私はフランス文学研究の町医者をもって自ら任じている――河盛好蔵

 

 そのひとの文章を読むと、こりがほぐれる、落ち着く、それどころか少しばかり軽やかで楽しい気分にさえなる。そういう文章を書いてくれるひとたちはたいへんありがたいひとたちである。

 そうしたひとたちのひとりである河盛好蔵が今年(二千年)の三月二十七日に九七歳で亡くなった。

 私は、井伏鱒二、木山捷平、上林暁、外村繁といった作家の作品に親しみをもっている。河盛好蔵はこのひとたちの作品を多く解説しており、また友人でもあった。このひとたちが作っていた一種のサロン、阿佐ヶ谷会のメンバーも、河盛の死でほとんど全員、姿を消したのだろう。

 いうまでもなく、河盛好蔵はもともとフランス文学者である。そして、フランス文学者としてのかれは、忘れられない次ぎのことばを残している。

 私はフランス文学研究の町医者をもって自ら任じ、その代り、患者に親しまれ、頼りにされる医者になることを多年心がけてきた(「外国語五十年」、『回想の本棚』、中公文庫、一九八二年、二四九頁)

 このことばは、分野はちがっても、およそ何々学と名のつく学問の研究者にとっては、古めかしく言うなら、頂門の一針なのではあるまいか。

 河盛好蔵自身はみずから謙遜して町医者を名乗ったのではあろう。おそらく、町医者ならざる専門家としてかれの念頭に浮かんだのは、かれの友人で同門の杉捷夫や、分野はちがうが三高以来の友人だった吉川幸次郎らの生粋の学者たちの顔だろう。

 しかしまた一方、町医者になるのもずいぶんとむずかしいことである。少なくとも粗悪な専門家になるよりははるかにむずかしい。なぜなら、専門家なら自分の得意とする狭い領域だけを守っていればよいのだが、町医者になるにはフランス文学ならフランス文学の全体に通暁していなくてはならないからだ。そのためには、一方には、全体を眺望するだけの高い見識が必要であり、他方には、広い野原を渉猟し尽くす根気が欠かせない。

 こんな条件はいやしくもある学問を研究しようとするかぎりは満たさねばならないし、また、だれしも研究生活のはじまりには満たそうとしている。だが、恥ずかしいことに、素志なるものはいつとはなしに失いがちなものなのだ。また、たとえ失ってしまったのちにも、何々(ここには、だれかひとりの作家、特定の時代、あるいは国名――考えてみれば、何々文学はわかるが、文学そのものはわからないということもないはずなのだから――を入れればよい)の専門家を名乗ることは、一応は、できてしまえて、それどころか、学問のほうから愛想づかしをされてしまったような状態でもなおそのまま大学や学会のなかで生息しつづけることもできないわけではない。逆に、町医者を自ら任ずることは、町のひと、つまり一般読者に、文学という善きものを紹介しつづけずにはいられないという情熱と愛情を意味している。

 それにしても、八七歳のときに脳梗塞で倒れたあと、病が癒えるや、八九歳で『私の随想選』(新潮社)全五巻を刊行し、九五歳で出身校である京都大学から博士号を授与されたというのだから、なんというのか、精神の膂力とでもいうべき力がずいぶんと強いひとだったとみえる。

 ちなみに、河盛好蔵がはじめて教壇に立ったのは関西大学だった。

 ところで関西大学は私の就職した大正十五年より四年前の大正十一年に大学令による大学になったのであるが、その前身は明治十九年に創立された関西法律学校で、フランスの法律を教えるのを目的としていた。そのためにフランス語の学習を生徒に課していたのである。

 関西の法曹界に多くの人材を送った由緒のある学校で、私の就職した頃には法科のほかに文科も置いてあった。(『フランス語盛衰記』日本経済新聞社、一九九一年、九二頁)

 もっとも、河盛が教えたのはたった二年で、しかも非常勤講師として働いたにすぎない。また、かれがやめたのは理事同士の軋轢というかれにとっては不本意なできごとからであり、授業負担についても若干の不満を述べている。しかし、総じて、河盛好蔵の関大評は好意的であって、一九七五年、七三歳のときに、関西大学で日本フランス語フランス文学会秋期大会が開かれたときには、開催地にたいするなつかしさのために久しぶりに学会に出席したとも記している(前掲「外国語五十年」二四八頁)。

 じつをいうと、関西大学で教えたひとのなかに河盛好蔵がいたことは、私が前任校を辞して関西大学に移るときの迷いをふっきる要素にも少しばかりはなっていた。むろん、きわめて微力な要素ではある。しかし、かつて勤めたひとにたいする好感度といったものは、利害得失とは関わらぬだけに、かえって気持ちの根底を形作るものなのかもしれない。河盛好蔵というひとの――河盛氏の愛するフランス語でいえば――sympathique(感じのよ)さが、いわば移り香となって、そのかつての勤め先の印象をもsympathiqueにしたのである。

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