書評:ハンス・ヨナス『責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み

 

品川哲彦

週間読書人、第2350号、2000年8月25日

 

 フッサール、ハイデガー、ブルトマンに師事し、ナチスの政権掌握により亡命、イスラエルでは砲兵として働き、米国で研究を続けたユダヤ人の哲学者ハンス・ヨナスが、晩年、ドイツでも古風と評された文体のドイツ語で発表した書物である。原著を読んだときの私の印象では、和訳すれば詰屈、それを避ければ冗漫に陥るおそれがあると思われた。今回公刊された訳書は文を短く切り、歯切れよく文意を伝えるよう努めている。簡潔な日本語に移し終えた訳者の労苦を多としたい。

 この大部の著作はおよそ四つの主題からなる。@科学技術の進展と環境破壊の進行。人間の知と力の増大は先行きの見えない力動的社会をもたらした。Aこの変化に対処する倫理は新たな原理に立脚しなくてはならない。それが責任という原理である。というのも、責任は知と力の函数だからだ。その存続が脅かされていて、しかもその存否が私の手にかかっている他者に対して、私は責任を負う。たとえば、乳飲み子の生死は親にかかっている。乳飲み子という無力な存在そのものが、世話すべしという当為を親に迫っている。親の乳飲み子に対する責任は責任の原型である。現在、環境破壊は未来世代の人類も脅かしつつある。だから、現在世代は未来世代を存続させる責任を負う。ただし、ヨナスは未来世代の幸福や生存権には訴えない。というのも、彼には、B独自の自然哲学があるからだ。すなわち、善とは目的あるものが目的を達成することである。進化の連続性からすれば、目的は人間だけではなく自然のなかにすでに内在している。人類は他の生物種の固有な目的を蹂躙してきた。人類の所業からすれば、一生物種としての人類が存続に値するかどうかは疑わしい。しかし、それにもかかわらず、人類は存続しなくてはならない。責任の存在が第一の義務だからだ。つまり、未来世代が存続すべきなのは、人間のみが責任を問われ担いうる存在だからである。むろん、責任は引き受けられもすれば打ち捨てられもする。両方の可能性を含んで、人間は道徳的存在である。この人間観は、Cブロッホに代表されるマルクス主義のユートピア思想批判に通じている。ユートピア思想も、ヨナスの説く未来への責任と同様に、未来にむけた提言である。だが、ユートピアの実現は技術の進歩と生産の増大に支えられている。それではますます環境破壊に進むだろう。こうした物質的な次元のほかに、ユートピア思想は、歴史の目的が成就された段階で本来の人間が登場するように約束している。しかし、ヨナスはこれを否定する。人間は前述の意味ですでに、またこれから先も本来的なのである。

 訳書は章ごとの梗概があり、全体の筋を追うのに役立つ。巻末には、加藤尚武氏がヨナスとレヴィナス、アーレントとの関係、否定神学を通したブロッホ評価などについて解説している。ヨナスは、グノーシスの研究者、アーペルにカントの批判以前と評された自然哲学の提唱者、生命操作と環境破壊をもたらす科学技術の警告者と多彩な顔をもっている。今年七月、ドイツでは、ヨナスとアーペルとを結びつけて共同責任を共通課題とする学際的会議が催され、尾形敬次氏が日本でのヨナスの受容について報告した。本訳書は、死後ますます注目されつつあるこの独創的な哲学者の研究を進展させる大きな一歩であろう。

 

*ハンス・ヨナス『責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み加藤尚武監訳、東信堂、2000年。

原著は、Hans Jonas, Das Prinzip Verantwortung Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Insel Verlag Frankfurt am Main, 1979.

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