対話における言葉について

 品川哲彦

新田義弘・常俊宗三郎・水野和久編『現象学の現在』

世界思想社、1989610日、170-185

 

 言葉は、現象学にとって、すでにその出発点から考察すべき課題であった。フッサールの『論理学研究』第一研究は「表現と意味」を標題とする。個々の志向的体験は時とともに過ぎ去っていく。だが、その体験においては、時を超えて同一なるもの、イデア的意味が思念されている。『論理学研究』では、こうした意味のイデア性へとわれわれの眼を向けさせるものとして、言葉がとりあげられたのだった。フッサールが言語哲学を意図したわけではない。むしろ、彼は「語る」ことに紛らわされない「見る」ことを求めたともいえよう。にもかかわらず、現象学は言葉の問題に深く立ち入ったのである。そして、その後も、言葉は、存在への問いから(ハイデガー)、あるいはまた、思惟の身体として(メルロ=ポンティ)というように、現象学の歴史のなかでさまざまに論じられてきた。

 しかし、ここでは、問題を限って、対話における言葉というテーマにしぼることにしたい。以下、私は、まず、対話における言葉の意味をめぐる一つの問いに言及し、これに答えるしかたで、つぎに対話における話し手、聴き手の問題へ、さらに対話のもたらすものへと、考察をすすめていこうと思う。

 

 対話における言葉をテーマ化した人として、ポスの名が挙げられる(1)。ポスは言葉に対する二つの態度−−言語学的態度と先言語学的態度とを分けた。前者では、主体は語る主体とこれを考察する主体とに分裂し、しかもその考察は言語の形成されてきた過去へとさかのぼる。後者では、主体は現に語っている主体として、その現実の体験において未来へと向かっている。現象学という新しい学は、ポス自身の要求によれば、具体的人間を哲学のなかに引き入れるものである。したがって、言葉についての現象学的考察もまた、語っている主体へと還るものでなければならないと、こうポスは主張する。

 ポスに限らず、言葉を対話へと還そうとする主張は、言葉のもつ意味は言葉が語られている具体的状況に依存しているという見方を共有する。つまり、言葉のもつ意味は対話における話し手-聴き手の間から生まれ、そこから切り離せない。もし文脈から切り離して言葉の客観的に同一の意味を固定するとすれば、生きた言葉は死せる抽象に化すという見方である。このような言語観は、言葉はいつ、どこで、誰に語られようとも同一の意味をもつとするフッサールの意味のイデア性の主張とは、明らかに異質である。

 モハンティは、フッサールの言語哲学をその言葉のイデア性の主張と純粋文法の追求の二点から形相的とよんだ(2)。この区分を用いて、対話を重視する論者とフッサールの違いを際立たせれば、前者にとってさしあたり純粋文法は問題ではない。というのも、純粋文法が経験的言語から離れて新たに構築されるものならば、それは生きた言語からの抽象といわれようし、また、経験的言語のなかに純粋文法が内在するとしても、話し手-聴き手がそうした文法規則に通じていることは対話にとって自明の前提とされ、いずれにしても対話を重視する論者の関心をひかないからである(3)。それゆえ、対話を重視する論者がフッサールに対して異議を申し立てるのは、文法的、統辞論的形式に充填された質料としての意味、あるいは充填された質料-形式の全体としての意味、具体的にいえば個々の語や文の意味にイデア的同一性があるかということである。一般化していえば、対話を重視する論者には、統辞論的研究は直接の課題ではなく、意味論的研究を言語遂行論的研究によって補完すべきことが関心事なのである。

 では、こうした立場に対して、意味のイデア性を支持する立場から答えるとすれば、どのような批判が加えられようか。最も徹底的な批判は、対話それ自身が文脈に依存しない意味のイデア性に基づいてのみ成り立つのを示すことだろう。実際、モハンティはそれを試みた。モハンティはこう述べる。対話はたしかに話し手-聴き手の間でなされるが、話し手の立場がいっそう根本的である。なぜなら、聴き手は話し手の言葉を聴き手自身が語っているかのように理解するからである。だから、聞かれた言葉は語られた言葉に還元される。そして、語られた言葉の意味は発話作用からその志向された内容として切り離され、文脈に依存しないイデア的同一性を獲得する、と。

 さて、以上、対話のなかの言葉がもつ意味のイデア性をめぐる応答を掲げたが、私には、上述の二つの立場とも他の一方を完全に斥けることはできないように思われる。

 というのも、モハンティの答えについては、まさにその、聴き手が話し手の言葉を聴き手自身が話しているかのようにしか理解できないところに問題が残されていると思うからである。「かのように」には、自他の違いが克服されうることではなく、克服できないことが表れている。話し手と聴き手があくまで別の主体であること、このことのために、対話のなかの言葉の意味のゆらぎがひきおこされ、対話者の異なる場合に、さらには同一の主体でも時と状況が異なる場合に、同じ言葉でもそれぞれの状況に応じてさまざまな意味をもつにいたるのではあるまいか。

 しかし、一方また、言葉の意味をまったく状況に依存させて、同一性を破棄することもできないだろう。なぜなら、話し手と聴き手の間で、一つの言葉がなんらかの同一の意味を分け有たれていなければ、対話そのものが成り立ちえないからである。

 ここで、フッサールのいう意味のイデア性を顧みよう。いったい、このイデア性は、状況の違いからくるさまざまなニュアンスの違いを排除するような、硬直した同一性ではないように思われる。というのも、この同一性は相等性の根拠として見出されるものだからである(4)。ある語をとりあげて、それが以前のある文脈のなかでもっていた意味とは別の意味で目下の文脈のなかで用いられている、したがって意味の同一性はない、と主張したとしよう。しかし、そのためには、先の意味が目下用いられている意味と比較されるまで、時間を超えて同一のものとして把握されていなくてはならない。ある語と異国語のそれに対応する語の間の意味の比較についても同様である。そもそも相等相異を論ずることができるのなら、その際にはすでにその基準としての意味の同一性がみてとられているにちがいない。そうした同一性を否定して相等性のみを主張すれば自己矛盾に陥ろう。

 してみると、言葉の意味のイデア同一性をめぐる上記の問題は、はじめから論点のかみあわない擬似問題だったことが明らかになる。というのも、言葉の意味が文脈に依存するという主張が問題とするのは、意味の相等性であって同一性ではないからである。むろん、そこから同一性の否定はひきだせない。モハンティが批判したのはそこだった。

 しかし、また一方、同一性を指摘することで相等性が解消するわけでもない。相等性とは、同一性によって排除されず、むしろそれを基盤として、その上にくりひろげられるさまざまな事例のもつ豊かさの別名なのである。言葉は対話者の間で同一のものとしてやりとりされながら、しかし話し手と聴き手の間で微妙なニュアンスの違いをもって語られ、うけとられる。対話をとりあげることの積極的な意義は、そうした言葉のニュアンスの豊かさを保持することにあるといえよう。

 それでは、対話のなかで、話し手と聴き手の異他性はどのようにして保たれるのか。これがつぎに問題となる。

 

 対話のなかで、話し手、聴き手が異なる主体でありつづけること、このことは相反する二つの方向の考え方から見落とされやすい。一つは、話し手、聴き手を分離させ、話を前者から後者への一方的な伝達とみなす解釈である。ここでは聴き手が話し手とは別の、しかし同等の主体であることが看過されやすい。もう一つは、対話のあげくの話し手、聴き手の合意を強調する解釈で、ここでは両者の個性の違いが軽視されやすい。たしかに、対話のもたらす合意は社会的また学問的規約の根拠として重要な意義をもつ。だが、対話が現になされている現実の場面にもどれば、私たちは対話の主題にあわせて、相手の個性を顧慮しつつ、対話者を選びもし、また、同じ話題でも対話者の個性によってさまざまに展開されていきもする。対話の成果である合意から対話を考察する解釈は必ずしもすべての対話に応用できるとはいえない。

 これら二つの解釈と違って、フッサールの具体的分析(5)は話し手、聴き手の異他性を保持する地盤を提供するように思われる。以下、彼の分析をもとにして考察してみよう。

 フッサールによれば、伝達とは話し手と聴き手が作用を共に遂行することである。話し手は自我として知覚、想像、意欲、愛憎など、さまざまな作用を行っている。話し手は、語ることによって、聴き手に同じ作用を行うよう動機づける。たとえば、思い出話は聴き手にもその思い出について想起するよう動機づける。だが、それはまさに動機づけなのであって、一義的な決定ではない。願望の例が示すように、聴き手は話し手の願望を理解しつつも、彼と同じ願望をみずからもつのを拒否することもできる。聴き手もまた主体なのであって、話し手のしもべではない。けれども、たとえ聴き手が話し手に同調せず反発するときにも、その場合には反発するというしかたで、聴き手は話し手と一体になっている。聴き手の応答が今度はそれを聞く者(先の話し手)を動機づける。こうしたしかたで両者が互いに互いを動機づけあいながら、各々別の主体として作用を遂行していくことが、共遂行という事態なのである。フッサールのこうした見解は、対話を一方的な伝達とみる先の解釈から遠く離れている。

 聴き手の諾否を促すのは、願望や命令を表す文に限らない。というのも、言表された文には、話し手が自我として下した広い意味での判断(された事態)が表現されているからである。狭い意味での理論的学問的な判断作用のみならず、知覚、想像、意欲、愛憎など、あらゆる種類の体験において、志向された対象について、自我は「これは何々である」と判断を下す。そこで判断が下された体験は流れ去る。しかし、そこで下された判断はこれを否定する動機づけが現れないかぎり、確信されつづけ、その自我の習性を形づくる(6)。自我はすでに獲得された習性の教える既知の類型にしたがって、新たに経験される未知のものを解釈していくのである。習性は個々の体験から形づくられるのだから、当然、各々の自我によって異なる。各々の自我は「個体的歴史性」(XV631)において習性を形成し、その習性の一貫性によって同一の人格として自他に把握されるのである。

 だとすれば、自我の習性的確信である判断は文に言表されるのだから、対話とは、話し手の判断が聴き手へとうけつがれていくことにほかならない。もちろん、話し手と聴き手は各々別の個体的歴史性を負うているのだから、同じことを話題にしていても、それについての判断は別様でありうる。話し手の判断が聴き手にとって全く新たな内容であり、しかも聴き手がそれを肯定し、みずから同じ判断を下すとなれば、そのとき聴き手は対話を通じて新たな知見をえたことになる。あるいはまた、聴き手が話し手の示す判断に同意する場合でも、保留条件や部分的修正が加えられることもある。このとき話し手は思いがけないしかたで自分の言葉がうけとられたと感じるだろう。聴き手がそうした彼なりの解釈を施したうえで話し手の示したのと同じ判断をみずから下し、その判断が再び話し手の同意をうることもある。すると、話し手は対話をはじめる前には予想もつかぬ方向に自分の確信が変えられていくのを感じるわけである。対話とは、対話者各々のそれまで得てきた習性的確信が、別の人格の異なる確信に出会うことで、刻々と変わっていく過程なのだといえよう。そのように修正され、あるいは獲得された確信にしたがって、その対話以降、対話者は新たに経験するものを意味づける。そこで、対話者をとりまく世界は「言語伝達を通じて拡大され、いっそう規定されてくる」(XV220)。対話の成果である合意から遡って解釈すると整除されがちな対話の力動的過程を、フッサールは的確に指摘している。

 ところで、私たちに先行して存在する自我もある。もはや亡きそうした話し手とは、読書という変様されたしかたで、対話をすることもできる。しかし、それだけではなく、一般に、対話が言葉によって行われ、そこに話し手の判断が言表されているとすれば、そもそも言葉を使うこと自体が、先行する自我の判断をうけつぐことにほかならない。歴史的に形成されてきた言葉のなかには、先人による世界の類型化と意味規定がこもっているのである。フッサールはこのことを、私たちがそこに生まれ、なれ親しんでいる「故郷世界は言葉によって根本的本質的に規定されている」(XV225)と言い表した。

 はじめて出会ったものは人を落ち着かなくさせる。だが、それをなんらかのかたちに言い表すと、私たちはほっとする。こうした日常よく経験されることもここから説明できる。その新たなものは言葉に表されることですでになれ親しんでいる故郷世界の類型の網のなかへ納められたのである。しかしまた、逆に、言葉に言い表したがために、聴き手に対して、自分の性格やそのときの気分を心ならずもある類型に押しこめてしまったと悔いることもある。このとき、私たちはよく「言葉にひきずられた」という。言葉に言い表すとは、同時に、何かを現すことなのでもある。H・リップスの表現を借りれば、言葉は「それが『意味する』ものを『喚起する』」(7)。しかし、言葉の喚起する機能を欺く機能として排除することはできない。なぜなら、この機能は言葉が新たなものを類型化して既知のものにする機能と一体のものだからである。

 フッサールの分析は、上にみたように、対話を認識論的観点から考察している。対話は話し手、聴き手という世界のなかの存在者の間で交換される「物」のような実在ではない。むしろ、対話は対象の意味づけの基盤を提供するものなのである。だから、対話を通じて「私にとってすでに存在妥当している世界が新たな意味規定をうる」(XV463)。対話という共同の意味形成から、あらゆる共同体が生まれてくる。共同体は、それが形成されてきた言語活動、およびその成果である国語のうちに、その共同体固有の確信、意味づけの体系を示している高次の人格である。その共同体のなかに生まれてきた個人の言語活動は、とりもなおさず、個人と共同体の間の対話なのであって、この対話を通じて共同体の意味体系はうけつがれ、また変革されていく。

 フッサールによる対話の認識論的価値づけは、対話を考察するにあたって、このように広汎な視野を提供するものだった。

 

 対話によって世界は新たな意味規定をうる。だが、その新しさはさまざまである。

 新しさを類型との関係から類別すれば、まず、「新しい金属が発見された」というときのように、類型がいわば外延的に豊かになっているが、内包的には変わらぬ場合がある。つぎに、「金属に通有の新しい性質が発見された」というときのように、類型が内包的にいっそう規定されてくる場合がある。だが、このどちらにも共通しているのは、既知の類型が保持されている点である。こうした新しさをもたらす対話の例には、それまであずかり知らなかった知見を教えられる場合が考えられる。このとき、フッサールのいう文字通りの意味で、「対話によって、世界は拡大され、いっそう規定されてくる」。このタイプの対話は情報交換という点に意義がある。

 しかし、また、類型は否定されもする。新たなものが従来なれ親しんできた類型に無効を宣する場合がそれである。そのとき、既存の類型化は根拠を失い、新たな改組を余儀なくされる。では、こうした新しさについてはどのように分析されるのだろうか。

 フッサールはこう説明する。ある類型が否定されても他の類型はなお残る。ある類型が否定されれば、その類型がそこに含まれるようないっそう普遍的な類型が顕在化する。もし、類型が改変する、つまり先の類型にとって代わる現状に即した類型が生まれるとすれば、それもまた右の普遍的な類型に依拠し、そこに含まれるようなものである、と(8)

 これに対応した事態を対話に求めれば、討論がそれに当たろう。相手の反駁によって主張を打ち砕かれた話し手は、しかしなお、自他がともに拠って立つ共有の立場を模索し、そこで改めて別の主張を立てるわけである。

 だが、たしかに類型の改変は普遍的類型に基づいて行われるのだけれども、しかしそうした分析では新しさは隠蔽されるといわざるをえない。というのも、新しさという概念は存在者の客観的な類種関係のうちにはないからである。ある人にはなじみのものが他の人には新しい。何が新しいかは人によりさまざまである。なぜなら、新しいものとはその人格に固有の既知の類型にあてはまらぬもの、従来得てきた習性的確信の及びえないもの、さらにはその確信を否定するもののことだからである。だから、新しさは客観にではなく、確信の否定、改変の過程にこそ由来する。したがって、新しさの度合もまた、その否定された確信に、その人格がどれほどなれ親しみ、依拠してきたかに応じて決定する。その人格にとって根本的な確信が否定されて、それに支えられていた多くの確信が一挙に無効に付されるとき、新しさは衝撃的でさえある。

 けれども、確信の否定に伴うそうした新しさはまた、情報交換や討論に類別されない、むしろそれらの原型ともいうべき対話一般に、日常よくみられるものであろう。対話のなかのある言葉が、それを話した者の意図を超えて、聴き手によってきわめて重大な意義をもってうけとられる−−こうした場合がそれではあるまいか。このときには、語られたその言葉が契機となって、聴き手のなかで、それまで気づかれなかった確信が顕在化され、検討され、改変が迫られているのである。あるいはまた、語られた言葉ではなく、みずから語った言葉でもよい。ふと口に出した言葉で、自身にも隠れていた確信が不意に照らし出されるのは、対話においてしばしば経験されるところだろう。ひいては、対話を通じて、自分が新たに生まれ変わったような感覚、いわば一種の回心ともいうべき事態もひきおこされうるのである。

 けれども、そうした場合にも、その人格の否定する確信がすべて表現されていたわけではない。してみると、私たちは、対話において、言葉が表現的に(ausdrücklich)語っている以上のことを物語り、聴き取っているにちがいない。いいかえれば、対話における言葉は、そのイデア的に同一な意味のみならず、対話者のそのつどのあり方を含意して言表され、理解されるのである。卑近な例を挙げれば、一連の対話のなかでくり返された同一の文からは、その文のイデア的に同一の意味のみならず、また話し手の揺るがぬ自信や、あるいは頑強な拒否が理解されるのである。

 リップスは、話のなかで言葉にのぼる、話し手の「状況」という概念を提示した(9)。状況はつねにそのつどの私の状況である。状況全体を対象化し見渡すことはできない。だが、状況は開示されはする。それは、私が或るものを何々として認識し、規定するときにである。だから、状況は私の態度決定に応じて様変わりする。しかし、私はその新たな状況のなかに示された可能性を選択するのだから、状況は一歩一歩私の実存においてうけつがれていく。リップスはそう説明している。

 この状況という概念を用いれば、習性的確信は、言葉によって表現的に語られていないときでも、各人の状況の一部を形成しているといえよう。或るものを何々として語った言葉は、従来抱いてきた確信に支えられた自己に固有の状況を開示する。その結果、態度決定のやり直しを迫られるときに、私たちは新しいものに出会ったと意識するのである。逆にまた、状況を開示せずに或るものを何々と言い定めることはできない。それは、確信という意味づけの基盤なしに意味づけしようとするようなものである。したがって、対話においては、「話しかける」「何かについて述べる(besprechen)」とともに「心中を打ち明ける(sich aussprechen)」ことが「耳を傾ける」と一つになっているのである(10)

 こうして、対話は、世界の意味規定の改定ともに、対話者各々の自己変革をもひきおこす。前者を促す対話による確信の改変はまた、すなわち、後者を促す契機にほかならない。

 

 だが、そもそも対話が言葉によってなされる以上、対話のもたらす新たなものも、既成の言葉のなかにすでに含まれているのではあるまいか。こういう問いが持ち出されよう。一般化すれば、認識が言葉による先行理解のうちに閉じていないかという疑問である(11)。ここでは、そうした一般的なしかたでこの問いを扱うことはできないが、対話に関して、この問題はどのように考えられるだろうか。 私たちは対話においてそこで交わされる言葉に眼差しを向けているわけではない。対話はつねに「何かについて」語られている。その何かが、実在する事物であれ、虚構であれ、イデア的なものであれ、いずれにせよ、話し手はその何かに関心をひきつけられ、それになんらかの作用を向けており、しかもそのことが動機となって語りはじめたのである。話し手の言葉が動機となって、聴き手もまたその言及されたものを対象とする志向をはじめる。こうして対話は成り立つのであって、もし、話し手、聴き手の間に各々が志向する対象が共有されていなければ、話は応答なき一方的な語りかけにおわるだろう。共有されないだけでなく、そもそも、それについて語られている何かがなかったなら、「人格、事物、事態からなる世界がたんなる『情報』に凝結する」(12)ことになるだろう。

 問題は、語ることで、対象がその言葉のもつ意味のなかに閉じこめられてしまわないかである。たしかに、対象は「何々である」と言い定められることで、そのさしあたり与えられていない部分(たとえば物体の知覚ならば物体の裏面)まで規定されてしまう。意味づけはつねに射映を先取りする意味の超出を伴う。しかし、それはせいぜい対象を既知の類型の一例として把握することにすぎない。その対象が他の類型において把握されうる可能性を排除することはできない。というのも、言葉が及ぶのはある特定の地平において現れている対象についてなのだが、地平はそのつど変わりうるからである。しかも、地平には自我のそのつどの関心が関与している。

 リップスはこう言い表す。或るものについて何々だと語られるのは、その或るものに特有な何かであって、或るものがそれによって把握される本質ではない。本質は記述できない(13)。しかも、或るものに特有な何かはおのずと示されはしない。「状況が、或るものがそこから考察される視点を活性化する」(14)

 したがって、話し手のそのつどの状況に応じて同じものが別様に語られる。対象は語られはするが語りつくせない。だから、同じ対象について原理的に永遠に対話は続けられようし、また、いったん決着をみた対話を別の視点から再開することもできるのである。

 しかし、このように、話し手と聴き手の間に各々が志向する対象が共有されていることは、すなわち、話し手と聴き手とがともに一つの周囲世界(Umwelt)のなかに属していることをいうにほかならない。

 むろん、同じ周囲世界に属しているからといって、前述の対話者間の異他性が平均化されてしまうわけではない。一つの周囲世界に共属しつつ、しかし話し手、聴き手は別々のパースペクティヴにおいて、対話のなかで語られているところの対象に向かっているのである。パースペクティヴの違いは、この語や周囲世界という語につきまとう空間的な表象の内部にとどまらない。話し手、聴き手は各々のパースペクティヴから対象を意味づけするのだから、そこには意味づけの基盤となる、人格が個体の歴史において形成してきた習性的確信の違いが関わっている。さらにまた、異なる共同体に属す者の間の対話ならば、各共同体のなかに先行して存在した人格の形成してきた確信の違いも存するわけである。

 とはいえ、違うのは、パースペクティヴであって、彼我の周囲世界ではない。世界は、私にとって遠い世界と近い世界の違いはあっても、一つの世界として地平的に与えられるのであって、私に対して閉じられた「彼の世界」をいうこと自体が矛盾である。しかし、このことから、対話における言葉を現象学が問題とする際の位相が明らかとなってくる。 現象学が対話における言葉を考察するのは、つぎのようにではない。ハーバマスに関連して、トゥーゲントハットはこう述べる。コミュニケーションにこそ言葉の機能の本質はあるという主張は疑わしい。なぜなら、言葉はコミュニケーションのみならず思惟にも用いられるからだ。なるほど、祝辞や約束や祈願文などはコミュニケーションにのみ使われる。同様に、ある概念がコミュニケーションぬきにしては考えられないときには、その概念はコミュニケーションを本質にすると主張できる。しかし、それはそれぞれの概念の問題であって、言葉一般の問題ではない、と(15)

 しかし、現象学は対話における言葉と他の言葉とを弁別することを目標としない。もし、現実の対話のなかの言葉を他から峻別すれば、かえってテクストの読解を先人との対話とみる重要な視点を失うことになろう。現象学が対話における言葉をとりあげるのは、人間の存在自体が相互存在的であるという、このことを対話において具体的に示す点にある。

 もっとも、こういったからといって、対話においてすべてが基礎づけられるかのように主張するわけではない。対話の拒否、対話者の一方が、または双方ともに自己の周囲世界を(原理的には閉じることはできないが)意図的に閉じてしまうことは、たとえそれを「反理性」(16)的だと指弾したところで、可能性としてなお残るのである。

 けれども、また、対話がそもそも不可能であるとか、周囲世界は原理的に閉じているのではないかという見方は、現象に即さないものとして否定されざるをえない。

 他に話しかければ、そこにすでに、相手を話しかけうる存在、話が通じる存在と把握していることが示されている。したがって、私たちがいつでも対話しうること、いっそう的確にいえば、現に話しかけてしまっている、あるいは、話しかけられてしまっていること、このことにこそ、個々の自我がともに一つの世界のなかに属している間主観的な存在であることが、他のあらゆる現象以上にまぎれもないしかたで、直示されているのである。

 

(1) Aschenberg,H.,: Phänomenologische Philosophie und Sprache, Tübingen, 1978,

SS.39-49.

(2) Mohanty,J.M.,: Edmund Husserl's Theory of Meaning, The Haag, 1964, chap.IV.

(3) ポスを引用しての、メルロ=ポンティによるフッサールの純粋文法に関する解釈を見よ。(「言語の現象学について」、竹内 芳郎監訳『シーニュ』、みすず書房、一三二頁以下。および、Mohanty,J.M.,ibid.,pp.59-60.)

(4) Logische Untersuchungen II/1,S.112.

(5) Husserliana, Bd.XV,S.218-S.226,およびS.460-S.479。以下、Husserlianaからの引用は 巻数をローマ数字、頁数をアラビア数字で記す。

(6) 習性については、Husserliana,IV, S.111以下。また、拙稿「フッサールにおける習性の問題」(関西哲学会紀要第二十一冊)を参照されたい。

(7) Lipps,H.,“Die Verbindlichkeit der Sprache",Werke, Bd.IV, 4 Auflage, S.109.

(8) XV,222。および、I.113。 また、Erfahrung und Urteil, PhB., 1972, S.141.

(9) Lipps,H.,: Untersuchungen zu einer hermeneutischen Logik, Werke II,SS.20-30.

(10) Waldenfels,B.,: Das Zwischenreich des Dialogs, Den Haag, 1971, SS.168.

(11) Bollnow,O.,: Philosophie der Erkenntnis, Stuttgart, 1970, Kap. VII. 

(12 ) Graumann,C.,"Interpersonale Perspektivität und Kommunikation",in:

Phänomenologische Forschungen, Bd.8, Munchen,1979, S.171.

(13) Lipps,H.,“Das Urteil",Werke IV,S,15f.

(14) Lipps,H.,Werke II, S.53.

(15) Tugendhat, E.,: Probleme der Ethik,Stuttgart,1984, S.108-S.113.

(16) Waldenfels, B., a,a,O.S.363.

 


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