『関西大学商学論集』第46巻第4号(2001年)

日系中小企業の中国進出とテクノセンター*

Japanese SMEs and Techno Centre in Shenzhen, China

長谷川 伸**

I はじめに

 大企業が海外へ生産拠点を移す中で,大部分の中小企業は海外進出の必要性は感じながらも,経営資源が乏しいことを理由に断念している[1]。中小企業総合事業団の調査によれば,これまで中小企業の海外進出事例が最も多い中国についても,現地でのビジネス展開に興味を持たない理由として「自社に余力が十分ない」が最も多く,これに「適切なパートナーが見つからない」,「必要な情報が不足している」が続いている。中小企業は資金や人材などの経営資源とパートナー,情報が不足しているために中国進出が困難なのである[2]

 その一方で我々の調査によれば,中小企業は納入先からの絶えまないコストダウン要求にさらされ,納入価格は国内生産では不可能な水準に引き下げられる傾向にあるし,納入先から海外進出そのものを要請されることも多く,なかには海外進出しなければ取引を中止すると宣告された例もあった。海外進出か転廃業かという究極の選択を迫られている中小企業は少なくないのである。

 本稿で検討するテクノセンター(日技城)は,そうした窮地に立たされた中小企業の中国進出を支援する組織である。テクノセンターは「日本の中小企業の中国へのスムーズな企業進出をサポートし,それに関わる安定したインフラストラクチャー(経営基盤)の提供を事業方針とし」,「そこで働く人々の技術・生活水準向上に貢献し,長期的な見地で中国全土の技術水準の高度化と上質化」[3]を目標とする「中国へ本格進出を検討している中小企業を対象にした『また貸し賃貸工場兼トレーニングセンター』」[4]であり,中国進出を迫られる日系中小企業の「駆け込み寺」的存在として知られている。

 テクノセンターは1987年に発足した在香港日系企業で構成する異業種交流会「八日会」が母体となって,W社社長,S社社長らを代表幹事として1991年に設立されている(表1)。その翌年に深セン市龍崗区布吉鎮に工場を借り,テナント5社で事業をスタートさせた(第1テクノセンター:布吉日技城製造廠)。設立当初から入居希望が相次ぎ,1993年から1994年にかけて隣接する工場の借り増すものの,入居希望が後を絶たず,1994年には同じ布吉鎮にある別の工業区(下李朗萬事達工業区)に工場を借り,入居希望企業を受け入れた(第2テクノセンター:李朗日技城製造廠)。1995年からは,テクノセンター設立当初の目標であった自社工場建設の計画に着手する(宝安区観瀾鎮桂花村,第3テクノセンター:観瀾日技城製造廠)。その一方で,第1,第2に入居している各企業から生産拡大に基づく工場面積拡大要求が強くなったため,第3テクノセンター建設予定地近隣の空工場を借り,1996年に稼働させた(第2.5テクノセンター:観瀾日技城製造廠)[5]。第3テクノセンターの建設も1999年には第1工場棟が完成するなど着々と進んでいる。2001年3月現在,卒業した企業は10社を超える一方,第1,第2.5,第3合わせて28社が入居し,従業員4800名を数えるに至っている。

 

表1 テクノセンターの歩み(2001年3月現在)

1987年2月8日 香港で異業種交流会八日会発足(8社)。
1991年1月 八日会(80社)の席で日系中小企業向けの工業団地を中国に建設する構想を発表。賛同を得て代表幹事3名にて計画書作成。
1992年7月 予定から半年遅れで深セン市龍崗区布吉鎮水経上八約華興工業区に工場(4,440m2)を借り,テナント5社で操業開始(布吉日技城製造廠)。
1993年2月 入居希望が殺到したため,隣接する工場(4,440m2)を借り増し,更に6社入居。
1994年5月 最初に入居した企業(自動車用アクセサリ製造)が卒業し近くの工場に移転。大手企業が人材育成と工場運営を学ぶため,自社工場立ち上げまでの半年限定で入居。
1994年10月 入居希望が多く,3棟目(4,440m2)を借り増し,5社が入居し合計16社となる。現状では入居希望に応えられないために,テクノセンターから5kmほど離れた場所(深セン市龍崗区布吉鎮下李朗萬事達工場区)に工場を借り増し,名称を第2テクノセンター(李朗日技城製造廠)とし,最初に稼働した場所を第1テクノセンターとする。第2テクノセンターは総面積16,000m2,5社にてスタート。
1995年2月 当初からの目標であった自社工場ビル建設の計画に着手。名称を第3テクノセンター(観瀾日技城製造廠)とする。場所は同じ深セン市で第1テクノセンターから15kmほど内陸に入った宝安区観瀾鎮桂花村。土地面積第1期3工場棟80,000m2(5,000名規模),第2期―4工場80,000m2(5,000名規模)を予定。
1994年5月に入居した大手企業が予定を半年延長し卒業,近くで工場稼働。
1995年8月 第1,第2に入居している各企業から拡大要求が強くなるもスペースに余裕なし。やむなく,第3テクノセンター建設前にその予定地の近隣にある空工場の借り増しを決定,名称を第2.5テクノセンター(観瀾日技城製造廠)として半年後の稼働を目標にスタート。
1996年3月 第1テクノセンターの4社卒業,転出後に3社入居,残る空きスペースは稼働中の企業の工場拡大にあてられる。
1996年5月 第2.5テクノセンター稼働,テクノセンター総計23社,従業員3,500名となる(土地面積:25,000m2,工場面積:13,500m2)。
1998年5月 第3テクノセンター第1棟着工。
1999年6月 第3テクノセンター第1棟完成(22,000m2)3社入居で稼働開始,従業員1,500名。
2000年3月 第3テクノセンターヤマウチ工場着工,2001年1月稼働。
2000年9月 第3テクノセンター第2棟着工。
2001年1月 第3テクノセンターヤマウチ工場完成,第2.5から移転し操業開始。
2001年3月 第2テクノセンターを返却(テナントが現状のままで独立)。
2001年6月
(予定)
第3テクノセンター第2棟完成(12,000m2),第2.5から1社移転。
2003年末
(予定)
第1テクノセンターを第2.5,第3テクノセンターに集結させ,香港株式市場上場。
2001年3月現在,第1,第2.5,第3を合わせて28社が稼働,従業員4,800名。八日会加入企業150社,毎月の参加者80-100名。

(出所)ジェトロ講演会「中国珠江デルタ最新事情」(大阪,2001年3月13日)でW社社長によって配付された同名文書を修正・増補。

 

 こうしたテクノセンターの歩みは,テクノセンターのような形で日系企業の中国進出を支援する組織が強く必要とされていることを示しており,テクノセンターが現在の規模に至ったのは入居希望やテナントからの工場面積拡大要求に懸命に応えてきた結果であることが見てとれる。また,独力では中国進出が困難な中小企業を受け入れる目的でつくられたテクノセンターであるが,富士ゼロックス,ブラザー工業,表4におけるO社等大手企業の中国進出のトレーニングセンター(足がかり)としても利用されてきている。

 本稿の目的は,こうしたテクノセンターに入居している日系中小企業の中国進出の経緯を明らかにするとともに,テクノセンターの機能とその意味を明らかにすることである。この目的を達成するために依拠するのは主として,我々が行ったテクノセンター・テナント企業調査(2000年8月)とその後の追加調査(2000年11月CJ社,2001年8月TJ社への取材)における聞き取り,テクノセンター関係者とのメールによる聞き取りの結果,および調査の際に入手した部内資料である。

 本稿の構成は以下の通りである。IIにおいてテクノセンターのシステムを明らかにした後,IIIにおいてテナント企業の多様性とその含意を明らかにする。IVおよびVでは,ケーススタディとして,成功事例だが互いに幾つかの点で異なった特徴を持ち,テクノセンターの機能を明らかにする上で示唆的であるC社およびT社を取り上げる。VIは結論である。

II テクノセンターのシステム

1 華南地域の投資環境

 テクノセンターは香港に本社(日技城有限公司)を置き,香港に隣接する広東省深セン市に複数の委託加工工場(日技城製造廠)を運営している[6]。第1テクノセンターは龍崗区布吉鎮,第2.5および第3テクノセンターは宝安区観瀾鎮にあり,いずれも深セン経済特区外である。

 ここで触れておかなければらならないのは,深セン市を含む狭義の華南経済圏(珠江デルタ地域)の特殊性である。広東省の珠江河口を取り囲むように位置する東部の恵州,深セン,東莞から西部の頂徳,中山,珠海に至るいわゆる珠江デルタ地域は,香港・マカオに隣接していたことから2つの経済特区がおかれ,外資系企業先導型の経済発展を遂げてきた。現在,珠江デルタ地域は世界の複写機,プリンタの5割以上,電子・電機・機械産業を支える重要部品である超小型モーターの7割,光ピックアップの4割をこの地域で生産し,電子産業の世界最大の集積地となっている[7]

 こうした発展は華南地域独特の投資環境によるところが大きい。その特徴は,第1に金融・物流拠点としての香港が存在すること,第2に内陸部からの出稼ぎ労働者が3年程度の周期で入れ替わっていくという雇用環境により安価・豊富な労働力を利用できること,第3に現地のサポーティングインダストリーが比較的充実しており,中小企業にとっても部材の調達が容易であること,第4に独特の「委託加工」方式や「転廠」方式が存在することである[8]

 以下に述べるように,テクノセンターはこうした華南地域特有とも言える投資環境を活用して,日系中小企業の中国(華南地域)進出のサポートをビジネスとしているのである。

2 日技城有限公司と日技城製造廠の関係

 本節では,香港企業である日技城有限公司と委託加工工場である日技城製造廠の関係について整理する。まず深セン市にある3つの日技城製造廠は地域の経済発展公司(例えば観瀾日技城製造廠は観瀾鎮桂花経済発展公司)に属する工場であり,香港企業である日技城有限公司から生産を委託されている。したがってその経済発展公司は珠江モデル型[9],「三来一補」型郷鎮企業[10]といえる。ただし,経済発展公司の関係者が日技城製造廠の経営に関与している形跡は全く見られず,日技城有限公司によってあたかも独資のように経営されている。

 この点について今井理之は「中国でも工業が発達している地域では,本来の意味での委託加工が行われている。広東省の珠江デルタでも,当初はそうであった。しかし,委託加工が増えるにつれて状況は変わってきた。もともと加工能力を持つ企業も工場もない珠江デルタの農村地帯でも,委託加工が行われるようになったからである。鎮や村などの地元政府が作った郷鎮企業が土地・建物・工員を提供し,外国企業が設備,部品・材料を持ち込み,生産を自ら管理する方式である。当初,中国側が用意した建物も,現在では外国企業側が建てるケースが出てきている」[11]としている。これが先に触れた華南地域独特の委託加工方式すなわち,今井の言う独資的委託加工方式なのであり,日技城製造廠もこの方式である[12]

 具体的には西澤正樹が指摘するように,経済発展公司側は郷鎮企業の形態を整えるために土地・建物と管理ポストに人を用意し,実際の工場経営には関与しない経営管理者の賃金と,内陸農村地域から募集した就労期限付きの暫定戸籍の従業員1人当たり月250元の管理費を得る[13]。一方,日技城有限公司側は,生産設備や労働力などを調達して工場スペースと実際の工場経営権を手に入れるのである[14]。観瀾日技城製造廠の場合には,日技城有限公司が土地の使用権を観瀾鎮桂花村から買い,建物も観瀾鎮桂花経済発展公司が日技城有限公司からの借入金で建設しているので,独資的委託加工方式のより進んだ形なのかもしれない。ただし,後述するように日技城有限公司が手に入れた工場経営権は,テナント契約により,分割されてテナント企業へ移転されていることにも注意すべきである。

3 テクノセンターとテナントとの関係

 次に,テクノセンターとテナントとの関係について整理する。関満博は大連テクノセンターについて以下のように述べている。「進出する中小企業の側は会社を設立する必要がなく,生産設備をテクノセンターに貸与し,技術指導を自ら実施することになる。人員の雇用,賃金の支払い,通関,電気代等の公共料金の支払い等のほとんどすべての機能をテクノセンターに委託し,生産量に応じた加工費をテクノセンターに支払うというものである」[15]

 しかし,大連テクノセンターのモデルとなった当該テクノセンターのテナントを訪問するとこれとは全く違った光景が広がっている。テナント(香港法人からの派遣者)は「技術指導を自ら実施する」だけでなく,生産と経営の全体に責任を負っているし[16],テクノセンターのスタッフが直接生産に責任を負っているわけではない。また,テクノセンターから各テナントへの請求書には工場レンタル料や人員派遣料はあっても「加工費」に該当する費目もない。

 しかし,だからといって関満博による上記の表現は誤りだとも言えない。すなわち形式的には,日技城有限公司は今井理之がいうように「委託加工管理」[17]をし,テナントは日技城有限公司を通じて日技城製造廠に生産を委託しているからである。したがって,形式的にはテナントは委託加工というかたちで中国に進出し,委託加工先では技術指導を行っている。実際には,日技城有限公司・日技城製造廠はほとんどの場合,工場の賃貸や人員派遣などを行うだけで,テナントが生産活動に責任を持ち,工場を運営(経営)している。したがって,実質的にはテナントは独資に近いかたちで中国に進出しているのである[18]。だからこそ,テクノセンター内で「テナント」と呼ばれている。つまり,テクノセンターとテナント企業の関係は,日技城製造廠と日技城有限公司との関係(独資的委託加工)と同じなのである。

 したがって,テクノセンターは通常の貸工場と同様に,テナント企業からテナント料と各種手数料を受け取り,これを売上としている(表2表3)。ただし貸工場と大きく異なる点がある。それは表2に見るように,テクノセンターはテナントに対してワーカーの派遣を行っていることと,原材料,製品,生産設備などの輸出入のための通関業務の代行を行っていることである。これは,労使紛争と通関業務上のトラブルは中国進出企業の経営にとって重大な障害になりうるため,テクノセンターがサポートするのである。こうしたものを内訳とする売上高は2000年度で7,882万香港ドル,資本金は2001年3月末時点で2,490万香港ドルとなっている[19]

表2 テクノセンター料金例

工場(m2)
空調(HP)
電気(kwh)
水道(m3)
電話
コピー(A4版1枚)
通関費用
物品購買
ワーカー派遣(1人月)*
標準25
131
1.2
2.5
実費+1%
0.5
実費+20%
実費+10%
標準720

(註) 香港ドル建・月額ベース。* 基本給(330
    元),鎮管理費(250元),保険費を含む。
    これ以外,すなわち残業手当,皆勤手当
    (30元),生産手当(30元),役職手当,
    食事代などはテナントが別途支払う。
(出所)テクノセンター「テクノセンター(日技
    城)概要紹介」1999年より作成。

 

表3 テナント企業の経費例

テナント
a
b
c
製造品目・加工内容 金属プレス加工 プリンター・リボン製造 コイル組立
地区 第1テクノセンター 第1テクノセンター 第3テクノセンター
従業員数
13
73
470
(うち日本人) 1 3 2
(うち中国人) 12 70 468
人員派遣費
720 x 12人 = 8,640
720 x 70人 = 50,400
720 x 468人 = 336,960
最低人員不足分管理費*
250 x 38人 = 9,500
-
-
工場レンタル料
25 x 730m2 = 18,250
25 x 730m2 = 18,250
22 x 1,100m2 = 24,200
空調費用
4,000
16,000
8,000
電気料金
15,000
23,000
104,000
水道料金
600
9,500
1,300
輸送費
7,000
12,000
23,000
通関費
3,000
2,500
3,100
食堂,暫住証,宿舎,修理費,手当等(概算)
20,000
70,000
80,000
費用合計(概算)
86,000
202,000
580,000

(註)経費はすべて香港ドル建・月額ベース。この他に,契約保証金(工場レンタル料の2ヶ月分を預託)が必要。ただし,テクノセンターの株主になっている場合,契約保証金は1ヶ月分でよい。* 最低雇用人員数は,使用面積 14.6m2につき1人の基準で計算され,730m2の場合50人が基準となる。このため,テナントaの最低人員不足分管理費は(50人-12人)x HK$250=HK$9,500となる。
(出所)テクノセンター「テクノセンター(日技城)概要紹介」1999年より作成。

 

4 小括

 本章で言いうることは以下の通りである。第1に,日技城有限公司は香港に本社を置き,隣接する深セン市にある委託加工工場,日技城製造廠を運営している。その深セン市が属する華南地域は,その独特の投資環境のもとで,電子産業の世界最大の集積地となっている。第2に,形式上日技城製造廠は地域の経済発展公司に属する工場であり,香港企業である日技城有限公司から生産を委託されている。しかし実際には,日技城製造廠は日技城有限公司によって経営されている。日技城製造廠は,華南地域独特の委託加工方式=独資的委託加工方式を採用している。第3に,テナントは形式的にはテクノセンターに生産を委託していることになっているが,実際には生産活動に責任を持ち,工場を運営している。したがって,実質的にはテナントは独資に近いかたちで中国に進出している。一方テクノセンターは通常の貸工場と同様のサービスの提供に加えて,ワーカーの派遣,通関業務の代行を行っている。

 以上から,テクノセンターは,華南地域独特の投資環境の一つである独資的委託加工を二重に採用していることがわかる。このことによってテクノセンターおよびテナントは,委託加工方式のメリット(低廉な労働コスト,投下資本のリスクが小さいなど)を享受しながら,独資企業が持つ経営の自主性を獲得しているのである。二重に独資的委託加工方式を採用することで,テナントにとってより少ない設備投資での中国進出を可能とし,日本的な経営手法[20]をより導入しやすくしている一方,経営の自主性を与えられているだけに小さくても独資として行動することが求められるので,これが卒業するためのトレーニングの契機となる。

 

III テクノセンターのテナント企業

1 多種多様なテナント

 テクノセンターのテナントは2000年8月現在,26社である(表4)。まず,各テナントの製造品目・加工内容に注目してみると,華南地域が世界最大の電子産業集積地になっている関係上,電子機器向けの生産が目立つが,それに当てはまらない製造品目・加工内容も多く実に多様である。プリント基板への部品実装(以下,基板実装)を行っているのは少なくとも5社(A,C=ケーススタディとして後述,V,W,X)あり,射出成形を行っているのは5社(E,M,Q,R,S1[21]),射出成形用の金型の設計・製作を行っているのは3社(B,M,S4)である。衣料品の検品(G),婦人用バッグなどの皮革製品の製造(J)も行われている。


表4 テナント企業の概要 (2000年8月現在)

テナント
地区
主要製造品目・加工内容
従業員数
入居年
A社
1
電子機器用電源ユニットの組立,同軸ケーブルコネクター付束線加工
約30
1995年
B社
1
マイクロモーター,整流子等の金属プレス打抜加工,精密順送り金型設計・製作
23
1997年
C社
1
モーター駆動装置,印章自動彫刻機の組立,基板実装
52
1997年
D社
1
充電プラグ,接点ブラシ,ステッピングモーターの組立
約260
1995年
E社
1
ACコネクタプラグ,電子機器用ワイヤー・ハーネスの製造
125
1995年
F社
1
電算機用シームレス,印刷リボン,インクジェットプリンタ用インクの製造
113
1995年
G社
1
衣料品の検品
87
1997年
H社
1
電子機器用長尺金属シャフト類の製造
約56
1999年
I社
1
園芸用スコップ等園芸用品の製造
11
1999年
J社
1
婦人用バッグ,財布の製造
145
1992年
K社
2
電子機器用ワイヤー・ハーネスの製造
403
1994年
L社
2.5
電子機器用防振ゴム,紙・テープ送りローラー,ピンチローラーの製造
113
1998年
M社
2.5
ACアダプタ部品の射出成形,金型の設計・製作
約80
1994年
N社
2.5
電子機器用プラスティックフィルムの打抜加工
170
1997年
O社
2.5
電子機器用コネクターの製造
35
1999年
P社
2.5
腕時計用防水,防塵パッキングの製造
69
1997年
Q社
2.5
電子機器用プラスチックギア,アームの射出成形
16
2000年
R社
2.5
プラスチック磁石の製造
13
2000年
S1社
2.5
カーアクセサリー,コネクター端子類の射出成形・組立
130
1992年
S2社
2.5
プラスチックの着色加工,コンパウンディング
50
1992年
S3社
2.5
真空成形,包装材料の製造(生産はS1社に委託)
8
1998年
S4社
2.5
射出成形用金型の設計・製作
40
2000年
T社
3
レーザーピックアップコイル,スピーカーボイスコイル,マルチメディア・スピーカーの組立
684
1993年
U社
3
メガネフレームのメッキ加工
5
1998年
V社
3
基板実装,携帯電話充電器,電子機器用電源ユニットの組立
342
1999年
W社
3
基板実装,プリンター,電子機器用電源ユニットの組立
約393
1999年
X社
卒業
基板実装
363
1994-1999年

(註)この他にテクノセンター内には,テクノセンターの建設部門としてO.T.G建設有限公司がある。
(出所)テクノセンター関係者からの聞き取りおよびテクノセンター資料により作成。

 このG社とJ社はテナントの多様性を象徴的に示している。第1テクノセンターに入居しているG社布吉工場は衣服の検品を専門に行うユニークな工場である。中国のメーカーで製造された日本の通信販売大手GA社向けの衣料品を,いったんこのG社布吉工場に持ち込んで検品を行い,良品と不良品に分けて梱包し当該メーカーに送り返しているのである。こうした検品作業を2000年8月現在,従業員87名で衣料品の月10万ピース行っている。この工場が稼働する以前は,中国のメーカーから直接日本へ商品を送っていたが,あまりにも不良品が多く,顧客からのクレームがあったので商品を送る前の検品を厳重に行う必要が生じた。そこで,GA社の物流を担当する日本のGJ社の子会社で深セン市に本社をおくG社とGA社が契約して,G社の布吉工場として1997年に第1テクノセンターに入居したのである。ただし,G社布吉工場はG社によって設立されているが,GA社から工場長と主任が派遣されGA社によって運営されている。一方,J社は同じ第1テクノセンターに入居し,ハンドバッグ,スポーツバッグ,ポーチ類等を従業員145名で月産6,000-10,000個製造している。J社がテクノセンターへ入居する以前は,香港でワーカー150人規模で工場を運営していた。しかし香港の経済成長にともなう賃金の急上昇のため,中国,タイ,ベトナム等へ生産拠点の移転を検討していた矢先,旧知の仲であったW社社長とS社社長からの誘いがあり,テクノセンター設立時(1992年)に入居し今日に至っている。

 次に,従業員規模を見てみると,5名から684名までであり,平均は約133名である[22]。実際に生産活動を行っている(操業している)テナント[23]に限ってみても23名から684名までであり平均は約162名である。親会社の資本金でみると,1000万円から200億円近くまで幅広く分布している[24]

 さらに,テナント契約の内容,すなわち利用するサービスの点でも多様である。テクノセンターが提供するほとんどのサービスを利用する契約をしているところが多数であるが,なかには電気と水道の供給のみ契約・利用するケース(V),空調サービスは契約・利用しないケースなどが見られる。

 最後に,テクノセンターへの入居時期に注目してみると,入居年は1992年から調査年である2000年まで分布している。先に述べたように卒業した企業は10社を超える一方で,テクノセンター設立以来入居している企業も設立者企業の他に1社(上記J)存在する。これは,テクノセンターは入居期間を特に定めていないことによる。卒業するかどうかは,各テナントの判断に任されているわけである。なお,入居まもなく操業準備段階にある企業は3社(I,Q,R),同じく入居間もないが転出する企業は1社(U)ある[25]

2 モデル工場・インキュベーダーとしての設立者企業

 テクノセンターの設立者であるW社社長とS社社長が各々経営する企業(以下設立者企業,WおよびS1-4)もテクノセンター内に工場を有している。この両社は第1に,多くの見学者や研修生を受け入れ,賃金体系や就業規則をはじめとするノウハウ・情報を公開・提供することで,テナントおよび中国進出予定企業にとってモデル工場・生きた見本となっている。中国進出・テクノセンター入居を検討する企業にとって,そして実際に入居した企業にとって,テクノセンター内で設立者自らがリスクをとって実際に工場を経営している意義は極めて大きい。第2にこの両社は,インキュベーション機能も有している。中国進出をしたいが人材面や資金面でテクノセンターへテナントとして入居することさえ困難な中小企業からの生産の委託を請け負うのである。委託元の中小企業は,中国進出の準備あるいは第一歩として生産を設立者企業に委託し,技術指導にあたりながらその成り行きをみて本格的に中国進出(テナントとして入居)するのである。D社とケーススタディとして後述するT社がこれに当たる。

3 多様性と柔軟性―集積の利益から産業集積へ

 こうして見てくると,テクノセンターのテナントと一口に言っても,製造品目,従業員数,入居時期,従業員規模,利用するサービス,テクノセンターにおける機能など多くの面で多種多様であり,テナントの多くが電子機器向けの生産を行っているとは言いうるものの,すべてのテナントに共通する点は製造業であること,程度の差はあれ設立者企業をモデルにしていること以外は見いだすのは難しい。これはおそらくテクノセンターが,製造業であること以外は入居条件を設けずに幅広く受け入れていることの結果である。

 一方でテクノセンターとしては,行政機関や労働市場との接触利益や社会的間接資本の数量利益といった集積の利益[26]の享受にとどまらず,産業集積の深化をも進めようとしている。「1つの比較的狭い地域に相互の関連の深い多くの企業が集積している状態」[27]を意味する産業集積の深化をめざす動きは,まだ系統的ではないがテナント間での生産設備,部品などの融通の計画があり,また以前からD社と取引関係にあるB社が,D社を追ってテクノセンターに入居したこと,B社,M社,S4社が金型の設計・製造の開始したことなど,テクノセンター内での取引関係(分業)の発展と技術蓄積が進む兆候も見られる。

 だが一見すると,テクノセンターのインキュベーション機能と産業集積は相反するように映る。それはいわばフローとストックであり,インキュベーダーとしてはテナントが次から次へと卒業していくことが望ましい一方,入れ替わりが激しいと技術蓄積が進まず,分業関係も形成されにくいので産業集積が進みにくいと考えられるからである。また,製造業であることが唯一の入居条件として製造品目や加工内容のいかんを問わず,幅広く受け入れていることは,「中小企業の駆け込み寺」というテクノセンターの設立趣旨からして当然の姿勢であるが,これも相互関連性という点からみると産業集積の深化を困難にさせるように見える。テクノセンターの本来の機能を維持・発展させながら,産業集積を深化させることは可能であろうか。その解は卒業したX社にある。

4 解としてのX社

 1999年にテクノセンターを卒業したX社は,複写機・プリンター向けの基板実装を行っている。従業員は2000年8月現在スタッフ24名,ワーカー339名となっている。X社の親会社(以下XJ社)は,愛知県に本社をおく1974年に設立された資本金7000万円,従業員数126名の企業である[28]

 テクノセンターを卒業した背景には工場の規模の問題があった。テクノセンターから借りている工場では生産できるスペースが限られており,受注増が見込めても生産能力に限りがあり注文数が頭打ち状態になるので,卒業・独立したのである。X社が50年の土地使用権を購入の上,自社工場の建設を1998年5月に開始し,翌年4月にテクノセンターから移転,工場敷地面積約1万3千平方メートル,工場面積6400平方メートルの自社工場を稼働させた。工場運営形態は形式的には来料加工(委託加工),すなわち桂花経済発展公司に生産を委託する形になっているが,テクノセンターと同じく独資的委託加工方式である。

 前節でテクノセンターの本来の機能を維持・発展させながら,産業集積を深化させる解がX社にあるとしたのは,以下の2点からである。すなわち,第1に自社工場を第2.5テクノセンターと第3テクノセンターの間,いずれのテクノセンターからも徒歩圏内に建設することで,日常的なテクノセンターとのフェイス・トゥ・フェースの関係を保つことを可能にしたこと,第2に卒業後もテクノセンターとの関係を実際にも維持・発展させていることである。具体的には,月1回の工場長会議[29]に出席し,毎年11月に開催されるテクノセンター主催の全従業員による運動会にも参加している。またW社とは部品が足りない時に,相互に融通することになっている(実際には,X社で不足しているときにはW社でも不足しているのでまだ例がない)。X社,W社,テクノセンター間で,経営や管理の方法を相互に取り入れることもある。例えば,最低賃金の改定に伴う給与体系の改定について,今回はX社の改定案をテクノセンターが取り入れた。いわばOB企業として,先述の設立者企業の機能の一部を卒業した企業が担っているのである。

 卒業後におけるテクノセンターとの関係をX社のような形で発展させるテナントが今後増加するならば,OBとしてテクノセンターないしテナントへのサポートのネットワークが形成されるだけでなく,テクノセンターを核としてその周囲に卒業企業が立地・集積し,分業・取引関係が発展することが期待できる。こうした形であれば,テクノセンターの本来の機能を維持・発展させながら,産業集積を深化させることは可能と考えられる。それどころか,近隣におけるOB企業の存在は,テナントにとって設立者企業と同様に生きたモデル工場になりうることを考えると,産業集積を深化させればさせるほどテクノセンターの本来の機能を発展させることができるはずである。

5 小括

 本章で言いうることは以下の通りである。第1に,テクノセンターのテナントは多くの面で多種多様であり,すべてのテナントに共通する点は製造業である以上のことを見いだすことは難しい。第2に,設立者企業のテクノセンター内の工場は,テナントおよび中国進出予定企業にとってモデル工場・生きた見本であり,テナントとして入居するのも困難な中小企業の中国進出を支援するインキュベーダーである。第3に,テナントの多様性はおそらくテクノセンターが製造業であること以外は入居条件を設けずに幅広く受け入れていることの結果である。一方でテクノセンターとしては,集積の利益の追求にとどまらず,産業集積の深化をも進めようとしている。第4に,生産規模の拡大にともなう工場スペースの狭隘化が契機となって卒業したX社は,自社工場をテクノセンターの近隣に建設し,情報交換をはじめとするテクノセンターとの協力関係を築いている[30]。こうした形でテナントが卒業していくならば,テクノセンターの本来の機能を維持・発展させながら,産業集積を深化させることは可能と考えられる。

 以上の点からテクノセンターを捉え直してみると,テクノセンターと設立者企業は連携をとりつつ,テナントおよび入居検討企業に対して極めて柔軟でオープンな姿勢を貫いていることがわかる。その点で,テクノセンターは柔軟でオープンなシステムであると言える。

IV ケーススタディ:C社

1 C社の沿革

 第1テクノセンターに入居しているC社は2000年8月現在,モーター駆動装置,OEM製品として印章自動彫刻機を生産している。モーター駆動装置は自社ブランド品としてFA装置向けに,多いもので2-3ヶ月のうちに200-300台生産している。印章自動彫刻機とは,パソコンで作成した印章デザインを彫刻機にダウンロードし,印章を作成する装置であるが[31],これを月100台程度生産している。この他にOEM品として基板実装を月に600-1000枚行っている。2000年8月時点の従業員は,日本人スタッフ2名(工場長+経理)と中国人スタッフ2名(総務+生産管理),ワーカー48名(すべて中国人女性,平均年齢20歳)となっている。C社の親会社(以下CJ社)は,1984年に設立され東京に本社をおく資本金9,970万円,従業員数70名の企業である。CJ社の国内における工場は2箇所あるが,主力は従業員50余名を抱えるA工場である。

2 中国進出・テクノセンター入居の経緯

 従来からCJ社が生産していたFA用のモーター駆動装置は,市場が限られており大きく販売を伸ばせない一方で,納入先からのコストダウン要求が絶え間なくされるようになった。このまま国内で従来品だけを生産していても収益が上がらず,会社を大きくすることはできないと考えた。そこでCJ社は新規事業を開拓したいと考えたがA工場では建物,人材にしても限度があり,従来品をどこかに移す必要性が生じた。しかもまだ競合相手が海外生産していなかったので,先んじて海外に出るチャンスでもあった。CJ社の中国進出は,新規事業の立ち上げと結びついていたのである。

 テクノセンターとの出会いは,A工場が中国に工場を出そうと検討をしていた1996年10月に香港において,主要納入先である電子機器メーカーCA社と主要仕入先である電子機器メーカーCB社から同時にだが別々に,テクノセンターを紹介されことによる。CJ社は中国進出を検討する以前(1995年7月)に設立された香港事務所が,深セン市に接している東莞市にあるCB社の工場で生産されたステッピングモーターを仕入れて,CA社の工場(台湾・タイ)に納入していた関係で,この両社に中国で工場を持ちたいと相談したのである。

 その後,CJ社は年内にテクノセンターへの入居を決めて,翌1997年1月に工事を開始,2月には従業員(班長候補)6名を採用して約2ヶ月間トレーニングを行い,5月から本格的に操業を開始した。トレーニングが約2ヶ月間かかったのは,これまで量産品しか経験がないワーカーに少量多品種,しかも少し難しい作業を習得してもらう必要があり,また部品の段取りから製造に当たるやり方が中国の量産工場で行われているやり方とは異なるので,徹底的に教育したからである。

 多くのテナントが入居・立ち上げ時の問題として共通して挙げている言葉によるコミュニケーションの問題に対して,CJ社は以下のような計画的なやり方で乗り越えた。すなわち,中国進出をにらんで留学生だった中国人を1996年6月に採用し,現場の実習をさせてCJ社の仕事のやり方も含めて理解させて,1997年2月の立ち上げ時に中国工場へ通訳として送り込んだのである。この通訳はいずれ日本に戻るという約束だったので,すぐに(1997年6月から)現地で通訳を雇って引き継ぎをさせた。そのための期間は,日本で採用した通訳が日本に帰国する1998年10月までの1年4ヶ月に及んでいる。

3 OEM代行生産への展開

 CJ社が中国工場をつくったのは従来品を生産するためであった。しかし,中国工場を持つことにより,CJ社にとっては新しい事業分野である基板実装に乗りだすことになった。これは,国内生産のためコストダウンに仕入先が応じない基板実装を,C社中国工場でローコストでできないかという引き合いが取引先から寄せられるようになったことを契機とする。海外に出すほどの規模でもなく国内で生産したのでは商売にならないが,一方で海外進出のノウハウもない小さな会社から委託してもらって,中国工場で基板実装を行うことになったものである。CJ社はこうした形での基板実装を,中国工場を立ち上げた1997年の末から行っており,これを「OEM代行生産」と呼んでいる。

 この基板実装の受注から始まったOEM代行生産は,2000年には新たな展開を見せる。日本国内のスライド映写機のメーカーからスライド映写機の組立を受注したのである。これは,パソコンと液晶プロジェクタの普及によって,スライド映写機の需要が縮小して国内で生産するほどの規模ではなくなってきたものの生産を中止するわけにもいかないというメーカーの事情によるものである。

 CJ社の工場長が指摘するように,同じOEM代行生産といっても,基板実装とこのスライド映写機組立の代行生産の理由は,需要との関係から見ると対照的である。すなわち,基板実装は需要に応えてもっと生産したいが国内ではこれ以上安くできないから,一方でスライド映写機は需要がほとんどないが生産を中止するわけにもいかないから,代行生産を依頼してくるのである。

 当初は,オリジナル製品を生産する目的で中国工場を設立したが,現在は中国工場における売上高でOEM製品が9割を占めるに至っている。このOEM製品は自社開発設計のもの(OEM開発製品)と客先開発設計のもの(OEM代行生産品)に分けられるが,直接人員ベースで見て過半がOEM代行生産品である。中国工場設立当初は予定していなかったOEM代行生産品が有力製品となっているのである。

 1997年にテクノセンターで生産を開始したとき,テクノセンター側から不思議な顔をされたという。C社は量産物をつくらず,毎日ラインを流れているものが違う。中国での生産は,通常量産品を安くつくるのが目的なのに,中国で生産するメリットがないではないか,C社はすぐに中国から撤退するのではないかと見られていたという。しかし,日本国内で多品種少量生産ができる以上,従業員が頻繁に変わるところでもマニュアル化をしっかりやれば,多品種少量生産はできるという信念を持っているので,日本人にできて中国人にできないということはないと思ってやっている。実際にも徐々にではあるが業績も上がってきている。少品種大量生産ではなく多品種少量生産を行っている点は,他のテナントに見られないC社の注目すべき特徴である。

4 中国で生産することが大原則

 CJ社の売上高は1998-1999年では横這いをキープするのが精一杯で,もし中国に進出してなおかつ新しい分野を取り込まなかったら,落ち込んでいたはずという。1998-1999年は17-18億円できたが今期は20億円,来期は25億円の売り上げを見込んでいる。その原動力となったのは,中国に行った後に新規事業としてメカニカル製品に取り組んだのとOEM代行生産をはじめたことである。モーター駆動装置はFA向けの製品なので不景気による設備投資抑制の関係で売上が落ち込んだが,その落ち込みを他の製品でカバーした形である。1997年当時から比べれば従業員も若干名(10名程度)増えている。

 日本と中国での棲み分けについて言えば,まず中国で生産することが大原則である。中国に移せないもの,例えば納期の短いもの,輸送コストがかさむ重量物,実装密度の高いもの以外はすべて中国で生産する方針である。A工場で生産して日々の不良の発生具合を見てほとんど不具合が出てこなくなったら中国工場に移管する。常に中国で生産することを意識しながら,中国で生産できない理由をつぶしていく。何かフローチャートがあってそれに基づいて決定しているわけではなく,長年の経験と勘で,これだったらいけると直感する時が移管の時期となる。

 モーター駆動装置は基本は中国生産だが,中国に出せない数(1-2台)や試作,短納期のもの,顧客の品質管理担当者が中国製品に対する品質上の不安があって国内生産しか認めていないものは日本で生産している。また中国に量産移管をする前の生産の見極め(すなわち量産化技術が確立するまでの生産)もしている。メカニカル製品については,現在生産している中で最も小型で,100台とロットも比較的大きい印章自動彫刻機をメカニカル製品としては初めて中国へ生産移管した段階にある。

 CJ社は,日本の工場のすべてを中国に移転するということは将来的にも無理だとする。日本がサポートをしっかりしないと海外工場は日本から隔離されて力を失ってしまうので,技術的なサポート,交代要員のサポートなどを日本がしていかないといけないという。規模は大きくならないと思うが今の人員,最少人員は維持して,次から次へと試作をやりながら,中国へ新製品を送り出していくという役割でまだまだ重要であるとしている。

5 小括

 CJ社は,新規事業を国内で立ち上げる関係で従来の製品を中国に生産移管するために,自社の仕事がわかる通訳を育成するなどの進出準備を行って,中国に進出しテクノセンターへ入居した。入居後,班長候補に対する長期間の教育によりテクノセンターでは希な多品種少量生産を実現する一方,入居当初は予定していなかったOEM代行生産を行うようになり,現在では中国工場にとってこのOEM代行生産が主力にまで成長している。一方,国内生産拠点は設計開発と量産化技術の確立のために今後も必要不可欠とし,実際にも国内での生産規模を維持している。

V ケーススタディ:T社

1 T社の沿革

 第3テクノセンターに入居しているT社は,CD・CD-ROM・VCD・ゲーム機器用レーザーピックアップコイル(2000年8月現在月産300万個),携帯電話・マイクロスピーカー用ボイスコイル(同月産3万個),パソコン用マルチメディア・スピーカーの生産を行っている。2000年8月時点の従業員数は684名で,うちスタッフは31名(日本人2名+中国人29名),ワーカーが653名(すべて中国人女性)となっている。平均年齢はスタッフ25歳,ワーカー19歳である。T社の親会社(以下TJ社)は石川県にあり,1969年に設立された資本金3000万円,従業員18名の中小企業である。

2 中国進出・テクノセンター入居の経緯

 ボイスコイルを納入先が希望するコストでは国内では絶対につくれないので困っていたTJ社は,納入先から海外進出を打診されていたこともあり,1990年代初頭から海外進出の道を探しはじめた。TJ社はまず,県の事務所が置かれていること,あまり投資をせずに進出できることから,香港を拠点として選び[32],1992年に1回,1993年に2回(7月と8月)と香港・広東省に工場立地の調査を行っている。

 2回目の調査(1993年7月)で,TJ社社長が7月8日の八日会に出席し,そこでテクノセンター代表幹事であるW社社長,S社社長らと出会うことになる。翌8月,TJ社社長がテクノセンターを訪問し,S社への委託生産実施の決定を行い,同年11月には第1テクノセンターで委託生産を開始することになる。

 委託生産を始める際には,ベルトコンベアと紫外線硬化型接着剤の塗布装置とUV照射機(紫外線をあて接着剤を硬化させるもの)を持ち込んだ。委託した工程は,ピックアップコイルの部品であるトラッキングコイル(円い平面状コイルを2つ繋げたもの)とフォーカスコイル(角柱状のコイル)を接着する工程である。これは,TJ社にとっての主力製品であったピックアップコイルを製造する最初の工程であり,材料は全部日本から持ち込んだ。数ある工程の中でなぜこの工程を移したのかといえば,最も簡単な工程であり,設備もほとんどいらない工程だからである。こうした委託生産をワーカー6名で始めた。当時は中国進出というとものすごく重く考えて「命がけで死ぬまで帰ってこれない」と思っていたが,6名のワーカーの賃金プラス管理費で中国へ容易に進出できるとこの時TJ社社長は実感したという。

 その後,S社への委託生産を3年半あまり行った後,1997年4月から自社生産に切り替え,1998年4月にはテクノセンターとテナント契約を結んでいる。この間,1996年に第1テクノセンターから第2.5テクノセンターへ,1999年に第2.5テクノセンターから第3テクノセンターへ移転している。

3 新規取引先にともなう製造品目の増加と生産拡大

 テクノセンター入居後,中国に工場を持ったことが知れるにつれて,今までには取引がなかった企業からの注文が入るようになる。生産量が増加し新規取引先と製造品目も増加する。生産規模の拡大にともない,1993年に6人でスタートした従業員数は2001年8月には900名を数えるに至っている。1995年以降これまでに獲得した新規取引先は,大手電機メーカーの広東省や東南アジアにおける現地法人の7社である。取引先の増加にともない製造品目も,当初から生産していたCD-ROM用光ピックアップコイルに加えて,フロッピーディスクドライブ装置用コイル,携帯電話レシーバーコイル,CD-ROMスピンドルモーター用コイル(1995年),マルチメディア用スピーカーシステム(1997年),DVD仕様の光ピックアップコイル(1998年)と増加させている。ただし,TJ社社長によれば,まだまだピックアップコイルのマーケットは伸びていくので,今後もピックアップコイルを主力製品にし,専業に近い形でやっていくという考え方に変わりはないという。ピックアップコイルを生産している競合相手は,マーケットが広いので多数存在するが,TJ社のようにピックアップコイル専業に近いメーカーは国内にない。

 こうした新規取引先にともなう生産量の増加と製造品目の増加に対してT社は,主として国内の工場から設備を持ち込む形で対応し,設備投資資金を節約した。これにはTJ社社長の「会社の規模からして海外進出に関してはあまり大きな投資をしてはいけない,絶対に失敗してはいけない」という強い思いがある。とはいうものの生産規模の拡大にともない,2001年8月現在中国工場に導入されているコイルを生産する巻線機は109台あり,そのうち本社工場から持ち込んだものは21台に過ぎない。買い付けた88台のうち21台は,大手電機メーカー向けの生産をするのでその大手電機メーカーが資金を出し2000年に購入した。T社は設備投資を節約するといっても必要な設備投資は行っている。土地や建物は賃貸にし,限られた投資資金を必要なだけの生産設備にあて,「設備力」で勝負しようとしている。

4 国内生産拠点の機能

 先に述べたとおり,国内工場のコイル製造設備を中国に持ち込んだたため,1993年時点の生産高600万個生産していたコイルの生産はすべて中国に移管し,国内では試作以外にコイルを生産していない。その関係で1993年には112人いた従業員(パートを含む)は2001年8月現在では52名まで減少し,正社員も18名となっている。本社工場では,パソコン周辺機器メーカーから受注した周辺機器・部品(内蔵用ハードディスクなど)の梱包・保管作業を行っている。設備投資が不要で手作業中心の仕事である。

 一方で,本社は営業窓口として重要で,日本に営業窓口があるということは一つの強みとなっている。営業部というセクションはなく,技術部の2名と社長が営業活動を行っている。TJ社の営業活動の特徴は第1に商社を通さないでユーザーとの直接取引,第2に社長が積極的に営業活動を行うことである。商社を通すと客先との距離が遠くなり,商社の思惑も入ってくるのでうまくいかないが,ユーザーと直接取引していることで取引が途切れても関係は続いていくという。ユーザーとフェイス・トゥ・フェイスでの関係を重視し,TJ社社長がその先頭に立っているのである。その関係で,TJ社社長は1ヶ月のうち10日間は本社で営業活動を行い,残りの20日間は中国で工場運営にあたるという生活を送っている。TJ社長は,必要な設備投資の見極めが成功しているのは現場に入っているからとするが,こうしたTJ社社長によるユーザーとの営業を通じた日常的な接触もその要因ではないかと考えられる。

 また本社では基本的には試作まで行い,量産はやらない。量産試作として1000まではやることもあるが,万単位になるとできない。最初から中国での量産を見込んだ試作を行っている。日本から送るマニュアル類,作業標準書はルーズ,アバウトな時があり,その場合は中国工場で生産ができないなどの問題が生じる。こうした問題はすべて社長が現地で対応している。

5 小括

 T社は,主力製品のピックアップコイルのコストダウン要求を契機として中国進出の道を探し始めた。TJ社社長の「海外進出に関してはあまり大きな投資をしてはいけない,絶対に失敗してはいけない」という思いから,中国進出の第一歩としてテクノセンターでの委託生産を選択した。その委託生産は,生産設備もほとんど必要のない,しかも最も簡単な生産工程を6名のワーカーでというものであった。委託生産開始後3年半あまりで自社生産に切り替え,新規取引先の獲得と生産規模の急拡大を成し遂げている。

 こうした成功の背景には,日本からの設備の移転を行ったことや,生産設備以外には極力投資しないという方針のもとに投資節約に成功したこと,マーケットが拡大し続けるピックアップコイル製造に特化したこと,社長自らが中国工場の現場に足繁く通うと同時に,トップセールス的で商社を通さずにユーザーとフェイス・トゥ・フェイスでの関係を重視していることがある。

VI 結びにかえて

 本稿の目的は,こうしたテクノセンターに入居している日系中小企業の中国進出の経緯を明らかにするとともに,テクノセンターの機能とその意味を明らかにすることであった。テクノセンターは単独では中国進出が困難な企業をテナントとして受け入れ,インフラをワーカーの派遣,通関業務の代行サービスも含めて提供している。この機能は,華南地域特有の独資的委託加工を二重に採用することで実現している。一方,テクノセンター内の設立者企業が,テナントにとって生きた見本・モデル工場となるとともに,中国進出の足がかりとしての委託生産を受託する。これらにより,テナントはテクノセンターのサービスの必要に応じて利用し,設立者企業の工場を参考にしながら,どんなレベルからも容易にしかも短期間に工場を立ち上げることができる。一方で,テナントは独資として行動することが求められるので,入居期間が定められていないテナントにとって,そのことが卒業するためのトレーニングともなる。こうした柔軟でオープンなテクノセンターに入居することによって,ケーススタディで見たC社とT社は企業の体力と生産方式に応じた形での中国進出が可能となり,中国工場を持つこと自体のアドバンテージと本来の生産活動に専念できたこととで,なかば期せずして取引先が増え,生産規模を拡大してきたのである。

 また,製造業であること以外は入居条件を設けずに中小企業の中国進出における「駆け込み寺」として発足したテクノセンターが,その周辺地域で産業集積の深化が進む可能性を生み出していることは興味深い。まず,ほとんどのテナントは生産設備を日本から持ち込んでおり,また多品種少量生産で成功している事例や金型の設計・製作を行っている事例がみられ,製造技術や生産技術レベルの技術移転すなわち技術蓄積がテクノセンター内で進行している。これは,設立者企業によるものと他のテナントによるものがあるが,入居期間が設定されていないことが功を奏しているように思われる。次に,テクノセンター内での分業関係の発展については,現在は若干の兆候が見られる程度であるが,多様な製造品目・加工内容,委託加工方式につきものの煩雑な転廠手続きが各日技城製造廠内では不要であること,独資的な自立意識を有するテナントの工場長が参画するオープンな雰囲気の毎月の工場長会議,各テクノセンター内のテナントの工場が徒歩圏内にあり,第2.5テクノセンター―第3テクノセンター間も同様であることからすると,分業関係が発展する環境はある。一方で,X社が卒業して近隣に立地し,テクノセンターと協力関係を維持・発展させていることは,テクノセンターの外部(周辺)においても産業集積が進むと同時に,テクノセンターの本来の機能をより発揮させることができる条件をもつくりだしつつある。テクノセンターは電子産業の世界最大の集積地である華南地域において,日系中小企業による・より高度で密度の高い産業集積地域をも生み出そうとしているのではないか。


* 本稿は,関西大学経済・政治研究所グローバリゼーション・リスク研究班(主幹松谷勉教授)の研究成果の一部である。また,本稿が依拠する調査に参加した関西大学商学部長谷川ゼミ生(調査時),とりわけ2000年8月の現地調査を共に行った仲口広恵さん,村上真紀さん,森脇大統君,山口貴子さんの奮闘なくして本稿はなかった。記して感謝したい。

**関西大学商学部専任講師。mailto:shin@ipcku.kansai-u.ac.jp  http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/‾shin/

[1]中小企業庁(編)『中小企業白書』(平成10年版)1998年,479-480頁。

[2]中小企業総合事業団調査・国際部『海外展開中小企業実態調査報告書』(平成12年度版)2001年,116頁(http://www.jasmec.go.jp/ck/cyousa/pdf/cy_h12jittai5sho.pdf,2001年9月6日閲覧)。

[3]テクノセンター「INTRODUCTION TECHNO CENTRE」1999年(パンフレット)。

[4]佐藤正明『望郷と訣別を―国際化を体現した男の物語』文藝春秋,1997年,368頁。

[5]1996年までのテクノセンターの歩みについては,同上書の第9章から第11章に詳しい。

[6]第2.5テクノセンターと第3テクノセンターはともに観瀾日技城製造廠の管轄下にある。また第2テクノセンター(李朗日技城製造廠)は,表1にあるように2001年3月に廃止されている。なお以下,日技城有限公司と日技城製造廠とを区別する必要のない場合は一括して「テクノセンター」とする。

[7]通商産業省(編)『通商白書(総論)平成12年度版』2000年,38-39頁。

[8]中小企業総合事業団調査・国際部,前掲書,129-130頁。「転廠」とは,保税の状態にしたまま,資金決済は香港で行い,モノは書類上だけ香港に出した扱いにして,工場から工場へ直接動かす方法である。委託加工方式の場合,輸出入に関税がかからない代わりに,生産した製品は全量輸出することが義務づけられているため,香港に一度出してから次工程の企業に渡すことになり,その増加した通関手続きが税関の処理能力を超えて対応が困難な状況に陥ったためとられた措置である(同上書,132頁)。華南地域独特の「委託加工方式」については後述する。

[9]「代表的な郷鎮企業のモデル地域として次の3つがある。1)蘇南モデル(江蘇省南部地域)。…2)温州モデル(浙江省温州地域)。…3)珠江モデル(広東省珠江デルタ地域)。このモデルは,香港に近いという地理的優位性を活かして,外資系企業が発展の主体となり,主に海外市場向けの生産を行っている」(天児慧・石原享一・朱建栄・辻康吾・菱田雅晴・村田雄二郎(編)『岩波現代中国事典』岩波書店,1999年,306頁)。

[10]「広東省では香港資本や外資を採用した輸出志向型の郷鎮企業が林立している。特に香港企業による委託加工方式の郷鎮企業,いわゆる『三来一補』(『来料加工』,『来様加工』,『来件装配』,『補償貿易』の総称)型郷鎮企業の発展がめざましい。香港企業が,原材料,部品・機械設備,見本品などのすべてを広東省に運び込み,そこの廉価な労働力と土地を利用して商品の組み立て・加工をおこない,完成品を香港企業が引き取り,賃金と地代を広東省に支払うという方式が,『三来一補』である。この方式を用いると資本リスクが非常に低く,また許認可の手続きも簡単で,『三来一補』型郷鎮企業は広東省で勃興,発展している」(渡辺利夫・加藤弘之・白砂堤津耶・文大字『図説中国経済』(第2版)日本評論社,1999年,47-48頁)。

[11]今井理之『対中投資:投資環境と合弁企業ケーススタディ』日本貿易振興会,1995年,28頁。

[12]中国進出形態として委託加工方式とよく引き合いに出される独資との比較については,中小企業総合事業団調査・国際部,前掲書,図表5-2-4(131頁)を参照されたい。

[13]さらに工場面積当たりの最低雇用人員数が鎮との契約で定められており,使用面積14.6m2につき1人以上を雇用しなければならない。それに満たない場合でも,雇用されているものとして管理費を支払わなければならない。表3の註を参照のこと。

[14]西澤正樹「中小企業の新たな展開」『経済と労働 経済特集』1995-1,1995年,17頁。ただし,従業員1人当たりの管理費の金額(250元)については表2による。

[15]関満博『日本企業/中国進出の時代』新評論,2000年,325頁。

[16]例えば,就業規則は設立者企業のそれをモデルとしながらも,各テナント毎に定めていることからわかるように労務管理も行っている。他分野においても,L社は自分の足で副資材の購買ルートを開拓・確立したし,J社は中国と香港間の原材料および製品の輸出入に苦労していることに見られるように,購買や輸出入もテクノセンターのサポートは受けるがあくまでもテナントの責任で行っているのである。

[17]今井理之,前掲書,233頁。

[18]ただし,後述するようにテクノセンター設立者企業が委託加工を行うことがあるので,事実上テクノセンターが委託加工を実質的にも行うことがあることに注意しなければならない。

[19]Annual Reports of Techo Centre Limited for the Year Ended 31 March 2001, pp.4-5.

[20]例えば,テナントにとってモデル工場となっているW社の工場では,カンバン方式,QCサークル,5S運動などが実施されている。ただし,だからといって全体として日本的な工場運営がなされているわけではない。テナントに共通してみられる就業規則における罰金制や「人海戦術」方式は,中国・香港的な手法である。おそらく,純粋な中国・香港企業(中国・香港的なやり方)でも,純粋な日本企業(日本的なやり方)でもない,ハイブリッドな生産方式や経営方式が設立者企業にあり,それがモデルとなってテナント企業のハイブリット化(現地化)を実現していると考えられる。

[21]S1-4社は持株会社S社の傘下にある企業である。

[22]卒業したX社を除いた26社で計算。

[23]卒業したX社を除いた26社から,さらに先述の操業準備もしくは転出する企業4社,S1社に生産を委託しているS3社の計5社を除いた21社。

[24]帝国データバンク(編)『帝国データバンク会社年鑑』各年版,およびデータベース「帝国データバンク企業情報」による。

[25]転出するU社はこの観瀾地区ではメッキ加工ができると鎮から聞いていたが,メッキ加工に使用する毒劇物に関する貯蔵・使用・購入の許可が結局得られず,同じ深セン市宝安区の他の鎮に転出をせざるを得なかったケースである。

[26]青木外志夫「地域的集積」(大阪市立大学経済研究所(編)『経済学辞典』(第3版)岩波書店,1992年所収),869頁。テクノセンター特有の集積の利益としては,先述の転廠制度におけるものがある。川崎拓人の2001年8月の現地でのテクノセンター関係者からの聞き取りによれば,各々の日技城製造廠は対外的には1社,すなわちテナントは日技城製造廠の製造部門の1つと見なされるので,同じ日技城製造廠内のテナント間であれば,煩雑な転廠のための手続きを必要としない。ただし,例えば布吉日技城製造廠のテナントと観瀾日技城製造廠のテナントとのやりとりには,転廠手続きが必要となる。

[27]伊丹敬之「産業集積の意義と論理」(伊丹敬之・松島茂・橘川武郎(編)『産業集積の本質 : 柔軟な分業・集積の条件』 有斐閣,1998年所収),2頁。

[28]X社ウェブサイト,2001年8月12日閲覧。

[29]この工場長会議は,テクノセンターの運営上注目すべきものである。2000年8月当時,月1回程度開催されていたこの会議には各テナントの工場長が出席し,テナントからの要望が持ち込まれる。持ち込まれた要望について,その場でテクノセンターとしての意思決定も相当程度行われている。例えば,2000年8月9日の工場長会議では,運送料金表において500キログラムまでは一律900香港ドルとなっており,10キログラムの荷でも900香港ドルを支払わなければならない件が取り上げられた。この件についてあるテナントから運送料金についての収支状況を調査したうえで料金体系の見直しをすべきとの提案がなされて,テクノセンター側もその提案に同意したことがあった。工場長会議を通じてテナントと合意形成をしながら,テクノセンターが運営されていると見ることができる。
 こうした形での運営が可能なのは,第1にテクノセンターの株主構成において大口株主をつくらないという設立者の方針(法人は1口25万香港ドルで4口まで,個人は1口2万5千香港ドルで10口までと株式取得を制限),第2に契約保証金(工場レンタル料の2ヶ月分相当)を半額にするというインセンティブを設けて,テナントが法人としてもしくは個人として株主になることを奨励しており,現在約4割のテナントがテクノセンターの株主となっていることがあるからである。
 一般にも現場に近いところで意思決定することが必要だとされているが,テクノセンターの場合,その特有の事情―テナントが多種多様であること,テナントが独資として自立的に振る舞うことが想定・要求されていることから,そのことがより強く必要とされていると考えられる。

[30]現在卒業や転出を予定するテナントのうち,U社は「工場を移転しても,テクノセンターとは関わりを持ちたい。例えばテクノセンターと一緒にリクルート活動に取り組んだり,テクノセンターのイベント(大運動会)や工場長会議に参加することで情報の交換をしたい」とし,T社は「情報交換も積極的にしていき,テクノセンターとはこれからもつながりを持ち続けていく」としており,今後もX社型の卒業が見込まれる。

[31]C社の親会社ウェブサイト,2001年9月9日閲覧。

[32]2001年1月26日のTJ社社長の講演記録による。


Author: Shin Hasegawa
E-mail: shin@ipcku.kansai-u.ac.jp

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