第17回大学教員研修プログラムに参加して

 

 1999年1月23日、24日、八王子市の大学セミナー・ハウスで、第17回大学教員研修プログラムがおこなわれました。それに参加する機会をえましたので感想をすこしかきとめておきます。

 うかつながら、この大学教員研修プログラムというもよおしをこれまでぞんじませんでした。この研修は、すでに1970年以来おこなわれている大学教員懇談会を基盤として、「大学教員の教授能力の開発の向上」を目的に、1984年から開催されているそうです。大学教員が大学・学部・専門のちがいをこえてあつまり、たがいの考えを発表しあう場(FD: Faculty Development)です。

 今回の共通テーマは「よりよい大学教育の方法を求めて 学びがいのあるカリキュラム 教えがいのあるカリキュラム」でした。

 私は「非専門性をいかに教養教育にとりいれるか」と題して、広島大学の教養的教育のなかに1997年度に新設されたパッケージ別科目を紹介いたしました。ワーキンググループのひとりとしてその立案にかかわった経験からおはなししたわけです。もっとも、私がその立場にあったのは1995年秋から1997年春まででした。もっぱら実施以前の理念づくりにかかわったわけですが、私の能力・性向からいって、運営の実務にかかわるよりは寄与できたかとおもいます。とはいえ、当初の理念からみると、単位認定・時間割・教室運用などの制度・組織的制約のために、また、新しい科目だけに授業担当者は試行錯誤であって、この科目に期待していた機能が発揮できていない面があります。この新設科目がそれに協力すればポストの配分が望めるという性質なら、もうすこし推進力をえたかともおもいます。しかし、それなら、私ごときは学内政治のまえにそもそもその理念づくりにかかわらなかったことでしょう。ここでは、私自身の提題は別項にゆずり、ほかの方々のご発表をうかがいながら感じたことをしるします。

 

1 学生に話がつうじていないということが改革の出発点ではないか?

 「大学改革」は、昨今、大学関係者ならすでに耳にタコができるほどきかされていますが、大学に直接の関係や関心をおもちでない方には、改革が大学の内部で焦眉の急として語られていることをごぞんじじないかとおもいます。

 改革をうながす情勢はそのまえからあったものの、制度上では、平成3=1991年の大学設置基準の大綱化が契機というより端緒でした。カリキュラムについてひとことでいえば、従来の、たとえば、一般教養科目と専門科目の峻別や一般教養科目のなかで人文・社会・自然科学を等分に履修するといった基準が撤廃され、カリキュラムづくりを各大学の裁量にまかせるという内容です。大綱化がおこなわれたのは、日本に大学と名のつく機関がふえて、その実際の教育内容や目標が多様になり、もはや「大学のカリキュラム、かくあるべし」という一律の規制が不毛になったからです。

 しかし、あらゆる規制緩和においてそうなのでしょうが、他からの規制が緩和されたときには、自分で自分のイメージをしっかりと把握しなくてはならない。ところが、それは一面ではこわいことです。いつでも決断であり、そこに自己誤解がありうるからです。ここにいう大学(厳密にいうなら、学長、評議会、教授会、事務組織、それに私立大学なら理事会)が自分の大学にもつイメージとは、たとえば、研究者を養成する大学、特定の職業(とりわけ資格を必要とするもの)につく卒業生を生産する大学、とくに専門分化するというより「大学」卒業生としてもつべき教養を身につけることのできる大学などなどです。それにたいする自己誤解とは、社会のその大学にたいする評価はそうではなかったとか、学生はそういうことを期待していなかったとかいうことです。社会はまずその卒業生が職をもとめる場というかたちであらわれてきます。

 もっとも、学生については、今の語り方だと、大学の外部のようになってしまいます。これはおかしい。たしかに、入学前と卒業後には、学生は大学の外部にいますが、学生がいなければ、大学は成り立ちません。けれども、カリキュラムを考えるさいには、学生は大学の外とも内ともいえるような微妙な位置を占めていると思います。それについては、のちに申します。

 さて、大学の自己誤解のつけは大学にかえってきます。18歳人口はへるのだから、とりわけ私立大学ではナーバスになるように、ぱっとしないイメージの大学は存続もあやぶまれる。国立大学でも、研究者を養成する大学院をつくれるかどうかで予算はずいぶんかわりますし、かつての国鉄のように民間化の話もながれています。そういうことを考えあわせると、改革が賭けのようにみえてきて、「大学」改革ということばには、いわば、社会情勢におびやかされているという外圧めいたふんいき、うらがえせば、各大学がその大学構成員にとって運命共同体であるようなふんいきがつきまといます。

 けれども、考えてみれば、自分はけっきょく授業を担当する一教員にすぎない。その立場から「改革」の必要性を感じうるとすれば、感じとればいいのではないか? はからずもそういう印象をもてたのは、今回のFDの私にとっての収穫のひとつでした。

 そのきっかけのひとつは、寺崎昌男桜美林大学教授の講演の一節でした。寺崎教授はある大学に勤めておられたときに、その大学が歴史的にへてきたこと(たとえば、設立初期の受験業界の評価、大学紛争などなど)を、プラス・イメージをあたえそうなものもマイナス・イメージをあたえそうなものもひっくるめて、授業で紹介したところ、受講生がたいへん積極的な姿勢できいたそうです。それは必ずしも愛校心からというわけではありません。マイナス・イメージの話もあるからですし、受講生のなかにはそれまで自分の大学をきらっていたひともいたそうです。

 寺崎教授は「『居場所』をもとめる学生たち」という小見出しをつけてこの話をされました。的確とおもいます。つまり、その大学に入学したものの、「どうして自分がそこにいるかわからない」「どうしてこういう授業をうけるのかわからない」「どうして大学でこういうことを学ぶのかわからない」という学生が多いのでしょう。もちろん、学生は自主的に大学・学部を選んで入学してきたのだから、甘えた話とつっぱねることもできます。しかし、そういう学生が多いなら、その事態をどう評価するにしても、ともかく授業で話していることがらがつうじにくい状況にあることはたしかです。そこで、話をつうじさせるためには、授業を担当する一教員として、自分の話していることがどういう脈絡で「この大学の授業のなかで話すべきこと」(とまでいえなくても)「この大学の授業のなかで話すに価値あること」といえるのか、きいている学生にたいして説明しなくてはいけない。このところを先ほどの「外圧」「運命共同体」的発想だと「大学の大衆化にともない」云々といったいいまわしになりますが、そんな肩肘をはらずに、要するに、「せっかく話すのだから、話をつうじさせたい」という自然な欲求でとらえたらよいわけでしょう。

 ただし、「この大学の授業のなかで」というところを説明するには、私が自分の研究にかけている意気込みとか感じている魅力とかいうだけでなく、さきほどしるした大学の自己イメージをつたえざるをえません。大学の自己イメージは、つまり、その大学自身のさだめたカリキュラムに反映しているはずです。なぜなら、カリキュラムとは「どういう学生を育てたいか」をもりこんだもののはずだからです。当然ながら、そのためには、授業を実際に担当する者が自分の考えを発表し、議論できる場があって、カリキュラムがつくられているべきです。各大学の合意形成の手つづきしだいです。そして、授業担当者の次元に話を限定していますが、大学そのものが学生に教育目標をつたえる努力をする必要があるのはもちろんです(別項)。

 なお、上にのべたことは、授業がわかりにくいという話そのものではありません。また、大学教員が教えるのがへただという話でもありません。そうではなく、学生のなかには、授業の内容は(知的には)わかっており、試験も好成績をとれるが、「何のために授業をうけたか、わからない」という学生もいるからです。そういう文脈の話です。もちろん、大多数の学生は「何のためにうけるか、わからな」ければ、気力をうしなうために、授業の内容を知的にも理解できなくなるでしょう。

 さて、今の話は、さきにしるした、カリキュラムについては学生は「大学の外とも内ともいえるような微妙な位置」にいるとのべたことと関連します。入学以前の学生は大学の外にいます。そうした受験生にその大学のイメージをつたえる(たとえば、受験情報誌、広告など)ことは少しはできますが、カリキュラムはつたえても理解されるとはあまり期待できません。カリキュラムをとおしてその大学のさだめた目標をつたえる対象は入学後の学生です。そして、カリキュラムはその目標を達成できた学生として卒業することをめざすわけです。でも、せっかくつくったカリキュラムもその学生にあわないかもしれず、修正せざるをえない場合もあるかもしれません。たんに、学生は、大学の外から内に入り、外に出るという時間的経過だけでなく、場合によっては、内部にあって教員にとっては異質の要素としてはたらくわけです。

 

2 はしごをのぼれといわれる。でも、はしごをのぼるわけがわからない

 学生が教員にとっては他者だなどというと、「他者」ということばのもつ重みを真率にうけとられる方もいる一方、自分のゼミの学生は少しも他者ではないというようなことをいわれる方もいそうにおもいます。ある授業の教育目標が学生につたわりやすいかどうかは、その授業が学生がそもそも専攻するつもりの分野なのか、そうではないのかによってかわります。しかも、学生にもっぱら専門の知識を教え込むことを目的としてカリキュラムをくむのか、それとも、専門以外にも余裕のあるかぎり視野を広げることを目的としてカリキュラムをくむのかということは、またしても、その大学の自己理解にかかっています。

 しかし、たとえ、その分野を専攻する学生であっても、入学直後はまだ専門分化していません。ですから、その学問を専攻していない、あるいは、将来も専攻しない学生に、いかにその分野の授業の関心をよびさますかという問題はあいかわらずのこっています。私の提題(別項)はそこにかかわっていましたが、この問題については、原一雄亜細亜大学教授の「FDが大学教員にとっての教養教育であり、生涯教育である」というご発言に共鳴しました。つまり、学生に幅広い分野への視野のひろがりをもとめるには、教える側が視野のひろがりをもたなくてはならない。

 少なくとも、自分の授業をその分野の外からながめて相対化する必要はあるとおもいます。というのは、さきほどもうしたように、今のべているのは、学生が授業内容を理解しないということではなく、学生がその授業をうける意義をなっとくしていないということだからです。それはまさにその授業の属す分野にとっての他者からの問いです。

 これにたいして、もうゼミに入っている学生は、そのゼミの属す分野を学ぶことに価値を見出しているのですから、教員にとって、話がつうじやすいのはもっともです。

 かつて、教養部の教員をそれ以外の学部の教員が軽視するような風潮があったといわれます。最近は教養部がないので、若手の教員から徐々にこういう差別感覚はへっていくでしょうが、30代でも差別感覚の持ち主はいます。

 この教員間の意識のちがいについて、私はこんなふうに考えています。「大学の教員は研究者だ。学生・大学院生時代の専門知識がとぼしい時期から今の(一応は)研究者になるまで、はしごをのぼるようにすごしてきた。その結果、はしごの先しかみえなくなってしまったひとや、これまでの自分の苦労をあまりにほこりに感じていたり、逆に、うらみがましく覚えていたりするひとは、はしごの下のほうにいるひとやはしごにのぼらないひとを見下しがちだろう」と。もちろん、すぐれた学者には他の分野につよい関心をもつひともおおいのですから、専門科目だけを重視する教員はむしろ自分の知的キャパシティのせまさを自白しているにすぎません。とはいえ、独善的な価値観は「専門家」なるものにつきものです。

 そういう教員ばかりだと、専門重視・教養圧縮のカリキュラムを積極的に押し進めるでしょうね。受講する学生が他者だというのは、学生が「私もそのはしごをのぼればのぼれるかもしれません。でも、現にのぼっているあなたをみても、私には今ひとつのぼる気がおこらないのです。なぜ、あなたがのぼっているのか、それをみて私は今、当惑しています」と、学生は教員に問うているのかもしれないということです。

 だからまず、そのはしごがどういうはしごで、どこにつうじているのかをつたえなるのが先決です。

 当日の提題者のおひとり、札野順金沢工業大学教授のご発表「『とりあえず学生』をいかにして『国際的に通用するエンジニア』に育てるか」は、最近の国際的な基準では、エンジニアには専門知識だけでなく、倫理観や社会的視野ももとめられているという内容でした。今までは、はしごを一本だけのぼればよかったのが、同じ高さにまではのぼらないにしても、複数になってきたというふうにたとえられるとおもいます。これは私の提題(いかに非専門性を教養教育にとりいれるか)と逆に、「いかに非専門性を専門教育にとりいれるか」という方向でもありますが、いずれにしても、もともとそういう分野をめざしていないひとをその分野のなかにみちびきいれる話になります。

 

3 選択の自由か、訓練か

 けれども、ここまでいうと、「いったい、『このはしごもある、あのはしごもある』と教えるよりも、ともかく、どれかのはしごにのせたほうがいいのではないか」という疑問が出そうです。というのは、自分が学びたいことがあって、それ以外の分野を学ぶ意義を見出せないというのではなくて、大学で入学したものの、そもそも大学で学ぶこと自体にもはや意義を見出せないという学生もいそうに思われるからです。(ちなみに、小学生の学級崩壊では、「授業中、教室を出入りする」とありますが、授業の途中から平然と入ってきたり出ていったり、授業の開始時になおとなりの学生と話すのをやめなかったりする大学生はどこでもいます。皮肉な言い方をすれば、大学生には小学生よりもmobilityがあるので、教室の外に出ていってしまうことで授業そのものは崩壊しません)。そこまでひどくなくても、どんな分野にすすむにしても、それが学問である以上は、なにかしらの学問的訓練をてがかりにして、学ぶ意義がとか、そこまで望まなくても、学ぶための姿勢が学生につたわるのではないかという提案です。これはおそらくそのとおりであって、だから、多くの大学で一年生むけのゼミがひらかれているのでしょう。

 ただし、一年生むけのゼミが将来の専攻にすぐにつながる、一種の囲いこみならどうか。当日、「昨今の大学はもっと訓練を要する」といわれた方もいっぽうではたんなる囲いこみに疑義も出していられたように記憶しています。

 もっとも、この問題を考えるには、おこなうゼミの授業内容がどの学問に属するか(文系より理系のほうが目に立つしかたで、また方法論がととのったしかたで「訓練」たりえます)、その大学がどういう学生を育てるのか(単科の大学なら「訓練」も均質なしかたで展開できるでしょうし、また、卒業後の職業・資格取得に直結する学部はどうしても徒弟的訓練が欠かせません)におうじて、意見がわかれる(たとえば、むしろ囲いこみこそを目標とする場合もある)ので、それを無視して一般的な評価はくだせません。

 ただ、私は提題のなかで、学生が授業を自主選択することが受講の動機づけにつながるという主張をしましたので、むしろ、「自主選択の成果があがらないと評価されれば、やはり訓練型のカリキュラムが導入されるのだなあ。しかし、選択の機会がへればへるほど、選択できない人間になりはしないか」というようなおそれも感じました。

 

4 教育された/したことの評価について

 さて、いかにカリキュラムをくふうしても、それを実行する場での動機づけが必要です。その動機づけは、学生側では成績評価に、教員側では業績評価にかかわります。

 成績評価については、清水一彦筑波大学大学研究センター助教授のご発表「カリキュラムの制度論」のなかで、たんに修得した単位数だけでなく、それに成績評価をかけあわせた数値で学生の卒業以前の成績をはかるというやり方が紹介されました。数値を単純にすれば、ひとつの科目4単位の授業を4つとったとして、優・優・優・優で履修した学生の成績は、たとえば、3x4=12とし、優・良・可・可で履修した学生の成績は、3x1+2x1+1x2=7とするというやり方です。

 もちろん、このためには、成績を評価する側にたいするチェックも必要ですし、また、こうして出された数値を社会がうけいれる土壌(つまり、大学名よりも、大学時代にどのように勉強にとりくんで成果をあげたかを評価する土壌)が必要です。しかし、この問題は、現在しばしば指摘されている「出口問題」(大学は学生をどのように学生を育てたか)がもっと重視されるようになると、しだいに要請されてくる方法かと思いました。

 また、大学内で教員を評価する基準が論文執筆量だけにかたよっていると教育に熱心にとりくむ姿勢をそだてられないという指摘はつとにされています。研修プログラムの最後の全体会でも、それが話題にのぼりました。

 ただし、私個人は、評価をあらたにするには、その改革のプログラムづくりにかかわる者がかなり勉強しなくてはならないと感じています。改革の方向をみすえるためにほかの大学の改革や(国立大学ではとくに)文部省の意向をうかがうしか手をもっていないような学内政治家、また、改革を機に学内での権力を得ようとする学内派閥、なにをめざすかわからないのに自分がわかっていないことを隠すために執行部の提案にうなづいておいてかげでは反対する一部の教員などの存在をおもいうかべると懸念のほうが先にたちます。

 

5.改革推進者とそれ以外に分かれる不幸

 大学改革のさなかにいて、少しはカリキュラムの改革にたずさわった者のひとりとして、大学教員研修プログラムに参加したことで、おなじ問題にまともにとりくんでいるひとたちと出会えて、心づよさをえることができました。しかし、論じられた内容がひとつの「改革」の方向にまとまっているわけではありませんし、また、できるかぎりそううけとめないほうがいいのではないかともおもいました。

 こういう研修に参加しておられる方々は、少なくとも大学改革ということに敏感であり、じっさいにそれぞれの大学で改革推進者の役割をつとめなくてはならない立場の方もずいぶんおられました。しかし、改革推進者が同僚のあいだでういてしまったり、おなじ部署にありながら、改革にたいする熱意、期待している内容がひどくちがっていたりすることは、私自身これまでおもいしらされてきたことです。改革推進者がそれ以外のひとをひきずっていくために、大学改革の必要性を「啓蒙」するとすれば、それをすればするほど、両者の差は再生産されるでしょう。もし、改革の必要性にいまひとつ心がうごかないひとがいるとすれば、それはそのひとが鈍感だというばかりでなく、改革しなくてはならないという啓蒙の「物語」が魅力的ではないからかもしれません。なんのための改革かについては、文部省、経済界、各大学執行部、各学部それぞれ(かなりかさなりあうところはあっても)別の「物語」をかたっているわけで、そのさなかにいる教員のひとりとしては、それらのどの物語にもおしながされてしまわずに、あくまで自分のしごとのために、教育・研究のありようからこの問題をかんがえていく姿勢が必要だとおもいます。


大学改革教員渡世のはじめのページにもどる。