教養教育カリキュラム改革について

  2002年2月21日の中央教育審議会答申に際して

 

 

品川哲彦

社会哲学研究会C分科会、2002 Mar. 31、キャンパスプラザ京都

(この発表は、財団法人倶進会特定助成「21世紀の大学における“新”教養教育の構築

教養教育の目標の明確化および継続的改善のための具体的方策の確立」 

第1回「21世紀の“新”教養教育の構築」公開シンポジウム

2002年3月11日、市谷ヒルサイドホテル、

で行なった講演「教養教育改革をどのような視点で解釈するか」に加筆したものです)。

 

 

☆概 略

1.中教審の教養教育に関する答申について

 1.1 答申全体の文脈

 1.2 大綱化以来の教養改革への批判

 1.3 大学における教養教育への提言

2.教養教育の歴史的な位置づけ

3.私自身の経験したカリキュラム改革(例 和歌山県立医大の改革、広島大学における非専門性、総合性・学際性を目標とする広島大学のパッケージ別科目群)

 

1:

1.1

 本年(2002)年2月に、中央教育審議会が「新しい時代における教養教育の在り方について(答申)」を出しました(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203.htm)。私見では、この答申は、

(1). 教養教育を生涯教育のなかで位置づけている。

(2). そのなかに、大学における教養教育が位置づけられているが、

 a. 1991年の大学設置基準大綱化以来の教養改革にかなり率直な批判が展開されている。

 b. 教養教育の再構築が強調され、「教養教育重点大学」の認定、一部の大学へアメリカのリベラル・アーツ・カレッジへの転換を奨励しているなど、今後の大学改革にかなりつっこんだ示唆をしている。

 という点で看過できないものと思われます。

 さて、この答申は、2002年5月29日の中曽根弘文文相(当時)の諮問に答えるものです。そこで、まず、諮問の内容をみておきましょう。

2000(平成12)年5月29日、中曽根弘文文相(当時)の諮問:

 I.これからの社会に求められる「教養」とは何か

 II.教養教育の視点からみたこれまでの教育改革の成果

 III.教養教育をいつ、どのように行なうか

 ついで、諮問に対応させて、答申の骨子をみていきますと、おおよそ、次のような内容になっています。

 まず、「I.これからの社会に求められる「教養」とは何か」。答申によれば、「新しい時代の教養」とは「自らの立脚点を確認し,今後の目標を見定め,その実現に向けて主体的に行動する力」であり、ひとりひとりがそれをもつことが「品格ある社会」の実現につながる。具体的には、

(1)社会とのかかわりの中で自己を位置付け,律していく力,向上心や志を持って生き,より良い新しい時代の創造に向かって行動する力

(2)我が国の伝統や文化,歴史等に対する理解を深めるとともに,異文化やその背景にある宗教を理解する資質・態度

(3)科学技術の著しい発展や情報化の進展に対応し,論理的に対処する能力や,これらのもたらす功罪両面についての正確な理解力,判断力

(4)日常生活を営むための言語技術,論理的思考力や表現力の根源,日本人としてのアイデンティティ,豊かな情緒や感性,すべての知的活動の基盤としての国語の力

(5) 礼儀・作法など型から入り,身体感覚として身に付けられる修養的教養

 以上を「総括すれば,新しい時代の教養の全体像は,地球規模の視野,歴史的な視点,多元的な視点で物事を考え,未知の事態や新しい状況に的確に対応していく力」を教養の説明としています。

つぎに、「III. 教養教育をいつ、どのように行なうか」。前述のように、答申は生涯教育として教養の修得を捉えていますが、そのうえで、全体を貫く指針として、

(1) 学ぶことやより良く生きることへの主体的な態度や何事にも真摯に取り組む意欲

(2)膨大な情報の中から自らに必要な情報を見付け,獲得し,それを新たな知識へと統合していく知的な技能

(3)異文化との接触を通じて,自己を考え,確立するとともに,自らとは異なるものを理解し,尊重し合いながら共に生きる姿勢

 をあげています。

 以下、 幼・少年期(〜12,13歳)、青年期(14,5歳から社会人)のうちの高校に関する部分、成人期を抄録しますと、

1 幼・少年期における教養教育

 地域・家庭での教育が(一面では学校週5日制も要因となって)重視されている。とくに、「我が国の伝統的な生活習慣などの「生活文化のかたち」を積極的に子どもたちに伝え,基本的な社会道徳,豊かな情緒等をはぐくむこと」、「家庭での絵本や昔話の読み聞かせ,年中行事や地域行事への参加,テレビやゲームの時間の制限などの「我が家の決まり」づくり」などが目をひく。

 一方、学校教育については、「基本的な事項の徹底のための反復練習,個別の家庭学習課題の設定,放課後の個別指導,社会人や大学生等のティーチングアシスタントの活用,中学校・高校の教員の小学校・中学校での指導への参加」「学校の教育活動の自己点検・評価,全国的な学力調査の実施とその結果を踏まえた改善策」が目をひく。その一部として、教員の力量向上のために、教員の自己研鑚のほか、「社会体験研修,ボランティア体験研修,青年海外協力隊等への派遣」や「保護者や地域住民への授業公開,勤務評定方法等の工夫,表彰制度や特別昇給の実施など評価の推進」を提言。

2 青年期における教養教育

 高校における教養教育の目標として、論理的な思考力および表現力がまずあげられ、そのほか細かな示唆として、「死や病,挫折など喪失感をもたらすような人生の側面を学び,考える機会の充実」、「学校内外でのボランティア活動,多様な芸術文化活動やスポーツ活動など地域や社会での体験活動」、「海外留学の奨励,宗教を含めた諸外国の文化を理解するための指導事例集の作成,高校卒業時点で外国人と日常の会話ができる程度の力」があげられている。

 高校卒業後との関連については、「インターンシップの推進,「高大連携」の推進」がいわれている。

 答申はこのあとに大学における教養教育について語っているわけですが、それは後述することとして、そのあとの段階については、

3 成人の教養の涵養

 子どもの手本となるべしというトーンで生涯学習を強調(「親としての心構えや役割を学ぶ,老いや死などについて学ぶ,地域活動の在り方について学ぶ,社会生活に必要な経済知識を身に付ける,社会人が学位取得を目指して学ぶ」)。自己学習や地域貢献のために就業制度の柔軟化、社会人入学、NPO、町づくりに言及しているほか、「書評や論壇時評などの評論機能の重視,専門的な内容を分かりやすく解説した新書の発刊などマスコミにおける取組の要請。多様な主体による優れた書籍,雑誌,映像作品等への助成や顕彰の奨励」と、幼・少年期の教育で国語力の充足を強調したのと対応してか、出版文化の復活を推進しているくだりもあり。

 

1.2

 さて、いよいよ、大学における教養教育ですが、最初に述べたように、この答申は、これまで、大綱化の「いきすぎ」と評されていたことで、大学教員には目新しい内容ではないとはいえ、大学設置基準以降の教養改革についてかなり明確な批判を提示しています。批判されているのは大学側ですが、むしろ、これだけ問題点が明確であるなら、大綱化そのものにmisleadingな面があったといわざるをえません。

中教審答申が指摘する、大学における大綱化以降の教養教育の問題点(=諮問IIへの答申)

(1)教養教育の位置付けをあいまいにしたまま,教養教育に関するカリキュラムを安易に削減した大学が存在すること

(2)教養教育に対する個々の教員の意識改革が十分に進んでおらず,ややもすれば専門教育が重要で教養教育を面倒な義務と考える教員が存在すること,また,教養教育を担当する教員が積極的に取り組むインセンティブが不十分なため,具体的な教育方法や内容の改善が進まないこと

(3)教養部に代わって設置された教養教育の実施組織の学内での責任体制が明確でなく,その結果,教養教育の改善が全学的取組となっていないこと

(4)学生の側に,教養教育を含め学部4年間の教育に対する目的意識が明確でなく,教養教育に熱心に取り組む意欲が乏しいこと

 

1.3

 それでは、以上の批判をとおして、中教審が今後の大学における教養教育に求めているものは何か。大別して、いくつかの項目に整理しますと、

(1)教養教育の「再構築」の強調

 「各大学は,それぞれの教育理念・目的に基づき,新しい時代を担う学生が身に付けるべき広さと深さとを持った教養教育のカリキュラムづくりに取り組む必要がある」。「さらに,各大学には,自らの教養教育の理念を教職員や学生に簡潔かつ明確に示す努力が求められる。教養教育のカリキュラムのねらいを学生に十分に理解させた上で,授業科目について履修すべき順序を示したり,領域ごとに一定の履修要件を課したり,副専攻のような形で一定のまとまりを履修させるなどの仕組みも必要である」。

(2)教養教育へのインセンティヴを高めようとする提言と表裏一体となる大学の種別化の促進

 「教養教育の改善充実に先導的に取り組み,他の大学の模範となる国公私立大学に対し,「教養教育重点大学(仮称)」として思い切った重点的支援を行う仕組みの導入が求められる」。

 「大学等の高等教育機関が個性的な発展を目指す中で,例えば,大学が米国のリベラルアーツ・カレッジのような教養教育を中心とした大学に転換したり,短期大学が米国のコミュニティ・カレッジのように地域と連携協力して,多様な学習機会を提供する学科を設置する場合の支援方策の検討が必要である」。

(3)学際的・総合的科目の設定

 コンピュータによる情報処理能力や外国語の運用能力のほかに、分野横断的な授業が推奨されている。

各大学は,理系・文系,人文科学,社会科学,自然科学といった従来の縦割りの学問分野による知識伝達型の教育や,専門教育への単なる入門教育ではなく,専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や,人間としての在り方や生き方に関する深い洞察,現実を正しく理解する力の涵養など,新しい時代に求められる教養教育の制度設計に全力で取り組む必要がある」。

学際的なテーマを複数教員で担当する,実験や実習を取り入れる,和漢洋の古典を中心とした「グレートブックス」の読破を求める,50分授業を週に複数回実施するなどの授業内容・方法の改善」。

(4)教養教育を立案・運営する組織の充実

 「教養教育の責任ある実施体制を整備することが不可欠である。例えば,教養教育の全学的な実施・運営に当たるセンター等が,単なる調整役にとどまることのないよう,カリキュラム管理や効果的な教育方法等に精通した人材を得て明確な責任と権限を有する機関として位置付けることなどが求められる」。

(5)ひとつの大学のなかに教育を囲い込まない方向を推進

国内外でのボランティア活動,インターンシップなどの職業体験,留学や長期の旅行などを通じて得られる教養も重要。大学を休学しての長期間のボランティア活動や職業経験後に大学に入学し直すなどの「寄り道」の意義を積極的に評価すべき」。「複数の大学の共同による教育プロジェクトへの積極的な支援」。一方、インターンシップが大学卒業後との関連だとすれば、大学入学前との連携では、「高校生が大学で学んだり,大学の教員が高校で教えたりする「高大連携」の推進も求められる」とも提言している。

 このように、答申はかなり具体的に指針を出しているわけで、とくに、「大学の種別化」のくだりでは、現在、旧帝国大学をはじめとする大学院重点化の流れにのれない大学は、むしろ、教養教育にこそ活路を見出そうとする契機になるのではないかと思います(むろん、大学院重点大学になるのとは異なる、それにまさるとも劣らぬ努力が要るでしょうが)。

 

2:

 しかし、いったい、この答申の提言はほんとうにタイムリーなものなのか。これまで改革をせまられつづけてきた教養教育がリベラル・アーツを手本とすることで好転するのか。ここで、大雑把に、欧米の大学における教養教育をみておきたいと思います。清水畏三・井門富二夫編『大学カリキュラムの再編成』玉川大学出版部、1997年を参照すると、欧米の大学における教養教育の改革は、だいたい、四つか五つの段階に分けて考えられます。

(1)18世紀〜19世紀後半:

 中世以来のliberal artsを基本とする大学(例 オックスフォード大、ケンブリッジ大など)と専門細分化していく科学に対応したdisciplineを骨格とした大学(例 ロンドン大、エジンバラ大など)とが対立する。それによって、

  ⇒ @大学では教養教育 + 専門的研究は大学院やprofessional schoolなどで行なう

    Aa 教養教育は中等教育(例 フランスのリセ、ドイツのギムナジウム)に任せ、大学は専門学科化

    Ab 教養教育を担当する部門が大学のなかに残り、他の学部と並立して学部化(教養学部or哲学部)

というふうに分化していく。

 大雑把にいって、ドイツ・フランスなどの大陸モデルはAを、イギリス・アメリカは@をひきつぐ。

 しかし、アメリカの場合は、「民主国家を担う市民の形成」という目標のもとに、大学が教養教育をひきうけたので、大陸モデルともイギリスモデルとも異なり、大学の内部が二層化(教養教育+専門(=職業)教育)している。

 日本はドイツの方式に倣ったが、教養教育をじゅうぶんに展開しうる中等教育を作り上げなかった

(2)1920s-1950s(とくにアメリカ):

 disciplineはさらに細分化。その反動として、大学教育のidentityと統合とを確保するために、さまざまなタイプのカリキュラムが形成されていった。

  コア・カリキュラム(「文化・文明」「人間のあり方」を共通テーマにして授業科目を結びつける)

  グレート・ブックス(古典的書物を精選して読ませる)

  レッド・ブック(人文・社会・自然科学に基礎教育科目を整理し、専門科目をその上に位置づける)

などである。一方、こうした全学部共通の教育システム構築のために、管理運営面では、教務部長=副学長(dean of studies)制度が導入される。

 日本では、第二次大戦後、アメリカのシステムから一般教養教育が導入された。この「一般」は、人文・社会・自然科学を広くとるという意味でうけとられたが、「教養教育」を中等教育の完成段階に位置づけて、教養ある市民を要請するという発想は根づかなかったのではないか。むしろ、大学の内部の教養教育は大学の内部の専門教育の前段階としかみなされなかった。

(3)1960s(とくにアメリカ):

 カリキュラム全体が学際的枠組み(例 地域研究、認知科学、行動科学、政策科学など)に再構造化される傾向。

 学生運動。授業選択の自由の増大。従来の専門的学問を批判する知的営為の導入(例 フェミニズムなど)。

(4)1970s初期(とくにアメリカ)

 教養教育はしだいに職業教育に侵食されてきたが、一方で、従来の職業教育を使命とする大学観にあわないほど、大学の大衆化が進みつつある。カーネギー高等教育審議会がカリキュラムの断片化を批判し、大衆化のなかでの大学の意義の再検討を問う。

(5)現在

 インターネットをはじめとする、従来の知識伝達とは異なる学習環境の変化。

 大学生のレベル低下。(分析的思考、批判的思考、文章作成能力などは、アメリカでも低下が指摘されている。そのための1年生セミナーの導入)

  *日本では、答申も指摘しているように、高校カリキュラムが大綱化されるので、今まで以上に、remedial(補習教育)が必要でしょうが、しかし、たんに補習だけしているなら、大学は高校の延長にならざるをえない。

 以上のような流れをみてくると、近代日本の高等教育にはこれまで、そもそも、教養教育についての確乎とした像がなく、したがってまた、適切な位置づけもなされていなかったといわざるをえません。それを考え合わせれば、答申の示唆するような、リベラル・アーツ・カレッジへの転換、また、グレートブックスを選定して学生に読ませるなどの提言は、ただちに実をむすぶものともとうてい期待できません。われわれはもう少し根底と系譜のしっかりしたしかたで教養教育の再構築を考える必要があると痛感します。

 

3:

 さて、以下、私自身が関わってきた教養教育改革の具体例に言及します。

 私は1989年、平成元年に和歌山県立医大に就職し、1993年から1999年まで広島大学総合科学部、1999年から関西大学文学部に勤めております。つまり、最初は、公立大学、医学部のみの単科大学で教養部の教員をしており、つぎに、国立大学、総合大学、教養教育の主たる責任部局で、しかも学部専門教育と大学院も担当し、現在は、マンモス私立大学で、ほとんど教養教育を担当せず、学部と大学院で教えています。和歌山県立医大と広島大学では、カリキュラムの改編に委員として関わってきました。その間の経験をもとにお話しします。

3.1

(3−1)

単科医大+進学課程(教養部に相当)+公立大学における教養改革のひとつのケース

   (1)教養教育の圧縮(一般教育64単位→全体で188単位)  (2)前専門性に位置づけられる教養科目の導入

   (3)((1)と(2)とから生じてくる)非専門性の削減=授業選択の幅の減少

   (4)((1)→)教員組織のrestructuring

・和歌山県立医大でカリキュラム改革に関わって得た印象

 (a) その大学の理念の明確化が必要 →各大学みずから自分自身の機能・位置づけを差異化

         (もっとも、教員は自分が受けてきた大学教育に固執する傾向が強いのだが)

 (b) 学生のmotivation ∝ 選択の自由(?) ←→ その大学独自のコア・カリキュラム

 (c) 職能の獲得 プラス 市民としての教養 ←→ 市民(社会人?)たること プラス 職能の獲得

 

 私は1989年に和歌山県立医大に就職し、翌々年、1991年の大学設置基準の大綱化をうけて、カリキュラム委員として教養教育の改編に関わりました。医学部では、医学の細分化とともに専門課程で教えるべき知識の量ははるかに増大しており、かつまた、国家試験で臨床能力が問われるようになったのをうけて臨床実習をはじめとする専門教育の時間数を増やしたいという要望が強くあります。その状況下で、上表にありますように、大綱化で教養教育の制約がはずれたわけです。すると、どのようにカリキュラム改革は進んでいくか。ひとつには、専門の前段階=前専門性に位置づけられた教養科目が導入されます。実は、着任して間もない私がカリキュラム委員だったのも、90年から医学概論が教養教育のなかに設置され、私はそのコーディネータのひとりだからでした。医学概論という科目は医療の倫理を含んでおり、そのために哲学・倫理学の研究者である私が関わったわけですが、ですから、この科目自体がすでに専門以外=非専門性への広がりという意味も帯びていました。医学概論のほかにも、新入生に医療現場を体験させるearly exposure、学習意欲を高めるための少人数の教養ゼミが新たに導入されました。しかし、これらの科目は一面では専門への広がりをもちうるものの、やはり、医者の育成という目標のもとに包摂されており、したがって、前専門性にも属しています。他方、純然たる非専門性の科目は削減されます。ですから、全体としての教養教育は圧縮されます。私が勤めていた大学では、教養課程は2年から1年半に圧縮しました。当時調べたなかでは、1988年から全国の医学部に先駆けてカリキュラム改編に着手した東海大学医学部が授業数で換算すると教養だけでは1年弱でありました。

 教養教育の削減は、教員サイドからすれば、教員組織のリストラクチャー、大学全体のなかでのポストの再配分を意味しています。私が就職した時点では教養教育担当者は17名でしたが、現在は11名です。平行して非常勤講師の削減も行なわれました。すると、授業の選択の幅も減っていくわけです。教養改革を調べる場合には、たんに明文化された理念や履修単位数だけではなく、教員配置も調べないといけません。その大学が「幅広い人間性の形成」をうたっていたとしても、非専門性の科目がどれほどあり、どれほどの常勤および非常勤でまかなっているか。あるいはまた、履修単位数や科目数はさほど減っていなくても、時間割上、同一の時限に非専門性の科目を配置していれば、実質的に選択の幅は狭められています。そういう調査をすることで、明文化された理念と実態の隔たりがみえてくるでしょう。次の資料は大まかながら医学部教育の典型を示しているものと思います。

 「医の倫理」や「医療心理学・医学心理学」も、ほかの教科のなかでふれられるだけで、独立して教えられていないという現実もわかってくる。その教科内容がどのような授業内容をとるにしても、医学生にとって直接にそうした教科にふれることのないのは残念であろう。とにかくその学問の入り口まででも医学生を案内すれば、あとは興味をもって理解を深める者が多いと思われるのである。

 結局、人文科学系の教科は、病院の実習や教授とのふれあいのなかから学んでもらうということであろう。しかし現実に、教授と医学生の接触はそれほど多いわけではない。(保阪正康『大学医学部の危機』、講談社文庫、2002年、258頁)。

 以上は医学部の例です。しかし、医学部の事情は、事情は、ある程度、一般化できるのではないかと思います。すなわち、職業と直結する学部である。その職業には資格がからんでいる。しかもその職業に期待される社会的役割は、現在、変化しつつある。このように一般化するなら、程度の差はあれ、たとえば、最近の工学部、また、ロー・スクールを設置したあとの法学部などでも、同じような状況が起こりうるかと予想できます。職業と直結する学部では、専門や職業の準備のために教養教育のその他の要素が犠牲になっていないか、専門以外への広がりをいかなるしかたで確保するか、学際性・総合性への芽はあるか、逆にまた、他の要素を圧縮してでも前専門性を優先するなら、その目標を達成するためにどのような効率的なカリキュラムを組んでいるか、また、そのカリキュラムはほんとうに実効的に機能しているか、といった視点が改革を評価する視点となるでしょう。

 日本の大学の数は増大しており、今後は機能、役割を分化していく方向にありますが、大綱化は、上からの分類ではなく、それぞれの大学がみずから進んで、あるいは、無意識のうちに差異化していく契機に思われました。私自身は、当時、勤め先の専門学校化を防ぎたいという気持ちが強くありました。同時に他の教員と議論するなかで気づいたことは、教員は自分が受けてきた大学教育をモデルにして考えやすいということです。総合大学の医学部の出身者に比べて、単科医大の出身者は選択の幅の少ないカリキュラムを容認する傾向にあり、ただし、留学経験のある場合はそうではないという印象をうけました。(われわれ教員が考える以上に、教育の効果は強いものです)。私自身は総合大学の文学部の出身者ですので、ほとんどの授業が必修の単科医大のカリキュラムをみたときには違和感を覚えました。が、これも自分の受けた大学教育へのノスタルジアにすぎないかもしれません。

 しかし、それでも、選択の幅がなければ、その授業を履修する学生の動機づけ、自主性も低下するのではないかという疑念をもちました。反論があるかもしれません。大学が育てるべき学生像を明確にもっている場合には、同じ内容のカリキュラムを教養として身につけるべきコア(核)として提供し、しかもそれを必修にするという選択肢もあるからです。どちらがいいかは一様には決められません。ただし、この問題は深い次元では別の選択肢に通じています。すなわち、まず、一人前の専門職に育てることを優先し、そのうえに、市民としての教養を身につけることを望むのか。それとも、これと逆に、まず一人前の市民ないしは社会人に育てることをめざすのか。一般に、職業と直結し、しかも職業が資格とからむ学部では、前者の傾向が強いと予想できますが、これも一概にはいえません。同じ学部でも総合大学と単科大学とでは違うかもしれません。あまり細分化すると収拾がつかなくなるのですが、こうした違いにも配慮する必要があると思います。

 

3.2

(3−2)

総合大学+教養教育の主たる責任部局で、学部専門と大学院も担当する+国立大学の教養改革の一ケース

 (1)理念の明確化(前専門性、非専門性、学際性・総合性)

 (2)旧一般教養科目を主題別に改編し、人文・社会・自然の三分野に横断して履修要件をつける(パッケージ別科目)

・広島大学でカリキュラム改革に関わって得た印象

 (a)理念は教員とともに、学生に説明しなくてはならない。→授業の自己点検での確認

 (b)授業科目群ごとの目標の明確化 ←→ しかし、技能+知識のほうが効果的なことも。

 (c)教員の意識改革  FD、top down方式の不毛

 (d)非専門性の意義をどのように説明するか

 (e)学際性・総合性の意味と履修学年 → 主題別学際的科目、capstone科目・・・

 

 さて、私は1993年から広島大学総合科学部に移りました。ここは、当時、11学部、入学者数は3000人で、単科医大とはだいぶ違います。私は1995年から学務委員であり、後述するパッケージ別科目の立案と実施態勢作りに関わりました。広島大学が新しい教養カリキュラムをはじめたのは1997年です。大綱化から6年たったのは、統合移転を待っていたからです。しかし、そのあいだに大綱化直後に行なわれた教養改革に対する批判が生まれていました。その批判は今なお続いており、さきほどみた中教審答申にあるとおりです。すなわち、(1)教養改革がたんに教養圧縮に終わりがちなこと、(2)教員の教養教育に対するインセンティヴが乏しいこと、(3)教養担当の責任体制があいまいなこと、(4)学生に教養教育への動機づけが乏しいことです。広島大学の場合、すでに20年余りまえに教養部を改組して総合科学部ができており、教養教育を担当していました。改革によって教養教育は全学部で分担することになりましたが、八割は総合科学部が担当し、(3)の責任体制はかなり実質があります。また、(1)では、教養教育の理念が要求されていますが、広島大学では、次のように、前専門性、非専門性、学際性・総合性という三つの目標を明確化しました。

 「教養」ないし「教養的」という言表の内実は、ある一定の時代状況の中で要請され、形成される人間のあり方を意味するいわば状況可変的なものであり、一義的に定義することは、極めて困難であり、逆に、一義的、抽象的な定義がある場合には、誤解さえ生じさせるものである。したがって、我々は、具体的に、今日の我が国における大衆化された高等教育機関としての本学における「教養的」教育の内実を、各学部の専門的教育との関連を考慮して、専門に対しての前専門性と非専門性、および学際性・総合性という用語を用いて提示した。すなわち、(1)前専門性とは、専門分化前に見られる共通的、基礎的な知識・技能の性格をもったものであり、(2)非専門性とは、具体的には、理工系の学生に対する人文社会系の教育を(その逆の場合も)想定した、いわば専門と異なる様々な学問に触れることにより、幅広い視野を培うものであり、(3)学際性・総合性とは、事象を多面的・全体的に把握する幅広いものの見方を求めるもので、これら三者により、生涯学習化、情報化、国際化の著しい今日的諸課題に新たな知の展開をもって柔軟に対応し得る能力と態度を養うことを目的とするものである。(『広島大学における教養的教育の改革』平成9年3月、27頁)。

 理念は、教員はもちろん、学生にも共有されねばなりません。上記の三つの目標にしたがって、授業科目群それぞれの目標を明示すれば次のとおりです。

 

授業名称

その授業の目標

めざす目標

共通科目

教養ゼミ 

大学で学ぶにふさわしい態度を身につけ、自分で考える力、考えを表す力を伸ばす 

とくに、前専門性

外国語科目(英語) 

国際人としての能力と研究資料や文献の読解力を身につける

とくに、前専門性

外国語科目(英語以外)

異文化を理解する態度と必要な研究資料や文献を学ぶ力を見につける

とくに、前専門性

情報科目 

コンピュータを使った情報処理と情報交換の技術を身につける

とくに、前専門性

一般科目

総合科目

ある特定のテーマにしぼって、そのテーマについて幅広い角度から考える

とくに、非専門性、学際性・総合性

パッケージ別科目 

三つの視角に属した多彩な授業科目を履修し、専門以外の分野に接し、幅広い視野を身につける

とくに、非専門性、学際性・総合性

個別科目

関心をもった専門以外の分野の知識を深め、また、専門分野の基礎を学ぶ

前専門性、非専門性、学際性・総合性

スポーツ実習科目

健康を増進し、スポーツを通じたコミュニケーション能力を高める

とくに、非専門性

 

 この特徴づけは、私が一員であったパッケージ別科目ワーキンググループがパッケージ別科目の位置づけを明らかにするために明記したものですが、いまだに教養教育全体の履修手引きに使われているところをみると、認知されているのでしょう。個々の科目の性格づけはこのとおりであるべきだと主張しているわけではありません。たとえば、英語以外の外国語は、多くの学生にとって前専門性よりも非専門性、視野の広がりに役立っているのではないかと思います。一方、英語が前専門性に位置づけられているのは、英語がもっぱら会話、聞き取り、英作文といった技能とみなされているからです。その当否は別として重要なのは、外国語という従来のくくりを踏襲するだけではなくて、何のために、何を教えるのかという目標を明確にすることです。この、授業科目ごとの目標を明確にしているかどうか、また、目標ごとの区別は適切か、履修単位数による比重の置き方はどうかという問いは、カリキュラムを評価する視点のひとつでしょう。

 しかし、細分化そのものがつねにいいというわけではありません。次の資料にあるように、技能は知識と一体になって発達するものかもしれません。

 技能の発達と授業内容の統合 技能を発達させる授業を別にとるように学生に求めている機関もまだあるけれども、近年の潮流は、技能の発達への注意と授業の内容を統合する方向にある。両者を分けると、知識をたんなる情報だと考えるようになるとまではいわなくとも、中身と過程とを峻別する誤りに通じるといわれている。(W. Brock MacDonald, "Trends in General Education and Core Curriculum: Survey", (http://www.erin.utoronto,ca/~w3asc/trends.htm))

だとすれば、前述の教養ゼミの目標はもっと個別化された内容の授業、たとえば、専門教育のゼミのなかで追求されるべきかもしれません。ただし、これは、入学時点で専攻が決まっているのか、二年次以降に決めるのかによっても左右されます。

 理念がほんとうに教員と学生とに共有されているのか、これも点検しなくてはいけません。学内の自己点検では、教員向け調査、学生向け調査を個別にするほかに、その授業でその授業が追求すべき目標がほんとうに追求され、また、効果があがったかということこそ授業評価で問うべきでしょう。

 科目ごとの目標設定の明確化は、当然、教員の意識改革を必要とします。私が広島大学で強く抱いた印象は、大学の教員はもはや以前のように自分の専門について個別に講義してすむのではないのだ、いわば、大学という敷地に売り場を借りた専門店の気分からひとつの店舗を共同経営するような気持ちに切り替えねばならないということでした。しかし、これにはかなり潜在的な抵抗があります。ですから、FDが必要ですが、FDが個々の教員に上から方針を押しつける場であっては、教員はせいぜい面従腹背するだけでしょう。カナダの学者がアメリカの改革について、top down型は効果が乏しいと述べています。

予想されうることだが、(たとえば、事務当局だけで指令し推進した、あるいは、政府や認可団体や他の外部団体が機関に強いた)「トップ・ダウン型」の改革の進め方は不成功に終わりやすいという証拠が出ている。(ibid.)

 一方、個々の教員のほうでも、大綱化以降の方針を、カリキュラムは自分たちが作るというふうに前向きにうけとめる必要があると思います。

 さて、私が深く関わったパッケージ別科目に話を進めます。細かな話をすると時間が足りませんので、くわしくは資料9に記しました私のホームページをごらんいただければさいわいです。パッケージ別科目とは、従来ならば一般教養科目に属すだろう内容の授業科目をいくつかの主題のなかにまとめたものです。資料9は発足時1998年のもので、「知の根源」、「人間の自画像」などとあるのがパッケージ、つまり授業科目のくくりです。学生はこのうちひとつのパッケージを選択します。そして眼を横にやると、「哲学・根源への思索」とか「中東・イスラームの世界」など、個々の授業科目が、「人間・価値の視角」「社会・世界の視角」「自然の視角」の三分野に配分されています。学生は各視角から2科目4単位ずつ、合計12単位を履修します。つまり、パッケージ別科目とは、特定の主題のもとに授業科目相互につながりをつけて、しかも、人文、社会、自然科学にわたるしかたで履修するように配備した主題別学際的科目群の一例です。この科目群は非専門性と学際性・総合性をめざしています。それについてかんたんに問題点を指摘いたします。

パッケージ別科目、1998年度開講科目(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/package.htm)

(夜間主コースをのぞき)全学部全学生必修。

 1つのパッケージを学生が選択。そのパッケージのなかから、人間・価値の視角、社会・世界の視角、自然の視角それぞれから4単位(2種類)以上を履修し、全体で12単位履修を卒業の要件とする。

 

人間・価値の視角

社会・世界の視角

自然の視角

知の根源

哲学・根源への思索

東洋の思想

道徳の意味を問う

一神教の神・人間・世界

芸術・生の深さ

ことばを問う

愛・祈り・文学

中東・イスラームの世界

教育と人間

西洋の思想と歴史

開発と思想

政治と思想

法の根源

科学と社会

認知と学習

脳と行動

文化としての数学

コンピュータ言語

物質の構造

宇宙を学ぶ

人間の自画像

人間存在の探究

芸術と人間

言葉と人間

日本文学の世界

中国文学の世界

ヨーロッパ文学の世界

英米の文学と社会

文化人類学の世界

政治と人間

現代社会と人権

社会的なものと人間

心と適応

人間と健康

生命の科学

人体のしくみ

脳のはたらき

人体の科学

制度と生活世界

古典文学における制度と生活

規範のゆらぎ

レトリックの機能

日本の近代

ヨーロッパ近代世界への招待

アメリカ史の世界

教育と制度

文化と行動様式

経済と制度

政治と制度

生活と法

家族・地域・産業

心と社会

生活と数学

くらしと化学

生活と物理

産業と技術

生物と人間生活

国際化と異文化交流

日本語の世界

世界の中の日本語・日本文化

翻訳の文学

文化と風土

日本の歴史と文化

アジアの社会史

外交と現代史

アジアの近現代

近代の経済社会史

国際社会と経済

国際社会と政治

日本社会への視点

人とコミュニケーション

比較スポーツ科学史

文化と自然

森林と人間

岩石と資源と人間

自然環境と地図

現代のコミュニケーション

科学技術と環境

生命と環境の倫理

環境と文学

東洋のものの見方・考え方

遺伝子の世界自然災害と防災

物質循環と地球環境

経済統計データの実際

人間の歴史と生活環境

地域システムの分析

現代技術と社会

環境と法

自然観の変遷

進化の謎

データとその統計的処理法

環境と化学

微生物の世界

地球の姿と歴史

時間と宇宙

地球の自然環境

 なお、現在は、9パッケージ、各パッケージ6〜10科目(平均的には6〜7科目)に細分化している。時間割は学部ごとに月1、火1、金3か月1、火2、金4のいずれかに指定。したがって、月1をのぞき、基本的に同時限に1種類の授業科目となり、学生の実際的な選択の可能性は大幅に減っている。

 上の表を一瞥していただき、どのような印象をおもちでしょうか。授業科目が多すぎるとお感じでしょうか。どういう授業科目をパッケージのなかで提供するかは、事前に、授業を担当する候補者、総合科学部の教員全員にアンケートしました。つまり、ボトムアップ方式をとったわけです。また、多数の科目がパッケージにあれば、どのパッケージを選ぶかだけではなく、パッケージのなかのどの授業科目を選ぶかについても、学生の選択の自由が確保されると、私個人は望んでいました。もっとも、そのやり方を切りまわすのはなかなかむずかしく、また、ご質問があれば説明しますが、多くの要因から、現在では、表の下にありますように、選択の幅は減っています。

 多くの大学の共通の悩みだと思いますが、専門教育の必修授業科目が増える傾向にある。それゆえ、教養科目を実際に履修するコマは限定されてくる。他方、どの学部にも、教養科目をとるチャンスを与えねばならない。以上の条件のもとでは、次のような「打開策」がとられやすい。すなわち、教養科目を行なう時間割を固定する。学部を指定して、特定の時間割に教養科目を履修するようにする。その結果、科目選択の幅は狭まっていく。いわゆる主題別学際的科目を設けた場合、その設置理念とは別に、「学生を同一時間割に大量に同一授業科目に囲い込んで、人文・社会・自然科学を少しずつかじれるシステム」として機能してしまう場合があります。ですから、主題別学際的科目を評価するには、現実に授業を選択しうる幅について問わなくてはなりません。

 さて、パッケージ別科目は非専門性と学際性・総合性を目標としますが、それについても、なお検討すべき課題は残っています。

 まず、このように授業科目の性格を明確にすると、同じ分野、たとえば、文学がパッケージに入った場合と、個別科目に入った場合とで、非専門をめざすか、それとも、専門に進むための前段階なのか、授業の目標が異なるということです。これは一方では教員の明確な意識を要求しますが、しかし、そもそも専門が理系ほど特化されていない文系の学生のニーズにどれほどあっているのか、考えないといけません。

 つぎに、非専門性をめざす意義を学生にどのように説明するかという大きな問題が残っています。私自身が広島大学に勤めていたときには、カリキュラムには、その大学が自分の学生をどのようにみているかが反映する。自分の大学の学生は、ともかく専門の勉強をするだけでいいのか、それとも専門以外にも視野をひろげるゆとりがある学生だと思っているのか、むしろ専門以外に視野をひろげる必要のある学生と思っているのか。さらには、一般社会がその大学の卒業生をどのように位置づけているかが反映していると学生に説明しました。しかし、この説明は、いわば、学生の自尊心、知的好奇心、積極性に訴えているわけで、どのタイプの学生にも同じような説明のしかたでいいとは思われません。次の資料には、パッケージ別科目に対する学生の反応を載せておきましたが、なお、教員側の努力、すなわち自分と専門を共有しない学生にむかってその学生が興味をもてるような授業を提供する努力も、学生側の意識の向上もなお課題として残っていると感じます。次は、昨年度の広島大学のパンフレットから引用した資料です。

 一般科目の中では、個別科目、特にパッケージ別科目に対して学生の皆さんの関心も高いと思われ、最も熱心な感想が返ってきました。(中略)特に、目に付くものは、「パッケージ内の授業の関連性」に関する内容で、「評価報告書」でも指摘されているように、「関連性」に対し十分な理解がなされていないことがうかがわれます。複数の授業群で構成される科目において克服すべき課題の一つと思われます。

 また、パッケージを構成する授業の中に、自分が「興味が持てないもの」や「意欲が持てないもの」があるとの趣旨の意見も比較的多くあげられています。この点に関しては、現在学生の皆さんが持っている興味・関心にのみとどまることなく、「新しい視点」「新しい見方・考え方」を習得することも、大学の学習において必要かつ重要ですので、学生の皆さんには今少し、頑張ってみることも必要でしょう。それによって、興味や関心も広がり、深まりを増すでしょう。(「特集 大学の授業を考える」、『広大フォーラム』、広島大学広報委員会、2001年7月27日、7頁)。

 さらに、学際性・総合性をどのように理解するかという問題があります。学際性・総合性は、異なる分野への関心を喚起するという程度を達成目標にしているのか、それとも、もっと高度なレベルを達成目標にするのか。それに応じて、学際性・総合性をめざす科目の履修年次も変わります。むしろ、最終年次にそうした科目を置くべきだという、次のような主張もあります。

capstone科目 多くの大学で、コア・プログラムの一部として、プログラムの頂点(capstone)で経験を積むかたちをとっている。たとえば、卒業学年の特別演習は、しばしば、特定のトピックやテーマに学際的にとりくむやり方に基づいており、学生にそれまでしてきた研究全体を包括するようにしている。その種のプロジェクトでは、通常にない形式をとりうる。たとえば、ダートマウス大学では、伝統的な論文やレポートよりも展示や発表でもよいことになっている。(MacDonald, op. cit.)

 なお、この資料は、アメリカの大学のなかで教養教育カリキュラム改革がうまくいっている大学の特色を次のようにまとめています。ご参考までにあげておきます。

 教養教育カリキュラム改革がうまくいっている大学の特色

(1)技能(コミュニケーション技能[読む、書く、聞く、話す]、量的思考[理数系]、推論[批判的思考、問題解決、分析、綜合、意志決定]、人格間の相互作用[チームワーク、集団で学ぶ、協同して学ぶ])の修得と知識の習得が統合されている。

(2)学問にアプローチする道筋も新たに分野横断的に統合しなおされている。

(3)成績評価について組織内で合意を形成している。

(4)小人数教育

(5)二次文献や教科書スタイルの資料ではなく、primary textを使っている。

 広島大学の教養教育改革は、先ほど記したように、前専門性、非専門性、総合性・学際性というふうに、理念を明確にしている点ですぐれていると考えます。そして、この三つの特性は、アメリカの教養教育でも追求されているものと思います。杉谷祐美子さんが作られた図をお借りしますと、

カレッジ・カリキュラムと教養教育の基本的要素

アメリカ 

 

大学審議会答申

 

General Education

 

教養教育

 

Advanced Learning Skills 

基本的知識・技能

General Understanding Component

現代的諸問題の総合的理解

Breadth Components

幅広い学問分野の履修

Major

専門教育

専門分野での学際的取り組

Electives

 

 

 

(カリキュラムの分析枠組み、杉谷祐美子「教養教育の源流 −文学部のカリキュラム編成より−」(倶進会助成研究「新しい教養教育の構築にむけて」、第1回「21世紀の“新”教養教育の構築」研究会、2002年2月10日、配布資料を参考に作表)

この図ですと、私のいう前専門性は「基本的知識・技能」に、非専門性は「幅広い学問分野の履修」に、総合性・学際性は「現代的諸問題の総合的理解」と「専門分野での学際的取り組み」にあたります。むろん、それぞれの領域にどのような授業科目が入るべきか、あるいはまた、杉谷さんが示された図表で「学際的取り組み」がアメリカではgeneral educationの「幅広さの要素」とともにmajor、つまり専門教育にも対応しているという点に、学際性の性格づけの両義性が示唆されています。

 さて、しかし、そもそも、教養教育と専門教育とを対比させるそのこと自体も疑いがないわけではありません。次は、先ほど参照した清水・井門編の書物のなかで、出光直樹さんという若手研究者が指摘さていることです。

 日本の大学における専門の槻念は,19世紀の学術研究の専門分化を背景に形成されており,基礎学術分野と職業・技術分野との区別は意識されずに混同されたまま今日に至っている.ところが,今日の大衆化した大学においては,こうした「専門」のとらえ方が問題となってきた.

 医・歯・薬などの学部は,まさに医師や薬剤師という専門家を養成し,プロフェッショナル教育としての専門教育として機能しているが,しかし大衆化した今日の大学においては,多くの分野では,学士レベルの専門教育を修めたところで,その分野の専門家になるわけではない.たとえば,多くの学生を輩出する法学部や経済学部などの場合,卒業生のうち,すぐに弁護士やエコノミスト,学者等,法律や経済の専門家となるものはわずかで,多くは一般的な社会人となる人材を教育しているにすぎない.そこでの専門教育とは,専門職の養成という機能ではなく,単に法律なり経済の分野を「専門」的に教育しているにすぎないのだが,そうなると,多くの学生にとってその専門という枠組みは,あまり意味をなさなくなってくる.

 ベン=デービッドが示したように,高等教育の大衆化は,将来の職業目的がはっきりしてそれに必要な専門教育を受けにくる伝統的な「専門学生」に対して,将来の進路が確定せず,人間的な成長と自己発見を求めてやってくる「一般学生」の増加をともなって進行する.これらの一般学生にとっては専門教育といえども一般的な教養,つまりリベラルアーツの一部でしかない.そうした点で,わが国の多くの分野の専門教育は,専門職教育としての機能はない.戦前期においても,たとえば文学部の専門教育などは,直接職業と結びつくものではないという理解があったようであるが,しかし戦後の大学において大衆化が進み,一般学生の割合が圧倒的に増えたのにも関わらず,専門教育の分野ごとの性格づけや機能の理解は,曖昧なまま今日に至っている.一方で,学術の高度化や学際分野の出現,職業分野の多様化などにより,伝統的・固定的な専門の区分が揺らいできている.1970年代から始まり1980年代に一気に増えた,人間・国際・情報・環境など,伝統的な領域と無縁な名称をもつ学部の新設は,そうした新しい額域の開拓という意味もあろうが,自覚的であれ無自覚的であれ,専門教育の総合教育化,一般教育化への対応と,見てとることが出来るだろう.

 長らく一般教育の空洞化が言われ続けてきたが,ある意味で専門教育の方がより空洞化しているのではないだろうか.(清水、井門編、前掲、174-175頁)。

こうした指摘を読むと、専門教育という概念の中身がじっさいには多くの日本の大学の多くの学部でもともと失われているのではないかと思われます。だとすれば、むしろ、これまで専門の前段階としてのみ位置づけられる傾向の強かった教養教育こそが、そうした大学のほんとうに追求すべきことなのではないか。最後に、現在、私が考えていること、というか、今後も考えつづけなくてはならないことを付記しておきます。

 1989年に常勤の大学教員となり、大学全入時代とか大学倒産とかが現実化するだろう頃でもおそらく大学教員をしているであろう年代の者としては、「何を、何のために、大学で教えるのか」ということに関心をもたざるをえない。だから、(「学内行政」を最小限はやらねばならぬという事情からだけではなく)カリキュラム改革に関心をもつ。

 (ハーバード大のコナント学長によるレッド・ブック方式のような)「広く学ぶ」態度というのは、どれほどそれが実現できたかどうかは別として、学生の知的好奇心や知的自尊心をそそるものがあるのではないか。もっとも、知的好奇心や知的自尊心に訴えようとするのは、従来どおり、一部のエリートのみが大学に行く時代の発想のなごりだろう。だから、専門以外のことまで広く知る必要をそこに訴えることは、大学によってはもはやできない。

 しかし一方、生命倫理学、環境倫理学、情報倫理学があつかっている問題がそうであるように、具体的な問題を考えるさいには、いろいろな分野に首をつっこまざるをえない。だとすれば、生命倫理学、環境倫理学、情報倫理学をはじめとする具体的な社会問題について、「市民」として考えるためには、なにかしら、「広く知る」とか「問題をつなげて考える」とかいうことが必要だろう。その脈絡から、非専門性、学際性・総合性という目標を教養教育に掲げることは無意味ではない。しかし、その場合、「市民」という観念がどれほど「力」をもちうるか、ということを考えねばならないが。

 さしあたり、この方向で大学における教養教育を考えるなら、全学部の学生に開放されている授業科目として、「広く学ぶ」「問題をつなげて考える」方向性をめざした授業科目を提供するのがよい。これに対して、哲学なら哲学、倫理学なら倫理学の、通史的な一般的知識を教える概論は、その学問に興味をもった学生だけが自由に選択できる科目として位置づけるほうがよい。しかしまた、生命倫理学や環境倫理学や情報倫理学その他の特化された分野の倫理学なり哲学なりは、たんに1年生向けの発見法的な意味しかもたないわけではなくて、それ自体が一分野として専門化しているのだから、主として哲学・倫理学を専攻する学生むけに、専門科目そしてのそれを提供する必要が(学部学科によっては)あるだろう。

 これらの科目をナンバリングして対象学生を明示する。しかし、類別の基準は、どのような目標をたてて学習するか、ということであって、どれほどむずかしいか、ということではないのだから、高い学年の学生でも低いナンバリングの科目を自由にとれる、また、専門の勉強が進んでいれば、比較的低い年次でも高いナンバリングの科目を自由にとれるというふうにするのが理想かもしれない。そうすれば、他の専門分野の学生が他の分野を履修することがいっそう平易にできるだろう。

 しかし、そのためには、現状の、年次が進むほど、専門科目の固定した授業をとらざるをえなくなり、科目選択の自由がなくなっていくシステムを変えなくてはいけない。ということは、つまるところ、教養重点大学にならざるをえないということだろうか。


 「大学教員 改革渡世」のトップページにもどる