フッサールにおける習性の問題
品川哲彦
『関西哲学会紀要』、第21冊、関西哲学会、1987年3月25日、23-29頁
これから私がとりあげようとする習性(Habitus・Habitualität)は、これと類似の概念、例えば習慣・習わし(Gewohnheit)などと同様に、個人もしくは共同体が身につけている固有のあり方という意味で、しかも習性が既に形成された時点で、一般に論じられてきた。習性に関して手近に思いつく問題といえば、その習性の所有者が個人であれば、習性を基とする性格分類等の問題が、また、その習性の所有者が共同体であれば、その文化・宗教・社会制度の特徴づけ、比較等の問題が挙げられよう。が、いずれにせよ、こうした問題の立て方では、個人・共同体の別なく、その習性の所有者が世界のなかに客観的に存在していることが前提され、習性はその客観的存在に付属するものとして論じられている。
しかしながら、以下、私がとりあげるフッサールの習性の概念については、たしかに最終的には習性がその所有者(フッサールはこれを人格と呼ぶ)のあり方を告知するものであるにしても、はじめから人格の客観的存在を前提しているわけではない。というのも、フッサール現象学の関心はつねに、客観的に存在するものそれ自身にあるのではなくて、そうした客観的対象的存在が体験においていかにして構成されるかという点に向くからである。フッサール現象学のこうした傾向はとりわけ中期の現象学的還元(世界の存在定立の排去)に際立った形で表れているが、しかしその初期以来の志向性の概念(「体験はすべて何かについての体験である=対象はすべて何らかの作用の対象である」)に既に認められる。客観的存在の主観化、現象学を一貫して指導した理念はこう言い表せよう。この理念の下では習性もまた志向的体験から取り出されねばならない。こうした観点から習性がどのように定義されるか。ここで簡単に定式化しておこう。《そのつどの志向的体験において自我は知覚する、想像する、愛する、憎む、価値づけする、欲する等さまざまな作用を通して対象に向かう。同時に、対象は作用を通してこれこれのものであると意味づけられ、判断される。》習性とは、対象についての判断を伴うそれら作用の沈澱をいう。
しかし、この意味の習性はまさしく沈澱、痕跡を残すものとして以後の作用に影響を及ぼさざるをえない。即ち、新たに目前に現れた対象がいかに意味づけられるかを、自我が過去から持ち来った習性が規定することになる。従ってここでは習性は認識論的関心からとりあげられる。ここで問題なのは、フンケのいうように、ontischなものではなくてフッサールのいう超越論的なもの、対象の意味を形成し世界を構成する自我の働きなのだ。
以下、私はまず、(一)、習性並びに人格の形成について、ついで(二)、その必要性、さらに(三)、その問題点という順で論じていこう。
一、習性並びに人格の形成について
私たちが対象を知覚する際には、無意識のうちにも、その対象をよりいっそうよく知覚できるように体を動かし、感官を働かせる。例えばそこにある物を手にとる、回す、体を曲げ、あるいは裏に回って対象を詳しく規定しようとする。これに応じて対象の異なった側面が現れてくる。が、裏側が現れる時に先の正面が裏に廻っているように、対象は一挙にその全面にわたって十全に与えられることなく、つねに射映を通じてのみ与えられる。しかし、正面や裏側がその一つの物の正面や裏側であるように、内容を異にするさまざまな射映もすべてその同一の対象の射映である。とすれば多様な射映を越えた先に対象が同一のものとしておかれることになる。逆方向に目を向けよう。対象が射映的に与えられるのは私たちが体や感官を動かすからであるとすれば、私たちはそのつど正面、裏側等にめがけて身を向けていることになる。これを放射と呼べば、対象の個別側面めがけて放射が発射するのに応じて対象は個別側面の射映を投げ返してくる。では放射はどこから対象へと発射され、射映は対象からどこへと射し込むのかといえば、もはや放射の多様を越えた同一者、自我にである。つまり多様なる放射・射映の両端に同一なる対象と自我とが二つの極として存在している。
以上、一つの作用についていえたことを、次にフッサールは異なる複数の作用について拡大し、適用する。
私たちは知覚した対象を後から想起する、また、今はこうなっているだろうと想像する、さらには単に知覚するのみならず評価する、愛する、欲する等さまざまな作用を異なる体験において同一の対象に向けることができる。このとき多様なる作用の両端に作用の多様を越えて同一なる対象と自我との両極が存在する。つまり、自我はその全体験が形作る体験の流れのどの局面にも作用の遂行者として同一のものとして居合わせているわけである。しかもこの自我は志向的体験から純粋にとりだされたものであって、ある特定の時空に位置を占めた世界の一部として対象化される経験的自我ではない、即ち純粋自我だといえる。フッサールの考察した自我はまず作用の同一極としてのこの純粋自我だった。フッサールは『イデーン』一巻のなかで純粋自我の純粋性を保つべくこう述べる。純粋自我は全く空虚であって、いかなる内容ももたぬ。単独には記述しえぬ。純粋自我というのみだ、と。
しかし『イデーン』二巻ではこの純粋自我と異なる、というよりもこれを発展させた別の自我概念が生まれる。というのも自我は同一だとしても、ある体験は以後の体験の過去地平となり、同一の体験が二度あることはないからである。再び体験の場に話を戻そう。どの体験においても自我は対象についてこれこれであると意味づけ、判断を下す。その体験は自我が他の対象へ眼差しを向けると同時に過ぎ去っていくが、その体験において下された判断は後の体験においてその判断を覆すような動機が生じない限りひきつづき有効である。こうした判断は、いかにその内容が陳腐であれ、その自我が下したゆえにその自我固有のものとしてその自我の所有(Habe)にかかり、習性的な判断としてその自我の習性(Habitualität)を形作る。
ここで判断という語について二点補足する。第一に、ここでいう判断は狭い意味での理論的な判断には限らない。むしろあらゆる作用に判断が伴うのだから、習性のなかには知覚、想起、期待、推論、喜び、希望、決心等あらゆる作用に由来する判断が含まれる。ことほどさように習性は普遍的な概念なのである。第二に、ここでいう判断は決して中立的なものではなく必ず肯定的、即ち自我によって然り(Ja)と承諾された判断である。それゆえ判断は確信とも呼ばれる。このことは習性が単なる受動的な連想ではなく、自我が諾否を決定する自由のある動機づけの下に生じることを意味する。ちょうど払いのけてもなおしつこく付きまとう悪しき連想に抗って判断を下す時のように、習性は主体的な自己の態度決定によって築かれるのであって、従ってこの習性による自己決定の責任は自我に帰せられる。フッサールのいう習性は作用(Akt)の沈澱なるゆえにもともと能動的(aktiv)、主体的な性格を帯びているわけである。
しかし、習性はそのまま能動性に留まるわけではない。習性はそれが形成された当の体験が過ぎ去ると同時に直ちに受動性のなかにくみいれられる。といっても習性は単に記憶のなかにしまい込まれてしまうわけでもない。先の対象が再び目前に現れた時、自我は受動性のなかに退いていた習性的確信をとりだし、「然り、これは何々だ」と改めて判断し直し、再び能動化するのである。受動性はつねに再能動化を待ち受けている。そして、より重要なことに、習性は同一の対象のみならず類似の対象に対しても働く。見知らぬ道具はその形が私たちの熟知している道具と似ていることからその用途が理解される。かつて愛したものと類似の、しかし新たな対象を、私たちは初めからある懐かしさをもって受け入れる。こうした場合には習性が予め対象に関する類型的な知識を与え、初めて出会った物を既知の枠組みのなかで捉えさせているわけである。 さて、こうしてさまざまに異なる体験の時点にその習性的確信が続く限り、自我は同じ判断を繰り返し下すわけだが、判断の示すこの固定的なスタイルが人格を形成する。習性を所有するとは、同時に、これこれの習性をもつ自我として、こうした場合にこうした判断を下す自我として自我が規定されることでもある。習性の一貫性を通して私たちの自我は同一の人格として私自身にも他者にも理解されることが可能となるのである。
では、習性並びに人格の概念はなぜフッサール現象学のなかで要請されたのか。いいかえれば、なぜ最初の自我概念、作用の同一極としての空虚な純粋自我に留まらなかったのか。この問題を次に検討しよう。
二、習性、並びに人格の必要性
作用の同一極としての自我は、先に述べた通り、二つの段階において、まず一つの体験における多様な放射の同一極として、次に複数の体験における多様な作用の同一極としてとりだされた。まず第一の段階に目を向けよう。そこでいわれている自我から対象への放射及び対象から自我への逆放射、射映は、自我、厳密にいえばその身体と対象の位置関係からのみ規定されている。いわば対象、自我はともに位置関係という関数の値にすぎず、従ってこの自我は誰の自我ということもなく、また現在の知覚に限って全く抽象的にとりだされている。さて第二の段階の、作用の同一極としての自我では、複数の体験は前提されているもののその複数の体験及び作用の相互の関係に自我がいかに関わるかは明示されておらず、ただ全体験の流れのどの局面にも同一の自我が居合わせていることが主張されている。けれども、体験流の統一の保証を自我の同一性に訴えることはできないように思われる。というのも自我が空虚な同一極に留まる限り、体験流の統一性を自我の同一性に求めても、この自我の同一性が空虚であるゆえに再び一なる体験流、フッサールのいうモナド的流れに属することで、即ち再び体験流の単一によって保証されねばならないからだ。とすれば自我の同一性と流れの単一性は相互依存的な概念として同じ事態を別様に表現するものと捉えられる。では、ここで何がいわれているのか。そもそもその自我の同一、その流れの単一が強調されること自体、その自我、その流れならざる他の、複数の自我、流れの存在を暗示している。とすれば、ここでさしあたりその自我として捉えられた自我はこの私の自我なのであって、つまり自我一般ではない具体的事実的な自我なのである。作用の同一極としての自我をとりだした二段階の証明は、多様と統一、作用の遂行者とその相関項という二つの図式を共有しつつも、その語っている自我性格に微妙なずれをもつといわねばならない。マールバッハはこれをフッサールの自我概念における身体的に規定される自我と体験流の統一原理としての自我との分裂とみる。私は、ここでは自分の関心に従って、作用の同一極ということではフッサールの自我概念のもつ事実的性格が暗示されるに留まっていると結論しておく。
これに対して、『イデーン』二巻に示された人格概念はまずその習性的確信から規定される、いわば空虚でない内容をもった同一性を帯びている。ある体験において自我の形成した習性的確信が新たな体験における新たな対象の意味づけを規定することから、体験相互が習性をもった自我によって関連づけられている。先の体験は後の体験を規定するのであって、このことは自我のなす対象への意味づけはただその体験を個別にとりだしては論じられず、そこで自我がさまざまな意味づけを行ってきたその体験に至るまでのその自我固有の体験の進行、いわゆるモナド的流れのなかで捉えられねばならぬことを意味する。モナド的流れをいう積極的理由もここにある。即ち自我は彼に固有の体験を積み重ね彼に固有の習性的確信をふやしつづけていく、彼に固有の歴史を負うた自我なのである。しかも自我と体験流の複数性を考えるならば、私以外の私に先行する自我や私と同時に存在する自我それぞれの歴史形成のなかに、つまり特定の歴史的状況のなかに私の自我は生まれ合わせ、生きているわけである。
このように、その自我自身の作用から生じる習性を通して人格であることにおいてこそ、自我は事実的具体的なこの私の自我となりうる。従って、『イデーン』一巻における作用の同一極としての純粋自我から『イデーン』二巻における習性をもった人格としての自我への移行は、フッサールの自我概念が本来、暗示的にではあれ、帯びていた事実的性格が明示されるに至った、という仕方での内的進展であったということができる。
三、習性並びに人格の問題点
ところが、こうしたフッサールの自我論は《作用の遂行者としての純粋自我が同時に特定の歴史的状況の内にある人格であることの謎》を解決すべき問題として負うことになる。以下、この問題を解釈して結びとしよう。
純粋自我と人格としての事実的自我、この両者の関係は、自我の作用はいかなる事実にも制肘されないとする立場からは問題になりえない。というのもその場合には純粋自我のみが作用の遂行者となり、人格を含めて他の一切が作用の対象となるからだ。むろん従前の論述はこうした見解を斥ける。ここでは人格としての自我が単なる対象、客観的存在ではなく認識主観であることがいわれねばならないのである。フンケはこの問題について、作用が向かうのは対象であって習性ではない、従って習性は存在措定されず、それゆえ習性の基体である人格としての自我は客観的存在ではないと論じている。この論証では人格が私自身の反省作用や他者の作用の対象ともなる点に触れていない。しかし、むしろあえてそこに触れず、習性の主観性を強調することで、この論証は認識者としての人格と対象としての人格をさしあたり分けて論じねばならぬことを指摘しているのである。同じ事態を、マールバッハは純粋自我と人格的自我の同一とともに両者の峻別を主張することで言い表している。認識者としての人格を表すこの人格的自我という語を使えば、当該の自我と人格を巡る謎とは、決して遂行者としての自我が対象としての人格になることの謎ではなく、遂行者としての人格的自我がいかにして歴史的事実的状況に影響されるかという謎になる。ここで自我はすべて歴史的伝統の網の目のなかに生まれてくるなどといっても不毛だろう。というのもそうした論じ方では、歴史的状況のなかをともかく主体的に生きている人格的自我の主体性がいえないからだ。ここでもまた客観の主観化という理念に従おう。すると、歴史や伝統もまた私に先行する、あるいは同時代を生きる他の人格的自我の作用の沈澱なのだと捉え返せる。だとすれば、当該の純粋自我が同時に人格としての事実的自我である謎とは、人格的自我はいかにして先行的、同時的な他の自我の作用の沈澱をうけつぐかという謎にしぼられる。そして歴史や伝統がどこから流入するかといえば、自我がそれを通して事実的となりえた習性をおいてほかにない。では再び習性に話を戻そう。
習性とは、前述の通り、対象に関する「然り、これは何々である」と必ず肯定的な態度決定を伴う判断であった。この然りという断定は全く顕在的に意識されて下されるのであって、従って習性的確信は受動性の内に退いた後もなおいつでも自由に能動化されうるようにフッサールでは考えられている。
しかし、私に先行する人格的自我が既にあるのだから、私が対象を意味づける時に用いる意味を私に先行する人格的自我もまた用いており、その結果彼らの下した判断の生み出した意味の連関を一つ一つの意味は負うているのだと考えられる。そこで私の下した判断が私自身にきわめて自明なものにみえようとも、その判断が成立する背景には先行する自我の作用の沈澱である複雑な意味連関があることもありうる。けれどもそうした沈澱している意味連関を自我は判断の際に悉く顕在化し、改めて然りと判断し直して自己の習性にしていようか。むろんそうではなく、私たちは他者との伝達を介して意味の沈澱を教えられている。とはいえ全く自我の与り知らぬままに受動的に教え込まれているのでもない。というのも私たちは自分の下した判断が後日否定される時、その判断を下した隠れた前提として働いていた諸判断の意味連関を自分が暗黙の内にではあれ肯定していたことに気付くからだ。だとすれば、そうした非顕在的に肯定されていた諸判断もまた、顕在的に下された判断と同時に、これに伴って私の体験流に属していたことになろう。こうした顕在的肯定なしに下された判断に対する態度決定を、明らかにフッサールの用語を踏み越えることになるが、私は潜在的然りと呼ぶ。フッサール本来の習性は顕在的に意識されて下された判断から成るのに対して、私の解釈は習性を潜在的に下された判断を含むよう拡大させたわけである。従って、私の解釈では、歴史、伝統の人格的自我への流入は潜在的然りを伴う判断を介して行われるということになる。一方、フッサール本来の習性概念に留まれば、沈澱している意味連関を悉く顕在化して歴史全体を人格的自我の体験流のなかで全く再構成しうるかのような結論に導かれよう。
さて、潜在的然りとともに下された判断はまさしく潜在的なるゆえに後の体験において自我が自由にとりだしうるものではない。それどころか、それが顕在化するには認識論的関心だけで足るものでもない。それは例えば異なる文化、歴史的状況等との出会いを通じて、私たちに自明と思われていた確信が覆される時にはじめて顕在化するといえよう。こうして従来の習性的確信を動揺させるものを私たちは新しいと名づける。
これに対して、習性的確信がいつでも自由にとりだせるものならば、未知の対象には次々と別の確信があてられ既知の枠のなかに取り込もうとすることになろう。フッサールは既知の地平の例として、道具・文化的事物・空間的事物・対象一般といった範ちゅうを挙げている。しかし、おそらく実際には「その対象は道具である」との確信を覆された人は、「その対象は文化的事物である」との判断を用意しつつも、確信の崩れと確信を再検討せざるをえぬ覚束なさ、とまどいをもってその対象に相対することになろう。ここで明らかなのは、個々の習性的確信のもつ重要性は決して存在者の類・種関係、概念相互の包摂関係に対応する必要はないということだ。個々の習性的確信はその人格的自我固有の関心に従って組織化されているのであって、それだからこそこの組織化のスタイルに応じて、同じ物が個々の人格的自我に別様に捉えられるのである。端的な例を挙げれば、他者からは取るに足らぬ物さえもその人格的自我には彼にとって重要な確信に裏付けられてきわめて貴重なものに思われるように。こうした具体的な体験の場における物との出会いの研究の端緒を、習性的確信は提供するのである。
とまれ、小論はフッサールの習性の概念に対し、その顕在的性格及びその組織化について問い、いささか解釈を試みたわけである。
[参考文献]
Funke,G., Gewohnheit, in: Artiv für Begriffsgeschichte,Bonn, 1961.
Marbach, E., Das Problem des Ich in der Phänomenologie Husserls, den Haag, 1974.
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