書評 篠原俊一郎・波多江忠彦編『生と死の倫理学 よく生きるためのバイオエシックス入門』 ナカニシヤ出版


品川哲彦

『週間読書人』2437号、2002年5月17日


 生命倫理学が日本で論じられだして約二〇年。多彩な角度から争点に切り込み、この分野に新たに参入する研究者も多い。本書は福岡応用倫理研究会のメンバーによるそうした試みである。筆者たちは、たとえば、「人間の自然的なる原型」に依拠して禁ずべき種類の生殖補助技術を特定し(一章)、欲望の暴走に対してエコ・フェミニズムを援用して警告する(六章)というように、各人の道徳的直観に依拠している。立場を旗幟鮮明にしているだけに、この本はその提言の是非の議論を呼ぼうし、さらにまた、道徳的直観に依拠した主張に期待しうる射程、哲学・倫理学の研究者が寄与しうる役割について再考する機縁を与えている。以下、各章に言及し、さらなる深化・展開を望みたい点を括弧内に付言する。

 二章は情報倫理と生命倫理との結合を試み、代替不能なオリジナルとみる見方から中絶禁止を、選好・置換可能なコピーとみる見方から中絶・クローンの許容を導出する。(だが、生涯にもちうる唯一の子と思いつつやむをえず中絶する場合も、クローン人間をかけがえなく思う可能性も想像しうるはずだ。右の対比は実態に照らしてどこまで有効か)。三章は、中絶が医学的理由、経済的理由、犯罪的理由、優生学的理由によって許容されうる可能性を認めたうえで、中絶するか否かは中絶への賛否両論を「充分に述べ、その長所・短所の情報を充分に知らせた上で、個人の選択に任せる」と提言する。(だが、その知らせる任には誰があたるのか、なぜそうなのかについても示唆がほしいところだ。その点、四章は現場の医師の執筆によるだけに出生前判断に関わるネットワーク作りの具体案が、もっぱら医学上の情報提供と相談だけに限られてはいても、示されている)。五章は臓器移植をカニバリズムと評する。(後者の忌避を「人類全体に当てはまる普遍的な原理」と断じた時点ですでに結論は見えているが)。七章は自分の身体の管理・使用権によって積極的安楽死と自殺幇助を含んだ安楽死を基づけている。(だが、そういう権利を認めたとして、その権利は嘱託殺人や自殺への協力を他人に仰ぐまでの効力をもつだろうか)。八章は「共同体の構成員のすべてが理性的で自由な自己決定ができるような状況」ならエイズ患者の社会的受容が進み、開発途上国のエイズ患者には先進国並みのサポートをすべきだと提言する。(まことに正論ではあるけれども、どこから出資してどのように体制作りを進めていくのか)。九章は直示的定義と操作的定義の概念を用いて脳死を論じる。(できれば、そこから進んで、直示の場である生活世界と科学との関係に踏み込んで脳死問題を照射してほしかった)。

 むろん、「われわれ市民一人一人」(まえがき)は序章にいう「自由な討議」に道徳的直観をもって参入する権利をもつ。それでは、著者たちは一市民として書いているのか。それとも、哲学者・倫理学者として一市民たる以上の特有な貢献をめざしているのか。後者なら、いかなる理由からそれができるのか、他の市民に説明すべきである。なるほど、応用倫理学は「実学志向」の「国是」(あとがき)なのかもしれない。それなら、広く一般に社会的関心を共有しうる新しい問題だというそれだけの理由から応用倫理学をするのだろうか。この問題を正面切って考えなおすべきは著者たちだけではない。その意味で、この分野に関わる者が参照すべき本である――他山の石として役立てる可能性も含めて。

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