小松美彦・香川知晶編『メタバイオエシックスの構築へ――生命倫理学を問いなおす』、NTT出版、2010年

 

品川哲彦

週間読書人、2871号、2010年6月4日

 

 バイオエシックスは一九七〇年前後に米国で誕生し、日本にも受容されて生命倫理の名で一分野を確立した。だが、小松美彦によれば、この「バイオエシックス≒生命倫理」は「新規技術導入のための条件整備や交通整理」に留まりがちである。そこに看過されてきたこと(ノン・パンセ)を摘出し、それによって真に生命をめぐる倫理の学を実現すること――それが本書の狙いである。そのための視点として、小松は第一章に、文明論、歴史的視点、メタ科学、経済批判、生権力を挙げている。これに応答して、第二章で皆吉淳平が、米国のバイオエシックスの研究者を対象にこの分野の成立の時期、重要な契機や学問領域を問うたアンケートに基づいて、日米を比較し、第三章で田中丹史が『バイオエシックス百科事典』の内容の推移をもとに、バイオエシックスの応用宗教学、応用法学としての面を強調し、第四章で森本直子が同百科事典の編纂者ライクの講演を翻訳・要約して、六〇年代の米国の対抗文化がバイオエシックスの土壌をなしているというライクの見解を紹介し、第五章で廣瀬喜幸が第二章でも引用されたアンケートをもとに、バイオエシックスが当初ありえた広がりを捨てて医療問題に収斂していった過程を追跡し、第六章で香川知晶が原則主義の源とされるビーチャムとチルドレスがその立場を変えてきた推移を検証し、第七章で土井健司がキリスト教の人間愛に基づく死にゆく者の救護の可能性を示唆し、第八章で大谷いづみがバイオエシックスの初期に大きな影響を与えたフレッチャーの安楽死擁護論を解明し、第九章で田中智彦が脳死臓器移植を切り口として、バイオエシックス≒生命倫理が果たしてきたフーコーのいう生権力としての役割を犀利に摘出している。


 本書の優れている点は、第一に、各論文が互いに照応して名実ともに共同研究をなしていること、第二に、多くの章がそこで採られるアプローチに自覚的であることである。これらは著者たちには当然のことだろうし、一書としてそうあるべきことだが、相応のメンバーの論稿を並べただけの編纂本が多いなかで、やはり特筆しておきたい点である。


 六・八章の地道な読解は貴重であり、二・五章で使われたアンケートは参考になる。三章については、資料の制約上やむをえないが、ノン・パンセを指摘する本書の姿勢からすれば、法と宗教にそれだけ力点のかかる米国の事情について、たとえば、懸案の医療保険制度改革との絡み、神学的背景をもたない倫理学者が初期の生命倫理にすぐに反応しなかった要因としての情動主義の影響などに探りを入れてほしかった。七章は、長期脳死児童への家族のケアを死にゆく者の世話と解釈しているが、むしろ一般的には、家族の思いについては、「死にゆく」以上に「生きている」という方を強調すべきではないだろうか。この七章の、人間そのものに超越をみる発想は示唆に富んでいる。生命倫理学のなかでいわれてきた人格概念の「薄さ」と対比してさらに議論を展開させたい論点である。


 ノン・パンセを剔抉するという姿勢は、ありえた可能性を豊かに示唆するが、積極的な結論を引き出すや、図と地の反転のように、その背後にまた看過され、過小視されるものを生み出す恐れがあるだろう。継続的な相対化の作業が必要である。本書まえがきが呼びかけているように、多くの論者の参加を得てこの試みがさらに広がることを期待する。

 


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