他者の身体的現前と対他態度 −シュッツの社会的世界論における−

 

品川哲彦

『紀要』、第20巻、和歌山県立医科大学、進学課程、1991年3月20日、1-16頁

 

I 『社会的世界の意味構成』

II 社会的世界の分節化の原理(1) 〜フッサールおよびベルクソンとの関連〜

III 社会的世界の分節化の原理(2) 〜ヴェーバーとの関連〜

IV 社会的世界の分節化

V 対他態度が身体的現前に優先する可能性

Exkurs: Ihr-einstellung と they-orientation

VI 厳密な今-ここから継続的な今-ここへ

 

I 『社会的世界の意味構成』

 アルフレート・シュッツの『社会的世界の意味構成』(1)は、一九三二年、シュッツ三三歳のときに出版された処女作であるが、現象学の方法を社会学に応用したシュッツのいわゆる現象学的社会学の礎石となる著作である。この書物はシュッツ自身にもウィーンからアメリカへの亡命を余儀なくさせたナチズムのために、刊行当時は日の目をみなかった。しかし、それが一九六〇年に再版されたあとでは、「現代の社会理論に多大な寄与をなした数少ない著作のひとつ」(2)とみなされている。

 シュッツがこの浩翰な著作を著すさいにもっていた意図は、マックス・ヴェーバーが用いた「行為の意味」という、社会学における根本概念を基礎づけることにあった。シュッツ自身は次のように語っている。「この研究は、マックス・ヴェーバーの問題提起から出発し、上述のふたりの哲学者が確証した成果に関わりつつ、その構成分析を助けとして、意味現象を正確に規定しようという試みである」(S.20;二四頁)。上述のふたりというのは、エドムント・フッサールとアンリ・ベルクソンである。シュッツはふたりによって展開された時間論(前者では内的時間意識の研究、後者では持続の研究)をもとにして、意味が構成される場面を考察しようとしたわけである。

 ところで、私がとくに興味をひかれるのは、シュッツによる社会的世界の構造分析である。周知のとおり、現象学の創始者であり、シュッツの師でもあったエドムント・フッサールは、一九三六年に公刊された『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のなかで、生活世界という概念を提示している。ところが、この四年前に刊行された『社会的世界の意味構成』のなかで、シュッツは、フッサールの理論にしたがいつつ、社会的世界の構造分析を行っている。あたかも、『危機』において言及されることになる「生活世界の存在論」のひとつの試みが、すでに、そこに現われているかのようにである。もっとも、この生活世界という語そのものは、フッサールの遺稿のなかには、すでに、一九二〇年前後に登場している(4)、同著を執筆していた時点では生活世界という概念そのものを知らなかったはずである。シュッツはおそらくは『イデーン』第一巻の自然主義的態度の分析を出発点にして、『内的時間意識の現象学』の時間論を基軸におき、『論理学研究』の表現論を参照しつつ、『形式論理学と超越論的現象学』における意味の形成についての発生的観点をとりいれながら社会的世界の分析を行ったのだろう。他者理解を主題のひとつとした著作である『デカルト的省察』でさえも、シュッツの執筆時にはフランス語訳が刊行されていたのみだった(S.59;三四八頁)。それにもかかわらず、シュッツの『社会的世界の意味構成』のなかには、戦後はじめて、公刊されたフッサールの遺稿のなかに散見されるような発想と驚くほどに類似の発想が見出される。本論の註16に示唆しておいた会話の分析などが、その一例として援用されうるだろう。こうした点では、フッサールがシュッツの著作を読了後、「私が生涯を賭けてきた仕事の、深いしかし残念ながら仲々近づき難い意味にまでわけ入った少数者の一人、私の仕事の有望な継承者」(5)という讃嘆をシュッツに書き送っているのも、過褒とはいえないのである。

 だが、この論文では、私はもっと主題をしぼることにしたい。すなわち、標題に掲げたように、他者の身体的現前と対他態度の関係が目下の主題である。私が主張したいのは、シュッツは他者の身体的現前の有無から対他態度の相違を導出し、それにもとづいて、社会的世界を分節化しているが、しかし、身体的現前と対他態度はきわめて密接に関わり合いながらも、前者は後者を導出するさいの決定的な条件ではないということである。

 以下、この論文は次のような順序をたどっていく。IIとIIIでは、シュッツが社会的世界を分節化するさいに依拠した原理に言及する。IVでは、その原理による社会的世界の構造分析に言及する。そして、VとVIで、以上に対する論評を加えることにする。IIとIIIは『社会的世界の意味構成』の第一・二・三章に関連し、IVは第四章に関連する。ただし、先にお断りしたように、主題をしぼったからには、目下の主題に関わらない部分は、この著作にとってきわめて重大な意味をもつ内容(たとえば、第五章を頂点とする、社会学的方法に対する考察)でも本論の射程を超えているために言及できない。

 

II 社会的世界の分節化の原理(1) 〜フッサールおよびベルクソンとの関連〜

 目下の主題に関連して、シュッツが『社会的世界の意味構成』のなかで採っている根本的なテーゼを挙げていくと、次のようになるだろう。

(a) 「意味問題は時間問題である……もちろん、分割可能で測定可能な物理学的な空間時間の問題ではなく、また、外的な出来事によって充たされた経過につねに留まる歴史的な時間の問題でもなく、そうではなくて、体験をする者が自分の体験の意味をそのなかで構成するような各自それぞれの持続の意識、『内的時間意識』の問題である」(S.20;二四頁)。

 この(a)は最も根本的なテーゼであり、ここから、次のテーゼが生じてくる。

(b) 行為についても、その時間的性格は看過できない重要な意味をもつ。行われつつある行為、経過としての行為(Handeln, actio)と、済んでしまった行為、成果としての行為(Handlung, actum)とは峻別されなければならない。そして、それに応じて、その行為に対する見方もまた異なってくる。また、その行為がひきおこされた動機についても、未来に向けられた動機と過去からひきつづいて働いている動機というように、その時間的性格に応じて分析されねばならない。

(c) 内的時間意識や持続は体験をする者それぞれに固有であり、したがって、自己と他者とは峻別されねばならない。たしかに、「汝もまた意識一般をもち、持続し、その体験流は私の体験流と同様の原形式を示している」(S.138;一三六頁)が、しかし、その体験流はひとそれぞれに個別である(6)。だから、ある行為者が自分の行為ないし体験の連関に賦しているであろう意味は、その行為者以外の観察者には、つまるところ、到達しえない極限理念に留まっている。

 けれども、この到達しえない他者の体験が表出されることはある。(c)に引用した他者と自己との意識の原形式の共通性を確信しつつ、私はそうした表出を手がかりとして、他者の体験を追理解することができる。

(d) 他者が心に抱いている内容は、会話によって、また、身体の身振りや表情によって、あるいは行為が産み出したもの(作品、手紙、記念碑など)によって把握される。そのような把握ができるのは、第一の場合にはもちろん言語能力のためであるが、第二の場合には、ある特定の身振りや表情とある特定の心的体験とは類型的に結びついており、私はそのような類型を知のストックとして経験から身につけているからである。第三の場合には、事例にしたがい、さまざまであるが、一般的には、行為の痕跡と行為の意図とを類型的に結びつける知のストックによる。

(e) (d)に挙げた三つの場合では与えられる情報の量や正確さに差がある。他者の体験の意味連関、とりわけ他者が自分の行為に賦しているであろう意味を、私が把握するには、他者が私と会話でき、他者の身体の身振りや表情を直接にみてとれるような状況が最もすぐれている。なぜなら、会話をしているひとの声の調子や身振りからは、「他者もまったく注目していない体験に私が目を向けることができる」(S.145;一四三頁)からである。「他者の身体の動きは他者の体験のしるしである」(S.142;一四〇頁)。すなわち、他者の身体が現前している場合が、他者を理解できる基本的な状況だといえる。ということは、他者の身体が現前している場合とそうではない場合とでは、他者に対する理解のしかた、私が他者に対してとる態度が異なるということである。

 以上のテーゼは、フッサールの発想に密接に即している。

 一方、ベルクソンからは、シュッツは、時間的性格の差異、とりわけ未来の未規定性に対するいっそう鋭敏な感覚をうけついでいるように思われる。たとえば、シュッツはベルクソンの『時間と自由』における自由論と決定論に関する考察(7)を援用して、たとえ計画されたものであれ、その行為がさきゆきどのように進展していくかは未決定であるということを強調している(SS.89-90;九〇−二頁)。フッサールの時間論でも、未来把持の非直観性によって、同様の主張はなされうるし、シュッツはそれを拠り所のひとつにしている(S.78;七八頁)のだが、しかし、フッサール自身がじっさいに行った分析をみると、むしろ、未知性を既知性の一様態とみなす文脈が強く、未来はきわめて漠然としていてもすでに規定されたものとして思い描かれているのである(8)

 また、ベルクソンの同時性の概念も、他者理解の根底にある。シュッツはベルクソンの論文『持続と同時性』から引用している(9)。「私が同時的と呼ぶのは、私の意識にとって、ひとつであれ二つであれ違いのないような二つの流れのことである。もし、それらに分割されない注意作用を向けたいなら、私の意識はそれらを単一の流れとして知覚する。まったく逆に、私の意識がそれらのあいだで注意を分かつのを選ぶかぎりは、それらを区別する。また、私の意識が注意を分かちつつ、しかし切り離さないように決めるなら、前者の場合と後者の場合をいちどきに行うことできる」(S,144;一四二頁)。私が私の意識流と他者の意識流を同時的に把握できる基本的な状況とは、その他者が私と同じ出来事を共有しており、ともに時を過ごしていく(mitaltern)状況である。つまり、他者が私の眼前に存在する状況が基本である。さらに、ここに、フッサールに由来する(e)の表現の場としての身体というテーゼが結びついて、他者の身体的現前の重要性が強調されるわけである。

 だが、以上には、ヴェーバーとの関連がぬけている。そこで、次に、ヴェーバーとの関連を目下の脈絡から重要なかぎりで言及しつつ、上記のテーゼがどのように活用されているかをみておこう(10)

 

III 社会的世界の分節化の原理(2) 〜ヴェーバーとの関連〜

 ヴェーバーは、行為者が自分の行為について主観的に考えている意味と、その行為について行為者以外の人間が考えている客観的な意味とを区別する。他者の行為の意味を理解するとは、主観的意味を理解することである。理解には二種類ある。たとえば、だれかが木に斧を打ち込んでいるのをみたり、ドアのノブに手を伸ばそうとしているのをみたり、あるいは、鳥や獣に向かって猟銃を構えているのをみたりするときには、われわれはそのひとがなにをしているのかを直接的に理解する。同様に、だれかが2×2=4という計算をしているのをみたときにも、そのひとがなにをしているかはすぐわかる(直接的理解)。しかし、そのひとが儲けを計上するためにそうしているのか、科学上の証明をするためにそうしているのか、計算練習をするためにそうしているのかなど、その動機がわかったときには、そのひとの行為の意味はいっそうはっきりと把握されてくる(説明的理解)(11)

 これについて、シュッツにしたがって考えれば、次のようになるだろう。

 たとえば、なにかの催し物を行おうとしているとしよう。私は他人に働きかけて、あるいは、他人の提案に賛同して、その催し物を行うことにし、その内容や規模を決める。そのために、何回か話し合いがもたれるだろう。資金が集められ、あるいは資金を作り出すために働く場合もある。必要な機材が購入され、会場の設定が計画され、機材が組み立てられ、会場の設営がなされ、そのあいだに、見物客に招待状を出し、その他さまざまなことを行ってようやくその催し物をやりとげることができるだろう。もちろん、この一連の出来事だけを行為と認定しなくてはならないわけではない。「行為の単位は投企の『幅』の関数である」(S.82;八二頁)。つまり、必要な資金を捻出することを目的として意識するかぎりは、そのための労働がひとつの行為として画定されるだろうし、一方、催し物を行うということを目的として意識するかぎりは、上の一連の出来事をひとつの行為として画定することができるだろう。

 ここで、(b)のテーゼにしたがって、この一連の出来事について、経過としての行為と成果としての行為とを分けて考えてみよう。行為の経過に目を向けると、われわれは上の一連の出来事のそれぞれを一歩一歩踏まえていかざるをえない。ちょうど、ある交響曲を聴くさいに、その四つの楽章を順々に聴いていき、それぞれの楽章を別々に把握しながら、しかもそれらをまとめてひとつの交響曲として意識するときのようにとらえねばならない。フッサールの用語でいえば、複定立的にとらえねばならない。一方、行為の成果、つまり催し物がやりとげられたということからすれば、一連の出来事は一挙に把握される。もちろん、行為の経過と行為の成果は密接に関係している。行為がなされていく経過からすれば、行為の経過は行為の成果に先行しているが、しかし、そもそもこの行為を「催し物がやりとげられる」までに導いてきたものは、あらかじめ、投企された行為の成果のためである。つまり、行為の成果は先取りされているわけだが、このことは後述する動機の時間的性格の問題に関わってくる。

 そのまえに、(c)のテーゼを参照しておこう。私が催し物の打ち合わせに行くために電車に乗るとしよう。(d)のテーゼからして、私の心的内容は私の身体の身振りによって表わされている。だれでも、私が切符の自動販売機に貨幣を入れているのをみたり、電車に乗り込もうとするのをみたりすれば、私がなにをしようとしているのかはわかる。そうした動作についての知のストックがあるかぎりはそうである。こうした身振りの把握が積み重なれば、しだいに私の意図は明らかになってくるだろうが、しかし、私がなにを思いつつその行為をしているかは、つまり、私が自分の行為に賦している主観的意味はあますところなく把握することはできない。たとえ、私がそれを説明しようとも、その説明の意味をどのように把握するかは、ふたたび、それを聴くひとが私がどんな人間であるかについて得ている知識によって左右される。「他者の心的なものについてのいかなる経験も、この他我について私自身がさまざまに体験してきた経験に基づけられている」(S.147;一四五頁)。したがって、他者がなしうるのは、私の話や身振りなどによって客観化された行為の意味からうけとられる(それゆえ)客観的意味をもとにして、私が私の行為に賦している主観的意味を構成することだけである。いいかえれば、行為の経過からとりだされた断片的な、しかしそれだけで独立した行為として把握できる部分の客観的意味をもとにして、行為の経過に私が賦しているであろう意味を構成しようとするわけである。

 ここで、ようやく、ヴェーバーの話に戻ることができるだろう。(b)から導出された経過としての行為と成果としての行為との区別によって、シュッツは主観的意味と客観的意味との区別を定義しなおしている。すなわち、客観的意味とは「自分自身のであれ、他者のであれ――意味を賦与する意識の構成過程から切り離されている」(S.48;五二頁)意味のことである。たとえば、私は、打ち合わせをするという行為を「催し物を行う」という意図から切り離したり、あるいはさらに、催し物を行うという行為を私がもっているもっと広い意図から切り離したりすることができる。それらは私の体験流から切り離されたので、だれの行為でもなく「匿名的」(ebenda)である。だからこそ、その経験を生かして、私は同じような行為を行いつつあるひとを、自分がそれを行ったさいの特殊な外的ないし内的事情との違いにさまたげられずに、理解することができるわけである。

 また、ヴェーバーの立てた直接的理解と説明的理解との区別は、シュッツにしたがえば、次のように考えられる。たとえば、私が切符自動販売機に貨幣を入れたり電車に乗ったりするのをみているひとは、私の行為を直接的に理解する。「『直接的理解』は……行為の経過に向けられており、その行為が経過するにさいして、われわれは行為者と同時に存在し、同時に持続するものとして体験を分かちあっている」(S.40-1;四四頁)。ところが、直接的に理解されるのは行為の経過の断片にすぎないから、行為の経過全体のもつ主観的意味は忖度しがたい。だれでも電車に乗っているひとをみて、そのひとがある催し物のための打ち合わせをするために乗っているとは思わない。つまり、動機を説明する説明的理解にはいたりえない。いいかえれば、「直接的理解は(主観的意味があることのしるしとしての)客観的意味そのものを主題として問題にする」(S.41;四四頁)。したがって、行為の意味を理解するには、直接的理解は説明的理解ほど明瞭ではない。社会学の方法が説明的理解を基礎とし、日常生活が直接的理解を基礎とするのはここから理解される。 つぎに、(b)に言及したように、シュッツは行為の動機についても時間的性格から二分している。たとえば、私は打ち合わせの場所に行くためにこの電車に乗っているともいえるし、その場所に行くにはその路線を利用するのが最も便利だからこの電車に乗っているともいえる。シュッツは前者を目的動機、後者を理由動機と呼んでいる。これは「ために」と「から」の用語上の区別ではない。目的動機によって思い描かれていることは、これから実現すべき行為の成果である。しかし、それはすでに起きてしまったかのように未来完了的に先取りされている。私はこの電車を下りて、友人らに会い、打ち合わせが済んだ状態まで予測しつつ、その予測にしたがって自分の行為を調えている。もちろん、私の予測どおりに運ぶかどうかはわからないが、それでも私は友人への贈り物をたずさえていったり、飲み代を用意していったりする。これに対して、理由動機は過去完了的である。その路線の便利さは私のこれまでの経験から得られた知識であって、これからなされる行為によって規定されてはいないのである。

 ところで、社会的世界について考えるときに、最も重要な行為概念は社会的行為である。ヴェーバーはこれを「他人の行動と関係をもち、その過程がこれに左右されるような行為」(12)(12)と定義している。だが、シュッツによれば、これも不十分な定義である。シュッツは他者経験について次のように分析している。

 もちろん、他者を他の人間として把握しない場合がある。これに対して、他者をたんなる身体のみから把握する場合は、すでに他者は他の人間になっている。なぜなら、他者の身体が物体とは異なるということは、それが心、体験流をもつ存在であるという把握と表裏一体だからである(S.30;三三頁)。ついで、他者の体験流に、つまり目下の脈絡にかぎれば、他者のかれ自身の行為に対する主観的意味に目を向ける場合がある(他者定位Fremdeinstellung(13)。さらには、他者が特定の行為をするように働きかける場合がある(他者への働きかけFremdwirken)。

 シュッツの立てたこの区別は、たとえば、次のような例をあげれば、まだしも分かりやすいかもしれない。あるひとが6人乗りのエレベーターを設計しているとする。そこから、設計者が荷重390kgという数値を算出する場合や、設計者の注文を受けてそれだけの積載力の部品を作っている工員にとっては、人間は問題ではない。これに対して、掲示をつければ乗客が読むだろうと設計者が考えたときには、乗客に対する他者定位がなされている。さらに、「ブザーが鳴ったら最後に乗ったひとはお降り下さい」という掲示を記したときには、他者への働きかけがなされている。この掲示文は最後の乗客に降りるという行為をするように働きかける設計者の目的動機から作られ、最後の乗客がこの掲示文を理由動機として降りることが意図されている。つまり、他者への働きかけとは、私の目的動機を他者の理由動機にしようとすることなのである。社会的行為と呼びうるものは、他者への働きかけのある行為のみである。

 

IV 社会的世界の分節化

 さて、以上のように、社会的世界の分節化の原理をまとめたうえでは、社会的世界の分節化そのものはたやすく理解できるにちがいない。分節化の原理の中心は、IIに記したテーゼの結論部の(e)である。それによれば、他者を理解する基本的状況は、他者と私の「時間的空間的共同態」(S.202;一九七頁)にあった。すなわち、(1)私の身体の占めている今−ここに他者の身体が現前している状況が基本である。ということは、この他には、(2)同時ではあるが、私がそこにはいない状況、私と同時的ではない、つまり(3)私の生に先行する状況および(4)私の生が終わった後の状況という四つの状況が想定される(14)。シュッツは順に、(1)直接世界(Umwelt)、(2)同時世界(Mitwelt)、(3)先世界(Vorwelt)、(4)後世界(Folgewelt)となづけている。社会的世界はこのように四つの世界に分節化されるのである。

ところが、(e)のテーゼによれば、他者の身体の現前は、私の他者理解、私が他者に対してとる態度をも左右するという。すると、四つの世界それぞれに応じて、他者の現われ方は異なるわけである。シュッツはそれぞれの世界における他者を、順に、(1)仲間(Mitmenschen)、(2)同時代人(Nebenmenschen)、(3)先行者(Vorfahren)、(4)後継者(Nachfahren)となづけて区別している。

 これらの区別は、さしあたり、他者への働きかけの有無によって大別されよう。先行者に働きかけられないことは自明である。また、私の目的動機が他者の理由動機となることが働きかけであるからには、後継者に対する働きかけが成立するのは、後継者が私の意図を理解しそれを受け継ぐごく稀有な場合にすぎない。すると、問題は働きかけの対象たりうる仲間と同時代人の区別である。両者の区別は直接世界と同時世界の区別に由来するのだから、二つの世界の差異を再確認しておこう。

直接世界では、他者の身体が現前しているために、表情や身振りをしるしとして、その他者の体験を理解することができる。つまり、客観的意味を賦すことのできるさまざまな徴候がこのうえなく充実しており(S.235;二三二頁)、私はこれらの徴候を介して、他者みずからが自分の行為に賦している主観的意味を構成することができるわけである(15)。このことによって、その他者は、その他者固有の体験流をもっているとりかえのきかない特殊な人間として私の前に現われてくる。

 直接世界のもうひとつの特権は、私と他者とが相互に働きかけあうことができることである。私が他者の表情や身振りに注意するのと同様に、他者もまた私の表情や身振りに注意できる。私の目的動機が他者の理由動機になりえたかどうかも、またその逆も確認することができる。こうして、私と他者はたがいをわれわれとして把握するにいたる。ここでは複数の体験流がひとつに把握されている。

 相互的な働きかけの最も際立った例は、会話である。直接世界では、他者に対する理解がどれくらい的中しているかということを、当の他者に問うことができるし、その結果に応じて、理解を訂正することができる。それだけではなく、なぜそのような要望(目的動機)をもっているか、なぜその要望にしたがわないか(一方の目的動機を他方の理由動機としないか)、どのようにすればたがいの要望を折り合わせることができるかなどを話し合うことができ、いっそう進んだ相互理解を得ることができるわけである(16)

 これに対して、同時世界はこれらの特権を欠いている。同時世界の他者は、身体が現前していないので、他者のなかで進みつつある体験の連関を読みとるすべはない。目の前にいない他者について、私ができることは、他者について私がこれまで獲得しストックしてきた類型(理念型)にもとづいて、その行為を予測したりその本人が行為に賦す主観的意味を想定したりすることのみである。つまり、同時代人は「しかじかの個性においては現われず、まさしく『郵便局員』とか『取立てに来るひと』とか『巡査』として現われてくる」(S.258;二五六頁)匿名の存在である。しかも、同時世界では、私の理解を正す質問や会話はありえず、私の理解が的中したかどうか確認することもできないのである。

 このようにシュッツの理論では、他者の身体的現前の有無が他者の現われを決定しているのだが、それはまた、私が他者に対してとる態度にも対応している。個性をもって今−ここに現われている直接世界の他者に対する態度は「汝定位(Du-einstellung)」、理念型によって把握される同時世界の他者に対する態度は「諸氏定位(Ihr-einstellung)」と呼ばれて区別されている。(この訳語については、Vに賦したExkursに後述する。)

 

V 対他態度が身体的現前に優先する可能性

 シュッツの理論は、IからIVに記したように、きわめてかっちりした構造をなしている。しかし、その身体的現前と対他態度の関係については、大きな疑問が残るように思われる。たしかに、直接世界の他者の例としてだんらんしている家族などを考え、同時世界の他者の例として外国の未知の役人などを考えるならば、シュッツの考えはうけいれやすい。ところが、身体的現前が対他態度を決定すると考えるかぎり、きわめてうけいれがたい場合もまた想定されうる。たとえば、同じ通りを歩いている行きずりの他人は「汝」となり、田舎の親は「諸氏」となってしまう。このような場合を考えると、身体的現前が対他態度を決定しうるかは大きな疑問である。

 それでもなお、シュッツにしたがって考えれば、次のようになるだろう。直接世界の他者にははじめて出会った警官を、同時世界の他者には遠くに移住した友人を例にとろう。私がその警官に道を尋ねる場合、もちろん、私はかれがどういう人間かを知らず、警官の類型にしたがって「警官だから道を教えてくれるだろう」と考えているにすぎない。しかし、じっさいに道を教えてもらうさいには、かれの表情や身振りから、たとえば、適当な道しるべを思いめぐらしているとか、多忙にしているとか、親切だとか、つっけんどんだとかを理解する。それは、今会っているこの警官にかぎった把握であり、警官一般について私がこれまで知っていた理念型を超えるものである。私の警官の理念型は、むしろ、この経験によって作りなおされるかもしれない。これに対して、私は遠方の友人についてはよく知っており、「かれのような人間はこんなふうに暮らしているだろう」という想像をめぐらすことができる。けれども、私は別れた後の友人の生活については知るよしもないので、かれは別れた時点までに私が作り上げていた「『私の友人の某君一般』の理念型」(S.275;二七三頁)にとどまっている。

けれども、シュッツにしたがってこのように考えると、シュッツが用いている汝と諸氏、個性と類型(理念型)の対比が、われわれの通常の概念からはずれたきわめて特殊なものであることがいっそう目立ってくる。それゆえ、他者の身体的現前から対他態度を導出するやり方に対する疑問はかえって強まってくるのである。

 混乱を避けるためには確認しておくべきだろうが、他者の身体的現前の有無そのものには問題はない。しかも、有無の境界が明確には画定できないというかたちで問題はないのである。つまり、直接世界と同時世界とを峻別するような境界はひけないのであって、このことはシュッツ自身もまた認めており、二つの世界の境界例ないしは混交例ともいうべき状況をいくつか挙げている。

 ひとつは、「厳密な概念規定によれば、一部は直接世界における社会関係、一部は同時世界における社会関係に時間的に多様に分割される状況からなる結婚とか友情といった……『継続的な』関係」(S.249;二四六頁)である。またひとつは、第四章の原註52に記されている俳優と観客の関係である(S.305;三六四頁)。俳優にとって、観客は身体的に現前しているが、あくまで観客という類型の一例であるにすぎない。シュッツはこれを「直接世界と同時世界のあいだの流動的な移行」(ebenda)の例だと述べている。

 しかし、直接世界と同時世界が空間的には峻別できないのは、私の身体の占めているここから空間がとらえられているかぎり空間が帯びている地平性のためである。それは対他態度とは無関係に成立する。だから、上の二つの場合については、次のようにいわざるをえない。前者は遠方の友人について述べたことが間歇的に成立している場合とみなすことができる。この関係が継続的だとされるのは、夫や妻や友人という特定の他者に対する特有な親しさ、つまり対他態度の特殊性のためである。これは常識的に納得できる。しかし、シュッツは、他者の身体的現前の有無に関する厳密さという、対他態度とは異質なものによってその継続性を分断してしまい、問題をむずかしくしているのである。後者では、流動的な移行が身体的現前そのものに由来していないことは明白である。ということは、とりもなおさず、対他態度が身体的現前の有無とはかかわりなく選択される場合があることがそこにはっきり指摘されているのである。

 それでは、そのような選択はなにによって生じるのであろうか。シュッツは「親密さの程度」「体験の近さ」(S.234;二三一頁)という概念を導入している。そこに掲げられている例を引けば、セックス(17)を交わしている相手、緊迫した会話を交わしている相手、いいかげんなおしゃべりをしている相手とでは、直接世界における他者という意味ではどれも「汝」であるが、しかし「この汝の自己をさまざまな深さの層において体験している」(ebenda)。もちろん、このような親密さの程度や体験の近さが他者の身体の近さそのものに対応しているものではないことは明らかである。そして、シュッツは体験の近さが「直接世界的関係が同時世界的関係に移行するさいに大きな意味をもつ」(S.235;二三二頁)と述べている。しかしながら、シュッツは別の箇所では、体験の深さを、他者の身体に示される他者の体験の徴候の増減によって、つまりふたたび身体的現前によって基づけようとしている。「私は友人とみつめあい握手をして別れる。かれは遠ざかっていく。まだかれは声の届く範囲にあり、私に大声で呼びかける。ついで、私にはかれがだんだん遠ざかりつつ手をふるのがみえる。ついに、かれは私の視野から消えていく。いかなる局面で、直接世界的状況が同時世界的状況に移行したかを述べることは不可能である」(S.246;二四三頁)。だが、ここで証明されているのは、シュッツ自身が意図していたような体験の近さの漸次的減少ではなくて、地平の画定しがたさ、ジェームズの用語では縁暈(fringe)の曖昧さにすぎない。

 さらに、他者の身体的現前が対他態度を決定しないことは、シュッツ自身が挙げている目の前でカード遊びをしているひとの考察からも明らかである。「私は三人の遊び手を私の直接世界から同時世界へ押しやることができる」(S.259;二五七頁)。つまり、三人がじっさいに今−ここにいなくても理解できるような体験しか想定しない状況に押しやることができる。それができるのは、遊び手のそれぞれの意識経過に注目するのをやめて、「カード遊びをしているひとびと」の類型としてみることによってである。後の場合には、三人は私が直接目にしている同時代人になる。そして、シュッツは正当にも、しかし、身体的現前から対他態度を導出するというかれのもともとの文脈に即して読んできた者を困惑させる警告を発している。「他者の行動を類型的に把握することと同時世界的社会関係を同一視する誤りに陥ってはならない」(S.258;二五六頁)。

 以上から次のような結論を出すことができるだろう。身体的現前の有無は対他態度を決定する条件ではない。少なくとも、上述の事例が示したところでは、直接世界においても諸氏定位をとることがありうる。いいかえれば、他者の身体が現前していることは汝定位の必要条件ではあっても十分条件ではない。したがって、シュッツが唯一の汝、特定の汝、個性、諸氏、類型・理念型といった概念を用いているにしても、それらをわれわれがただちにそこから予想するような意義から理解することはできない。たとえば、その汝概念は、とりわけ親しくしている人間をいうとはかぎらず、あるいは、われわれが自己のすべてを傾けて相対するような対話哲学的な意味での汝であるとはかぎらない。また、その諸氏概念は、シュッツ自身が例に用いている職業の類型に象徴されるような、われわれがたんに社会的な役割をつうじてのみつきあっているような三人称的存在を意味しているとはかぎらない。だから、対他態度ということで、個性をもって把握される親しい他者と疎遠なために無個性にみえる他者とを弁別することがめざされているなら、シュッツの分析はそのような観点からは失敗を宣せられてもやむをえないのである。

 

Exkurs : Ihr-einstellungとthey-orientation

 私はIhr-einstellungを「諸氏定位」と訳しておいた。Du-einstellungを「汝定位」としたのに対応させれば、「諸君定位」のほうがよいだろうが、代表的な理念型である職業や身分を顧慮してみると、たとえば公式の文書などにあるような「……各位」という呼びかけのイメージでこの語をとらえたかったからである。けれども、シュッツの英訳文献(18)では、Du-einstellungをthou-orientation、Ihr-einstellungをthey-orientationとするのが定訳になっており、邦訳文献もこれにしたがっている。そして、これまで述べてきたように、他者の身体的現前の有無からこの差異が由来しているのだから、その場に居合わせない他者を呼び表わす三人称複数によって二人称複数のIhrを訳すことは、シュッツの文脈からも一般の文法常識からもかなっているとすらいえる。

 だが、二人称と三人称との区別は、一方で、親しさや疎さをも表わしている。この親しさと疎さの区別は、シュッツのいう特殊な汝と類型として把握される諸氏との区別に符合しているようにみえるが、しかし、じっさいには、シュッツのいう汝や諸氏はそのようなものにはかぎらないことはV節の結論から明らかである。つまり、Ihrを「彼ら」と訳すと、シュッツがあげたさまざまな境界例や、私のとりあげているそこに含まれる問題が落ちてしまうのである。あるいはむしろ、「彼ら」と訳すことで、ある種の解釈が施されているともいえる。それによって、対他態度が身体的現前の有無とは異質な親疎の関係に対応することが示されてもいるからである。

 だからといって、私はシュッツが二人称複数――“Ihr da"「そこにいる諸氏」“Eures"「諸氏のような[行動]」(S.260;二五八頁)ではなくて、三人称複数――“Sie da"“Ihres"を用いるべきだったとは考えない。むしろ、かえってここに、身体的現前に関わらぬ対他態度の流動性が示唆されているように思われ、それを対話哲学における二人称に対する強調を連想させるような解釈を施すことで解決済みにしてしまうのをおそれるのである。(ドイツ語の三人称複数は二人称敬称と混同するとか、英語のthouに対する二人称複数のyeは哲学用語としても古すぎるという理由は、「君たち」と「彼ら」とを交換するほど強い理由ではあるまい。そうだとしても、なんらかの技術的処理は可能であろう。)ちなみに、ミヒャエル・トイニッセンは私の指摘とまったく同様の不満を記している。「私は電車のなかで隣にいるひとを直接世界的な汝として体験するが、それはかれが私にとってくりかえしのきかない自己存在において出会われるからではなくて、たまたま私の近くにいるからである。逆に、シュッツによれば、たとえば私の配偶者のような、私にとってただひとりのものとして親しまれている他者は、事実的に居合わせていないかぎり、たんに同時世界的である」(19)。トイニッセンによれば、シュッツの考えは自由に処理しえない汝の異他性を主張する対話哲学とはまったく異なっている(20)。これによっても、Ihrの訳語に関する上記の懸念は不要なものとはいえないだろう。

 

VI 厳密な今−ここから継続的な今−ここへ

 対他態度は他者の身体的現前によっては決定されない。しかし、シュッツがなぜそれを決定できるかのように語ったかは推測できる。というのは、シュッツによれば、あらゆる意味形成は直接世界的な状況から発生するからである。「生き生きした直接世界的関係から、社会的直接世界の領域の属さないすべての他者定位の作用は……その根源的で本来的な権利をひきだす」(S.219;二一五頁)。それは発生的観点からは正しい結論である。しかし、そうした発生的分析がそのまま、すでに生成した意味をそのまま適用するようないっそう日常的にありふれた状況の分析に応用されうるわけではないのである。発生的分析が具体的状況の分析に重なりうるのはその状況自体が発生的である場合、たとえば、われわれがはじめて知り合った他者を目前にしつつ、その理念型を作りつつあるといった状況にかぎられる。

 私はある特定の他者に向かって、相手の身体的現前の有無に関わりなく、同じ態度をとりつづける。そうした対他態度の安定性を説明するためには、シュッツが前述の継続的な関係にもちこんだような身体的現前に関する過度の厳密さを捨ててかからねばならないだろう。あるいは、むしろ、他者の身体的不在の時間をも含めた継続的な今−ここという状況を考えねばならないにちがいない。

 しかし、そのことは、対他態度を他者の身体的現前によって基礎づけるのではなく、逆に、対他態度そのものによって他者の特定の現われ方を規定することである。というのも、継続的な今−ここ、なじみのここを形作るのは、もはや身体的現前ではなくて、その場所をそうした親しまれた意味空間にしている知のストックであり、そして、特定のその他者に対してとりつづけられる安定した対他態度はこうした知のストックに属しているからである。

はじめに記したように、私は生活世界という観点からシュッツの社会的世界の構造分析に関心をもってきた。継続的な今−ここという概念は、私の考えでは、生活世界論において故郷世界という概念によって言い表わされているものである(21)。アメリカ亡命後に著した論文「よそ者」や「帰郷者」(22)のなかで、シュッツもまた、故郷と異郷という概念をとりあつかっている。さらに、後期のシュッツが強調した有意味性(Relevanz)は、社会構造のなかで安定して妥当しつづける意味連関を解明するために重要な概念である。 に引用した結婚や友情や観劇といった状況にしても、身体的現前を原理とするかぎりはあつかいがたい境界例ではあるが、継続して妥当する意味連関という観点からは、かえって、豊かな分析が期待できるような状況である。

 しかし、ここでは、ここに記した問題とそれらの分析との関係を考察する余裕はない。それは別の機会に論じたい。この論文では、私は『社会的世界の意味構成』に範囲をかぎって、他者の身体的現前と対他態度の関係に疑問を呈してみた。そして、他者の身体的現前は対他態度の必要条件ではあっても十分条件ではないということ、また、シュッツがそれをあたかも十分条件であるかのように説明しているのは、発生的分析と意味発生の後の具体的場面における意味適用の分析とを等視したためであるという結論を得たわけである。

 

 

1) Schütz,A.,: Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt, Frankfurt am Main, 1981.この著作からの引用頁数は、文中に括弧に入れて(S.……)のように表わす。なお、引用文は拙訳によるものだが、邦訳(佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成』、木鐸社、一九八八年)の頁数を(……頁)で表わして併記する。

2) Schutz,A.,: Collected Papers II, ed., Brodersen,A., The Hague, 1976, p.,xi(editor's note).

3) イゾ・ケルンが指摘しているように、Husserliana IV,S .375にLebensweltという語は出ており、この部分(Beilage XIII)の草稿は一九一七年に記されたとみなされている。Kern,I.,“Das Lebenswelt als Grundproblem der objektiven Wissenschaften und als universales Wahrheits- und Seinsproblem", in: Lebenswelt und Wissenschaft in der Philosophie Edmund Husserls, hrsg. Ströker,E., Frankfurt am Main, 1979, S.68.

4) 『フッサール年代記』にシュッツがはじめて登場するのは、一九三二年六月十−二五日の項である(Husserliana Dokumente I, S.410)。シュッツが『社会的世界の意味構成』の序文に記している年月は一九三二年五月である。次註参照。

5) 石黒毅「社会学と現象学」、木田・滝浦・立松・新田編『講座現象学4』、弘文堂、一四七頁。石黒氏によるSchütz,A.,“Husserl and his influence on me", in: Interdisciplinary Phenomenology, ed. Ihde,D.,& Zaner,R.M., pp.124-9の翻訳を引用した。フッサールがシュッツを(おそらくはじめて)自宅に招いた招待状を兼ねたこの手紙の日付は一九三二年五月三日である。

6) フッサールのいうモナドである。(Husserliana I ,S.102)

7) Bergson,H., Essay sur les donnés immédiates de la conscience, Paris, 1921,pp.133-69(平井啓之訳『時間と自由』、白水社、一九七五年、一六一−九頁)

8) Husserl,E., Erfahrung und Urteil, Hamburg, 1972, S.34. 『内的時間意識の現象学』においても、たとえば、未知のメロディーについては、フッサールの分析は、その未知性のゆえに、ためらいがちである。拙稿「個体について−フッサールを手掛かりとして」(『哲学論叢』XIII号、京都大学哲学論叢刊行会、一九八六年)

9) Bergson,H., Durée et Simultanéité. A propos de la théorie d'Einstein, Paris, 1923, p.66.

10) これに関連して、丸山高司『人間科学の方法論争』(勁草書 房、一九八五年)第三章を参照した。

11) Weber,M., “Soziologische Grundbegriffe”, in: Gesammelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 6.Auflage, Tübingen, 1985, SS.541-7(清水幾太郎訳『社会学の根本問題』、岩波文庫、一九七二年、八−一六頁)

12)  a.a.O.S.542(邦訳八頁)

13) 他者を他の自我として把握するという意味のシュッツの用語Fremdeinstellungを「他者定位」と訳した。標題の「対他態度」は、他者をDuやIhrというふうにさまざまに把握するすべての場合を含めた(シュッツは用いていない)複数のFremdeinstellungenを想定した語である。

14) もちろん、これらのあいだの境界は曖昧である。それは 以下に後述するが、たとえば、死者にとって、遺族は後世界に生き続けるような直接世界的存在である。

15) ここに、ベルクソンの同時性概念とフッサールの表現する身 体の概念とヴェーバーの行為の理解の概念が融合している。

16) 質問者が回答を呼びおこそうとする目的動機から質問し、回答者が質問を理由動機として回答し、しかも「回答者の行動が……質問に対する回答として解釈される」可能性を指摘しているシュッツの分析(S.226;二二二頁)は、話し手の発言が聴き手の行為を動機づけるという会話の機能を重視するフッサールの分析(Husserliana XV, S.218-S.226)ときわめて符合している。なお、フッサールのコミュニケーション論については、拙稿「対話における言葉について」(新田・常俊・水野編『現象学の現在』、世界思想社、一九八九年)に論じたことがある。

17) 原語はGeschlectsakt。邦訳では「求愛行動」となっているが、端的にこう訳しておく。ちなみに、ヴェーバーの定義では社会的行為に属し、シュッツの定義では必ずしもそれに属さないものの例として挙げられているerotische Einstellungは邦訳では「求愛」となっているが(S.205;二〇〇頁)、「性的な感情を抱くこと」だろう。他者に対する働きかけをともなわず、したがって、行為にいたらない愛情のあることを、シュッツはゲーテの格言を引用して説明している(S.209;二〇五頁)。

18) Schutz,A., Phenomenology of the Social World, trans. Walsch, A., & Lehnert, F., Northwestern, 1967.

19)  Theunissen, M., Der Andre, Berlin, 1977, S.409-S.410.

20)  a.a.O.S.410-S.411.

21) 故郷世界と異郷世界の問題については、私は次の箇所で論じている。「生活世界とはなにか――問題の一分肢としての故郷世界と異郷世界」(竹市・小浜編『哲学は何を問うべきか』、ミネルヴァ書房、一九九一年刊行予定)、「ヴァルデンフェルス『異郷のなかの故郷』に寄せて」(『紀要』、和歌山県立医科大学進学課程、第19巻、一九九〇年)

22)  Schutz,A.,“The Stranger: An Essay in Social Psychology" “The Homecomer",in: Collected Papers II,the Hague,1976.

 


Zusammenfassung dieses Beitrags

Präsenz des fremden Leibs und Fremdeinstellungen

- in Schützs Theorie von der sozialen Welt -

SHINAGAWA, Tetsuhiko

 

Alfred Schütz versuchte in seinem ersten Werk Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt(1932), die soziale Welt strukturell zu gliedern. Vom Standpunkt der phänomenologischen Philosophie kann man es als einen vorangehenden Versuch der Ontologie der Lebenswelt betrachten, deren Konzeption doch erst in Husserls Krisis(1936) explizite veröffentlicht wurde. Schütz beabsichtigt dabei durch die husserlschen- und bergsonischen Zeitanalysen eine Begründung des Webers Begriffs der sozialen Handlung. Die Prinzipien sind diese:(1) Wer die soziale Handlung eines Anderen verstehen will, der muß den subjektiven Sinn des Täters auffassen. (2) Man kann ihn am besten auffassen in der Gleichzeitigkeit des eigenen Bewußstseinsstroms und des fremden. (3) Der anwesende Leib des Anderen zeichnet immer seine Erlebnisse an, die eigentlich für den Beobachter unzugänglich sind. Schütz hebt daher die Präsenz des fremden Leibs als die urspr nglichste Situaion f r das Fremdverstehen hervor. Darauf beruhen unsere verschiedene Einstellungen zu dem Anderen bzw. Fremdeinstellungen. Sie sind also durch die Präsenz oder Nichtpräsenz des fremden Leibs bestimmt. Mit diesem Prinip der Präsenz gliedern sich die soziale Welt und dementsprechend die fremden Erscheinungsweisen : (a) die gleichzeitige Situation mit der fremden Präsenz d.h. Umwelt - Mitmenschen, (b) die gleichzeitige Situation ohne Präsenz d.h. Mitwelt - Nebenmenschen. Mit einem Mitmenschen geht man in der Du-einstellung um, die ihn einen unaustauschbaren spezifischen Anderen macht. Mit einem Nebenmenschen geht man dagegen in der Ihr-einstellung um, die ihn einen blo vom Idealtypus erfaßten Anderen macht.

Ist das aber denn der Fall? Bestimmt die Präsenz des fremden Leibs wirklich solche Fremdeinstellungen? Wenn es richtig ist, muß man die merkwürdigen Situationen hinnehmen, die gegen unsere alltäglichen zwischenmenschlichen Beziehungen verstoßen. Während z.B. ein Fußgänger in der Nähe ein Du ist, sind meine Eltern in der Ferne Ihr im obigen Sinne.

Die Fremdeinstellungen sind eben nicht von der fremden Prä senz abhängig. Das letztere bedingt das erste nicht ausreichend, sondern nur notwendig, es sei denn, da es sich um eine genetische Situation handelt, in der solche Fremdeinstellungen erst sich bilden. Schützs Absicht der Begründung der soziologischen Begriffe fährt ihn zu dieser Gleichsetzung der genetischen Analysen mit den nachgenetischen Analysen der häufigeren Situationen, in denen die im voraus gebildete Fremdeinstellungen einfach fortwährend gelten.


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