書評:ハリー・G・フランクファート『ウンコな議論』、山形浩生訳・解説、筑摩書房
品川哲彦
上記の本の書評ですが、(与えられた紙幅を2倍の枚数に間違えて書いてしまった(!))「もと原稿」をまず掲載します。
その下に、『週刊読書人』に掲載した圧縮版(1400字程度)を掲載します。
(もと原稿)
さっぱり中身がないものの、嘘とも言えず、世の中に横行しており、多くの場合、聞き手にも話し手自身にもまじめな発言と受け取られ、それどころか時には厳粛味さえ帯びてしまう発言――”bullshit”。これを「ウンコな議論」と訳した山形氏は、誇張して言えば(あくまで誇張だが)『フェネガンズ・ウェイク』を訳すかのような力業を示している。その結果、無責任で通俗的な世人に対する怒り心頭に発したような、事態の本質を見究めたい知的な営みだけでもあるような、皮肉混じりのような、笑い飛ばしているような、とてものことに一筋縄ではいかないフランクファートの本論文の融通無碍な訳ができあがった。
ウンコな議論が歪曲表現であることは間違いない。もったいぶった思わせぶりな発言の場合には、話し手は自分を実際以上に優れているように見せようとしている。しかし、そういうケースばかりとはかぎらない。話し手自身が事実を、また、事実についての自分の見解をその通りだと本心から思い込んで発言していて、聞き手を騙す意図がない場合もある。こういう場合も含めて考えるなら、その表現のなかで歪曲されているものは何だろうか。フランクファートによれば、語るという行為そのものがごまかされている。この種の議論の共通の特徴は、話し手が自分の発言の正確さをまったく考慮していない点にある。では、どうしてそんな発言をするのか。話し手の関心はその場しのぎ以外にないからだ。どうしてそんなことが頻々として起こるのか。知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれることが、今日、実にしばしばあるからだ。公の席で発言を求められる重職の人物はもちろんのこと、民主主義体制では一般の人びとも自律した市民として政治、外交、経済、環境、人類の未来その他について意見を求められる。その場しのぎの、単なる思いつき、口先の出任せ、マスコミの論調をはじめとする他人の受け売りを口にせざるをえない。したがって、こうした特徴によって包括されるようなさまざまな種類の発言――荘重な儀式、大臣の感想、軽い冗談等々――が、真実を配慮していないというかどで、本書の批判の俎上に上る。このリストは右の他にも延々と続けることができるだろう。
フランクファートはウンコな議論の横行に対抗する術を説いているわけではないが、本書のなかに引用されている、友人のちょっとした不用意な表現についてもひとこと文句をつけずにはいられなかったヴィトゲンシュタインの厳格さは参考になるだろう。評者は本書を読んでこんなことを考えた。たとえば、一時期、日本の政治家が口にした「人の命は地球より重い」というフレーズ。もし、このフレーズを耳にしたら、「その重さは物理的な意味の重さか。もしそうなら、命の重さをどうやって測定するのか。たとえば、死の直前直後の体重の変化を調べるのか」などと反問すべきだろう。真実への配慮のみがウンコな議論にまみれることを逃れる術だからである。
訳文は実に達者である。ただ”humbug”を「おためごかし」と訳したのは、その好例がアメリカ独立記念式典における祖国と建国の父たちに対する頌辞であると説明するくだりで違和感を抱いた。おためごかしという語は、相手の利益にみせかけて、その実、自分の利益を誘導するような場合に使うのが通常だからだ。山形氏以上に適切な訳語を思いつくのはむずかしいが、先の例のような文脈では単に「もったいぶった言い回し」という意味にすぎまい。また、一一頁三行目には「疑いなく、多くのおためごかしは思わせぶりである」の一文が訳し落ちているように思う。訳者と評者とは参考にした版が違うのかもしれないが、この一文があって、次の「ウンコ議論も思わせぶりと不可分に思える。しかし、思わせぶりであることはその本質的要素ではない」というくだりに続くのだろう。
著者フランクファートは『われわれがケアするものの重要性』等の著作で知られている。彼の概念で最も有名なのは、一次的欲求(例、「酒がのみたい」)と二次的欲求(例、「酒に溺れる自分ではありたくない」)との区別である。本書は後半部分を訳者解説にあてており、この欲求の階の区別をはじめ、フランクファートの業績について紹介している。その業績とこの書物の内容の関連にもふれている。だが、山形氏が、フランクファートは規範の源泉を愛(ケア)に求めていると解説した後、愛を個人の趣味と捉え、それが本書の批判する「誠実さ」とどれほど違いがあるか疑問を投げかけている点(八九頁)には、評者は逆に疑問を抱いた。フランクファートの愛(ケア)は本人の人生に統合性をもたらすものであり、したがって生を物語として描き出す発想と親しい。そしてまた、愛(ケア)は必ずその対象に自分以外の存在を必要とするものである。フランクファートのこの思想の一端は、本書末尾の「われわれは他の物との対応関係の中でのみ存在しており、したがって他の物を知らずして自分自身のことなど知りようもない」という一節からも窺える。フランクファートはこのことから自分自身を正確に表現する「誠実さ」なるものを虚構と断じているわけだ。したがって、山形氏の抱いた疑問は、自分の生の根拠を孤立した主体である自己の決断に求めるサルトルや、客観的に構築された価値に依存することを斥けたニーチェに対しては向けることができるかもしれないが、フランクファートに対してはあたらないように思われる。しかも、山形氏の指摘する誠実さは、本文中に述べられている誠実さ(sincerity)よりも、むしろ”authenticity”に対応する概念ではないだろうか。
ちなみに、サルトルを厳しく批判し、物語的な生の構造を強調した『美徳なき時代』の著者マッキンタイアーに、フランクファートに対する論評がある。さまざまな善の階層秩序を信じるマッキンタイアーは、フランクファートの議論には何をケアすべきかの指示がないと批判する。フランクファートのいう愛(ケア)を個人の趣味と断じている山形氏の批判はマッキンタイアーの批判に通じている。ただし、マッキンタイアーはサルトルとは相容れないのだが、フランクファートに対しては共感するところがあるようにもみえる。つまりフランクファートは、自己自身以外に何の根拠も求めない近代の主体観とはそのケア論において一線を画している(この点でマッキンタイアーの関心を呼ぶ)が、客観的な価値や善の秩序を肯定する古代・中世の存在論の系譜とも一線を画している(この点でマッキンタイアーの批判を受ける)、そういう立場に立つ哲学者だと評者には思われる。
『週刊読書人』、2629号、2006年3月17日
(『週刊読書人』掲載の版)
さっぱり中身がないものの、嘘とも言えず、世の中に横行しており、多くの場合、聞き手にも話し手自身にもまじめな発言と受け取られ、それどころか時には厳粛味さえ帯びてしまう発言――”bullshit”、訳して「ウンコな議論」。達意の訳である。ウンコな議論が歪曲表現であることは間違いない。もったいぶった思わせぶりな発言の場合には、話し手は自分を実際以上に見せかけようとしている。しかしまた、話し手自身が事実や事実についての自分の見解を本心からそう思い込んで発言していて、聞き手を騙す意図がない場合もある。こういう場合も含めて考えるなら、その表現は何を歪曲しているのか。フランクファートによれば、語るという行為そのものが歪曲されている。この種の議論の共通の特徴は、話し手が自分の発言の正確さをまったく考慮していない点にある。では、なぜ、そんな発言をするのか。話し手の関心はその場しのぎ以外にないからだ。なぜ、そんなことが頻々として起こるのか。知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況に置かれることが、今日、実にしばしばあるからだ。公の席で発言を求められる重職の人物はもちろん、民主主義体制では誰もが自律した市民として自分の理解を超える問題について意見を求められる。その場しのぎの、単なる思いつき、口先の出任せ、マスコミの論調をはじめとする他人の受け売りを口にせざるをえない。したがって、こうした特徴を共有しているさまざまな種類の発言――荘重な儀式、大臣の感想、軽い冗談等々――が、真実を配慮していないというかどで本書の批判の俎上に上る。
著者フランクファートは『われわれがケアするものの重要性』等の著作で知られている。彼の概念で最も有名なのは、一次的欲求(例、「酒がのみたい」)と二次的欲求(例、「酒に溺れる自分ではありたくない」)との区別である。訳者はこの欲求の階の区別をはじめ、著者の業績について紹介し、本書との関連づけを試みている。だが、山形氏が、フランクファートは規範の源泉を愛(ケア)に求めていると解説した後、愛を個人の趣味と捉え、それが本書の批判する「誠実さ」とどれほど違いがあるかと疑問を投げかけている点(八九頁)には、評者は逆に疑問を抱いた。フランクファートの愛(ケア)は本人の人生に統合性をもたらすものであり、それゆえ生を物語として描き出す発想と親しい。そしてまた、愛(ケア)は必ずその対象に自分以外の存在を必要とするものである。彼のこの思想は、本書末尾の「われわれは他の物との対応関係の中でのみ存在しており、したがって他の物を知らずして自分自身のことなど知りようもない」という一節からも窺える。フランクファートはこのことから自分自身を正確に表現する「誠実さ」なるものの虚構を暴いているわけだ。したがって、山形氏の抱いた疑問は、孤立した自己の決断を根拠とするサルトルに対しては向けられようが、フランクファートにはあたるまい。サルトルを厳しく批判し、物語的な生の構造を強調した『美徳なき時代』の著者マッキンタイアーにフランクファート評がある。私見では、フランクファートは、自己自身以外に何の根拠も求めない近代の主体観とはケア論において一線を画している(この点でマッキンタイアーの関心を呼ぶ)が、客観的な価値や善の秩序を肯定する古代・中世の存在論の系譜にも属さない(この点でマッキンタイアーの批判を受ける)、そういう位置に立っていると思われる。