人格的自我  ――フッサール自我論における

 

                        品川哲彦

『哲学』37号、日本哲学会、1987年5月1日、199-209頁

 

 

 一九一三年に出版された『イデーン』一巻のなかで、フッサールは彼の現象学の最も根本的な主題である純粋意識には、意識の相関項としての対象のみならず、これとともに純粋自我が必然的にともなっていることを言明した。以後、フッサールの現象学は同時にまた自我論としての様相を帯びることとなる。というのも、純粋意識こそがすべてがそこからくみ出される唯一の源泉であるのなら、全世界の構成が自我の遂行する意識作用(cogito)に還元されることとなり、それゆえ意識の問題をとりあげることが同時にまた、作用の遂行者としての自我の権能とその射程とを問うことにもなるからである。

 ここであらかじめ、以下の論述で問題とするフッサールの自我概念のいくつかをその学説の歴史的遷移にしたがって抽出しておこう。 

(1)、『論理学研究』初版における現象学的自我――ここでは意識体験の流れ全体が自我と呼ばれる。「初版では一般に意識の流れが『現象学的自我』といいあらわされた」(LU. II/1,353)(1)。

 (2)、『イデーン』一巻に代表される純粋自我――もろもろの作用を放射する極として、それ自身ではただ同一であるとのみ規定されうる空虚な自我。「対象との『関わり方』を捨象すれば……純粋自我はなんら解明しうる内容をもたず、単独では記述しえない。純粋自我ただそれのみである」(III,160)。

 (3)、『イデーン』二巻において人格としてとりだされた自我――自らの遂行した作用の成果を確信しつづける、習性をもった自我。「純粋自我の同一性はたんに私がどのコギトについてもそのコギトの同一の自我として自らを把握しうることにのみあるのではない。むしろ私は私の態度決定において必ず首尾一貫している限り、その点でアプリオリに同一の自我なのである」(IV,111)。

 これらの相異なる自我概念はフッサールの自我論の変化につれて互いに排除する仕方で取捨されていったのではなく、後続の自我概念が先のそれに(当然両者の自我性格の相異が自我の問われる問題連関の微妙な変化をひきおこしながらも)付け加わっていったと解することができる。この解釈を支えるフッサール自身の叙述は『デカルト的省察』のなかに端的に見いだされる(I100〜103)。そこでは、(2)の同一極としての自我、さらに(1)の現象学的自我の代わりに、しかしやはり体験流全体を表す概念であるモナドとしての自我が相隣接して語られているのである。

 しかし、その一方で、右の自我概念は一見したところ互いに相容れない二つの自我性格をはらんでいるようにみえる。というのも、(2)の作用の同一極としての自我はまさしく空虚であることにおいて、いつ、どこで生まれ、生きてきたこの私という性格づけを一切欠いた自我一般たらざるをえぬのに対し、(3)の人格とは他の人格とともに共同体の一員として特定の時と場所に生きているこの私の個体的な自我をいうものだからである。自我一般と個体的な人格、この二つの主観性を主張する哲学者をそれぞれ、フッサールと直接交渉のあったなかから選べば、まず一方にナトルプがいる。

 ナトルプはこう考える。何かが意識されるとは純粋自我と関わるということである。しかも意識される内容がいかに変わろうとも、右の関係は全く同一なのであるから、自我についてはただこの意識内容との関係という一点における自同性のみがいえる。自我が何であるかは意識されることもできない、と(2)。 むろんこの思想は「思惟する自我ということで表象されるのは……思考の超越的主観すなわちx以上のなにものでもない」(3)とする『純粋理性批判』における自我概念を源とする。

 ところで、一方、作用の遂行者として空虚な自我を挙げるこうした見解に全く反対する立場に、シェーラーがいる。シェーラーによれば、人格こそが作用の遂行者なのであって、個体的なるこの人格、あの人格に属することで作用は具体化される。いいかえればいかなる作用が遂行されようともこれに関わりなく留どまっている遂行者などというものはありえず、「どの作用においても、どの作用を通じても人格全体が『変化する』」(4)。

 では、このように互いに相拮抗する文脈で語られる二つの自我概念をフッサールの自我論がともに含んでいること自身はどのように解釈されるのだろうか。もちろんナトルプ、シェーラーとも彼ら自身の文脈で語っているのであって、これとフッサールを併置し比較しようとすれば、三者を包括する哲学史的文脈が用意されねばなるまい。だがそれは本稿の目的をこえる。私は以下の論述でまずフッサール自身の文脈を解釈することで右の問題を考察することにしたい。

 

 空虚な同一極としての純粋自我から話を始めよう。まず、一つの作用(たとえば知覚)に眼を向ける。そこでは自我が一つの対象のさまざまな側面から触発され、それに応じて対象のさまざまな側面に注意を向ける。だがこれが一つの体験をなすからには、それら多様なる触発は綜合されて一つの対象に帰せられねばならない。それに応じて多様なる注意もまた綜合され、それら諸注意の同一なる出発点として純粋自我が立てられる。すなわち対象の同一極の対極に、触発が入射し注意を発射する(フッサールはこれを二重の放射と呼ぶ)同一の極として純粋自我は示される。

 だが、この議論からとりだされた同一なる自我をフッサールは別の背景をもつ自我概念に重ね合わせる。つまり《自我はもろもろの体験においてもろもろの作用を遂行するが、それら多様な作用の対象からと対象へとの二重の関係をもつ点で同一なる極である》との結論が、対象からの触発の入射、対象への注意の発射の同一極としての自我との類比から直ちにひきだされるのである。だがここではもはや対象の同一は自我の同一に鏡映しない。対象は同一でなくともよいからである。代わりに自我の同一性を積極的に証明するものが反省だとされる。「純粋自我は純粋自我によって対象的に措定可能だ」(IV,101)。反省によって、たとえば想像作用において想像されたものに身を向けている自我が、想起作用において想起されたものに身を向けている自我が、ことごとく同一の自我として把握される。しかもそれら想像や想起における自我は今現実にある時点、ある空間点に位置する世界の一部ではなく、純粋に体験の内からとりだされたのだから純粋自我と呼ばれる。体験流のどの場面にも同一の純粋自我が立ち会っている。いいかえれば同一の純粋自我が反省によって見いだされることでその体験はその自我の体験流に属することが証せられる。

 だが真に純粋自我の同一性は体験流の統一の原理たりうるのだろうか。ここで、時代的には純粋自我に先立つ『論理学研究』における現象学的自我へとさかのぼってこの問題を考えよう。

 『論理学研究』ではそもそも純粋自我の存在が否定されていた。あるのは、経験的自我および個々の体験における経験的自我とその体験、外的対象との関わり(内的知覚・外的知覚)のみであって、個々の対象はこれを相互に結びつける自我原理なしにあたかも「部分が全体に接合するように」(LU.II/1,362 )融合して単一なる意識体験の流れの統一、すなわち現象学的自我を形作る。明らかにここで主題となっているのは、生成し消滅し流れ去る個々の体験なのであって、現象学的自我とは体験がそこへと組み込まれ、全体的背景をさすにすぎないのだ。だが、その体験流の一つ一つの体験に経験的自我が関わっているのだとすれば、この流れはある特定の時、特定の所に生まれ、生きてきた特定の個人の自我の体験流であることを免れない。単一なる体験流ということがすでに他の複数の体験流の存在を暗示しているのである。

 再び純粋自我に戻ろう。純粋自我の同一性は体験流の統一の原理たりうるか。しかし、かりに体験流の統一の根拠を純粋自我の同一に求めたとしても、この自我の同一はまさしく空虚であるゆえに再び、自我が同じ体験流に属していることでその自我の同一が保証されねばならなくなる。したがって純粋自我の同一性と体験流の単一性は全く相属的な概念であって、純粋自我の同一がいえてはじめて体験流の統一がいえるわけではない。むしろ、先に見た通り、フッサールの自我論の展開のなかでは体験流の統一の方が現象学的自我という概念で先行していわれているのである。そうしてそれは複数の体験流の存在を暗示していた。したがって、フッサールの純粋自我は体験流各々に一つずつ存在する個体的自我なのであって自我一般なのではない。だれのものでもない体験がない以上、実在の自我の数だけ純粋自我はあるのである。

 むろん、経験的自我と関わる現象学的自我と純粋自我と関わる体験流の統一とでは問題の差異はある。前者の主題が個別の体験であるのに対し、後者では体験流全体が(いかに来たるべき体験に対して開かれていようとも)統一として把握されうることの明示化が自我の同一性の導入によって図られたのである。しかし、自我が諸体験を束ねる留め金のようなものでないのなら、ここで積極的に切り開かれる問題は過去の体験が自我を介していかにして今の体験を規定するかとの問題であろう。ただしこの問題は空虚な同一性に留どまる自我の下では主題化されえない(本稿、三)。

 ところで、純粋自我の個体性という観点からは、前述の一つの体験における対象からの触発の入射極、対象への注意の発射極としての純粋自我はどのようにみなされようか。まず明らかなのは、マールバッハが「身体的に規定された自我」(5 )と呼ぶように、この自我が対象と身体との位置関係によって規定されていることである。すると、この自我はその固有の体験流と関わりなく個別の体験に留どまるなら、あたかも普遍的本質としての自我が身体の時空的位置によって事例化されるかのように、ただ身体の位置によってのみ個体化されることとなろう。のちにフッサールは私の自我の位置するここに対してそこにいる他者の自我を「私がそこにいるかのように」(I,147 )準現前化することで解明しようとした。これに対してヘルトはこの準現前化に固着する想像的性格を指摘することで、この方法では現実の他者に至りえないことを論証する(6)。 目下の関連からこの事態を解釈すれば、もともと個体的であるはずのフッサールの自我概念に自我一般に通じる自我把握が含まれていることがひきおこした矛盾ということができよう。

 以上、私は冒頭に抽出した三つの自我概念のうち、まず空虚な同一極としての純粋自我をとりあげ、この自我は二様に把握されている点と、『論理学研究』における現象学的自我との関連から自我一般ではなく個体的自我がフッサール本来の自我概念である点を確かめた。では、つぎに人格としての自我に考察を進めよう。

 

 どの体験においても、自我は対象について「このものはこれこれである」と意味づけし、判断を下している。他の対象へ自我が眼差しを向ければこの判断が下された当の体験は流れ去るが、この判断そのものは残る。というよりむしろ、これを廃棄するような動機づけが新たな体験の内に起こるまでは、この判断は確信された状態のままで流れのなかでずっと所有(Habe)されつづけ、その自我の習性(Habitualität)を形作る。いったいどの体験でも対象は意味づけられるのだから、習性の形成は知覚、想像、推論、評価、愛等あらゆる作用において(フッサール自身「恨みを抱く」などという例を出すほどである。IV,113 )行われうる。しかも、ここでいう判断は確信といいかえられることから明らかだが、つねに肯定された判断である。自我はこの判断において「然り、このものはこれこれである」とつねに肯定的に態度決定するのである。

 こうして形成された習性的確信はただ記憶のなかに沈澱してしまうのではなく、再びとりだされうる。同じ対象がまたも目前に現れた時には先の体験で形成された判断が改めて下される。複数の体験時に同じ判断を下すとは自我が態度を首尾一貫しているということであって、ここに自我は空虚な同一性ではない、習性によって規定された内容ある同一性を獲得することにある。

 さらにまた重要なことに、習性は同一対象に対してのみならず、また類似の対象に対しても機能する。たとえば、見も知らぬ物はその形状が似ている既知の道具についての判断からその用途が確信される。あるいはまたその材質からそれが宗教的象徴として用いられていたのではないか等の類推が及ぶ。むろんそうした確信、類推は荒唐無稽な場合もあるのだが、逆にまたいかなる高度な学的認識の根底にもそうした確信や類推が働いていることは否定できない。こうした場合には、習性が新たな体験のなかで現れてくる未知のものを既知の地平のなかにとりこませているのである。したがって、習性を介して先の体験は後の体験における自我の行う意味づけを規定する。体験流のなかで先なる体験は後なる体験を規定せずにはおかないのだ。

 異なる体験時にある動機に基づき、自我が主体的に下す判断、態度決定の習性化したスタイル――それが人格を形作る。「人格としての自我は作用の瞬時的な構成要素たるego ではなくて、従来の作用すべてを遂行してきた、その限りでこれら作用の内に[いかなる]動機に自らを服せしむる[か]そのあり方を示すその自我である」(XIV,18)。 この習性化したあり方によって、人格は自らにも他者にも同一の人格として把握されることが可能となる。たしかに習性はきわめて陳腐なものである場合もある。しかし、たとえそうであっても、その自我が自らの体験流においてそれを形成してきたのだからそれは紛う方なく彼固有のものであって、流れのなかで蓄積された「個体的『歴史性』」(XV,631 )を負うている。だとすれば、人格としての自我という自我概念においてこそ、フッサールの自我概念が本来含蓄していた、流れの統一に由来する個体性はその実質を獲得したといえる。なぜなら、そこでは自我の個体性が、特定の時と場所に生まれ、生きてきた自我が特定の体験時に形成してきた習性という具体的、事実的徴標をもって示されたからである。

 さて、フッサールの現象学の最も根本的な概念は《体験はすべて何かについての体験である》とする志向性の概念であった。この志向的体験において自我が果たすべき役割は、個々の体験において対象を「何」として意味づけること、このことである。この観点から人格としての自我がもつ意義をみてみよう。

 未知の対象が既知の地平のなかにとりこまれていくこと、あるいはまた、同一の物が同じ意味を付与されつつも、異なる個体的歴史性をもつ自我によって別様のニュアンスをもって受け入れられること等、意味づけに関するさまざまな具体的問題を解明しうる端緒を人格的自我のもつ習性的確信に求めることは可能である。

 また、対象に付与される個々の意味は歴史的に生成してきた意味連関の背景をもつ。それゆえ、私の行う意味づけは全く私自身の創意によってなされたにしても歴史の蓄積を揺曳しているにちがいない。「私が自らオリジナルに(原創造して)産出したものは私のものだ。だが私は時代の子である」(XIV,223)。歴史伝統のうけつぎという問題についてフッサールが触れているのが人格に関する草稿であることは注目に値する。というのも、先行者の自我、同時代人の自我が為した意味づけの沈澱である伝統を問題としうるのは、ある時代を生きる個体的自我としての人格としての自我に関してだからである。「どこまで私は現実に原創造的であるのか?」(ebenda)。私の解釈では、自我が主体的に、顕在的に意識して「然り」と態度決定しつつ、ある判断を下す時に、その判断が成立するために必要な、しかし隠れている諸判断として歴史的に生成してきた意味連関が自我にうけつがれていく事態が考えられる。しかしその時でさえ、後の反省が示すように、それら隠れた諸判断は体験流に属している(なぜならそれら諸判断なしには先の判断も下せない)のだから、自我は非顕在的にではあれ「然り」と態度決定して伝統をうけつぐのである。(7)

 ここで注意したいのは、人格としての自我は彼が体験流において築きあげてきた習性に規定されてはいるものの、しかし全く受動的、すなわち一義的に規定されているのだはないということである。たしかに習性は過去の作用の沈澱であって、「どの自発性も受動性の内に沈退する」(IV,333 )からには習性も受動性の内にあるのだが、フッサールの自発性(能動性)・受動性の区分はそもそも「固定してはいない」(EU,119 )のであって、実際、習性的確信についても、先に述べた通り、新たな体験において再び確信されることで再能動化するのである。いいかえれば、習性的確信が機能するにはそれに対する再度の「然り」が必要なのであって、そのことは逆に、「否」という態度決定も可能であることを示す。したがって、自我は歴史伝統のみならず自らの過去によっても全く篭絡されることなく、自由の余地を残しているのである。自我が一義的に規定されるとの誤解は、諾否の自由のある動機づけと自由のない連想との混同から生じる。この点では、習性の形成を自我の関与なき受動的な沈澱によるとする解釈(フンケ)(8 )は誤っている。人格としての自我は体験の流れのどの場面においても、従来の確信を否定し、それまでとは別様のあり方への転回を果たしうる自由な自我なのである。

 だが、しかし、このことが概念上再び人格と自我との区別をひきおこす。すなわち一方に「必然的に発展し、発展してきた」(IV,349 )自我がある。他方、いかなる発展段階においても、その発展段階の規定性から自由でありうる点で同一でありつづける自我がある。体験流の諸時点を通じてのその同一性から後者はまた純粋自我と命名される。同時に前者は人格と呼ばれる。しかし、だからといって、この区別で作用の遂行者とその対象との区別がいわれているのではない。一なる人格としての自我の二面性が概念上区別されねばならぬことのみがいわれているのだ。この二面性を負うて自我はことごとく人格的自我(personales Ich )である。「純粋自我はしかしまた人格的自我の内に含まれている」。(9 )だが、それは分離可能にではない。「人格的自我のcogitoのどの作用もまた純粋自我の作用である」 (10) 。

 純粋自我と人格的自我が絡み合いつつ、その一なる生を進んでいくさまを、フッサールはこう記している。「どの新たな作用も私に対して持続的存在を生み、私がまさにそのつどそこにおいてのみ存在する、新たな『習性的』固有性に関して私を豊かにする」 (11) 。自我が体験を重ねるにつれて習性的確信は増していく。その確信に規定されて人格的自我は未知の対象を既知のなかにとりこむ。その成功が再び確信を生み、しだいに世界は人格的自我にとって見通しの利く、慣れ親しんだもの、習性を自由に適応しうるものに化していく。――事態を肯定的に解釈すればこうであろう。

 しかし、先のフッサールの記述からすれば、習性が「豊か」になりゆく傍らには大きな淵がつねに控えている。というのも、習性には未知のものを既知化するためにさらなる補填を求めてやまぬ不足がたえず付きまとっていることになるからだ。さらにはまた、未知のものによって従来の確信の無効が宣せられ、改変を迫られる可能性もないではない。自我はこの不足とそこからくる不安を克服すべく既知の領域を広げようとする。しかしそうして得られるのは新たな段階のまたしても規定された状態である。習性は体験の進行にしたがって形成されるがゆえにつねにある限定された段階にしか達していない。したがって、新たな体験における新たなものを習性をもって解釈する自由は、同時にまた、新たなものが既存の習性によっては解釈しえないかもしれない限界、ひいては従来の確信の否定を余儀なくさせられるかもしれぬ限界、少なくとも新たな確信を形成せざるをえぬ限界を宿している。そうでなければそもそも習性が「豊か」になる必要もないのである。豊かな習性はつねに乏しき習性にほかならず、しかしまた、個々の乏しさは体験の進行とともに満たされ、習性は豊かとなりうるのでもある。

 が、こういったからといって、人格的自我が混乱した概念なのではない。むしろ、この習性の豊かさと乏しさの反転現象は「人間が世界に対する主観であると同時にこの世界のなかの客観であること」(VI,184 )の避くべからざる逆説なのである。もし、自我がいかなる事実的制約にも規定されることなきcogitoの主体であるのなら右の反転現象は生じない。もし自我がその状況に主体性なく全く制せられるとしても右の反転現象は生じない。いわんやこの現象は、習性の導入によって、透明であるはずのcogitoが事実的なものに制せられて、曇らされたことを意味するのでもない。自我は主体として習性を持つ(haben )のである。とはいえ、任意に取捨選択しうるしかたで持つのでもない。さしあたりはほかならぬその特定の習性を条件=制約にして個々のcogitoを遂行する自我として、自我は各々ことごとく人格的自我なのである(sein)。

 

 右にとりだした習性の豊かさと乏しさの反転現象は、しかし、現象学がとりわけ関心を向ける具体的体験の場ではどのように示されるのか。最後にこの点について検討しよう。

 この反転現象を帯びた人格のあり方はフッサールを目的論へと導いた。フッサールによれば、人間は「真の自我、自由自律の自我」へ自己形成する。彼に生来の理性と自己との同一、「理性 -自我」を実現しようとする(以上VI,272)。だが、習性の有限性からして理性の自己実現という目的へ向かう自我の歩みは永久に途上たらざるをえない。その点で人間は「目的論的存在、当為的存在」(VI,275) なのだといえる。

 たしかに、この目的論的見方からは、自我がある特定の事実的制約に規定されていることではなく、そもそも一般に何らかの事実に規定されざるをえない、つまり特定の事実ではない事実性(Faktizität) という自我の本質的特性が示されている。だが、達成されぬ理念から省みる目的論では自我の置かれている現状は当然ながら否定的にしか見られない。これと習性が豊かになっていくとの見方は調停できない。それでは反転現象が一生のスパンに拡大されてしまうだけだ。いや、この反転現象が積極的意味をもつのは、習性の限界が露呈され、それに駆られて自我がその限界を克服していく動的過程だろう。とすれば、ある特定の具体的体験、即ち的論的歩みの個々の一歩に話を戻さねばならない。そして、限界、つまり習性の乏しさの露呈の端的な例には、確信の否定される場面が挙げられる。

 ところでフッサールは受動的に形成された過去把持の否定についてこう述べる(EU,94ff)。ある知覚体験において対象が一様に赤であると期待していたとする。ところが実際に与えられたのは緑である。だが、この場合にも知覚意識の統一は保たれる。というのも変更を迫られた対象的意味の該当箇所は《赤ではなくて緑》という形で保持されるからである。赤は緑に「打ち倒さ」れているが、しかし、赤ではないという性格を付されてなお残り、知覚体験は調和して(einstimmig)進んでいく、と。ここではすべてがうまくいっている。打ち倒された信念さえもが滞りなく自我の所有に併呑されている。

 なるほど受動的に進行する綜合についてはそうもいえよう。だが、主体的になされるはずの従来の人格の否定についても、フッサールの叙述では、否定は滞りなく進むように解される。「ある[人格の発展の]転機wまで自己を自我として調和的に見出す同一の自我は……[w]以降も引き続き、調和の及ぶ限り明証的に同一のものとして自己をつねに見出す。それゆえ転機の後も自我が理念的可能性のどの分岐を選ぶとも同一の自我、数的に一のままである」(XIV,147)。 ここで調和=同一を保証するのが体験流の統一であるのはいうまでもない。しかし人格的自我の同一が流れの同一のみならず、その習性の首尾一貫性でもある以上は、流れの同一とは別に、いかにして首尾一貫性に破綻が生じ、転機が生じたかがいわれねばならない。けれども、フッサールではこの問題が主題化されていないように思われる。

 ではこの問題の解決はいかなる枠組みのなかで見出されようか。それを確認して小論をしめくくりたい。

 まず確認すべきは、習性がそこで機能する当該の体験と流れのなかで形成された持続的統一としての習性的確信とは同じ流れのなかに属するものの、後者が前者に先行していることである。ここで全く先行的確信を欠いた単純な知覚を想定することはできない。いかなる知覚も流れのなかに属するからである。しかしまた、先行的確信のありようは直接には明示されない。なぜなら個々の体験において眼差しが向けられるのは対象にであって習性にではないからである。したがって、確信の否定は個別対象における思念の否定(Enttäuschung) によってはじめて示されるになる。対象、世界が私たちに向かってがらりとその相貌を変えるのは、対象の意味づけを深く規定している確信にそのような否定が起きた時である。ここで明るみに出されるのは、滞りなく進行していく意味づけが否定、あるいは阻害されることで気づかされる、習性的確信という先行理解の構造なのである。

 フッサールでは確信のこうした構造化は看過されていた。その証左の一つに、彼が習性を表す語(Habitualität)を複数に用いて個々の確信を意味せしめていたことが挙げられよう。だが、いうまでもなく、ある人格を規定する習性とは個別の確信の総和なのではない。その人格の内面を告知する、その人格固有の主体的態度決定を促すものなのである。

 しかし、確信の構造の探究はフッサールの指し示した研究領域を基本的に逸脱するものではない。これまでの叙述を遡ろう。フッサールの自我論は、純粋自我と人格という相異なる性格の自我概念をともに含みつつ(一、二)、しかも両者を契機とする動的な過程として自我を見ることで、世界に対しつつ「習性(habit)によって世界に住まう(inhabit)」(12)人格的自我の二面性を捉えていた(三)。習性的確信の構造の探究は、ノエシス的には、自我のなす意味づけに意味のいかなる歴史が沈澱し、規定しているか、また、(異なる文化との接触、宗教的転向まで含めて)自我の意味づけを改めしむる態度変更の問題を、これに対応して、ノエマ的には、世界に存在する存在者の意味の複層性の問題を扱う。そのことで具体的体験における自我と世界との関わりを探る現象学の一研究をなすのである。

 

(1) フッサール全集からの引用箇所は、巻数をローマ数字で、ページ数をアラビア数字で本文中に付記した。また、LU.II/1は、 Logische Untersuchungenの改定版第二巻第一分冊、 EUはErfahrung und Urteil, PhB版の略号である。引用箇所のページ数は最 も古いページ付けによる。

(2) ナトルプについては、LU.II/1,359ff, 『フッセルの「純粋現象学考案」』(細谷恒夫訳、岩波書店)、Iso Kern, Husserl und Kant, den Haag, 1940, S.361ffを参考にした。

(3) Kant, I., Kritik der reinen Vernunft, A346

(4) Scheler, H., Der Formalismus in der Ethik und die mate riale Wertethik, Bern, 1980, S. 384

(5) Marbach, E., Das Problem des Ich in der Phänomenologie Husserls, den Haag, 1974, S. 184

(6) Held, K., "Das Problem der Intersubjektivität und die Idee einer phä nomenologischen Transzendentalphilosophie", in Phaenomenologica Bd. 49, den Haag, 1972, S. 34ff

(7) 拙稿「フッサールにおける習性の問題」(『関西哲学会紀要』 第二十一冊、一九八七年)

(8) Funke, G., "Gewohnheit", in Archiv für Begriffgeschite Bd. 5, Bonn, 1961, S. 535

(9)(10) Husserl, E., Manuscript A, VI, S. 21,  Marbach, a. a. O. S. 105 による4。

(11) Husserl, E., Manuscript A, V, 5, S. 9, Brand, G., Welt, Ich und Zeit, den Haag, 1955, S. 105による。

(12) Ricoeur, P., Husserl, An Analysis of his phenomenology, Evanston, 1967, p107

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