書評:ジェームズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学――安楽死からフェミニズムまで――』*

 

品川哲彦

『倫理学研究』、34号、関西倫理学会、2004年4月20日、149-153頁

 

一、レイチェルズについて

 ここにとりあげる訳書の原著は、James Rachels, The Elements of Moral Philosophy, Third Edition, MacGraw-Hill College, 1999、二〇〇頁余(訳書もほぼ同量)にまとまった簡潔な道徳哲学入門書である。レイチェルズは現在アラバマ大学教授を勤めている[ 追記: その後の情報を確認しないまま、訳書解説をそのまま転記してしまったが、ざんねんながら、レイチェルズは、2003年9月5日に物故している。62歳だった]

 のっけから私事にわたるが、私は本書原著や同じ著者の”Can Ethics Provide Answers?” (Hastings Center Report, vol.10, no.3, 1980, のちに加筆してCan Ethics Provide Answers?, Rowman & Littlefield Publishers, 1997に収録)を複数の大学で演習に利用したことがある。”Can Ethics Provide Answers?”は、倫理は文化に相対的ではないか、倫理観は心理的機制にすぎないのではないか、倫理的判断にはそれを裏づける証拠がないのではないかなど倫理学に寄せられるさまざまな疑念や倫理的判断を意見の表明に還元した情緒主義に反論して、倫理的判断は理由にもとづいているゆえに合理的に論証・反駁可能だから、倫理学は学問たる条件を備えていると主張している。同論文は生命倫理学の研究機関の機関誌に掲載された。応用倫理学の具体的問題に関わりつつ、倫理学がいかなる資格でそれにとりくみうるのかを見定めようとする著者の態度に、私は信頼感を覚えた。

 レイチェルズの基本的立場は功利主義である。ただし、一見それと相反するようにみえる立場にも目配りを利かせている。積極的安楽死と消極的安楽死との道徳上の意義の違いを否定した有名な論文(加茂直樹監訳『生命の終わり――安楽死と道徳』、晃洋書房、一九九一年)では、帰結だけではなく動機にも着目した分析を展開していた。

 ここにとりあげる訳書でも、レイチェルズは彼が現代の主要理論と目している功利主義、社会契約論、義務倫理学、徳倫理という競合する理論を視野に収め、各々の得失を論じて現代の道徳哲学を概観している。その姿勢はある程度中庸を志しているといえる。他面、その物分りのよさのために真の対立点が隠蔽されるきらいもないわけではない。結局のところ、問題や文脈の違いに応じて異なる倫理理論を援用して究極的な目標である幸福の増進を図る多元戦略功利主義(二〇一頁)が、レイチェルズ自身の立場だといえよう。

 

二、本書の概略

 第一章の題目は「道徳とはどういうことか」。レイチェルズによれば、道徳は(一)理由による裏づけ、(二)各人の利益への公平な配慮を満たさねばならない。これが道徳の最小概念である。以後、この最小概念をいかに拡張・修正するかが本書の課題となる。第一章には重度障害児の安楽死の事例が提示される。著者は、延命が本人にとっての利益になるか、臓器摘出はその子を手段に化すことか、生命は神聖ではないか、障害者差別にあたらぬかなど挑発的な論点で読者を思索のなかに呼び込んでいく。こうした具体的な事例で思索を進めていくのが本書の一貫した姿勢である。さて、道徳の内実は文化によって異なる。そこで第二章は文化相対主義の問題である。著者は異文化への寛容、社会的妥当と道徳的妥当の違いの認識を重視しつつ、複数の文化に共有されている道徳規範を指摘して文化相対主義を斥ける。しかし、倫理観は文化どころか個人によっても違うではないか。第三章は倫理的主観主義(情緒主義)の論駁である。著者は同性愛の道徳的是非を話の糸口にして、道徳上の真理が理由にもとづく真理であり、したがって、倫理学では理由の裏づけが証明となると説く。それでは、道徳上の真理の証明の根拠たる客観的事実は存在するのか。第四章では道徳と宗教の関係がとりあげられる。まずはプラトンの『エウチュプロン』を援用して両者を区別し、神の命令ではなく事物の本性に道徳の根拠をおく自然法に話を移し、著者は自然主義的誤謬によってこれを斥ける。のちに第十章の社会契約論にみるように、著者は道徳的「事実」なるものの存在には否定的である。ちなみに、この章ではキリスト教の中絶論の歴史を顧み、プロライフ派の主張が正統とはいえないことも指摘される。第五章と第六章は利己主義に費やされる。第五章では、利他的動機を否定する心理学的利己主義は仮説に合わせて事実を解釈している疑念が表明され、第六章では、私益の追求を規範とする倫理的自己主義に対して、自他の平等を顧慮すれば私益だけを尊重する根拠はないと論駁している。以上、第六章までは倫理の根拠を問うメタレベルの議論で、倫理学が何ではないかを論じてきた。第七章以降、主題は規範倫理学に移る。

 自他への平等な配慮が前章に語られた流れから、まずとりあげられるのは功利主義である。安楽死と動物解放論を例として功利主義の思考法が説明される。しかし、功利主義は快楽主義ではないのか、帰結を重視するあまり正義・権利・約束を軽視していないか、私生活を犠牲にするほど公平への過大な要求を掲げる傾向がないか。第八章では、著者はこれらの批判に応えて、幸福の概念の広さ、正義・権利・約束遵守の功利性、功利主義的道徳観が常識を打破する可能性を指摘して功利主義を擁護する。第九章、第十章はカントを扱う。功利主義者である著者は「他人が我々と同じ状態に直面したなら、彼もそうすることを我々が進んで意志する場合」(一三〇頁)には規則を破ってよいというふうに厳格主義を和らげてカントを受容している。第十章の応報主義者としてのカントという描き方は一見奇異にみえるが、功利主義では正当化しきれない刑罰の公正と過去の行為の責任の根拠をカントによって補完するためである。第十章では社会契約論が論じられ、キング牧師の公民権運動に言及して市民的不服従を社会契約論によって正当化されるとともに、社会契約論が契約の担い手になれない存在(障害者や動物)まで道徳的共同体を拡大できない点が指摘される。第十二章はフェミニズムと気づかいの倫理を論じる章で、第三版で補筆された。関係の特殊性に応じた対応を要請する気づかいの倫理は公平を根本とする功利主義と対立する。しかし、レイチェルズは正義と善行を公的生活の規範に、愛と気づかいを私的生活の規範にふりわけて、そのかぎりで後者の価値を認めている。この評価は第十三章の徳倫理一般(著者は気づかいの倫理を徳の倫理の一種とみている)にもあてはまる。著者は、愛情や友情のような徳倫理によって説明されうる面が人間の生活のなかにあることを認める。しかしまた、徳同士の対立には一般的な原理、正義や公正にもとづいた行為に関する倫理理論を要することも指摘する。結局のところ、著者は功利主義と徳倫理、行為についての倫理学と性格についての倫理学の棲み分けを説いていることになろう。功利主義を基本としつつ、義務倫理学、社会契約論、徳の倫理を以上のように加味して「満足のいく道徳説」(一九四頁)を提示するのが、最終章の、また、本書全体の到達点である。

 

三、本書の意義

 訳者は本書についてあとがきのなかで「抽象的説明に終始しがちな道徳哲学の諸学説を、現代社会の様々な現実と引き合わせることによって」「倫理学上の問題とは、書物の中に封じ込められた空虚な理論ではなく、我々の眼前で常に既に生起している生の出来事に他ならないということが実感される」(二一〇頁)と評している。「単純明快で、手っ取り早くて、時には毒のある話も用いて、生々しいほど具体的に、それこそ『誰にでもわかる哲学』を実践せねばならない」「普通の大学の一般教養の授業」(二〇九頁)には、こうした切り口の入門書が待望されると、訳者はこの書を訳した理由を語っている。邦訳の題名は本書のこの性格を伝えようとしてつけられたものだろう。およそのところ賛成である。ただあえて別角度から評するなら、レイチェルズはさまざまな倫理理論を摂取し批判して自家の立場を確立したからこそ、多彩な応用倫理学的問題を散りばめてひとつの筋に貫かれた骨太の倫理学の入門書を紡ぎ上げることができたのではないか。あたかも磁石が砂鉄をひきよせるように、現実的な問題のほうがレイチェルズの関心領域にとびこんでくるかにみえる。本書に言及された安楽死・同性愛・中絶・動物の権利・死刑制度など個々の問題への関心だけでは一貫した筋は作れないし、それらを「例」として個々の倫理学説を説明するという意図だけでは現代の倫理学の全体図を描き出すまでにはいたらないだろう。

 もちろん、レイチェルズの視野から落ちているものはたくさんある。本書には、プラトンは宗教と道徳を分ける糸口に使われているが、善のイデアへの言及はない。トマスは自然法に関連して叩かれるべくして引き合いに出されたかのようで、哲学・倫理学の歴史を通じて人間を悩ませてきた超越の問題は一顧だにされない。ニーチェは二度ほど狂言回しのように登場するが、道徳の系譜を抉るその切れ味や高貴さの観念は自他への平等な配慮のまえに影をひそめ、ロールズは社会契約論としてではなくアファーマティヴ・アクションに関連してだけ引用され、ハーバマスは顔を出さず、不思議なことにヘアも登場しない。気づかいの倫理は家庭生活のなかに閉じ込められてしまった。主たる登場人物はベンサム、ミル、ホッブズであり、その脇でカントが功利主義を、アリストテレスが行為の倫理学を補完する準主役を演じている。批判しているのではない。むしろ、このように特定の足場を築いたからこそこれだけの概観を得られたという点を評価したい。私たち、日本の研究者に必要なのは「誰にでもわかる哲学」を語ろうとする以前に、深く幅広い知識にもとづいて「私だからこそ語れる哲学」を語れるようになることをめざすことなのかもしれない。

 

四、訳文について

 あとがきに「生硬な逐語訳はなるべく避け、日本語として自然な文体になるように工夫した」(二一一頁)とあるように、訳文は心を砕いて読みやすく仕上がっている。

 若干、気になった箇所を記しておく。”theory”は九二頁に「倫理説(ethical theory)」とあるほか後半では「説」、前半では「理論」と訳した箇所が多い。前半はメタレベル、後半は規範倫理学が主題のため訳し分けたのだろうか。原文でほぼ互換的に使われている箇所では”person”と”people”を神経質に訳し分ける必要もないが、やはり「人間の自律」(四頁、原著p.4。傍点引用者、以下同様)のように自律と組み合わさったときには「人格」のほうが適切ではないか。七頁、一三二頁などでは「人格」の訳語があてられている。道徳の判断が理由によって裏づけられている点を強調する著者がカントを論じるとき、”reason”は訳しにくくなるから、いささかこれは指摘するのに気の毒だが、「道徳上の判断は善き理性によって裏づけられて」(一二九頁)は「充分な理由」と訳すべきだろう。”impersonal”が両義的であるにしても、先行箇所(一六六頁)で「非私的」と訳した以上、後出箇所で「非人格的(非個人的、非私的)」(一七三頁)と多重に訳すと、原文でも括弧の訳語に対応する別の語が用いられているという誤解を招く。「急斜面の論理Slippery Slope Argument」(一三頁)に対して「滑りやすい坂道」が定訳だとはいえないが、「試験管授精(IVF)」(一四頁)は「体外受精」が定訳であろう。自他の利益が対立するときに自己利益の追求の義務と他者の同じ義務とが葛藤するので倫理的利己主義は矛盾に陥るという主張に対して、倫理的利己主義は他者の利益追求を義務とは認めないから矛盾を回避できると反論している箇所で、「この主張の論理によって、我々は倫理的利己主義を強制されるわけにはいかない」(九三頁)とあるくだりは、「否定しなくてはならなくなるわけではない」が適訳だろう(原文は”we are not compelled …to reject”)。「普遍化可能な格率に関する彼の規則は、行動について格率を立てるという視点からみて、その行動に関する適切な記述とみなされることを条件にしなければ、実は役に立たない」(一二五頁)というアンスコムのカント評は「その行動に関する格率を構築するためには、その行動を記述するのにどのような点を重要とみなすかを定めなければ」とでもしたほうがまだしも分かりやすくないか。”obligation”は「責務」と「義務」(例、一七〇頁)のふたつの訳語があてられているが、”duty”が頻出しているくだりでは、やはり一応、「責務」で統一したほうがよかったろう。

 しかし、これらは書評者としてあえて瑕瑾を求めたにすぎない。剛直な構成でありながら軽快に現代の倫理学の概観を描き出した本書をこなれた日本語で読める便宜を与えてくださった訳者おふたりの労を多としたい。

*古牧徳生・次田憲和訳、晃洋書房、2003年5月30日

 

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