今回は笑いカウント無しです。NEWS、カンジャニ∞、のネタから飲酒へ。そして規範といったところへもっていく技は、さすが社会学者だなぁ、と思いました。私も年をとったせいか、前説だけど聞けば面白いんだから、もっと静かにしたらいいのに、なんて思ってしまいました。まぁ、前説しか聞いていない私にそんなこと言うことはできないんですけど・・・。あと、大学院生になって初めて40人以上が同時受ける授業を受けたのですが、改めて先生のすごさを感じました。高々40人くらいの生徒に対してなら授業中教師は隅々まで見渡して、授業をすることができますが、今日先生が、では本題に入りますといった瞬間から、あの教室にいた生徒全員が授業モードに入ったように感じたので、驚きました。そこから出て行くことを一瞬ためらいましたよ。先生節を聞くと改めて関大に帰ってきたんだと思えて嬉しかったです。また来週の前説楽しみにしています。もちろん大爆笑も!それでは失礼いたします。

71.THさん(2005年度社会学専攻4回生・02生) 2005.11.25

初めてメールします。YゼミのTHと申します。ひそかにHP拝見しておりまして、意を決して今日メールしました。。何より、小浜の写真がHP上に掲載されていたのがうれしかったので、なんにもない町ですが、今回はその小浜の祭りの写真を添付しました。中学生までは、私も写真と同じようにカツラをつけて踊っていました。

それにしても、他のかたがたも書いていらっしゃいますが、ソフトボール大会、ならびにその後のコンパは楽しかったです。私も試合には一瞬しか出ていませんが、みんなの応援をしたり、写真をとったり、わいわい騒いだり、、、コンパまで他愛もない話をして待ったり、さっきの写真をながめたり、優勝の余韻に浸ったり。。。(すみません!)それにやっぱりコンパはいつも遠い教壇の上にいらっしゃる先生方と酒の勢いを借りつつお話が出来るという点で、とても貴重なものだとおもいます。このように、メールができるのもコンパのおかげだと思っています。もうソフトボール大会は終わってしまいましたが、もっとこんな機会があればいいな、と思っています。我がYゼミも最近、ソフトボールあたりから(今更ですが。。)親睦が深まってきたような気がしてうれしい限りです。では、またメールします。突然のメール失礼しました。

70.KK君(1997年社会学部卒業・93生) 2005.9.7

大変ご無沙汰しております。お変わりありませんか。さて、今年もまた台風14号が日本を襲いました。一年前、先生の「つらつら通信」にて「暴風警報で休校という制度」を読ませていただき、自分の住むH県ではどうなのだろうか調べてみようと思いながら、バタバタとするうちに今日にいたってしまいました。ところで、今回の台風で、自分の勤務校も昨日の4限以降(11:40〜)と、本日一日が休校となりました。ですが、実は、「警報に関する登校規定」ができたおかげで、以前とは異なった一日を今日は過ごしました。基本的に本県では、校長の権限で休校とするか否かを決定しています。今回の台風14号では、一昨日(月曜日)の夕方の時点で火曜日を休校とする決定した学校と、火曜日の状況を見ながら休校を決定する学校とに分かれました。本校は後者を選択し、付近のJRやバスといった公共交通機関がストップするという連絡を受け授業打ち切りを決定しました。そのため、遠距離通学で電車・バスを乗り継ぎをしながら通う生徒が家に帰ることができなかったという話を聞きました。また、今日の場合、昨日の夕方の時点で、明朝に台風が抜け暴風域を抜けていれば登校とする学校と、登校規定に照らし合わせて決定する学校とに分かれました。本校は後者を選択したわけですが、14号は、今朝の未明に中国地方を通り抜けていき、午前6時20分に大雨警報は解除となり、洪水警報のみとなりました。本校に通学する生徒の多くは、H市内に住み、洪水と関わりの少ない生徒が多く、その警報がピンと来ていないらしく、登校してくる生徒もそこそこにいました。しかし、午前9時の時点で洪水警報が残っていたので休校決定、そして9時10分に洪水警報は解除されました。今日一日は、台風一過の晴天の中での休校という、何だか不思議な一日を過ごしました。そこで年輩の先生が言われた言葉、「昔だったら、昨日一日が休校で、今日は時差登校にしていたよな。昔は、感覚的に休校を決め、感覚的に出校を命じていたかな。逆に最近は、規定に縛られているよな。規定に忠実になると、どうも性に合わんっ。」と。確かに、今朝は洪水警報が発令されており、その影響を受けかねない生徒がいたのも事実ですが、基本的に早朝から交通機関は復旧していました。しかし、昨日は交通機関がストップする間際まで授業を続け、家に帰ることができなかった生徒がいたという話を聞きました。そこに、人間を相手とする教育にあって、規則万能主義というのは場合によってはナンセンスなものであると痛感した一日となりました。

69.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2005.8.21

もうすぐ私の昼寝時間をこれでもかというほど妨害する選挙カーが走り出すのかと思うと、本当に憂鬱な今日この頃です。ついにやって来ましたね、広島六区に【ホリエモン】。確かに亀井さんに誰をぶつけてくるのか非常に楽しみでしたが、まさか彼がやってくるとは・・・。ブロードバンド普及率30%以下の広島六区で尾道市三原市以外での彼の知名度は未知数ですが、私自身は一体彼はこの地域で何をするためにやってきたのか非常に理解に苦しみます。できればもう少し地域に縁がある人に出馬していただきたかったのですが。

 今回の選挙は本当に郵政を争点にして行なわれてしまうんでしょうか。年金、介護、雇用、そして憲法とかに関して対して議論が行なわれないまま、選挙が行なわれ、もしも自民党が勝利してしまえば、今後自民党が作る政策すべてを信任したということになりかねないのではないでしょうか。小泉総理は重要法案の都度、解散をして国民の真意を問いただしてくれるのでしょうか。そもそも私は現状での郵政法案には賛成派ではありません。まるで民間に任せれば自由競争の原理に従い右肩上がりを妄想のように考えていらっしゃるのかもしれませんが、もともと国有企業であったNTT・JRの例から考えれば、それはありえないことは明白です。まず、上記に記しているブロードバンドについてですが、都市部では既に光ファイバーを使った100メガやそれを超える、インターネット通信がほぼ100%利用可能になりつつあるのに、山間部ではいまだにダイヤルアップですよ。キロバイトの世界なんですよ。過疎の進んだ農村山間部ではそれを声高に訴える人は皆無に等しいでしょう。それでいて教育の平等、機会の均等を掲げる政治家は、[情報]と言う科目を義務教育に盛り込んでおいて、何を根拠に言っているのか理解に苦しみます。

 次にJRの例ですが、あの企業はしたたかですよ。民営化されて10年目に不採算路線の切り離し案を出してきて、それからまた56年の間に廃線または第3セクターに売り飛ばすといった、ウルトラCをやってのけてます。私の住んでいる広島県では『可部線(可部〜三段峡)』がこれにあたります。つまりは国民の目が遠退いたところで、ひそかに暖めていた合理化案を実行に移すこのやり方が国有企業が民間企業になったときのやり方なのではないかと思わざるを得ません。ゼロから作られた民間企業は、企業も、そこを構成する社員も、利益追求と社会的要求をうまく結果に作り変えるノウハウを持っています。それゆえ、不採算を出す事業であっても、中長期的経営計画の中で採算性の向上、合理化案の作成という企業として当たり前の行動を取るでしょう。それがはじめから、出来上がった組織がそのようなノウハウを有することもなく、利益追求を命題に掲げられると一会計期間の損益重視に走り、不採算の合理化とは切り捨てと言うふうに考えるのではないでしょうか。不採算事業を優良事業に好転させる能力は今までの、国有企業が民間企業になったときの例から考えてできないと考えてしまいます。であるならば、公社期間をもう少し持ち、その間に親方日の丸根性を叩き直す制度を作っておくことが、今必要なのではないでしょうか。

68.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2005.8.17

特に政治に関心なく、制度の上でのうのうと生きてきた私ですが、さすがに今回ばかりはドキドキです。今回の選挙はすごいですよね。選挙の話題を取り上げるテレビ番組は軒並み視聴率いいでしょうね。普通に話題性のある方々が意味もなくなんだか面白いことをがんばってしゃべってるんですから。これが普通のテレビ番組なら問題ないんでしょうが、この国の選挙なんだから、もう驚くしかないです。刺客を郵政反対議員のところへポンポンと飛ばして、頭数合わせてるんですから、小選挙区という意味があるんでしょうか。もう国会には地元の声と言ったものは届かなくなってしまうんでしょうか。選挙するんだって国民の税金使ってやるんですから、ぜひとも意味のある結果が出るよう、また本当の意味での選択ができるよう、これ以上にないくらい吟味した上で政党は候補者を選定して欲しいものです。しかし、その有名人候補を面白おかしく話題に取り上げ、政党別の政策の比較を行なっているメディアが全くといっていいほどないのには、恐怖すら覚えます。私は小泉総理のワンフレーズで国民の興味をグッとひき、サプライズな行動をおこし、意地でも自分の意見を通すやり方には、危険性を感じています。非常にナチスのようなやり方に近いのではないかと思うからです。健全な制度下ではどこかで、誰かが一線が引けるのでしょうが、構造改革を行なっている現政権は、それを壊してしまいかねないように思うんです。将来のビジョンを国民がきちんと持って、選挙の意味をもう一度考えて投票行動をおこさないと、今回の選挙の結果いかんによっては日本がなくなってしまいかねないのではないかと、若干悲観的に考えています。

67.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2005.2.24

『大学3年制』についてなのですが、私は基本的には賛成です。ただしそれと同時に、現在一橋大学が行っているような学部・大学院5年一貫教育システムを充実させていただきたいと考えています。確かに学部が3年間では4年間で学べる内容が詰め込み型になりかねないような感じもありますが、1年で取得できる単位数の上限を撤廃し、教養単位を1年で取得できるようになれば、現状のカリキュラムは3年で習得できるのではないかと思います。また、学部と大学院の垣根を低くすることで、専門分野に興味を持っている学生はそのまま大学院に入学できれば、効率的に専門分野の研究に専念できるように思います。上記のように、3年制がうまくいくように感じてはいるのですが、疑問を持つことがあります。この学習期間短縮の動きは文科系学部では盛んなのですが、理科系学部での動きは非常に鈍く、薬学部では4年制が6年制へ変更されますし、歯学部においては現行の6年制の4年目に全国的な進級試験が行われるようになるようです。つまり、しっかりとした教育を行って、実務に耐えうる人材育成を行っているように思います。この動に反して、文科系学問が短縮傾向にあるのは、文化系学問の専門性は大学院に進学しないと習得できない状態になるのではないかという不安を感じます。昨今の大学進学率は50%を超え、かつての最高学府としての大学の役割は既に、大学院や、今流行の専門職大学院へと移行しつつあるようも思います。まだまだこの問題には多くの意見を有しているのですが、いまだ言葉として表現ができていないので、今日はこの辺で・・・

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社会学という学問の性格によるのかもしれませんが、私は専門職大学院が広まることをKK君のように単純に肯定はできません。「つらつら通信」に書いたことですが、現在の日本の高校までの教育内容から言えば、大学という場で、はじめて学生たちはトータルな人間としての力を伸ばすことができるのであって、その過程を端折って、専門、専門と叫ぶのは間違った方向だと思っています。(K)

66.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2005.2.15

片桐先生へ。お身体のほうは大丈夫でしょうか?入試や我々の相手など、体力を異常に消耗するイベントが重なり、さすがの先生でも休息が必要なのではないかと心配をしております。一日も早く全快されるよう心よりお祈り申し上げます。さて、話はとんでしまうのですが、先日の演劇鑑賞のおかげで、私の中で久々に湧き上がるものがあり、最近は映画・美術館通いを楽しんでおります。実は私は大学に入るまで、自らの意思で美術館や映画館には行ったことがなく、そのような場所とは無縁の人生を送っておりました。大学に入り、初めて映画を観たときや美術品を美しいと思ったときの感動は、目からうろことはこのことかと思ったのをよく覚えています。大学を卒業し、社会人として生きていくうちに、息を抜くこと・休むこと・何も考えないこと、といった、いつでもできるであろう自らの権利の行使の仕方を次第に忘れて、というよりも自分自身で封印していっていたように思います。今の日常とは離れた場所でなければ、自分を解放できないような自分に嫌気がさしてきていました。そんなとき、先日鑑賞したミュージカル、というかその雰囲気のおかげで、完全に忘れていた楽しみ方を思い出したような気がしています。 

私にしては珍しく長々と文章を書いてしまったのですが、本当に言いたいのはここからで、今日も映画を観に行ってきたんです。『オーシャンズ12』という映画だったんですが、映画の内容はともかく、F市の映画館状態をお伝えしたいと思います。この映画を上映していたのは、F市で最も大きい映画館で、客席数300・音響設備もばっちり、という映画館なのですが、観客は私一人だったんです。確かに、平日で19:40開始、かつ天気は雨、といった悪条件は重なっていますが、人口40万強の都市の映画館に私一人というのは妙な感覚を覚えましたが、逆に考えれば非常にいい穴場を見つけたのかなと思いました。実際にあの巨大スクリーンを独り占めできているような状態は、最高でした。このようなたった一回の映画館の状態から、一概に芸術文化が根付いていないということはかなり乱暴な考え方かもしれませんが、演劇に関しては、F市に活動している劇団は無く、近いとこではH市・K市・O市まで行かないとありません。人口40万というのは微妙なとこなのか、寄せ集めの町の集合体では横のつながりが薄いのか、文化創設のためのインフラが整備されていないのでは、などとかなり興味がわいてきました。こんな街で劇団を旗揚げできたら楽しいだろうなと思ってしまいました。映画を観るのは楽しいと感じたKKでした。

65.HT君(2004年度社会学専攻4回生・01生) 2004.11.14

ホームページに載っている二上山の写真きれいですね。自分は二上山の麓の町に住んでいて昔からあの山を見て育ったので、ああいう風に大々的に写真が載ると、なぜか自分のことのように嬉しく思ってしまいます。

64.KK君(1997年社会学部卒業・93生) 2004.10.25

片桐先生、こんにちは。私は、社93生(97年3月卒)のTゼミに所属していたKKと申します。以前もメールをさせていただき、それ以来となっていましたが、久々にメールをさせていただきました。昨年の4月に転勤し、現在は広島県にある高等学校に勤務しています。H大学と至近の距離にある学校です。H大学の学生を身近に見ながら、先生のホームページを拝見させていただき、自分の学生生活と重ね合わせています。

私もこの教職という仕事に就いて、7年半経ちました。一年半前に初めての卒業生を出しました。多くの生徒と関わってきた中で、最近、最もうれしいことが、たまにやって来る卒業生からのメールです。「アドレス変わりました。ついでに、・・・」「仕事、変わりました」「自分のことが、HPに掲載されたので、見て!」など、ふと届くメールが何ともいえません。広島市内で先日飲みに行った焼き鳥屋では、教え子2人が働いているという・・・。教え子に焼き鳥を焼いてもらいました。何だか、うれしかったです。公務員改革の流れの中で、学校現場もバタバタとしている中、日々の忙しさが年々増しているのですが、こうしたちょっとした喜びがあると、この仕事をしていて良かったと改めて感じてしまいます。

KSつらつら通信の「暴風警報で休校という制度」読ませていただきました。本校でも、警報発令に関しての規定があります。ただ、現在の勤務校にしても、過去の勤務校にしても、こうした一定の規定が出来上がったのは、ここ数年のことなので、それ以前についてのことが気になってしまいました。どうも、以前はそこまでの規定はなく、その都度、対応策を協議していたとのこと。ただ、先生のコラムを読ませていただき、自分自身も興味を持ちましたので、広島県内のことにはなりますが、調べてみたいと思います。時間がかかるかも知れませんが、また連絡させてください。

ところで、話は変わりますが、「ゼミガイダンス」のページ拝見いたしました。私がゼミをどれにしようかなと選択していた時期がちょうど10年前、199410月です。その時はその時で、大学4年間の中で一番充実していた時期だったように思います。ふと、あれから丸10年経ったのだなと。先日起こった、新潟県中越地震を阪神大震災と重ね合わせながら、ちょっと学生時代にタイムトリップしてしまいました。今日の自分のクラスのホームルームでも、阪神大震災当時に自分が何をしていたかについて、神戸の友人宅の片付けの手伝いについて、自分が目にした神戸の惨状について、高校時代の同級生の死について、等、自分の思い出話に時間を割いてしまいました。

ふと、社会学をまたゆっくり勉強したいなあという欲望に駆られながら、それも叶わず、毎日を送っています。それでは、先生の今後一層のご活躍をお祈りして。失礼いたします。

63.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2004.10.25

片桐先生へ。最近のHPの更新を非常に興味深く読ませていただいております。暴風警報時における休校についてですが、私が通っておりました中学高校には、暴風警報だからと言って学校が休みになるという決まりは当時無かったように記憶しております。念のため当時の生徒手帳を調べてみたのですが、<Uその他注意事項 1台風又は交通ストによる臨時休校 朝6:30のニュースで、山陽本線がスト決行中、又は運休のときは休校とする。ただし、通学生は最寄の駅まで行き確認すること>と記されています。私たちは、山陽本線が運休しなければ学校が休みになることはない、と指導されていたように思います。確か、阪神大震災のときも寮生は一応学校に登校していたように思います。私が在学中(6年間)には2度ほど休校になったように思います。一度が大雪で、一度が震災。ただし休校と言うのはただ未来の休暇が早めに到来しただけで、当然のように夏休みや冬休みが削られていたように思います。小学校にも暴風警報だから休校といった規定はなかったように思います。私の通っていた小学校は皆遠方から通学していた関係もあり、確か<中国バス・井笠バス・鞆鉄バスのいずれかが朝7:00の時点でストライキ決行中の場合休校となる>と言った感じだったように思います。私は4年間通ったのですが、ストで2回くらい休校があったように思います。現在、私の通っていた小学校・中学校・高校は警報発令で休校となっているようです。

さて<何も起きない幸せ>についてですが、まさにその通りだと思いました。ただやっぱり『悟る』ためには、努力は必要なのではないでしょうか。私は悟りは結果だと思います。先生のイメージも「幸せそうにひなたぼっこしているおばあさん」となっているように、辛い事・楽しいこと・悲しいこと等をすべて経験してきたからこそ<おばあさん>なのだと思います。多くを経験し、多くを知り、その場を乗り越えてきたからこそ、縁側でひなたぼっこしている光景が画になるように思います。私もいつかは仕草すべてが画になるような男になりたいものだなぁ、と思います。ただ、このような煩悩を持っているうちは、なることは難しいと思いますが・・・(笑)

62.MHさん(2004年度社会学専攻5回生・00生) 2004.6.25

社会学部生5年目にして初めて先生のHPを拝見しました。ものの考え方について、とても参考になります!つきましては、132号に書かれていた「笑顔」について、相手に自分の気配りを感じさせないように気を配ることの難しさを、最近痛切に実感していたので、心から共感できました。そして、先日訪れた恩師の父母とのやりとりから、まさに先生の言う、『高度な気配り』を学んだように思います。

最近気になることは、言葉をたくさん知っていて、巧みに操れることの恐怖についてです。連日、ニュースで報道されている、少年少女の犯罪に関わって、報道ステーションの古館さんが、まとめる際にこのようなことを言いました。「24時間営業のコンビニやファミレスの煌々たる光の裏で、少年少女の心の闇は行き場を失っているような気がします」と。(一字一句きちんとメモをとっていた訳ではないので、多少の表現に誤差があるかもしれませんが・・・)その発言を受けて、はじめは「さすが、言葉の魔術師と言われるだけのことはあるな、うまい!」って思いました。でも、それと同時に、これだけ社会的に問題となっている複雑で残酷な事件に対して、心なしか軽率な発言に感じられて仕方ありませんでした。

職業柄、作家やマスコミ関係者は語彙力があって当たり前ですし、そうあらねばならないのも事実です。ですが、言葉をうまく使うことだけがうまい表現だとは思いません。自分がうまく言葉で表現できないことに対するひがみかもしれませんが、不器用でも心ある言動こそが人の心を動かすと思っています。それこそ、私自身、TPOで言葉の使い方も操作できる人間にならねばと、自分自身に言い聞かせています。

これからも『つらつら通信』楽しみにしています。

61.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2004.3.31

<パワーポイント>読みました。私は<パワーポイント>という存在を、成人版紙芝居だと考えています。わが社の新製品は、当社の今期売上高推移は、などといった決まり文句の次に室内が急に薄暗くなり、モニターまたはスクリーンに期待通りの画像や、グラフが映し出され時々その画像が動き、微妙に興味を引かれながら、淡々と会議は進行し、なんだかうまい具合に納得させられて会議は無事終了します。私が非常に興味深く思うのは、その会議の終了後、同じ会議に参加していた人々が、同じ画像を見ていたにもかかわらず、しばしば相反する結果を導き出していることがあるのです。先生が言われますように、『きちんとした文章による説明』が無いがゆえにこのような結果を生んでいるのだろうと思います。しかし考えようによっては、<パワーポイント>は使用者が考えている以上に聴衆に多くの情報を与え、何か新しい発見につながるのではないか、とも私は考えています。なんといっても、<パワーポイント>は、使用者がある事象を聴衆に対して伝えるための道具であり、事象を正確に、また印象的に伝えることができるのであれば今後さらに普及するでしょうし、これに取って代わるほどの技術が開発されたなら、いつの日か衰退していくのではないでしょうか。

 さて話は変わりますが、浅田農産の社長が逮捕されたという報道を見ました。インタビューを受けている一般の人々のコメントは決まって『当然だ』とか『早く報告すればよかったのに』といったものばかりです。私も逮捕は社会的影響からして、また日本が法治国家である以上、家畜伝染病予防法違反の容疑ということで当然であると思います。しかし非難されるべきはこの会社だけなのでしょうか。近年の潔癖主義者のような日本の風潮、またBSEの影響から廃業に追いやられた畜産業者、このような社会状況の中で、何の補償や保険もない中で、経営者は正直に申告をすることができるでしょうか。真っ当な経営者は、会社の存続を考えると同時に、従業員の生活の確保を考えると思います。会社が潰れると経営者のみがその負担を負うように考えられがちですが、そこで働いていた、従業員は職をなくし、途方にくれるのです。時として、経営者は会社が潰れること以上に従業員が途方にくれている姿を辛く感じるものです。私はこの経営者の行為を肯定しようとは思いませんが、殺人や強盗、横領や背任、虚偽発言や職務怠慢(これは一部該当するが)によって今回の事件は起こったのではなく、目には見えないウイルス、いわば天災といっても過言ではないと考えられるこの事件を、まず目に見える行為者から裁きの場に送るというのはいかがなものかと思います。国民の生命財産を守るべき国や行政は何の過失もなく適正に機能していたのか、という点がまず問題として挙げられ、それが適正に機能し、養鶏業者に対する国の緊急的な保護策がこうじられているにもかかわらず、隠蔽行為を行っていたならば当該業者は厳しく裁かれるべきではないかと思います。アジア諸国で鳥インフルエンザの情報が入ったときから、対岸の火事として傍観するのではなく、万が一国内で同様のケースがおきたならば、というシュミレーションに国はかけていなかったでしょうか。同じようなことがBSE、薬害エイズ事件の時もあったように思います。時間はすべてを風化させていきます。メディアは事実を客観的に、また公平に、より早い段階で解明し、その情報を報道しなければならないのではないでしょうか。我々国民は、今や国や行政を監査するという機能を失いつつあるのではないでしょうか。目に見えることのみには、真の真実は見えてこないのではないでしょうか。 という風に今日の報道を見ていて感じました。なんとも憤りを感じる事件です。では今日はこのへんで。

60.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2004.3.9

昨今メディアの話題の中心になっている<鳥インフルエンザ>です。その中でも浅田農産の一連の出来事についてです。匿名の電話から始まり、非常に無責任に思える記者会見、そして会長の自殺。

 会長自殺の報道を知るまで、私は『なぜあんな見え見えの嘘をついているのだろう。いずれわかる事だろうし、本当の事を洗いざらい話して、責任を取って廃業してしまえばいいのに。そしてこのことの重大性を認識しそれ相応の社会的責任をとればいい。』と思っていました。しかし、自殺の報道を聞き、会長の遺書らしきものについての情報を得たとき、経営者としての苦渋の決断というものを感じました。遺書には<従業員の給料は払ってくれ>と書いてあったそうです。

 会社を経営するうえで、従業員の生活を守ることは何より大切なことだと思いますし、その従業員に不安を与えないような経営をすることこそ最も大切なことではないかと、私は考えています。自殺した会長は経営者として、また創業者としての責任を感じておられたのだと思います。

 当然自殺したからといって何も解決することはないので、会長の行為は最善の行為ではないと私は思うのですが、それよりなによりも自殺するに追いやった世論は正しくこの事件を認識しているのだろうかということに私は疑問を感じるのです。

 そもそも<鳥インフルエンザ>という病原体は、われわれ人類にとってどのような影響を及ぼすのでしょう。鳥から鳥への感染を防ぐための規制を引いているのであれば、現在も行っている抗生物質の発明を急ぐべきだろうし、迅速に行政が養鶏業者への規制および管理を徹底して行うことで、ある程度は防げるのではないでしょうか。サルモネラ菌やサナダムシ、O−157といった病原体・回虫に対しても我々は、熱を加えたり、よく洗うといった加工を加えることで乗り切っているように思います。あまりにも素材に対して完璧を求めているのではないでしょうか。

 危険であるという意識が先行し、我々は過剰に潔癖症になっているように思います。目に見える短期的に我々に直接関わる脅威には過剰に感応し、メディアや行政があまり取り上げない長期的で間接的な我々の生活に重要な意味を成していることには興味を示さない、こんな日本人は今後どうなっていくのでしょうか。一方的な情報を、感情的に捉え、あまりにも少ない選択肢の中から容易に答えを出しすぎてはいないでしょうか。

 このような現状の社会の中で、一個人である私は一体何を基準とし、また客観的で主観の交わっていない情報を得る最善の策は一体どこにあるのでしょうか。

59.YCさん(2003年度社会学専攻4回生・00生) 2004.1.23

卒論ありがとうございました!(『氾濫する色たち』角尚子さんの卒論です)色、というものをどう社会学的に見るのか疑問に思ってたんですが、家電・車・住宅に分けて、しかも写真資料がきちっと揃っていたのでわかりやすい論文だったなぁと思います。街を歩いていて、時たま感じることなんですが、あまりにも色が溢れすぎていて、逆に全部がモノクロに見えるという・・・昔は子どもの頃、自然に触れることや絵本などの美術を通して色を覚えていったものですが、今の子は機械的に作られたたくさんの色の中で色を覚える。CGで、例えば水彩画の風合いのような絵を描けるように、見せ掛けの、ただのスペクトルの刺激としての色ばかりが溢れているこの社会に私は危機感を覚えます。どう見ても日本の風土にそぐわないカラフルな住宅が本当に温かい家庭を生み出しているんでしょうか・・・その姿に「非日常」を感じてしまうハコに明るい「日常」を受け止める力があるんでしょうか・・・色とりどりの家の集合体がかえって温度を感じさせずに不気味に見える。自然の色はそこに温度や呼吸を感じるのに。遺伝子が人間が操作してはいけない神の領域であるように色も人間が自由に操るべきものではないと私は思うのです。色という刺激は身体や精神に強い影響を及ぼしますから。大げさに言うと、無機質な色が溢れているせいで子どもの犯罪や精神的に病んでいる人たちの増加が引き起こされているような気もする・・・また、大人と呼ばれる年齢になっても「かわいい」カラフルなものに囲まれていたいと思うのはモラトリアル人間の象徴のような気がしてならないです。・・・などとお借りした卒論を読んで思いました。

58.KK君(1997年社会学部卒業・93生) 2003.2.2

片桐先生、こんにちは。私は、以前にもこちらへメールをさせていただいた広島県で教員をしているものです。(社93生、Tゼミの卒業です)メールをまた送りたいとしておきながら、日々の忙しさを口実にして、今日までそのメールが延び延びになってしまいました。

先生やゼミ学生の文章を読みながら、とてもいいゼミの雰囲気を感じとることができます。というのが自身、教員生活の中でこの3月に初めて担任として卒業生を出すことになりました。広島県の高校では2月から生徒は自主登校となります。そのためクラスで生徒たちとともに過ごすのも一昨日をもってひとまずは終わりとなったのです。残すは、2月28日の卒業式前日と、3月1日の卒業式です。高等学校のクラスと大学のゼミを同列に並べることはできないかもしれないけれど、人間関係を鍛えていく場所としては同じものだと思います。私は、上手く物事を進めていくには、よりよい人間関係が構築されていることが前提条件だと思いますので、とにかくクラス作りにこだわってみました。ただ、生徒指導の観点から生徒を叱ることもあるし、進路指導の観点では生徒と話し合いをとことんしてみたし、全てが全て、楽なことばかりではありません。3年間ただ突っ走ってきたような気がしています。とくに今のクラスは2年生からクラス替えをすることなく、2年間同じメンバーで過ごしてきたので、この半年は様々な意味で「濃い」時間を過ごしました。昨日あたりは、「ようやく、しばらく楽ができるぞ」と思っていたのですが、明日から学校だというこの時間(日曜日の20時)になって今度は「何か、寂しいな」という思いも交錯しています。ただ、今はこれから進路を決めていく生徒もいますので、彼・彼女らを見守る仕事も残っています。(ただ、我が後輩となるべく、関西大学社会学部生を生むことはできそうにありません。受験する生徒がいませんでした。残念・・・。)あと1ヶ月先には、卒業式で生徒たちとお別れです。また、新しい生徒たちとともに歩む春も目前に迫っています。そうしたなかで、人間相手の仕事の素晴らしさを再認識し、教員になってよかったという思いを強くしています。

57.SD君(2002年度社会学専攻2回生・01生) 2002.11.7

ゼミ見学させて頂いた時に若者の言葉使いについて討論されていたと思います。その中で(若者が新しい言葉をつくったりして)言葉が変わることについて賛否をゼミの方々に聞かれて、どなたも賛成されてなかったと思います。個人的な意見を言わせてもらうと賛成です。かなり肯定的な賛成というわけではありませんが、言葉が変わることは仕方がないことだと思っています。年配の方からみた私達の年代の言葉使いは悪いと思っているでしょう。それにもう既に私達の年代からみた小学生ぐらいの言葉使いは悪いと感じています。以前新聞か雑誌で読んだことなんですが、何千年前の遺跡に書かれていた文字を解読すると次のようなことが書かれていたそうです。『最近の若者は言葉使いがなっていない』。何千年前ですら現代と同じような状況であったと伺えます。ことばというのは一種の生き物であり、時代の変化と共に変化するのが、当然だと考えていいのではないでしょうか。現代の言葉使いと江戸時代などの昔の言葉使いが違うように。それに言葉の変化を受け入れられないなら方言も認められないことにもなるのではないでしょうか。若者ことばは若者文化から派生したことばであり、方言は地方文化から派生したことばであり、共に異文化から出来たことばであり、片方だけ容認されるというのはおかしいと思います。ことばは本来相手に伝えるために出来た一種の道具です。内容が伝われば十分ではないのでしょうか。それを定式化した枠組の中で逸脱することを許さない社会こそ本当におかしいのではないでしょうか。片桐先生には思いっきり批判されそうですが、これが私なりの考えです。伝えたいことを文章にすることが得意ではないので、うまく伝わっていなかったらすみません。

56.KMさん(2002年度社会学専攻2回生・01生) 2002.10.25

今日夕方に行われたらしい、横田めぐみさんの娘キム・へギョンちゃんのインタビューを見ました。彼女はたった1人でインタビューに答えていたのですが、私の弟と同じ15歳とは思えないほど、しっかりと発言していたように思います。コメンテーターとして招かれていた慶応の教授が彼女を見て日本人の同年代の女のより素朴で初々しい等の発言をしていたわけなのですが、偏見です。私だって、15の頃はあんなかんじでしたよ。ごく、一部の子達だけを見て、それが全てだと判断するのは間違っていると思います。日本の若い女の子がみんなスレているみたいな発言、私は気に入りません。彼女の祖母が北朝鮮に対して、たった1人でへギョンちゃんに発言させて腹立たしいとコメントしていたのですが、日本のインタビュー内容に対して憤りは感じないのかなと思いました。「ボーイ・フレンドはいるんですか?」なんて質問は必要なかったと思います。

つらつら通信の「日本が拉致?」の先生の見解には私も賛成です。日本政府が決定した、拉致家族が希望した被害者の日本永住は余計なお世話だと思います。なにか、「おばあちゃんは、私たちといるより、ホームのみんなといた方がきっと幸せだから」と決め付け老人ホームに放置する家族と、「あんたは、こんな人と結婚しても幸せにはなれないんだからやめなさい」と、結婚を反対する家族と似ている気が・・・・・。幸せかどうかなんて、全部自分の心が決めるものだと思います。キム・へギョンちゃんが「私が日本に行くのではなく、おじいさんとおばあさんが会いにくればいい」と泣いていました。横田さん夫妻はきっと彼女にとって日本に来て生活することが一番の幸せだと考えているのでしょうが、彼女の(嘘か本当かは分かりませんが)話を聞く限りでは、現状は決して不幸せではない模様。キム・へギョンちゃんが日本に来て必ず幸せになれる保障はないわけです。また、もし彼女が日本で生活できても、彼女の父が日本に来たいと思わない限り、また希望してもそれが現状では不可能で、国交正常化するまでは生き別れになるかもしれないということです。それは、彼女にとって幸せなのでしょうか?第一、祖父母とどうコミュニケーションを取るというのでしょう?国交正常化に際して、コミュニケーションが今からの最大の問題だと思います。

私は今まで、映画「シュリ」から受ける印象で、北朝鮮は危険な国としか思っていませんでした。今もその印象にあまり変わりはないのですが、小泉総理が北朝鮮に出向いてからこの国に関心を持つようになりました。人間に対してもそうですが、こういうものだと決め付けていたら、ずっとその固定観念や先入観は消えません。それがなければ、もっとそのものの事を知れるかもしれないのに。何でも決め付けるのはいけないことですね。

55.KMさん(2002年度社会学専攻2回生・01生) 2002.10.4

つらつら通信第88号の「便利な生活の行き着く先は」を読んでいて思ったことがあります。先日TVでドラえもんを見ていたら、泳げないのび太に対し、また例の如くドラえもんがのび太に道具を提供していました。その道具は水の中でも呼吸ができるというもので、呼吸の調整で水が自分の前からなくなるという仕組みだそうで、自宅のお風呂を道具で大きくしてもらい、そこで練習し、しずかちゃん、スネ夫、ジャイアンと共に水泳のリレー大会に挑むという話でした。水中で呼吸ができただけで果たして泳げるようになるのかどうかは分かりませんが、他のメンバーに負担をかけないように練習をしたのび太は評価してあげてもいいと思いました。問題はその後です。結果的には水泳大会のレース直前にのび太が大きなくしゃみをし、プールの水を全部吹き飛ばしてしまったというオチでごく、自然な展開だったのですが、ドラえもんの道具を使って優勝を狙う、或いはレースに参加することは、いくら小学生の地域の催し物だからといっても、ドーピングに値するのではないかと思ったのです。所詮マンガなのですが、のび太はドラえもんがいるからダメになるのでは?とも思います。

話は変わりますが、「世界ウルルン滞在記」というTBSの番組ご存知でしょうか?毎週日曜日pm10:00から放送されています。毎回芸能人が世界各国の一般家庭に1週間ホームステイし、その家族や現地の人々と共に生活をし、彼らの日常からクイズを出すという形式の番組です。先週、若い男優が“ラスト・パプア”と呼ばれる秘境に暮らすベタムニ族のサガミ村を訪れていました。再会SPと題された今回の番組で、彼はこの地を訪れるのは2度目らしく、以前ホームステイをした時にベタムニ族の主要な食べ物がバナナと虫だけだったということから、おみやげに日本から大根やスイカ、人参等5種類の野菜の種を持ってきていました。放送では皆で一緒に畑を作り、ホームステイ先のお父さんが「実がなるのが楽しみだな」と言っているころで終っており、クイズ出題のため画面がスタジオに切り替わりました。すると、すぐに回答者である大橋巨泉と石坂浩二が言ったのです。「まず、あの土地じゃあ大根はできないね。スイカも無理だよ。」

「便利」と言ったら、自分達で作物を作ることをしなくても口にすることができることがまさしくそうだと思います。肉だって動物を殺すことをせずに私達は食べることができます。この若い俳優はベタムニ族は食べ物の種類が少なくて可哀想と思い、彼らにとっては新種の作物を持って行って、食べ物の種類を増やしてあげようと考えたのでしょうけど、私はそれがいいことだとは思いませんでした。一種の文化侵略なのでは?とも思います。また、中途半端な彼の行いも見ていてむず痒く感じました。私も含まれているのですが、今の私達の世代はどういう土地のどういう気候の場所でどんな作物が育つということを知らないのです。

ドラマ「北の国から」でまだ純や蛍が幼いころ麓郷が吹雪で新しく家を建て替えたり、暖房設備も電気に頼っている家が停電のために凍える想いをしているというシーンがあります。全てを他人や機械に頼っていて、例えばもしどこかが欠落してしまったら生きる術、知識を知らない私達はきっと生きていけないでしょうね。文明の中で生きている方が優位だと思ってる若い俳優や、ドラえもんというロボットに頼りきっているのび太がなんだか怖いです。

54.KK君(2002年社会学専攻卒業・98生) 2002.8.15

更新されたツラツラについて感想を語らせてください。近年目覚しく成長を続けている消費者金融(サラ金)についてのイメージは私も先生と同様にあまりいいイメージを持っていません。しかしここ数年メディアでのCM,広告などには以前のような暗いとか恐い、危ないといったイメージを払拭するもので、興味さえ感じさせるものであるように思います。そもそもそれが消費者金融業者の目的なのだと思います。高度成長期、バブル期においてわれわれの社会にはお金そのものがダブついていたように思います。そのような時期において最も活躍していたように思われるのが金融業界においても上位に位置していると考えられる銀行ではなかったでしょうか。あふれた現金を銀行は不動産や株式、中小企業の過剰な設備投資へ融資していました。しかし戦後日本経済が経験したことのない現代のデフレという不況下に現金そのものが不足し、銀行は回収が困難となった不良債権をいかに処理するかということに必死になり、個人や中小企業(特に町工場、個人企業)に対する収益性の薄い融資を渋るようになったように思います。

そんな時、審査が比較的緩く、現金短時間で融資してくれる消費者金融は、短期的にはまさに消費者の近くの財布という感じなのだと思います。しかし『トイチの恐さは十日目に解かる』と言われるよう、返済を続けていく上で初めて利子の恐さに消費者は気づくのではないでしょうか。本当に恐いのは表に出てくる消費者金融などではなく、裏に存在する違法性を含んだようなサラ金だと思います。表を利用していれば関係がないように思われがちですが、表で返済が困難になってくるとそこに存在する債権は裏の金融業者に売却され、取立ても裏の金融業者が行うようになります。また公にはされていないようですが、一度消費者金融を利用すると、戸籍の変更を行わない限りそれらの個人情報は金融業界に出回り、生涯銀行などでの個人的な融資を受けることは困難となります。

ここからは私の見解なのですが、たいていの消費者金融のCMの最後は<ご利用は計画的に>という決まり文句をつけていますが、私からいえば計画的な人はキチンと預金・貯金をしてると思うんです。人生のうちで借金をしない人は少ないかもしれませんが、お金を借りるからには必ず返済可能な金策を作って、かつそれでもなお、貯蓄ができるように計画を立てるべきなのではないかと思います。

先生は文末に『社会問題にはならないのでしょうか?社会的には規制しなくてもいいものなのでしょうか?「高利貸し」や「サラ金」のイメージに結びつけたがる私が時代の変化についていけていないだけで、すでに世の人々は消費者金融を社会の仕組みとして的確に位置づけ、うまく利用しているのでしょうか?あまりにも私のもつ印象とCMのイメージが合わなくて、毎日不思議な気がしています。』と記されていますが、まったく不思議なことではなく先生のもたれているイメージが正確なものであると私は思います。日本金融新聞社の自己破産者数の推移(http://www.financenews.co.jp/b/data.html)からわかるように近年毎年自己破産者数は増加しています。サラ金は返す返さないの前にまず貸しておいて、そこから莫大な金利を取りさえすれば、このゼロ金利時代に数ヶ月で元本を回収し、その後はすべて収益と化し、その部分が返済困難となるようであれば、その債権を次のサラ金に売るという、損をしない商売ができているからこそ安定的な成長を遂げているのだと思います。まさに不況の申し子と言うべきではないでしょうか。

明日の午後3時までにどうしてもあと30万必要。銀行にある定期預金は借り入れの担保となっていて下ろせないし、金策はもう尽くして何もない・・・。そんなときハツラツとした笑顔で融資をしてくれる消費者金融のCMを見たならば、背に腹は変えられないと思い利用してしまうようにも思います。ドラマのようなことが実際におきているのでしょうか。

53.STさん(2002年社会学専攻卒業・98生) 2002.7.15

HP、いつも楽しく拝見しております。なかでも今週は的場浩二の熱演が光っておりました『利家とまつ』について、私も思うところをつらつら述べてみたいと思います。実は戦国時代ってあんまり興味がなかったりするので(某小説の影響で上杉氏関連だけは妙に詳しいが)、当然史実がどうとかいうのも知るはずもなく、あくまで私は単なるドラマとして楽しく見ていたのです、が。どうやら最近一緒に見るようになった母はそうではなかったらしく、ことあるごとに「これってホンマなん?」と聞いてくるのです。そのたびに知らんがなと答えるのですが、ハテこれっぽっちも歴史に興味なんかないくせに、なぜにこの人はここまで史実であるかどうかにこだわるのだろうとふと疑問に思ったわけです。

例えばちょっと前、『愛する二人別れる二人』とかいう番組がヤラセだという話が流れて問題になったことってありましたよね。何かカップルがテレビカメラの前で痴話ゲンカをやらかしたりする番組だったらしいんですけど。しかしその騒動の時、ヤラセで何が悪いの?ていうかそもそも明らかにヤラセくさいんですけど?と私は思ったのです。そう思ったのは私だけではなかったらしく、周りの友人達もみんな「あんなのヤラセに決まってんじゃん」「俺たちゃ面白けりゃ何でもいいのに」という発言をしていました。だとすればかの番組を問題視していた主体は誰なのでしょう。

もしかして…オバサン?言い方を改めると、非若者?と、ここで思い出す番組といえばやはり『未来日記』でしょう。誰かの手によるシナリオを見知らぬ男女同士に演じさせ、演じているうちに本当の恋になってゆく様を見て楽しむ番組、だったみたいです。あまりに評判なので何度か見ました。これって究極のヤラセですよね。というか「ヤラセから始まる本当の恋」がこの番組のテーマであって、明らかにヤラセじゃないと全然面白くないのです。明らかなヤラセに乗せてこれまたヤラセくさい本当の恋が展開されて、どこまでホンマやねんと思いつつ涙を流す。これが未来日記の醍醐味なわけです。対する前者の番組は本当の恋に見せかけたヤラセです。それに怒った非若者と、怒る非若者に首を傾げる若者。おやおや、何か見えてくる気がしません?(すいません、例によって考えながら書いてます)

結論を申しますと、そこから見えるのはテレビメディア受容についての世代間格差だと思います。で、私の浅薄な知識(しかも忘れかけ)を総動員するに、ターニングポイントの一つにおニャン子クラブがあったんじゃないかしらと。それまでのアイドルってアイドルになる課程は全く表面、つまりテレビ上に現れることなく、ある日突然レコードが出て、突然トイレに行かない女の子が予定調和的にテレビに出現するというのが普通だったんですよね。「普通の女の子になります」と言って引退したのはキャンディーズだったかピンクレディーだったか忘れましたが、どっちにしろオイオイ普通の女の子のアンタ達ってどんなだよと戸惑った人も多かったことと思います。けれどおニャン子は根本的に違う。おニャン子の醍醐味はアイドルができる過程の方です。イマイチあか抜けない普通の子が様々な試練を経てアイドルになっていく、そんな今まで隠蔽されていた部分が放映されることが大事なわけです。メディアの裏側をメディアが供給するという、いわば逆説的なスタンスがそこからは読みとれます。おニャン子は低迷するアイドル人気をキープするための背水の陣だったと言われていますが、その副産物として視聴者に「メディアの裏側」を認識させることとなりました。またおニャン子クラブの特性として、視聴者自身の手による人気投票でメンバーが入れ替わるというのがありましたよね。自分の考え一つでアイドル候補たちの未来が決まるというシステムです。それまでブラックボックスだったメディアの裏側が暴露されたことに加え、このシステムによってメディアに対する有効感覚を得た視聴者は、結果として全てのメディアを相対的に評価することが可能となったのではないでしょうか。このメディアへの眼差しが後の世代にも受け継がれたことは、我々が現在モーニング娘。に萌え萌えであることから一目瞭然でしょう。我々若者がテレビを見る視線と、お父さんお母さん世代がテレビを見る視線は違うのです。

えっと、そんなこんなでようやく利まつトークに戻ってきました。というわけでメディアを相対評価する世代の私は、テレビの言うことがすべからく本当だなんて思っちゃいないんで、番組に描かれる全てが史実だと勘違いすることなんてありませんよ、という話。例えばタイタニックなんかも、あれは一般的なカップルの萌え要素をあますことなく刺激するラブストーリーであったがゆえにヒットしたのであって、タイタニック号沈没がホンマかウソかなんてわりかしどーでもいい。というより、本当なんて概して面白くないんだから、色々嘘を取り混ぜて面白くしてよって感じかな。タイタニックが本当は沈没してなくても、沈没した方がジャックとローズの恋は視聴者的に萌えるんだから、悪いが沈んでてくれ、みたいな。ただ先生もおっしゃると通り、利まつ(略すのはやめろ)の場合は天下の国営放送ですからね。一概に面白ければいいとも言えない気もしますし(だってそうじゃなきゃ地震の時に何を信じればいいの)、現にウチの母がそうであるようにしっかり勘違いしてしまう世代もあるわけで。やはり「この番組はフィクションであり…」のテロップは必要かもしれません。しかしあたしゃ反町隆史が信長っていう時点でもう…グッバイ山川出版詳説日本史!って感じだったんですけども。いやでも思ったよりよかったな、反町の信長。うん。で、あるか。

久しぶりに学生時代っぽいことを書いてみました。疲れた…。それではまた。失礼します。

52.TNさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2002.2.23

オリンピックのVTRや、ニュースを見ては、「なんだかアメリカにいいようにオリンピックがすすんでいるなー」と、何度も流れるショートトラックの寺尾選手の失格ニュースを見ながら思ったり。しかもそれが本来主役であるはずの選手達自身への不信感ではなく、審判員であったり、もっとお偉いがたによるものであるんですよね。それがまた許せなくて、再び冷戦時代のことをひっぱりだしてきたり、「氷の上のテロ」だなんて、、、純粋にオリンピックを楽しむ事が今回難しいです。

必要以上のUSAコール・ブーイング、例えばフィギュアのアメリカのクワン選手の演技が終わると同時に会場の半数以上の(もちろん大半がアメリカの人たちだったはずです)観客が帰ってしまうなど、愛国心の強さは評価したいですが、オリンピックとはそういう態度で見るべきものなのか・・と疑問に思ってしまいます。そして、アメリカの人々はあまりにもテロへの勘定ををオリンピックに持ち込みすぎなのではないかとさえ思いました。韓国のショートトラックでの男子の選手の失格、寺尾選手の失格、逆にアメリカの選手のスピードスケートでの大きなフライングを見逃すなど、なにか国によって差を付けられているとさえ思いました。なにかもやもやして悔しいです。それは、日本人として悔しいと思うと同時に、それ以上に選手同士の戦いを何かとらえることさえ困難な大きな影が今回のオリンピックについてまわっている気がして、前回長野でたくさんの選手から元気をもらった時のような感動を感じきることができないからです。・・一観客の私以上に各選手の皆さんの方がはるかに悔しいでしょうが・・。

今回のオリンピック開催は、日本の選手を通して世界の中の一人の人間、そして日本人として私自身の存在を再確認というか、考えさせられる機会となりました。

51.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2002.2.17

お約束の『身毒丸』。一刻も早くこの感動を文章化したいので、さっそくこのネタを。とにかく本当に素晴らしかった!文章化したいと言いつつも言葉が出てこなかったりして。余韻が後を引きまくりで、どうやって上本町から帰ってきたのか記憶にないぐらいです。

私が『身毒丸』を見るのはこれで4度目になります。最初に見たのは天井桟敷によるオリジナル版ビデオ、さらに蜷川が演出を手がけた武田真司主演版ビデオ、そして同じく蜷川演出の藤原竜也版ビデオ(おそらくこれは海賊版ビデオだったと思われる)。そして今回、蜷川×藤原での再演版。つまり生で見たのは初めてなのです。気合いも入ろうというもの!とはいえ天井桟敷版と蜷川版ではかなり色が違います。というのも、寺山の舞台は人間性というものを極力廃する傾向にあると思うのですよ。前衛的、記号的、ミニマルミュージック的な要素が強い。役者がかぶり物(仮面とか)をかぶる芝居が多いのもそのせいではないでしょうか。また観客と役者の壁がないのも特徴的です。観客もまた役者であり、役者もまた観客であるというスタンスは、ある意味同人誌的。役者にしろ脚本にしろ演出にしろ、演じる側の主観が芝居に反映されないんですよね。けっこう私にはついていけない芝居も多いです。『トマトケチャップ皇帝』なんかはわりと好きだけど。対する蜷川版は、寺山とは逆に「世界」をがっちり作って、どれだけ観客を陶酔させるかということに主眼がある気がします。そして見た目の派手さではなく、濃密な心理描写でそれが行われるゆえ、観客はもはやその「世界」に没入するしかない。蜷川版の『身毒丸』からは、寺山の持っていた一歩引いたニュアンスは完全に払拭されています。そもそも『身毒丸』は寺山が自身の母に対して抱き続けた愛憎が源になっているのであるからして(というかあの時代に活躍した演劇人の源は全てそこだ)、それを赤の他人の蜷川と脚本の岸田理生がいじったことによって、初めて『身毒丸』は「世界」たりえたのではないかと。ほら、自分のことをマジメに語るのって気恥ずかしいじゃないですか。どこか戯化してしまいがちになるものです(太宰治『人間失格』参照)。

それはともかくとして。今回の『身毒丸』で私が一番心配していたのは藤原竜也の年齢です。今年20歳というその年齢は、身毒丸をやるにはキツイのではなかろうかと思っていたのです。『身毒丸』は母を亡くした少年・身毒丸と、お母さんを売る店で買われてきた義母・撫子の物語です。ラブストーリーです(たぶん)。身毒丸が大人の男では、何かが違う気がするのです。いや、別に20歳でもいいんですけどね。武田真司がやった時なんて、彼はすでに23歳だったし。ただ武田真司の場合、23歳でも全然23歳に見えない(あるいは見せないことが可能な)ビジュアルだったので、全然気にならなかっただけ。しかし藤原竜也はそういうタイプではない。こないだの『近代能学集』で『大正四谷怪談』以来3年ぶり(だったかな)に彼を見て、お姉さんはマジでビビりました。あんたいつの間にそんなデカくなったの!?単に身長が伸びたというより、頬の肉が落ちて肩幅が広くなって、つまるところ「男」になってたのでビビったのです。だから『近代能学集』で演じてた俊徳も、正直どうかなって感じだったんですよ。俊徳はある意味身毒丸よりも「子供」を要求される役(と私は思っている)なので、あの子供独特の残酷さと思い上がりを表現するには、やはり大人の体をした人間ではキツイ(ジャン・コクトー『おそるべき子供たち』参照)。で、今回の身毒丸。結論。いいわ、大人でも(あっさり)。前にやった時とはまた違う、非常にセクシャルでエロティックな感じで。これはこれで、いい。要は面白けりゃ何でもいいんだよ。というより新しい解釈を教えてもらった気がする。ただ撫子が母というより女、身毒丸が子供というより男になったせいで、身毒丸の撫子への気持ちが観客側にトレースしづらくなったというか、母という装置(あるいは岸田の脚本が目指したイエという制度)の存在感、つまるところあの「もういちどぼくをにんしんしてください」という名台詞の衝撃が薄くなってしまった感は否めないけれども。まあ寺山版オリジナルをあえて視界の外に置き、蜷川による別物の芝居だと思えば。新しい解釈というのはそういう意味です。にしてもエロかったな〜。二人がお互いの気持ちをぶつけ合うラストシーンがエロエロなのは言うに及ばず、特に撫子が身毒丸を呪って目玉をつぶすシーン!正視するのが難しいほどにエロかった!7列目ド真ん中だったので、今宵は眠れぬ夜を過ごしやがれ的勢いの藤原竜也の顔がよ〜く見えて、お姉さん思わず年下でもいいかもとか思っちゃったさ…。そして撫子役・白石加代子の、歪んでるんだけども恍惚とした表情、これもある意味眠れぬ夜系。さすがだ。瞬きも忘れて見入っていたため、ふと気づくとじんわりと涙が。白石さんに関しては、地獄の底で実の母を装って身毒丸をあやすシーンも素晴らしかった。エロい!(そればっか)藤原くん本人も今回の舞台は納得いく出来だったようで、カーテンコールの笑顔がもうとんでもなくか〜わ〜い〜い〜っ(本性)。前の俊徳役の時は可哀想なぐらいむっつりしてたもんね。私も嬉しい。とにかく拍手が鳴りやまなくて、最後の方は役者さんも苦笑しながら出てきてました。

ちょっとミーハーに。あんなに男の人の裸を舐めるように凝視したのは生まれて初めてかもしれない。身毒丸が沐浴するシーンです。全裸なのです。脱ぐと分かってたので、しっかりスタンバって、この細い目を限界までこじ開けて舞台を見つめてきました。まあ、それにしても綺麗な裸だこと。そしてそれ以上に綺麗な肌。傷一つないなめらかな小麦色の肌というやつです。う、うらやましい…。さすがに正面向いた時には照明が何やかやと工夫されていて「チッ!」という感じだったのですが、バックはばっちり。ええ、そりゃあもう。映画『バトル・ロワイアル』で藤原くんの上半身裸(包帯付き)に図らずもときめいてしまったお嬢さん、スクリーン全面に映し出されたあのお肌は加工じゃございませんことよ。是非ナマで!ご覧下さいませ。あとは目玉をつぶされた身毒丸が撫子の連れ子・せんさくを殺すシーンかな。真っ赤な襦袢がのぞく着物を着た身毒丸が、「お前は本当にかわいいねえ」とか何とか猫なで声を出しながら、いたいけな子供を、なぜか脱がせる!そして抱きしめる!覆い被さる!ビバ、蜷川。あたしゃあんたに一生ついて行くよ…ていうかむしろ行かせて。メシ炊きでも按摩でもストリップでも何でもするから、稽古場の隅っこにいさせて。しかしそんなことは到底無理なので、借金してでもDVD買います(会場で予約できたのだが、560円しか持ってなかった…)。そんでお家でゆっくり堪能するの。これで静止もコマ送りも思いのまま!

予想はしていたものの、舞台レポートで終わってしまいました。もし先生にとって全然興味ない話題だったらごめんなさい。それでは失礼します。

50.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2002.1.4

題して「禁断の無害化を考える」。

こないだメール送った後にもう少し考えてみたんですよ。「禁じられた」について。というのも、私は先日「禁じられた」という言葉そのものに悲劇性が内包されていると言いましたが、最近の禁断モノにはどうもその悲劇性が欠けているような気がしてならないのです。まあ小説やマンガから禁断モノが消えようが消えまいが、もしかすると大概の人にはどうでもいいことこの上ないのかも知れませんが(たぶんそうでしょうね)、これが考えようによっては案外どうでもよくないのではないかと。まずは具体例を挙げてみましょう。

以前も触れたことのある篠原一『アウトトゥランチ』。母親を殺して冷蔵庫詰めにするお話ですが、何よりも特筆すべきはあまりにもあっさりした殺しっぷり!ほんの数ページで母親殺害に至る主人公の心情から実際の殺害までが描写されてしまうのです。「人を殺す」、しかも「母親を殺す」という禁断中の禁断を実行したにもかかわらず、以後の主人公の関心事は母親をどうバラすか、どう美しく冷蔵庫につめ、保存するかに終始します。また花村萬月『触角記』。この作品にも母親が出てきますが、母親は母親でも、描かれるのは母子相姦です。近親相姦といえば禁断のお約束…にもかかわらず!どうして主人公はあんなにあっけらかんとしてるんでしょう。「おかんもなかなかええカンジやん」と言わんばかりのその態度!もちろんいわゆる文学領域でこうなのですから、マンガなんかではもっとえらいことになってます。例えば男性に人気のゲーム「シスタープリンセス」。自分は主人公たる「お兄ちゃん」になって、たくさんの妹たちと恋愛するというコンセプトのギャルゲーなのですが、これがスゴイ。詳しいことは忘れちゃいましたが、確か「あなたには12人の妹ができました」とかいう描写からゲームが始まるんですよ。何じゃそりゃあッ!そのあまりに端的な描写からは「妹との禁じられた恋」という悲劇的ニュアンスは全く感じられず、ただ妹という新たな萌え要素(データ)が追加されたにすぎないという事実が読みとれるように思えます。やおいマンガも然り、です。こないだ読んだマンガは双子モノだったんですが、たった32ページ!32ページで双子(もちろん男同士)が!近親相姦の極地、双子というモチーフが32ページッ!別に長けりゃいいってモンでもないですけどね(萩尾望都の『半神』は双子モノの短編ですし)。にしてもたったそれだけの分量で今までフツーに双子してきた兄弟がエッチにまで至るというのは…しかも「お互い実はスキスキだったんだネ☆」とらぶらぶハッピーで終わるというのは…どうよ?ああ、三浦哲郎『百日紅の咲かない夏』を覆っていたあの切なさ、イアン・マキューアン『セメント・ガーデン』(個人的にタイトルだけでご飯3杯はいける)で描かれたあの閉塞感はもはや過去のものなのでしょうか…と嘆いてみても仕方ないので、なぜに禁断が禁断ではなくなったのかということを少し考えてみました(やっと本題)。

「禁じられた」とは言っても。そういえばいったい何によって禁じられているのでしょう。罪の文化と恥の文化を引く間でもなく、日本において禁じている主体は「世間」です。人を殺すというのはともかく、特にインセストをタブーとみなす私たちの価値観は、「普通はそんなことしないから」という、どうにも曖昧な「普通」という概念に寄っています。この「普通」の基準は、言うまでもなく「世間」です。周りがみんなやってることが普通で、やってないことは普通じゃないのです。で、普通じゃないことをやると「世間」から制裁を食らうワケです。だからこそインセストのタブーを犯してしまったカップルは制裁を恐れ(もしくは制裁を受けた結果)心中せねばならなかった。インセストだけではなく、人を殺すこともそうです。例えば母親を殺してしまった。古来の物語では主人公は「世間」によって内在化された自らの道徳観によって悩み苦しみ、考え抜いた末に自分も死を選んだり、法的制裁に身を委ねたりしたことでしょう。その課程は否応なしに悲劇的なものだったはずです。ところが!最近の禁断とされるモチーフを扱った小説やマンガを読んでいると、全然悲劇性を感じない。遺伝的にどうだとか、社会的にどうだとか、そんなものをすっとばして、「いいじゃないの、別に妹とデキちゃっても」。いや、もはや「いいじゃないの」という開き直りすらないかもしれません。自分たちを取り巻いてる社会なんて端から描写されませんから。ひたすら二人の世界、中島梓言うところのディスコミュニケーション・ファンタジー。このような禁断の無害化が文化の一翼で起こりつつあるのはいったいなぜか。私はやはり、宮台真司も指摘した通り、「世間」というものが消滅しつつあることを反映しているような気がするのです。制裁を加えるべき「世間」が、物語の作り手や受け手にとってもはや手応えのあるものでなくなってきている。したがって「世間」にのっとって形成された「道徳」も効力を失い、「いいじゃないの、双子だろうが男同士だろうが本人たちが幸せならば」となってしまうのではないかと。さて、ようやく結論です。最近の小説やマンガから禁断の帯びる悲劇性が欠落しているのは、実社会において禁断を悲劇たらしめる「世間」自体が崩壊しつつあることの表れである。う〜ん、完璧なまでの論文的レトリック。

49.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.12.22

少女古写真館。という本がちくま学芸文庫の新刊に並んでおります。文字通り、アンティークな少女の写真が満載の一冊です。上野千鶴子の『<私>探しゲーム』を探しに行ったらすぐ横に平積みになってて、気づいたら上野千鶴子と一緒にレジに出してました。2冊で2400円也。文庫のくせに!ちくま学芸文庫って何であんなに高いんでしょう。「上野千鶴子と少女写真をお買いあげ…人はかくのごとき矛盾を抱えて生きてゆくのだなあ」としみじみしつつ、さっそく少女写真の方から読んで(というか見て)みました。う〜む、なかなか面白い。特に添付されてる文章が少女幻想かく極まれり!って感じで。渋澤龍彦の末裔がここにいた。中でも気になったのが「笑っている少女写真には惹かれない」という主旨の文章です。なるほど。AVとかもそうですよね?にっこり笑ってるパッケージのビデオって少ないような気がします。ちょっと口を開いて、虚ろな目をして、じっとこっちを見てる。

アニメでも空虚な美少女は人気があって(綾波レイとか星野ルリとか)、実際フィギュアでもよく見かけます。まんまAV的表情な綾波レイ。私はアスカ(綾波と同じくエヴァンゲリオンパイロットな美少女)派なので、持ってるのはアスカのフィギュアばかりですが、売れるのはやはり綾波みたいですね。アスカはキャラ的に空虚が似合わないので。ここでまあ、それこそ上野千鶴子とかその辺の人なら一論かましてくれると思います。「男性の欲望を照射しやすい形に女性が表現されている」みたいな感じかな。フェミニズムには明るくないのでよく分かりませんが、概ね外れてはいないでしょう。しかしここで一つ注意しておきたいのは、空虚な美少女が好きな「女性」も少なくないということです。その最たる例がビスクドール。今流行りのスーパードルフィー(赤いアイラインが絶妙すぎる少女人形)もそうですね。先の綾波レイだって、私はたまたまアスカ派だけど、綾波派な女の子はみんな「綾波の無表情なところが好き」と言いますし。

空虚な美少女はしばしばある種の女性をも惹きつけうるということです。これはいったいどういうことなんでしょう。ノンケの女の人が「欲望を照射してる」とは考えにくいですよね。失ってしまった少女時代を懐かしんでいる?それならピンクハウスは?フリフリにひらひら、かわいいカルチャーの集大成。あれこそ少女趣味の極みではありませんか。もちろんピンハに惹かれる女の人もいます。実際ピンハのショップにいると、ちょうど80年代かわいいカルチャー期に少女だったとおぼしきお姉さん(?)が入れ替わり立ち替わりやってきます。しかし不思議なことに、ドルフィーにハマってる人もその年代の人が多いんですよね。これまたドールショップにいると分かります。「陸奥A子ワールド」と「空虚な美少女」。確かにドルフィーにもドレス着てる人形が多いですが(私は和服の子が好きだけど)、ピンクハウスのごとき明るさはない。何しろ人形自体がここではないどこかを見てるような目をしてますからね。どうなんでしょう、この二つは相反する消費欲から発生してるんでしょうか。それとも根っこでは同じなんでしょうか。とか何とか、たくさんの少女写真を見ながらそんなことを考えました。結論は出てません。すいません、オチないです…。

ところで『少年古写真館』は出ないのかしら。いや、この際古くなくても構わない!ゲイ雑誌の『夢少年』なんかはけっこうよかったけど、やはりワタクシは女の子なので微妙に視点が違うのです。ウィーン少年合唱団の写真集は男性向けなのか女性向けなのか定かでなくて、どうにも視点が曖昧。これはこれで据わりが悪い。ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』でタージオ役やってたビヨルン・アンドレセンの写真集も見た記憶が。でもこれも違うのよ〜。男性向け女性向け云々の前に、私の中でタージオはもっと若いのよ〜。でもセーラー服はGOOD!(何を言ってる)

面白いフェミニズム運動関連の本を読んだので、こないだ先生がおっしゃってた「小学生に性教育は必要なのか?」というトピックと絡めてその本の感想を書こうと思ってたのに。つい少女写真トークがすぎてしまいました。また次回ということで。

48.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.12.15

えっと、女の子が人形遊びをする心理の話で、先生は「母親として娘のリカちゃんをかわいがっているのではないか」という見解でしたよね。その根拠は「実際に母親は娘を着せ替え人形にしているから」ということでした。で、それに対して私が「それは違う」と言った所まで話が進んでいました。まず小さい子が母親として娘のリカちゃんをかわいがっているということ自体、私の実感として納得しかねるのです。リカちゃんは言うなれば私の分身です。私は私のままでリカちゃんに感情移入するわけです。だからママの人形が必要だし、友達やパパや兄弟やボーイフレンドの人形も必要なのです。人形となった私のマイワールドを確立するために。そして母親が娘を着せ替え人形にする現象が示すのは、かつて人形相手にやっていたことが自分の子供という形でリアライズしたのではなく、単に娘を人形と見なしていることの表れではないかというのが私の考えです。自分の思い通りになるお人形。生きて動くお人形。ピンクハウスとかインゲボルグとか着せて、おリボンつけて、エナメルの靴はかせて、まあカワイイと満足する。ちょっとその辺歩いてみてとカメラなんか回しちゃったり。言ってみれば生きている人間を(人形という)モノと見なすわけです。しかも今度のお人形は、正真正銘の私の分身ですからね。ついでに自分もカワイイ格好をしてみたりして、娘と一緒に自分もお人形になって、それが楽しい。

例えばこないだHPにもアップされてたChild Abuse。私はあまりにも深刻なこの問題についてあれこれ語るほどの知識は持ち合わせていませんが、虐待する側からの手記などを読んでいると、「子供が思う通りにならないからついカッとして殴ってしまう」的な描写をよく目にします。このことは子供を「お人形」としてとらえているお母さんの、もう一つのパターンのように思えるのです。何だかこう書くと「子供を着飾らせるお母さん」に私が否定的な意見を持っているように思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。むしろそういう愛の形があってもいいんじゃないの、と。子供の人権とか子供の意志とか、そういうものを尊重するのも一つの愛なら、子供をお人形みたいに着飾らせて楽しむのも愛。まぎれもないお母さんから子供への愛情。要は子供本人が綺麗な服を着せられて幸せならそれでいいのですよ。「あなたの意志で決めなさい」という親に反発心を抱く子供だっているだろうし。もっと構ってよ、もっと遊んでよ、とか。だとしたら殴るのも愛である場合とかあるのかな…。でも痛い思いをして喜ぶ子供なんていないから、それはやっぱり間違えた愛の形なのだと、信じたい。本当に子供を育てるのって難しいですね。私、昼間っから百貨店でお買い物してる暇そうなオバチャンとか見て、時々尊敬の念をおぼえます。子供一人立派に育てあげただけでもアンタはえらいよ!表彰モンだよ!と。その苦労を想像すると、はた迷惑にベチャクチャしゃべりながら買い物するぐらい許せてしまう。

ところで!あの虐待についてのメールを書いたのって、まだ一回生の方なんですね。よく考えているなあと感心しました。文章も明瞭で分かりやすかったし、自分の意見を人に伝えようとする意志を感じました。あたしゃ18の頃なんて、ホントにもうどーしょーもなくアホだったさ…今もけっこうアホだけど…。

47.SYさん(2001年度社会学専攻1回生・01生) 2001.12.6

紫陽花は、私にはとても重いテーマに思えて、どう感想を言ったらいいのか良く分からないんですけど、情熱をかけるってどういう事なんだろうって今考えています。紫陽花の登場人物は、それが正しかったのか、正しくなかったのかは別にして、学生運動にひたすら情熱を注いでいたんだと思うんですけど、今の私は、ただ毎日をなんとなく過ごしているだけです。部活もそれなりに楽しいし、頑張ってはいるけれど、ただひたすらそれに情熱を注いでいるのかと言われると、どうなのかなぁと疑問に思います。情熱を注ぐものがないという危機感もありません。隆夫は情熱を注ぐ方向を間違えてしまったのだけど、ひたすら自分の情熱を追い求めて生きたんだと私は思います。一人で急いで走ってしまって、大きな紫陽花にはなれずに、結局は先に落ちた一つの花びらだったかもしれないけれど、それは彼にとっては幸せな事で(残された人たちの心に精一杯生きたのか、という疑問を残してしまったけど)隆夫は隆夫なりに彼の人生をきっと精一杯生きたんじゃないかと…願います。今の大学生くらいの年代の人たちには、私みたいに、自分のやりたい事や情熱を注ぐものが見付からないっていう人が、結構いると思います。そんな自分に、順一が最後に言った『精一杯生きたのか?』っていう言葉が染みました。なんだか自分に問掛けられているような、そんな気分になりました。最近、ただでさえ本をあまり読まなくなっていたし、うまく感想が言えないんですけど、私は紫陽花を読んでこんなふうに感じました。次回作品も楽しみにしています。

46.SYさん(2001年度社会学専攻1回生・01生) 2001.12.2

こんばんは。社会学専攻1回基礎研究3組のSYです。先生のHPを拝見していたら、私たちの発表(11/29 1限)について意見があったのでついついメールを打っている次第です。それにしてもやっと終わりました!とにかく長かった!私たち4班は、多分ですが、他の班よりも早くから準備をし、参考文献を読みあさり、意見をお互いに交換し合うことができたと思います。できるだけたくさん集まり、話し合い、自分の割り当てでは無い所もなるだけ勉強したつもりです。

それよりも、虐待の話です。KMさんのメールにあったようなこと、実際私たちも考えました。アメリカは虐待についてナーバスになりすぎてはいないかと。しかし、それ以上に日本は無頓着すぎるのです。S君は、「メディアが、私たちに虐待というものの存在を示してくれたのだし、メディアは解決を妨げる要因ではないのではないか」と意見をしてくれましたが、やっぱり私は違うと思います。こんな研究をするまで私は、虐待のことは知っていても、児童相談所がどこにあるのか、どういう手続きで子どもは保護されるのかなんて全く知らなかったんですから。それに、つい先日、19歳の父親が子どもを布団で窒息死させてしまう事件がありましたよね。慣れっこになってしまっているのかわかりませんが、報道されたのはほんの数秒でした。ただ、事実を報道しただけです。虐待を発見した時、もし自分が虐待しているのではないかと感じた時、どこにどうやって言えばいいのかわかっている人がどれだけいるでしょう?どうしてメディアはそれを私たちに教えてくれないのかさっぱりわかりません。そして、私たちはレジュメの最後に、近畿地方の児童相談所の情報を掲載しましたが、それをみんな見てくれたのでしょうか?携帯のメモリーに電話番号を登録、または手帳にメモしてくれた人が何人いるのでしょうか?きっとそういう人がいたとしてもごくわずかでしょう。そこが問題です。日本の無頓着さがここに縮図となっているような気がします。

先生が発表の私たちに質問なさったことですが、私なりに考えました。虐待をすぐに通報し、されるかもしれないという社会が本当に望ましいのか?と。私は、望ましいとは言えません。腫れ物に触るように子どもをしつけ、余計に育児が負担となり、親は追い詰められてしまいそうです。また、そんな風だと、今必死で叫ばれている家庭での教育は、実際には不可能になりそうな予感がします。しかし、弱者をないがしろにする社会はそれ以上に望ましいとは言えません。関わり合いになると面倒だから、見なかったことにしよう。そんな事なかれ主義が蔓延する社会で、私は生きたいとは思いません。だからこそ、そこで法の出番です。誤報による児童相談所の調査を受けても、後でサポートしてくれる制度などがきちんと整備されていれば、そのような心配は減るでしょう。あまり詳しいことはわかりませんが、日本の法律が子どもだけでなく、親を守るのにもまだまだ未熟であるのは間違いないと思います。でも、結局どんな社会を目指せばいいのかは、まだつかめません。結果をだすには私は無知すぎると思います。

発表で伝えたいことがまだまだたくさんありました。いろんなことを私たちは考えました。それをすべて伝えるには、時間とレジュメがあまりにも足りませんでした。せめて、ひとり5枚くらいまで許可してもらいたいところです(笑)グループ発表楽しかったです。難しいテーマでしたが、それゆえに考えさせられることが沢山ありました。そして、KMさんのように、虐待のことを考えてくれた人がいたことがなにより嬉しいです。

45.KMさん(2001年度社会学専攻1回生・01生) 2001.11.29

今日の基礎研究の4班の発表後、授業の終わりに先生が言われたことも含め、私なりに考えたことがあります。

まず、私は虐待だと思ったらすぐに児童相談所や、警察などの機関に通報し、子供の安全を確保することは必要だと思うけれど、「果たしてそれで住みよい社会になるのか」という先生の意見にも考えさせられました。

以前本で読んだのですが、アメリカのある地域では周囲が子供の虐待に過剰に反応しすぎて、父親が転んだ自分の娘を抱き起こしたのを目撃した近所の人が性的虐待だと判断して諸機関に通報したという事例があるそうです。始終近所から監視されているような環境ではその人にとっては住みよい社会だとは言えないと思います。ただ単に親子のスキンシップをとっている場合でも見る人によってはそれが虐待と分類される場合もあるでしょうから、一目瞭然の虐待でない限り素人(一般人)が虐待と判断して通報することは難しいと思います。今日の発表にもありましたが、通告制度の見直しが必要だとも思いました。

虐待かどうかの判断が難しいという点ではスキンシップ以外にしつけの問題があると思います。虐待を英語に訳すとChild abuseとなり、abuseとは乱用のことだそうです。自分の子供に期待をする親の心理は当然のことだと思いますが、それが自分(親)の欲求を満たすための暴力になった時にしつけが虐待化するのではないかと思いました。

また、周りに情報が溢れていることも虐待としつけに大きく関連していると思います。今日の発表ではメディアが子供の育成のうえで不安を煽るような報道をすることが虐待の解決を妨げる要因になるとあったけど、私はそういった類の報道に限らず、育児雑誌や育児番組も親の不安を煽るのに加担しているのではないかと思いました。育児雑誌には「○歳(○ヶ月)でこんな動作ができるようになり・・・」書いてありますが、これはあくまで平均だと思います。それを読んだ親が自分の子供は雑誌や育児書に書いてある基準より遅れていると不安になり、それを子供に無理強いさせようとし、できない子供に腹を立てるなんてことも考えられると思います。虐待の原因やきっかけは人それぞれでしょうから、一概には言えませんが、自分の生活環境と育児不安が大きな要因ではないかと思いました。

また、Kさんも言っていましたが、現代の家族形態も虐待に関係しているだろうし、以前N先生の社会学で日本に企業は未だに専業主婦を妻にする男性を想定して会社の勤務時間などを決定しているとあり、母親一人で育児をしなきゃならない状況が母親のストレスを招き、現在実の母親が虐待するケースが一番多いというデータが出てきてしまうのだと思います。

今日の発表は非常に興味深かったので、授業後色々考えてみたのですが、もっと考えを早くまとめて授業中に発言できれば良かったと思っています。また、授業の終わりの方で先生が問題提起した父親による性的虐待以外の虐待について考えてみたのですが、分からなかったので、本などで調べてみようと思いました。

感想のようなことになってしまいましたが、私が言うのもなんなのですが、今日の発表もレジュメもすごかったので、私も考えた事を文章にしておこうと思い、この場をお借りしました。 

<片桐より>

しっかりした意見を送ってくれてありがとう。授業で言い足りなかったことをそのままにせずに、こうして文章化しておくことはとてもよい勉強になると思います。他の人もぜひどうぞ。

44.IYさん(2001年度社会学専攻1回生・01生) 2001.11.28

<紫陽花>の感想を遅らせていただきます。時代背景が‘安保’の頃ということで、東大の安田講堂の話も聞いたことがある程度しか知識がない為、イメージがつかみにくくて ちょっとストーリーに入りにくかったです。(これは知識がないのが問題なんですけれど…)だけど、デモなど学生運動が当時の学生達にはとても身近なことで 日常の生活や人生までも変えてしまうくらいに関わり合いが濃かった事が分かりました。

まず、読んでみて特に強く感じたのが、人の「強さ」と「もろさ」です。何か目標を掲げて それに突き進んでいく時の情熱や信念の熱さ。そして信じてしまうが為に失っていく理性。つまりはもろさ。この相反する二つの局面に対して、読み終わった後 執着している自分がいました。ラストのアキコと順一のせりふが、何か今の自分を映し出されている様な気がしてとても考えさせられてしまっています。(今も何だかんだ思うんですけど、カタチにならないです…。)

とてもあやふやな感想ですみません。難しかったですが、キレイなストーリーだと思いました。  

43.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.11.19

説明不足でした。まずオタクの第一定義として「虚構が大好き」というのがあるんです。もっといえば虚構と現実が等価値であるということ。決して「混同」しているわけではありませんので、あしからず。で、鉄道に戻ると、いくら何でも自分の理想の鉄道の絵を描いてみたり、他人の描いた鉄道の絵を所有することで満足する鉄道マニアはいないでしょうという話になります。そもそも鉄道は実在しますから、鉄道好き=鉄道オタクにはならない。ついでに言うと。岡田斗司夫はオタクの定義として「高度のレファレンス機能を持つ」という項をあげています。つまりマンガと社会現象を結びつけてみたり(今私がやってることですね)、アニメとゲームとポストモダンを結びつけてみたり、そういうことができる人種であると。ホントにオタクはみんなそんな小難しいこと考えてるのか、という疑問はあるものの(「リーダー」はやるだろうが)、まあ確かにアニメが好きな奴はマンガも好きで、小説も好きで、ゲームも好きで、特撮も好きで、映画も好きで…という実感があるので、少なくとも近縁的なもの同士なら結びつけて一論かますぐらいのことはできるんじゃないでしょうか。というかオタクは総じて「アニメ美少女に萌えてちゃってるオレ」「ホモにハマっちゃってるアタシ」という風にある種のニヒリズムでもって自分を相対化してる人種なので、もっとも絶対的であるべき自分自身でさえも相対評価してしまえる以上、他のものが相対評価できないはずがない。そんな気がします。ちなみに鉄道マニアと飛行機マニアは重複しないらしいですよ。同じ鉄道マニアでも模型マニア・写真マニア・時刻表マニアなどと分化していて、それらは全く別種のものなんだそうな。う〜ん、マニアの世界…。

42.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.11.17<片桐返信付>

「オタクを救ったような、さらに奈落の底に突き落としたような。」

最近プラモデルにハマってます。ヒマさえあれば…って、ヒマがなくても作ってるんですが、それにしてもなにゆえ私はプラモを作るのか。色々考えたんですが、たぶん私にとってある種の箱庭療法なのだろうという結論に達しました。それだけでは何なのかさっぱり分からないパーツを一つ一つ切り取って、細々と処理をして、ぱちんとはめこんで、そんな作業を繰り返すうちにいつの間にか足になってたりする。そうやって努力した分が形になって返ってくるのが楽しいんだと思うのです。箱庭療法ってそうですよね。自分の理想の世界を一つ一つ作っていく、その課程で癒されていくという。まさにそれ。でも常々疑問だったんですが、この箱庭療法って女にも効くんでしょうか。もしかして男の患者の方が効果が高いんじゃなかろうか。

<箱庭療法ってそういうのだっけ?どういう箱庭を作ったかで、その人の精神状態とかを解釈するっていうのじゃないの?>

私がこう思うに至った元ネタは斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』という本なんですが、この本の中で彼はオタクとマニアの違いとして、オタクは虚構をさらに虚構化することで「所有した」という実感を抱くのに対し、マニアはあくまで現実に存在するものに所有欲を抱き、なおかつ対象を現物で手に入れるのにこだわることだと述べています。たとえば昆虫標本を持っていない昆虫マニアはいないが、セル画を持っていないアニメオタクはごまんといる。う〜む、なるほど。いちオタクとして納得だよ斎藤環!岡田斗司夫より数倍分かりやすいよ斎藤環!ちなみにオタクがなぜ虚構の虚構化でもって「所有した」と感じるのか、その答えは大塚英志の『物語消費論』に詳しいと勝手に思ってます。

<確かにこの比較だとなるほどと思わされるけれど、鉄道マニアとかはどなるのかな?汽車を所有している鉄道マニアは少ないでしょう。もちろん、行き先表示板やその他関連するものを所有しているマニアは少なくないでしょうが、持っていないマニアも多いでしょう。ということは、鉄道マニアは基本的に「おたく」なのかな?>

で、ここからが本題。この本はタイトルでも分かるとおり「なにゆえある種の男性はアニメ美少女に萌える(「萌える」は性的欲望を感じると解釈してください)ことができるのか」という問いに答えたものなのですが、やはり性差のせいか女オタクにはいまいち当てはまらない部分もあるんですよね。まず男オタクは美少女フィギュアに萌えることができる。ええと、つまり、美少女の人形でナニできるというわけですね。しかし女オタクにはそれは不可能。女オタクの「萌え」は男オタクのそれのように性的欲望に直結しているわけではな
くて、「○○くんと△△くんが目配せを!のみならずさり気にボディタッチ!もしやあの二人はデキているのかしらきっとそうに違いないわキャッ!」みたいなモンなのです。あくまで彼単体ではどーってことなくて、彼と彼の関係性に萌えるわけです。女オタクは女でありながらホモがだぁいすきで、とりあえず男二人が親密ならばこれすなわちホモに見えてしまうという呪われた人種なのですが、そのホモが性的欲望に直結していないというのが面白い。男も女も虚構の虚構化=所有という図式は共通だけど、中身が違う。男オタクの場合「男なオレ」はそのままなんですね。男である自身の肉体でもってアニメ美少女に萌える。対象が現物か人形かの違いはあるものの、まあ言ってみれば乙葉が綾波レイに変わっただけ。分かりやすいと言えば分かりやすい。でも女はややこしいですよ、いいですか?女が萌える場合、まず女である自分の肉体をいったん捨て、ディープな関係性を見せつけてくれる彼二人をそれぞれ攻(男役)と受(女役)に任意に設定し、次に自分がはたして攻受どちらに感情移入するのかを選択し、それでやっと「萌えちゃった」状態に突入すると。うわ〜、ややこしい〜。つまり攻受どちらを選択したとしても女として欲情することはできないから、女の「萌え」は男のそれとは別物になるわけです。でも最近は彼の片方がいかにも女の子女の子した存在に描かれ(何しろ裸エプロンで「ご飯?お風呂?それともボク?」とか言ったりする)、さらにもう片方の彼は「女の目から見て」気が狂いそうなほどカッコイイ存在に描かれてたりするので、女も男性的な意味で萌えることが可能になりつつありますが。攻受設定が提供者側からあまりにもあからさまに仕掛けられているせいで、受に女として感情移入することができるようになったのです。こうなってくるとホモだろうが何だろうが単なるポルノ。そんな現状を我々昔気質の女オタクは苦々しく思っているものの、まあ流行モノですからどーしょーもないですね。

<いろいろ分析しているけれど、結局男の性の方が観念的で、女の性の方が現実的という要素も考慮に入れないといけないんじゃないかな?アニメおたくではなくとも、ポルノ小説ならほとんどの男は性的興奮を得ますが、女性の場合はどうなのでしょうか?現実に女性向けに書かれたポルノ小説が少ないという事実は、想像で性を楽しむという行為を女性が男性ほどしていないということを示しているのではないでしょうか。(フェミニストなら、男性たちによって、女の性は抑圧されたきたからそうなっているのだと主張するのでしょうが……。)>

はて、何の話をしていたのだろう。ああ、プラモ!箱庭療法!ええと、上の話を整理すると、「男=キャラ萌え、女=関係性萌え」という図式になると思います。で、私が言いたいのは、この図式がある程度までは一般人にも当てはまるんじゃないかということなのです。とどのつまりは。小さい頃、戦闘機やガンダムのプラモを作ったことのない男の子なんて、その方が珍しいと思います。誰しも一度は通る道。少年だった彼らは虚構あるいはほとんど虚構に近いモノを自分に一番身近になる形で虚構化し、それを所有することでまるでその虚構そのものを手に入れたがごとき満足感を得ていたのではないでしょうか。男オタクも基本的には同じ。ただ年食ってる分セクシャリティの問題がからんでくるけど(逆に言えばそれのみが男オタクが男オタクたる所以とも言える)。だからきっと箱庭療法も効くと思うのです。自分の夢想する理想の世界(虚構)をミニチュアという形で虚構化し、癒されることが可能なんじゃないかと。でも女はどうでしょう。女の子って、普通プラモは作りませんよね。モデル化されているのがロボットとか男の子の好きそうなものばかりだからといえばそれまでですが、でもその代わりに女の子が遊ぶのはリカちゃん人形とか着せ替えとか、そういうものですよね。でもリカちゃんは単体では遊べません。リカちゃんとの関係性が設定されているジェフだのミキマキだの色んな人形が必要です。自分の夢想する人形たちの世界を確固たるものにするための「お家」もあるにはあったけど、リカちゃんハウス買うぐらいならみんな他の人形を買っていく。着せ替えなんてその最たるものと言えるのではないでしょうか。だって着せ替えって、かわいい女の子の人形が2つついてて、洋服がたくさんあって、それだけだもの。友達とワリカンで買って、お互い好きな人形を選んで、畳の上でも平気で「これから舞踏会へ行くの」とかやっちゃう。女の子の遊びって人間中心、もっと言えば人間同士の関係性中心だと思いません?だからミニチュアで箱庭作っても、そこに感情交換が見られない限り、結局楽しみを見いだせないような気がするのです。というか醒める。きっと女は醒める。何やってんだよアタシ、みたいな。あら、じゃあプラモ作りにハマってる私は何者なんでしょう。一応女なのに。しかも昔気質のオタクなのに。ううむ、私の中の男性的な部分がプラモに惹かれているのでしょうか。男の私と女の私なんて、まるでリボンの騎士のよう。あるいはオスカル。彼女は愛するフェルゼンの前に男として存在するしかなかったことに苦悩しながらも、貴婦人たちにモテモテな自分もきっと嫌いじゃなかったはずと思う今日この頃(何かあったのか、私)。

<途中の推論には納得いかない点もありますが、この結論は同意できます。確かに、女の子遊びって、関係性重視ですね。それにしても、Sさんは、知識力、思考力、文章力、いずれもかなりのレベルですね。Sさんみたいな大学生ばかりなら、「今時の大学生は……」なんて批判も消えてなくなるでしょう。そのうち、Sさんの独立コーナーでも作らないといけなくなるかな。>