和訳の楽しみ

 

ラテン語の授業にて

 もうすっかり忘れてしまったが、大学二年生のときにラテン語をならっていた。

 先生は「私は帝国主義者です。ただし、ローマ帝国主義の」と自称されるほど、ラテン語を愛しておられた方で、だから容赦はない。午後4時半にはじまる授業が9時、10時と延長してしまうことがしばしばだった。

 そういう方だから、生半可な訳文では当然満足されない。ある日、ひとりひとりあてられていくうちに、私のまえにすわっていたひとが次の詩句を訳す順番となった。

O fons Vandusiae splendidior vitro.

4番目の単語splendidiorというのは、形容詞 splendidusの比較級で、splendidusは、英語のsplendidの語源である。だから、「華麗な、輝かしい」といった意味合いなのだが、私ども、初心者が使っていた教科書巻末の単語帳には「きれいな」と出ている。そこで、私のまえにすわっていたひとはこう訳した。

おお、ガラスよりもきれいなヴァンドゥシアの泉よ。

 すると、はたして、M先生は声を震わせて激昂された。

君、君......splendidusは「きれいな」ですか。そりゃあ、たしかに、教科書についている単語表には、splendidusが「きれいな」と載っているかもしれませんよ。でもねえ、これは詩なんです。詩のことばなのです。もっと工夫があってもよいではありませんか。単語帳にのってればそれでいいと思ってらっしゃるんですか。あなたも文学部に学ばれている方でしょう。splendidusを「きれい」ですますとは......splendidusが「きれい」ですか.......ただ「きれい」だなんて......

 「あれ、なさけなや、口惜しや」とまではいわれなかったが、全体、その調子で絶句してしまわれた。

 だが、ふと気を取り直されて、うしろに座っている私を指名された。

君、訳したまえ。

 ところが、私が自分のノートをみたところで「おお、ガラスよりもきれいなヴァンドゥシアの泉よ」という訳文しかできていない。

 けれども、それをそのまま読み上げたらどうなるか。そこで、とっさにこう変えてみた。

おお、ガラスよりもきらびやかなヴァンドゥシアの泉よ。

 とたんに、M先生の叫び声があがった。

それだぁ!

 そして、口のなかでことばを転がされる。

きらびやかな......きらびやかな......。うん、いいことばです。......けっこうですねぇ......きらびやかな.......きらびやかな......。

 今、思い返しても、「きらびやかな」はたいした訳語ではないと思われる。おそらく、M先生はご自分ではけっしてなさらぬようなおざなりの訳を聞かされて憤激されたあまり、その反動で、すぐあとに耳にした、少しばかりは工夫を試みた訳を過大に評価されたのであろう。

 その後、私自身も、私のまえにすわっていたひと(そのひとは次の時間から出てこなくなってしまった)と同様、逆鱗にふれたことが一度ならずあった。

Caesar contendit in Galliam.

という一文を「カエサルはガリアへ急行したのだ」と訳して、

「のだ」! 「のだ」なんか要りませんよ。カエサルの文体は、ごらんのように、簡潔にして剛毅なものです。「のだ」なんて余計です。「カエサルはガリアへ急行した」、これでいい!

と叱りとばされた覚えもある。私としては、『ガリア戦記』の力強い文体にあわせて「のだ」をつけたつもりなのだが、もしかすると、M先生の世代には、「のだ」という語尾は大学紛争のころの記憶と結びついていて鬼門であったのかもしれない。叱られた身には、『赤と黒』のジュリアン・ソレルがラテン語を嫌ったという一節がしみじみと思い出された。

 とはいえ、たまたままぐれあたりではあれ、一回だけでも、いい思い出が残っているのはさいわいである。

 

ドイツ語の授業にて

 ドイツ語のH先生はおだやかで、節度というものを心得た方であった。おそらく外柔内剛とでも評すべき性格だったのであろう。その印象は、授業で最初にとりあつかわれたのがシュトルムだったからというだけではあるまい。厳しく身をたもつことからかもしだされる情感がなつかしく感じられる方だった。

 二年のとき、H先生は、Peter Handkeの小説Die linkhändige Frauをテキストにとりあげられた。

 主人公の女性のもとに、若い夫が長期の外国出張から帰ってくる。夫婦のあいだには、子どもがひとりいるが、その子シュテファンは家に寝かせて、夫婦は水入らずの食事をホテルでとりに出かける。夫は、ことばの通じぬ出張先の暮らしを毒づいては、帰ってきた喜びにうかれたようにしゃべりつづける。あげくのはてに、妻にこう提案する。「きょうはこのホテルに泊まろう。シュテファンはぼくらがどこにいるか、わかるよ。ベッドのそばに電話番号をおいておいたんだ」。妻はうつむく。夫はホテルのボーイを呼ぶ。そして、こう告げる。

Ich brauche ein Zimmer für diese Nacht. Wissen Sie, meine Frau und ich möchten miteinander schlafen, sofort.

 この箇所で、先生は○○さんをあてられた。

 ○○さんはとびきり優秀な女子学生である。読むべき本をまんべんなく渉猟しており、身につけておくべき知識に遺漏はなさそうだった。ただ、こう申してはなんだが、なんとなく、よくできる中学生がそのまま大きくなったような印象もする方だった。

 はたして、○○さんは澄んだ声でこう訳された。

ぼくは、今夜、部屋が要るんだ。わかるだろ。ぼくの妻とぼくは今すぐいっしょにねむりたいんだ。

 H先生は息を呑み込まれた。それから、ちょっと口を開かれたが、また結ばれ、もう一度なにかおっしゃりかけられては、ふたたび、首を振って口をとざされた。そして、しばらく天井を見上げて逡巡されるふうであったが、ついに、こういわれた。

○○さん、そこは......「ねむる」じゃなくて「ねる」です。

 けれども、それだけでは説明不足だと思われたのだろう、さらに声を落としてこう付け加えられた。

「ねむる」と「ねる」と、似ていますが、ちがうのです。

 

英語の授業にて

 英語のO先生には、Katherine Anne Porter の小説Pale Horse, Pale Riderをならった。

 この教科書は紛失してしまったので、原文を覚えていない。なんでも、女主人公が居酒屋に出かけるシーンで、居合わせたちんぴらに声をかけられるシーンであった。

 ちんぴらなのだから、ちんぴららしく訳さなくてはいけない。予習のさいに、私もそう工夫してみたのだが、どうもうまくいかない。できた訳文は、

ねえちゃん、いいケツしてるじゃねえか。一発、やらせろよ。

といったものだが、どうも迫力に欠ける。とくに後半にいたって、ちんぴらがからんでいく声それ自体も萎えていくがごとくである。しかし、これ以上の知恵も出ないまま、授業に臨むほかなかった。もっとも、その箇所をあてられるのは恥ずかしい。訳も悪いが、たとえ訳がよくても、訳すには恥ずかしいせりふではある。

 すると、O先生は宣言された。

ここは私が訳します。

 一同ほっとしているところへ、O先生は、ふだんとは別人の、まるで、がまがえるかなにかを思い出させるような、つぶれた声で一気にこう訳し下された。

ねえちゃん、ええケツしてるやんけ。一発、かましたろか。

 教室じゅうが静まりかえり、次の瞬間、笑いがはじけたことはいうまでもない。

 定期試験のときに、O先生はこの箇所の訳を求められた。こんなところは出ないだろうと内心思っていたので読み返してもいなかったが、不思議なことにその場で、O先生の訳がすらすらと思い出されてくるのである。先生のつけられた訳をそのまま書き取るのは、いかにも、考える力の欠けた優等生のすることのようでみっともないが、さりとて、それ以上の訳を思いつくこともできなかった。

 O先生がその箇所を出題されたのは、出来の悪い学生への配慮だったのか、いたずら心だったのか。ただし、いくぶんは、O先生ご自身、お気に入りの訳でもあったのではあるまいか。

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