『倫理学の話』
品川哲彦
ナカニシヤ出版
2015年10月27日
ISBN978-4-7795-0971-1
目 次 i
第T部 倫理学とはどのような学問か 1 第1章 倫理学とはどのような学問か 5
第2章 倫理の好きなひと/嫌いなひと、倫理学の好きなひと/嫌いなひと 16
第II部 倫理(道徳)の基礎づけ 29 第3章 倫理(道徳)を自己利益にもとづけるアプローチ(一)――プラトン 29
第4章 倫理(道徳)を自己利益にもとづけるアプローチ(二)――ホッブズ 42
第5章 自然観と倫理観、ないし、形而上学と倫理学 54
第6章 倫理(道徳)を共感にもとづけるアプローチ――ヒューム 70
第7章 倫理(道徳)を義務にもとづけるアプローチ――カント 79
第8章 ひとりひとりの人間のなかにあって、ひとりひとりの人間を超越するもの 96
第9章 倫理(道徳)を幸福にもとづけるアプローチ(一)――ベンタム 107
第10章 倫理(道徳)を幸福にもとづけるアプローチ(二)――J・S・ミル 118
第11章 倫理(道徳)を幸福にもとづけるアプローチ(三)――ヘア 128
第III部 正義をめぐって 139 第12章 正義と善 139
第13章 ロールズの正義論 151 1.原初状態 /2.正義の二原理 /3.互いに対等な市民であること 第14章 リバタリアニズムの正義論 163 1.権原理論 /2.正義の三原理 /3.ふたたび、正義と善について 第15章 共同体主義によるリベラリズム批判 172 1.正義が最優先課題ではない領域もある /2.負荷なき自我 /3.物語としての生 /4.補説 共同体主義とリバタリアニズムとの政治における奇妙な融合 第16章 共同体主義の系譜をさかのぼる(一)――アリストテレス 181 1.幸福――人間が政治的動物であること /2.習性と徳 /3.実践知と衡平 /4.徳の倫理と現代社会 第17章 共同体主義の系譜をさかのぼる(二)――ヘーゲル 192 1.弁証法 /2.家族、市民社会、国家 /3.戦争と世界審判としての世界史 第18章 討議倫理学による調停 203 1.社会的妥当と道徳的妥当 /2.超越論的遂行論的基礎づけ /3.討議倫理学による調停 第19章 正義とは異なる基礎(一)――正義の倫理とケアの倫理 213 1.コールバーグの道徳性の発達理論 /2.ギリガンの道徳性の発達理論――ケアの倫理 /3.ケアの倫理の異議申し立て 第20章 正義とは異なる基礎(二)――責任という原理 225 1.世代間正義 /2.ヨナスの、責任という原理 /3.レオポルドの土地倫理 /4.人間を超える審級へ 第21章 正義概念の脱構築――レヴィナスとデリダ 235 1.同と他――レヴィナス /2.歓待――レヴィナス /3.法と正義――デリダ 第22章 倫理学と真理論 245 1.デカルトによる真理観の転換 /2.フッサールの間主観性ないし相互主観性 /3.実証主義の真理観 /4.言語論的転回 /5.倫理学と真理論
あとがき 261 事項索引 274 人名索引 276
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あとがき
もはや数年前のことになる。ナカニシヤ出版の編集者津久井輝夫さんから「倫理学概論を書きませんか」と勧められた。倫理学概論――。私は現にその名を冠した講義を担当しており、その担当者となるまえに行なった講義を含めれば、その時点ですでに十五年以上、その種の講義をしてきたのだった。そういう人間が「書けない」と断れば、おかしな話であるはずだった。しかし、一冊の書物となると、毎年、一過的に消えてしまう講義以上に、「概論」の名にふさわしい広い目配りと深い洞見と整序された構成、それを可能にするたゆまぬ研鑽が反映されたものであることが望まれるし、そうあってしかるべきである。恥ずかしい話だがとまどいとためらいが思わず口から漏れてしまった。「私に書けるでしょうか」。すると、津久井さんは間髪を容れず、こういわれた。「書けないひとには頼みません」。
津久井さんは、長年、鋭い鑑識眼によって優れた書物を送り出してきた名うての編集者である。このさい、私は自分の能力よりも津久井さんの眼力を信頼することにして本を書くことにした。そうしてできたのがこの本である。
ただし、書名は概論ではなく、『倫理学の話』とさせていただいた。この命名はあながち逃げというばかりではない。目の前にいる誰かにゆっくり話すような調子でもって、しかもその誰かは必ずしも大学の講義を受けている若いひとにかぎらず、学校を出たひとたちやこれから大学に進む高校生などさまざまな年齢層のひとたちにむけて書いてみたかったからだ。私の念頭には、秋の夜長の余暇にラジオに耳を傾けている情景があったかもしれない。むろん、これは時代外れの想像であろう。四六時中、携帯が鳴り、メールが届き、何かを調べるならインターネットの検索エンジンがたちどころに(玉石混交であれ)大量の情報を用意する今日、じっくり考えなくてはならないテーマについてゆっくり話すというスタイルがどれほど迎え入れられるだろうか。とはいえ、私のこれまで書き記したものにも何がしかの反響があった。この本も必ずやどなたかのもとに届くにちがいない。
倫理学の研究者たちには、この本の構成は混乱しているようにみえるかもしれない。プラトン、ホッブズ、そのあとでトマス、つぎがヒューム……時代からすると、まるで、スイッチバックしているような進行だ。そのうえ、アリストテレスがこんなところに! どうしてこの順番なのか。なぜ、この哲学者をとりあげて、あの哲学者に言及しないのか。
しかし、歴史の順に哲学者を並べるなら、私が書くよりも、それぞれの専門家が一章ずつ書いたほうがよい。しかも、私たちは特定の時代と特定の文化に染まって生きているのだから、まっさらな頭でもって時代をたどることはできない。たとえば、プラトンの次にアリストテレスに言及するより、共同体主義からアリストテレスに進むほうがわかりやすいかもしれない。いわば、画家がある特定の大きさの特定の形の特定の色彩の面や線をキャンパス上に布置することで作品を構成していくように、私は、倫理学とはどのような学問かという本書の主題についての今現在の私の考えをこの分量で伝えるのに適切だろうと考えて、理論を選び、この順序で紹介し、本書を作り上げたにすぎない。
プラトン、ホッブズを先頭にもってきたのは、「倫理(道徳)を自己利益にもとづけるアプローチ」としてまとめたからだが、しかしまた、この両者を――さらにつぎにトマスを――紹介することで、異なる倫理理論のあいだには(さらに、この場合には、その背景にある自然観のあいだには)ずいぶん違いがあるものだと感じていただきたく、しかも、それぞれの倫理理論にたいするご自身の反応を介して自分自身をふりかえる思考を試みていただきたかったからである。というのも、第二章第四節にも書いたように、倫理学(道徳哲学)という学問はなにがしか自分自身が変わる契機を含んでいると考えるからだ。第八章にパウロとカントを並べたのはカント解釈としては粗すぎるが、人間の尊厳の概念の背景にあるユダヤ―キリスト教の伝統への言及がこの伝統に属さない日本での入門書には不可欠だと(キリスト教徒ならざる)倫理学研究者として判断したからである。
しかし、画家とは違って、私が布置按排するものはそれ自身の強固な主張をもつ思想だから、たとえば、アリストテレスとヘーゲルを「共同体主義の系譜をさかのぼる」という章題のもとで語りつつも、両者の思想が共同体主義に収斂できない独自の広がりをもつことにふれずにはすまなかった。他方、本書がその指摘から始まる倫理と倫理学の区別や、第二章の「倫理の好きなひと/嫌いなひと 倫理学の好きなひと/嫌いなひと」については、もっと分量の多い倫理学入門書でも言及されるとはかぎらない。大学で関連する授業を教えるひとのなかにも、本書にいう「倫理は好きだが、倫理学の嫌いなひと」がいないわけではない。これにたいして、ひょっとすると本書は、倫理が嫌いなひとにも倫理学になにがしかの関心をもってもらえるきっかけになるかもしれない。いずれにしても、私は本書の構成が最適だとも、いわんや唯一だとも主張しない。したがって、この本の題名を英訳するなら、A
Talk about Ethicsであって、The
Talk about Ethicsではない。
本書ができあがった今、冒頭に記した事情から、何よりも津久井輝夫さんに感謝のことばを申し述べる。と同時に、お詫びも申し上げなくてはならない。私が他用にかまけて愚図愚図しているうちに、津久井さんは定年を迎えてしまわれたからだ。津久井さんの後を若手の編集者の石崎雄高さんが継いでくださり、本書は日の目を浴びた。つぎに、この程度の本を著すにもこれまで教えを受けてきた方々に多くを負っていることは明らかで、そのお名前を挙げることはしないが、その方々に謝意を表する。引用にあたっては先人の邦訳のおかげをこうむっていることはいうまでもない。複数の邦訳があるものについては原著の典拠を記したあとに一種類の邦訳を挙げてその対応箇所を付記し、プラトン、アリストテレス、カントのように引用の慣習が確立している哲学者については慣習にのっとった。ただし、言及した邦訳の表記や表現を変えた箇所があることをお断りしておく。そして、形のうえでは最後だが、気持ちのうえではけっして最後にではなく、私は私の倫理学の講義を受講した現在の勤務校の関西大学、以前の勤務校の広島大学、その他の大学および大学院の学生諸君に感謝する。私の講義を真摯に、かつまた、楽しみながら受講してくださった人びとの反応なしには、本書ができあがることはなかった。
表紙の写真は、ベルリンのユダヤ博物館に展示されているメナシェ・カディシュマン(Menashe
Kadishman)のインスタレーション「落葉(Shalechet)」で品川が写したものである。このインスタレーションは、三階まで吹き抜けの、壁の上方の隙間からあかりをとる空間のなかに展示されている。重い鉄の円板を切り取って作られた、口を開けた顔、顔、顔が、およそ一万枚、その床面を覆って敷き詰められている。展示されている場所ゆえに、ショアーで殺害されたユダヤ人のことを連想する。訪れた者はそれらの円板の上を歩き回るように導かれる。足を踏み出すごとに、円板は動き、こすれ合い、ノイズを立てる。……ノイズ? だが、自分は苦しんでいる人びとの呼び声をあたかもたんなるノイズのように聞き流してしまっているのではないか? ふと振り返ると、上方の隙間から漏れさす光が一枚にあたって、白い顔面が浮き上がった。その一枚の材質は他のそれと変わらない。ただ偶然の角度からそういうことが起きたのだった。私はその視線に貫かれた――。作者カディシュマンは惜しくも今年の五月に亡くなった。この写真を使用する許可を与えてくださった、作者の娘にあたるマヤ・カディシュマン(Maya
Kadishman)さんのご厚意にたいしてここに謝意を記す。
二〇一五年五月
品川哲彦 |
いただいた書評
江口 聡氏、『週刊読書人』3124号、2016=平成28年1月22日
「正義」を問い直す 読みやすい倫理学概論および学説史 本書は、読みやすい倫理学概論および学説史である。叙述は歴史的順序には従わず、著者独自の観点からの配列となっているが、しっかりした索引、注および相互参照が付記されているため、事典的に読むことも可能である。 全体の四分の三は、近年の英語圏の標準的なテキストで頻繁に扱われている諸倫理学説の紹介と検討である。第一部でまず、倫理学は、他人を教導しようとする「倫理」ではなく、むしろ自分自身の倫理観を反省する哲学であるとする著者の立場が明確にされる。第二部では倫理の基礎づけとして、倫理を自己利益にもとづいて説明しようとするプラトンとホッブズ、人々との共感を重視するヒューム、理性にもとづいた義務と尊厳を説くカント、社会全体の幸福を目指す功利主義者たちの理論が説明される。第三部は、特に「正義」をめぐって、ロックの社会契約説、ロールズのリベラリズム、ノージックのリバタリアニズム、サンデルらの共同体主義およびその源流としてのアリストテレスとヘーゲルがとりあげられる。紹介と解説は総じて平明であり、どの章でも初学者が疑問を感じやすい箇所、誤解しやすい箇所に対して相当の配慮がなされていることは特筆に値する。たとえば、功利主義の考え方を論じる上で、「功利主義は多数の人々の幸福のためならば、少数の罪のない人を殺すことを認めてしまう」といった安直な批判に対しては、ヘアの「道徳的思考のレベル」の区別を紹介し、そうした批判は安直な思考実験と道徳的な直観にもとづいたものであって、現代のエレガントな形の功利主義に対しては十分な批判にはならないという考え方を紹介している。こうした細心な叙述は随所に見られ、基本的学説の正確な理解を必要としている読者に有用なはずである。 「正義」に関する議論の後半部分では、ケアの倫理、ヨナスの責任論、レオポルドの土地倫理、レヴィナスの他者論やデリダの正義の脱構築といった、伝統的な正義論の枠組み自体を疑い問いなおそうとする思想の概略とその魅力が紹介されており、これが本書の特徴的な部分となっている。もちろん、こうした思想群にはわかりにくい部分がある。たとえば、ギリガンらによる「ケアの倫理」は、男女の心理学的な発達に関する事実的主張にすぎないのか、あるいはそれを越えて規範的主張としての説得力を持つのか、ヨナスらが主張する「将来世代に対する責任」の根拠は何か、レヴィナスの言う「他者の無条件な歓待」はどのような具体的なようをもつのか、デリダによって脱構築された「正義」観念は我々の道徳的生活にどのような関係をもつのか等々、読者は多くの疑問を抱くことになるだろう。 しかし、こうした思想を紹介することで「正義」を問いなおそうとする著者の試みは理解できないものではない。我々は往々にして自分のふるまいや考え方は正しく、自分たちは正義にかなっていると思い込みがちである。歴史的に見てこうした思い込みは、「我々」と見なされる人々以外の存在者に対する政治的抑圧や暴力につながってしまう。アカデミックな倫理学研究でさえ、独善的な取組みをすればそうした側面をもちえる。著者が「正義」についての標準的とされる倫理学説の検討にとどまらず、上述のような思想家たちの紹介によって「正義とは異なる基礎」や「正義概念の脱構築」の可能性を探るのは、そうした政治的意識の反映でもある。 「あと書き」では、ユダヤ人芸術家メナシェ・カディシュマンのインスタレーションが発する「ノイズ」を聞き「自分は苦しんでいる人々の呼び声もあたかもたんなるノイズのように聞き流してしまっているのではないか?」と自問する著者の姿が描かれる。多彩な倫理学的な立場それぞれの見解に耳を傾けつつ「じっくり考えなくてはならない問題」について誠実に「ゆっくり話す」という手法は、倫理学という営みへ誘いとして適切な方法であることはまちがいない。 |
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