関西大学文学部総合人文学科
哲学倫理学専修

Kansai University Faculty of Letters Course of Phirosophy and Ethics

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学びの扉

■ 学びの扉 (品川 哲彦)

氏名 品川 哲彦
専攻分野 現象学、倫理学・応用倫理学
主な研究テーマ  私自身が「哲学」にぜひ進もうと思ったきっかけのひとつは、自分自身の存在さえも疑うデカルトの『省察』でした。そこに、(1)子どもの頃から漠然と抱いていた他者の存在への問いが結びつき、フッサールの現象学から研究を始めました。大学院生だった1980年代後期に(2)生命倫理学や環境倫理学など応用倫理学のアクチュアルな問題にふれたのを端緒として、現在では、(3)倫理学全般に関心を広げています。近年はとくに、倫理規範の基礎づけ問題、正義・責任・ケアの相互関係の研究に関わっています。
哲学とは一見あたりまえにみえることをあらためて考え直す営みです。倫理学が哲学の一部である以上、倫理学もまた、常識化した倫理(xすべし/xは善いことだ)にこの峻烈な問いを投げかける学問にほかなりません。
二回生以降に展開される
授業内容
【倫理学概論a】【倫理学概論b】を担当してきました。この授業では、重要な倫理理論を私の能力のおよぶかぎり受講生にとってわかりやすく展開したいと心がけています。しばしば誤解している教員や学生もいるようですが、倫理学とは、授業担当者がおのれの思いを伝える(倫理学ならざる)「倫理」(「学」のついていないところに注意)のお説教ではありません。ですから、受講生に求めているのは、答えを聞こうとする態度ではなく、自分で考えようとする知的意欲です。
 「どのようなことが倫理的に善いとされるのか」「倫理を守るべきだといえる理由は何なのか」こうした問いをめぐって、【倫理学概論a】では、重要な倫理理論のいくつか(自己利益にもとづく倫理観、他者への共感にもとづく倫理観、義務倫理学、功利主義)を紹介しています。【倫理学概論b】では、1970年以降の倫理学の流れにしたがって、自由主義(リベラリズム)と共同体主義(コミュニタリアニズム)の対立を軸にしてとりあげてきました。
 受講生の反応は「おもしろい」「わかりやすい」「熱意に富んだ授業」「むずかしい」いろいろです。最も特色ある反応は、Web上に発見した「品川先生のキモカワなキャラクターが存分に活かされた授業」というものでした(「キモカワなキャラクターが存分に活かされた授業」とは、私自身には、どうかと思いますが、まあこのひとには波長が合ったのでしょう)。関大で行なっている授業評価に寄せられた反応や単位の取得率については、私のホームページ(URLは「講義紹介」の欄を参照)に載せています。
推薦図書 ○ルネ・デカルト『方法序説』、谷川多佳子訳、岩波文庫、2001年。『省察』、井上庄七・森啓訳(『世界の名著 27 デカルト』、中央公論新社、2002年。
 哲学がすべてを疑う営みであるかぎりは、デカルトの『方法序説』と『省察』は依然として哲学へのよき導きの書と考えます。

 そのほかは、私が高校から大学にかけて読んでとくに記憶に残った本をあげておきます。
○夏目漱石全集に収められている書簡
 とりわけ、森田草平(米松)、小宮豊隆、鈴木三重吉など、「困った」弟子たちへの手紙は身にしみます。岩波文庫に抄録があります。
○トーべ・ヤンソン『ムーミンパパの思い出』、小野寺百合子訳、講談杜文庫、2000年。
 「なぜ、こうであって、これ以外ではないのか」という哲学的問いと辛口の人間観察に溢れた児童文学。
○本居宣長『うひ山ふみ』、村岡典嗣校訂、岩波文庫、1934年。
 「とかく思ひくづをるるは学問に大いにきらふことぞかし」 大学、大学院以降、このことばに何度か励まされた覚えがあります。
○中野重治『歌のわかれ』、新潮文庫、1980年。
 青春時代が誇りと抵抗に満ちた(あとからみれば、悔いと恥ずかしさのつきまとう)時代であるかぎり、この短編はどの若い世代にも通じるところがあるのでは?
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、『罪と罰』や、フランツ・カフカ『城』、『審判』、トーマス・マン『魔の山』などは、大学を終えるまでに読んでおくべきものと思います。複数の文庫にあり。
講義「学びの扉」のテーマと内容 2回の授業をする機会があれば、「古典的な話」と「現代的な話」とを1回ずつします。

古典的な話: 自己と他者の問題

  私自身が哲学に心魅かれたのは、哲学があたりまえと思われていることですら根底に立ち返って考えなおす営みだからです。哲学がそういう営みだとくっきりと私に印象づけたのは、デカルトの懐疑でした。デカルトはこう考えます。
――私は知識の大半は感覚を通じて得ている。ところが、感覚には錯覚がつきものだ。もし、けっして疑い得ない真理を入手しようと思うなら、一度でも私を欺いた感覚を頼りにすることはできない。しかし、感覚を疑えば、世界が存在していることも確証できない。それどころか、この私が存在していることすらも疑わしいではないか――。
この続きは、授業で。
20世紀初頭、フッサールがふたたびデカルト的懐疑をみずから遂行します。そこでは、「我」である点では私と同等でありながら、私とは異なる「我」である存在、つまり他者の存在が問われたのでした。時間の都合でできるかどうかわかりませんが、余裕があれば、哲学的思考にとって〈他者〉の占める位置について若干お話しいたします。
 
現代的な話: 「脳死はひとの死か」論争

  私の研究の出発点は「主な研究テーマ」に記したフッサールの現象学(phenomenology)でしたが、今の私の主たる研究領域は倫理学に移っています。1970年代以降、社会生活のなかに生まれる倫理的問題にとりくむ倫理学の諸分野が、次々と現われ、活況を呈しているからです。生命倫理学、環境倫理学、ビジネスエシックス(経営倫理学)、エンジニアリングエシックス(工学倫理学)、コンピュータエシックスないし情報倫理学、国際倫理学などがそれです。
しかし、こうした科学技術や政治や経済と結びつく問題に、哲学者・倫理学者がどういうふうに寄与できるのでしょうか。 臓器移植法が成立するまえ、「脳死はひとの死か」というアンケートがしばしばとられました。臓器移植法は成立しましたが、この問いは決着がついていません。というよりも、この問いは異なる二つの問いを含んでいるので答えが出にくいのです。その話をして、倫理学の考察の一端を紹介したいと思います。
リレー講義の参考文献 (古典的な話)
デカルト『省察』、井上庄七・森啓訳(『世界の名著 27 デカルト』、中央公論新社、2002年。
フッサール『デカルト的省察』、浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年。

(現代的な話)
ロバート・M・ヴィーチ『生命倫理学の基礎』、品川哲彦監訳、メディカ出版、2003年。
第一章が倫理学入門として適切。
ジェイムズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学−安楽死からフェミニズムまで−』、古牧徳生・次田憲和訳、晃洋書房、2003年。
功利主義にシフトしているが、全体に目配りの利いた書。
担当者のホームページ
(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/)
新入生へのひとこと  発達心理学の理論のなかには、大学に進むと、多様な価値観にふれることになるから、自分と社会とについて根本的に考え直すきっかけとなると説くものがあります。それは精神的危機であると同時に成長の機会でもあります。進学率50%を超えるアメリカや日本の大学がはたしてその機能を持ち続けているのか、受験システムをとおして入学者が配分される日本の大学には能力と年齢の似通った人間しかいないではないかという疑問もありますが、まだまだ大学はその機能をもっているでしょう。友人ができることはけっこうなことです。しかし、その一方で、〈ひとり〉になって考える時間を大切にしてください。卒業まで大学に通って得たものが、卒業証書や資格や社会への適応能力といったことだけではなく、あなたというひとりの人間の〈深み〉がそれであるような、そういう充実していると同時に悩ましい学生生活を送られることを期待します。
 
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