個体について −フ ッサールを手がかかりとして−

 

品川哲彦

『哲学論叢』第XIII号、京都大学哲学論叢刊行会、1986=昭和61年7月1日、21-31頁

 

 

I

 以下の論述で、私は「個体」について考えようと思うのだが、この個体についてはさまざまな位相から語られてきた。論理学においては一般概念と区別された概念として、またこの区別と関わりながら存在論においては普遍と個物という対比のなかで、個体はとりあげられてきた。また、キケロが原子の訳語にこの語をあてた際の原義、不可分のもの(individuum)に遡れは、個体はまず自然哲学の概念であった。近代には個体は何よりまず個人に通じ、倫理思想また政治思想の基本概念となる。さらにそこから進んで、ロマン主義の称揚する個性の問題の糸口を個体の概念に求めることも可能だろう。

 しかし、ここで私が個体をとりあげるのは現象学的アプローチによってである。現象学的方法は個体が個体として現われてくる体験の場に遡ることを旨とする。さしあたり、私はフッサールの叙述を参看しつつ、この問題について考えていこう。

 

II

 個体を個体として把握するとはどういうことだろうか。今、私の前に置かれたこのもの、この個体は白地に藍色で花と蔓草の絵柄のあるティーカップである。このように、私は個体をまず「何(Was)」として把握する。この例ならば「これはティーカップだ」と。

 このとして答えられたティーカップとはどんなものか。この個体がどうしてティーカップとして把握されたかを考えるために、想像のなかでこのものを自由に変更し、どんなものがティーカップであるのかを考えよう。少なくともそれは熱い液体を注ぎうるだけの耐熱性と形状を具えている。紅茶の色合、香り、微妙な風味を楽しめるように内側に濃い彩色が施されてはならず、口は広めに緑は薄手にできている。むろんこうした基準は曖昧なものにちがいない。しかし、テイーカップがティーカップである限りは譲れぬ本質があるからこそ、それに照らしてこの個体はティーカップとして把握されたのである。

 では、個体ティーカップが把握されるとは本質ティーカップが把握されることなのか。この二つは密接に関係しつつも、しかし同時に区別されねばならない。その関係をフッサールは次のように述べる。「さしあたりまず『本質』を特徹づけるのは、ある個体の自己固有の存在のうちにその個体の何として見出されるものだった。けれどもそのような何はイデーのうちに置き入れられうる。経験的もしくは個体的直観本質直観イデーをみる働き)に転化されうる」(1)。個体に出会うのは個別の経験の場面であって、そこで出会われる個体はある特定の事実である。そこから進んでその個体のを普遍化して把握しようと思えは もう我々は個体を離れて本質へと向かっていることとなる。個体の把握と本質の把握は別である。私は「さしあたりまず」の段階に、即ち個体――白地に藍色の絵柄のあるこのティーカップに留まらねばならない。

 日常生活ではこの白地、花・蔓草の絵柄等がこのカップを他と弁別する徴標となる。これら地色や絵柄は実体ティーカップに必然的に備わっている契機である。無地さえも特定の色柄なのだ。けれども色や柄が別様であってもカップとしての機能に障りはないから、色柄がこの特定のそれであることは本質に属さず偶有的である。しかしこれらはこのカップに固有のものだ。だが、だからといって、これら契機のもつ偶有性に個体の個体性が帰着するのでもない。なぜなら契機それ自身に眼を向ければ再び個体と本質の関係にいきあたるからだ。カップのこの白さもまた本質「白」に照らして把握されるこの個体「白」なのである。しかもある個体の白さだから個体的なのではない。契機が既に個体である。そのことは志向の対象を実体から契機に移した時、眼差しが向けられているのが「この色」であって「その実体の色」ではないことからも確かめられる。したがって、実体・契機の別なく、個体と本質は区別されねばならない。

 個体的事実と普遍的本質とはこのように載然と分かたれる。だが一方で、個体としての「この何」はその本質「何」に慣らして「この」として把握されるのだから、両者はなお不可分の関係にある。フッサールは事実と本質のこの関係を次のように説明する。ある特定の時、ある特定の場所でなされる経験では、その対象である世界のなかにあるものが個体的に措定される。個体的にというのは、この場合「時間空間的に現存するものとして」という意味である。これに対して、普遍的本質は特定の時、特定の場所を占めぬが、そのもとに時と場所とを異にするさまざまな個体が包摂される。すなわち「純粋な本質は経験的な直観のうちに事例化(exemplifizieren)されうる」(1)。したがって、個体的事実とは普遍的本質の一事例一つの個別の場合(Einzelfall)のことであって、それが個体たる所以はただそれが占める特定の時と特定の場所にのみ負うているのだ、と。

 個体は本質の一事例である。だとすると、個体を個体として把握するとは、個体を本質の一事例として把握することなのだろうか。だがこれも実情に合わない。一事例とはあくまである一つの個別の場合のことであって、特定のこのものを意味するものではないからである。フッサールもまた注意を喚起すべくこう述べる。「私がこの個体的な茶色を、茶色なる種の個別の場合を、思念するというのは、この茶色を茶色なる種の個別の場合として思念するのではないことを強調せんがためである」(1)。個体が個体として把握されるには、個体が本質の一事例であるという事情(Verhältnis)とは別に、個体の「このもの」という性格が強調されなくては ならないのだ。

 では、個体の「この」という性格はどのような仕方で強調されるのか。目前にある個体をためつすがめつしてもその性格は把めない。とすれば、既に現存するものとして客観的世界の特定の時と場所(客動的時間空間における位置)とを占めてしまった個体を前提するのではなく、個体がまずそこで意識される志向的体験に遡って考えよう。

 

III

 個体は意識の進行の内在的時間のなかで意識される。内在的時間の中で持続するものが個体である。フッサールは音、例えばCの音を例にとって説明する。Cの音が感覚される時、そのCの音は「今」として意識される。音の続くかぎり次々と新たな原感覚(Urempfindung)が与えられる。だがその一方で先に与えられた感覚が跡形もなく消え失せていくわけではない。過ぎ去った感覚は「たった今あった」ものとしてなお意識されつづけているのである。この結果、その音は音が感覚されはじめた原時点からこの原感覚の今まで「持続するもの」として意識されることとなる。

 こうしたことが可能となるのは、たった今過ぎ去った音をなお把みつづけている過去把持が「今のいきいきした地平を形作る」(1)からにほかならない。したがって志向的体験の今は、原感覚に対応する過去・未来を欠いた点的な今ではなく、その持続する対象が「今持続している」と把握されるだけの幅をもった今である。未来についても同様だ。今として措定されるのは、知覚が進めば知覚されるだろうものも含めてである。我々は全く手を拱いた状態で新たな原感覚を待ちうけているのではなく、与えられた原感覚を基にして予科しつつ未来に向かって生きているからである。

 志向的体験の幅のある今は、その体験の主題たる対象が持続的に統一される間だけの幅をもつ。この今はそのまま対象の側に振り向けられて、対象は志向的体験の今によって「その対象の今」を獲得する。ここで対象の今と体験の今とが全く不可分な形で把握されるのは、この時間論が≪志向性――意識体験はつねにその対象をもつ――意識はつねに何かについての意識である≫をもとに展開されているからにほかならない。換言すれば、対象の斯在(Sosein)と体験の現在(Dasein)が一体化して把握されてもいるのだ。ともあれ、以上で、個体的対象がそれの今とともに意識の進行すなわち体験の流れのなかに刻み込まれることが確認された。

 しかし、体験の流れはまさに「流れ」という比倫をもって語られるように、そこにはたえず「新たな今」が生まれている。先の個体的対象とは異なる別の対象が新たな今の体験の主題になったとき、先の個体はどうなるのだろうか。既に「今」はそれのものではなくなってしまっている。とすればそれは「その今」という固有財産を失うのだろうか。その結果、その個体性もまた剥奪されてしまうのか。たしかに過ぎ去ったことがしだいに色褪せ、他の出来事と弁別できぬほどぼやけていくのは日常よく経験されることである。だからといって、対象の側でいえば過去の出来事の被るそうした中身の変質、主観の側でいえは忘却といった経験的事態をここで説明のために導入せざるをえないのか。否である。

 フッサールはこの問題を≪個体はその今という固有の時間位置を保持しつつ、新たな原感覚がたえず与えられるにつれ、この原感覚の新たな今からの距離をどんどん広げていく≫と解釈することで切りぬけた。そのようすはちょうど私が家を後にするにっれ、家が私から遠ざかるのに似る。家が元の位置を保つのと同じく、先に体験の主題だった対象もそれの今時点を保ち続ける。だが意識がたえざる新たな今と関わるゆえに、先の対象の今はたえず過去のなかへと沈み込むようにして退いていく(zurücksinken)のである。

 けれども、先の対象は今の意識からただ逃げ去っていくだけではない。我々はそれをくり返し想起しうる。このとき、先の個体的対象は同一の「その今」、同一の持続を伴って、つねに同一のものとして再生される。したがって、過去へ沈退することで変わるのはその対象の与えられ方――第一段階の想起(記憶)では「たった今知覚した」ものとして、第二段階の再生的想起では「かつて思い出したことのある」ものとして同一の対象が与えられる――であって、その対象の内容)なのではない。それゆえ、当然、ここで想起される対象の同一性を保証するのは本質の同一性ではない。ここでいわれる個体の同一性とは、その個体が体験の流れのなかで占める時間位置の同一性なのである。以上まとめれば、個体は、それが意識される体験を通じて、体験の流れのなかに他ととりかえられぬ「その今」を獲得する。このことによって個体は徹底的に個体化されるのである。

 

IV

 さて、先に志向的体験の幅のある今と対象が持続する統一として拇握されることとの不可分                     をみてとったが、ではそもそも対象が統一として把握されるのはいかにしてか。多様な感覚を伴った新たな今のたえざる連続に切れ目を入れてそこからある一つの対象を構成するには多様な感覚内容を統一して把握する統握(Auffassung)が必要である。この統握が同一の意味にのっとって行われることをフッサールは再説してやまない。例えば強度において異なる諸感覚が持続する音として把握されるのは、それらが等しく同一のCの音として把握されているからだというように。

 だとすればここで再び我々は≪個体はとして把握される≫という事実−本質関係に行きあたることとなる。個体の個体性がこの関係ではいいえぬことは先に記した。それでは、この関係が個体の統握を規定するとなれば、我々は再び個体性を見失うのではあるまいか。フッサールが佃体のをどのように考えていたか、検討を必要とする。

 ここで私はフッサールのメロディーの分析をとりあげよう。メロディーはもちろん同一のCの音から成るわけではなく、つぎつぎと違った音が現われることで成立する。ただし、それぞれ独立の音として把握された音が付け加わることで成り立っのではなく、我々が聴いているのはつねに一つのメロディー全体である。このときメロディーを貫く同一の対象的意味にあたるものとはなにか。フッサールの考察の結論は、メロディーには「志向の同一性は欠けている」「メロディーは一つだが、メロディーはそのすべての部分の把握において同一なものとして認識されるものではない」(1)ということだった。それゆえメロディーが以後どう展開するかは、例えば家の正面の知覚から裏面を予測する時ほどに規定されたものとしては予測されえぬ。とりわけそのメロディーに関する「記憶が欠けていたり、与えられた部分がかつて聴いたことのあるメロディーのものではなく」、例えば舞踏場の門前で切れ切れの旋律を耳にしたといった「一種の状況証拠に基づいて、これはあるメロディーの一部だと判析する時」(1)いっそう増してくるとフッサールはとまどいがちに述べている。しかし、単純に連続するCの音を例にとっての考察ではこうしたとまどいはなかったのである。とすれば、これまで辿ってきた個体論は、その個体が何であるか、あるいはその個体がはじめて出会ったものであるか否かによってその射程を制限されるのだろうか。当然否であろうが、少なくともフッサールのメロディーの分析からすれば、個体の既に熟知された何かなのである。

 安定した日常の中ではたしかに我々が出会うのは熟知した何かとしての個体がほとんどだろう。しかし、はじめて聴くメロディーのような未知のものにも我々は出会う。そうしてそれは、既知の対象に劣らず、それが意識される志向的体験の今を介してそれの今をもつ個体なのである。これまで辿ってきた個体論はこの基本構造からして未知の個体をうけ入れる土壌をきりひらいている。だが実際フッサールの行った考察は熟知した対象に傾いているのである。逆にいえば、熟知した対象的意味をもって捉えられる個体を扱うことで、個体とは特定の時、場所によって規定された普遍的本質の一事例であるという前述の見解がいっそう手近なものとなってくるのだ。

 いや、しかし、ここで未知と既知の峻別はかえって不毛だろう。はじめて出会う対象もなんらかの仕方で思念される限り既知の枠組の中で捉えられ、その思念の充実によって(対象が思念された通りに与えられる仕方の充実であれ、思念とはずれたかたちで与えられる仕方の充実であれ)、対象が明らかになっていくことが、志向的件験の進行の特徴だからである。この限りでは対象の既知・未知の区別は二次的な区別にすぎない。したがって既知のものに特権を与える必要もまたなく、それとともに既知のものへの牢固たる確信も揺らぐこととなる。むしろ、個体が与えられるそのつどの今に着目すれば、たとえ既知のものであってもそのときどきの体験において、さらにはどの体験にもつねに、個体は他の体験とは区別される徹妙なニュアンスの差をもって現われてくるとはいえまいか。個体がそのようなものであるならばそれに対応して、個体の個体性は「この一事例」の「この」であることを超えて「とりかえのきかない」ひいては「かけがえのない」という性格を帯びてくるのではあるまいか。

 この問いに答えるためには、個体の個体性がそれを介して説明されたその個体の体験の各々の今のかけがえなさこそが問われねばならない。意識体験の今の一回性は我々が日時分秒で表している客観的物理的時間の今の一回性とどう異なるのか。つぎに、物(自然)と精神の対比を論ずるフッサールの叙述を通じて上述の問題を考えよう。

 

X

 『イデーン』二巻は三つの異なる存在領域――物質的自然・心的自然・精神世界の構成の問題を扱うが、これら領域の違いは客観的こ自存するものではない。前二者は自然主義的態度の、後一者は人格主義的態度の、各々主観のとる態度の相関項としてのみ存立しうる。日常的生活態度は後者であって、日常生活の場は精神世界に属す。以下、個体の偶に関わる範囲内で自然と精神的なるものの性格を略述する。

 自然主義的態度の相関項である自然とは、美・善・実用性等の精神的意義を毫も含まぬ単なる自然(bloße Natur)である。単なる自然の唯一の特徴は因果性にある。同じ状況下では、同じ帰結――この徹底した因果性が一義的こ自然を支配している。したがって単なる自然に属する「物を知るとは、その物がある因果連関のなかでどんな状態になるかを知ることだ」(1)。そして我々がそれを知るのは身体における知覚によってなのだから、物の現出は身体に依存する。身体との位置関係に応じて、さらにはまた身体に異状のある時も物は別様に現出する。物の現出のこうした主観的性格を排して真の物を客観的に論定するのが自然科学である。だから客覿的に真なるものとは、右・左・今・さっき等の主観的時空規定や身体(知覚)に影響されるいわゆる二次性質をもたぬ、ただ客観的時間空間の位置関係と量規定からのみ説明される「空虚な]」の謂となる。そのつどの状況が論定できれば法則に従って]が規定されるのである。物は状祝というインプットに対して現出というアウトプットを規則的に示す暗箱にほかならない。したがって、物は同じ状況下では再び同じ状態となる循環性をもち、状況に抗っての自己保存性を欠く。つまりは、物には本来個体性がないのであって、だからこそ同一状況下の二つの物を個体として弁別しようとすれば、各々の占めている時と場所に訴えるほかないのである。

 これに対して、精神的なもの、主観性は全くその性格を異にする。

 私の体験は既に身体を介してから個体的である。物はこの私の身体を中心としてパースペクティヴ的に現出するのだが、体験されるこの現出の体系をこの今には他の誰ともとりかえられない。私の体験はいつでも私の身体の位置するここを逃れるべくもないのだ。

 このそのつどのここでなされる体験はばらばらではなくただ一つの流れを形作る。というのも、個々の体験はその今とともに流れのなかで過去へと沈退していくのだが、その一方でこれら過去の体験すべてが新たな体験に対して過去地平を形成していくからだ。どの体験も自我に性向(Disposition)を遺す。したがって、たとえ私をとりまく周囲の状況が以前の体験の時と全く同じだとしても、それに相向かう心の状態はその過去地平まで含めれば以前の体験の時と同じではない。即ち前の体験が後の体験を規定するのであって、そのゆえに心は物と違って循環せず歴史をもつ。だからこそ、体験の今は、物を物の外から規定する単に形式的な今とは等視できない、その体験の内部からしてくり返しえぬ真に一回的な今なのである。

 精神的なるもの、主観性のこうしたくり返されぬ、とりかえられぬという勝義の意味での個体性は人格という概念に集約される(1)

 そのつどの体験においてさまざまな判断が下されるが、こうして下された半晰はその体験が過ぎ去った後の体験のなかで想起されうる。しかも判断に対する賛否と無関係に想起されるのではない。その判断を覆えす事態に出会ってこれに動機づけられて破棄されぬ限りは、同じ判断がその内容についての確信とともに想起されるのである。それゆえ判断は持続する確信(bleibende Überzeugung)とも呼ばれる。この確信はいくら他者のそれと共通の内容であってもこの私が下した判断に因るのだから、私の自我に固有なものとして私の所有(Habe)にかかり、私の習性(Habitüalität)――さまざまな体験に際して永続して私が示すところの私の生の個性的なスタイルを形作る。逆に、こうして形作られた習性のゆえに、たえず別の体験をしている私が、変わらぬ同一の人格として、私自身にも他者にも理解されることが可能となるのである。

 ところで、この人格のもととなる習性を、ある状況下にその人格がそう振舞うよう受動的に決定されるような法則を表すと解することはできない。というのも、過去の体験が新たな体験を規定するにしても、その規定は自然を支配する因果的一義的決定ではないからだ。精神界を支配するのは動機づけであって、動機づけにはつねにそれへの諾否の自由の余地がある。いかに状況に動機づけられても、人格は究極的に態度決定の自由を保持する。だから人格は状況に決定される]ではない(1)。さらにまた、同一状況の下で複数の人格がどう振舞うかも帰納的には説明しつくしえぬことになる。なぜなら、人格が形成されてくる体験の流れは各々の自我に別のものであり、したがって各人はそれぞれ「個体的『歴史性』」(1)をもつ。たとえ、各人格に固有な態度決定のスタイルがいかに陳腐で類型的であろうとも、それはそれぞれ異なる仕方で形成された「個体的類型」(1)だからである。したがって、複数の人格に共通する普遍的類型を想定して現実の人格をその一事例とみなすことはできない。人格は事例化しえないという意味でこのうえなく個体的なのである。

 

VI

 精神のみが個体的であり、物は個体性を欠く。前節のこの主張からすれは かけがえのない個体的な物などありえぬことになろうか。例えば、普段、愛玩品に感じるかけがえのなさも迷妄として退けられるべきなのか。しかしそう考えるのは態度の混同である。個体性の欠如がいわれたのは自然主義的態度下での物であって、人格主義的態度の下では日常身の回りの物の別種の捉え方があるはずである。

 人格主義的態度をとって生きるとは、ただ自他に人格として対象化されて生きることではない。人格、習性を形成する持続的確信が確信たりうるのは、それが想起されるからだけではなく、そのつどの新たな体験において同一の判断として再び判断される(wiedersetzen)からである。いやむしろ、その際我々は以前の判断に引き戻されるのではなく新たな対象にこそ関わっているのだから、確信された判断は新たな対象への作用の遂行とともに下される(mitsetzen)のだといえる。だとすれは習性は新たな体験の過去地平に居合わせ、新たな体験において遂行される作用と協働して新たな対象をとして把えることに寄与することになろう。即ち、ここでいう人格、習性は自我が自ら構成した対象たるに留まらず、作用の遂行者としての自我を、それが対象を何として意味づける際、対象を何として統握する統覚のレベルまで貫いて規制する働きをするのである(das personale Ich)。

 日常すなわち人格主義的態度の下で接している物がいかにさまざまにかけがえない仕方で現ゎれるかを、私はフッサールのこの習性という概念を通じて次のように説明しうると考える。例えぼある物はかつてないほどに新鮮に感じられる。この場合にはその物がきっかけとなって今まで獲得していなかった習性的確信が創設されたのである。またある物は私を精神的に脅かす。この場合にはその物は私のこれまでの確信の根本的転倒を迫ってきているのである。また、同じ物について従来なれ親しんできた確信を変更せざるをえぬこともある。このとき我々はその物の奥深い真相にはじめて触れえた思いをするだろう。さらに、諸確信の有機的に組織されているその中枢に位置する確信に裏づけられれば、とるにたらぬ物さえもが貴重な価値を帯びてくる――ちょうどあらゆる思い出の品々がそうであるように。こうして把まれた諸々の物は本質の一事例以上のものであって、一回的具体的な体験のなかで微妙なニュアンスとともにうけとられる「何」かなのである。

 だがフッサールの叙述では習性のこうした役割は顕わではない。なるほど彼は物が個体的に見える可能性を想定し、それをただ精神的なるものの頗り返しによると説明する(1)。このように精神と物とを峻別するのは、現象学が精神科学を自然主義的に解釈する時流への反動(1)の中から生れてきたからだろう。しかし、この峻別を敷術すれは人格主義的態度下における日常接する物の固有なあり方が見失われ、ひいては、自然・精神世界を異なる態度の相関項とみなす彼自身の意図に背いて、両者が自存する存在領域として相屹立するという矛盾に陥らざるをえない。

 また、フッサールの考察がつねに端的な知覚に戻ることも、習性の役割の顕わにされぬ一因に挙げられる。なぜなら知覚レベルでは、世界が存在するという揺るぎない信念のために、個々の確信の廃棄は些細な錯覚を意味するにすぎず、廃棄によって生じた穴は直ちに別の存在者への確信によって補填されるからだ。けれども、彼自身の分析にある通り、確信が人格形成にも及ぶものならば、確信の廃棄はどれほど軽くはあれ人格が転向する際の痛みを伴うものであるはずだ。この痛みなしに確信について語るとすれば、我々はあたかも意識の沈澱の中から自由に既存の確信をとりだして新しい体験にあてはめうるかのように、事態を楽観視して解釈してしまうだろう。するとすべてが既知の中に呑み込まれるのだ。フッサールのこうした傾向に対してH・シュミッツが「誰が自分の信じているすべてのことを知りうるか!」(1)といったのは適切な批判である。ちなみにシュミッツは、不安で身体が縮みあがり、それまでの安定した状態が一挙に崩される際の衝撃から、既知を含まぬ全く新たな今の実態を解明しようとしている。

 習性をもとにしてこうした真に新たな今を解釈すれば、そうした今とは従来得てきたいかな確信も目前の対象の把握に及びえない事態のことなのだと説明できる。ここに、二つの性格の今が考えられる。即ち、1)従来の確信が無力とされ廃棄を迫られる場合。このとき我々は追いつけぬという仕方で今を生きている。これに相対置するのは、2)従来の確信が有効な場合。このとき我々はもはや今を理解してしまっており、既に目を未来に向けて生きている。今は既に追いこされており、未来もまた従来の確信の適用可能な過去の折り返しとみられているのだ。

 が、こういったからといって、前者が本来的な今で後者はその斎落だと主張するつもりはない。ここで問題なのは価値づけではなく、日常的な個体の体験の解明なのである。

 通常の体験からすれば両者は想定された極限の場合であって、日常的な個体の体験の今は両者を二つの相として同時に含んでいる。一つの体験の内部で、不確定な未知はたえず解釈されて既知の確信と化し、一方、既知の確信は漸次増大しつつもなお未知によって覆えされうる。ここで、体験が互いに相容れぬ既知なる過去と未知なる未来とに分解してしまわないのは、この体験が一つの個体を主題とした持続する今を獲得した志向的体験だからである。過去把持、未来把持を今を構成する不可分の契機とする志向的解明は、今そのものが既に複相的であることを示している。

 だとすれば、たとえメロディーのような個体によっても我々の個体論の射程を縮める必要はない。我々が聴くのは全く未知の旋律でも全く既知の旋律でもない。ちょうど周知の曲をその指揮者、楽団の演奏では初めて聴くときのように、我々は既知の枠組の中で以後の展開を先取りして確信しつつ聴こうとしては、その指揮者の新解釈という未知のものに出会ってとり残され、そうしてすぐにその新解釈を我々自身が解釈し直すことで、再び以後の展開を既知の枠組の中で確信しつつ待ちうける。こうして、周知の曲を今初めて聴くかのように感じるときが示すように、既知の個体は我々の確信の揺らぎと変化を通じて以前と違ったさまざまなニュアンスを帯びてそのつどのこの今に現われてくるのである。

                                〔哲学 博士課程〕

 

 Husserliana(Hua.と略記)の巻数をローマ数字、頁数をアラビア数字で記す。

(1) Hua.III, 13

(2)Hua.X, 23

(3)Hua.III, 16

(4)Hua.X, 240

(5)Hua.X, 43

(6)Hua. X, 149

(7)Hua. X, 141

(8) Hua. IV, 45

(9)Marbach、E., Das Problem des Ich in der Phänomenologie Husserls, den Haag、1974、S.303f.

(10)すぐに確信といいかえることになるものをまず主体的意識的作用である判断作用からフッサールがときおこしたのも、主体の態度決定の自由を強調するためであろう。

(11) Hua. XV, 631

(12) Hua. XV, 632

(13) Hua. IV, 96

(14) Hua. IV, 172

(15) Schmitz, H., " Leibliche Quellen der Zeiterfahrung und das Augustinische Problem ", in Subjektivität, Bonn, 1968, S. 70

 

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