ゼミ生以外の方々からの声(1)

HPを開いていると、ゼミ生以外の方々からも時々すてきなメールや興味深いメールが届きます。せっかくですので紹介させてもらいます。

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42.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.11.4

秋の夜長なのです。私は春夏秋冬かかわらず読んでるのであんまり関係ない…なんてことはなく、いわゆる名作文学系のラインナップが復刊されたり新装丁されたりするので、誰が言い出したか知らないがありがたいことよ「読書の秋」。いつも私の心にビビビッとくる海外文学を出してくれている白水社も絶版本を復刊してるらしいし、そう!面白い本を発見してしまったんですよ。明治時代から現代までの名作101作をマンガによるダイジェストでお手軽に追ってしまおうという本。「ケッ!」と思う人も多いと思うけど、私は根がサブカルな人間なので、こういうナメた企画(ほめてる)には概ね好意的です。買うほどではないが。

そういえば先生、こないだの授業で三浦綾子『母』の紹介しておられましたよね。私もあの本読んだところだったので一人でコーフン。私は元々宮尾登美子とか有吉佐和子とか、まあ何というかちょっぴりインテリなマダムが好きそうな本が好きなので、この本も面白く読めました。文章的にも読みやすいので、活字に慣れてない人でもサクサク読めるんじゃないかな。今は同じく三浦綾子の『泥流地帯』を読んでます。というか『続泥流地帯』。『泥流地帯』があんまりと言えばあんまりな所で終わってたので、これは絶対続編があるに違いないと信じて探してみたら、近所の図書館にひっそり置いてました。灯台もと暗し…。

その他読書ネタ二編。

(1)諸星大二郎『夢みる機械』を読む。

ブラック!ブラックだ!筒井康隆から笑いを取ったような感じだ!今まで諸星大二郎=妖怪ハンターシリーズだったので、勝手に「民俗学の人」というイメージを持っていたのですが、SFも描けるのか。でも妖怪ハンターシリーズ(民俗学者が出会った不思議な出来事をフィールドノートという形でまとめたマンガです)も今思えば妙にSFくさかったもんな。ちなみに諸星大二郎が「不思議な出来事」を不思議だろう!スゲエだろう!と完全に「あっち側」の論理で描いてみせたのに対して、北森鴻『凶笑面』(これは小説ですが)では同じような出来事を「こっち側」の論理で解体してみせてくれます。『凶笑面』、オススメです。北森鴻の著作の中では一番好き。

(2)篠原一『アウトトゥランチ』を読む。

篠原一は彼女が高校在学中に発表されたデビュー作『壊音』を読んだ時から「この人はオタクに違いない」と思っていたのですが、最近になって私が愛読しているオタク雑誌によく出没するようになり、「やっぱり…」と苦笑い。最近の若き俊英というか、「弱冠○○歳にして」というオビのつく人というのは、なぜか皆一様にオタクくさいんですよね。まあそのネタは置いておくとして、この『アウトトゥランチ』、ただでさえ予定調和に縛られてるっぽい篠原一の作品の中でも一番「お約束」な作品のような気がしました。安心して読めるというか、逸脱をモチーフにしてるはずなのに全然はみ出してなくて…う〜ん、うまく言葉が出てこない。まあぶっちゃけて言うと。これはおかんを殴り殺して冷蔵庫につめちゃったりする話なんですが、殴り殺す理由も冷蔵庫づめする理由もそれに登場人物たちが惹かれる理由も、どれ一つとして目新しいものがないのです。いつかどこかで見たこと読んだことがあるような。これは彼女がかなりディープなオタクであることと関係していると思うのですが…って、せっかく置いておいたネタに逆戻り。これがホントの予定調和。ほら、私もオタクですから。

ずっとオタクでいたい。オタクつながりで。別段ずっと画面の中のアニメキャラに向かって「キャッ!ステキ!」と手を振る人間でいたいという意味ではなく、物事を相対的に見る目を失わないでいたいという意味です。私、オタクの基本は批判精神だと思ってるので。今まさに卒論が産みの苦しみ(にしてもえらく長い産みやな←セルフツッコミ)なのですが、苦しみながらもこれから先も苦しんでいたいなあ、と思うのです。たぶんもう論文なんて書くことはないだろうし、自分を取り巻いている状況や自分自身についてあんまり考えずにぼーんやり生きていくことも可能なんでしょうが、そういうのはイヤなのです。

これまでも決してぼーんやり生きてきたわけじゃないけど、曖昧模糊としたままで頭の中に渦巻いてた感情をある程度言語化できるようになったのは社会学のおかげなので、その点で社会学部に来てよかったと思います。ああ、もっと真面目にやってこればよかった。18の頃に戻りたい。とか何とか言う前に卒論終えなきゃいけませんね。それでは失礼します〜(取り乱し気味)。

<片桐返信>

相変わらず、迫力のある読書トークですね。また、今回の「オタク論」は、深いですねえ。こういう風に「オタク」を見ている人って、世の中の0.001%ぐらいだろうなあ。こうした言説が広まれば、「自分はオタクかもしれない」とか「オタクと呼ばれたくない」と悩んでいる人が救われるだろうなあ。「STはオタクを救う!」なんてキャッチフレーズはどう?要らないか。

41.NEさん(2001年度マスコミ学専攻4回生・98生) 2001.10.21

「戻っておいでよ、4回生」を拝読して

以前にもメールをお出し致しました、マスコミ専攻4回のNEです。私も、週一回のゼミの日しか大学へ行かない、「戻ってこない」4回生の一人です。他の日は何をしているかというと、ご指摘の通り、バイトその他です。今年の6月から、以前から関わりのあった、海外に医療協力をしているNGOの事務アルバイトをやっていまして、平日の昼間は、週3回それで埋まっているのです。仕事内容は、ほとんどがごく簡単な事務作業で、やりがいがあるのかと言われたら正直分かりません。でも、産休の事務職員の穴埋めという点や、大きな仕事を影ながら支える、地味ではあるけれでも不可欠な仕事という点で、やりがいもあるかなと思っております。

貴重な大学4年の時間をこんなことに捧げていいのかなとも思ったりしますが、無駄なことなど何一つないというのが私の信念です。目の前に来た波があって、乗ろうと思うなら乗る。そうすれば成るように成っていくと思うし、これが与えられた道なんだと思っています。ちょっと話がそれてるかもしれませんが……

それに、3年の時までに、出たい講義には出たかな、という感も結構あります。ただ、理論社会学は出たことがなく残念です。他にもまだまだ見逃している魅力的な講義があるのかもしれません。都合をつけて、どうしても気になる講義には出席していきたいと思います。私は、友達に会えなくても構わないです。それでは失礼致します。

<片桐返信>

久しぶりのメールをありがとう。よい仕事をなさっているようですね。本人がやりがいのあることをやっているという自覚があるなら、いいと思います。「つらつら通信」のあの文章は、充実感を持たずに過ごしている人への呼びかけです。でも、出たい講義にはすべて出たと思っているようですが、きっと聞き逃している魅力的な講義はまだまだあると思いますよ。いろいろと忙しいでしょうが、どうですか、社会学部のすべての専任教員の授業を1回は味わってみては?社会学部の専任教員は50数名いますから、たぶんこれを達成した人はいないんじゃないかと思います。できたら、結構自慢になると思いますよ。(「変わった人」と思われるのが、オチかな?)

40.IEさん(2001年度マスコミ学専攻4回生・98生) 2001.10.12

私はOゼミのIEというものです。私はマスコミ専攻だったので、いわゆる「社会学」を学んだわけではなかったので勉強方などについてもわからない点が多く、そういう時に社会学専攻の友人(とくに片桐ゼミ生)に質問したりしていました。先生とは直接お話したことはありませんが、先生の書かれた文章などを拝見していますと、「いま、ここ、わたし」を相対化するということが実際にできてしまうし、単純にものすごく面白いです。「楽しい」とか「面白い」という言い方は軽く聞こえてしまうかもしれませんが、私はこういう気持ちは何に接するときも大切にしていきたい、と最近やっと思うようになりました。ずっとこの先も社会学と接して行きたいと思います。また何か気づいた点、質問等あればメールを送らせていただきたいと思います。それでは失礼します。

39.KK君(1997年社会学部卒業・93生) 2001.10.5

片桐新自先生、はじめまして。私は1997年3月に関西大学社会学部社会学専攻(社93生)を卒業した者です。ゼミは他の先生に師事したので、先生との繋がりといえば、3年次に履修した「理論社会学」ということになります。振り返るに、先生の講義の感想といえば、「とにかく1時間半興味深く聴き入ることができた」、「前説が楽しかった」、「その前説と自分の思いはどうかと問い直してみる」、それを繰り返すことのできた1年間であったように思います。

現在、私はある県で高校の公民科(政治・経済、倫理、現代社会)の教師をしています。2年生の担任を現在、務めています。たまたま、生徒の進路相談で、関西大学のHPを開いてみたのが、先日。生徒の相談の後、「久しぶりやんけ・・・」と思いながら、つついてみると片桐先生のHPに繋がった次第です。

最初の2年間の講師生活を経て、現在の学校に勤めて3年目です。「授業が命」をモットーにして、日々、授業を中心とした生活を送っています。生徒相手の仕事は充実しています。授業・クラス経営・進学補習・クラブ活動の繰り返しで、日々の忙しさを口実に、最近、「ふとこれでいいのだろうか?」と日々の活動を見つめ直しているこの頃です。当然、1年間のシラバスに従って授業を展開するのだけど、1年目のがむしゃらな教材研究が、最近は確実に、これまでの「貯金」に任せて授業をしている自分が存在する。自分の力量は、客観的に見たときに果たして通用する力なのだろうか?これまでは若さに任せて勢いでやってきたけれど、これからの教員生活を送っていくなかで、本当の自分のやり方でいいのだろうか?「自分は自分」と思いながらも、でも「独り善がり」は許されない。と感じ、ふと自分を見つめ直している日が今年度は多いのです。そのような時に、先生のHPに辿り着くことができ、時間を忘れて色んなページを開いてみました。その間は、27歳の自分ではなく、大学時代の自分に戻れたような気がしました。リフレッシュができたような気がします。ありがとうございました。

このアドレスを自分の「お気に入り」に入れて、ちょくちょくお邪魔したいと思います。よろしくお願いします。

38.YTさん(2001年度関西大学2部社会学部・1部の理論社会学聴講生) 2001.9.12

先生 こんにちは。大変なことが起こってしまいましたね。昨日今日とテレビに釘付けでした。なんとなく(私の)体調も悪くなってしまったような・・。

あそこまでひどいテロのターゲットにされるというのは、今までのアメリカの傲慢とか・・(まず京都議定書の採択拒否が頭に浮かびますが)アメリカがめざしていた、つくろうとする社会の方向が間違っていたことがあきらかになった、ともいえるように思います。多くの人々があのような形で命の危険にさらされてしまう国家が間違っていない、ということはできないと思えます。

大統領は、自由とか、民主主義とかを口にしますが、私は見当違いのことを言っているように思えます。テロリストたちは、自由とか、民主主義を奪おうとしておこなったわけではなく、(暴力行為はおいておいて)この一連の事件は、何かアメリカの欠陥を示唆していると思います。

テレビではアメリカの帝国主義に対する報復、といった言われ方もされていました。昨日今日テレビを見ていた中では、これが私の感じる印象に一番近いのではないかと思いました。

日本は「アメリカの言うがまま」であるという批判もずっと以前からあり、私自身歯痒く感じることもありましたが、今回のようなことがおこると、それも日本という社会の維持には、(私たちが死なないために)必要だったのか、と。帝国主義にまきこまれてはいるけれどそれを意識させずに、私たちのパートナー、憧れのパートナーとアメリカを位置付けてきた、今までの日本の指導者はうまくやっていたのかも、とも思いました。

先生の前説でお考えを聞ければなぁと思っています。ぜひ、最初の授業時にお願いします。それよりも早くホームページに何か書いてくださいますか?

37.HM君(2001年度M大学社会学部3回生・99生) 2001.8.21

昨年度、M大学の授業でお世話になりましたHです。ご無沙汰しています。

昨年は、本当にお世話になりました。うまく表現出来ないのですが、僕のような学生相手にもきちんと対応していただいて、本当に感謝の念に堪えません。ありがとうございました。本来なら、もっと早い時期にお礼をしなければならかったのですが、いろいろと細かい用事が重なったりして、今ごろになってしまいました。申し訳ありません。

昨年の授業は、大変勉強になりました。先生のお話は本当に参考になることが多かったです。つい先日も、関大で社会学を勉強している、という人に会ったのですが、片桐先生の話は面白い、と言っていました。僕はよくわかりませんが、授業の最初でお話しになることがすごく評判がいいそうです。僕も先生のHPをかかさずチェックしています。今となっては、それ以外に先生のご意見を伺う機会がないので。

乱文で失礼しました。今後とも末永いご活躍を期待しております。また機会があればメールでご連絡させていただきます。

36.SMさん(2001年度社会学専攻2回生・00生) 2001.8.4

クラブの皆で淀川の花火大会に行ってきました。なかなか良かったですよ。待ってる間に夕立がきてずぶ濡れになりましたが、暑いって、すごいですね。一瞬で乾きました。花火自体は、すごいんですけど、あと一息ってとこでした。最初は皆、「おー!」って歓声があがるんですけど、中盤に入ると、飽きてくるんですね。歓声がうすくなり、最後になると、帰りの準備始めてるという、少し物足りなさがのこりました。無茶な話ですが、起承転結みたいなのがほしかったなー。と、思ってしまいました。

ここで私の田舎、F県のM町の花火大会と比較してみると、M町の方は、花火が始まる前に、和太鼓のオープニングがあり、花火自体も、ちゃんと起承転結っぽくなっていて、見ている人を飽きさせないようにしているんです。そして、花火の提供者の会社名などを、打ち上げる前に言ったりして、花火のすごさを競う感じもあるんです。この二つを比べてみると、都会と田舎との違いかなあとも思います。田舎だと町おこしという面からも花火大会はもってこいですし、人集めるために、工夫をしようと策を練るでしょうし。都会だとそんなことしなくても人集まりますしね。

 でもまあ、こんなぐだぐだ書いてるけれど、楽しかったのは楽しかったんです。始まるのを待ってる間買出しいって、いろいろワイワイ言いながら食べたり。周りの人々見ているだけでもワクワクしました。

35.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.7.17

アルバイト始めました。ワーカーホリックの私がカテキョーだけで夏休みを過ごすはずもなく、新たに本屋でバイトすることになりました。前に働いてた本屋よりだいぶ大きいので、その分仕事も煩雑ですが、病院に比べりゃ何てことないです。長期で募集してたので夏休み中だけなんてダメかなと思いつつ面接に行ったのですが、私の文学少女ぶり(自分で言うな)に店長がいたく感激してくださって、その場で即採用決定。ええんか、店長。

今回バイトしてる本屋はすぐそばに集合団地があるせいか圧倒的に若いお客さんが多いのですが、本当に若い子って本読まないんですね。純文学なんて一日一冊も売れない。私の周りには重度の活字中毒人間がわさわさいるので、けっこうカルチャーショック…。しかもマナーが悪い!雑誌を立ち読みするのはまだいいとしても、元あった場所に戻すことさえしないし、ヘタすりゃその場に放り投げる。もう平積みになってる雑誌の上に腰掛けて読んでたのには開いた口がふさがりませんでした。普通本を尻の下に敷くか?だいたい自分の本でもないのに(こういうことする子に限って買わない)。いったい親御さんはどんな教育をなさってるんでしょう。いや、でもこれは親のせいとかじゃないな。常識の問題?普通に社会生活してれば分かることですよね?別に活字を尊べとまでは言わないけど、せめてこれは商品なんだということぐらいは認識してほしいものです。何というか、明らかに自分と同じ歳ぐらいの人がこういうことしてると、私の読書歴に店長が喜んだのも分かるわと思ってしまう。

そういやこの本屋、私がいつも通ってる図書館のすぐそばなんですが、こないだお客さんとしてそこの図書館の司書さんがいらっしゃいまして。向こうは私のことなんて分からんだろうなと思いつつ曖昧にお辞儀をしたら、「あ、ご予約の本届いてましたよ」。お、覚えられてる…。その時は「なぜ!?」と驚愕したんですが、よく考えたら若い子が図書館に来るなんてこと自体が珍しいんでしょうね。それとも「いつもマニアックな本借りていく人」という分類で認識されてるんだろうか…ありえるな…。

というわけでとても忙しいです。実質9時5時で週5日労働+カテキョー3件。いつ卒論やるつもりなんでしょう。でもどうせ家にいてもやらないような気がして…。それにしても最近の女の子向けエッチマンガの売れ行きはスゴイです(突然)。売れる本売れる本、みんなエロ。買う人買う人、みんな若い子。もう『17歳、初めてのH』とかがバカ売れでして。実際私も読んでみたんですが(読むなよ)、非常につまらない代物でした。10人ぐらいの作家が32Pぐらいで描いた「初めてのH」マンガを集めた本だったんですが。別にエロが悪いと言ってるわけではないんですけどね。お前らどうせ読むなら山本直樹を読め!やまだないとを読め!小野塚カホリを読め!二宮ひかるを読め!榎本ナリコを読め!(詳しいな、私)この辺の少女向けポルノについては卒論で取りあげる予定です。というかここまで売れ売れだと無視できないでしょう。あ、年頃のお嬢さんがいらっしゃる先生のために言っておきますと、もちろん良質の少女マンガも存在しますよ。ただ商売である以上は売れ線ってのがあるわけで、最近はどこの出版社もこういう系統の本を出してるみたいです。でも集英社は比較的少ないかな。マーガレット読者ってそのまま『ぶーけ』系に行くからな。えっと、いったい何の話をしてるんでしょう。一応卒論の話をした、つもり。音羽グループもとうとうやったかという話ではなく。

34.FFさん(2001年度マスコミ学専攻3回生・99生) 2001.7.13

はじめまして。理論社会学を受講している、社99−????のFFと申します。マスコミ専攻なので、先生のことを知ったのはこの授業が初めてだったんですが、今はすごく尊敬しています。

今までの大学の講義といえば、チャイムと同時にすぐに内容に入るのが常だったので、先生の前説は衝撃的なものでした。それが楽しみで学校に来ていた節もあります。先生のお話を聞いていると、日常生活の何気ないシーンでもそこから得るものはたくさんあるということに改めて気付かされ、本当に毎日を大切にしようと思いました。少し前の前説で、就職活動が年々早くなってきているという話がありましたよね?その時におっしゃっていた、’焦るな3回生’という言葉に助けられたような気がします。就職よりも何よりも、大学生のうちにいろんなことを経験しようと心に決めました。結果はあとからついてくると思っているので、がむしゃらにがんばってみようと思います。

こうして学校の先生にメールを送ることも、私の中では革命的なことです。でも、大学の講義に興味がもてたのも、先生のおかげだと思い、この気持ちを伝えたくてメールすることにしました。ホームページも最近発見し、少しずつ読ませてもらっています。また後期の授業を楽しみにしています。それでは失礼します。

33.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.7.8

恒例、読書トーク。『ひかりごけ』、名作なんですけどね。私は中学生の頃が一番文学少女してたので、『ひかりごけ』もこの頃に読みました。基本的に長編志向の私を悶えさせた短編作品(短編というか中編?)の一つです。この頃に衝撃を受けた短編としては他に『楢山節考』かな。「歯ァ折るんや!」と。この作品がなかったら、大学生になって寺山修司の「心に姥捨て山を持ちましょう」(『家出のすすめ』)というフレーズに反応できなかったかもしれないな。あとは何といっても太宰治。私の中でとっくに殿堂入りしてる彼ですが、そういえば太宰の作品も比較的短いものが中心ですよね。『女生徒』や『ヴィヨンの妻』なんて、今読み返しても色々と打ちのめされてしまいます。って、これってつまり、私のレベルがあの頃と変わってないってことなのかしら…それはそれで嫌なような逆に嬉しいような…。あ、黒岩重吾の『中大兄皇子伝』上下巻が届いたので、昨日からさっそく読んでます。黒岩版中大兄はけっこうカッコイイですね。大海人はドリーマーでとっぽい感じ。うーん、二人とも私の持ってるイメージと違うなあ。個人的に中大兄には「小さな器で大量の水を受けとめようとして、どういうわけか受けとめきれてしまった人」というイメージを持ってるのですが…。でも大化改新もまだなので、これから変わっていくのかも。特に額田王が出てきた後が楽しみです。

ハッピーサマーウエディング。結婚について色々と。私は定位家族にずっと違和感を覚えてまして。その違和感をあえて明文化すれば「私を選んで生んだわけでもないのに、どうしてこの人たちは私に対して見返りも考えず投資してくれるんだろう」という感情、になるのかな。だからすごく感謝してる一方で、今の所何もペイバックできていない事に対する申し訳なさみたいなものもあって、早い話があまり居心地がよくないのです。どうも収まりが悪いというか。「居候、三杯目はそっと出せ」というか。とどのつまり、私の結婚願望は「自分が選んで自分を選んでくれた人と家族してみたい」という所から来ているのだと思います。これだと居心地よく過ごせるかな、と。
で、ここがポイントなんですが、円滑に家族するには法的に家族にならなきゃならない気がするんですよ。少なくとも私は。そうすることによって他者や社会から「あの人たちは家族なのだ」と思われるから。そしてようやく自分も「私たちは家族なのだ」と安心できるから。婚姻届は、保険や財産がどうのというより、自分の主観的思いこみの客観的根拠に過ぎないのかもしれません。でもそこで生殖家族らしく子供を作るとなると、一気に腰が引けてしまうのです。親が私にしてくれたように、私も自分の子供に愛という名の元に無料投資できるかと聞かれれば、全く自信ありませんと正直に答えるしかない。「子供産んだら変わるって」とよく言われますが、もし変わらなかったらどうすればいいんでしょう。もし私の「家族ゲーム」にそぐわないような子供だったら、私はその子に対してどんな態度をとるんでしょう。そう思うと怖くて仕方がないのです。とか何とか、このようにシミュレートは綿密なのですが、実際は相手候補すら現れないままはや数年。二次元キャラに向かって手振ったりしてる間はこのままでしょうね(ここは笑う所です、笑ってください)。

二次元キャラで思い出した。基本的にヴァーチャル世代の作る物語(小説でもマンガでもアニメでも)はつまらないという話。長くなるのでまたの機会にしますが、さわりをあえて文芸評論的に言ってみるとですね。「ヴァーチャルにハマるという体験は結局自己の拡大再生産にすぎないのであって、たくさんの分裂した自己が紡ぐ物語はもはや他者の鑑賞や批評に耐えうる物語たりえず、そこにあるのは真っ白なスクリーンを背景に私と私が永遠にチャンバラごっこを繰り広げるだけの閉鎖的空間である」てな感じでしょうか。ああ、疲れた。こんな難しげな文章を書いたのは久々だ。微妙に日本語がおかしい気もするが…。こういう文章は何だか無駄に若々しくて気恥ずかしいですね(私だけ?)。これだけじゃさっぱり分からないと思うんで、また色々聞いてやってください。それでは失礼します。

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32.TNさん(2001年度社会学専攻4回生・98生)2001.7.3 

こんなに毎日暑くて汗があとからあとから吹き出てきて、化粧どころじゃないのに、周りのお姉さま方のあの完璧な化粧!!なぜ!?って思うのは私だけでしょうか・・・。こつを一度聞いてみたいものです。。。 そろそろ化粧も勉強して、お姉さまと言われるように頑張るべきなのだろうか・・と考えてしまう今日この頃でした。ほんとに綺麗ってどういう事なのでしょうね〜???

31.MH君(2001年度産業心理学専攻4回生・98生) 2001.6.30

久しぶりにこの前、理論社会学見に行きましたけど、あんなに前説、長くてはダメですってば。話、飛びすぎです。おもしろい話でしたけどね♪

きっと、戦後の話とかあまり中学、高校の授業でも問題視されませんから、あの辺りの話は知らない人は多いんでしょうね・・。アメリカが日本に対してローマ字教育をするように提案した事実とか・・。ん〜・・歴史を構成した人は一人ではないから、その人にとって様々な歴史って存在するものですよね?教科書に書いてある歴史だけじゃなく、そうでない歴史を知るからこそ、様々な人を知って、自分が生きていく中で役立てていくのが理想だとは思いますけど。ま、現段階ではできてませんけど・・その余裕もないですし。その辺が問題ですよね・・・。

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30.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.6.9

大塚英志について思うこと。

私が大塚英志の評論を支持する最たる理由は、単純に彼の文章スタイルにあるのかもしれません。あの傲岸不遜に見せかけて、実はけっこう卑屈なのがうかがえるあの文章…。誰かに似てるなと思ってたら、内容やレトリック等の巧拙は別にして、そういうスタイル自体が何を隠そう私自身の書く文章に似てるらしいんですよね(人から指摘されて初めて気づいた)。やたら読みやすいのはそのせいか。まあ似てる似てないは置いておくとしても、内容も全部ひっくるめて彼の評論は好きです。自腹切って集めてるぐらい。しかし大塚英志って小説の方はイマイチなんですよ、これが。これもひとえに彼の文章のせいだと私は思ってるんですが。

というのも小説って読者の感情移入を誘ってナンボの世界じゃないですか。だから評論では面白い効果を生む卑屈さがアダになる、つまり問題は彼が「神の視点」においてもその卑屈さをいかんなく発揮してしまうところにあるのです。例えば主人公がAという感情を抱いたとする。当然読者もAにシンクロする。そこで完全なる第三者(これが「神」=「筆者」です)が「彼がAなる感情を抱いたのはこういうやむなき理由で…」と説明してくれる。そして読者はよりいっそうA、つまり主人公に感情移入することになる。ところが大塚の場合「Aとか言っちゃってるよバカじゃねーの」的な説明をしちゃうんですね。すると読者は感情移入を阻まれて、早い話が醒めてしまうのです。

これは大塚自身が自分の作り出したストーリーやキャラに没入することをどこかで拒んでいるからこそ起こることだと思います。というより恥じている。すなわち卑屈。神はニヒルを気どってはいかんのです。例え心では「バカじゃねーの」と思っていようとも、神として登場する以上はあくまで素直に。その点、田中芳樹が『銀河英雄伝説』で使った「後世の歴史家によると」という神の視点の置き方はうまかった。さすがだ。大塚英志もストーリー自体は田中芳樹に負けないぐらい面白いんですけどね。もう大人しくマンガ原作だけやってて…(本音)。

でもまあ、この辺は大いに個人の感性がからんでくるので一概には言えませんが。私は乙女ちっく少女小説で感性養ってきた人間だし。もし予定調和を崩す、あるいはそれがそもそも存在しない小説がファーストインパクトだったなら、今頃大塚小説大好きっ子になってたかもしれません。

私は、大塚英志を評価できないっていうのは、話したことがありますよね。たぶん、私にとって彼は中途半端な位置にいるためだと思います。完全に「文芸評論家」であれば、私はその手の輩が嫌いなので読まないで過ごすのですが、ちょっと「社会評論家」的なものも書くので、タイトルに惹かれてつい買ってしまったりするのです。ところが、読み始めると、スタイルは完全に「文芸評論家」なんですね。「だまされた」といつも思います。社会学者から見た文芸評論的文章の問題点は、「社会学を考える」の第19章にも書いておきましたが、データが少なくて比喩ばかりになってしまっている点です。まさに文学ならそれで構わないのですが、社会について語るなら、もっときちんとデータを集め、地道に語ってほしいと不満に思うわけです。

そういえば、Sさんの文章も確かに文芸評論的文章なので、社会学の卒論を書くにあたって、多少意識して変えないと、やや問題でしょうね。そういう文章でもOKの先生もいるかもしれませんが、私のゼミなら、意識して変えてもらうところです。でも、文章のスタイルは書き慣れている人ほど、変えるのが難しいので、こんなことを言うと悩んでしまうかもしれませんね。とりあえず、比喩は控えめにして、あなたの主張を誰もが納得できるほどのデータを集めること、さらに反証になりそうなデータはないかどうか常に考えること、そのあたりに気をつけて研究を進めたらいいのではないでしょうか。(片桐)

29.TNさん(2001年度社会学専攻4回生・98生)2001.6.3 

SMさんの意見に関して思った事つれづれなるままに書いてみまーす。

うーん、確かに・・学校に何しに来てるの?そんなかっこで・・っていう子はよく見かけます。けど私は結構皆似合ってるなって、むしろ羨ましくもあったもんですが。自分の魅力を引き出す術を知ってるなと。周りがそうなだけだったのでしょうか?そういった子って仕草や話し方も魅力あったり・・。とにかく若い子は何でも似合う!!そうやって外見みがいて陰でぬりぬりパタパタ頑張ってるところも含めていじらしい!って私は思います。

話それるかもしてませんが、最近お世話になった就職課の女性の職員の方(30才後半くらい?)の化粧はやばかったです・・・。絶対・・。室内で雨も降ってないのにまるで水に濡れてよく言えば涙でみだれてしまったような見事な化粧くずれでした。

世間とは逆行して最近ますます髪の毛が黒々として、このまま色をいれずに勝負してやろうかと思う今日この頃のTNでした・・・。それにしても髪の毛黒いと最近の服合わないんですよね。ほんと。

28.SMさん(2001年度社会学専攻2回生・00生) 2001.6.2

私がおばさんなのかもしれませんが、最近、社学の女の子のファッションなんかすごくありません?そのまま、夜の仕事行きますーみたいな。浜崎あゆみと小柳ゆきをたしたような。ちょっと違うかな?大学行って勉強するのにそんな格好する必要あるの?って疑問感じます。そして、表向きはめちゃ女っぽく、トイレとか男の人いないところでは、すごいですよ、あの変容ぶり。あんなメイクして、服着て、自分で変とか化粧濃いとか思わんのかなあ。絶対あんなの美人じゃないですよ。中身のなさそうな人のようにとらえられてしまう気がしますけどね。なんか見ているだけでイライラしてしまう私でありました。

私の観察では、関大社会学部女子学生は、割と地味目の子が多い方だと思いますが……。でも、確かにたまに「おおっ!」と思うような子もいるようですね。でも、私はSMさんと違って男性ですからね、どきっ!とするようなファッションも嫌いじゃなかったりしますが……。(もちろん中身の方がより大切です。)(片桐)

27.YTさん(2001年度関西大学2部社会学部・1部の理論社会学聴講生) 2001.6.1

先生こんにちは。昨日の授業は面白かったです。思いがけない展開でした。「後ろなき前説」というタイトルがまたよかったですね。

一、「ビルの上層階に美人が多い」というのは、概して「役員室」は上層階に位置するからと思われます。私が会社におりましたときも、他社の役員室はたいてい上層階でしたもの。セキュリティー上そのような形式を取るらしいですね。ということは役員室に採用される「秘書」は美しい方ということです。私のおりました会社も、新入社員を見て、まず秘書室長が、「この子もらう」という権限がありました。容姿のみならず、性格が滲み出ているから美しい、と選んでほしいですが。

弊社は以前東京は田町に本社があり、業績不振で売り払い、横浜鶴見にごそっと社員が移ってまいりました。東京の社員はキレイ(特に女子)といわれていました。やはり美しいビル、ハコに入ると人はきれいになりますね。東京では通勤にはとても恥ずかしい、普段着が鶴見では通勤着になっているのですもの。

二、大学の授業を受けていて思います。度々先生方がおしゃべりを注意されますが、仕事で考えると、仕事の相手が、話すことを聞かない、なんて決してない、とんでもないことなので、(先生方はお仕事をされています)強くお仕事に誇りをもたれている先生は「ばかにするな」と怒って授業放棄してもいいくらいだと私は思っています。「契約取りやめだ!」と。(されたら困るのでびくびくしていますが)学生さんの意見で、「お金をこちらで払っているのだから。云々」というのがありましたが、自分のお金ではおそらくないであろうに・・。

以上感想を書かせていただきました。それではまた。

26.STさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.5.30

最近はよくマンガを読んでいます。「卒論の関係で仕方なく」とか言ってますが、明らかに趣味まっしぐらなラインナップに自己欺瞞もそろそろ限界です。今は永井豪の『デビルマン』に萌え萌え。何でもっと早くこれを読まなかったんだッとくやしさにもだえてます。『ウルトラマンガイア』も『幽遊白書』(魔界の扉編)も、はてはかの『新世紀エヴァンゲリオン』も、全て全てこの作品にインスパイアされていたのねと思うにつけ、根っこの所を知らないままぐちゃぐちゃ語ってた自分が恥ずかしいぐらい。名作です。

エヴァンゲリオンといえば、今ちょうど見てるんですよ。エヴァを見るのはもう4回目ですが、ようやく一歩ひいた目で見れるようになったかなという気がします。というか回数の問題ではなく、年齢的に「だからママ!私を見て!」っていうトシじゃなくなっちゃったってのが大きいのかも。もう私自身がママになっててもおかしくないんだもんな…。先生、エヴァンゲリオンご覧になったことありますか?たぶん社会学者たる先生がご覧になったら、このアニメが「社会現象」と言われるぐらいにブレイクしたという事実に背筋が寒くなるんじゃないかと。ええ、そりゃあもう。

小説では。『眠れる美女』を読んで川端康成のあまりにあからさまなロリータ的嗜好にビビッたり、宮部みゆきの『蒲生邸事件』を一晩で読了してしまったり(面白かったというより単に読みやすかった)、ハンセン病裁判に触発されて読み返した遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』にマジ泣きしたり、ついでに読み返した『破戒』に藤村スゲーよ!と今さら打ち震えたり。最近の作家で大ヒットはないですね。あ、『巨食症の明けない夜明け』を書いた松本侑子の小説群はなかなか。好き嫌いがはっきり別れるとは思いますが。比較的『偽りのマリリン・モンロー』辺りは万人にオススメかな。これは男の人にもぜひ読んでほしいですね。大学の近所にブックオフができたので、どしどし本が増えていきます。そして新刊で気になるのは、何と言っても宮尾版平家物語!吉川英治で挫折した(しかも清盛オヤジが死ぬ辺り…メッチャ序盤…)私も宮尾登美子なら読めそう。早く図書館の予約が回ってこないかなあ。

25.YEさん(1995年社会学部卒業・91生) 2001.5.26

こんにちは。関西大学社会学部社会学科社会学専攻91年入学生でしたYEともうします。社会に出てもう6年がたち、少し仕事にもなれ、また社会学の勉強をしてみたいと思い始め、いろいろとホームページを検索しておりましたところ、先生のお名前を拝見し、さっそく訪れてみました。わたしはTゼミでしたが、ゼミ史をみているととても懐かしくあのころのことが思い出されます。

片桐先生の一番の想い出といえば、理論社会学の授業でお子さんの写真をOHPに映し出しておられたことでしょうか。(「なんでそんなことしか覚えてないねん」とつっこみが入りそうですが)もうそのお子さんも随分大きくなられたんでしょうね。授業と同じくらい楽しみだった前説もとっても懐かしいです。

T先生の社会病理学の講義も片桐先生の理論社会学の講義も、たぶんそれ以外の講義も、大学を卒業してからいろんなことに遭遇するたびに、誰々のなんとか理論とまではいかなくても「ん?これってこういうのもあり?こういう理論ってあったよね」と考えるベースになっているような気がします。考え方に広がりができたというか。

なかなか時間的にも金銭的にも精神的にも「また大学へいくんだ!」というところまでには至らないのですが、自己満足に過ぎないとしても考えることをやめないでいることはできると思うので自分のペースでぼちぼちやろか。といった感じです。

つい学生時代に戻った気分になってメールを書きました。またときどき寄せてもらいます。暑かったり寒かったり気候不順な折、先生もお体に気をつけてお過ごしください。では。

24.TNさん(2001年度社会学専攻4回生・98生) 2001.5.18

USJに行ってきたのですが、予想以上に楽しかったです!!50年代のアメリカっていうんですかね?音楽も建物もアメ車も何もかもなかなかのできでした!!母と父といったのですが、二人とも大喜び!!私くらいの年代から親くらいの年齢の人が一番楽しめるのではないでしょうか?って感じでした。小さい子にはちょっと分かりづらい楽しさかもしれません。池なんかも大阪の海をそのまま流し込んでいて潮の香りがプンプンしてました。そんなにきつくなくて良い感じでしたよ。何よりも大阪にこんなテーマパークが出来たことに父共々嬉しくてたまりませんでした(笑)

音楽がたまらなくいいです。カップル、夫婦なんかで行くのがベストですね、あそこは・・・。子供さん達にもいい人できたらデートにはUSJ!!!と勧めて下さい。ちなみにその日見たのは「JAWS」「ジュラシックパーク」「ウォーターワールド」「BACKDRAFT」っていう4つでした。あとアカペラのライブ(50年代のアメリカ・ポップス)もみました。一つだいたい1時間〜1時間30分の待ち時間でした。まだましですかねー・・平日ですしね。それに待ってる間に上映されてるビデオが楽しかったので苦ではなかったです。USJに対して色んな評価があるようですが、私はとっても楽しかったです。帰りにE・Tのぬいぐるみを買って、さらに満喫して帰りました。また行きたいです・・・。

なんだかUSJ話で熱くなってしまいましたが、関西でこれだけ楽しめるのは、大変素敵な事だと思いました。京都・奈良で日本の古さを楽しみ、神戸では上品なもの・人そして港を楽しみ・・・この3つが上手く合わされば関西ももっと活気づくでしょうねー。。。うーん楽しみです!!

23.YTさん(社会学部入学をめざす東京の社会人の方) 2001.1.17

初めまして。「関西大学社会学部紀要」32巻(平成12年9月)の貴論文を大変興味深く読ませていただきました。「学問研究は役に立つ、そして人の幸福となる」という言葉に(社会人として社会を経験したものとして)勉強する勇気を頂きました。

最近の「××の社会学」の蔓延に、社会学ってこうゆうものだったのだろうか??と疑問ももっておりましたので、その答えを頂いたようにも思ってます。

私が社会を経験して、そして今ここで社会学を勉強したいと思ったのは、「マクロな視点」で、社会を見たく、またコワイ社会での「判断ミス」をなくしたいと思ったんだな、と片桐先生の論文により再認識致しました。

自己紹介させていただきます。私は東京在住の社会人です。昨年12月、大学で勉強したかった「社会学」を勉強しなくては、人生後悔するのではないか!と思い立ち大学再入学を考えはじめました。優秀な人々に囲まれて、私のばかさ加減を改めて思ったこと、今まで考えたかったことを考えてこなかった、自分に気がついたということもありました。

社会に出てからの再入学ですと調べるのも慎重です。(今いる会社で素晴らしい方々にたくさん出会えたからなおさらです。)このくらい高校生の頃にできていたらなあ・・と思いますが、今にして思うと全く子供だったのですね。

はじめての方に、それも「教授」にメールを出させて頂くのははじめてです。メールは気軽に書ける・・のが良い点といいますが、本当にはじめての方にこのように長々と、書いてしまってご迷惑ではないかと心配です。失礼をお許し下さい。

22.NEさん(2000年度マスコミ学専攻3回生・98生) 2001.1.15

マスコミ専攻3年次生の、NEと申します。ホームページ、いつも興味深く拝見させていただいております。私のゼミでは、ホームページというものはないので(BBSだけは作ったのですが)、うらやましく思いつつ。

さて、成人式について、少し言わせていただこうと思います。私は、昨年成人式を迎えたわけですが、式には行きませんでした。それで何をしてたかというと、家でNHKの「青春メッセージ」を見るという・・・。かなり空しかったですが、行く気にはなりませんでした。なぜかというと、みんなが式に出ないで外でしゃべっていたり、出たら出たでざわざわしたりしているのが目に見えていて、それが嫌だったからです。

私は、面白いとか面白くないとかは関係なく、行くからにはきちんと式に出て、話を聞いて、ということをするべきだと思います。それが出来ないなら「式」という場に行くべきではない。「友達に会う」というのが一番の目的なのはよく分かります。でも、少なくとも建前上は「成人式」という式に行くのが目的のはずなのに、それにきちんと出ず、わざわざきれいな格好をして、寒い中立ち話をしに行く神経が分かりかねます。私は、「式」というのは何でもけじめとして出るものだと思うし、友達にも会いたいし、本当は行きたかった。でも、前述のようなことでイライラするのは面倒なので、結局行きませんでした。

「成人式」自体が必要かどうか、というような話もありますが、まずはあるものと考えた上での意見でした。

21.MSさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.11.11

片桐先生、お返事遅くなってすいません。2日はもちろん参加させていただきます。

私は、このドラマの台本を読むまで学生運動の事について全く知りませんでした。このドラマに参加していたからこそ最近のニュースにもかろうじてついていけています。

色々なことに興味を持って新しいことを知るというのは、楽しいことですね(^o^)

最終回までに、もっと練習して行きます。

20.MH君(2000年度産業心理学専攻3回生・98生) 2000.11.9

学校帰りに思ったことなのですが・・

理論社会学の前説で井上陽水の「傘がない」を流してましたね。Aプロジェクトのメンバーにあの時代の曲を聞かせるのはもしかしたら「紫陽花」を演じるのにずいぶんプラスになるのではないかと思うのですが。歌は世につれとも言いますし。

実は、この前順一を演じてたとき、最後のエピローグの辺りで、N.S.P.の「さようなら」を頭の中で思い浮かべながら演じてました。曲は何でも良かったのですが、なんとなく曲の雰囲気だけで、「さようなら」を。詞のほうは全然知らないものですから。もしかしたらこのおかげで上手くできたのかな、と。

あ、なんでN.S.P.を知ってるか?というと・・、えっと、実家のラジオ番組でかかっていたのを覚えていただけです。そのラジオ番組はフォークとニューミュージック専門の番組で、「傘がない」もかかっていました。よく聞いてた番組でしたので、覚えていたんですね。

では、ふと思ったことだけでしたが。それでは。

19.KK君(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.11.8

 今日は本当に驚きました。赤軍のメンバーが捕まったって聞いたんで、いろいろ調べたんですが、今週の「知ってるつもり」といい、このAプロジェクト<紫陽花>といい、今やってることってもしかして日本で一番進んでるんじゃないかなって思いました。もしかして先生が一番の黒幕っていう落ちなのかなって少し思いました。

 なんかとっても失礼なことを思ったのかもしれませんが、だってなんか凄すぎですよ、ちょうどこの時期にすべてが一本の線でつながるなんて。このプロジェクトに参加させていただいたことを心から感謝します。なんか宝くじの1等前後賞が当たったような気分です。どきどきしながらファイナルを楽しみにしときます。

おいおい、物騒な妄想を持たないでおくれ。単なる偶然です。(片桐)

18.MH君(2000年度産業心理学専攻3回生・98生) 2000.11.6

土曜日はお疲れ様でした。まさか急に主役やらされるとは思いませんでしたが、楽しんで演じることができました。最初は緊張してたのでなかなか大変でしたが、上手な方が周りにいらっしゃったので、その方々に引っ張っていただいたので気分的には楽でした。

12月2日はスケジュール開けておきます。もちろん参加します。今は何も予定が入ってないので大丈夫でしょう。楽しみにしてますね。

17.STさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.10.22

こんばんはー!!昨日はお疲れ様でした。回を重ねるごとに成長していくAプロジェクトに、感動しつつあるSです。ほんとええ感じ!人が増えると会話も増えるし、楽しさも倍増するし、みんながいろんな役をやっていくうちに「おっ!合ってるんじゃないの!?」と新しい自分を発見できたりして、ほんとええ感じ!

前回から参加していたメンバーはもっともっと上手くなっていて、私ももっと頑張らねば、とやる気になります。

昨日はいよいよ初録音。テープに録音した順一と隆夫の会話を聞いていると、演技ではなく、実際に会話しているように感じました。自分のナレーションの声も聞いてみて、自分はああいう声(ですか?)なのか知ることができたし、声を発している部分は少しでしたが、声の雰囲気も言い方もこうした方がいいな、と参考になりました。先生が編み出した『クルクルQ』もできたことだし(また使いましょうね)。

本当にAプロジェクトが楽しいです。2年前に友達と王将に行ったとき、先生とゼミ生(らしき)の人たちが盛り上がって話をしていたのを見て「いいなあ。片桐ゼミは〜。」と実はうらやましく思っていたものです。あの時は、今日のように先生と話すことも、こうやってAプロジェクトで盛り上がること も全く想像できませんでした。だから、とても今幸せです!!

この機会を作ってくれた先生やKくんに、一緒に参加してくれた友人に、このプロジェクトで出会った人たちに、「ありがとう。がんばろうね」と言いたいです。

*(あ、Aプロジェクトの別名なんでしたっけ?「日本の…」?小樽に行きますよ!どこでも行きまーす。いろいろやっちゃいましょ。)

17.STさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.10.11

「恋におちたシェイクスピア」をやっと見ました。最近はマイナーな作品ばかり見ていたもので。おっしゃっていた通り、「エリザベス」よりもいい作品でした。グウィネス・パルトローがオスカーを獲ったのも納得です。映画での、あの愛らしさを見ていると、「ローマの休日」のオードリー・へップバーンが演じた役に通ずるものがあるな、と思いました。

それにしても、よーく見ても、J・ファインズは兄のR・ファインズとは似ていませんね。私は「タイタニック」よりも(まだ言っている)「遥かなる大地へ」を断然オススメします。トム・クルーズとニコール・キッドマンが夫婦で出演していて、躍動感のある映画に仕上がっています。

あと、イギリスを舞台にした映画でしたら、「日の名残り」も良かったです。イギリス人執事の物語です。カズオ・イシグロという日系イギリス人によって書かれています。私は先にビデオで見て、その後、本で読みました。

16.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.10.2(片桐返信付)

いつものことながら、いろいろと楽しく考えさせられるメールをありがとう。

> 「写真の世紀」展。天王寺の近鉄百貨店内で開催中。今日ふらりと見に行って、目録とキャパの写真集を買ってきました。重かった…。

キャパもいいですね。物知りのSさんのことだから知っているかもしれませんが、ブーケ・ホワイトという女性報道写真家もいいですよ。

> 私は報道写真が大好きです。残虐で哀しい光景のまっただ中に立ち、撮影者は何を考え何を伝えたくてシャッターをきったのか。そういう撮影者の視点が見えてくるような写真が好きなのです。

確かに興味深いですね。でも、私はパーソナリティから言ってー報道写真家にはなれそうもないなあ。(あっ、腕のことを忘れてた。)

> 最近では海や空の写真が流行ってるみたいですが、こういう写真は撮影者の視点が感じられなくて物足りないですね。イルカが泳いでて、海が綺麗で、だから何?っていう感じ。

そういえば、「19」とかいうグループが「海・空・無限大」というタイトルの歌を歌っていましたね。あの二人組の底の浅い歌詞がなぜ受けるのか私にはわかりません。

> 写真だけではなく、現代芸術は総じて作者の感情をできるだけ作中から排除するという傾向があります。しかし作品解釈を全て受け手の主観に委ねて、肝心の作者の人間性はいったいどこへいくんでしょうか。人間あってこその芸術なんだから、もっと自己を表現すればいいのに。私はそう思います。

95%の受け手に伝わる芸術をお願いしたいものです。昨年、イギリスでターナー賞という美術の賞の有力候補になった作品に、女性芸術家が自分のベッドを作品として出品したものがありました。そのベッドは寝起きの感じそのままになっていて、毛布とシーツは乱れたままで、下着に使用済みのコンドームまで置いてあるというものでした。なんでこんな作品が芸術として評価されるのか私にはわかりません。というか、芸術として認められるべきではないと思います。

> 件名の謎。たぶんメールの内容があまりにもあっち飛びこっち飛びしているため、それらをうまく総括して表すような言葉が思い浮かばないんだと思います。だからウケを狙って意味なしに逃げるんじゃないでしょうか。

なるほどね。私などが「いろいろ」とか件名をつけるのと変わらないということですか。

> 「転んだ時助け起こすのが友情、共に倒れるのが愛情」。私がとても尊敬している友人の言葉です。聞いた(というか読んだ)瞬間、ヤラレタと思いました。

ふむ。一見なるほどと思える言葉ですね。「教育は愛情だ」とか思っている私は、倒れまくらなければなりませんね。あまり趣味じゃないな。私にとっては、やはり愛情も「助け起こす」方がしっくりきますね。

> 友情を長く続ける秘訣は「相手を尊重する」ことだと思います。相手の持つ自分とは違う価値観や人間性を尊重し、自分も相手に尊重されるだけの価値観や人間性を築こうと努力すること。これですね。とすると恋愛関係とは。うーん、やっぱりよく分かりません。たぶん愛情が自己愛型友情に極めて近い感情であるせいだと思うんですが…。先生はどう思われますか?

友人を好きになることは愛情ではないのでしょうか?私も若いとき(セクシャルなものを重視していたとき)は、愛情と友情を分けて考えていたのですが、最近は明確な区別ができるのかどうかよくわからくなってきました。もしかしたら、程度の差なのかもしれませんね。

15.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.9.16

現代文学について。

『不随の家』(広谷鏡子著・集英社文庫)という小説を読みました。第19回すばる文学賞受賞作だそうです。家族介護をテーマにしたものだったのですが、読み終わった後何ともいえない不快感が残りました。いえ、不快感が悪いというわけではないのです。私は安部公房だってカミュだって大好きです。ただ思ったのは「最近の若手はこういうものしか書けないのか」ということ。読者に不快感や嫌悪感といったマイナスの衝動を起こさせるような小説しか書けないのか。全き物にわざわざ染みをつけて、それを読者に見せつけるような小説しか書けないのか。

個人的に現代文学については「キミたちのやっていることは果たして文学なのかね」という疑問もあるのですが、とりあえずここではそれはおいとくとして。とにかくですね、今ここにある事象をそのままに肯定しつつ、読者に何らかの感情反応をうながすような小説が現代文学には少ないように思えます。

確かにみんなが白だと思っていることに「実は黒なんじゃない?」と疑問を提示して衝撃を与えるより、「確かに白だよね」という姿勢を崩さないまま衝撃を与える方が何倍も難しいことでしょう。今、この難しいことをやってのけるほどの力量を持った作家はいないのでしょうか…。

何だか観念的ですいません。単に現代文学読んで「人を愛するっていいなあ」と感動の涙を流したいという話です。

14.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.9.5

高村薫のススメ。

そうですね、読みやすいのはやっぱり『黄金を抱いて翔べ』(新潮文庫)かな。大阪の下町に生きる男たちが大銀行から金塊強奪を計画する話。短いうえに文庫化されているのでオススメな一冊。とにかくタカムラは細かいです。緻密な描写が延々と続きます。たまに「何口径の銃がどーのこーのとか、そんなんはええねん」とさーっと読み流していると、うっかり重要な所まで読み流してしまって話が分からなくなったりもします。しかし押しつぶされて歪んでいく情熱とか、その果てにある救済とか、そういったものを書かせたらタカムラの右に出る者はいないと私は思ってます。やっぱり圧倒的な筆力のなせるワザだろうな。憧れます。

あと読みやすさで言うなら『李歐』(講談社文庫)も読みやすいかも。タカムラにしては明るい作品です。銃やらスパイやらを扱っているにもかかわらず、妙にファンタジックな作品でもあるようにも思えます。もう李歐がカッコよすぎて、ハタチの娘としては夜も眠れません…。「惚れたって言えよ」に胸を打ち抜かれたお嬢さんは多いはずだ!

拡大された自己。

つまり「私さえよければいいんだ!」ではなく、「私と私につながる人さえよければいいんだ!」という。そういや中島梓、そんなこと言ってたな。すっかり忘れてました(オイ)。そう考えると、日本が多宗教(というか無宗教)な社会であるというのはやはり大きな要素だと思います。まず「神」という概念がある。そして神と(純粋な個人たる)私の契約関係は何者にも犯しがたいものであり唯一絶対であるという概念がある。そこに欧米的個人主義の基盤があると見ていいですよね。確かに「誰が見ていなくても神が見ている」と思ったらうっかりポイ捨てもできないでしょうし。何となく分かる。

こうやって欧米と日本を比較していると、どうしてもR・ベネディクトの「罪の文化・恥の文化」という考え方が浮かんできます。日本人は恥を忘れてしまったのでしょうか。やっぱり道理と先例に基づいた御成敗式目ってあの時代だからできたのかなあ(話、微妙にズレてます?)。

全くこれからの日本はどうなっていくんでしょうね。先生はどのようにシュミレートしていますか?

私もかつて同じような考えをもっていて、機会あるごとに、英米人に尋ねてみたのですが、あまりみな肯定的なことは言いませんでしたね。余程信仰に厚い人ならともかく、一般的にはそれほどでもないようです。詐欺的犯罪もよく起こるし、ロンドンの地下鉄の壁にはガムがベタベタつけられています。最近は、やはり、戦後日本の歴史の特殊性が生み出した価値観なのではないかと思っています。戦争に負けて、愛国心を持つことが負のイメージとなっていた所に、60〜70年代はじめにかけての新左翼運動が無意味に過激化し、社会のことを考えるなんていうのは、馬鹿馬鹿しいだけでなく、危ないことだという意識を一般の人々が持つようになったからではないかと思っています。

これからの日本については、ものすごく悲観的です。豊かさが今の半分くらいに落ちれば、また上昇もできるでしょうが、しばらくは急速に衰退していくのを見つめるしかなさそうです。(なんとか衰退のスピードを遅くしたいとあがいてはいるのですが……。)(片桐)

13.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.9.3(片桐返信付)

> 誰かに必要とされなきゃ息もできない。「私さえ楽しければそれでオッケー」「他人に迷惑かけないかぎり何やったっていいでしょ」みたいな風潮が社会を支配していると言われています。しかし本当にそうなんでしょうか。他者に肉体的精神的に支えてもらわないと立っていられない、他者に愛されたり感謝されたり認められたりすることで初めて自分が生きているような気がする−−こんな人間(特に若者)って意外と多いと思います。そうとでも考えないと、社会に「恋愛至上主義」がはびこっていることが納得いきません。

> 恋愛だけじゃなく、友達同士で「みんな大好きだから傷つけなくない」と優しくて温かい関係に馴れ合ったりってのもありますよね。私のことを否定しないで、私のことを必要として、私のことを好きだと言って。みんなもしかしたら「私さえよければいいの!」と口では言いながらも、ちゃんと周囲を見回して自分が一人ぼっちじゃないかどうか確認してたりするのかもしれませんね。

> ん?何だか「公と個」っていうハナシじゃないですね。本人はそういう路線を狙ってたんですが。まあふと思って書いただけなんで。

最後になって気づきましたね。確かに若者も大人もみんな他人を必要としています。ただ、それは自分の身の回りにいる自分にとって意味のある他者だけなんだ。それは、私の言葉で言えば、「拡大された自己」と言えるような他者なんだ。自分と自分の身の回りの人だけが視野に入っていて、それ以外の人間は下手をすると、人間としてすら意識されていない。中島梓が『コミュニケーション不全症候群』で指摘していたのも、こういう意識の異様さです。そして、こうした「拡大された個人主義」あるいは「私生活主義」(Privatization)から、「公」へはつながらないのです。英米型の徹底した「個人主義」(Individualizm)の方が、中途半端な他者へのもたれかかりをしない分だけ、「公」(Public)との関係をきちんと作ろうとするわけです。日本のインテリが第2次世界大戦後導入しようとした、「個と公」はこの英米型だったんですが、日本の風土にはうまくなじまず、妙な「個人主義」がはびこるようになったわけです。

最近、若者の間でボランティア志向が高いということが新しい素晴らしい傾向のように言われていますが、あれだって目の前に「ありがとう」って言ってくれる他者がいるから、やる気になる行為なのだと思います。まさにSさんの指摘する「他者に愛されたり感謝されたり認められたりすることで初めて自分が生きているような気がする」っていう感覚のなせるわざでしょう。

携帯電話がはびこるのだって、私にはこんなに友達がいるのよって確認するためでしょう。携帯が鳴るってことは、今その瞬間に誰かが自分のことを思いだしてくれているってことが確認できるから嬉しいんじゃんないでしょうか。

> 私の中で「公って具体的に何なんだろう」という疑問がまだ溶けてないので、こういう中途半端なことになってるとも言いますけど。小林よしのり氏は公=国家だと述べていますが、それってイマイチよく分かんない…。

「公=国家」ではありません。「公」はあえて言えば、「社会」です。小林よしのりは確かに「国家」と「公」をイコールにして使っているようなところもあるし、そう利用されやすい言辞もたくさん吐いているけれど、本来は「社会」に近い「公」から考えはじめていると私は見ています。国家は、社会学的に言えば、政治的機能集団に過ぎないのは、あきらかなのですが、日本という島国の特殊性で、日本文化を共有している人々が作っている社会と日本という国家が同一視されやすいのです。

久しぶりに気合いを入れて返信を書きました。こんな話で盛り上がれる飲み会とかもしたいもんですね。やっぱり「Aプロジェクト」メンバーがいいかな?ではまたいずれ。

12.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.8.2

竹宮恵子論。というほど大したモンでもありませんが。私は『風と木の詩』のファンですという話。

とにかくラストが好きなんですよ。ジルベールが死ぬところと、セルジュがピアノに再会して自分を取り戻すところ。特に後者は何度読んでも泣けます。自分がピアノやってるせいかもしれません。少年愛を描いたのが珍しかっただけというご指摘ですが、今や天下の「マーガレット」で思いっきり同性愛を描いたマンガが大人気を博する時代ですもの。そんな時代に生きる私が読んでも号泣ということは、やはり世代を越えて魅力的であることは確かだと思います。もちろん萩尾望都も好きですよ。『11人いる!』なんて、今読んでもハラハラドキドキ。

ああ、『戦争論』について書こうと思ってたのに…。本について語りだしたらつい長くなってしまったので、次回に乞うご期待ということでお願いします。

11.STさん(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.8.1(片桐返信付)

> こんばんわ。社98−??、STです。先日はどうもありがとうございました。読み合わせも飲み会も楽しかったです。

> Aプロジェクト。演じるにあたって学生運動関係の本を読みたいと思っています。今や若者の価値観は完全に「個>社会」になったと言われています。政治に関心がないとか、自分さえよければいいとか…。私もご多分に漏れずそのタイプですが。でも自らの欲望のみに殉ずるということも一つの思想として成り立つと私は思っています。ただベクトルが個に向くか社会に向くかっていうだけの話で、若者特有のリビドー(別に性的何とかとかそういう意味じゃなく)は歴然と存在するんじゃないでしょうか。

> ええと、つまり何が言いたいかというとですね。その思考回路さえ理解できれば、紫陽花に出てくる彼らの気持ちもきっと理解できるはずだということです。だから彼らの思考を教えてくれる本を読んでみたいのです。とりあえず本屋で探してみるつもりではいますが、先生の方から何かオススメを教えていただければうれしいです。

そうですね。まず、学生運動関係ではないけれど、「個と社会」の問題を考えようと思う人は、小林よしのりの『戦争論』は読んだ方がいいでしょう。(本好きのSさんなら、もう読んだかもしれませんが……)マンガのデフォルメされた部分をはぎ取って、小林よしのりが何を言おうとしたかというのは考えてみる価値があります。

学生運動の方は、どうでしょうね。これが素晴らしいというのはあまりないですね。だからこそ、私が「紫陽花」を書いてみたくなったということなのですが。しいてあげれば、小説では、高橋和己『憂鬱なる党派』、柴田翔『されど我らが日々』、三田誠宏『僕って何?』(みんな昔、単行本で読んだのですが、今は文庫になっているのではないかと思います。探してみて下さい。)ぐらいがぱっと思いつくところでしょうか。ノンフィクションでは、日高六郎『1960年5月19日』岩波新書、高木正幸『全学連と全共闘』講談社現代新書、全共闘白書編集委員会『全共闘白書』新潮社あたりを薦めておきます。

> 「本を読もう!」HPチェックしました。できてましたね〜、読書コーナーが。

早速チェックしてくれありがとう。

> 三原順の『はみだしっ子』。私も読みました。どちらかといえば『トーマの心臓』の方が好きかなあ…。だってオスカーがかっこよすぎるんですもの(単純)。

『トーマの心臓』は本当に名作ですね。

> 実はけっこうマンガも好きなんですよ。ちなみに萩尾望都より竹宮恵子派です。『地球へ…』なんてビデオまで見ましたからね。ダ・カーポが主題歌を歌ってて、何か妙に時代を感じました。

私は、竹宮恵子はだめですね。絵もストーリーももうひとつ感心しません。『風と木の詩』があれだけ騒がれたのは、やはりあの時点で少年同士の愛というのを赤裸々に描いたのが珍しかったからにすぎないと思っているのですが……。

10.STさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.7.30

さてドキドキしながら参加してみたAプロジェクト。

今まで「演技」というものを敢えて避けてきた私です。緊張しっぱなしで、よくかんでしまいました。(疲れたとは感じなかったんですけどね。)私の場合、ひねくれているとか、ちょっと風変わりな役が似合っていると思うのですが、いかがでしょう?

ところで「合ハイ」って、新鮮な響きですね。健康そうなイメージなんですけど、実際は合コンと似たようなものだったのですか?不純?

初顔合わせでしたが、とても面白い、いい人達に出会えたなあ、と思います。歳の違う人たちと接する機会が意外と少ないですから、こうやって過ごすのは楽しかったです。社学にこんな個性的な子がいたなんて。面白い発見でした。関大以外からも参加してくれる人がいて、もっともっとネットワークが広がっていけばいいですね。

もっと奇抜なことやりたいなあ。もっとアホなことやりたいなあ。こんなことばかり考えているから、大人になりきれないんだよなあ。あー、いつまでも子供でいたい。

今日は皆といろんな事を語りましたね。でも先生のパーソナリティを考えたら、「ブリッコ好き」というのは少々ショックでした!!イメージ的に、「桜坂」の佳織みたいな子がタイプだと勝手に思っていました。強そうに見える子って、実は弱いんですよ・・・。

プロジェクトに興味がありそうな子や、なさそうな子にも勧誘してみます。最低でも、2人は連れて来れたらいいのですが。朗報を届けることができますように!!

9.KK君(2000年度社会学専攻3回生・98生) 2000.7.16

 先生、寂しいことをHPに載せないでくださいよ。びっくりしましたよ。今僕の周りにたくさんの人がいます。そんな中で本当に自分という存在が、今いるって認識できている人が少ないように思うんです。大多数の中の一人であって、その中で自己の役割のみを、はたすことで自己成就が出来ているって考えている人がほとんどなのではないかと思うんです。そんな人に僕は是非、全く異なった人間を演じる(演じるまでは行かなくてもなりきる)ことでなんとなくですが、自分が見えてくるような気がするっていうことを知ってもらいたいんです。そんな経験をみんなと一緒に出来たらどんなに楽しいだろうって思うと胸がいっぱいになります。僕はこう考えて今まで演技をしていたように思います。だから僕はより多くの人にそしてなにより先生に一刻も早くこの表現の仕様の無い気持ちを味わってもらいたいんです。決して弱気になること無く、一人でも多くの人を参加させましょうよ。

KK君は、「Aプロジェクト」の中心メンバーです。呼びかけのビラも彼が作ってくれました。

8.STさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.7.9

講義が終わってしまいましたね。いつも絶賛絶賛しすぎて、言葉に重みがなくなってしまうような気もしますが書きます。

大学4年間で一番熱心に聞いたのが、先生の講義でした。今年は前説のパワーアップもあって、面白さ倍増でしたね。前説で講義と同等のことを考えさせられましたし、笑っちゃいましたし、気持ちの良い1日のスタートがきれました。 

4回生になり、大学生活を振り返ることが多くなりました。自分なりに何か掴もうとして、空回りしたり、何もしなかったり、出来なかったり、といろんなことがありました。大学へ来たからには、それはやはり講義で得たいという気持ちが強かったように思います。

私の中で、ともすれば掴み所のない学問になりつつあった社会学を、「やっぱり面白い!」と醍醐味を教えて頂き、本当に有難うございました。社会学を学んでいて本当に良かったです。

メールありがとう。こういうメールは本当に嬉しいです。特に今回は、STさんの方から、この部分を掲載して下さいと言ってもらいましたので、喜んで掲載させてもらいました。本当に今年度の前期は、過去に経験したことがない長〜い「前説」を語りました。STさんのように、講義を聴いてくれていた人たちが、それぞれしっかり受け止めてくれていたら、話した甲斐があるのですが……。(片桐)

7.STさん(2000年度産業社会学専攻4回生・97生) 2000.6.14

片桐先生へ。こんばんは。産社4回のSTです。旅行のパンフレットを何気なく見ていたら、「鞆の浦」の文字を見つけました。「頑張れ!鞆の浦!」と応援態勢に入っています。ここの良さに気づいてくれる人たちが、もっと増えてくるといいですね。

本をご紹介頂き、有難うございました。楽しみながら読んでいました。さて、感想ですが、行政の「親しまれやすい建築を」という趣旨はわかります。しかし、他のディズニーランダゼイションに倣い、似たようなものを建てるというのはやはり芸がないですね。素晴らしいものならまだわかりますが。その土地に由来するもの(他に、カエル橋のようにほとんど関連性がないものなども)をシンボルとしてただ全面的に押し出すだけでは、短絡的だと思います。こういったディズニーランダゼイションは、完成した当初は話題を呼ぶかもしれませんが、一過性のものに過ぎず、その後の風化は早いでしょう。素晴らしい建築物は長い年月がかかり、貫禄がでてくるのだと思います。日本にある西洋風の城のトイレは、天守閣風のトイレをヨーロッパに造るのと似たようなことではないでしょうか。

これだけディズニーランダゼイションが蔓延している公共空間に、それぞれ固有の魅力を見つけ出すことは容易ではないかもしれないです。(私は見つけたいと考えています。)もっと中身のある建築があってもいいはずです。公共空間を充実させようと突飛なものが増えるのなら、「無理に造らなくてもいいのではないか」ということも考えられますが、やはりそれでは寂しいですね。

無味乾燥なものより、建築や空間にやはり何らかの意味を持たせたいです。旅行へ行くのに、大体の人は「そこへ行く」のは、その場所の意味を、そこでしか持ち得ない意味を知り、雰囲気を味わいたいからだと思います。快適な場所の条件の一つとして、場所の感覚が挙げられています。特色のある視覚表現が場所の感覚を生み出すのに役立ち、それを通じて人々を空間に誘い出す効果を持つらしいです。そういったセンスの良さが表れている空間がもっと出てきて欲しいです。そういうアイデアを色んな分野の人たちが集まって考え出したり、公募してみたりするのもいいかもしれません。(もうやっているんでしょうか。)それだったら、より愛着を感じることができるかも。薄学なので、とりとめのない感想になってしまいました。まだ読みが浅かったかもしれません。

最近、昼夜逆転の生活を送ってしまいます。いけない、いけない。4時過ぎに、新聞配達をしている原付の音がよく聞こえるので、「朝が始まる時間があるとしたら4時かもなあ。」となんとなく思います。

STさんは、現在産業社会学専攻の4回生で、現在私の講義も受講しています。しばらく前から、メールのやりとりをしていたのですが、今回漸く「ゼミ生以外の方々の声」にメールを掲載してもいいと言ってくれましたので、HP上でカミングアウトしてもらうことにしました。(片桐)

6.MTさん(2000年度関西大学2部社会学部2回生) 2000.4.22

はじめまして。いきなり失礼します。2部社会学部のMTと申します。先生の授業はまだ受けたことはないのですが、関西大学のHPから、片桐先生のHPに辿り着きました。趣味のページの小説や社会学を考えるなど読ませて頂き、感想など送ります。

『紫陽花』は学生紛争という事件として名前は知っていますが、どのようなものか?何が起こっていたのかは知らなかったです。参加した人の心情より、興味深かったのは参加しなかった人が何を感じていたのかでした。また、学生紛争のような訴えでは社会は変わらないものかもしれませんが、訴えることを止めてしまってはいけないのだとも感じました。

『社会学を考える』は私が入っているクラブで揉めているときに読みとても勉強になりました。特に 「第2章 政策科学としての社会学」では完璧に中立的・客観的な立場にいるは不可能ながらいかにして、冷静にその立場にいようとするかが少しでも学べたのではないかと思っています。しっかりとした価値観を私は持っているのか?持つべきではないか?と考えていたので、「価値自由」という言葉は私を開放してくれました。認識と価値は全く違うものだというのも、私のなかの割切るための線になってくれています。すべての人と親しくなれるはずはないのですから、「〜と私は合わない」と認識しても、クラブという小社会のなかでの価値は全く別のものであることが当然なのでしょう。「なんとなく知っているという状態と明確な形で表現された状態は、おおいに異なる」という先生の言葉のとおり断片であっても、表すことは大切であると思いました。

最後にあまりにも社会学からかけはなれた感想、意見で申し訳ないです。先生のHPは勉強になりました。それを伝えたくメールさせて頂きました。今後も楽しみにしています。がんばってください。では、失礼します。

5.TG君(1996年関西大学工学部卒業) 2000.2.25

ホームページ,だいたい読みました.イギリスの分は全部,読みました.めちゃくちゃ,おもしろかったですし,結構ファンになりました(笑)...うそ.僕も,この(笑)は,大嫌いで,中田がホームページで自分の文章に使っているのを見て,がっかりしていたところでしたので,「よくぞおっしゃってくださった」というところです.

普段入れない建物の見学日があるとか,子供が自由に遊べないとか,勝利国,敗戦国としての違いだけでは語れない,戦争に対する考え方の違いとか,お父さんがカボチャは食べたくない感覚を,イギリスで芋で体験とか,マークス寿子さんが教育相談感覚のママを軽くあしらってらっしゃる話とか,おもしろかったです.ほんとに.イギリス好きの友達にも,このホームページを見るように勧めてみます.イギリス人に嫌われてる日本人みたいな本も読んでみようと思います.

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突然ですが,私が最近思っていること.

欧米には,「察する」,「汲み取る」という文化が,あまりないような気がします.日本人は不満なことがあっても,口に出さずに「飲込む」ときが多々ありますが,相手も,こちらが,「不満を飲込んだ様子」を察して,「すいません」って思いますよね.その「すいません」を,また察して許してしまうとか.(こうやって書くと,沈黙の応酬ですね.確かに欧米人が見ると恐いかも)欧米人は言わなきゃわからない,言われるまではOKみたいなとこありますよね.片桐さんは,果たして,どちらが良いと思いますか?僕はわからないのです.

やはり,日本人には,いちいち言うのって疲れますよね.寅さんも,「それを言っちゃあ,おしめえよ」という,「みなまで言うな」という文化ですね.例えば,隣りの部屋で夜おそくまで友達を呼んで騒いでるアメリカ人がいるとします.うるさかったら「静かにしてください.明日はテストがあります」と注意するべきなんでしょうか?注意しなかったら,それを許容しているということになるのでしょうか?

話は飛びますが,この「察する」文化こそが,日本のサービス産業の質の高さを生み出していると思います.ちょっと,今,具体例が思い浮かびませんが,イギリスのサービス産業って,言ったらやってくれたり.持ってきてくれるけど,言わなかったら,やってくれなかったり,持ってきてくれないものとかありますよね.言わなくても,「察して」くれよ?って思います.「察し」すぎて,潜在需要,潜在欲望まで,コンビニ産業は掘り起こしてますが...

しかし,この「察する」という文化こそ,日本の未熟な社会の諸悪の根源という説も,もちろんありますよね.関大図書館でも,静かに勉強している時に,横で話をしている人がいたら,直接,注意することはしたくないので,「私はあなたのせいで勉強に集中できない」ということを「察して」もらおうと,咳払いしたり,耳ふさいだり,非効率なことしますよね.それで,挙句の果てに,館内放送で「みなさん,図書館では静かにしてください」なんて放送してもらったりして,聞きたくない人まで館内放送を聞かなければならない.とか.この理論は.日本がなぜ,公共の場で案内放送地獄になったかという,「うるさい日本のわたし」という本に詳しいです.これは,欧米人なら,素直に,「静かにしてください」って注意するんでしょうね.

なんか,うまく,まとまりませんが,この「察する」という文化の有無について,片桐さんのご意見をエッセイにでも書いてくださればと思います.では,では.

TG君は、ロンドンで知り合った関西大学工学部出身の青年です。

(返信から一部抜粋 「察する」という文化について)

私はこの点に関しては、欧米派です。「沈黙は金」なんて言葉は好きではありません。言葉に表現しなければわからないというのが、私の持論です。確かに相手の表情や一瞬の戸惑いの仕草にいろいろな感情を読みとることはできます。でも、それは正確かどうかわからないし、その判断で行動して次のリアクションがうまく行かなかったときにも、相手はそのことに関してなんら責任を取ってはくれません。余程明確に表現された行為(例えば他者に危害を加える行為)を除けば、あくまでも言語として表現されたものにしか、人は責任をとる必要はないのです。

そもそも日本人はそんなに鋭く「察して」いるでしょうか?後ろから来る人のために前の人がドアを押さえてくれていたら、次は自分が押さえる番だと察するのは、日本人でなくイギリス人ですし、地下鉄の駅で頼まれなくてもベビカーをあげるのを手伝うのも日本人ではありません。日本人の「察する」文化なんて、私は信じていません。(片桐)

4.UY君(1999年度関西大学社会学部3回生) 2000.1.13

お久しぶりです、関西大学社97-??のUYです。覚えていらっしゃいますか?

ロンドンは寒いんでしょうね。こちらは、雪国の生まれの僕としては、すごくあったかく感じます。そろそろテストのシーズンとあって、深夜まで起きて勉強しているんですが、「文化社会学」のレポートがやっと終わって、だらだらと自分の学校のホームページを見ていたら(これが意外とおもしろいんですよ)、片桐先生のホームページを見つけて、おお、と思い感想がてらにメールなど打っておる次第です。こまめに更新なさっているようで、かなりの量の文章を読むこととなりました。ロンドン便りなどは、なかなか読みごたえがあり、先生が充実した留学を送っているさまが目に浮かびます。

小林氏を90年代最大の論客と言い切るとは・・・先生らしかぬ感じがしました。話は変わりますが先生は2000年度三回生のゼミに「戦争論」を読んで感想を書けという課題を出したそうですね。小林よしのり氏のこの本を生徒に読ませるとは、なかなか先生らしい選択だと思いました。短いですが、僕のこの本に対する感想をひとつ。

まず、戦争に対するスタンスですが、基本的ニシニカルな人間である僕は「戦争はいけません」という一方的な物言いに?がついてしまいます。確かに戦争は悪いことだよ、だけどさあ・・・という風に少し反発したくなります。僕の祖父は戦争で、満州において戦闘をし、足と腕に弾丸を受け、今でも生々しくその傷跡が残っています。そんな戦争で被害に遭いながらも、戦後日本を復興したのも祖父達の世代であり、「戦争はいけない!日本は悪だった!」というような物言いには、「だけどね」と言いたくなります。その「だけどね」の部分を拡大していくと、小林よしのり氏の言い分になっていくと思われます。しかし、「第二次大戦中、日本こそが正義だった!」と言う風にされてしまうと、「だけどね」とまたいいたくなってしまうのです。まず戦争において正義という言葉を使うこと事態が、非常にナンセンスだと思われるのです。正義を疑え!というのが、彼の基本的な考えだと思うのですが、それなのに正義という言葉を使われると正直「?」という風に思ってしまいます。また、もし、戦争に正義を持ち込むとしたら、それは「勝ったもんが、正義」だと思うのです。簡単で、シニカルで、自分の意見があまりない物言いですが、戦争についてはこんなところでしょうか。だけど、この本の中でやりたいことって言うのは結局「国家論」であると思います。そこまで言及し始めると、かなり考え込んで書きこまなくてはならないので、また、後日でもメールします。

補足すると、小林氏のしていることというのは「メディアリテラシー」だと思います。メディアを、特に大新聞を疑え!というのが彼の行っていることです。だけど彼自身が「巨大なメディア」になっているという矛盾も起こしている気がするんですが。

僕はゼミでは「おたく」にまつわる事象を研究しています。なんでかといわれると困るんですが、強いて言うとおもしろそうだから(笑)。まだまだ確かにマイノリティーな存在ではある彼らですが、僕には今ある日本の「変化」を象徴しているように感じるのです。気がするだけかもしれませんが。

ロンドンはまだまだ寒いだろうと思います。先生、ご家族の方ともどもお体にお気をつけて。

3.SMさん(1993年関西大学文学部卒業) 1999.5.15

突然、メール差し上げて申し訳ございません。

私は、大学4回生の時(平成4年)、文学部の社会学の授業でお世話になっていた、SMと申します。関西大学のホームページを読んでいる時に偶然先生のホームページを見つけ、懐かしくなって、ついついメールを差し上げてしまいました。

HPのゼミの内容を読みますと、先生がよく自然休講ぎりぎりの時間にこられたのを思い出しました。これほど活気のあるゼミだったら授業の延長も仕方がなかったのだろうなあと思いました。でも、少しゼミの学生がうらやましく感じました。

先生の授業は、4回生の時に受講しましたが、先生の授業がとても大好きで、都合で1,2回休んだだけで、ほとんど出席していました。先生にもっと早くお会いしていたら、もっと違った、4回生になっていたのではないかと思った事もありましたが、社会に出る前に、先生の授業を受け、社会の見方や考え方を学ぶ事ができ、よかったと思っています。

これからもお元気でがんばってください。

2.HNさん(1995年関西大学社会学部卒業) 1999.4.21

お久しぶりです。そちらでの生活は、いかがですか。

片桐ゼミのホームページを拝見いたしました。なかなか情報処理センターへ行くことが出来ず(すごく混んでいるのです)、感想が遅くなってしまって、すみません。あれだけ作るのは、とても大変だったのではないですか?。先生のとてもマメなところには、とても驚きました(私は結構ずぼらなので)。

特に楽しかったのは、やはり「つらつら通信」と「ロンドン便り」です。先生らしい辛口の意見も入りながら、学生サンを思いやる気持ちがよく表れていました。先生ご自身のプロフィールについては、「ご家族のことなんかもふれてあるのかな?」とか思っていたのですが、結構硬めだったので、少し驚きました。でも、他の研究者の人が見ると考えれば、仕方ないのかもしれませんね。これからも、またホームページを拝見させていただこうと思っておりますので、色々書いてくださいね。楽しみにしております。

1.YMさん(香川県の高校3年生) 1999.4.18

はじめて、お便りさせていただきます。

私は、現在、高校3年で、社会学に興味があり、できれば大学は、社会学部に進みたいと考えています。関西大学のホームページの社会学部を、拝見させていただいたところ、ホームページを持っている先生方が何人かいらっしゃり、その中でも片桐先生にお話しを聞いてみたいと思い、突然ですが、お便りさせていただきました。

関西大学の他にも、社会学部を設置している大学はたくさんありますよね。大学案内や、各大学の案内資料を見て比べてみても、ここが、他の大学とは違う!といった特色や異なる点が分かりにくいのですが、関西大学の社会学部の方針や「ここが、他の大学とは違う、」といった特色や、異なる点など、知りたいので、もし、よろしければ、教えてください。返事、待っています。

(返信)

メールを読ませていただきました。ご期待通りの回答ができるかどうかわかりませんが、わかる範囲でお答えしましょう。

他の大学の社会学部とは異なる関西大学社会学部社会学専攻の魅力を一言で言うのは、なかなか難しいですが、そうですね、社会学が好きで熱心に指導する先生が多いと言うことではないでしょうか。皆さん柔軟な社会学観を持っていますので、自分の好きな自由なテーマで研究をすることができると思います。また、私のホームページを見ていただければわかるように、ゼミによっては非常に密度の濃いつき合いができることも特徴になるでしょうか。

いずれにしろ社会学は本当におもしろいやりがいのある学問ですので、ぜひ頑張って社会学をやってください。