環境倫理の基礎づけ問題
品川哲彦
『応用倫理学の新たな展開 −倫理学におけるミクロ的視点とマクロ的視点の総合をめざして−』
平成7年度科学研究費補助金・総合研究(A)研究成果報告書、1996年3月、東洋大学、46-57頁
一 環境倫理と環境倫理学
二 超越による基礎づけの例(森の思想)
三 同等の関係による基礎づけの例(社会契約論による未来世代の権利論)
四 不同等の関係による基礎づけの例(責任の原理)
五 責任の原理と動物解放論
六 責任の原理と土地倫理
七 責任の原理と討議倫理学
一 環境倫理と環境倫理学
道徳ないし倫理が−−両者を同じ意味で使うとして−−「Xすべし」という規範や「Xするのがよい」という価値を意味するならば、それにたいして、倫理学は「なぜXすべきか」「なぜXするのがよいのか」と問うものである。環境について考えるさいにも事情は同じで、環境倫理が一般的には「環境を守るべし」と説くのにたいして、環境倫理学とは「なぜ環境を守るべきか」と問うものでなくてはならない。したがって、たとえば、スピーラは、ウサギを失明させるドレイズ・テストを廃止させたり、被験動物の半数が死ぬ致死量を調べるLD50の実施数を激減させたりしてきた点で動物の権利を擁護する環境倫理の優れた実践者であることにまちがいないが、運動の成果をあげるためには参加者の意図や動機を問わないと明言している点で環境倫理学の優れた実践者では明らかにない(1)。
「なぜXすべきか」という問いにたいする答えは必ずしも道徳的ないし倫理的な根拠であるとはかぎらない。たとえば、「人類の存続のために環境を守るべし」という理由づけが、まったくたんにヒトという種の利己的な欲求だけを意味しており、そしてまた、それを聞く者が同じ種の一員であるという理由だけからそれに賛同しているなら、この「べし」は道徳的ないし倫理的な規範ではない。カントふうにいうなら、道徳性(Sittlichkeit)の命令ではなくて、利口(Klugheit)の忠告である。「人類の存続のために環境を守るべし」という命令は、人類の存続がなんらかのしかたで道徳ないし倫理の根拠と関係づけられるときにはじめて、道徳的ないし倫理的な意味を帯びてくる。
環境という概念は必ずなんらかの存在を中心において成り立っている。それゆえ、「環境を守るべし」とは、具体的には、「環境の中心である存在にとってのよい環境を守るべし」ということを意味している。したがって、環境倫理学がさまざまな種類の環境倫理にたいして求めているのは、つまるところ、「なぜこれらの存在に配慮すべきなのか」ということを説明する道徳的ないし倫理的な理由にほかならない。環境倫理というときの環境の中心とは、さしあたりは現在世代の人類であり、場合によっては、未来世代の人類であったり、感覚能力のある動物であったり、自然物であったりする。このように道徳的に配慮すべき客体の範囲は、つねに人類を含んでいるとともに、人類以外にまで及ぶ場合もある。一方、なにが善であり悪であるかを決定する道徳ないし倫理の形成者の範囲と、その行為が善なり悪なりに評価される道徳的主体の範囲とは、環境倫理においても、実質的にほぼ人類と重なりあっている。だからといって、このことからただちに人間中心主義的な道徳が帰結するわけではないのは、道徳の形成者としての人間が道徳的客体を画定するにあたって非人間中心主義的な基準を採択するという可能性が理念的にはあるからである。いいかえれば、道徳の形成者であり道徳的主体である人格としての人間はその他の意味での人間(たとえば人類、生物としてのヒト)から、概念上、区別される。この論理構造は、ある種の生命倫理のなかに鮮烈なしかたで示されているが、環境倫理にも共有されており、もとをたどれば人格という道徳的概念を人間の概念とは別個に立てることそのことにすでに含まれている。環境倫理が非人間中心主義的だとすれば、環境倫理が先の理念的な可能性を実際に推進し、道徳的客体のなかで人類に相対的にしか重要な地位を認めていないからにほかならない(2)。とはいえ、自然一般を平等に重視することを主張する種類の環境倫理は、のちにみるように、これを厳密にうけとるなら概念的に破綻するだろうし、これが有意義であるためにはある特定のあり方をしている自然を特記する別の原理による補完を要するだろう。なぜなら、環境という概念は中心がなければ成り立たず、あるいは、すべてが等しく中心たりうるゆえに中心が決められなければ成り立たないからである。
以下、いくつかの種類の環境倫理の主張をとりあげて、それぞれの提示している根拠を考察し、比較してみよう。
二 超越による基礎づけの例(森の思想)
なぜ、環境を守るべきかという問いは、裏返せば、なぜ、これまで環境破壊が道徳的に許容されてきたのかという問いでもある。周知のように、ホワイトはユダヤ−キリスト教についてこの問いに答えている(3)。彼によれば、ユダヤ−キリスト教では、『創世記』第一章二七−二八節にみられるように、人間中心主義的な自然観こそが神の命令にほかならなかった。もちろん、聖書の章句だけがすべてではない。ベネディクト派をはじめとする修道院で成立した、自然と直接に関わる肉体労働にたいする肯定的評価(ここからギリシア、ローマに異質な知と労働の結合がはじまる)、魂を善、肉体を悪とするカタリ派との対決をとおしてローマ教会が確立していった肯定的な自然観(ここから自然にたいする科学的研究の萌芽が準備される)、これらのもとで自然を利用する技術が開発され、単純で苛酷な肉体労働にとってかわり、その結果、自然にいっそうの負担をかける生産がはじまったこと−−ホワイトはこうしたさまざまな経緯をたどりつつ、ユダヤ−キリスト教のなかで生態学的危機の淵源に遡及している。ここで留意したいのは、ホワイトが指摘したもうひとつの重要な点、つまり、ユダヤ−キリスト教がその唯一の創造神のみを認める教義から自然に内在してその土地を治めているもろもろの神(genius loci)を否定し、その結果、人間が憚ることなく自然を利用できるようになったという指摘である。
もしそうなら、逆に、自然に内在する神にたいする信仰のもとでは、自然の利用を抑制する態度がありうるはずである。それゆえ、自然に内在する神という超越に人間の行動を規制する規範を根拠づける試みが環境倫理のひとつの可能性としてありうるだろう。環境倫理はその思想内容からアニミズムと親しい関係にあるが、この試みはアニミズムを直接的なしかたで復権するもので、そのかぎりで反近代の姿勢をとることになる。その(完成した明確な、とはいえないまでも)一例を、梅原猛が主張している森の思想にみることができるだろう(4)。梅原のいう森の思想は二つの特徴をもっている。第一に、人間は自然のなかで特権をもたず、動物や植物と平等の一員である。第二に、人間も動物も植物もあの世とこの世とを永久に循環する。この発想が環境倫理たりうるのは、第一点からは人間中心主義的自然観が否定され、第二点からは未来世代へ配慮したしかたでの自然資源の利用が促されるからである。森の思想は狩猟漁労文明には共通のものだったが、しかし、農耕牧畜文明によって侵食され、都市文明によって駆逐された。シュメールの叙事詩のなかの都市の創設者ギルガメシュによる森の神フンババの殺戮はその象徴である。
このような思想にたいして、ただちに、啓蒙によって否定された森の神はもはや復権しないと決めつけることは、森の神の復権を単純に主張するのと同じ程度に短絡的だろう。ひとは今なお森にたいして畏怖の感情を抱くことがありうる(5)。また、森の思想には、特定の文化を正統化する文化中心主義を含意するおそれがあるが、その点にかぎった批判は根本的ではない。ここで問うべきは、森の神が復権しうることの根拠である。
今、ひとが特定の森、さらには、個々の木、個々の動物、一般的には、個々の自然物にたいして、人間がそれを憚りなく利用したり破損したりするのをみずから控えたくなるような畏怖を覚えたとしよう。森の思想がその主張を根拠づけるさいに、ひとが実際に自然との関わりのなかで同じような畏怖を抱くということに訴えるとすれば、森の思想の提示する根拠づけは直観主義的である。たしかに、多くのひとが畏怖する状況はあるかもしれないし、そのような畏怖を呼び覚まさせる一種の実地教育ができるかもしれない。しかし、それだけでは、たんにある特定の森や木々や動物だけが畏怖され守られるべき対象となり、他はそうならない可能性がある。したがって、森の思想が(明らかにそうだろうが)個々の行為のもたらす影響が積もり積もってひきおこされる地球規模での環境破壊を抑制する意図をもっているなら、さしあたりは畏怖の感情を覚えがたいような状況でも、個々の行為を規制する力は働かなくてはならない。それには、個々の行為が時間的、空間的に遠い射程にまで及ぶ影響についての知識、たとえば、生態学的な知識が必要だろう。こうして、森の思想は知識と啓蒙をつうじて触発されやすくなった直観の獲得をめざすこととなる。けれども、このとき、行為の善悪とはなににとっての善悪なのだろうか。この問いにたいして、あるまとまりをもった生態系を保つことが善であると答えるなら、森の思想は(六)に言及する土地倫理と類似の結論になる。あるいはまた、先の問いに最終的には人類にとってよい環境を保つことが善であると答えるならば、森の思想は人類にとっての長期的な利益という目的を達成するために森の神を蘇生させたことになろう。これはオーウェルふうにいうなら二重思考である(6)。つまり、このままでは実現できない目的を果たすために、その目的の達成に役立つ制約を考案し、さらに、それを考案した過程を忘れることによって、その制約が絶対的であるかのような印象を自分自身に植えつける発想法である。
このように、森の思想は直観主義的な根拠づけによるか、そうでなければ、二重思考を結果主義的に正当化するかであって、前者であれば、特定の生態系だけを神聖視するのであるか、あるいは、一般に生態系のまとまりを尊重して土地倫理と類似の結論にいたるか、いずれかであるように思われる。ただし、土地倫理が正当な分配という合理性から生態系における民主主義を導出するのにたいして、森の思想は超越を示唆するという非合理的なしかたで人類の過分な行動を戒める点で異なっている。もちろん、その思想が直観に根拠づけられているからといってその思想が支持されないわけではない。唐木順三は、厳重に囲いをした泉について、かつては泉にたいするおそれの感情が泉を汚す行為を防いできたと説明したのち、「大きな自然のいのちに觸れることのなくなつてしまふとき、人間生活はその奥行を失つてしまふだらう」と記している(7)。おそらく、このような人間観を共有しているひとびとは、森の思想の根拠となる直観もまた共有するだろう。
三 同等の関係による基礎づけの例(社会契約論による未来世代の権利論)
しかし、泉を汚した者は今でも非難されるのであって、ただしその理由は、唐木も記しているように、公徳心という同等の個人のあいだの倫理に背いたからである。だとすれば、超越にではなく、同等の関係に依拠するしかたで、ということは基本的に近代の思考の枠組みに準拠するしかたで環境倫理を展開することもできるはずである。ここには、未来世代の権利、動物の権利、自然物の権利を主張する議論が属している。
同等の関係にもとづく倫理は、単純化すれば、次のような構造をもっている。Aはxする権利がある。Bは、xする権利をもつ基準からすると有意の点で、Aと同等である。それゆえ、Bにもxする権利が認められる。こうして権利の保有者、道徳的に配慮すべき対象が拡大していく。もっとも、権利の保有者は単純に拡大していくとはかぎらない(8)。というのは、A1とA2がxする権利の既存の保有者であっても、しかし、xする権利のBへの拡大が検討されるときに、xする権利をもつ基準が見直されて、その結果、A2はかえって権利を認められなくなる場合があるからである。また、同等の権利を有するAとBとのあいだには、たがいの権利が現実に保証されるための相互依存関係、すなわち互酬性(reciprocity)が存在するとはかぎらない。というのは、同等の関係という概念は理念的には権利の同等だけを意味していて、力の同等は必然的には含んでいないからである。
未来世代の権利、動物の権利、自然物の権利をこのやり方で導出するとは、基本的に、これらの存在が既存の権利の保有者である現在世代の人類と有意の点で同等の存在であると主張することである。当然、それは容易ではない。これらの存在はまさに同等と認められていなかったからこそ権利がなかったからだ。ここではまず、シュレーダー=フレチェットの未来世代の権利論をみてみよう(9)。
シュレーダー=フレチェットは未来世代をロールズのいう原初状態での社会契約の契約者として捉えている。原初状態では、無知のヴェールのゆえに、自分がどの世代に属すかも隠されている。それゆえ、私たちがそのもとで全員に受け入れられうる社会の構成原理を採択するとすれば、その原理のなかには世代間の公平も含まれる。具体的には、有限で再生不能な資源を特定の世代だけで消費することや未来に長く悪い影響を及ぼす物質を残すことなどが制限されるだろう。もちろん、未来世代はまだ存在していないから、現実の合意にあずかりはしない。かといって、世代間を継続する理想的コミュニケーション共同体が要請されているわけでもない。というのは、社会契約論は一挙に決定的に原理を採択するからで、この点はロールズ自身が明言しているように、原初状態では、各世代が参与するという文字通り民主的な手続きで世代間にわたる原理を採択することはできないが、無知のヴェールのゆえに結果的に、民主的な内容の原理が採択されるのである(10)。
しかし、ロールズとシュレーダー=フレチェットとでは違いがある。幸福な世代が不幸な世代を助けることは時間的に不可能なので、格差原理は世代間には働かない。ロールズが世代間にもちだすのは貯蓄原理であって、ここでは不幸な世代として前の世代が想定されている。各世代はその豊かさの程度に応じて(というのは、目標は次代の幸福そのものではなく、世代間の公正であるから)貯蓄を次代に残す。一方、シュレーダー=フレチェットでは、不幸な世代として後の世代が想定されているので、議論は消費の制限に通じていく。ロールズのいう貯蓄には精神的な富も含まれるから、禁欲的な生活態度がそれであってもよい。しかし、いずれにせよ、貯蓄が労働や広い意味での努力の積極的な成果であるのにたいして、禁欲はそうではないので、シュレーダー=フレチェットでは、前代から得たものを次代にそのまま伝えねばならないかのようにみえてしまう。彼女の議論はロールズ以上に非歴史的なしかたで世代間に「公平な」配分の実現を要求している(11)。
また、ロールズは、世代間の正義を導入するために、原初状態における契約の当事者を、まず、家系を代表し、少なくとも直接の子孫の利益を顧慮する者として特徴づけている。この想定が必要なのは、社会契約の成立は契約のもたらす自己利益に依拠しているからである。ロールズが個人だけでなく家族を利己的な行動をする単位とみなしていることはよく知られている。一方、シュレーダー=フレチェットは、こうした媒介なしに無知のヴェールのゆえにただちに未来世代を原初状態に参与させうるように議論を進めている。もしそうなら、彼女の議論は、結局、未来世代は現在世代と同等であるがゆえに同等であるという論点先取に陥るだろう。
もっとも、シュレーダー=フレチェットの議論の疑問点にたいして、どこまで彼女自身が責めを負うべきか、それとも、ロールズにもすでにその責めは及ぶのかは明確ではない。ロールズにたいしても、無知のヴェールによって(世代を含めて)一切の状況と性格とを捨象したあとになお選択は可能なのか、また、(世代間も含めた)公平が導かれる正義の原理はさまで優先される必然性があるのか、などと問うことができるからである(12)。しかし、少なくとも、シュレーダー=フレチェットでは、ロールズ以上にあらわなしかたで、世代間の公平が強調され、それとともに、存在・非存在の違いと時間の不可逆性が捨象されている。彼女がこの結論を引き出せたのは、ロールズの前提を疑いなく自明なものとして受け入れているからか、それとも、未来世代にたいして最初からきわめて強い共感を抱いているからか、いずれかである。後者なら、彼女にとって、ロールズの正義論はたんなる手段にすぎまい。実はその可能性はじゅうぶん考えられる。というのは、彼女は自説を補強するのにヨナスを引用しており(13)、しかし、ヨナスは未来世代への配慮を正義の原理という同等の関係にではなく、不同等の関係にもとづけているからである。
四 不同等の関係による基礎づけの例(責任の原理)
ヨナスは、未来世代と現在世代の同等性に立脚するシュレーダー=フレチェットのような主張を否定している。まだ存在しない未来世代には存在する権利も付与できないからだ(14)。それでも、現在世代は未来世代に道徳的に配慮すべきである。というのは、未来世代の存在(Dasein)とそのありよう(Sosein)は、現在世代の環境危機にたいする対応如何に依存しているからである。このような不同等の関係から、現在世代の未来世代にたいする責任が生じてくる。一般に、私が責任を負う対象とは、その存在が私の力に依存しているか、私の力に脅かされているものであり、このとき、そのものはまさにそれが存在するがゆえに、あるいは、存在しうるがゆえに、私にそれを存在せしめるべしという当為をつきつけてくる(175)。ヨナスによれば、責任は私に避けようもないしかたでふりかかってくるのであって、だから、彼は責任の原型に親子関係をあげ(85)、みどり児を世話すべき者には「[みどり児を]みよ。君には分かっている」という呼びかけでその責任を喚起することができると考えている(235-6)。
しかし、人間が責任を感じうる対象がいっさいの「移ろいつつある移ろいやすいもの」(226)にわたっているにしても、人間が存在せしめるべきものはそのなかの一部の善きものにすぎないのではあるまいか。ここにはヨナスの特有の自然哲学、ないし、形而上学が控えている。彼によれば、生命現象は消化器官のような生物個体の一部の活動からすでに目的をもった営みである。目的をもつものが目的を達成することが善である。それを妨げるべきではない。目的をもつ存在はそれにたいする当為をすでに含んでいる。それどころか、自然は生命をもたないものから生命をもつものへと目的論的に連続しているのであって、生物に端的に見出されるような合目的性は無生物を含めた自然全体に潜在している。生物の活動は生物自身の目的であるとともにそれを産み出した自然の目的でもある(157)。感覚能力や意識能力や知的能力は自然の自己実現の諸段階にすぎない。この自然の合目的的連続性のゆえに、自然のなかのあらゆるものについて、存在は善である。かくして、ヨナスは、存在と当為と価値の区別や自然主義的誤謬という非難を、合目的性を排除した機械論的自然観もろとも打ち捨てる。
それでは、人類の存続には特記すべき意義はないのだろうか。当然、人類もまた存続すべきである。人類も自然の一部だからだ。けれども、そのかぎりでは他の種の存続が善であるのと変わりはない。むしろ、人類が他の種を絶滅させていることからすれば、「人類の存在が全世界にとって喜ばしいことか恐るべきことか、おそらくその帳尻を考えれば、人類の存在を支持するのはかなり難しい」(186)。だが、それでもなお、人類の存続、未来世代の存在が人間の果たすべき責任のなかの第一のものである。なぜなら、人間のみが責任を負うことができるからである。もちろん、このことは人間がつねに現実にその責任を果たすことを意味しない。みどり児の泣き声が聞き届けられない可能性もある。人間は「異論をはさめないしかたで」(252)責任を負っているとはいえるにしても、抵抗できないしかたで責任を果たすわけではない。しかし、だからこそ、人間は道徳的に善でも悪でもありえ、責任を問われる存在でありうる。責任を負う者が存在しなければ、もはや道徳も存立しない。ヨナスはこのようにして、生物種としての人類の欲求や利己心とは独立に、道徳の成立する基盤としての人間に依拠して環境倫理を展開しているのである。
五 責任の原理と動物解放論
人類の存続が「第一の命令(186)」であるにしても、ヨナスの自然哲学からすると、道徳的に配慮すべき客体はたんに人類の未来世代だけでなく人類以外の存在にも及びうる。しかし、同じ可能性をもつ他の種類の環境倫理とヨナスの思想のあいだには違いがある。
まず、動物解放論の代表者であるシンガーとヨナスを比較してみよう(15)。シンガーはヨナスの目的論的自然観を共有していない。ヨナスでは、存在ないし自然はひとつであり(137)、生物なら生物という特定の領域を他の自然から選別することは彼の課題ではない。シンガーでは、動物は快や苦を感じる感覚能力をもつゆえに他の自然から截然と区別されて、道徳的に配慮される客体を構成している。というのは、功利主義からすれば、苦の減少と快の増大が善だからである。また、両者は道徳の基礎づけにおいても異なっている。第一に、ヨナスの責任の原理が不同等の関係に依拠しているのにたいして、シンガーは、権利という概念を避けているものの、動物もまた感覚能力をもつ点では人間と同等であるというしかたで道徳的客体の範囲を拡大している。だが、いっそう重要な違いは、責任の原理による道徳の基礎づけが二重の構造をなしているのにたいして、功利主義的な動物解放論は一重の構造だという点である。ヨナスでは、人類の存続がまず命令され、それによって道徳の基盤、すなわち責任を担う存在の継続が保証される。個々の環境問題についての具体的な道徳判断は、こうして保証された基盤のうえであらためて形成される次階の道徳であり、しかも、この次階の道徳の具体的な指針はヨナスでは明示されていない。これにたいして、シンガーでは、功利主義という単一の基準が、道徳の基盤を形作るとともに道徳的客体の内部での価値づけにも適用されている。したがって、人間の利益と動物の利益が対立する具体的な問題、たとえば、実験なり食肉なりの行為が道徳的にはどこまで許されるかと問うたとき、おそらく責任の原理は回答を用意できないのにたいして、功利主義的な動物解放論はその行為がもたらす結果の快苦それぞれの量を秤量することでいずれか一方の利益を優先する回答を出すことができるはずである。具体的な指針を示しうるという点にかぎっては、功利主義的な動物解放論は責任の原理よりも優れている。
しかしながら、功利主義的な動物解放論のような一重の構造では、道徳の基盤を支える原理が道徳的客体のなかでの優先順位を決めるのに適用されることで、道徳的客体にたいする尊重がつねに相対化され、しかも、道徳的客体の多くは同時に道徳的主体でもあるから、結果として、道徳の基盤そのものがなしくずしに掘り崩されてしまうおそれがある。その一例をエンゲルハートの生命倫理の文献のなかにみることができる(16)。エンゲルハートはシンガーと同じように功利主義の立場に立つが、シンガー以上に道徳の基礎づけとその基礎のうえで形成される具体的な道徳との二重構造に留意している。だが、そのエンゲルハートによれば、誤って脳死と判定する場合のほうが誤って生きていると判定する場合よりも費用と便益の点からよい。疑陽性判定をされるほどの損傷があれば、道徳の基盤の構成員である厳密な意味での人格に戻る見込みがないと想定しているからだが、しかし、境界的なケースとはいえ、道徳の基盤を限定するのにその基盤のうえで決定されるべき社会の利益という主張を持ち込むのは明らかに不法な越境である。シンガーにおいても、快楽計算にしたがうかぎり、知的能力を含めた感覚能力の劣る存在を優れた存在の利益のために犠牲にする可能性が原理的に排除できず、そのために道徳的尊重は相対化され、道徳の基盤は掘り崩されかねない。一重構造では道徳の堅固な基礎は形成できないのである。
六 責任の原理と土地倫理
つぎに、レオポルドの土地倫理をとりあげよう(17)。少なくとも、自然を有機的に連関しあう全体として捉える点では、レオポルドとヨナスは一致している。レオポルドは自然を土壌・水などの無生物と動植物とを含んだひとまとまりのエネルギー循環の回路を土地(land)という象徴的な呼称で捉えている。たとえば、地形や水流などの無生物の特定のありようと植物の繁茂、動物の営巣は相互に依存しており、また、生物の食物連鎖は下部のエネルギー循環の回路として土質の安定に役立っている。こうした土地のまとまり、すなわち生態系の安定した平衡を保つのに貢献することが善であり、破壊することが悪であるというのが土地倫理の骨子である。
しかし、土地倫理と責任の原理は道徳の基礎づけについてはやはり異なっている。第一に、土地倫理もまた、責任の倫理と違い、同等の関係に依拠している。土壌、水、動植物などの土地の構成員は土地のまとまりに不可欠な点で同等であり、それゆえにそのままの状態を保つ権利が平等に認められている。第二に、土地倫理もまた、責任の原理と違い、一重の構造をなしている。土地の構成員間の平等、生態系における民主主義という単一の原理は、個々の道徳的客体をどれほど尊重すべきか、という具体的な道徳判断を下すのにもそのまま適用され、そこから、たとえば、それぞれの種の生物は土地のまとまりを保つのに適した数だけ存在すべきだという結論が導き出される。これにたいして、ヨナスに、たとえば、責任を負うためにどれほどの人口が必要か、一般に種の適正数はいかにして決まるか、利益が対立する種のどちらを優遇するかなどと問うても答えは出ない。なぜなら、先に記したように、責任の原理は責任という道徳の基礎を確保しただけであって、その基礎のうえで問うべき道徳的客体への配慮の程度の問題にはまだ立ち入っていないからである。要するに、責任の原理では、自然の存在は明らかに善であるが、その善を現実に成就するための指針は明らかではない。
しかしながら、土地倫理もまた、一重の構造であるゆえに、その基礎づけは堅固ではない。というのは、土地のまとまりや土地の構成員は長期的にみればそれ自身で変化していくものだから、現時点のそれを保つべき根拠は原理的にはないからである。たしかに、人類の活動のために多くの種が絶滅している現在、土地倫理は強烈な異議申し立てとして意味をもっているが、しかし、現時点での生態系のなかの個々の構成員の適正な取り分(たとえば、適正な個体数)が超歴史的に適正であるという根拠はない。それでも現時点の生態系を保つのが善だとするならば、歴史的に展開されるはずの多種多様な土地のあり方のなかで、とくに現在の特定のそれを特記する根拠を補完しなくてはならないだろう。
以上みてきたように、責任の原理と動物解放論と土地倫理のあいだにはいくつかの点で異同がある。キャリコットによれば、動物解放論と土地倫理は、ともに人間中心主義を脱している一方、前者の発想は原子論的、後者の発想は全体論的と対蹠する(18)。この比較にさらに責任の原理を突き合わせるなら、責任の原理もまた人間中心主義を脱しており、自然観については土地倫理と同様に全体論的である。だが、キャリコットの区別は動物解放論と土地倫理ではそのまま道徳的価値の配分の区別でもある。つまり、動物解放論は感覚能力を基準とするので個体が道徳的客体になるのにたいして、土地倫理は種が道徳的客体である。これにたいして、責任の原理では、自然観がそのまま道徳に反映されるわけではない。というのも、その道徳の構造は、道徳の基礎とその基礎のうえで形成されるべき道徳との二重構造だからである。そして、責任の原理では、後者の道徳がなお形成されていないゆえに、具体的な問題について解決策を示せないのにたいして、動物解放論や土地倫理は明確な指示を出すことができる。しかしながら、道徳の基礎づけに関しては、責任の原理は他の二つよりもいっそう堅固である。というのは、道徳の基盤を画定する原理がそのまま道徳的配慮の優先順位を決するのではないというその二重構造のゆえに、その基盤のうえで形成される道徳は、道徳の基盤の構成員、つまり道徳的主体にとっての利益を反映した自己中心的で、したがって恣意的なものであるという嫌疑をさしあたりは免れているからである。
七 責任の原理と討議倫理学
しかし、そうした二重構造は責任の原理に特有のものではない。この意味で、討議倫理学の立場からのヨナス批判は注目に値する。というのは、討議倫理学では、理想的コミュニケーション共同体という道徳の基盤がまずおかれ、それを統制的かつ目的論的な理念とする現実のコミュニケーション共同体において、具体的な状況に関する道徳規範が合意をつうじて形成されるというしかたで二重構造をなしているからである。
このような構造を明確に自覚して築き上げている討議倫理学からすれば、ヨナスの議論には異質な前提が夾雑しているようにみえるだろう。ヴェルナーは責任の原理の基礎づけを直観主義的なそれと自然哲学−形而上学的なそれとに整理している(19)。前述のみどり児の例は前者であり、目的論的自然観は後者である。前者では、責任の及ぶ領域と責任が問われる審級とが区別されていない。私はみどり児を世話する責任を直観するにしても、かりに世話を怠ったときに責任を問われるのはまさにその直観においてでしかなく、端的にいえばみどり児を目のまえにしている私の良心の呵責をつうじてでしかない。だから、ヴェルナーによれば、ヨナスは責任を不可避なものとして確立するのに自然哲学−形而上学的な基礎づけによる客観主義的価値論を必要とした。しかし、このようなやり方では、すべてのひとがそれに拘束されるほどに普遍的で、かつ、それ以上遡ることができないほどに究極的な基礎づけはなしえない。いうまでもなく、討議倫理学がめざしているのはそのような基礎づけである。
けれども、ヴェルナーは過小評価しているようだが、ヨナスの基礎づけもまた不可遡及的な性格は帯びている。というのは、たとえ直観や形而上学的自然哲学から出発しているにしても、そこから導き出された人類の存続を命じる第一命令は、人類が絶滅したなら責任の、それゆえ道徳の可能性はありえないので、道徳を論じるかぎりは人類の存続を否定すれば自己矛盾に陥るということを含意しているからである。カントは自殺を普遍的道徳法則に合致しないと断じたが、その隠れた前提には道徳の基盤である目的の王国が存立する可能性の確保があったにちがいない。ヨナスの第一命令はこれと同じように読みとれる。この脈絡から、アーペルはヨナスの第一命令には全面的に賛同する(388)(20)。というのは、アーペルからすれば、この命令は理想的コミュニケーション共同体が存続する可能性の確保を含意しているからだ。とはいえ、ヨナスにたいするアーペルの評価は両義的である。アーペルによれば、現代の環境危機に対処するには、人類の集合的な行為が長い歴史的な過程のなかで及ぼすだろう結果にたいする人類の共同責任を基礎づけるような倫理が必要であり、しかも、この倫理は集合的行為、共同責任、歴史性という点で従来なかったものである。アーペルは、ヨナスがそうした新たな倫理を示唆したことを高く評価するものの、ヨナスの直観主義基礎づけは啓蒙以降の徹底した懐疑には耐えられないし(393)、その存在論はカント以前の独断論であると批判している(389)。また、ヴェルナーも同様の指摘しているが、ヨナスでは正義を普遍化する方向を欠き、相異なる利益を調停する具体的な指針を欠いている。先に記したように、ヨナスは二重構造における次階の道徳に立ち入っていないので、そうした批判を受けざるをえないだろう。
これにたいして、討議倫理学では、(徹底した懐疑論者も含めて)理性を用いる者ならだれでもそれを否定すれば自己矛盾に陥ってしまうような規範が道徳の基礎におかれ、そのような規範にのっとった理想的コミュニケーション共同体が築き上げられる。この共同体に参与する者はまさにこれに参与するかぎり、ということは、自己矛盾を犯さないかぎりは、先の規範を守る共同責任をも必然的に担っている。しかも、この共同体は先の超越論的遂行論的基礎づけからして理性を用いる者すべてを包括するほど普遍的だから、共同責任を担う者も同じだけ普遍的に広がっている。具体的な状況にたいする道徳的指針は現実のコミュニケーション共同体で討議されるが、現実のコミュニケーション共同体は理想的コミュニケーション共同体に漸近する志向をもっているので、討議倫理学はヨナスの責任の原理と異なり、具体的な指針についてもまったく立ち入っていないわけではなくて、すべての者に受け容れられるようなしかたで指針を追求するように示唆している。そして、この具体的な指針は先の共同体において決定されたのだから、共同体の構成員全員がその指針を実現する共同責任もまた負っている。たしかに、理想的コミュニケーション共同体の規範からは、二重構造のゆえに、特定の内容の具体的な指針は演繹できるものではない。しかし、だからこそ、これまで述べてきたさまざまな環境倫理が、つまり、おそれに依拠した森の思想も、未来世代にたいする強い共感も、直観と目的論的自然観による責任の原理も、功利主義的な動物解放論も、土地倫理も、コミュニケーション共同体に参与することができるわけである。
かくして、基礎づけという点からすれば、討議倫理学はこれまでとりあげた他のどの思想よりもいっそう優れている。だが、基礎づけの優劣を決める重要な基準は相異なる主張をどれほど排除しないかという普遍性にあるのだから、もともとこの点では、討議倫理学は有利なのである。なお残っている重要な論点は、コミュニケーションの普遍性が現実に保証されているのかどうかという問題である。いったい、ある主張がその内容のゆえに討議から排除される可能性はないのだろうか。アーペルもまたこの問題を意識しており、人間以外の生物の利益がどのようにして討議のなかで顧慮されうるかという問いをみずからとりあげている。アーペルによれば、コミュニケーション共同体に参与でき、したがって、共同責任を担いうるのは論証能力のある者にかぎられているが、それから外れる存在(人間以外の生物は当然ここに含まれる)の利益についてもコミュニケーション共同体に属す者が代理して主張することができる(394-7)。アーペルはただ理念的な可能性を示唆してみせたわけではない。彼によれば、現代の生態学や生物学の解釈学的知見からすると、自然、とりわけ高等な生物は人間の行為のたんなる客体ないし物件ではなくて、コミュニケーションに参与しうる主観に似た類比的なものとして捉えるべきなのである(397)。もっとも、アーペルにこう皮肉に問うことはできよう。ヨナスの自然哲学がカント以前の独断論であるのにたいして、どうして現代の科学の知見はいっそう説得力があるのだろうか。もちろん、これにたいするアーペルの平然たる答えも推測できよう。つまり、どの主張がどれほど多くのひとに受け入れられるかということは討議のなかで決まることである、と。現代科学の知見にもとづいて人間以外の生物への配慮を説くアーペルは討議の参加者であって、理想的コミュニケーション共同体について説明しているアーペルと同一人物ではあれ、関わっている次元が別である。討議倫理学者自身の主張も、他の主張と同様に、討議にさらされなくてはならない。したがって、一方で、直観主義的な、あるいは、形而上学的な基礎づけに依拠するさまざまな種類の環境倫理もまた、討議に参与するかぎりは、その主張を討議の場で力強く展開するよう努めなくてはならないだろうし、また一方で、その主張を聴く者は、討議の普遍性を遵守するかぎりは、どのような主張にも開かれていなくてはならない。啓蒙以降の懐疑やカントによる独断論の否定を共有する立場からすると、ひょっとすると、ある種の環境倫理は「およそ哲学者がかつて抱いたことがなかったほどにばかげた考えはない」(21)という印象を与えるかもしれない。だとすれば、たしかに、討議倫理学は道徳の基礎づけという点では他の環境倫理よりも優れているものの、討議倫理学がみずから標榜しているように現実に普遍性を保証しているかどうかということは環境倫理をとおして試されてもいるわけである。
註
(1) H・スピーラ「成果をあげた動物実験反対闘争」、P・シンガー編、戸田清訳『動物の権利』、技術と人間、一九八六年。
(2) シンガーの「種差別」、A・レオポルドの「生態系における民主主義」などの概念にこの傾向は端的に示されている。
(3) L・ホワイト『機械と神』、青木靖三訳、みすず書房、一九七二年。
(4) 梅原猛『森の思想は人類を救う』、小学館、一九九一年。梅原猛・伊東俊太郎編『森の文明・循環の思想』講談社、一九九三年。
(6) G・オーウェル『一九八四年』、新庄哲夫訳、早川書房、一九七二年。
(7) 唐木順三「おそれといふ感情」、『日本の心』、筑摩書房、一九六五年、百三頁。
(9) K・S・シュレーダー=フレチェット「テクノロジー・環境・世代間の公平」、同編『環境の倫理』上、京都生命倫理研究会訳、一九九三年。
(10) J・ロールズ『正義論』、矢島鈞次監訳、紀伊国屋書店、一九七九年、二二四頁。以下、同書のとくに四四節を参照。
(11) 歴史的という概念については、R・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、嶋津格訳、木鐸社、一九九二年、二六〇頁。
(12) M・J・サンデル『自由主義と正義の限界』、菊池理夫訳、三嶺書房、一九九二年、第一章1、2節。
(14) Jonas, H., Das Prinzip Verantwortung,Suhrkamp, 1984, S.84.以下、同書からの引用は本文中に括弧内に頁を記す。
(15) P・シンガー「動物の解放」、シュレーダー=フレチェット編、前掲。
(16) H・T・エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』、加藤尚武・飯田亘之監訳、朝日出版社、一九八九年、二四九頁、二五五頁。
(17) A・レオポルド『野生のうたが聞こえる』、新島義昭訳、森林書房、一九八六年。
(18) J・B・キャリコット「動物解放論争 三極構造」、小原秀雄監修『環境思想の多様な展開』、東海大学出版会、一九九五年。
(21) キケロのことば。おそらくDe NaturaDeorumからの引用だろうが典拠を確認できなかった。Johnson, L. E., AMorally Deep World, Cambridge UP, 1991, p.7 から孫引きする。
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