書評 大庭健・安彦一恵・永井均編『なぜ悪いことをしてはいけないのか Why be moral?』ナカニシヤ出版

 

品川哲彦

週間読書人2363号、2000年11月24日

 

 Why be moral?――なぜ道徳的であるべきか。この主題をめぐって、編者たちはこれまで論争を展開してきた。論争の端緒は、『道徳の理由 Why be moral?』(安彦一恵・大庭健・溝口宏平編、昭和堂、一九九二年)にある。今回、上梓された書物では、まず、編者それぞれが主題に対する自己の見解をあらためて提示し、ついで、編者を含めて八人の論者がそれを論評し、最後に、編者がこれに応答している。きわめて刺激に富んだ本である。

 なぜ道徳的であるべきか。道徳を守ることを前提するかぎり、この問いは無意味で愚問である。だから、この問いを問うにはいったん道徳の外に立たねばならない。そこで、問いは、道徳を守ることは利益となる(合理的)か否か、に変容する。さて、そのうえで、@大庭氏は道徳の外に立つという人間関係を捨象した発想を批判して、道徳こそが共生を可能にすると提言し、A安彦氏は等しく合理的な人々のなかで自分の行動がどんな結果をもたらすかと問いつづけて、「然り、道徳を守るほうが合理的だから道徳を守るべし」という答えを引き出し、B永井氏は合理(道徳)的か否かいずれでもありうる〈私〉の自由を強調して、〈私〉がいかなる態度もとりうるという次元に(そういってよければ真に道徳的な)問題の所在を示唆している。@からみれば、ABは合理的な自己を特権化するという錯覚に陥っている。一方、@は、Aからみれば道徳と望ましい生き方の問題とを混同しており、Bからみれば道徳の遵守を前提とした道徳擁護論にすぎない。ABは道徳の遵守が合理的だという点は共有しても、合理性「ゆえに」道徳を守るというAの結論はBにとって説得力を欠いている。一方、Bの〈私〉はAからみれば形而上学であって倫理学ではない。

 ここまで書いていると、朝日新聞の夕刊(十月二八日)が届いた。論壇時評(間宮陽介氏)は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いをとりあげ、「愚問と知りつつ、哲学的装いをもつ問いに哲学的装いをもって答えざるをえない」と記している。問いを「なぜ悪いことをしてはいけないのか」に変えるなら、編者たちは、その問いをはなから愚問だと決めつけず、それが本当の哲学的な問いである可能性を真摯に受け止め、その結果、大庭氏はこうした「哲学的装いをもつ問い」の流通を危惧し、安彦氏は装いではない合理的思考による答えを試み、永井氏は哲学的「装いをもって答える」ことをこそ指弾している。もし、引用した時評が世論を反映しているなら、この本は、書名や帯、まえがきの一部から誤解されるかもしれぬが、時流に応えた出版物ではない。しかも、先の素描でもわかるように、編者たちの論点はすれちがっている。

 しかし、このすれちがいは啓発的である。というのは、読者はそれを通して「道徳的」とはどういうことか、「なぜ道徳的であるべきか」とはどういう問いか、とみずから考えるように誘われていくからだ。その意味では、編者たちの意図したとおりに、読者が「改めて考えはじめ」(まえがき)、論争に「巻き込まれ」(あとがき)ていく魅力に満ちた本である。ただし、論争に倦んだ印象、論敵にむけて私には不要と思われるあてこすりや挑発が見られる箇所のあったことは、いささか読後に後味の悪さを残さないでもなかった。

 


補 遺 400字づめ3枚半という紙幅だったので、私自身の感想や疑問は記さなかった。以下にかんたんに記しておく。私は、三人の編者の見解のどれにとりわけ賛同するということはなく、しかし、それぞれに別の文脈でひかれるところがある。

 Why be moral?というテーマとは別のテーマだが、密接に関連すると思われる話から始めよう。「べし」ということばがもっている力――「何々すべし」といわれたときに、実際に、何々することをせざるをえなくするような力――がどこから由来するかと問うてみよう。「べし」はひとびとの欲求や、欲求をもつひとびとのたがいのとりきめ、つまり「たし」にもとづけられるかどうか。(1)もとづけられる、(2)もとづけられない、二つの答えを順にみるならば、

(1)「べし」は「たし」にもとづけられないという答えを支持したくなるときがある。その文脈では、上の書物のなかでは、大庭氏の見解に最もひかれる。ただし、それによって、Why be moral?に対する答えを出すとすれば、当然のことに、人間の欲求を超越した何かに訴えることになる。(この「超越した何か」を「価値」と呼んでもよさそうだが、「価値」はもともと交換可能なものについての概念なので、超越的なものには適用するのはふさわしくないからここでは避けることとする)。上の書評にも記したように、合理的ということを「自分のトクになるかどうか」という基準で考えるとすれば、しかし、今の答え方は、合理的な答え方をしない(できない)ということにほかならない。上の書物のなかでは、大庭氏は最終的に、「人間の尊厳」(への呼応)という答えをとっている。この場合、尊厳という観念はそれをさかのぼって上述の意味での合理性によって根拠づけられることはない。むしろ、(再)発見されるべきものとして主張されるほかない。したがって、合理的な説明のみを理解可能な説明と考えるひとには、この答えは答えではなく、道徳の存在を前提とした道徳擁護論にみえてくる。なお、大庭氏は、上の書物では、安彦氏・永井氏と議論をかわす共通の場に出ようという意図からだろうが、はじめはこの切り札ともいうべき「尊厳」観念を出していない。そのために、上の書物のなかで、大庭氏の主張は安彦氏の主張のなかに吸収されるようにみえるところがある。

(2)しかし、先の「『べし』は『たし』にもとづけられるか」という問いに、肯定的な答えを支持したくなるときがある。人間の欲求を超越した何かが存在することを説明できないと思うときである。この文脈では、安彦氏の見解に最もひかれる。

 さて、道徳(倫理)は、通常(ということは、もっと正確にいうと、正義という規範を重んじるときには)、複数の対等(平等)にあつかうべき存在を前提としている。具体的には、この私を他のひとびととひとしくあつかうべきことを前提としている。では、その場合の「べき」はどこから来ているのか。私がそのように私と他者とをを対等(平等)なものとしてあつかおうとしているとすれば、その前者の私と後者の私とは区別して考えられ、前者の私にはそのような態度をとることもとらないことも可能ではないか。道徳(倫理)を、いわば、水平の位置に布置されている複数の人格間のとりきめとだけみなさずに、その根底にある、私が(私からみた私、他者からみた私、私からみた他者をふくんだ)世界全体をどのようにうけとめるかということこそ、いわば、垂直に切りこんだ次元こそ、「倫理的」という名に価するのではないか。こういう文脈では、永井氏の見解に最もひかれる。(なお、ここでは「道徳的」ということばは避けたい。道徳ということばは社会のルールを連想させすぎる。倫理的はethicalの訳語として通っており、ethicalがethos(態度、構え)を語源とする以上、「世界全体をどのようにうけとめるか」という次元を表わすのにまだしも適当と思ってこちらを使う。もっとも、「倫理」ということばももともとは「倫」=仲間の「理」なのだから、社会のルールにほかならない。だから、「道徳」と「倫理」の用語上の区別にこだわるのはいささかこっけいでもあるのだが。)

 それと同時に、三人の編者の見解それぞれに疑問を感じないでもなかった。

 呼応(責任 responseはresponsibilityと同語源)に依拠する見解にはつねに感じることだが、呼応は呼応すべき根拠によって制約されざるをえないのではないかという疑問がある。それがなければ、(1)呼応することが不当でさえある場合にも呼応するということになろう。また、(2)呼応を自己制限する因子があるとしても、それが、それ自体、自己中心的な――したがって正当化されえない因子にすぎないという場合もあろう。大庭氏の議論にも同じような疑義を感じた。大庭氏はその点を見落としているわけではない。253頁の註のなかで、大庭氏は、永井氏が(2)と同様の批判を加えているのに対して「悪いけれども言いがかりのようにしか聞こえなかった」と反論し、また、「ディープ・エコロジーに与しないという意味では、私は人間中心主義を奉じているが」とも記している。後の部分は、呼応すべき相手が人間にかぎられていることを意味しているから、(1)への答えにもなろう。ただ、どうしてそうなのか(もちろん、大庭氏の「人間」観念は、生命倫理学や環境倫理学で問題にされるような、感覚能力とか言語能力とか理性とか脳の機能といった個々の生き物がもつ特徴によって定義されるのではなく、「人―間」を意味しているが)の説明が(きわめてむずかしく、その説明自体がふたたびWhy be moral?に対する答えにもどってしまうにしても)さらにほしくなる。

 永井氏については、「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人はそれをする『自由』がある」「これは端的な事実であり」(44頁)というきわめてかんたんに運ばれている論理が、実のところ、私にはわからない。「何もかも覚悟のうえでそれを選んだなら、その人がそれをしてしまうのが端的な事実であって、だれもそれをとめられない」のはそのとおりだと思う。ただし、それは物理的および心理的な事実であり、物理的および心理的な「とめられない」話であって、「自由」「してもよい」といった価値評価をふくんだことばでそれをいいあらわすことはまた別の段階だと思うからだ。いいかえれば、上に引用した永井氏の見解は、社会全体(およびそこに属しているそれぞれの私が)道徳の根拠を隠蔽して道徳を強制していることをあばく道徳の系譜学のなかでは決定的に重要な意味をもつけれども、系譜学を超えた次元の考察でも同じ論理を用いることができるかどうか、私は疑っている。上の書物の53-59頁で、永井氏は「系譜学的考察を超えて」考察しているが、その章のはじめは系譜学的考察をうけついで「自由である主体」(53頁)が語られている。その章の後半ではもはや「自由」「してもよい」といった表現は必要ではない。それはすでに説明しえたから確保されていてふたたびいう必要はないという意味だけではなくて、そもそも、系譜学的考察の次元で用いた「自由である」という修飾句は同等の他者の存在を前提としていないそれを超えた考察の次元では無意味になるか、あるいは少なくとも意味が異なるのではないか、と私は思っている。したがって、前半に語られた「自由な主体」という性格づけを永井氏の議論全体を通して<私>に賦与することはできないのではないか(それにもかかわらず、そううけとめる読者は多いだろうし、永井氏はそれを防ごうとはしていない)というのが、私の疑問である。

 ちなみに、私は上の書評にこう記そうかとも思っていた。

 「道徳(倫理)は、私たちがそれを否定するとその否定することそれ自体を否定されてしまうような、いわば、自分が立っている大地のようなものである。大庭氏は、あたかも地霊のごとくこの大地を守ろうとしている。一方、山の上から大地を見下ろしている永井氏には、この大地はぬかるみにみえるらしく、白い馬に乗ってかけおりてはくるが、たちまちのうちにまた山頂にかけのぼってしまう。さて、山の中腹では、秋の日のきらめくなか、安彦氏が社会契約論のよろいをつけて槍を繰り出しているが、残念ながら、その穂先に敵がいないので演武指導にみえなくもない」。

 これ自体あてこすりみたいに聞こえては無意味なので省いたが、遊びをゆるされるなら、この本には、読後の印象をそういうふうにも言い表わしたくなるおもしろさがあった。

 

 

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