Sunday, February 20, 2005 PART II
ブログできちゃいました。

Sunday, February 20, 2005
友近、友近、といっていたら、友近のことが気になってきた。んで、調べてたら
ピン芸人の殿堂、R-1グランプリにの最終選好に残って、今日がその決勝らしい。
4時から放映とのことである。

さて結果をみると「ほっしゃん。」が1位、「井上マー」が2位、友近は4位であった。
今日の笑い度では私の感覚とぴったりだったので、審査がうまく機能していると
感じられた。伊藤四郎、間寛平、大竹まことなど、年季のはいったお笑いピン芸人
が審査委員で迫力があった。実は、ひそかに友近にグランプリが決定してる
できレースではないかと思っていた。過去の他局のコンテストや賞ではそういったケース
が結構あったので。

「ほっしゃん。」と「井上マー」は、奇しくもどちらもかなり言葉の遊びを使用している。

「ほっしゃん。」は、多義。
女の格好して入ってきた「ほっしゃん。」は、カフェのカウンターで
一人で夕食を食べる年増のOLという設定。ロールキャベツを注文したはずなのに、
カフェの店員はオールキャベツと聞いた、と肉抜きのロールキャベツを出してきた。
これに逆切れして、そしたら名前はすべてその意味になるのか、言葉は状況を考えて
理解しないといけないではないか、と屁理屈を述べ始める。
ジンジャエールというのは、お寺に負けるなぁーとか、神社を応援すること?
がんもどき、ちょっとひどい胃潰瘍みたいな感じ?
カリフラワーって、一応花、みたないな?いまんとこ花みたいな?
げげげの鬼太郎の目玉の親父っていうのは、お勧めの親父ってこと?
今、一押しの親父っていうこと?
言葉の別解釈でぐいぐい押していく。ほとんどが駄洒落なんだけど
そのままいうのでなくて言い換えて実演する感じが面白い。
「ピンポーン」「はーい」ガシャ「こんにちは、クール宅急便です」(と田村正和風に)

井上マーの方はあきらかにメタファーによる多義と擬人化。こちらは擬人だからかわいい。
永遠の青春アイドル、尾崎豊風に入ってきて、尾崎のいいそうなことを絶叫する。

おでんの鍋の中で、昆布まきが叫んでる。「俺だけが縛られるのはいやなんだぁあああ」
酢豚の中に入れられちまったパイナップルが叫んでいる「ここは俺の居場所じゃなぁああーーいぃ」
ブラジャーの中に無理やり入れられたパットが叫んでいる「俺、もう嘘なんかつきたくないんだぁぁああ」
レンジでチンされた後のコンビ二弁当の中のお漬物が叫んでいる
「俺にはぬくもりなんて必要ないんだぁああああ」
どこへ行ってもしかめっつらされちまう、二千円札が叫んでいる。「じゃあ、俺、どうして生まれてきたんだぁあ」
凍りすぎて、そう、かっちんかちんになったカップのバニラアイスの横で、
小さくて薄っぺらい木のスプーンが叫んでいる。

「すまないけど俺なんかじゃぁあああああああああ
                 お前を、すくえない.......................................................」      パチパチパチ

友近は確かに面白くなかった。銀座のママのネタとかをやればよかったのに、女をウリにして
賞を取りたくなかったのだと見る。面白くなかったが、一部すごくよかった。
ソーセージ一筋の女社長(Mrs. Fieldというクッキー屋チェーンの社長のようなトンボ眼鏡)という設定。

.......................................................................

ソーセージソーセージって簡単にいうてるように思うかも知れへんけどいうけど、
これいうのに10年かかってる。アメリカンドッグの人には言わせてもらえない、

基本ね、、アメリカンドッグから売り子はだいたい始まるんですよ、
(いきなりホワイトボードに絵を描き始めて)
(左側に二重の長い丸を描いて)これアメリカンドッグ、
(右側にソーセージの絵を描いて)これ、ソーセージ、
こっち(アメリカンドッグ)からこっち(ソーセージ)にみんな行くんです、(→を書く)相当の努力が要りますよ、
こっち(アメリカンドッグ)からこっち(ソーセージ)に行くことはできるけど、(←を書く)
こっち(ソーセージ)から、こっち(アメリカンドッグ)には行くことはできない、
いくことはできるんだけど、行きたくない、それはなぜか、それはソーセージに魅力にはまってしまってるから。

戻りたくないですよ、っていってる。
(もの想い顔になっている)

アメリカンドッグってね、こうやって、衣、羽織ってるんですよ。これ(ソーセージ)なにも羽織ってない、
これだけの生身の人生で送ってる。これ(アメリカンドッグ)ね、衣、羽織ることによってね、ごまかしの
人生を送ってるんですよ。皆さんも一緒、一枚、二枚、三枚と服を着ることによって、
ごまかしの人生を送ってるんです!

(椅子に座ってうつむいて、大きくひとつため息をつく。うつむいているため、マイクがその
音を大きく拾う。)


ここだな。その後の間(ま)が短すぎた。

でもそのため息をついた瞬間、友近(の演ずる女社長)の頭の中に、さまざまな人生の映像と
感情がさざなみを立てたことは間違いないのだ。

そして、その一瞬、友近=女社長の異様な精神世界の内面を垣間見せたこと、
それだけで価値があったと思う。

それから、この女社長のように、「相手がいきなりボードに何かを書き始めてそれがちんぷんかんぷん」
という状況は実際にはよくある。なんらかの前提が隠れているのである。それもたくさん。
何が隠れた前提であって、何が忌避されるものであり、何が価値、探求されるべきものであり
を知ることは文化理解の大きな要素である。

それから、時折、友近見せる、対人恐怖のようなおびえた視線が好きだ。

また、、因果の組み立ては、大変重要である。「だから」とか「なぜなら」とか。ちういちうい。
コミュニケーションでは、何かを前提にし、何かを主張している。
何を所与とし、何を問題として取り上げ、それに対してどのような主張を行うか。
一般に前提は共有されていると思われているが、おうおうにして、どの前提を取るか、
自体が戦場となることも多い。これがCDAの話題である。これも、一応、題材として
挙げておいておく。

1.慣れについて
2.文化について
3.因果について
4.社会と個人のついて
5.CDA

リスク管理言語学について裏Griceについてが終わったので、ちょっと減ったが相変わらず
上位陣は不動である。やるきあるのか?

CDAについてPreview
CDA Critical Discourse Analysis 批判的ディスコース(談話)分析
0.PositiveとNormativeに関して
@受験者数の例
A飲み会の例
B認知言語学とCDAのかかわり(Construal:解釈)について
C認知言語学とCDAのかかわり(Frame:フレーム)について
D因果とCDA
E前提と主張
F裏グライスとCDA



Saturday, February 19, 2005 PART II
Euphemismに関して。卒論ででているが、これは面白いテーマだ。
婉曲表現などと言われるが、隠語、スラング、雅語、様々なモノが入る。

お手洗い。別に手を洗うだけの場所じゃない。
ものほん。なんでふつうに言えないのか?
メゾンドリビエール という名前の文化住宅だったらちょっと騙された気がするだろ。

そういう用語が必ずしも悪いと言っている訳じゃない。以前述べた、フレームというのも
ここに関わっても来るな。ケチと倹約家とか。unborn baby とfetus (胎芽)とか。

どのようにずらすか、ということ自体も面白いが(お手洗いの場合、行為の一部を
取って全体を表している>メトニミー

どのような動機があるか、というのも面白いが、(汚いもの、恥ずかしいもの、
言葉を使ううちに古くさくなってしまうもの、許されないもの、社会的でないもの)

後者に関連して、Tじ先生と以前少しメールで盛り上がっていたのが、「裏Grice」論だ。
うらぐらいす。略してうらぐら。お、響きもいいぞ。

簡単に前提を説明。

Griceというりっぱなじいちゃんがいた。この人は会話の氷、ではなく、て「会話の公理」
を発明して売り出した。リンク(例があんまりよくないので注意:ちなみに会話の公理で検索すると
たった30件の中にcricketのページがでてきて(*_*)。

1.べらべらしゃべるなよ。(量の公理)
2.嘘つくなよ。(質の公理)
3.それ、俺に何がいいたいわけ?(関連性の公理)
4.はっきり言えよ。(様態の公理)

別名、協調の原則ともいう。会話とはお互いが良くなるために行うものである、
という暗黙の了解があるわけだ。

これは、もちろん故のないことではない。なぜなら、人間は一人では生きていけないものだから。
(ん?このフレーズ、嘘っぽさがいいね。これから多用しよう)

しかし、現実には、協調だけが人間関係ではない。そして、言語は得てして「欺くため」
に使用されるのだ。だまし、疎外し、伝えないために言語は使用される。

これを仮に「嫌な言語」と呼ぼう。
そして、この嫌な言語の研究を「嫌な言語学」と呼ぼう。

嫌な言語学では、この暗黙の了解をひっくりがえす。セーターを脱ぐようにである。
そうすると会話の公理はひっくりがえる。

嫌1 饒舌であれ
嫌2 本当のことを言うなよ。
嫌3 関係のないことを言え
嫌4 わかりにくくしゃべれ。

んー。これって普通の会話じゃない?... 具ライスって理想主義者だったんだねえ...(遠い目)


Saturday, February 19, 2005
S田さんにイタリア土産としてもらったパルメザンチーズをスパゲティに振りかけて食べる。
カルボナーラにします、といったのだが、卵とミルクがなくて買いにでるのもおっくうだったので。
ネギも入れた。食材には尊敬できるものが多い。麺類一般にそうだが
(そばに関しては国語のY本先生に聞くように)特にスパゲティのことを思うといつも、
畏敬の念を抱かざるを得ない。すごいなぁ。うまいなぁ。安いなぁ。失敗しないなぁ。
ぱりぱり感がいいなぁ。乾麺をそのまま食べたりもしているのである。いためてよし、
スープ状にしてよし、掛けてよし、洋風でよし、和風でよし。特待生で卒業である。

野菜では、にんにく、アボカドなどの異能戦士もさることながら、たまねぎの多機能性に
注目している。安い。味噌汁の具として私の中でNo.2か3である。炒めてよし。
煮てよし。カレーなどでは甘みがすごく出る。刻んでよし、スライスしてよし。
何よりえらいと思うのは、薄く切って水でさらし、鰹節としょうゆをかければ、ほら、酒の肴の
できあがり。りっぱなものである。

ネギはたまねぎの兄弟であるからにして、その潜在性にはなかなかのものがある。
その形状でたまねぎに対してかわいさと保存性において劣る点で損をしているが。

最近読んだ本
「人生うろうろ」清水義範
イッセー尾形的。これは「文体模写」のような「人物模写」であると解説に書かれていたが、
両者の違いは、栗田貫一とイッセー尾形の違いのようなものであろう。パスティシュはたしかにパロディとは
異なるものであると納得。(ちなみに巷ではドラえもんの声の大山のぶ代がやめるのかんのという
話がでているが、私的にはぜひ栗貫にやってもらいたい。サザエさんや、笑うせえるすまんなどなど、
有名どころはすべて栗貫にやってもらいたい。ところで、イッセー尾形を人物模写とするならば、
友近もそうだなぁ。)

「遠い海」井上靖
「しろばんば」の作者だと思っていたのだが全然雰囲気が違うので、別人かと思った。
大時代的。平岩弓枝でも書けるであろう。両綾子でも書けるであろう。戯作は書かなければ
書かないに越したことはない。面白いのは面白い。

「ドサ健ばくち地獄(上)」阿佐田哲也
朝だ!徹夜!をペンネームにしたばくち狂いの作者がばくち好きのだらだらを書いた話。
どうせ儲からないばくちとわかりつつやる馬鹿の中でも、カモられて泣きを見る本当の
馬鹿でないのは誰かを証明するため(だけ)にすべてを捨ててばくち道をまい進する。
こんな生き方しかできないやつらもいるんです。よく書けててるけど、よんでるとやさぐれてくるので注意。
こういうの見ると「タナトス」なんて言葉だけで言ってても、って感じです。

(ところで、「タナトス」で引いたら村上龍の文庫が2004年3月に!さすが龍にいさん、
やりますねぇ。ま、最初からエロスとタナトスのことばかり書いてたような人でしたから。
ちなみに、私が一冊勧めろといわれたら、「限りなく透明に近いブルー」をお勧めします。
この人の「人、と、なり」はちょっとねぇ、な人になってしまったけど、すべての本の中で一冊は
これです。次は、Metaphors We Live By かな。(参考文献参照))

ところで遅ればせながら、合格者の人、おめでとう!不合格だった人はB日程がんばれ!



Friday, February 18, 2005
テニスをしたとき思いついたのが、"smart sensing"ということだ。
例えば、ボレーを打つとする。サーブでも、ストロークでもなんでもいいんだが。
ま、ボレーを打つとする。もちろん、ボレーを打つフォームがあり、速度があり、体重の掛け方
があり、方向性がある。ストレートに返すのかクロスに返すのかでも違うが、それはバリエーションとする。
ボレーにまつわるそのような身体運動のパターンがある。
これは反復によって学習されるものだ。
しかし、反復によって学習されるのは身体運動だけではない。その身体運動に合わせて
ボールを捉える望ましい位置も正確にしなければならない。
ボールの速度、角度、t時間後に来る位置の計算、
このような認識を行い、適切な位置でボールを捉えねばならない。
これも反復によって学習されるものだ。
何に注目するか、どのような要素に注目し、どのような認識的計算を行うか。
これをある出来事・行為の中で最適化することをsmart sensing と呼ぶことにする。

昔、センサーの会社に通訳にいったことがある。製紙工場や新日鉄などの鉄板工場で、
高速でながれる紙や鉄板の傷や汚れをカメラで検知し、その種類を見分け、それに従った
対応をする。ゆっくりながす、止める、無視する、数が増えたら止める、警告を出す、など。
カメラは漫然と見ているわけではなく、目的に沿った特定の視覚的特徴を探している。
人間の目も多かれ少なかれ選択的注目と計算を行っているのだと思う。

つまり、視覚といえども、受動的なものではない。
すべての感覚はある程度選択的である。
ある感触に意識をそばだてる。
聞き耳を立てる。あるいは、自分に関連した語が聞こえたときだけ意識に上る(カクテルパーティ効果
と呼ばれる。)
意識的であれ無意識的であれ、人間の五感は選択的であり、すべてを「あるがままに」
見聞きすることはありえない。

以前、文化の定義の「行為」に「思考」も含めたが、認識にもある種の選択があると考えると
認識もある種の行為と考えることができる。とすれば、「認識」「思考」「行為」をすべて
「行為」として一括して考えることができる。

ある文化ではある色や形、あるいはにおいや味に敏感である、という言い方をすれば
もっと納得しやすいであろう。


Wednesday, February 16, 2005 PART II
テニス→ジム→プールの後サウナに入る。
小さなとき、タオルを4つに折ってしっかり水を絞れなかった。
子供の力では無理だった。それができるようになることが大人になる条件
だと思ってた。今でも固く絞れない。

手首の力をトレーニングしたことはある。中学校に入ったとき、
バスケット部の先生が、教えてくれた。コーラのビンに砂を入れて、両手を前に突き出して
手首を何十回と上下する。いいシュートを打つには手首の力が重要だ。
先生が教えてくれた秘術のトレーニング。

当時、コーラは250mlが普通だった。やっと500mlビンが出始めたころだった。
僕たちは土曜日の練習が早めに終わると校門の前のパン屋で、コーラやファンタや
スプライトを飲んだ。のどがからからの時は500mlビンを飲んだ。月間ジャンプを読みながら。


Wednesday, February 16, 2005
論文を提出しに行く日。前日までにできれば郵送するのだが、当日なので手持ち。
前回は、日曜日の夜10時くらいにその大学に赴き、
「必着とあったのでお持ちしたのですが、XX先生はいらっしゃらないようなので
お預かりいただけますか。今日持ってきましたからね。今日。」と
守衛室のおじさんに愛想を振りまきながら渡す。

日曜日の夜10時に教授が学校にいるわけないだろ。

それでも行く。

本日はそれよりはまし、午後一ごろには持っていけそうである。

せんせえだって楽じゃない。

7月17−22日に韓国ソウル市で行われる国際認知言語学会に発表が受理された。
それから、どうも10月1日2日にある時事英語学会のシンポジウムんでパネリストをやることに
なりそうだ。
扉に書いたように、3月4,5日には関西大学で人工知能学会のことば工学研究会が
開かれる。それから、6月4日、5日には同じく関西大学で、うちのY本A一先生を中心として
関西言語学会が開かれる。2月28日が応募最終なのでチャレンジしてみ。
学会活動からちょっとご無沙汰してたけど、また忙しくなりそうである。


Tuesday, February 15, 2005
最近調理した食材 はまぐり ボンゴレ風にしました。んっめえっ!

最近気になっている語 「触れる」「つなぐ」

最近思うこと。実例。
これはスキーマとExample(プロトタイプ)というテーマなのだが、
例えば人間に関して言えば、「スチュワーデスになるにはどうしたらいいですか」
これとこれとこれとこれをしてください。というよりも、何人かのスチュワーデスを見て
その人たちだどのような経路でそこにいたったかを知ったほうがずっとわかりやすい。
習うよりなれろ、理解するよりなってみろ。

(もちろんスチュワーデスになることを進めているわけではない。
銀行員でも院生でも冒険家でもなんでもいい。)

ところで、佐伯某先生の古いご本がアマゾンから古本で届きました。
理解できないんですが、もしかしてすごいことが書いてあるような気もします。
視点とか、「なる」ということに関してなんですが。


猫の漫画雑誌をもらった。文化は必ずしも空間的隣接性で
規定されるわけではない例としてこれを挙げる。(それプラスいろいろ)

猫好き専用の漫画雑誌があるんだよ!!

猫(ニャン)だ!パークってあるんだよ!!
120頭の猫を放し飼い!って多いのか少ないのか???つか、猫日常にいない?

千葉県安房郡富浦町だよ!!

富浦といえば、某メーカーに勤めていたとき、部長秘書3人と私および私の先輩2人で
合コン(一回のみ)した輝かしい日々を思い出す。富浦さん、元気ですかぁ。
そのとき、だれにどんな車が似合うかといわれ、「N島さんは....うーんと、ちっちゃなフランス車!」
かなんかいわれたことを思い出す。うーん、しょんぼり。

け。O先生のようにBMW乗ってやる。(野望)

それはともかく。猫雑誌は、くだらないけど猫をかったことのある人には、あるあるあるある!
と乗り乗りになるネタ満載。

★カメラ目線の話。なんで猫って写真取られるときポーズとるんでしょう?子供も取るけど
猫も取るよね?

★甘がみの話。妹がお姉ちゃんに駄々こねてるときだけ、猫が背中に甘噛みするという。
どうもその妹のことを格下と見ているらしい。

甘噛み、という概念も面白い。じゃれて甘噛みする中で、噛むことと噛まれること、その程度、
どこまでだったら痛くてどこまでだったら大丈夫か学んでいく。他者と自己との対応付け
の重要な学びの要素であることは動物学などで聞いたことがある。

(言語的にいうと、「甘い」ことと「透徹していない」ことの関連性はこのあたりにあるかもしれない。)

★夢。夜中にがばっと起き上がって壁に向かって毛を逆立てている。どうも夢を見ていたらしい。
私も子犬をもらってきたとき夜中に寝ているのに母親に甘えた様子でくんくん鳴いているのを
見たことがある。犬や猫は夢を見る。これが事実だとすると、displaced image のようなものが
犬や猫でも可能、ということになる。displace image が思考だとすると、犬や猫にも思考がある
ことになる。動物には思考も感情もある。一般には自明のことだが、これを認めると大変なことになる。
犬や猫に恐怖はあるのか。あるだろう。犬や猫に自分の身に将来起こることを想像する能力が
あるのか、あるだろう。であれば、人権とともに、犬権や猫権を考える必要があるかもしれない。
じゃ、牛は?豚は?鶏は?

★うどん
一コマ目(女の子が猫を胸元で広げた形で抱っこしている)「一発芸をします」
二コマ目びょーん(猫の体を伸ばす)
三コマ目ぶらぶら(伸ばした猫の体を上下に揺らす)
四コマ目うどん屋のマネ(意味不明)(猫はニコニコうれしそうにしてハートマークが出てる)

これ、かわいいんで、今度アップします。

ま、ともかく、「戯れ」というか、一緒に何かすること、組で何かすること、んでそれ自体は
たわいのないことなんだけど、一緒にいて一緒に何かする、っていうのはうれしい。

そういえば、うちも、猫がいたころ、かくれんぼしたなぁ。
ばんちゃーん、どこにいるの?といって探す。どこのいるかはわかってるんだけど、
知らない振りして探す。こっちが心配そうすればするほど喜んでいたようだ。

それから、slide(そり)もした。JUSCOとかの紙バッグをぺしゃんこにして、
のもち手にリースつけて、猫を乗せてひっぱる。喜んでたなぁ。

私、猫馬鹿でした。)(

★洗濯カゴ散歩。
猫を洗濯カゴなどに載せて移動させるとうれしいらしい。そういえば、この間、自転車のカゴに
ちわわかポメラニアン乗せてるのを見た。犬はカゴの前に両手を掛け、ニコニコしてた。
得意げですらあった。きっと、ときどき一緒にしてるんだろうなぁ。

その他、お台場にある「キャッツリビン」という猫&家テーマ館の紹介とか、ねこ漫画家の募集、「猫びより」という「ちょっとお洒落な大人のねこマガジン」の広告、など、猫業界はひとつの産業だ。んで、猫好きでない人には入れない業界。猫のことを知らないと猫漫画はかけないし、雑誌作ってても面白くないぞ。逆に言うと、好きなものや好きなことがあったら、その業界にいけば歓迎されるかもしれない、少なくともほかの人よりずっといい位置にいるということ。

まとめ
1.それぞれ一緒に何かすることにお互いに慣れていく。共同行為。
2.猫や犬だってこころを持っている
3.同じテーマに興味を持ってそれについて考え、行動している人々はそれだけでひとつの文化を
共有している。
4.好きなことがあったら同じ興味を共有している人は、意外にいて
それ自体仕事の種になる可能性がある


Sunday, February 13, 2005
ライブドアがニッポン放送株式取得で話題になっている。年末言っていたのはこれかな。
繰り返すが堀江さんの「人、と、なり」はあんまり好きじゃない。だけど、
「銀行を作ろうと思っているんです。引き出すたびにお金を取られる、あれ、いやじゃありません?」
という発言、喝采した。おかしいことはおかしいとはっきり感じられる曇りのない認識は大切だ。
そして、おかしいことを惰性で続けるのではなく、変えられるところから変えていく、というのは
大切なことだ。そして、創造的な方法で老朽化した社会の隙をつく合理性は小気味よい。

おかしいところにいると目まで曇る。いや、普通のところでも、時々おかしいことがあって、
慣れていると疑問を唱えることを忘れてしまうのだろう。

赤ん坊のように純粋な目を持て。慣習に絡め取られてはいけない。

それにしても、新球団騒動でも結構広告効果があったことに味を占めたか、ホリエモン。


今朝、数日の間に入ってきていた広告があったが、その中に

「自衛隊一般幹部候補生募集」というのがあった。
初任給XX万XXXXエン。ボーナス年2回4.4ヶ月。中略

イベント紹介
1.自衛隊のコンサートを見てみたい
2.自衛隊の飛行機に乗ってみたい
3.自衛隊の船に乗ってみたい
4.自衛隊の戦車・車両に乗ってみたい........................................

今まで自衛隊のチラシが入ってきたことはなかった。

国防も大事だが、自分の身を傷つける可能性や他人を傷つける可能性をかたにして
定収を保障されたいと思うなら再考した方がいい。

自衛隊のコンサート???

新手のバンドかぁ?キシダンみたいな?

幹部候補生なんていう甘い言葉になびいちゃだめですよ。皆さん。


経済の観点から社会を変える方法には二つある。
自分の信念に合わない商品を買わないこと。
自分の信念に合わない職業/企業に勤めないこと。
(もうひとつは、株主としてのかかわりで自分の信念に会わない会社に出資しないこと、
だけど、大株主になってつぶしてやろう、とか自分好みの会社に変えてやろうとうのは可)

である。だからどうせ戦争なんかないだろ、と思って応募するなら
あるいは、幹部だったら戦場に立つことはないだろ、と思って応募するなら
やめといた方が身のためです。

はい、はい、政治の話はこれでおしまいね。


Saturday, February 12, 2005 PART II
「長崎博物館に『きのこ雲』の写真寄贈」というニュースが新幹線のテロップで流れている。
北朝鮮の核保有の問題も話題になっており、原子爆弾の話は最近気になる話題だ。

実は、アメリカの高校に留学していたとき、スピーチのクラスを取っていて、ひとつのテーマに
原爆を選んだことがある。韓国人留学生が日本のスピーチコンテストで第2次世界大戦の
際の強制労働問題を取り上げるようなもので、ややフェアでない感はあるが、逆に言えば、
日本人が言わねば誰が言うのか、ということでもある。

わかったことは、水素爆弾と原子爆弾は規模も仕組みも異なること。前者は核融合
という技術を使用し、後者は核分裂という技術を使用していること。なにより、核融合を
開始するには、あまりに膨大なエネルギーが必要となるため、それには核分裂を使用するしか
ないということである。つまり、水素爆弾ができるためには原子爆弾が前提とされること、
原子爆弾が核融合という巨大なエネルギーを開放する「鍵」となること、あるいは原子爆弾
は水素爆弾の「引き金」となる唯一の存在であること。広島、長崎の原子爆弾は
16キロトンTNT級(TNTはトリニトロトルエンの略である。

トリニトロトルエン
(英trinitrotoluene)トルエンのニトロ化合物。化学式 C6H2(CH3)(NO2)3 淡黄色柱状晶。トルエンを混酸でニトロ化してつくる。爆弾の炸(さく)薬として用いられる。TNT。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988)

つまり、1キロトンTNTは爆薬1000トン分である。)で水爆になるとメガトン級。広島、長崎の
100倍以上。恐るべき規模である。

戦争一般に言えることだが、爆弾を落とす人間には想像力が欠けている。
(確か三島由紀夫かだれかがそのようなエッセイを書き、私はそれを自分の入試で目にした覚えがある)

スイッチを押す人間には想像力が欠けている。

1センチの指の動きが、何千万という人間を消滅させ、苦しませ、可能性を奪い去る。

奪われるのが自分や自分の肉親である可能性を想像できない人間、
自分や自分の肉親にそんなことは起こりえないと考える人間、
相手の肉体感覚と自分の肉体感覚の配線をまったく切り離してしまえる人間は
人間ではない。

そして、それは原爆に限らない。

もちろん、人間は弱い。だから配線を切ることを余儀なくされるようなシステムや状況を
できるだけ作らないようにするべきなのだ。

そして人間は慣れる。一度配線を切ることを覚えた人間は、自分を正当化するためにも
同じことを続けて行うのである。



Saturday, February 12, 2005
エアエッジというPHSの一種でインターネット接続をしているが、我が家のPCの引継ぎは
ゆっくりながら進んでおり、その様子には満足である。

ちなみに前回は、引継ぎ最中に新人君が病気になってしまい、1ヶ月入院してやっと
退院、こちらの仕事が忙しかったこともあり、ぶらぶらさせていたのだが、今回の出張に
二人とも連れてきた。異なる環境になると仕事ぶりもかわり、目に見えて成長している様子が
わかる。特にエアエッジの件では、同じ道具を使わせても新人君の方が大変効率よく使う。
できが違うな、といってしまうと、前の子がすねるので小声でしかいわない。
前の子、といっても、もう、3年近く、PCにしてみれば、60歳くらいの実年齢(ほんとかな)
なので、引退してもおかしくない。ご苦労様とねぎらいの言葉と花束で、あとは嘱託の
お仕事を任せることにする。ただ、まだ引継ぎが終わっていない。

cricket先生はこないだから何やってるか、わかるね?

さて、昨日のことをもう一度わかりやすい言葉でまとめておく。

意味とは解釈である。
多くの人にとって同じ解釈が保障されるのは、
Cさんがいうように、「理想的な話者の集団」が想定できるからではなく、
われわれ人間がよく似た身体を持ち、よく似た文化環境におかれたためによく似た経験をするから
である。

だから、身体の相違、文化環境の相違によって解釈の成立は影響を受ける。

ジンバブエの人とコミュニケーションするのは、八尾の人とコミュニケーションするより難しいであろう。
それは言語の相違を除いてもである。

りすな留学編
ジンバブエの話がでたところで、寮の話。UMASSの中でもcricketが行ったのは
University of Massachusetts at Amherstというアムハースト(人によってはアマーストと言う)
にあるキャンパスでここがUMASSのメインキャンパスだ。よく覚えていないがともかく
ニューイングランドの田舎にだだっぴろいキャンパスを作った。学生数は、今確認すると、2万2千人、
一時に比べたら減っただろうけど、だいたいうちとおんなじくらいだねえ。

今サイト見たら食堂の写真なんか、そのままだよ。

少し前に戻って、一般的に言えば、アメリカの大学で、いい大学には私立が多い。
ハーバード、イェールなどの東部アイビーリーグの大学(どこまでがIvyリーグに入るのか、
やや定かではない)、西海岸では、スタンフォードが有名だ。それから、MITや
カーネギーメロンなど、工学系が強い大学。だが公立大学でも州のメインの大学は
がんばってる。(リンクを張ろうと思ったがあまりにいろんな観点からいろんな
ランキングが出ているので挫折。大学選びのひとつのポイントは、その「学科」がどのような
評価を得ているか、どのような先生がいて、どのような専門を教えているか、である。)
語学力を身につけたい人なら日本でやっておかないとだめ。現地に行けば語学力がつく
と思ったら大間違え。聞いた話では、オーストラリアにワーキングホリディ等で3年間いて、
TOEIC600点いくか行かないか、という人の話を聞いたことがある。なんでも、昼は
日本人向けお土産屋で働いて日本語のみを話し、夜や、休日は中のいい友達が英語が
じょうずだったので自分は一言も話さずに済ませてきた、ということらしい。

それは極端な例にしても、LAやNYなど都会には誘惑がたくさん。日本人も多いから
専門学校で英語を学んでても、暇あると日本人と一緒につるんで「牛丼くいたいべ」とかだべってて
結局英語は身につかなかった、なんてことは稀ではない。語学ならどこでもできる。

日本人とばっか遊んですごしたという例ではなく、一生懸命勉強してた人でも、日本で
しゃべれないと、1年向こうにいて、やっといろんなことが自然にできるようになったころに
帰国、となって、もっと早くからこうしたかったな、なんてこともある。だいたい、言葉が十分
ではない→友達ができない→引きこもる→話す機会ができない→言葉が十分ではない
と悪のスパイラルに陥る。もったいない。しゃべれる→友達ができる→いろいろな経験や
視点を学べる→話に面白みがでる→もっと友達ができる→もっと言葉がうまくなる
という(^^)(^^)スパイラルに入るべきなのだ。そして、それを分けるのは日本で十分に英語力
をあげていくか行かないかである。

留学を志す諸君。英語は向こうへ行けばなんとかなる、なんて神話は捨てて、
俺何やってきたんだろう、てなる危険性のあるリスキーなことはやめて日本でみっちり腕を上げとけ。
現地で学ぶのは、人間とか考え方とか歴史とか土地柄とかそこに住む人々とその生き様である
 べきだ。または、自分の目標達成のために必要な資格であったり知識であったりするべきだ。

(いかん。。。熱すぎる。。。cricketは枯れるのであった。。。)

ま、そんなこんなで、州立大学って以外にお勧め、それが無理な人はコミュニティカレッジとか
いろいろあるから、語学専門学校に行くよりは、大学、カレッジを目指すのがいいと思うな。
近隣のカレッジから有名大学に編入ってこともよくあるし。

んで、人口2万人以上のUMASSは田舎ゆえ、一年生のほとんどは寮暮らし。
cricketの住んでたのは、high-riseと呼ばれる高層ビル。たぶん、Coolidgeだったかな。
今数えると20階建てくらいですぞ。



Friday, February 11, 2005
仕事で東京に来ている。母校J大学を久しぶりに見る。
あんまり誇りに思っているわけではないのだが、その時代のことを思い出す。





こちらも入試をやってるねえ。
んで、7号館よりも大きなビルが建っている。
大学にはチャペルが似合う。うちもチャペルだけ作ったら?なんて冗談で言ってるけど
チャペルという響きもいい。異国風。チャペルが無理だったらチョペルとかタペルとか
チュペルとかチョンペルとかでもいいか。それぞれがどのようなものであるかは、
各人の想像力に委ねる。無論、チョーヨンピルとか実名は不可。チョーヨンピルの建っている
大学は釜山大学だけで十分であろう。(たぶん建ってないと思うし)

蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げたい。
蔦野からマルチャペルで祈りを捧げたい。

子供のときに歌ってる歌って意味がわかってないことが多い。

ずーっと前、言語処理の発表で、巨人の星の主題歌の話が枕にあって、

「思い込んだら 試練の道を 行くがー 男のー ど根性ーー♪」

という歌の最初のところが、

「重いコンダラー 試練の道をー♪」

だと思っていた、そして、野球部が地ならしに使っているローラー(っていうんだと思うが)
が「コンダラ」だと思っていた、

という話(と思い込みの激しい人)があった。

有楽町で逢いましょう

の、あなたを待てば雨が降る 濡れて来ぬかと 雨が降る
を、筒井康隆は、

濡れて小糠と だと聞こえて仕方がない、といったことを書いていたと思う。こぬか雨、って
言葉があるもんね。

意味がわかっていない歌を歌っている子供たちの歌にドキッとするというのも
メッセージ性という意味で、伝書鳩とか、媒体とかいう視点から面白い。
ショキ、ノーキってやつで、signifian とsignifie (あー簡単でいいからフランス語の
電子辞書欲しい)シニフィアン、シニフィエ、だから、つまり、形式と意味の分離
の問題なのだが、結局、意味とは解釈なんだよと、言い切っちまったー方が楽になれるかも、
なんてね♪(@ミスチル)

いちおう説明しとくね、これ、大変なことになるなぁ....つまり、
ある音の連なりやある発言や、ともかく形式的要素が連れてくる「意味」は不確定で
すべて社会言語学の領域に任されちゃうことになりそうだ。

それ、まずいなぁ。

事実なんだろうけど、ある部分、たとえば、"inu"はあのふさふさした動物を意味する、
ということまで解釈だとするとまずい。

まずいとすると、基本的に解釈が普通の人の間で一定であるという理想言語共同体を想定し、
その部分で扱う部分を意味論、ばらつきがあるものが語用論という区分につながる。

まずいぞ。まずい。

ま、生成文法(Cskyさん派)の人はこれ読んでないだろうから、ちょっとその間に考えてみるよ。


ところで、
「言い切っちまった 方が楽になれる かも、なんてね」って、全然言い切ってないじゃねえか。
肩をすくめてこう言っちまうアンビバレントな感じがいいんだろうけど、枯れてないね。
枯れなきゃ。w

さっきに戻って。やっぱ、解釈で、安定してない、でいいかも。
だから、社会によって(社会は以前定義したものによる)「犬」の解釈は異なるのである。
忠実さの象徴である社会もあれば、一段下の意味もありうる。
それは文化のよって異なるし、犬とdogは違うし、犬の各種の意味や映像も、
個人や社会のよって重み付けがすこしずつ異なるから
解釈に大きな齟齬を生じうるのである。
秋田の人は秋田犬を思い浮かべ、土佐の人は土佐犬を思い浮かべる。
韓国の人は舌なめずりする。いや、そんな単純なものではないだろうが、
例えば、地元で横綱の土佐犬を育てた名士をおじいさんに持つ人は、
犬に対する想いはやはり多くの人と全然異なるものがあるのだろうと思う。



Wednesday, February 9, 2005
公務が終了予定。打ち上げ会予定。

最近考えていること→いかに枯れるか。

最近の自己認識認識→自分がいかにExample-Basedな、ゲシュタルト的な人間であるか。

過去ログを見ていると12月の勝者、っていうのが書いてある。1月の勝者はなんだろ
1月の勝者→新成人
2月の勝者→受験生(合格した人)、ということで。
個人的には2月の勝者に炒り豆も入れたい。おいしいよねえ。好きってほどじゃないけど
食べだすととまらない。



りすな留学編 続き
さてと。

(毎回どっこいしょから入るおじーちゃんのようでこんな枯れ方はよくない枯れ方であろう。
つうか枯れてない。重いだけだ)

TAと教室の話。確か、確かであるが、大教室の授業は、200人か300人くらいが
授業を受けていて、これは日本でもあることだが、違いは、TAが運営する小規模のクラスが
付録についてくることだ。2時間大教室の授業があると、1時間、20人から30人規模の
小クラスで復習する。これよくできたシステムだよね。後にバークレーでTA(向こうではGSI
といっていたが)をやったこともあるが、これはPolitically Correctであるためだと思うが
GSI=Graduate Student Instructor←これ、3語の複合語の形態として分析してみてくれたまえ)
(すなわち、この場合は、Graduate Student であるInstructor の意味であるから同格だね。
通常、"Deer Hunter" など、後項に動詞みなしの要素がくると前項はその目的語にあたる
ものが来やすい)
(ちょっとまてよ、2語や3語を組み合わせるのは、厳密に言えば統語論である。
deer hunter なんていうのは、分かち書きはしているけど実は一語なんだよ、という
ことなんですかね、
U本先生?いや、こんな初歩的な問題は自分で調べます...

私の記憶には方向性がよくある。

さすがにバークレーの時は、GSIが4人くらいだったから、一人が50名近く担当してたんだな。
それに比べるとUMASSは、もっと少なかったような気がする。30名くらいか。
ミクロ経済学でなにやってたかあんまり覚えてない。マクロ経済学では、当時レーガン大統領で
レーガノミックスというたわけた政策でそれが批判されていたのを覚えている。
レーガノミックスといっても単に金を使うだけの政策だ。そのせいでアメリカは双子の赤字に
おぎゃあおぎゃと悩まされることになって夜も眠れない。そのせいかどうかはわからないが、
ソビエト連邦が崩壊した。それがレーガンの功績としたならばあれは大層な意味があったんだろうが、
これらすべて私が今、後付けで考えていることで、当時あった話はどれだけレーガノミックスというのが
ばかげているか、というところだけだ。

大教室は私の頭の中では後ろ向き、小教室は私の頭の中では右向きである。

国際経済学では、貸し方と借り方という概念を習った。
日本語でもわかりにくいが英語でもわかりにくい。借方(debit)が左側、貸方(credit)が右側
はいいが、どうして、借方に資産を書いて、貸方に借金を書くの?
credit (信用)という言葉も信用ならない。どうして、信用供与とかいって金を貸すの?
I give you credit for that. とかいったり、単位のことをcreditといったりするけど、
クレジットカードというのは資産というよりは借金のわなだ。君のことを信用してるよ、
という言葉が一番怪しい。信用してるならわざわざいうなよな、って感じだろ。

一番記憶に残っているのは、国際金融論だ。キャンパスの右のほうのはてに
(ハテ、という言葉も面白い、果て、「生涯」の「涯」で「はて」、「はてる」「ばてばて」「はてしない」
「なれのはて」果物は植物のハテだし、時間や空間、変化の「いくとこまでいった」
最終地点ということか。)
のほうに新しい校舎がある。コンクリート打ち抜きの校舎だ。この記憶ははっきりある。
教室がわからなかったからだ。迷ったと思う。ウディな感じの扉を開ける。階段教室で
舞台のような教壇があり、ドラキュラのような老人が舞台狭しと演じまくる。
国際金融論の授業なんですけどね。あーエンターテイメントなんだなあ、と思いましたね、
教育って。

イギリスなまりで(なまってるのはアメリカ人だって?)ドラマチックに語る。スーツ、
黒縁に金のめがね。たしかスティック(ステッキ?)
(キ、と、ク、の話も程度の低い雑談ながらある。ストライクとストライキって同じ語が
時代を違えて入ってきたものだ。同じ語が時代を経て変わったというものもある。
ビールス、ウィルス、ヴァイラス、などがそうだ。さすがにヴァイラスって語は入ってないか。)
メリケンがAmericanだ、っていうのは知ってたよね?昔の人の方が耳がよかったのである、
つうか文字が入ってなかったのでその先入観がなかったってことだね)
(ところで、stickという用語の多義はすごいぞ。「杖」と「くっつく」が同じ語だって知ってた?)

シルクハットまでかぶってたかな。ともかく、粋なおじいちゃんが、舞台狭しと駆け回る
ドラマチックな授業でした。んでうまい。

そのTAがまた、チャーリー浜に風格を持たせたような(よく考えるとチャーリー浜自体が
パロディだな:西欧の紳士を日本人がPoorにやるとどうなるか、みたいな。)黒金縁、ひげ、
高級かばん、高級仕立ての黒か縦じまの背広、たまにアスコットタイ、たまに胸ポケットに
ハンカチーフみたいな感じで威厳があった。あの教授にしてこのTAあり、と思った。
実はその後、この人と寮で一緒になってお知り合いになる。



Monday February, 7, 2005
昨夜は、DカーポのみーちゃんがN中君と一緒に名古屋にいく送別会。
みんなとてもいい人たちだ。その後、近所のカフェで痛飲。ダーツにはまる。

りすな留学編 続き

その後の記憶の中にあるのは、西陽のあたる小さな教室のまばらな
いすが思い思い並べられている中でTA(Teaching Assistant)の話を聞いていたことかな。
cricketのとっていた授業は、確か6つ。

国際金融論
国際経済学
ミクロ経済学入門
マクロ経済学入門
体育(テニス)

あと1つが思い出せん^^;  後期は思い出すのだが。ここでとまるとまた終わっちゃうので
またゆっくり思い出したときに言う。いや、前期は大事をとって、5科目しか登録しなかったのか。

向こうの授業は、多くの場合、

月 9:00-9:50 10:00-10:50 11:00-11:50 1:00-1:50 2:00-2:50 3:00-3:50

火 9:00-10:30 10:40-12:10 1:00-2:30 2:40-4:10

水 9:00-9:50 10:00-10:50 11:00-11:50 1:00-1:50 2:00-2:50 3:00-3:50

木9:00-10:30 10:40-12:10 1:00-2:30 2:40-4:10

金 9:00-9:50 10:00-10:50 11:00-11:50 1:00-1:50 2:00-2:50 3:00-3:50

みたいなスケジュールで、一科目が月曜日にあるものだったら、月水金の3回
火曜日にあるものだったら、火木の2回ある。週3時間というのが普通だ。

期間は、セメスター制とクオーター制があり、夏を数えるかどうかだから
実質的には、春学期(サマースクール)秋学期の2学期制と
春(夏)秋冬の3学期制がある。

私が行ったふたつの大学はどちらもセメスター制だった。クオーター制に関しては
学生からも先生からも、だいたい不満を聞いている。授業を始めて乗ってきたと
思ったらすぐ終わってしまう、試験が大変だ、などがその理由だ。

だから、きっと上の授業の光景は、9月の終わりか、10月、
秋のきれいなニューイングランド地方の、夏のぶり返したインディアンサマーの頃だと思う。




Sunday February 6, 2005 

戯言 PART III

うぐいすの隣の枝に
いるすずめは肩を寄せたげに
ちらちら窺っている
春が来つつある


(韓国の水族館にて)
赤いフリルをまとったような小さな金魚が、
隣の
ごつごつして醜いアロワナ達が
今か今かと待ちかまえる水槽に
投げ込まれる餌だなんて
なんだか凄惨な光景だ。


戯言 PART II
僕に、私に、ぴったりの相手が必ずどこかにいる
絶対に見つかるはず...
今日は一週間に一回の出逢いの日。
みんなはぞろぞろと並び、互いに詳細に見定められる
ぴったりの相手が見つかるもの
まあ、いいか、と妥協で結ばれていくもの
どうしても相手が見つからず最後まで残ってしまうもの。
最後まで残ったものも、
いつかまた自分にぴったりの相手が見つかることを
夢見て引き出しに戻って息を潜めて次を待つ。
不揃いが多い我が家の靴下達であった。


Saturday, February 5, 2005 PARTII

戯言(ざれごと)
しいたけの野郎、あいつ実は肉だと思う。
(ちなみに私はサーモンも魚でなく肉であろうと踏んでいる)

動物性淡泊質と植物性粘着質とでは、どちらがより粘り強いか。


Saturday, February 5, 2005
さてと。今日は公務はラッキーにも臨時休業の指令。シムにいそしむ。

以下を読み直して一言。
文化論の問題、に関して今一番気になっているのは、認識することの是非である。
たとえば、現状を分析していかに有色人種が虐げられているか、などを声高に主張
することは、逆に有色人種の立場を弱め、現状を強化するように働いてしまうのではないか、
という疑問である。

入試の英語における英文和訳みたいな文章でごめん。

だけど、問題はテニスレッスンにいくまでに何するかだなぁ。

井上陽水という(いまやいかれたオッサンにしか見えない)人は昔は震えるような感性の
持ち主の天才で、「傘がない」という歌で以下のように歌っていた。

都会では 自殺する 若者が 増えている
今朝来た 新聞の 片隅に 書いていた
だけども 問題は 今日の雨 傘がない
いかなくちゃ 君の町に行かなくちゃ 君に会いにいかなくちゃ 雨に濡れ

社会と個人というの面白いテーマだ。面白いことはいえないのと思うが一度は触れておくべきであろう。

なんで5番にする。

1.慣れについて
2.文化について
3.因果について
4.リスク管理言語学について
5.社会と個人のついて


漠然としすぎているので、もう少し足しておく。
平岩弓枝とかの時代には、社会の規範というのがかなりリジッド(rigid) (rigid gas permeableというと
酸素透過性ハードレンズ)な構造を持っていた、男はこうこうでなければならない、女はこうこうで
なければならない、など。社会によって、「あるべき」姿の量に多寡があるし、
「あるべき」姿の内容が違う。以上。終わったな。ひとまずリストから削除。

ついでに、リスク管理言語学についても書いておこう。

これは、I藤先生が提唱されているもので、コミュニケーションをリスク管理として捉えるというものだ。
cricketはコミュニケーションは究極には価値のやりとりである、ということをどこぞでちらっと主張しているので
それに整合性がある。価値のやり取りである、という意味は、

「XXはいいよ」
「XXはだめだね」
「XXしてくれよ。(僕にいいものくれよ)」
「XXしてやるよ。(君にいいものあげるよ」

という、評価ややりもらいに関するやりとりがコミュニケーションであると思うのである。

There is a cat on the mat. (とか、こたつの下に猫がいます)
という眼前描写文にしたって、なんの意図もなくそんなこと述べるやつがいるか?

コミュニケーション(語用)というは結局は「関連性(@関連性理論)」なのであって、
関連性とは関連している=自分にとって価値がある/マイナスの価値がある
という話なのだ。

(今ごまかそうとしている自分を発見)

なにがいいかわるいかに対する同期をとるための価値の伝播としてのComと
なんらかの価値を与えたり得たり、なんらかの被害を与えたりする行為としてのComとは
ちょっと違う。

でも、両者を統合して、営利的視点からのコミュニケーション論を考えることは結構いけてる。

で、リスクという概念は、フィルモアも分析しているが、(Fillmore and Atkins, 1988参考文献参照)
その中には得るものと失うものという概念が必要であり、コミュニケーションをリスクの理論から
見るということはつまり、

リスク回避型 よけいなことはしゃべらないようにしよう。
リスク大好き型 大きなことを言って、大きな利益を得よう

などなど、文化や個人によってリスクに対する行動が異なる、ということだ。

そう、たぶん、文化によっても異なるね。日本人が沈黙を好みへらへらしていることを好むのは
しゃべることのリスクが高いからだ。逆にアメリカ人のまーよくもよくもぺらぺらしゃべるのは
逆に、しゃべらないことのリスクが高いからだ。リスクに対する対処の戦略が文化によって異なると
ともに、リスク自体の種類と大きさも文化によって異なるのであろう。
といった風に、いろいろな示唆を与えてくれるリスク理論なのであった。ちなみにI藤先生は
コミュニケーションをリスクというマイナス面から捉えるのではなく、ベネフィットというプラス面から
捉えることを提唱している。うーん、おいしい主張である。ゼミ生のだれか、リスク管理言語学、やらん?

コミュニケーション・語用論の観点からは、以前、Tじ先生とプチ盛り上がりをしていた、
Griceの裏返し、というテーマがある。コロンブスの卵のようなテーマなので書くことがはばかられるが、
どうせあっためているうちにさめちゃう部類なので、今度書く。

よって、現在のペンディング(pending)中のテーマは(あ、ペンディングに関しても一言ある)

1.慣れについて
2.文化について
3.因果について
4.Grice(会話の公理)の裏返しについて

具ライス、会話の公理については、H川先生のHPが立ち上がったときに必ずや登場するであろう
テーマであるが、それがいつかはH川先生のみが知ることなので(つまり誰も知らない)
興味がある人は調べてまとめておくってくれ。wアップします。


Thursday, February 3, 2005
ひさしぶりにA元先生と話したら、
なんだか最近むずかしいね。抽象名詞がたくさんでてくるね。
と言われた。

私も密かに感じていた。

いっときに比べて写真も絵も少ないなぁ。

ひとつの目標は絵をたくさん描くことである。研究書に関してもそのつもりだ。

ただ、ここでそれをやるとネタばれしてしまうのがやや気になる。

最近、ネタばればかりを気にしている自分にも気になる。

私は元来、「温める」のが好きな方である。

自分の懐にいれて、温めておいて後でまとめてばーっと出す。

ところが、だいたい温めているうちに冷めてしまう。ネタ自体も自分も。

んで、昨今の標語は「温めてるうちに冷めちゃう。やらなきゃ、やらなきゃ」である。

などと標語を考えているよりやれよ、っ感じです。(笑)

りすな留学編
なんでゆっくりかっていうと、記憶、とぎれとぎれなんすよ。
SFからどうやってボストンに行ったのか覚えてないし、ボストンからUMASSに
バスでいったに違いないんだがそのときの記憶がよみがえらない。
UMASSって、University of Massachusetts, Massachusettsのつづりは
船便で送るボックスに何箱も何箱も書いたから今でも覚えている。
んで、記憶とぎれとぎれだけど、思い出したら戻ることにして覚えていることだけを
つなぎながら書くことにする。なんせ、15年も前のことだからなぁ。

いくつか覚えているのは、留学生説明会。
100人近くの新人留学生が集められ、ベテラン留学生の話を聞く。
Q&Aセッションの時、眼鏡をかけたインド人留学生が「カフェの食事はどうですか?」と
聞かれ、

"Quantity-wise, good, quality-wise, ehhh"

と、ちょっとしかめ面を作って、"so so" "mas o menos" "como-ci como-ca" という
ジェスチャーに右手を水平にして揺らして見せた。

へー、XX-wiseってそういう風に使えるんだな、なんとなく思ってたけど、
って納得し、かつほー、何年もいる留学生ともなると、アメリカ人っぽくてノリに乗ってるね、
って印象を受けた。(自分もすぐそうなってやるぞ、って思った)

あと、Foreign Student Officeというのがあるんだけど、そこのスタッフの人がえらいんだ、
送られた資料をしっかり覚えていて、あなたがkoji さん?飛行機はどうだった?
私、日本に言ってたこと有るから日本語しゃべれるのよ」みたいにとてもとても気さくに
話しかけてきてくれて右も左もわからない不安な留学生はどれだけ安心したかわからない。
いついっても笑顔で対応してくれて、実際にはそんなに問題をもちかけたり、相談したり
したことはなかったけど、何があっても絶対味方になってくれる、という感じですごく安心できた。

あとで行ったUC Berkeleyはそれほどでもなかったけど、留学関連の部署というのは
大学の中で一番リベラルで親切で思いやりに溢れているべきところだと思う。
で、君は何が言いたいんだね、とか、我が校の規定ではXXできません、とか
官僚的な対応をされたら、留学生は他によりどころがなくなってしまう。




Wednesday, February 2, 2005 PART II
職場でもアップロードダウンロードの確認。

いま、仕事場は家を含めて三カ所ある。現在@職場No.2

涜書日記

1月あんまり本読んでないんだなぁ

高木琳光「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」「首を買う女」
「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密」すげー面白かったぁ。
監察医探偵 神津恭介が義経=ジンギスカン説に迫る。

渡辺淳一 「野わけ」
40代の医者と20代の看護婦迪子の不倫の話。
よく考えると時代背景が平岩弓枝などと似ているところがある。
渡辺淳一の医者ものと不倫モノの接点。
男尊女卑的価値観の中の愛情を描く。
無論、男は妻と愛人を失い、愛人は中絶する。
モラルバランスの成就。
無論、小説のフレームから出た男は再び若い女性と出会い恋に落ち、
女は再び年上の男性と恋に落ちるのであらう。

懲りない面々である。(想像)思い出だけが積み重なっていく。

あーいいすぎた。

いや、そこらが問題なのではなくて。
とぉっても重要な問題が見過ごされているような気がする(そして大体分析は
できている)のだが小説の内容をばらしてもなんだし、文化論の問題でも
あるので各自考えるように。

文化論、といったって「不倫は文化だ」とこっぱずかしいことを
言い放ってバッシングくらった某氏のような意味ではないことを付記しておく。

クリシェな割にいやな読後感がないのはていねいに書かれているからだろうか。

井上ひさし 「私家版日本語文法」「自家製文章読本」「国語元年」
前2書はすぐやめた。第3書は最後の方でやめた。井上ひさしは

言葉の優れた使い手で(あろう、あんまり読んでないので知らない)
言葉に対する感覚がとても鋭敏な素人分析者で
国語学者に対するひがみ屋だ。

素人であると不遜なことを言い放つのだから根拠を述べておく。
「国語元年」に入っている「国語事件殺人辞典」(三冊の中でこれが一番面白いと思う)
に以下の記述がある。

花見(cricket 注:独力で辞典を編纂した主人公の町学者)
「公衆電話用の電話はアカ(平板)電話ですぞ。
通行人 「そう、それを探しているのですが」
花見「あなたのはアカ(尻上がり)電話だ。それでは垢のこびりついた
電話ということになってしまう。」

他に以下がある。(平)は平板型の意味と思われる。
「雨(平)」と「飴」
「神(平)」と「髪」
「牡蠣(平)」「柿」

平板型というと無アクセントのことである。若者言葉の平板化、というと
ギターGItaa というべきところをgiTAA
ドラムDOramuというべきところをdoRAMUと言ってしまう、という現象である。
(いうべき、という部分にそれほどの意味はない)

ということで、ここで井上ひさしはふたつの点で間違っている。
1.平板型の意味を取り違え、逆に考えている。
2.複合名詞ではアクセント核が変化する、(Aka+deNWA=aKADEnwa)
ことを知らない、または忘れている

どちらも現代日本語を言語学として学ぶ人の間では学部生高学年
または修士一年レベルの常識である。

率直な感想としては、作品とするのか、言語理論として追求するのか
どちらかにしてしてほしい、という感じなのである。エッセイで山田孝雄
やチョムスキーの理論について語られても、へーすごいね、文学者なのに
日本語学や言語学のことも知ってるんだねぇ、という程度で、
それからの展開が見ていて辛いのである。

高校生の時に読んだ、高橋三千綱 「九月の空」
を読んでいる。ここちいいよ、すごく。  高一の剣道部の選手の話だけど
学生でまだ読んでなくて読む本探している人は一度読むといい。



Wednesday, February 2, 2005

思考が大変分散している。分散並列、ということではなく、感覚の断片化状態である。

今朝、アメリカの友達と3年ぶりくらいに話した。そのせいだろうと思う。

ある時代のことを思い出す。そんなことを書くようになる日はくるのかどうか

よくわからない。

もうすこしわかりやすい説明をすると、自分が大学院生だったときの友達と
話し、そのときすんでいたアメリカのマンション、ベッド、そのとき飼っていた熱帯魚
と水槽、窓からの景色、SFベイの夕焼け、それを2メートルくらいある自分専用の台
に乗って眺めるのが好きだったうちの猫、などの映像と空気を引きずったまま、
受験生の書き込みの次に就職活動生の書き込みを見て追体験してここに戻ると
さあて、何しようっか、て感じなわけだ。

思考の早さおよび分散並列性と現実のゆっくりさと選択性にはいつもながら戸惑う。
多声性としての思考と自分があり、その中でひとつだけを現実として選び取っていく。
(いや多声性っていうのを調べねば

多声法 個人の認識を形成する多様な他者の「声」の相互関係性を理解する
もの。 ...多声法の応用可能性 テクストの中への書き手自身の侵入とそれに
よるテクスト内での新たな被調査者と の関係性の誘発 ...
http://www.nakahara-lab.net/Ethno_MIWA.pdf

こんなのも見つけた。
http://www.alc.co.jp/eng/vocab/etm-cl/etm_cl092.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4571210302.html
ロシアっぽい、感じじ、か。

音楽、教育、文芸批評等たくさんの場面で使われるのはこの表現が直感的にわかりやすく
&かっこいいからだろう。

たしか、M原先生の発表の中で、「反照」「相互反照」という言葉を拾ったと
思うのだが、

「再帰性(reflexivity)」は近代に限らず、人間の行為を規定する特性である。人間は自らの行為とその行為が生じた脈絡とを常に一貫してモニタリングしている。近代以前においては、再帰性は伝統の再解釈と明確化にのみ限定されてきた。しかし、近代に入ると再帰性が社会システムの再生産の基盤に組み込まれ、行為と思考の相互反照がより徹底化される。伝統は、そうした相互反照によって正当化されることによってのみ、その存在証明(アイデンティティ)を得ることができる。
http://www5.plala.or.jp/shibasakia/linkp0728.htm


山頭火つれづれ: 水に影ある旅人である
... ひたすら帰依するほかない時、自分という存在には一分の主体もないし、
自分という思慮さえもないのだから、自分とは相手からのありとあらゆる照射を
一身に受容するのみの者であり、自分とはその一切を反照する存在で ...
http://santouka.cocolog-nifty.com/alpha/2004/10/post_16.html


ニクラス・ルーマン:脱構築という二次の観察 ...
... これ、話としてはいわゆる「反照規定」((c)ヘーゲル)ですよね。
つまり、 ●観察者が〈或るもの〉を〈或る仕方〉で規定するとき●
同時に・逆に、その観察者のほうも、その〈或る仕方 ...
http://thought.ne.jp/luhmann/asl/doso/0106.html


これら記事がいいかどうかはわからないが、反照、埋め込みなどというのもあちこちで
使われているようである。

鏡を二つ重ね合わせると無限に反照する、というイメージね。

話が瞑想、いや、迷走しているが、

1.かっこいいけど、あちこちでちょっとずつ違った風に使用されている概念
しかして、共通する実態は何かあるような概念(多声性、相互反照性など)は存在する。

2.自分が考えていた漠然としたあることに、
それを指し示す言葉がある、ということを発見することは心地よい。

3.あるところにいくと、こういった概念を使用することが役に立つ。
言葉をテコにすると、思いもよらなかった新しいことが語りうる、ということはある。

4.すべることもある。かっこいい言葉を並べるだけで何にもいってない・
何いってるかわからない、ような。

5.多声性に戻って、言葉や行為はそれに似た無限の範列を指し示すという
点で多声的である。

ん。すると思考(言葉)に限らず、行為(現実自体)も多声的であるということになるな??

えっと、ある意味、行為も類型的であること(食べる、とか、飲み会する、とか
背伸びするとか。自分の行為として反復的であるという意味で類型的だし
ほとんどの場合、他人と共有された行為であるという点でも類型的である)

ただし、現実のある時点になされた行為というのは無限の範列を持ちつつも
独特で唯一だ。

すると、同様に発せられた言葉も無限の範列を持ちつつ、独特で唯一だ。

思考の並列性、というのは、これらの意味とは違うね。

ただ、受験生であるということが無数のかつての受験生にその経験を呼び起こし、
だてに経験だけをつんでいる(私を含んだ)年配の方々(でそれを思い出せる
感受性豊かで柔軟な人々)はいろんなことにぽりふぉにって(多声=ポリフォニー)
しまうため、並列しちゃうわけだ。

「だてに」はもちろん、「私」だけにかかる。

謙虚さを大事にしている昨今のcricketであった。w

さーてと、唯一無二の現実に戻らねばw



Tuesday, February 1,. 2005
今日から関西某私立大学ではお入試が始まった。
お天気も見事に極寒。神様っているんだなぁ。(かどうか)見事なお入試日和である。
実は前日小用事で気が付いたら遅くなり、そと出たらめちゃ寒かったので
研究室に泊まった。早朝ではないが、夜11時頃のインターネットでうち関連のところ見てたら
あー受験生の皆さん、そわそわしとるねえ。緊迫感がひしひしと伝わって
ストーブにやかんかけながら受験勉強した日々を思い出したのであった。
ん、私の場合は、離れたところ受験に行ってたのでホテルで前泊してたがな。

もし仮にこのページを見てる受験生の人が仮にいたら。

がんばれ!受験生!
浮かれよ。
いや、受かれよ!文よろしく。

いや、ここでつまづいても人生いくらでも巻き返し効くから
気楽にやるように。

仕事場はインターネットがつながって書き込み速アップできるのでよい。


Sunday, January 30, 2005
例によって、このアップは多分明日になる。
昨日は、K都大学のY梨研の研究会、KLC参加。一緒に行ってくれた
方々どうもお疲れ様でした。

発表者は、哲学(現象学)のM原先生。いやぁなかなか面白かったです。
ちょうど、来年度カテゴリー論を院でやるんでフェイズがぴったりでした。
プラトン、アリストテレス、フレーゲ、ラッセル、フッサール、メルロ=ポンティ、
ビットゲンシュタイン、ハイデッガー、ガダマー、ハーバマス、デリダなど、聞いたことはあるけど
位置づけがいまいちよくわからなかった人々の話がおぼろげながら見えました。

それから、

名詞、形容詞、動詞
存在物、属性、出来事

という区分をどう捉えるか、といった話は興味深く聞きました。

M原先生は、まず、存在と属性の区分を再検討
それから、存在、、属性、すべて、出来事であるという方向で考えるという
ラディカルなお話でした。

でもよくわかります。

一度、気の済むまで図書館の哲学のセクションで本を読みあさってみたいです。

えっとですね。私なりの理解をいえば、
客観世界を想定して議論をするのと、
認識(見え/視点)の問題を取り込んで議論するのでは
複雑さが後者の方が飛び抜けて大きくなる、ということですね。

しかし、客観世界の話だけしていると、つまんないでしょう?

自分がどう思うか、とか自分がどう感じるかとか、
ヒトとの感じ方の違いとか、

そういうものがすべて()に入っちゃうんですよ。

なんで、客観主義的世界観の世界だけのとどまらず、認識の話を
することにします。

そうすると、すぐ問題になってくるのが身体性です。

例えば、The cat is on the mat. といっても、逆立ちして見ると、これは
真とは言えないかも知れない。(M原先生の用例)

んで、身体の話をすると、反復と慣れ、という以前の話につながるんですよ。
今日の所は以上。

いずれにせよ、認知言語学で漠然といわれていることや
自分が漠然と考えていることが、長い哲学の系譜で真剣に考えられている
問題である、ということを知るだけでも有用な一日でした。


28日(金)はゼミ生の説明会および懇親会。楽しかったけどビール飲めない
ヒトにはちょっと違いましたね。また、有志で企画してください。

27日(木)は教育関連でJ宮司先生のお話を聞きました。
先日話した佐藤学先生の学校改革手法の実践者でなかなか迫力ありました。
来年度から、cricketの授業はいつでもだれでも聴講可能にします。同僚の方々も
ぜひ見に来てください。いいところも悪いところもあると思うけど。
そういった際、佐藤学先生の教えでは、教え方のスキルやカリキュラムを云々
するのではなく、「どこで学びが成立していたか」「生徒の目がどこで輝いていたか」
に注目するそうです。ってことでお手やわらかによろしく。

りすな留学編
ってことでサンフランシスコを後にする。サンフランシスコには実は
思い出が多すぎるためそれですべて塗りつぶされている。

ひとつのイメージは
ピアのひとつの海の見えるレストランで
午後、食事をしている。お昼の遅い時間なので、客の人数はまばらだ。
お皿にナイフやフォークが当たる音がかすかにしている。
部屋は暗めだが、外光が入ってすべてが
キラキラしている、グラスにはたっぷりと冷たい水がはいっており、
外側にはうっすらと水滴がついている。
グラスの乱反射が白い天井に映っている。
なんにもしなくていい、特別の時間だ。

って感じなんだ。

サンフランシスコに行って、四泊あるなら、一泊はNapa Valleyにいくのも
いいかもしれない。  続く



Friday, January 28, 2005
今日は新ゼミ生説明会。よろしく。

慣れに関連して、「因果」というテーマがあるのだが、こちらは別途。
今のところ、別途といって置いてあるテーマが

1.慣れについて
2.文化について
3.因果について

これに、

4.リスク管理言語学について

も加えておこう。

さて、朝の脳は金、と養老孟司はいった(かどうかしらない)が
思いついたところで、慣れに関して(また別のことを少し)述べておこう。
(ここまでちょっと抽象的だったのでもっと主観的な感覚的な説明である)

慣れに似たもので習慣がある。

慣れ、学習、技能をどのように捉えるかという問題がある。

メタファー理論では、状態に関して少なくともふたつのメタファーが特定されている。


1.状態は場所
2.状態は所有

これは、結局、二項のあり方を擬人化したものだと思われる。(これは舌っ足らずな
いい方なので理解しなくてもよろしい)

一般には、1.の方がよく知られている。1に関連して、
1b 変化は移動である
というものがある。

簡単にするといったのに、抽象的。もうすこしまってね。

例えば、The liquid changed into gas.

のinto

From grape juice, the liquid changed to wine and then all the way to vineger.

のfrom,, to , all the way to などがそうだ。

日本語でも
緊迫した状態から一転して和やかな宴会変貌した。
とか、
K子さんのTOEICの成績は5月には750点までいった

英語の方がはっきりしてて用例が見つけやすいが、
言わんとしてることはわかるね。


(あまりに抽象的過ぎる「から」や「に」の使い方であるという主張とか、
「和やかな宴会へ行った(なったの意味で)」とはいわないじゃないか、
という生産性の問題に関する批判は別途)

ま、言語表現はなくても、ある種の状態変化が違う状態に「行く」ことだと
捉えられていることは、ある、とわかってもらったとしよう。

これが、<<状態は場所>><<変化は移動>>(日本語のメタファーは<<>>でくくるのであった)

これと対をなすメガメタファーが <<状態(属性)は所有物>><<変化は獲得/喪失>>

「安らぎを得る」「やる気を失う」とか。ある種の状態や属性を名詞化して
すなわちモノ化して(認知言語学の世界では名詞(のプロトタイプ)≒モノまたはヒト)
所有している、所有していないで表す。

このふたつの推論が一番大きく異なるのは、数に関してである。

同時に複数のものは持てるが
同時に複数の場所には存在できない

さあてと。

慣れ、というのもある種の状態変化であるからふたつのメタファーがかけられる。

学習、なんていう技能や知識に関する慣れはあきらかに後者の<<所有物>>モデル
で動いているようだ。技能を得る、知識を得る。たくさんの知識を得る。
あることができるようになったって、他のことを失うとは概念化されていない。
「泳げるようになりました!」「で、できなくなったのはなに?」なんて
会話は成り立たない。(変な例でごめん)

しかーし。実はここにもなんらかのトレードオフは存在しているのである。
前にかいたかなー日下君の話。私の高校の時の同級生の日下君の話なので、
このサイトで読んでいる知っている人はまずいない(はず)だし、いいことかくので実名。

日下君は、身体はちっさいが瞬発力があり、中学レベルでは三四地区(四日市と三重郡)
の走り幅跳びのヒーローであった。(私は名前はしっていたが、高校に入って初めて
あった。)彼は何を思ったか柔道部に入った。獣欲、じゃない、柔よく剛を制す、ってのに
憧れたのかも知れない。

ところが、ある日、日下君に調子を聞いてみたところ、柔道は向いていないのかも
しれない、という。んじゃあ、幅跳びに戻ったら、というと、もう飛べなくなってしまった、
という。どうも使う筋肉が違うらしい。
幅跳びは思い切った筋肉の使い方である。
それに対し、柔道は、抑制して機を狙って、耐えに耐えての筋肉の使い方である。
どうも抑制に慣れた筋肉は昔の物怖じしない自分を忘れてしまったようなのである。


ま、ということで何かに慣れることによって何かができなくなる、ということは技能
や知識でも存在する。ましてやアイデンティティや習慣ではそうだ。
(慣れ、と習慣や癖がどう違うのか、は誰か論文でどうぞ)

習慣:あることをやることに慣れ、頻繁に行うこと。

習慣には中毒性が存在する。良い意味でも悪い意味でも。
あることをするようになるためには抵抗感が存在するが、
身体がそれに慣れてしまうと逆にそこから離れる(それをしなくなる)ことに抵抗感が生じる。

これが中毒だ。

リスニング中毒。これは悪くないぞ。がんばれ。

習慣を変える、それは難しい。

しかし、なりたい自分になるためにある習慣を異なる習慣に変えることはできる。
なりたいんだからさぁ。ね?

別にリスニングの話だけをしているわけではない。わかるね?

自分で習慣を作る、あるいは、自分の習慣を選ぶ、それができることは
自分の自己評価も変える。(前回言った「プライド」の話だ)

ま、ということで、結論は

1.状態変化には、少なくとも場所の移動、と、所有物の獲得/喪失という概念化があり、
2.前者にはトレードオフの関係(ある状態になることが別の状態でなくなること)を含意し、
3.すべての慣れにはある程度、トレードオフの要素があり

4,良い習慣を身につけよう!、という教育的コメントで終わったのである。

いや、あるものに、「入る」、そして、あるものから 「抜ける」、その感覚に敏感になって
欲しい、っていうのがcricketの言えることだな。あとは自分で考えて。


Wednesday, January 26, 2005
話はまったく飛んじゃうのであるが、板東眞砂子の本(通訳学会の影の仕掛け人、M野先生
のHPにいきなり彼女の「道祖土家の猿嫁」がかなり評価されて書かれていてうれしかった)
に以下のようなフレーズがある。(詳細はややうろ覚えである)

「ごめんなさいは魔法の言葉だ。難しいことから開放してくれるかわりに、言葉を
使った者の身体は縮む。それが隆之が発見した法則だった。」

おもしろいよね。いくつかのメタファーが使用されていると思うがここでは触れない。
縮む、というのはプライドを削る、あるいは、その人の
立場が悪くなる、社会的評価が下がるといったことだろう。

これに似たようなことは感じることはある。

ヒットを打つ
ヒットを打つ
ヒットを打つ →好打者という属性を得る


失敗をする
失敗をする
失敗をする→ダメな奴という烙印を押される

英語でいうと(日本語でもそういう場合もあるのだが)習慣をあらわす現在形の用法なんてのも
そんな感じだね。

I cut trees.
=木を切る、木を切る、木を切る=私は木こりです。

なんだ、慣れ/反復の話の続きだったのか。

物語なんてのもそうだ。(かどうかはこんど、O先生に聞いてみよう)

ひ弱な青年がある出来事を越えてひとまわり成長する。

出来事→青年の成長という形での青年の属性の変化

ま、ひとまずこのへんで。

先日のみそ汁の話。T井さん、またまたどうもありがとうございます。
経験のある人には簡単なことですね。

西洋のディナー(凡例)

1. スープ/サラダ
2. 前菜(オードブル)
3. メインディッシュ
4. デザート
5. コーヒー


日本の晩ご飯

(目の前に )ごはん、おかず、みそ汁、おかず2、おかず3、おかず4....

こう見ても、西洋は時間的なロジック、日本は場所的なロジックを大事にする!なんて
一般化をしたくなるな。(W辻:「風土」参照(W(ダブルユー)の辻ちゃんじゃないよ。))

ま、ともかく、西洋のディナーにはまず、スープが出る。
この文法に従って再構成された結果、みそ汁が最初に出る、となる。

やめてほしいね...

ご飯食べるころにはさめてるぞ。

はふはふいいながら飲みたいのに。お代わり自由とか、ないのかね?

PC状況
家では新しいVAIOを馴らしながらネットOnlyで使用。
職場ではワイアレスLANでこの古いVAIOでネットにつないでる。

ということで、家書いたdiaryは、このVAIOを職場に持っていった時につなぐ、という
ちょっと不便なことになった。だが、ネット接続を切り替えるという手間と時間の無駄が
なくなった。

メール状況
PCに詳しいM村先生のご意見では、Webメールのが安全とのことで、そっちに
切り替え中。いろいろ面倒で無駄も多いが、そっちのクリーンな操作ができる。

しゃれの世界の音楽シリーズ、第3弾を思いついた。

(前回までのあらすじ。しゃれでぜひ書きたい本。世界の音楽シリーズ。
Vol.1 『世界のこぶし』 Vol. 2 『世界のうなり』 であった。)

Vol. 3 『世界の合いの手』

いろんな民俗音楽でいろんな合いの手があるに違いない。
ちょいなちょいなぁーとか、あー、それそれ、にとどまらず、
んぶぁーんぶぁーとか、みゃっちんちょぼれはーぁとか、ずぅえっったいあるとおもふ。

女声合唱みたいなのとか、男声合唱みたいなのとか、男女で交互にいれる
やらしーかんじの合いの手とかぜったいあるとおもふ。

Vol. 4以降のアイデア募集。w

りすな留学編
途中だが、1年生のT山君が留学するという。がんばりやさんだからきっと
いろんなことを身につけてくるだろう。

そんな君に送る、かどうかわからないが、続き。

そんなことで、ペタルマという街のイラン人家庭に3日4日泊めてもらって毎日
サンフランシスコに行った。残念なことにその時のSFの印象は何一つない。
あ、当時つきあっていた(ようなないような2年年下の女の子にピンクのTシャツを
買ったことを思い出したな。"I left my heart in San Fransciso"って書いた奴。
んー意味違ってないか?"Thinking about my heart I left in Japan in San Francisco"
ってのがより正確では。だが、あんまり相性がいい子ではなかったので、
それほど熱かったわけではなかった。ただ、どこかへ行くときは
だれか好きな人が心にいる、というのは少し安心ではないか?

SFのこと、もう少し書いておこう。cricketの中のSFの印象は、東海岸のボストンに
似ている。ちなみに、cricketは神戸と横浜が相同的だと思っている。
どちらも大都市の西にあり、港町で、華やかで中華街があり洗練されてる。

華やかで中華街があり洗練されているのは、港町だからだろう。
たくさんの異なる文化が集まってくる。外国人、しかも、いろんな人たちが
集まり、散らばり、交錯し、挨拶し、対立し、恋をして、すれ違っていく。
(大都会の西にあることと港町であることに因果関係があるかどうかは定かではない。)
ただ、人は夕陽を見ながら家に帰るので都市は西側に向いて拡張するという
話は聞いたことがある)

ボストンとSFも横浜や神戸に似ている所があると思う。
すくなくともどちらも港町だ。
どちらも中華街がある。
どちらもイタリアンセクションがある
SFにはフィッシャーマンズ・ワーフがあり、ボストンには「ファヌエル・ホール?」がある。
どちらも華やかな年中無休のお祭り広場みたいな感じだ。

フィッシャーマンズ・ワーフは「Fisherman's Wharf(漁船埠頭)
Pier 39 (ピア39)というのもあるが、こちらは、第39桟橋で、同じ場所。
桟橋が1から45くらいまでならんでいて、Fisherman's Wharf=Pier 45だったかなぁ。

続く。



Sunday, January 23, 2005
ちょっと思ったんだが、(いつも思っているんだが)後生に名を残す人は
えてして弟子がえらい。ソシュールしかり、キリストしかり、仏陀しかり。
K上大先生しかり(?)

ところで、ロンパールームってもともとアメリカの番組だったって。
MFM先生に聞いた。

あ、このあたりも面白いよね。移植。
多くのアメリカの番組がまったく同じ格好で日本で放送されている。
ゲーがねーなー。

ディズニーがジャングル大帝をぱくってライオンキングを作った、ってのも
あったな。

Finding Nimoも、原案らしきものがフランスかどこかにあるらしい。

WindowsがMacのぱくりだという訴訟はMacの負けに終わった。(昔)
Macだっていろいろぱくってるんだから、というのが大きな理由らしいが
ちょっと納得いかん。

料理の鉄人は格闘技(特にプロレス)フレームを料理番組に持ち込んだ。

これらすべてアナロジーと呼べる、かな。
文体模写、声帯模写、形態模写。似てる、とか同じとか認識するのはどんなときか、
という視点はメタファーと全く同様である。(京大心理のメタファー専門家であるK見先生は
『言語』で一度デジャビュ(既視感)について書いてたな。)

もうちょっと翻案される場合もある。私の手持ちの面白い例はアメリカの
寺の話と同じくアメリカの日本料理店の話だ。

1.Buddhist Temple of Oakland(オークランド寺院、今度、藪が行くオークランドだよ。)
というのがあって、まず、ここは、昔、キリスト教の教会だったところを使用している。
そこからしてまず変だな。んで、日曜学校とかあるし、
それから教会の礼拝堂に賛美歌ならぬお経がおいてある。
仏を讃える歌とかうたうらしいw。

文化適応といえばそれまでだが、涙ぐましい努力というか、伝統をこんなにしよって!というか
まあよくもここまでおなり果てに、 というか、複雑な気持ちだが、ま、ともかく、

@同一スキーマ(この場合は宗教)のもとでも
Aそれぞれで異なるフレーム(この場合はキリスト教と仏教それぞれにまつわるエトセトラ、
手順、道具立て、儀式、用語などなど)があり
B本質を変えずに別のフレームに押しこんじゃうことはできる。

本質が変わってないかどうかはまた議論の余地があるし、本質とは何か、detailの中に
存在するものこそ本質ではないか、あるいは、「本質」など存在しないなどという議論の立て方
はあるがここでは立ち入らない。

立ち入らないが、そうだ、確か、そのお寺の名前はBuddhist Temple of Oakland ではなく、
Buddhist Church of Oakland であった...オークランド仏教教会なのか...すでに得体のしれない
独自のジャンルになっとるね。

さて、2 日本料理店の話。
これは宿題です。アメリカの日本料理店では多くの場合みそ汁が一番最初に出てくる。
これはなぜか。



Saturday, January 22, 2005

S井先生のことも忘れないうちに書いておこう。前から、Paradigmatic-Syntacmatic
の区分に関して述べていたよね。範列と配列って感じかな。んですごーく大雑把に
Paradigmatic:Syntacmatic
≒代替:補完
≒並列:直列
≒想像:現実
≒思考:行動

(おおざっぱすぎるじゃねえか、という向きもあろうが、ヤーコブさんによれば、
≒シュールレアリズム:キュービズムなんで、こういうのもありかと。)

今、別のところの議論でNarrative(談話/物語)とか、Polyphony(多声性)とか
では、多分、NarrativeはSyntagmaticで、PolyphonyはParadigmaticだ。
メトニミーはもちろん、Syntagmaticで、メタファーはもちろんParadigmaticだ。
(本当はもう少し仕掛けがあるのだがこれは秘伝(準備中)である)

文章の中では、単語の組み合わせがSyntax=Syntagmaticで語類
(名詞類とか)や意味の弾性(「トリ」が様々なトリを意味したりトリ肉を意味したり
籠の中のトリというと囚われを意味したり)がParadigmaticだ。
(なんで、Pradigmaticな意味の弾性の中にSyntagmaticなメトニミーが
生じているかというのは面白い問題だが、ま、これらは思考の機能であるので
recursiveにかかりうるということで。)

(あーここまでのところ理解してるひと、F牧君くらいかなぁw)
(あ、A川先生見てますかぁー。あ、そこにいるのはM山先生?
あ、そっちは東北のO谷さんかな?)
(ロンパールーム、やってみました^^)

大体、Synというのは、統合するという意味で、taxはタクソノミーのtac 分類とか
類とかいう意味だ。syntaxはだから範疇(はんちゅう:この場合名詞とか動詞とか)
を統合するという意味だ。

(ところで、最近気になってるのは、パスティーシュという概念でこれは、エンカルタ百科事典の
パロディの項では以下のように書かれている。

(前略)
現代文学における位置
近代においては、西洋的なパロディの概念ははいってきたが、文学創造の過程でオリジナリティが重視され、また写生や自然主義と江戸時代までの前近代的な手法とは相いれないところから、文学の主要な位置にパロディが存在することはなくなった。近年の清水義範のようにパスティシュ(文体模写)をもちいて作品をつくっている例もあるが、清水自身はこれをパロディとは別のものであると主張している。

"パロディ," Microsoft(R) Encarta(R) Encyclopedia 2000. (C) 1993-1999 Microsoft Corporation. All rights reserved.)

(模写≒真似る、まねぶと学ぶの話は東大の教育、佐藤学先生もしてらっしゃいましたよね。
「なぞる」に関しては当学のY本A一先生のご本も参照のこと)

さあて、充分散らしといて、と。

んで、ParadigmaticとSyntagmaticがふたつの機構なのか、それともひとつの機構の両端なのか、
あるいは、ふたつの機構なんだが、なんらかの形でリソースを食い合う、あるいは、抑制しあうのか、
ともかく、以前の職場の上司の例で書いたように、このふたつは類型であり、かなり背反的である。
であるはずだが、S井先生はどうも両方強いように思える奇妙な症例、いや、希有な人のようである。
アイデアがばーーーーっと出て拡がって、すーっと収束して決定→行動に移ってどんどん前に行く。
んで、この間それについて聞く機会を得た。S井先生は、「すじのいいやつを伸ばしていくんですよ」
といったような話だったと思う。「すじのいい」というのはS井先生が時々口にされる用語であるが、
これ、擬人化だよね?「線条的な」という意味というよりは、「健やかで、潜在力があり、
将来性が期待できるやつ」という意味ではなかろうか?芸事で「あなたは筋がいいですね」という
ような。人に見立てることによって、比較をすまして伸ばし方へと移る。だとすると、
ParadigmaticとSyntagmaticを切り替えるというなかなか難しく思われる技を、
イメージ(この場合は擬人化)を利用して達成している例に思われるのだが。


Friday, January 21, 2005
実は書きたいことが山ほどある。忘れないうちにここに簡単に上げておく。

1.慣れについて 続報
書いたらもっと思いついた。言葉にするということは礎(いしずえ)を固めることでもあった。

材料:
@人間の認知に下位レベル(感覚レベル)と上位レベル(概念レベル)を設定する。
A「記号」に関する一般理論を参照する。
BCPとIP 「は」と「が」の話
C時間軸から切り放された「もの」の話
D動物の認知と行動の話


さあてここで矛盾を発見。いずれにせよ、後に書くことにしてたので続きはまた今度。

2.文化について
途中であるが、なんで私がこんなことをこんな所に書くか、というと、
というか、私がここに書く種類のものは何かというと、
「自分が絶対面白いと思う考え」でありかつ
「抽象的過ぎてあるいは根拠が少なすぎて論文にならないもの」
かなり雑に言うとそうなる。

さぁて、私の現在の文化の定義は

「社会に共通の行動様式」である。
注1:社会とは、2人以上の人間の集団
注2:行動様式の中には認識様式、思考様式なども含まれる

ここから、@功利システム、A初期投資と利潤、B文化と権力、C「共通」の動機付け
の話になる。また今度。


まだまだあった気がしたのだが、上だけでも充分だよね。メモを拾い出したときに追加を書く。

最近やったこと、考えたこと
★来年のシラバス完了。院ではカテゴリー/範疇に関してやることに。
★高橋君、ユニバーシアード優勝おめでとう!
★職場の無線LANつながりました!
★自宅のADSL、新しいPCで再開しました。(新しいPC作動1日目終了。)
★溜まった電話代払いましたw

ところでですね、意外にも、最近、りすな留学編に関して「んで続きどうなったんですか?」
というご意見をふたつ聞いた。ほおー見ててくれる人がいるんだぁ。んで、
あちこちにちぎれちぎれになった連載の断片がある。んで、あたしゃ切り替えるのが
苦手と最近判明。で。新システムを考えますた。

ここに全部書く。んで後でそっちに移動する。うまく行かなきゃまた考えます。

りすな留学編続き
どこまでいったんじゃったかのぉ。そうじゃった。アルビノのアフリカ系姉弟を見たところまで
じゃったか。んで、イラン系のおうちに泊めてもろた。夕方、Petalma(スペル自身ない)
ってSFから北に30分ほどいったところでバスを降りた。英語は自身あったが、約2年ぶりの
アメリカだったので聞き取りはさすがに落ちてるなぁという気がした。
バスを降りた。多分、迎えに来てくれたのは、私の友人の友達である女の子のお兄さん
だったかな?

学校のような建物がある。
バス停を示す標識が立っている。
そのターミナルに回るようにしてバスが入ってくる。

そんなイメージがある。がそれは後に1年学ぶマサチューセッツ大学の近隣の女子大に
いったときのイメージと重なっているのかもしれない。

イラン人の家族は歓迎してくれた。
お父さん、お母さん、その女の子、お兄さん2人の家族であった。薄暗い灯りの中で
夕食を取った。何食べたか覚えていないが、豆は何種類かあったような。
お兄さん2人が背も高くてかなりハンサム。お母さんがごっつ美形。50は行ってたはずだが
すごく色っぽい人だった。(おひおひエロに走るのか?いや、なんにもないんで。
つか、あったっていわんぞ。いや、部分的には白状するかも。)
覚えているのは、お土産に持っていった花札をそのおかあさんに乞われて説明してたことだ。
ま、それ以来、イラン人は美形、というイメージがある。
そのイラン人の(その人はふとっちょ)お父さんの写真が私の部屋のどこかに転がっている
はず。

それは日中に撮った写真で、すごく青いカリフォルニアの空の下で、収穫物に
囲まれて満面の笑顔でスコップにもたれ掛けている写真だ。

イランのホメイニ革命の時にアメリカに逃げてきたらしい。
逃げてこれる人たちは裕福な人だ。着の身着のまま、っていうんじゃなくて、
財産もって移住ですな。ただ、50になって新しい土地に移り住むのは
大変な決意だろう。お父さんとお母さんの英語は片言だったように思う。
引っ越してまだ4−5年だったんじゃないだろうか。

今またこんな風になってあの人達はアラブ系ということで迫害を受けてないことを祈る。

だいたい、イラン人は、インド=ヨーロッパ系でアーリア系なんだが。




Friday, January 14, 2005
はいはい。T井さん、正解です。「月とナイフ」スガシカオです。
商品?考えときます。希望をどうぞ。

昨日はGB AREA IIで新春懇親会第2弾。参加していただいた方々、
お疲れ様でした。もしかして、このサイトでヤドカリ企画第2弾が実現するか?

明日、明後日はセンター入試。うちも会場です。
ご出勤される(*かり出される)先生方、お疲れ様です。w

「慣れ」について書きたい。
「んなことかいてる暇あったら仕事しろぃ!」
と(正当にも)おっしゃるお方が少なくとも3人いるので、ちょっと書きにくい。
でもちょっと書きたい。

かいてもいいかな??w

まず、エロいところから。

恋人の触れ方、身体の位置、触れるリズム。合わせ方。匂い。
手の回し方、などなどなど。

誰かと近づく時、決まったインターアクションのパターンが生じる。

次。家族。
習慣、儀式、話題、視線、決まった役割分担、決まったスケジュール。

次、スキーマ。
概念、というのは実物ではない。実際の犬、と犬の概念の間には
基本的に数の問題が関わっているように思う。
複数の同種のものと相互作用することによって一定の認識パターン&
行動パターンが醸成される。これがスキーマだ。スキーマは慣れの産物だ。

次、学習。
学ぶこと。繰り返すことによって早くうまく労力少なくできるようになること。
そのできるようになることがためになることなら、これは学習だ。
他人の家の鍵の開け方がうまくなっても学習したと言えるかどうか疑問だ。

次、あ、もちろん言語も。
chien, inu, dog で「犬」の映像を思い浮かべるようになるのは学習=慣れ
以外の何者でもない。

もう一回戻って身体も。
今度は自分の身体だ。今、身長が20センチ伸びたら自分の身体を
もてあますだろう。体重が30キロ増えても。20キロ減っても自分が自分でない気が
するだろうな。他者としての身体に慣れとして自由度が加わって自己の一部になる。

ほら、新しい車を運転するとき、全然感覚がわからないでしょう?
慣れると自分の身体のように、壁にすれそうな感覚さえ肌で感じるようになる。
自分の身体だってもとは他者だ。

敬愛する某出版社の敏腕編集者T田さんは、「差異の理論」を唱えておられる。
すべては差異である、と。差異は慣れの裏返しであるからにして
私の言っているのも同じことである。

繰り返しは次第に身に付いて見えなくなってゆく。
意識に昇るのは常に「違うもの」だけだ。


Thursday, January 13, 2005
「香しき風のように時が流れればいい、いつまでもずっとずっと続けばいい」
という気分です。昨日、懇親会に参加していただいた方々、お疲れ様でした。
さてこれは誰の歌からでしょう?学生の方で正解の方先着順で一名、商品を
差し上げます。メールかBBSでどうぞ。他校の学生?うーん。考えときます。

Tuesday, January 11, 2005
明日は英語学基礎研究の新年会。お友達連れてきてもいいですよ。
よろしくね。

金曜日はゼミの「やったぜ卒論楽勝だったね」打ち上げ宴会でした。みなさん、お疲れさま。

来年度のゼミ生の皆さんもすぐ説明会をします。

なんて連絡事項ばかり。


Friday January 7, 2005
さてと。明日は何の日かみんなしってるかなぁ?

卒論提出の日
なんですよ。1年生のみんなからみんな、3年後の、2年後の、1年後のこの日に、論文終わって
ほっとしてるイメージを、はい、皆さんご一緒にどうぞ。



ん?4年生でやってる人。遅いかも。いないよな、いない、いない。w


Tuesday, January 4, 2005 PARTII
愚痴はそのくらいにして、最近読んだ本。

三浦綾子 氷点(上)(下)
三浦綾子の氷点(下)をもっていたら、氷点下と読んだ人がいた。
車輪の下(ヘッセ)を読んで感動し、本屋さんに行って「車輪の上をください!」
といった小話に近いものがあるぞ。

曾野綾子 この悲しみの世に

W綾子の作品は妹は実の妹を殺した犯人の娘だとか、異母姉弟が知らずに
恋に陥るとか、血縁、家族の話、そして運命にもてあそばれる話だ。

ここらあたりいくらなんでも女流作家を読み過ぎとの気がしてきた。
んで、

宮本輝 流転の海
宮本輝のタイかどこかで金持ちの二号さんになった日本人女性の話は
たるくて捨てた。こっちの方はいい。大変いい。ただ、六田登の漫画、
ICHIGOに登場人物と設定がかなり似ている。宮本の方が古いみたいだ。
とすると、六田、ぱくったかな?

Tウィリアムス ガラスの動物園
英語英文学専修の私がいまさらなぜ、というのもあろうが、
学部時代は経済だったし、院では、言語/言語文化だったので文学は知らない。
特に外国語文学は主義として読まない(詩や小説を翻訳で読む、ということの
意義があまりわからない)ので報告文やそれに似た類のものを除けば、
かなり久しぶりの外国文学ではなかろうか。
ただ、「焼けたトタン屋根の上の猫」とか、「欲望という名の電車」という
タイトルは充分に喚起力がある。熱、欲望、今にも壊れそうな、などなど。

ところで、こうやって並べて気が付いたが、W綾子とTウィリアムスの3作に
共通なのは、姉弟、兄妹という近親相姦のタブーだ。
もちろん、兄弟のいない私には経験も実感もないのだが。


Tuesday, January 4, 2005
私の仕事時間の半分以上は、コンピュータの気まぐれをなだめるために使用されている。
一新するために購入したPCも故障で送り返すはめに。
優しさが足りないのかなぁ。そういう問題でもないだろうなぁ。
この内容がアップされるのもいつになることやら...


Monday, January 3, 2005
明けましておめでとうございます。皆様今年もよろしくお願い致します。m(_ _)m


December 31, 2004
大雪注意報が出る中、2004年も終わりとあいなった。
ことし達成したこと。

★認知言語学会を関西大学で開催。
★ふたつの同時通訳を担当。

えーと、あとはなんだっけ?

今年学会発表は少なかった。学会王(@A川先生)の名が泣く。w
いや、学会発表は卒業して、論文に移行しようと思っていたのだが、
大学の仕事が入ってきて、切り替えのつかぬまま、年末になだれ込んでしまったのであった。
辞書プロジェクトという大きな仕事も一進一退を繰り返している。
いや、一退はもちろんないのだが、進捗予定との間である。
ご同胞の皆様、お疲れ様ですー。

9月初頭の時点で私が課題と述べていたのは以下であった。

**********************************************************************
   1.S戸先生の辞書プロジェクト
   2.Y住先生の国際シンポジウムの同時通訳練習
   3. 関西大学で開催される日本認知言語学会の準備

   最近の座右の銘は"Publish or Perish" である。
***********************************************************************

1.が一進一退、2,3が過ぎて、4.フォコニエ先生(認知科学)の通訳、
5.英国総領事の関大講演、というものあった。
publish の面では、紀要に2本、ことば工学で一本、書評論文一本、
あと3本今期中にやる予定。うーん。それなりにたちあがっとるね。
「今期中に後三本」つうのが癖もんだけどな。

昨年前半を見てみると、1月に京都大学のメタファーCOEシンポジウムでの発表、
3月に名古屋大学のシンポジウムでの発表、7月に国際構文文法学会(マルセイユ)
での発表があった。うーん。結構やっとるね。初めてCanteのメッカ、セビリヤにも
いったなあ。。

それに、なにより、こうやってMy HomePage立ち上げたもんね。
来年はもしかしたらいじれる学生さん、院生さんも来てくれるかも知れないし、
そういう面でもコミュニティ作りはちょこっと進んでいるような気もする。

来年の
抱負。

マイペースですよ、マイペース。
目先に惑わされず、3年、5年、10年を考えて自分のやりたいイメージをしっかり持つ。
ありたい自分の人間像も。

その具体的なありかた?

昨日クイズミリオネアでライブドアの堀江が「あっと驚くことやりますよ、中身はいえないけど」
といっていた。あの「人と、なり」はあんまり好きじゃないけど、そういう発言を聞くとちょっとわくわく
するな。好感ももてる。だいたい、「何か狙っている」っていうのは面白いことだ。

cricketは何を狙うか。ひとつ確実にいえるのは、コンピュータ環境を整えて、
ひきこもる、ってことだな。やっぱりテクノロジを使いこなせなければ!!

さて、除夜の鐘を聞きにいかねば。

皆さん、よいお年を!


December 29, 2004
えっと何曜日だっけ。

ここんとこPCの調子がおかしくてネットがつなぎにくい状態。
ごりおさん、こちらから失礼します。HP見ましたよ。がんばってますね。

27日は名古屋の勉強会で朝まで。朝までだよ朝まで。勉強じゃないよ!
過激なM山先生およびセクシー系の皆様お世話になりました。
Lー先生と黄金のDUOも結成か?名古屋発だから名称は「ひつまぶし」とかかなぁ。

密かに遠謀も練りました。  (練る?......(ちっちっちプーン))
いや、メトニミーとメタファーの区別をどこかでつけなきゃいけないなぁ。


Sunday, December, 19, 2004
ちょっと旅行に行ってきます!よろしく。

さて、福山について書いたら早速優秀な学生、いや、優秀な同僚A元せんせから
おてまみをいただいた。

> 思うに福山雅治は「福山雅治」を演じることしかしないから退屈だ。
> その点織田裕二の演技と類型的に見える。

あはは。二行だよ二行。私が14行かけて書いた内容と同じことが一行に凝縮され、
あと一行で、織田裕二にまで言及されている。
恐るべし、A元。このごとくA元先生のうんちくには膨大な内容が凝縮されているのだから
学生の人はその内容を最大限理解すべく十分注意して聞くように。
私もちょっと高踏で硬質な文章を書こうと自らの研鑽を誓うcricketであった。
んで、織田裕二ファンの皆様ごめんなさい。m(_ _)m

paradigmaticーsyntagmaticの話。
Roman Jakobsonの論文を読み始めた。ローマン・ヤーコブソンである。この方は、ありすとてれすほど
分野違いではなく、認知言語学にとって、死んだひいおじいちゃん、くらいの位置づけである。
この人は、paradigmaticーsyntagmaticをpoles (対極)と位置づけている。これ面白いね。
んで、このくらいの話になると論文にできるほど詳細な話ではなくもっと大きなスコープの話なので、
がーっと言っちゃってもかまわんであろう。
これ、思考と行動と対応づけることができるね。

paradigmatic=思考=空間
syntagmatic=行動=時間

なんでこんなことを思ったかというと、ある時、思考と行動は背反するからである。

考えすぎると一歩が踏み出せない、ということ。
どこかで、考えるのをやめて身体を動かさないといけない、ということ。

両方いっぺんにやるのが一番いいんだけどね、
調子がいいときじゃないと、両方を制御することは難しい。


んで、どうして「対極」になるか、というと、
思考と行動では制御系のリソース(作動記憶:working memory)を食い合いしてるんだ。

きっと。

昨日は、インターンシップ(長期)の報告会。皆様お疲れ様でした。きっと感動的なお話が
聞けたことでしょう。N島(私ではない)君お疲れ様です。

私はそのころ、通訳研究会で懇親していた。

東京から、鶴田さんという(この人も有名になってるので実名でよかろう)同時通訳、放送通訳の
素敵な方が研究発表されていた。この方も実務畑から今年から東京外語大の教授に転進。
ここ数年で、通訳者が次々と大学で常勤や非常勤として教鞭を取るようになっている。ニヤリ。


Saturday, December 18, 2004
文学部ホームページのディスカッションなんていうのをやっている。
今お願いしている人はよろしくね。興味ある人はメールください。
お主に文学部の学生の皆さんを募集。

入試トライアルっていうのがある。
こんなのあるなんてしらなかった。大学がその大学の試験のコツを教えてくれるんですぞ。

月が半分になってきた。
満月、新月の時には暴走事故が、半月の時にはうっかり事故が多いらしい。

昨日、よくお香を買いに行くエスニック物産屋で福山雅治がかかっていた。
「福山」に関しては私は微妙である。

(ちなみに、メトニミーを学ぶものたちへ。かかっていたのは、「福山雅治」自身では
なく、福山の歌、である。さらに福山とメトニミーのネタとしては、
「昨日福山行ってきた」というのがある。
普通の人が聞けば、中国地方の福山市だと思うが、あるコンテクストでは
福山(のコンサート)に行ってきた、の意味になる)

さて、「福山」に関して私は微妙である。なぜ微妙であるのか。どのように微妙なのか。

うーん。嫌いじゃないんだけどちょっと小馬鹿にしちゃうんだよね。

まず、私の中のカテゴリーとしては、柴田恭平とか岩城滉一のようなカテゴリーに入る。
ん。そんなおじさん、しらん?ま、一緒につるんでたら楽しくてちょっと誇らしい感じである。
つるんでる自分は館ひろしの位置にいる。(おらん?)

ま、男の子だけどお友達になりたいタイプなのである。

歌も結構うまいと思っていた。しかし、「福山」が出した、他人のカバーばかりを集めたアルバムを
聞き、何曲も聞き進めるうち、やや疑問が生じてきた。
どの曲を聴いても同じ感じに聞こえるのである。そして以下の疑問を持つにいたった。

「福山」の歌は魂がはいっとらんのではないか?

しかし今度の曲はハスキーでbreathyな感じがとても聞かせる。声に膨らみと潤いがある。
山崎まさよしのような感触を狙ったようである。
そうである。彼は狙っているのであって、かっこいい感じを出すことの天才なのではあるまいか。
ファンの人ごめんなさい。m(_ _)m

山崎まさよしといえば、前に少し書いたかもしれないが、「名前のない鳥」がいいなぁ。
その歌詞に「ネオンのように揺れている約束の土地、遙か遠くの街」というのがある。
「約束の土地」というのはもちろん聖書への言及で宗教的な感じを生むが、
「約束」というのはちょっとどきどきするものがある。
それは複数の個人によって行われる社会的営みであり
将来のことを考えることができる、という人間特有の営みであるからである。
犬は約束しない。


Friday, December 17, 2004
前に宴会の席にA元先生から忙しいですかと聞かれて
「何かを捨てなければいけないと思うんですがどれも捨てたくないんです」と答えた。
約三週間前のことだ。昨日、捨てるものをふたつ決めた。
内容は内緒だが。今あるバックログははきながら徐々に減らしていく。

捨てることは悪いことではない。大事なものだから捨てることがより意識されるのだ。

英国総領事がいらっしゃいました。実に英国紳士でしたぁ。
フォーマリティ。という言葉を知らない私には、自然な格式、みたいなことを
考えさせてくれました。さぁてと、まずはバーバリーからかぁ?(カッコからかよw)
それはともかく大変誠実な方という印象を受けました。日英関係の将来を握るのは
若者だよ、うん。


Tuesday, December 14, 2004
もう12月も半ば。早いなぁ。
風邪は順調に回復へ。ご心配かけました。

Sunday, Devember 12, 2004
いくつかのことを考えている。
まずは体調。白菜鍋に朝はカレーを入れて、
昼はラーメンを入れて食べる。悪食、か、俺?
というのも風邪には20代〜30代の時は「ともかく食べる」というのがポリシーであった。
例えば、お昼にラーメンと餃子と中華丼。夜にすき焼きにウナギ丼にけんちん汁。みたいに
食べて直していた。今時はそりゃ無理だろ。食べ過ぎで太り死ぬって。
風邪は一進一退を繰り返しながら快方へ。
(食べる代わりにポカリスエット2LとWider6個買ってきました)

paradigmatic とsyntagmaticを二大対立として考えている。
こういうことがあった。S社という企業に勤めていて、平社員だった時、
課長、係長レベルで2人の大変優秀な人がいた。
私は2年目か3年目という時でわからないことだらけである。問題が起こると
質問に行くわけだが、質問すると一人は、
「それはこうこうこういう問題の一種で、それには
Aという解法、Bという解法、Cという解法がある。前後の状況を考えると
Bが良かろう」ということになる。
つまり、選択肢が提示される。
もう一人の人に質問すると
「それだったらXしろ、次にYしてZすればいい」
と唯一の解答とその手順が伝えられる。
つまり一人は横に拡がる。幅広いパースペクティブの中で相対化される。
もう一人は縦に拡がる。
どちらがいいかは別にして両者は2人ともとても優秀な人であった。

昨日は、時事英語学会関西支部例会で英国総領事館のリンチ領事に日英関係の
話をしてもらった。stories told and retold. 大事なことは何回言っても良いので
私なりに発見を再録する。

イギリスと日本には共通点も多い。
   アメリカが入っていない京都議定書(環境宣言)を中心となって推進している
   ベトナムで共同の支援プロジェクトを行っている   他

イギリスは日本に注目している
   北朝鮮問題では日本を完全に支持する
   日本の国連での役割拡大を支持する
   日本がアジアで政治的経済的に中心的な国家となっていくことを期待する。

最後のところはご本人に確認したが、アジア地域の安定と発展のためにリーダー的
役割を果たしていって欲しいというのは英国の公式見解だそうだ。

GNPはアメリカ日本ドイツに次いで第4位の英国、日本などの投資で不況を克服し、
現在、好況を維持している英国の話を聞き、その国からの視点を学んだ素晴らしい機会
であったことを喜ぶとともに、こういった草の根的形で多くの国と友好関係を作ることによって
新しい時代の世界秩序を、....あーまだるっこしい。つまり、独裁国が横暴したり、
罪もない人が砲火におびえた夜を過ごしたりせずにすむ場所に世界がなればいいと思う。

餓えの話もそうだが、ある時期「そんなに他人様を助けたきゃ、自分でやればいいじゃん、
パンでも服でももって貧しい国にいったら?」というような意見に対し、自分なりの見解を考える
こともあったが、ま、できることとできないことがあるけど、祈ること、思い続けることは重要なことだ、、
少なくとも意味のないことではないと思う。

んで、来週
英国総領事が来るぞ。就職の話もしてくれるので
木曜日3限目、興味のある人は来てね。詳細はcricketまで。


書いているとちょっと安心するなぁ。他にやることあるのになぁ。

先日街で思ったこと。12月の勝者は 1.カップル 2.ブランド である。三位以降思いついたら追加する。
いやー「師走で先生はお忙しいでしょ」なんていうけど、どうかなぁ。12月はカップルの月でしょう?
クリスマス気分をどこでもかき立てWhite Christmas, Last Christmas, 山下たつろーの例のやつ、
カップルってええなぁ。ほんわかーって感じですね。 街はブルーとホワイトを基調にしたイルミネーション
うんうん、赤と緑はもう飽きたもんな。二番目の勝者はブランドかなぁ。プレゼントだとかなんだとか。
ブランドがキラキラ輝く月ですよね。ブランドに関してはこれも国際平和同様、いつだか態度を(暫定的にでも)
決めざるを得なくて1.持ってる/持ってない 2.詳しい/詳しくない 3.いいと思う/しょうもないと思う
あたりなんだけど、ブランドなんて所詮外見のことですから、などといいつつ自分は持っててさりげない、
なんてのが一番の勝者かなぁ。逆に外見だけがちがちに固めて中身のない人、欲しくて欲しくて仕方なくて
借金したり人を騙したりしてブランド品を集めちゃうってのが一番情けないかなぁ。cricketは持ってる人見て
かっこいいなあと思ったりするもののどれがどれだかわからなくて時々これいいねぇって思うもののあるけど
なんでこの値段、って思ったりするのでほとんど買わないってパターンだけど、ま、自分自身がブランドですから
みたい風に言ってみたいですねぇ。(実は密かにspiralcricket.comというアドレスも取得済w)んで、
1.カップル 2.ブランドなんだけどブランドで固めたカップルってちょっと逆につらい感じがします。
カップルはやっぱり「僕たち何もないけど愛があるからそれだけで地球で一番幸せなんだ」って感じの
ビームが出てるのが一番安心して見てられますね。

ま、いずれこの雰囲気も1月になったら壊れますから。それまでの我慢ですよ。(笑)


読んだ本
宮部みゆき 「初ものがたり」「人質カノン」
高樹のぶ子「光抱く友よ」「哀歌は流れる」
宮部みゆき(MM)はご存じミステリー出身の名手であるが「人質カノン」はちょっと面白い雰囲気を
感じた。不登校とか、いじめとかの環境にある子供が主人公である話が多く、直接的なメッセージ
を意識したストーリーの感じがした。ある意味吉本ばななを意識した感じである。

吉本ばななの「デッドエンドの思い出」も読んだって書いたっけ?ちょっと似てるな。
日常の中の臨死体験みたいな。

高樹のぶ子は1984年に芥川賞を取っているらしい。村上龍、高橋三千綱、池田満寿夫のあたりの芥川賞は
大変注目して見ていたのだがその後あまりよくしらない。が、よくできてる。ちょっと「哀歌は流れる」の方に注目してみたい。前に見た、林真理子の「みんなの秘密」に似てるんだよな。リレー形式っていうのかな、という登場人物が次々交代していく。高樹の方が1994か1995, 林の方が1997だから明らかに高樹の方が先である。両者の解説を見ると高樹の方には「高樹のぶ子がこういう凝った小説形式の、発明者だというわけではないけれども」とあり、林の方には「主人公が交代していくという形の小説はこれまでにもあった。僕の記憶では、フランス・ミステリにその手のものが多いように思える」とある。
この形式に詳しい方いたら教えてください。どちらもよくできているが、高樹の方がちょっと好きだな。林の方はエロ話である。エロ話はもちろん嫌いではないが。高樹の方は、エロ話もあるがイヤリングのロマンチックな話もある。もうちょっと言えば、...ああ、ここネタばらしたらよくないね。どこかで見かけたらぜひ読んでみて。

あ、どうも月がひっくりがえったみたいです。1:14pm 月齢 0.6才

A元先生やゼミ生のT瀬さんと結構盛り上がっている主観性と客観性の問題について。
T瀬さんはミラーニューロンについて書いてます。それだけですごいと思うんですが。
家庭内暴力なんかで、暴力をふるわれた人が暴力をふるう人になるってありますよね。
chain of violenceだったかな、そういったいい方をするはず。例えばこのメカニズムですね。

A叩くB

Bは、叩かれることを学習するだけでなく
A叩くBという状況/フレーム自体も学習する
もちろん、叩かれ方を学習するだけで、叩き方を学習するわけではないのに
どうして叩かれる人から叩く人へと変わっていくのか?
ってわけで、これ、「慣れ」とも関連するテーマなんですよ。
それから、抽象化というテーマです。

思考と行動に関して
思考のスピードがすごく速くて行動は相対的に遅い、ということは疑いないですね。
前に少し書いた扉の話。まなざしを上げるだけでメンタルにはそこまでいけるけど
実際に行くには時間もかかるし。

このあたりに関していくつか考えることがあります。

★思考は並列処理であり行動は直列処理である。ふたつのことを同時に(聞こうと思えば)
聞けるけど、ふたつのことを同時に言うことはできない。ふたつの場所へ行くことを
考えることはできるけど行くことはできない。究極的にはそういうことです。
時間はリニアであり行動はリニアである。

★思考と行動の速度差を埋めるためにいくつかやり方があると思います。
あとは自分のメモだから今日はここまでということで。

敢えて言っておくと、ここ、最初のparadigumatic とsyntagmaticにつながっていくんですよね。
あり得たであろうすべての代替的ストーリーと実現するひとつのストーリー。
パラレルワールドと現実の世界


Tuesday, December 7,. 2004
S井先生もご覧になっている(@_@)ことが判明。いやーどうもー恐縮ですぅ。m(_ _)m
牡蠣、いや、下記、海の幸のフランス語は正確にはFruits de merのようである。
てなふうにお料理フランス語からフランス語を学ぶもよかろう。

風邪気味。

12時近くまで寝てちょっと回復。

眠い。

薬飲んでないのに薬を飲んでいるような眠さだ。

K林先生の来年度のゼミの学生さんから「蟹食べたいです」と言われ。
うーん。そりゃ食べたいだろ。
おれも食べたい。
今年は毛ガニ、タラバガニを食しました。ニヤリ。ズワイガニはまだだなぁ。
日本海行きたい。
そりゃみんな行きたいだろ。
北朝鮮に続くロマンかな。なんだそりゃ。


Saturday, December 4, 2004
ふーーーーーー
ふーーーーーー
ふーーーーーー
大仕事終わりました。

一緒に通訳をしていただいたF山大先生、どうもありがとうございます。
Fコニエ先生、皆様どうもありがとうございました。勉強会ではM本先生皆様どうも
ありがとうございました。

Friday, November 26, 2004

冬のうまい海産物の話をした。ふぐ、カニ、海老、いくら、数の子、ウニ、うーん。たまらん。

歯医者行きました。前に直した歯のかみ合わせが悪くて。いったら、あ、これですね、ががー
と直してくれて調子はいいようです。

Thursday, November 25, 2004
昨夜はベルギービールの宴。

「光射す海」鈴木光司
「リング」の作者であるが、それはまあ、プロ意識がある。
精神の病を持つ女性とマグロ船に乗る男性。それぞれがかなり調査して書かれている。
粗いところもあるんだが、この作者との相性はいいのか、あらいところも好ましく見ていられる。


Wednesday, November 24, 2004 PART II
ところで、昨日、牡蠣と海老を食べた。
海老はどうだったか忘れたが、貝類はフランス語でfruit de mere(要確認)と呼ばれる。
海のフルーツである。とんでもなくぶっ飛んだ名称だと思うが、牡蠣を食べてると
まんざら悪くない名称とも思える。独特の甘み、香り、ビタミンが豊富なこと。
んで、殻付きに限るね。殻付きのと洗浄したパックのと両方買ってきたが全然違うなあ。
殻をこじ開けてレモンをかけ、ずずずずずーーっとすする。うんめぇ。
冬には冬の味わいがあるのである。


Wednesday, November 24, 2004
夢を見た。
面白い夢でね。今自分のいる立場を微妙に変えた夢でさ。

夢は天才だね。自分が知らないことまで知っている。無意識のすごさだね。

どんな夢かは言わないけど、出てきた人物の一人に自分の中学校の時の
バスケット部の先生がいたことは述べておこう。(述べられてどうする?)

前もすごい夢を見たことがある。
そういうときの夢って細部にまで設定や場所取り視点が鮮明だ。

夢で思い出したのは、『扉』(これを『学び』と呼ぶ人も多いらしい)でK谷君が書いてくれた奴。

A:君の夢を聞かせてくれないか
B:昨日みたやつ?
A:将来のだよ
B:わかるわけねぇだろうが

これだれかのネタなのかな?受けまくり。両者のコミュニケーションが成立しているのに
(え、どういう意味、とか、意味わかんないとかになってないのに)両者は理解し合えていない。

「夢」のふたつの異なる意味をそれぞれが頭に描いている。
(お、こういうのを同床異夢っていうのか(笑)(お、ざぶとん一枚)(自爆)
(っつか同床じゃないし))

んでぼけまくって逆ギレ。お見事。

アメリカの著名漫才(って言っていいのかな)にWho's on first? っていうのがあり、
Abbott & Costello ってのがやってるんだが、(音声ファイルのあるサイトもあった)
Who というのが一塁手の名前で...という設定だ。

C:で、誰が一塁なんだ?
A: そうだ。
C: だからー、誰が一塁なんだ?
A: だからー、そうだってば。
C: もういいって。じゃ、二塁手の名前は何だ?
A: そうだよ。
C: 二塁手の名前は何だって聞いてるんだよぉ。
A:だから、ナンだって、いってるじゃないか。
C:何なんだ?
A: ナンなんだよ。

みたいな会話が延々と続く。

これで思ったのは、ネタがなんだか、インベーダーっぽいんだよね。よく知らない名前の
人が出てくる。なんとはなしの不安感がある。(2人の写真。当時のアメリカ人はあごが
発達してたのかそれともこの2人がそういうコンビだったのか?)
んで、50年から60年代のソ連(あーこの語も死語になっていく...)あたりの不安感かと
思ったら、Who's on Firstは、1941年だそうだ。「侵入者」は日本人だったわけだ。


Tuesday November 23, 2004
知らぬ間に今日を迎え、休日だったことに驚く。
実は祝日は得意ではない。
人が楽しんでいるときに仕事をしているのはなんだか悔しい。
気持ちを切り替えて遊んでしまうべきなのだがなかなか事情およびその他が許さない。
しかして結局はなんにもできないので心構えを変えてぱーーーーーっといくべきであろう。


北方謙三 「活路」 侍ものなんて始めて読んだ。
これは書物にはいるのか?
いや、悪い意味ではなく。

西村寿行なんて読んだときにもそう思ったのだが、
楽しい。
しかし、これを読んで何か身に付くのだろうか?

本は何かを身につける為に読むもの、という私の暗黙の前提が間違っているだろうか。

人と話す。楽しい。

これはすり減らしているのか、滋養しているのか?

これを読んでいる人だって同じ思いだよな(笑)

ゲームをする。(バックギャモン)これは?

論文を書く。楽しい部分もあるがそこに持っていくのが大変。これは本当は楽しくないのか?

楽しいことは重要なことではなくて苦しいことが重要なのか?

何か成し遂げるということは苦しいことなのか?

いや、好きなことをやって楽しくて何かが成し遂げられていく、そういうモードにないときは
ちょっと困るね。


Friday, November 19, 2004
いつも木曜日は怒濤のように過ぎる。
「青の炎」貴志祐介 天才高校生が完全犯罪を企図する話。


Monday November 15, 2004
会議日。


Sunday, November 14, 2004
A川氏宅で美人通訳妻とご挨拶お上手な将来有望カーマニア少年を交えての晩餐。
お世話になりましたぁ。私の眠りが浅いのは電気をつけて寝るためと小窓にカーテンが
ないためであることが判明。なにかと有意義な両日であった。


Saturday, November 13, 2004
あっというまに土曜日に。
昨日は、神奈川大学のことば工学研究会で発表、渋谷にでて懇親会。
今日は今(9時)から獨協大学で英語学会に参加。ワークショップで発達と類型論、
言語発達類型論的な話がある。O堀先生、I井先生、んで、外国からの有名な先生。
あとは畏友A川先生んとこのご家族と親睦会。

Thursday, November 11, 2004
あっという間に木曜日に。明日が新月かな?
本に対するコメント。乃南アサに「女刑事 音道貴子(おんどうたかこ)」ってキャラが
いて、これが女刑事っていうイメージとは異なり、男社会の中の偏見に負けないように
うじうじしながら耐えながらがんばってくって内面世界を描いていてリアルである。
背が高くて三十路でバツイチになった人という設定。


Tuesday, November 9, 2004
あっという間に11月も中旬に。
昨日は、入試説明会で100人くらいの受験生にお話。どきどきしますた。

最近読んだ本
乃南アサ「凍える牙」「家族趣味」「花散る頃の殺人」「幸せになりたい」
妹尾河童「少年H(上)(下)」

今読んでいる本
鈴木光司「光射す海」
浅田次郎「鉄道員(ぽっぽや)」

すべて大変良い本です。


Monday, November 8, 2004
今週末神奈川で発表する論文の草稿がやっと完成した。アリスとテレスも登場する。
哲学に素人の私がこんなこと書いてはN沢先生に怒られるとも思うが、言語学を
やってるとついアリスとテレスに行き着く。何やってもそこに行き着いちゃう。
もちろん、デカルトに行き着いた人(Cさん)や、カントに行き着く人(誰だろ?)も
いるのだからそれはその人の嗜好によるのかもしれない。この人はこんなこと考えてたんじゃ
ないか、と、読み解く時、スリルがある。

Grammaticalization(文法化)という最近認知系の歴史言語学で取りざたされているが
「そんなもん、時枝(ときえだもときという日本の文法学者)が詞と辞に関して、
詞の辞化としていっとるわ」という話もある。あー、そうだったのか、あの人はそんなこと
考えてたのか、という話になる。だれも行ったことがないと思って行ってみると、
誰かがすでに行っていた、(んで、花の一輪でも残してた)というのは、悔しいというよりは
共感というか、ちょっと心休まる気がする。

今朝、今年のゼミ生さんから卒論に関するメールを三件いただいた。そろそろ
最終コーナーに入ってきたってことかな?


Thursday, November 4, 2004
学祭に来たA元家のみうみうちゃんから素敵なお手紙をいただいた。どうもどうも。
どんどんかわいくなって、パパ、目が離せませんね。

私は今日から研究室合宿を開始!のつもり。どうなることやら。

何かに入り始めて集中している時に、よく、全然関係のないことを思い出す。
大学の時アルバイトで出張家庭教師みたいなのをやっていて

(家庭教師というとみんな出張だろうが、そこは教材を買ってくれた小中生は月に
一回とか家庭教師を呼ぶことができるというシステムの会社で、そのたんびに
あちこち知らない家を訪れて生徒を1時間半とか教えるというという奇妙なバイトだった)

東京から遠く離れた郊外の街で、水の流れる川にかかった小さな石橋の上で
時間つぶしに吉本ばななの父親の書いた詩学の本を読んでいたときのこととか。

遠い海の、海面に近い部分を海岸線に沿って潜行していく様子とか。

水面下と皮膚下の間にすごく近い関係を感じるのは僕だけだろうか。

月が弛んで小さくなっていく。

そうそう。

たゆむ と たるむ。

私は密かに 日本語の y 音と r 音が 異音の関係にあると踏んでいるのだが...
(いや、相補的分布だと思っているのだが、だとすると同じ環境に出てくるのは変だな)

そうそう。

踏んでいる、ってどういうメタファーだろう?値踏みする、とか、あー確かめる=固くするってやつだね。

acertain. hard evidence. @cricket. ってことで。

かくのごとく思考が拡散していくのは月の縮小と無関係ではないだろう。

反比例か。。。。

月が大きくなっていくときには精神は研ぎ澄まされていくのか?然り。

実は、K林先生とラーメン屋のママを賭けてアメリカ大統領選の賭けをしたのだ。
(ママを賭けての部分は冗談ですよぉw)勝つことになるのだろうが陰鬱な勝ち方だ。

なんでこんな大仰な書き方になっているか、というとひとつは
アリストテレスを読んでいるからであろう。しかもイギリス人の翻訳で。大仰にもなるわな。
(アリスとテレスという若手女性デュオじゃありません)

いや、A元先生のシネつぶ読んだからなかなぁ。

今読んでいる本が一時話題になった「少年H」って妹尾河童の書いた本で、
最初はこの人自分の子供の頃が如何に天才的だったかって感じで嫌みな人だなぁと
思いながら読んでいたが、実は彼はやはり天才なのであって、読み進めるにつれて
感情移入ができるようになって自分のことをほめられてるみたいに嬉しくなってくるのだが、
この本は戦争に関する本なのである。


ん、しかし、学祭終わってなんだか「祭りのあと」みたいな感じなだけかぁ....


Tuesuday, November 2, 2004 Part II
最近の私の口ぐせは、「ちゃうねん、ちゃうねん」である。
これは、スピリッツという雑誌の『ポンず百景』という漫画にでてくる「おかん」の口癖である。
しゃべり始めるときに、「ちゃうねん、ちゃうねん」から入る。
自分の前にある発話を全部リセットするのである。
これは、若者言葉の「っていうか」に似ている。
私はこれを研究対象としたわけではないので、粗雑な考察であるが、
「っていうか」も、前の発話に賛意を示すでもないのみならず、反意を示すのですらない。
無視、なのである。
あんたのいうことはどうでもええけど、私的には。。。という意味である。
つまり、自分の土俵に入ってこい、という傲慢な態度である。
一人がこれをやって、みんなが私の土俵に入ってきてくれればいい。
しかし、これをみんながやり出すと、大変空虚な会話になる。いわゆる孤独な群衆というやつである。
People are just talking without communicating.
ということで、他人の発話に耳を傾けるようにせねばと自戒するcricket であった。
っていうか、「っていうか」って死語?っていうか、関西では使わないのかな?


Tuesday, November 2, 2004

私はアモルファスである。
非定型の、という意味らしい、アモルファスとは。
morph は、morphology (形態論)、metamorphose(トイツ語:メタモルフェーゼ=変身)などに出てくる
「形」という意味である。反対語は、crystal (結晶)であろうか。

最近もある人に、cricketさんはいろんな経験をしているからいろんな視点でものが見れるんですね、
と言われたのであるが、それは褒められたのであろうが、逆に言えば優柔不断だったり、はっきり
しなかったり自分を持たなかったりする。

しかし、アモルファスであることも悪くない。回りの人を見ても、たいそう腰の低い人、たいそう強くて
押し進む人、いぶし銀のような人、天使のような人、小悪魔のような人、いろんな人がいる。
それぞれの個性があるから楽しいのではないか。すべてになる必要はないし、すべてになって
しまっては他の人が困る。

私は今、アモルファスであり当面アモルファスであることを楽しみその良い面を見いだしていこう。


慣れということ
慣れはお化けである、と書いた。お化けである、とはすんげぇ、という意味である、と書いた。
その断片を書く。
何かに「慣れる」、ということは、何かに「成る」ということである。

毎日毎日出来事を見て、それを簡潔な言葉で記述する。だんだん、どのように書けば
もっと短い言葉で、もっとも印象的に、もっとも短い時間で出来事を文章化できるようになる。
これが「慣れ」である。その時あなたは新聞記者に「成った」のである。

電話をして、会議に出て、決定をして、人を使い、宴会に出て懇親してもっとも効率的に
人を動かし、自分の組織を有利に動かしていくことに慣れる。その時、あなたは社長に成ったのである。

ま、そんなことかな。それから、何かに成ることは何かでなくなることである、ということもある。
あれもこれも、というのは難しい。
あたらしい自分と出会うということは古い自分と別れるということである。
何かに慣れる、ということは、慣れた何かから「抜ける」ということである。
これは難しい。何かに成れない(慣れない)場合の多くは、何かから抜けられない場合である。

新しい習慣を身につけるということは古い習慣を捨てるということである。

こと時間に関して言えば、すべてはゼロサムゲームである。


エンゲストローム先生は人生の智恵は機知/ユーモアである、といっていた。
あるものを全く異なる角度から見られる力、これは大事だろう。
ダブルバインド状況を抜け出す智恵、ということである。

ダブルバインド状況=葛藤=
1.どっちもやりたくないのにどっちかやらないといけない or
2.どっちもやりたいのにどっちかしかできない。 or
3. あれをやりたいのにあれをするといやなあれがついてくる or
4. あれはやりたくないのに、あれをしないと欲しいあれが手に入らない

ダブルバインドと葛藤が同じなのかどうか、それから、そういった状況を打ち破る機知/ユーモア
とは具体的にどんなことを言っているのか、についてはまた今度。

破壊された脳細胞の波間に映る微かなイメージや映像や情動や猫や吐息。
二日酔いの朝は意外と冴えてるかも。w


Sunday, October 31, 2004 Part II
学園祭である。いいもんである。
小生は待機である。ビールも飲みたいがぐっと我慢。明日は飲むぞ。

昨日は学会出席。関西言語学会という学会で髭のごりっぱな先生が会長をされている。
一度、学会で水戸黄門をやってみたい。

黄門様<−−−K井先生
助さん<−−−うーん、わからん。

認知言語学会でやってみる。
黄門様<−−−I上大先生
助さん<−−−わからん
格さん<−−−わからん

意外と難しいもんだな。

Y梨研でやってみる。

黄門様<−−−Y梨先生
助さん<−−−O谷君
格さん<−−−K田君
うっかり八兵衛<−−−N本君(ごめん!親しみやすいキャラってことで。)
由美かおる<−−−F田さん、またはA光さんとU井さんを足して2で割る
風車の矢七<−−−O本さん、またはK山さん、これらが調達不可能な場合、K宮さんでも代用可
ピンチヒッター<−−−N澤君(助さん、格さん、矢七がこなせる)

あー友だち失いそう......

まあ、そこそこ落ち着きますね、これは。

では、次は、Y梨研をドラえもんでやると......(ん、決まってるのはのび太役だけかぁ...)


Sunday, October 31, 2004
Good bye October, Hello November


Friday, October 29, 2004
懇親会お疲れ様でした。N川さん、F井さん、I下さん、S山さん、K林さん、Y城さん、
PJM先生、H川先生、k林先生またやりましょうね。
まれに、English Only の飲み会なんていうのもいかがですかね。

Thursday, October 28, 2004
今日が満月らしい。

Monday, October 25, 2004
何かやってるときは無口になってる。蟹食べてる時と同じように。

月が満ちてきている。満月の蟹は歩き回って身が少ないらしいが。(一貫性ないメタファーだなぁ)


Tuesday, October 19, 2004
暗黒天使
やっぱり、15日、月末は締め切りが重なるんだなぁ。ひさびさに更新ができたのが17日だった。
それのアップが今になったのは、ウィルスのせいである。半月くらい前、自分のコンピュータが
Adware&Spywareというものの巣窟であることを発見した。(なんとなくPCの体調がおかしいことには
気づいていてメールはWebから使用していたが。)たまたまPC雑誌の付録に付いてた
Anti-Virusソフトをかけてみたら300くらいのなんだかかんだかが発見されたのである。
それがきれいさっぱり消えたのである。
しかし。
その後、ぽつんと一人残っているウィルスをウィルスバスターが発見したのである。
その名を、BKDR_DKANGEL.25という。Backdoor Dark Angel だと思うんだな。
その話をコンピュータに詳しいM村さんにしたら、「バックドアっていうと、やばい感じがしますね。
へたしたらコンピュータをコントロールされますよ」ということであった。
んで、びびってしまったのである。
んで、いまがんばって駆除しようとしているところである。ウィルスバスターのHPに行って
その解説を見たところ、危険度は低く、フロッピーなど人手を介した感染しかなく、
メール等で感染することはないという。また、コンピューターの設定などを指定されたアドレスに
送るらしいが、もともとの設計ミスで不十分な情報しか送られないという。
裏口_暗黒天使25 、恐ろしさが薄れてちょっと親しみが湧いてきたのである。いかんいかん。


Sunday, October, 17, 2004
Stories Told and Retold

振り返ってみると昨日はかなりインテンシブな日だった。

1時からY住先生H坂先生と教育関連のコラボレーションのミーティング
その中で話が、Narrative therapyに巡ってきた。前に少し書いたことがある、
「人生を自分のストーリーとして考え」「自分の回りの出来事に自分自身で一貫性を与え」
経験を意味づけしてやる気を出そう、という理論である。

Y住先生は、「個人的には好きではない」とおっしゃった。
心の痛みを言葉で克服していこう、とするアメリカらしい理論だとも。
私は、「では、その対極にくるものはなんですか?」と私は聞いた。
論理と感覚といったことを考えていたのだ。言葉ではなく、感覚でわからなければだめだ、
という意味かと思っていたのだ。しかしY住先生の答えは少し違っていた。
「成仏です」なるほど、時間をかけて安らかに去るのを待っているしかない
癒しというのは存在すると思う。

2時から研究会。K戸大学(けいと大学ではない)のM本先生のご論文発表。

John polished the shoes shiny clean(SVOC 構文の二重版)が言えて、
* John polished the shoes dry clean. が言えないのは、

shiny clean が複合的なひとつの形容詞となっているからであり、

The shoes are shiny clean. が言えて
* The shoes are dry clean. が言えないのと同様であるという。

これはもちろん膨大なデータと説明のごく一部であるが、cricket的には、とても
重要な示唆を含んでいると感じ、考えさせられた。

えっとねえ、うーんと、えーっと。つまり。

積み上げ式シンタックス(従来のChomsky 的アプローチ)

        ↓

テンプレートとしてのシンタックス(新しいFillmore的アプローチ)


の間の問題ですね。わかる人はこれでわかる、としておこう。
(わかる人は、2−3人だと思うが、説明してもわかる人は5,6人だと思うので
あえて省く)(まあ、言えば、新しい理論は、古い理論ですべて
語り尽くせないことを説得力をもって示したが、実は、新しい理論だけで
すべてが語り尽くせることを示したわけではないし、実は、新しい理論
だけですべてが語り尽くせるわけでもなさそうだ、ということである。)

5時から、学校インターンシップの報告会。
5人の学生さんが学校インターンシップの報告を発表し、とても心温まるものであった。
前にも学校インターンシップは面白い、と書いたが、やっぱりすごいことだなぁと思う。
んで、その場で、最初の方に、S井先生が、「これは皆さんの体験を共有する場ですから」
と述べられた。体験を言葉にする。それは自分に起こったことを振り返って追体験し
再構成し、別の角度から見ることであり、回りの人もそれを自らの中に構成し、
追体験し、自分の体験を追体験することなのである。Stories told and retold.
そういう風にして体験と言葉が結びつき、言葉を介した再体験として人と人が結びついて
いくわけである。

ということでcricketも自分の体験したことを言葉にして伝えているのであるな。
納得。んで、そんなインテンシブな一日を経験させてくれるような尊敬できる人々
と時間を過ごせる自分を幸せであると感じる。


Monday, October 11, 2004 PART II

決断を早くするいくつかの考え方

ものごとを忘れて何だったか思い出せない時→それ、重要じゃないんだよ。
                              大事なことだったらまた思い出すよ。

どっちにするか悩んで決められない時    →どっちでもいいんだよ。同じだよ。
                             その時点ではイコールなんだからさ、
                             どっちかエイヤッとやってみてからまた
                             考えればいいじゃん。

Monday, October 11, 2004
苦になってた仕事終わりました。あーなんだ、自分の話だったのか。w

5.切り替え(FIFO)
FIFOとは、この場合、FAST IN FAST OUT の略である。
通常は、FIRST IN FIRST OUT の略である。これは先入れ先出し法、という。
会計学などの概念で、在庫に関することで、先に仕入れた在庫から使いましょう、
(古い牛乳から飲みましょう、みたいな)話である。

FAST IN FAST OUT は、通常、レースの時に使われるカーブの曲がり方、
SLOW IN FAST OUT をもじったものである。
カーブを曲がる時にはゆっくり入って、曲がったらアクセル踏んで急速に立ち上がるという話。
仕事でもなんでも、さっとはいってさっと出る、切り替えを大切にしましょう、という話。
「慣れ」があるから、出る方も大変だけど、入る方が難しいよね。
静止最大最大摩擦力ってのがあるな。
ものを動かすとき、いったん動き出すまでにかける力が最大だ、ってやつ。

変化は難しい。

新しい作業に入るのは難しい。

私は、いろんな儀式を経て「のり」(乗りであって糊や海苔ではない)を出してくるが、
「のり」に入るまでの儀式が長すぎる。

今のところ、チェックリストを書いて、時間を決めてその上位のものからひとつづつやっていくのが
一番効率いいみたいだけど、それも決めた時間になんにもせずに本読んでたりほかのことしてたり
するとたいそうな自己嫌悪に陥る。

1.やるべきことを網羅的に拾う
2.他のことはすべて忘れる集中力を養う

に注意すると共に、FI(FAST IN )に対する阻害要因を類型化してみるのも良かろう。
思うに二つ思いつく。ひとつは昨日書いたプレッシャー、もうひとつは、何をやっていいか
わからない場合。

プレッシャーに対してはどうするか。これはまだはっきりとした答えがない。
ただプレッシャーを感じていることを認識すること、プレッシャー自体を肌で感じること、
そして、プレッシャーを感じるほど重要な局面にある自分を褒めてあげること、
そんなところはさほど間違えはないだろう。

====================================
以下、なんだか個人的なかかずもがななこともまで書いてしまったような。
わからない人/興味ない人は無視してください。
(ゼミ生は読むように)
====================================

何をやっていいかわからない場合、まずBS(ブレーンストーミング)がいいと思う。
白い紙を取りだして、それに関することをなんでもいいから書き連ねる。この際、
あ、これは関係ないかな、とか、いうことは考えずに、自由連想式になんでもありで
書き連ねる。

それから、私が作業のPADIXと呼んでいるものがある。
PADIXとは、昔働いていた会社のシステムで、PART DISTRIBUTION INFORMATION
CONPUTER SYSTEMだかなんだか、ともかく、ある製品に対してその部品の一覧が
生成されるものだ。
どんなものでも、全体と部分、さらにその部分という風に階層構造を持っている。
作業ももちろんそうだ。
この作業を達成するために必要な下位作業をいくつも書き上げ、そのまた下位作業を
いくつも書き上げ、非常に小さな作業単位にまでしてこれに順番をつけていく。

それから、CRAZY WRITE(CW)とか、CRAZY TALK(CT)とかいうのも時々やる。
(正しい英語ではない)ともかく、構成とか順番とかかんがえずにめちゃくちゃに
書いたり、めちゃくちゃにしゃべってテープに録ったりする。

それから、SCANNING(スキャニング)とか、SKIMMING(スキミング)とかもするな。
これは、一般的な用語。読むときに、流し読む。例えば、調べているものがあったり、
あるテーマについて論文を書きたい時がそれについて知らなかったり思いつかなかったり
する場合、関連資料をがーっと目を通す。

★BS
★PADIX
★CW,CT
★SCANNING

んで、そうすると、どれをやったらいいか、という決定の問題が生じる。
その際は、どれをやったらいいか、やれることはどれかをBSする。

BSをやる際、分類や順序づけをするには、色塗りやPOST IT(KJ法)がいい。
小さなポストイットを使ってやるべきコトや項目を書いて並べて替えて見る。
特に、時間スロットなどが決まっていて、時間と項目のマッチングの場合、
この方法だとおどろくほど早く決まるぞ。


Sunday, October 10, 2004

行動プログラム 緊急追加報告

途中だが、追加。

スピードより量より決断であることを述べた。
決断を妨げる、または決断を実行に移すことを妨げる要因は心理的であることがほとんどである。

こんなことしたら笑われるんじゃないか。
みんなの前で失敗したらどうしよう。
こんな文章を出したら恥ずかしい。
自分の納得できるものができてない。
いいものはできっこない。
こんな短い期間では絶対無理。

「プレッシャーと怖れ」

だからこそ、心理的に自分をコントロールすることが一番大事である。

ある意味、「プレッシャーや怖れ」があるということは、
対外的(他人から見て)にも、対内的(自分から見て)にも大変重要なことを
なそうとしているということなのである。

例えば、山に登って眼下を見下ろすと足がすくむかもしれない。
しかし、大事なのは、そこまで来た、という事実である。

落ちたらどうしよう、と考えるより、「こんな高いところまで来た」自分を讃えるべきである。

英語スピーチコンテストで「失敗したらどうしよう」と緊張につぶれてしまうより、
予選を勝ち抜いてそこまで来た自分、あるいは勇気をだして申し込んだ自分、
そして、英文を一生懸命暗記して練習してきた自分をえらい、と思ってあげるべきである。

「プレッシャーを楽しめるようになったら一流」とは長嶋茂雄の言葉だっただろうか。

「プレッシャーを感じる」ということは、「大変重要なことを今まさになそうとしている」ということだからだ。
そこでしか経験できないことに向かい合っている自分を楽しんだらいい。

(あーなんてポジティブな私)


Saturday, October 9, 2004

4.熟練(LC)
Lerning Curve (学習曲線)のことである。
つまり、慣れると早くなる、ということである。
例えば、算数の同系統の問題を何度も解いているとスピードが早くなる、とか。
英語で同じような物を聞き続けているとスピードが早くなる、とか。

スパゲティカルボナーラを何度も作っているとだんだん、早く、楽に、美味しく作れるようになるとか。

反復はスピードアップであり、無意識化であり、精度の向上である。
(Automatization, という心理学的概念があり、これは以上のようなことを言っている)

反復は慣れである。

慣れは「おばけ」である。

「おばけ」というのは私の主観的な用語である。

「めちゃくちゃ」という意味である。

「めちゃくちゃ」も私の主観的な用語である。

「すごい」ということである。

どう、すごいのか。

あまりにすごいので言葉にできない。それくらいすごいのである。
いつか、がんばって言葉にしてみる。いや、できるのだが、結構時間がかかりそうだからまた今度。

「慣れ」はすごい、と、cricketばいっちょった、とおもっちょってくだせ。

しかし、LCに関していくつか付け加える中で、「慣れのすごさ」の一面がわかるかもしれない。

LCに関しての補記

1.どうして、反復すると効率が上がるのか。
その理由のほとんどは、無意識的である。なんとなく、できるようになっちゃった、とか
なんとなく、抵抗なくなっちゃった、とか、そういった感じである。偶発的学習も効いてきている。
暗黙知である。暗黙知について語ったか?

「暗黙知 (tacit knowledge)」とは:(各自埋めておくように。)


2. LCとシステム化
私は、LCを工業生産モデルで捉えている。つまり、

手工業→工場制機械工業

である。

たとえば、金属でお皿を作るとする。

作業は
1.鉄板を円状の型に切り抜く
2.円状の型を曲げるて皿状にする
3.磨きをかけてきれいにする

という工程があったとする。

ひとりで全部やると、1時間に一枚、一日で8枚できるとする。
あとはわかるね。
分業でやる、機械を使う。機械を使うとお金がかかるし、作る時間や手間もかかる、
どこまでシステム化するのか、手でやるのか、考える必要が生じてくるわけだ。

3. 逆LC
これが、キモだ。キモ=肝=大事なところ。
逆LCには今のところ、2種類あると思う。少なくとも。

LCは慣れから生じる、と述べた。
そして、その慣れとは多くが暗黙知的である、と述べた。

暗黙知とは:知らないで覚えていること。感覚的に覚えていること。
逆上がり、自転車の運転、テニス、フックシュート、ブレークダンス、スキー、
英語の発音、匠の技、など。

言葉で説明しようとしても難しいことや技。
できる人にはできるができない人にはできないこと。
ある日いろんな要素が複合的に、ふっとできるようになること。

(んで、思うのは、本当に美味しいものは、暗黙知であり、
暗黙知は徒弟制のようなフェースツーフェースの関係でしか伝わらない。)


んで、「暗黙知としての慣れ」は、暗黙知であるがゆえに、
なんだかよくわからない。だから、ある時、逆上がりができるようになって
あるとき、ふっとできなくなる、場合がある。例えば、鉄棒の高さが違うとか
太さが違うとか。

例えば、書く訓練をしてそれになれて、びゅんびゅん書けるようになったのに、
あるとき書けなくなって、それは、ペンがいつものと違っていたからとか、
机の上の観葉植物の位置が変えられていたから、とか。

暗黙知を構成する要素が偶発学習されていてそれに本人が気づかない場合があり、
このような要件が欠如したり変化したりすると、LCがぐっと落ちたりするかも。
たとえば、BGMが変わるとか。
部屋の香りが変わる、とか。

もうひとつ考えられる逆LCは、他のものへの移行に対する障害である。
たとえば、書くことに慣れてしまったとする。今度は、読まなければ行けないタスクがあった
とする。LC(慣れ)は自分を捕まえてしまう。いま、やるべきことは書くことではなく
読むことなのに、依然、自分の身体は書こうとするのだ。

逆XXみたいな考え方はエンゲストローム先生の講演を聴いたことに依る部分が
大きい。「対立を契機と考えること」「問題をチャンスと捉えること」「概念を伝えるもので
あるとともに縛るものであると考えること」など。警句/撞着法に聞こえるが、
奇をてらっているのではなく、実際そう考えることによって自由になれる場合が多い。

例えばだれかを嫌いになる、ということはその人が気になる、という意味である
(少なくともそういう側面を持つ)、と考えれば、「嫌いになっている自分」を嫌わずに済むし、
一面的でない複雑な自分の気持ちに気づくかもしれない。



Friday, October, 8, 2004
行動プログラムの残りの説明は、以下の3つであった。

3.直感
4.熟練(LC)
5.切り替え(FIFO)

3.直感
直感がなんで大事か、というと、「決断(DSQ)と行動のレベル」前回思い当たったように、
「こんなご託を並べてる(聞いてる)暇あったら、やった方が早いよ」
という話だからである。すなわち、

決定(計画)
    ↓
   行動

決定や計画に時間を費やすのか、行動に時間を費やすのか、モニターする
(あるいは配分を考える)ことが重要だとすると、この行為は両者の高次に位置する。

  配分の決定
    ↓
決定(計画)
    ↓
   行動

ただ、これも時間を要する作業である。とすると、配分の決定にどれだけの時間を費やすか、
考える作業が必要となる。

配分の決定に費やす時間の決定
    ↓
配分の決定
    ↓
決定(計画)
    ↓
   行動


ってことで無限ループになる。決定に時間はかけられない。だから、直感、ぴんと来る、
その力をとぎすますことが大事なのである。

(ところで、「直感をとぎすます」直感って、刃物かなんかみたいなものか?
閃き、感覚をとぎすます、鋭い感覚、鋭敏な、集中、繊細な、細かい、ぎらつく感性、
感覚って鋭く、薄く、輝いている感じですね。逆は「散漫」「鈍い」、などか。)


Wednesday, October 6, 2004

生成プログラム

2.決断(DSQ)と行動のレベル

ここに書いたかどうかは忘れたが、昔、以下のことを考えたことがある。

「決定:D」、「スピード:S」、「量:Q」、効率よい作業にはどれが一番大事かである。

例えば、目の前に段ボール箱が15箱ある。
これを倉庫に運ばなければならない。
効率的にやるためには、一般的に

a. たくさんをいっぺんに運ぶ(quantity: Q)
b. スピードを早く急いで運ぶ(speed:S)

どちらがよいのか。

たとえば、3コずつ五回で運ぶのがよいのか。
あるいは、5コずつ三回で運ぶのがよいのか。

これに対する結論は出ている。

仮に、どちらがいいか悩むような場合、
(3コずつなら一回3分で、5コずつなら一回5分で運べそうな場合など)
意外にもスピードを優先する方がいい。

なぜなら、量を多くすると、荷崩れしやすいなど突発的な事故が起こりやすく、
こういった事故が起こると全体的な効率はいっぺんに下がってしまうからである。

つまり、Speed (S) > Quantity (Q)

しかし、実際の状況では、この他にも考えることは多い。
たとえば、3コずつ五回で運ぶのがよいのか。
あるいは、5コずつ三回で運ぶのがよいのか。
手で3コずつ運ぶか、台車で六コずつ運ぶか
応援を呼んできて、五人で3コずつ運ぶか、などなどなど。

んで、またまた意外にも、こういった決定(Decision: D)にかける時間が意外に
長いのである。

なにかものが進まないとき、実は、判断を留保しているためであることが多い。

案ずるより産むが安し、というが、実際に始めてしまった方が早いのである。

ということで、

Decision (D) :> Speed (S) > Quantity (Q)

で、DSQ、というわけである。


個人的には、最近こういった状況によく出くわす。

どの研究をしたらいいか。(計画)
どんな論文を書いたらいいか。(計画)
実際に人の論文を読む作業(作業)
実際に論文を書く作業(作業)

など、さまざまな「計画(判断/決定)」や「作業」を行っている。

高次の「計画」と低次の「作業」は同じ時間を取り合って競合しているのだ。
「計画」にかける時間が長ければ、「作業」にかけられる時間は少なくなる。
「作業」作業にかける時間が長ければ「計画」にかけられる時間は少なくなる。
部下がたくさんいて、作業は他人がやってくれるのなら、自分は計画に
専念できるが、そういう環境にいる人は少ない。

そこで、「計画」と「作業」の配分を見守る、「『計画/作業』配分モニター」たる
自分が必要である、と最近考え始めている。

実際、よくあることは、何をすべきか考えることに忙しく、
(あるいは、あーあれやらなきゃ、これやらなきゃ、あーできない、と心配することに忙しく)
低レベルの作業自体は全然行われていない、ということがよくある。(私の場合)

ということで、「『計画/作業』配分モニター」が必要なのであるが、
これも速、気づいたことであるが、「『計画/作業』配分モニター」自体、より高次の
調整機能なのであるから、ここに時間をかけてはいけないのである。

ということで、ご託を並べるのはこれで終わりにして今日の作業に入ることにする。w



Monday, Octorber 4, 2004

生成プログラム 最終報告

きりがないんだが、きりがないのできりをつける。

生成プログラムとは、以下にアウトプットをたくさん出していくか、産出の最大化を狙った
戦略の策定であった。

前回、生成プログラムの中間報告で、

S1S (Simple: One by one Straight)

という原則を述べた。

今回はこれをとりまくいくつかの要因についてコメントしたい。


1.信念
2.決断(DSQ)と行動のレベル
3.直感
4.熟練(LC)
5.切り替え(FIFO)

1.信念
生成プログラムと技術的な話をしたが、なにより「気持ち」が一番である。
明るいこと、やれると信じること、「絶対できる」と思うこと。「できる」と思ったらできるし
「できない」と思ったらできない。自明である。
私は時々、chanting (チャンティング)と呼び慣わす技術を使う。
自分で言葉にするのである。「できるできるできるできるできる」
「辞書やる辞書やる辞書やる辞書やる辞書やる」(変な奴である)
英語で、The little engine who could. というストーリーがある。
機関車トーマスの原型であろうと思うが、あるちっちゃな機関車が
坂道にさしかかる。坂はきつく、登れそうにないと感じられる。
そして、登り切れなければ後ろに真っ逆さまである。
しかし、そのちっちゃな機関車は勇気を出して、
I think I can, I think I canと唱えながら上っていくのである。
結果、どうなったか?
もちろん、登り切れたのである。
(そういったとき、だれかのアドバイスや、なんらかのきっかけ
があると成功に導かれやすい。ビゴツキーの理論では、このような
段階を「再近接発達領域(Zone of Proximal Development: ZPD
(もうちょっとがんばったらできるよ、ってところ)」と呼ぶ。
これでよろしいですか、Y住先生!?)

これに関連して、自己コントロールというのは重要である。
寝ている。
起きたい。
起きれない。
「目を開ける」と考えてから目を開ける。おお。できた!
「起きる」と考えてから身体を起こす。おお!できた。

次以降、次回に。

1ヶ月くらいかけて、「病める丘」原田康子を読み終わった。
時代めいているなと思ったら、1957年の作品だそうだ。
母親が家出をし、父と二人きり(+猟犬)の豪邸生活が、父の事業の
倒産により屋敷から出て行かなければならなくなる。
その屋敷を購入してあらたな住宅地にしようとする不動産会社
の社長園田亮三が家に突然やってくる.....ドキドキ。
奇をてらったところがなく、リアルである。

時事英語学会発表してきました。CDA (Critical Discourse Analysis
批判的談話分析)と認知メタファー理論の関係についてでした。
睡眠2時間でした。(その前休憩にCのりで1時間ビール飲んだけどw)


Saturday, Octorber 2, 2004 Part II
Y住先生の国際シンポジウムの招待講演で来た、エンゲストローム先生がディスカッションで
(ま、これくらい有名人だと実名でもいいだろ)時間について話していたのを思い出す。

教室の時間が、一定、均質(例えば、一こま1時間30分のような)であるのは、
工業生産モデルである。均等、同じもの、寸分違わないものをたくさん産出する。

その他にもいろんな時間がありうる。

なんにもしない時間、何かが自由に始まり、自由に終わる

プロジェクト時間。ソフトウエアのエンジニアがプログラミングをずっとして、
疲れるとソファーで休憩を取り、起きるとまた再開するようなインテンシィブな時間

くつろぐ時間。ゆったりと何かを考える時間。何にもしていないようにみえるけど
実はいろんな発想が頭の中を回っていたり。

ポイントは、時間と時間の流れは一定ではないのであり、
様々な時間が人間には必要だ、ということだ。


Saturday, Octorber 2, 2004
問題の答え

heavy 負担となる
sentences 刑罰、判決

重い判決、ですね。


罪が重い
税金が重い
気が重い
などなど

負担となるものは重いと捉えられ、これは、
DIFFICULTIES ARE BURDENS <<困難は重荷である>>

などと言われています。

日本語だと、負担、にも、重荷、にも、荷を担う感じが入っちゃってるね。


Tuesday, September 28, 2004
=====今日の問題=====

heavy sentences

これはどういう意味でしょう?

heavy の多義とsentences の多義を考えねばなりませぬ。


Monday, Semptember 27, 2004 Part II
おくればせながら、ぺ・ヨンジュンのポスターをちまたで見かけたりする。
これからは眼鏡がトレンドであろう。ぺ・ヨンジュン、ハリーポッター、
A元H紀が、今熱いのである。


Monday, Semptember 27, 2004
心のスミの夏休み Vol. 1 by K.J. Naby

浜辺に通い、波に漂い
飲み屋でまばゆい 君の笑顔に戸惑い

古びた宿の蛍光灯の光で本読む日々
もってきてくれたオバちゃんの魚の酢味噌漬け、美味


Sunday, September 26, 2004
そろそろ授業が始まる。といってもcricket だけか、出遅れてるのは。

近況
パソコン:家でHP更新が簡単にできることが判明。が、インターネットとメールは学校でしか
見れないという不便な状況が続いています。

本:花村萬月の本を3冊くらい4冊くらい。その二つは、ゲルマニウムの夜の続編、
ブエナビスタ(王国記II)と汀にて(王国記III)

学会:9/18, 19 認知言語学会に参加、協力していただいた皆様、どうもありがとうございました。
無事終わりました。

9/11, 12 活動理論の国際シンポに同時通訳で参加。大変勉強になりました。

お仕事:んなわけで今、二つの学会が終わり、辞書プロジェクトに血道を上げています。


Monday, September 6, 2004 PART 3

あの
A元先生の永遠の名作メルマガ、シネマのつぶやきがついにcricket紙上に登場!その1からじょじょに再録掲載されるのでお楽しみに!!


Monday, September 6, 2004 Part 2
7月から今までに読んだ本

高村薫 「黄金を抱いて翔べ」
藤堂志津子「きららの指輪たち」
玉岡かおる「サイレント・ラブ」
玉岡かおる「夢食い魚のブルーグッバイ」
長野まゆみ「天体議会」
藤堂志津子「プライド」
花村萬月「ヘビィ・ゲージ」「私の鎖骨」「触角記」「ゲルマニウムの夜」「月の光」「ジャンゴ」「幸荘物語」
「重金属青年団」「夜を撃つ」「真夜中の犬」「皆月」「風転(上)(中)」「ブルース」「ぢん・ぢん・ぢん」
「紅色の夢」「眠り猫」
唯川恵「恋人たちの誤算」

花村萬月では、「紅色の夢」は途中で止めた。設定が玉岡かおるのサイレントラブとかなり似ている。
個人的に好きなのは、「夜を撃つ」。眠り猫シリーズもいいなぁ。安心できる。(上)(中)を読んだ」「風転」
展開がどうなるのか心配でたまらないっす。「ヘビィ・ゲージ」は好き嫌いが多そうだけど、
見方によっては大変新鮮な感じがする。お勧めはできないがわたしは好きだ、ッテ感じ。
「幸荘物語」のユーモラスな感じ、結構すきです。「月の光」も印象的でした。話もよくまとまってる。
芥川賞を取った「ゲルマニウムの夜」はずごいでず。エンターテイメントから純文学へと鞍替えした
数少ない作家です。

あと、だれのどれとはいわないけど、
30うん才の女が23才の娼夫を買う話、最低だね。いや、娼夫を買うのは全然かまわない。
(かまわないかどうかは別としてここでは全く問題にしていない)
が、ネタ切れの女流作家が試しに男を買って見てそれを小説にしたッテ感じで全編に
買いたくて買う訳じゃなくて、どんな人がそんなことしてるのか見てみたかっただけ、という
いいわけがにじみ出てるのでひどい。それを「この作家の代表作」という解説者もひどいし
本当に代表作ならこの作家はごめんして欲しい。

長野まゆみは前にも書いたように素晴らしい。きっと熱烈なファンもいるんだろうな。
宮沢賢治の生まれ変わりかもしれない。

高村薫。このミステリー作家は男だと思ってた。男の思考回路を持っている、と思う。
間違えなく。


Monday, September 6, 2004
プロダクション(生成)システムについて中間的な結論を述べておかねばならないで
あろう。

=====あらすじ======
cricket は
Understanding (理解)の方が得意だ。
Production (生成)は苦手だ。

Understanding とProduction というのはいろんな場面で出てくる。
AIだと 音声認識(Understanding) 音声合成(Production)とか。
外国語学習ではListening と Speaking とか。
Reading と Wrting とか。
漢字の読みと書きとか。
ちょっと発展すると情報を収集することと発信すること、
論文を読むことと、自分で書くこと、など。
音楽を聴くことを自分で演奏したり歌ったりすること。

で、6月頃から生成システムを強化するにはどうしたらいいか、ということを
考えてきた。

=====中間的な結論======
生成システムに重要なのは:

S1S

S: Simple
1: One by one
S Straight

以上。

いや、もう少し説明。
単純に単純に、できるだけ複雑にしないようにする。
ひとつひとつこなしていく。
どんどん並べて直線的にやっていく/まわり道しないで直裁的に飛びつく。


Friday, September 3, 2004

見る、というのは、そこに行くことだ。
これは、どこかででてきた表現だと思うが、そのように思うことは時々ある。
20メートル先に建物の入り口が見える。
それに気づいた時点でその人はある意味その入り口に入ったのと同じことだ。

ちょっとおしゃれだよね?

「ある意味」とはどういう意味か。
説明するのは野暮である。

が、野暮を敢えてやる。

まず、物理的には入っていない。であるから、いわゆる通常の意味では
「入り口を見ること」 と 「入り口に入ること」
は同じではない。

しかし、

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ここまで書いて、時間があいてしまいました。

続きを書き上げます。(学校に帰ってきて学校のLAN接続。早い早い)
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「入り口を見ること」と「入り口に入ること」が「ある意味」同じ、となる
「ある意味」を説明していたのでした。

「入り口を見ること」と「入り口を入ること」が同じとなる、というのは
主に次のような二つの意味/条件からです。

1.入り口を見る(認識)ことなくして、入り口に入ることはまずあり得ない。
偶然気が付いたら入り口に入っていた、というケースは考え得ますが
通常は、認識してそれに対する行動が生じる。つまり、見なければ
入れない。逆は必ずしも真ならずですから、見れば入れるわけではない、
しかし、入るための前提条件のひとつが整ったわけです。

2.さらに、信念度の問題があります。思考をどこまでリアルなものと
感じられるか。身体感覚にまで落とせるか。
見たものを「入り口」と認識する、ということは、それにまつわる知識が発動
することになります。知識とは身体性を伴ったものです。

(エスカレーターや歩く歩道を認識してそれが止まっていたとき、
ギグってきますよね?あれは、エスカレーターという概念(=知識)が
身体性を伴っている例のひとつです。)

入り口を真剣に見つめればそれに近づき、それを通る自分を
まさに起こったことのように認識することができる。


さて、私はそれがいいたいがためにこれを言っていたのか?

うん、それもあるんだけど:

見る、というのは、そこに行くことだ。

というのに:

UNDERSTANDING IS SEEING<<理解することは見ること>>
STATES ARE LOCATIONS<<状態は場所>>
というメタファーを掛け合わせると、あら不思議。

何かをわかることはそれになることである

つまり「頭に浮かべることはそれを実現すること」になる。
例えば、教師になりたいと思ってその仕事を充分に理解し、
それをしている自分を想像できれば、なったのと同じだ、ということ。

ん。ちょっと飛躍があるな。論理にごまかしがあるような。

ま、ようは、自分を心底その気にさせられれば実現できたのと
同様だ、ということです。


Wednesday, September 1, 2004
ちょっと長くなってきて更新がしにくくなってきたので新しいバージョン。
単に真っ黒なだけだが、セーヌ河の夕闇ってことだからありがたみも倍増?なわけないね。
一応
前のファイルをリンク
Cricket は、8/24〜8/29まで、日本言語学会主催の夏期講習を受講したのち、S戸先生の辞書プロジェクト
に血道を上げていた。いや、これが終わるまで私は死ねない、ってくらいのプレッシャーっす。
その間にも山ほど小説を読んでいた。手元にないのでかけない。

Cricketの当面の重要課題は以下のようである。

1.S戸先生の辞書プロジェクト
2.Y住先生の国際シンポジウムの同時通訳練習
3. 関西大学で開催される日本認知言語学会の準備

最近の座右の銘は"Publish or Perish" である。
アメリカのアカデミック界で言われることである。
「出版かもしくは死を」ということである。
私は出版はあまりしていない。
であるがゆえにこの言葉を心に刻みたい。

ちなみに日本では

"バブリッシュor フェテッシュ?”{
であろうか。
意味はない。語呂でいっちまったぜ。

バブルな感じ、またはフェチな感じ

って感じか?

うーん。意味不明なので次。

といって、また戻るが、fetish をフェチ、という言葉で言い表すようになったのはここ10年以内のことではないか?フェチ。いい言葉だ。w

足フェチ
眼鏡フェチ
制服フェチ

私が公言できるフェチは文房具フェチである。うーん。健康的。にやり。気が向いたらまた今度。

バブリッシュ(英語じゃないんだが)な感じで思い浮かぶのは、夏期講習の講師であった、I井先生である。
大先生とお呼びしたいところなのだが、認知言語学関連の諸先生に遠慮してそれは差し控えるとして、
I井先生は大変バブリッシュな感じである。品がよくバブリッシュなポロシャツ。ちょっとやくざっぽいチェーンの
ネックレス。色の入った眼鏡。陛下とハワイでPoloをした、という逸話。(っていうか、POLO*したことの
ある人、きいたことありましぇん)んでご子息が俳優さん。

これがバブリーでなくてなんであろう。
いや、ハイソ。そちらの方が適切な用語であろう。

(しかしご本人が見たらびっくりするようなこと、書いてるな)

ま、それはともかく、cricketの理論と異なるものの、わかりやすく,、且つ見た目とはまったくことなる
謙虚な学問姿勢にかなり感銘を受けたのであった。

(*ポロの写真を求めてジャマイカ、インド、アメリカのページを渡り歩いてしまった。それだけ日本では希少
であるということである。現在、POLOというと、Ralph Lauren の香水、またはポロシャツが有名、およびアウディかなんかの車にそういう名前のが有るらしい)




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