倫理学は、なぜ、いかにして環境問題に関わるか

 

品川哲彦

『21世紀フォーラム』74号、財団法人政策科学研究所、2000年7月20日、32頁-37頁

 

 

環境と自然

環境のよしあしと倫理的な善悪

倫理学は、なぜ、環境問題に関わるか

倫理と倫理学との違い

倫理学は、いかにして環境問題に関わるか

むすびにかえて

 

 環境倫理学は、その先駆といわれるA・レオポルドの土地倫理にさかのぼっても一九四〇年代、学術誌Environmental Ethicsが創刊(一九七九年)され、研究が活発に展開するようになった段階からすれば一九七〇年代にはじまる新しい分野である。自然保護という発想はもちろんそれ以前からあった。しかし、自然保護があくまで人間にとっての利益にもとづいて自然の一部を維持することを意味するのにたいして、環境倫理(倫理と倫理学の違いは後述する)はそうした発想だけではなく、人間の役に立たないと思われる自然物にも価値を認めるという考えを含んでおり、しかも、地球全体に思いをはせる点で従前にはない構想を孕んでいる。とはいえ、環境倫理学と聞けば、少なからぬひとがなおいぶかしく思うかもしれない。そもそも、倫理学(道徳哲学)が、なぜ、いかにして環境問題に寄与できるのか、と。以下、その点について記してみよう。

 

環境と自然

 どの種の生物にも固有の環境があるということを指摘したユクスキュルは、環境を言い表すのにドイツ語Umweltをあてた。この語を手がかりにして、まず、環境の意味を確認しておこう。Umとは「まわり」を意味している。「まわり」であるからには、中心となる存在を前提とする。それゆえ、何を中心とみなすかということを捨象した環境一般なるものはなく、環境とはつねになにものかにとっての環境である。だが、まわりにあるものが中心にあるものにとって環境たりうるためには、さらに、前者が後者を刺激しうる(後者に知覚されうる)ものであり、そしてまた、それに反応した後者の行動が前者をなにがしか変容しうるような関係になくてはならない。環境を表わす既存の語Umgebung(とりまいているもの)では、この関係はまだ明らかでない。ユクスキュルはWelt(世界)という観念にその意をこめた。二種類の生物が同じ時に同じ場所にいても、各々が把みとる刺激は異なりうる。両者は違った行動をするだろう。まさに両者は別の世界に生きているのである。

 以上からもわかるように、環境は自然ということばではおきかえられない。というのは、自然ということばは、とりわけ私たちの用語の伝統では、一切の存在をどれが中心ということなく、平等無差別に包摂し、調和するような印象を与えてしまうからだ。この伝統をさかのぼれば、無為自然をよしとする老荘思想や山川草木すべてに親しみを感じるアニミズムに行きつくだろう。さらには、自然ということばはもともと「ありのまま」「おのずから」という意味だった。田山花袋が作者の視線をなるべく消した平面描写という手法と結びつけて自然主義を理解したことが思い出される。自然ということばが帯びているこうした含意は環境という観念にこめられた相対性を隠蔽してしまう。環境ということばを用いても、だれ(何)にとっての環境であるかを明示しないなら、同じ事態がひきおこされる。だから、漠然と語られた環境問題では、ときには、異なる種の生物間での利害の対立が、ときには、先進国とそうではない国との利害の対立が、ときには、生活様式の異なる文化間の利害の対立が覆い隠され、その結果、偽善めいて聞こえてしまうわけである。

 しかしまた、たとえば、動物の吐き出した二酸化炭素が植物の光合成の材料であるように、ある存在にとっての環境を構成する要素が他の存在にとっての環境を構成する要素になっていることもたしかである。この脈絡で自然ということばを用いるなら、自然とは、すべての環境が相互に関係しながら作り上げている全体、つまり、ある存在Sが他の存在S2・・・・・・Snの環境に同時に含まれており、同じことが任意のSxにも妥当するというふうにして、あるいは、SxがSnの環境に直接は属していなくても、Smの環境に属し、かつ、SmがSnの環境に属していることで、SxはSnの存否に作用するというふうにして、余すところなくひとつに織り上げられた全体を指すことになろう。こうした把握から、環境を主題とする哲学、倫理学の文献には、すべての存在を神即自然の様態とみなすスピノザや有機的な自然観を説いたホワイトヘッドがおりおり言及されている。

 

環境のよしあしと倫理的な善悪

 さきほど、利害ということばを用いた。環境が環境の中心となる存在に働く作用のために、その存在にとって、その環境がよい環境であるか、悪い環境であるかという区別が生じてくる。このよしあしは倫理的な意味での善悪ではない。たんに中心となる存在の存続、ないしは(そういうことがありうるとすれば)繁栄に利するか、害するかというそれだけの意味である。だが、そうだとすれば、環境の中心となる存在は少なくともその存在それ自身のためのよしあし、利害ということが考えられるものでなくてはなるまい。

 「壁から数十センチ離れていて直射日光のあたらないところ」を「電子レンジにとってよい環境」と言い表わしたとしよう。直射日光にさらされれば電子レンジに内蔵された機能が狂うだろうし、電子レンジの放散する熱は、電子レンジと壁が接触していれば、その壁の建材を燃やしはじめ、そこから発生した火災は電子レンジそのものも燃やすかもしれない。そういう意味では、電子レンジはそれ自身と交互に作用する環境をもっている。しかし、これは擬似的な言い回しである。私たちは電子レンジにとっての利害を考えてはいないからだ。「電子レンジにとってよい」とは、煎じ詰めれば、電子レンジを道具として使っている私たちにとってよいという意味である。ところが、私たちが、たとえば電子レンジの誤った使い方をしないことで守ろうとしている人間の安全や生命は、通常は(とさしあたりはいっておく。というのは、ある種の環境倫理はまさに人間を特権化しないことを主張するからだが)、別の何かのための道具だからよいのではなく、それ自身として尊重すべきものだと認められている。「その存在はそれ自身としてよい」――こういいうるような存在それ自身のために、その存在が存続し繁栄するのによい(悪い)と思われることを行うことが「倫理的によい(悪い)」ことなのである。

 

倫理学は、なぜ、環境問題に関わるか

 倫理学は、しばしば、「それ自身として価値のあるもの」「内在的価値」「それ自身としての善」と「手段としてのよさ」「道具としてのよさ」といった表現を用いてこの区別を言い表わしてきた。最終的な目的である前者は、場合によって程度の差はあれ、さまざまに入り組んだ過程や手段をつうじてはじめて実現されうる。図式化していうなら、

 (1)Xはそれ自身としてよい。

 (2)Xを実現するためには、M1を実現すべきであり、それにはM2を実現すべきであり・・・・・・Mn-1を実現するにはMnを実現すべきである。だから、Mnを実現すべきだ。

 (1)は明らかに倫理的判断である。これにたいして、(2)は(1)の実現に資するがゆえに倫理的判断であるとともに(1)を実現するための因果関係、つまり事実についての判断でもある。もちろん、世界についてのさきほどのべた捉え方からすれば、(2)はあまりに単純な図式である。というのも、Mnを実現したなら、その影響はたんにMn-1を惹起するだけにとどまらず、ほかの項Mxにまでおよんだり、あるいは、系列Mに属さないと考えられていた事態Nを随伴したり、さらにはまた、このNやMxがMn自身の存否にフィードバックして影響したりすることがおおいにありうるからだ。まさに環境問題こそ、この洞察するには絶望的なまでに錯綜とした事実相互の因果関係から生まれてきたものにほかならない。それでもなお、できるかぎり的確な見通しを得ようとするには、まずは、さまざまな分野の自然科学による解明と提言に拠らなくてはならない。たとえば、温室効果をもつガスにはどのようなものがあるか。物質が地球全体、気圏・水圏・リソスフェア・アセノスフェアをめぐって循環するメカニズムはどのようなものか。それによれば、ある種類のガスのどれほどの量がどれほどの温室効果をもたらすと予想されるのか。そのうえで、事態が人間の行為によって左右されうるなら、政治・経済・法についての社会科学による解明と提言が求められる。温室効果ガスの排出量を国ごとに規制する気候変動枠組条約が掲げる目標の達成を妨げている政治的・経済的要因はどのようなものであって、それを排除するにはどのような外交政策が役立ちうるのか。国内ではどのような法的規制が必要か。(2)の推論と「Mnを実現すべし」「Mnを実現するのはよいことだ」という倫理的判断は、こうした実証的な研究に裏づけられてはじめて成果を期待できるし、説得力をもつ。

 それでは、Mn以下の過程をとおして実現すべきXとは何か。実証的な研究はこの問いだけを独立してとりあげることはない。それは倫理的判断を考察する学、つまり倫理学の課題である。倫理学はまた、実証的な研究の知見を借りながら、(2)に含まれている倫理的判断について検討する。環境問題はたんなる事実関係の解明だけが課題なのではない。何(だれ)にとっての環境を尊重するのか、そのためには何をすべきなのかについての探究を含んでいる。そうであるかぎり、倫理学は必然的に環境問題に関わってくる。

 

倫理と倫理学との違い

 さて、こういえば、倫理学に期待するひとがいるかもしれない。すなわち、それ自身としての善、実現すべき目的が定められたなら(「環境倫理が確立されたなら」)、(2)に含まれている具体的な提言が一般に理解され、従来以上に速やかに実行されるはずだ、と。また逆に、倫理学を無用と思うひともいるだろう。すなわち、それ自身としての善、実現すべき目的は自明であって、倫理学からあらためて教わる必要はない、と。しかし、どちらも誤っている。私たちが何を究極的に尊重しているのかということは、スケジュール表に設定された目標や標語のように手にとるように把握できるものというよりは、むしろ私たちの行動のなかからしだいに炙り出され、紡ぎ出されてくるものだからだ。また、そうして採り出されてくるそれ自身としてよいものはただひとつであるとはかぎらず、場合によってはたがいに両立しえないしかたで、複数、見出されるかもしれないからだ。

 魚群を追い込んできたイルカが漁網を突き破るのを恐れて、漁民がイルカを殺そうとしているとしよう。漁民の行動を支持すべきだと考えるひとは漁民の経済的利益を、煎じ詰めれば、人間の労働とそれによって発生する所有権を優先している(狭義の人間中心主義)。イルカを救うべきか。イルカが知的に優れた動物だという理由からそう考えるひともいるし、その地域のイルカの生息数が激減しているという理由からそう考えるひともいる。前者は原則としてイルカを殺すことに反対するが、後者は、イルカよりもイルカに食われる魚のほうが稀少種なら、イルカを殺すほうを進んで支持するはずだ。前者が尊重しているのは一頭一頭の個体としてのイルカである。そのなかには、あくまでも一頭一頭のイルカを人間同様に尊重すべき存在とみる動物の権利論者もいれば、尊重すべき存在全体にとっての幸福の増大をめざしている功利主義にもとづいた動物解放論者もいるだろう。それにたいして、後者が尊重しているのは、種としてのイルカ(ないし魚)であって、一般化すれば、すべての種の生物が適正な個体数を保つことによって維持される生態系である(生態系中心主義)。さらにまた、イルカを傷つけずに追い払う方法を開発したり漁法を変えたり、環境保護のために避けえない突発的な損害については漁民に補償の出る制度を備えたりすることで漁民の利益とイルカの生命とのどちらも守ろうと図るひともいるかもしれない。これまであげてきたさまざまな立場のひとたちは(漁民もまた、あるいは、海に生きる漁民こそ率先して)この提案に協力しうるだろう。しかし、発案者は、たぶんイルカの保護が長い目でみて人間の利益になるという理由からそう提案した(広義の人間中心主義)のであって、相対立する複数の立場を統一する倫理を提示したわけではない。

 こう聞けば、倫理学をますます無用に思うひともいるにちがいない。すなわち、倫理学の考察は、ひとびとがそれ自身としてよいと思い、究極の目的とみなしているものが多様であり、たがいに両立しえないことを明らかにするだけで、その結果、環境問題に対処しようという運動をかえって分裂させるのに役立つだけだ、と。この意見は、しかし、倫理と倫理学との違い、政治的・社会的運動の拠って立つ原理とそれについての考察とを混同している。運動は実践上の効果をあげるために異なる立場を抱え込まなくてはならない。実際、人間中心主義の環境倫理を浅薄だと批判し、どの生き物も平等にみなし、自然と共感するように主張する環境倫理、ディープ・エコロジーを創始したA・ネスは、実践面では、彼自身が批判している陣営との協調を説いている。けれども、運動の唱導者が分裂を恐れるあまり原理の考察を抑圧するとしたら、それは許されない。また、二者択一をせまられた場合には、異なる種類の倫理はやはり異なる処方を示すだろう。だとすれば、ある運動がその支持者を導いていく先を見とおすためにも、運動が拠って立つ原理とそこから展開している論理の構造を明晰なかたちにとりだしてみる必要があるはずだ。したがって、倫理についての理論的な考察――倫理学は依然として存在意義をもっているのである。

 

倫理学は、いかにして、環境問題に関わるか

 さきにのべたように、倫理とは私たちの行動や営為のなかからあらためて見出されるものである。とすれば、環境倫理学がなすべき作業は、まずは、私たちが(環境の総体としての)自然にたいしてとっている態度を明るみに出すことである。環境危機と呼ばれる事態が進んできたもとには、それに相応する態度があったにちがいない。その態度の由来をつきつめていくには、歴史的に積み重ねられてきた層を深く掘り起こさなくてはなるまい。

 その作業が掘り当てた根のひとつに、J・ロックの所有論がある。ロックによれば、自然そのものはほとんど価値をもたず、人間が労働によって大部分の価値を付与する。まだだれのものでもない自然の一部に、ある人間が労働によって価値をまじえたなら、そのゆえに、その人間は自然のその部分を他の人間を排除するしかたで占有することができる。労働すれば、どの人間にも自然を獲得することが許されるのは、神が人類に自然を支配するように命じた(『創世記』第一章二八)という前提があるからである。

 これは自然にたいする破壊的な態度を育む素地ではなかったか。ユダヤ教・キリスト教の伝統が掘り返された。同じ嫌疑は古代ギリシア・ローマにもむけられる。理性的存在である人間だけに価値を認める思想の系譜がそこにあったからである。その反動で、北アメリカやオーストラリアの先住民の世界観や東洋の思想などに(しばしば過剰な)期待がよせられた。自然と融和する態度がそこにあるように思われたからだ。もちろん、反論も出た。神が人間に自然を治めよと命じたのは楽園追放のまえのことであり、したがって、むしろ自然を楽園のままに維持せよという意味である。つまり、神は人間に自然を信託(trust)した。それゆえ、この見解からすると、人間は自然を管理する執事たるべきなのである。市民が資金を出し合って生態学的にみて貴重な土地を買い取り、そこの生態系を保全する環境トラスト運動は、その最も手近な方策のひとつに推奨されるだろう。

 労働によって産み出されたものは労働した者に帰属する。労働者は自分が作り出した商品の価値の一部しか賃金として資本家からうけとらないのだから、労働者は搾取されている。ところが、労働がなされる不可欠の前提に、労働が加えられる自然があったはずである。マルクスもそのことを指摘している。けれども、労働者からの搾取が強調されるのに比して、自然もまた価値の創造に寄与している点は主題とならない。自然は忘却されてきた。エコ・フェミニズムは、家事労働がつねに搾取されていて、しかもそのこと自体がこれまで意識されてこなかったと指摘している。その意味で、女性は自然と同じ地位におかれている。だから、自然の再評価は再生産労働の再評価に通じている。

 以上からわかるように、環境破壊を推進し許容してきた態度を明るみに出す作業は、同時にまた、新たな態度を構築する端緒を見出す作業でもある。執事としての人間という発想は聖書の再解釈から生まれ、搾取の告発を進めていった先にエコ・フェミニズムの発見があり、そのほかにも、動物解放論は功利主義に、動物の権利論は物件と人格とを画す境界の再検討に由来している。けれども、(少なくとも西洋の伝統のなかで)とりわけ新たな主張としてうけとられたのは、人類を特権化しない種類の環境倫理だった。その先駆はレオポルドの土地倫理である。土地倫理によれば、どの生物種もそれが生きている生態系(土地land)を維持するための不可欠な要素であり、したがって、尊重されるべきは統合されたひとまとまりの全体としての生態系にほかならない。生態系の安定に資することが倫理的に善であり、その逆は倫理的に悪である。人類もまた生態系の一構成員たるにすぎない。いうまでもなく、土地倫理は、どの環境も他の環境と重なり合い織り上げられてひとつの自然を形成しているという冒頭にのべた世界観に立脚している。

 しかし、人間を中心におかない倫理など、はたして成り立つのだろうか。環境問題とは、そもそも、人間にとっての環境の問題ではなかったか。こうした反論はつねに繰り返される。土地倫理はこう答えるだろう。たしかに、人間は生物としては種に独自の環境しかもてない。だが、他の生物種の環境を研究して理解しうる唯一の存在である。だから、人間はそれぞれの生物種の適正な個体数を意図して調整する役割を果たすべきだ、と。

 それなら、天敵として互いの個体数を制約している生物種は、無意識のうちに、倫理的によいことをしているのだろうか。土地倫理からすればそうだろう。だが、この見解は私には疑わしい。尊重すべき対象は人間以外に広げうるにしても、行為の善悪を問われうる行為者は人間だけに思えるからだ。しかし、人間がまさにそうした倫理的な存在であるならば、人間がつねに自己の利益の追求だけを優先するとはかぎらないかもしれない。H・ヨナスは土地倫理とは独立にこう示唆している。人類は他の多くの生物種を絶滅させたかどで最も罪深い存在である。と同時に、その責任を感じうる唯一の存在でもある。だとすれば、人間は何よりまず責任を担う者として存在しつづけなくてはならない、と。たしかに、環境問題とは生物としての人類にとっての不利益、不都合を意味している。しかし、それにどう対処すべきか、究極的に何を守るために対処するのか――どう答えるにせよ、こうした問いによって問われているのは人間の倫理的なあり方なのである。

 

むすびにかえて

 環境問題が喫緊の問題とうけとめられるのは、それがいのちに関わる問題だからだ。いのちをめぐる倫理的考察といえば、医療問題や医学・生物学の研究を主題とする生命倫理学(bioethics)が思い出される。実際、この語をはじめて使ったV・R・ポッターの『生命倫理学』(一九七一年)はむしろ環境問題を論じていた。ところが、生命倫理学と環境倫理学は、あたかも断絶しているかのようにうけとられてもいる。たとえば、両者を日本に先駆けて紹介したひとり、加藤尚武氏は、生命倫理学は個人主義、環境倫理学は全体主義と対比して、環境倫理学の主張として自然の生存権、世代間倫理、地球全体主義をあげている(『環境倫理学のすすめ』丸善、一九九一年)。たしかに、一九七〇年代の生命倫理学には患者の自己決定を最重視する主張が顕著だった。だが、力点を別におく生命倫理もある。ここでも特定の内容をもった倫理と多様な倫理を考察する倫理学との区別を提案したい。同様に、さきにあげた複数の環境倫理がすべて加藤氏のいう三点を共有しているわけではない。自然の生存権は人間中心主義の環境倫理では否定されようし、逆に、世代間倫理は、未来世代が将来生まれてくる人間だけをさすかぎり、人間中心主義によってこそ重視される(もっとも、生態系中心主義は生態系の安定をつうじて未来世代を益するだろうが)。地球全体主義は生態系中心主義によって力説されるが、個体レベルで生命を尊重する動物の権利論者や動物解放論者は必ずしもそれを支持しない。環境倫理学が日本に導入された時期に描かれた像は、現在、検討され、修正されつつある。

 二三の例をあげてみる。土地倫理は原生自然を最も安定した生態系とみなして原生自然の厳密な保存を主張するが、この発想は原生自然に憧憬する植民以来の米国の文化的伝統と結びついており、事情の違う他国がそのまま服膺できないことは、鬼頭秀一氏らによって指摘されている。A・ベルク氏は、人間を他の生物と同視する生態系中心主義を批判しつつ、環境をたんに生態系としてではなく、人間によって(したがって地域固有の文化にも彩られて)意味づけられた空間と捉える風土論を和辻哲郎に拠りながら展開している。環境問題は一般市民が加害者かつ被害者となるゆえに私企業の犯罪である公害とは区別されるが、公害もまた生態学的洞察の欠如から生じており、(公害では地域の、環境問題では地球全体のなかでの)貧しい層が受益にあずからぬ一方的な被害者に陥る構造を共有している点で両者を結びつけて捉えなおす考察が丸山徳次氏らによって進められている。

 これらの取り組みはなお散発的であり、また、環境倫理学という分野にのみ収斂しない面をあわせもっている。けれども、これらの考察は、だれ(何)にとっての環境かという問いをさらにつきつめ、それゆえ、環境という観念に含まれている相対性の認識をいっそう錬磨したところで進められているといって誤りではないだろう。

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