倫理学「者」の役割

「応用倫理学各分野の基本的概念に関する規範倫理学的及びメタ倫理学研究」第1回研究会

ワークショップ「応用倫理学の倫理学研究への貢献」

2004年8月30日 於:北海道大学 

品川哲彦

 

 

 「倫理学「者」の役割」という題名で3点ほど話題を提供したいと思います。私自身の感じてきたことをお話しするので、個人的な体験に偏った内容になるかもしれませんが、そこはご容赦ください。

 私は学部・大学院ともに哲学を専攻し、フッサールの現象学を勉強していました。1980年代に大学院生だったわけですが、その頃、森岡正博、加藤尚武、加茂直樹といったひとが生命倫理学を精力的に紹介しており、私たちも加茂先生のもとに集まって京都生命研究会を始めました。その後、医科大学に就職したり、広島大学で生命倫理学の授業が開設されたときに広島大学に移動したり、生命倫理学に関わる仕事を求められたりするうちに、むしろ倫理学が研究テーマになってきましたが、もともと生命倫理学が私の第一の関心事だったわけではなく、倫理学の専門のカリキュラムで育ってきたわけではありませんでしたから、いったいどのような資格で自分は論文を書いているのだろうかという疑問をずっと抱いてきました。これは私事ですが、その疑問を論文に消化すると、「哲学や倫理学の研究者は応用倫理学においてどういう資格から何ができ、何をなすべきか」ということになります。私には、社会生活を左右する指針を倫理学や倫理学者の名のもとに教示するのはうさんくさく思えました。競合する倫理理論からは別の指針が出てくるからです。もちろん、一市民としては特定の指針を支持してよい。倫理学者は自分が学んできた倫理理論を用いてその指針を理論的に洗練させることはできるが、その発言権は一般市民と変わるまい。これを突き詰めていくと、倫理的判断は究極には根拠づけられないということになり、二〇世紀半ばに流行したemotivismに通じていきます。Emotivismやemotivismが象徴するメタ倫理学への没頭が過ぎ去ったあとに、応用倫理学が勃興してきたわけですから、この問題は歴史的には解決済みにみえる。実際、私もemotivismを支えている実証主義的な科学観には与していません。しかし一方、emotivismがつきつけた「倫理的判断は単なる叫びではないか」というメタ倫理学的な問いを、日本の倫理学者がみずから克服して応用倫理学に進んだのだろうか。これもまた私が疑問としているところです。

 さて、自分の倫理的判断によって社会を教え導くことが倫理学者の役割でないとすれば、倫理学者は何をなすべきなのか。1999年の日本倫理学会でパネリストに起用されたとき、私はコーディネーターとしての倫理学者という役割を示しました。応用倫理学の問題には、医療問題なら医療関係者、環境問題なら生物学者など科学技術の専門家、さらに科学技術の運用は法、経済、政治に関わるからそのそれぞれの専門家、また社会学、心理学、文化人類学などさまざまな専門家、そしてもちろん社会生活のなかの問題ですから市民一般が関わっています。応用倫理学とはさまざまな主張が交わる入会地である。倫理学者はこの入会地の支配者ではない。倫理のことば・概念に他のひと以上に慣れているだろう倫理学者は、問題をめぐってとびかう意見の論点を整理したり、なかなかうまく言えない思いを表わす適切なことばを発言者と一緒に探したり、無視されがちな意見を聞き出す役割を果たすべきだ、というのがそのときの主旨でした。つまり、倫理学の研究者は、倫理上の唯一の正解を教える専門家などではなく、倫理的判断に用いられることばやそのことばがもっている論理・用法についての専門家、つまりメタ倫理学の知識を身につけた者であると考えたわけです。倫理学者コーディネーター論は、むろん、私の専売特許ではなく、同じ主旨を唱えているひともいます。しかし、気になる点もあります。というのは、コーディネーターには聞く能力や鋭敏に問題を感じとる能力が必要なのですが、それは倫理学の知識だけで培えるのだろうか。コーディネーターとしての役割を強調すると、倫理学者に何か特定の性格、徳が要求されていることにならないか。それで悪いわけではないのですが、倫理学者自身が一種の徳の持主だと自己主張しはじめたらおかしな気もします。

 コーディネーターとしての倫理学者の役割は、問題をめぐってとびかう意見の論点を整理したり、なかなかうまく言えない思いを表わす適切なことばを発言者と一緒に探したり、無視されがちな意見を聞き出す役割を果たすことだと申しました。そのことによって、すでに指摘された問題が多くのひとに共有できるしかたで定式化されたり、場合によっては、あることが初めて問題としてとりあげられるようになったりすれば、コーディネーターとしての倫理学者は成功したことになります。このように考えると、応用倫理学とは発見法という一面ももっています。こうした発見は倫理理論を文献として研究しているだけではこうした発見はできなかったのかもしれませんから、倫理学者にとって応用倫理学に関わる意味はあります。一方、倫理の概念や理論に習熟していたから問題が問題としてみえてくるということもあるので、他の人々にとっても倫理学者の存在は有益だということになります。私は応用倫理学のこの発見法的な側面を重視したいと思います。しかし、応用倫理学が具体的な問題の解決をめざすものならば、新しい見方の発見以上に、みなの納得のいく手続きによって対立する立場の利益を調整することこそが応用倫理学の課題ではないかという疑問も出てきます。適格な手続きによる利害の調整が目的ならば、正義、とりわけ配分的正義が応用倫理学の最も重要な規範となり、手続き的な思考、法的な思考が要求されることになるでしょう。倫理学はそれに対してどういう態度をとるべきか。

 以上、私は三点、話題を提供したいと思います。

  1. 日本の応用倫理学は、二〇世紀のメタ倫理学への傾倒、emotivismによる倫理学否定をきっちりと自ら清算したうえで進んでいるのだろうか? それができていないために、倫理学者としての役割、資格を曖昧にしたまま、応用倫理学をしていないだろうか?
  2. 倫理学者が果たすべき役割はコーディネーターだと思う。だが、そうだとして、それはなにか、倫理学者の性格・態度形成に論点をずらすことになりはしないか?
  3. 応用倫理学は倫理理論、倫理学者にとって発見法的な意義がある。しかし一方、手続き的な思考、配分的正義は応用倫理学の重要な論点だろう。こうした要求に対して、倫理学は法的思考や経済学的思考に対してどのように独自性を出しうるか?