よりよい授業を目指して(広島大学総合科学部広報誌『飛翔』54号、1998年、31頁に補筆。この欄は、総合科学部の教員が交代で執筆するものです)

 

   目指しはするが……何に「よりよい」?

 

 よりよい授業をめざしているか? 工夫してこなかったわけではない。ただし、最も腐心したのは予備校教師時代だった。当時のお手本はテレビの料理番組。最初に見通しを明示してみせ、前提をとりそろえ、段取りよく運んで、ついには、自分でもできると思わせる。今でも、あれは授業のひとつの理想型だと思う。ところが、前回、奈良先生も記されたように、大学は予備校と違う。学生に共有された目標があるとはかぎらない。あるとしても、いっそう長期の目標だろう。それでも、わかりやすい授業にする工夫は同じかもしれない。今年、教養的教育のパッケージ別科目がはじまった。同科目は非専門性、つまり専門以外の領域を学ぶことを授業の目標としている。それゆえ、わかりやすさが優先される。そこで、同科目のひとつ「道徳の意味を問う」のなかで私が行っている、さはいえ、月並みな工夫を述べて責めをふさごう。

(1)プリント:毎回、プリントを配布し、その最初に、当日の話の流れ、前回との話のつながりを記している。この部分を切り張りすれば半年間の講義のアブストラクトになるというのが理想だが、そこまでは完成していない。ほかには、引用文、術語があればその解説など。

(2)板書:弱っている。板書しなければ手が動かない学生は論外としても、学生がノートできないというのは、話を聞きながら要点をまとめる力が落ちたからだろう。論旨を正確に伝えるために文尾まで記しているので、当然、量は増える。学生の反応は「後で読み返してわかるからありがたい」「手が疲れる」、さまざま。

(3)質疑応答:毎回、質問用紙を配り、次週に問いと答えを並記したプリントを配布している。たいへん手間がかかる。休日出勤せざるをえない。だが、はしょった部分や論理の間隙をつく質問もあって、講義の補完にはなる。機知に富んだ質問もある。「難しかった」、ただそれだけの感想もある。これでは生協食堂への一言カードの「うどんの汁が辛い」と大差ない。それでも、大学の授業もまた商品ではないか。私はなかばそれを認めざるをえない。

 が、こうした工夫を重ねるほど、学生に知識を伝え、疑問をもつべき箇所で考えさせ、いっそう理解を深めるようにしむける教師主導型の授業になってしまう。ファイヤアーベント『知とは何か:三つの対話』(新曜社)には、教師、学生とりまぜて複数の人間が討議することそれ自身が目標であるような授業が出てくる。むろん、確固たる知識や結論を求める学生は不満をもつ。しかし、これこそ「華やぐ知恵」に通じるかもしれない。大学の授業はかくあるべきか? ご冗談を。教育熱心な今の大学がそれで満足しますか。かといって、大学での教育、とりわけ教養的教育が何をめざすべきか、近年の大学改革と不況のなかでますます答えは明確ではなくなってきているのだ。その目標なしに「よりよい/悪い」という判断をどうしてつけられよう。上に記したのは、そのさなかの試行錯誤のひとつである。


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