関西大学における学生参画型授業の開発―私たちの授業史―


 現在、私は関西大学で中南米経済論、演習(ゼミ)、基礎演習を担当しております。すべての担当科目で、林義樹先生のいう学生参画型で授業をやっておりますが、今回は中南米経済論を取り上げて説明をさせていただきます。私がどのように中南米経済論をやってきたかという物語です。
 この中南米経済論は名前がちょっと古めかしいので、来年からラテンアメリカ経済論という名前になるのですが、商・文学部2回生以上の学生を対象とする通年開講の専門科目です。出席者は30-50名ですが、実際の履修登録は100-150名です。ここでよく、出てこないのはなぜ出てこないのかと聞かれるのですが、この科目では顔ぶれも人数も1回目からほとんど変わらないのです。なぜかはわからないのですが、これは1996年から同じです。

講義形式・参集型でスタートした中南米経済論

 私が初めて大学で教鞭を執ったのは1996年ですからまだまだ新米なわけですが、1996-97年の2年間は、林先生の資料にも書いてある分類でいうと参集型で授業を運営しました。1998年から参与型にバージョンアップしまして、2000年度以降は参画型で授業を運営しております。参集・参与・参画については林先生の資料にも載っていますので、ここでは参集型教育、参与型教育、参画型教育を学習者の学生の役割に注目して説明します。参集型教育においては、学生の役割は視聴者です。見て、聞いて、記録を取るということが役割になります。参与型になりますと学生の役割は出演者です。俳優・女優になると考えてもらっていいです。その次の参画型教育においては、学生の学習者が設営者になります。
 私が初めて大学の教壇に立った1996-97年の2年間は、参集型の授業をやっておりました。中南米経済論は専門科目ですから、専門科目に広く見られた形で授業をやっていたわけです。伝統的なというとおこがましいですが、講義形式で、毎回たくさんのプリントを作って、レクチャーするわけです。90分の最後の5分は何か質問はないかと手を挙げさせる。個人的に質問してくる学生はいましたが、その場では大抵質問は出ない。こうした形の授業は、今でもおそらく専門科目というくくりで見たら、支配的な授業形態かもしれません。
 出席については、これもよくありがちですが一切とりませんでした。レポートとテストさえできれば出席は問わないというスタンスです。ですから、成績評価についてはレポートと学期末試験にのみ依存し、出席点はない。私は学生時代には授業にほとんど出ませんでした。私は高校時代から授業は眠くなってしょうがないし「自分で勉強した方が早い」と感じていたので、授業は出ずに勉強は一人でやっていました。そういう学生もいるから、結果オーライだったらいいではないかと。授業に出て勉強したい学生は来てもらって、授業がちょっと苦手な学生は自分で勉強すればできるように、資料の公開をある程度して、プリントなり、必要な資料も研究室に来ればもらえるという形でやっていました。

学生による「学びからの大脱走」に直面

 そういう授業をやってきてどうであったか。一言で言えば我慢ができなかった、こらえきれなくなってきた。どういうことか。新米ゆえの未熟さはありますが、毎回時間をかけてプリントを作っていました。1-2年目ですから、ノートづくりをしなければなりません。私にとっては非常に大変な仕事で、ほとんど泣きながら夜中まで一生懸命毎日作ってやっていました。レクチャーもプリントづくりで多少疲れていたというのもありますが、この場で伝えないといけないというのがありますから、手を抜かずに熱心にやっていたつもりだったのです。
 にもかかわらず、レポートは、今日の研究会のもう一つのテーマである情報倫理からいうととんでもないもので、盗用ばかりなのです。あやしげなところからとってきたのをごた混ぜにしたものばかりなのです。テストについては持ち込み可です。パソコンはまずいですが、辞書でもノートでもテキストでも何でもいいよということです。けれども、穴埋め問題すら満足にできない。論述も意味不明な文章の羅列なのです。ほとんどが中南米経済論以前の話で、日本語になっていないのです。ごくわずかにして、私の授業を一生懸命聞いていた学生すらできなくて、これは一体何が起こっているのだろうと愕然とするわけです。
 少なくとも、そこに学びはなかったのです。その代わりにあったのは、学びから逃走する姿です。学びからできるだけ遠くに一刻も早く逃げたいという「学びからの大脱走」という現実があったわけです。これだけ準備して、これだけ学生のためを思ってやっていたのに何もない、開けたら空だった。一生懸命やろうとしていた私は喪失感と閉塞感に襲われました。どうしたら専門科目で学びのできる授業をやれるのか、わからないわけです。お手上げだったわけです。
 そこで思ったのは、勉強ではなく、学びを大切にしたいということです。勉強というのはある程度必要だと思うのですが、今の学生たちの学びは、全部勉強モードなのです。豊かな学びを取り戻すためには、いったん勉強を断ち切らなければならないのです。勉強モードと学びモードを切り替えられるようにならないといけない。いわゆるガリ勉のイメージで知識注入主義的な、知識を「頭に入れる」という発想での学びしかできなくなっていた学生がいるわけです。
 今日は学生の学力低下があって、大きな問題だと思うのですが、それ以前に私の問題意識としては、学生たちが「もう勉強したくない」「勉強なんか嫌だ」として、学びからできるだけ逃げたいと思っている。でも、それでは卒業できないから授業にしぶしぶ出てきて勉強をしている。学びからの大脱走が起きているという現状認識なのです。今、一番大事なのは「学ぶことを学ぶ」、いわば学習観、授業観の転換が何よりも先に求められていると考えています。教室から逃げている、学びそのものから逃げている学生の意識をまず変えなければいけない。しかし、実際にはどうしたらいいのか。

感想ラベル・質問ラベルの導入と参与型への移行

 藁をも掴む思いでいろいろネタ探しをしていました。授業改善の本や、関係の学会に何かめぼしいものはないかと探して、その一つに経済学教育学会がありました。私は商学部所属ですし、もともと経済学部出身でしたから親近感を感じて、1997年11月に広島で行われた学会にふらふらと行ったわけです。そのときに偶然、林先生と学生参画授業、ラベルワークと出会うのです。「出会った」と言いましたが、実は1997年3月、林先生の書かれた『学生参画授業論』を私は購入しているのです。この時は買ってぱらぱら見て「よくわからんな」と思った記憶があります。視野に入らなかったというか、これはとてもできないだろうと思って、本棚にさっさと収めてしまっていたのです。
 早速、学生参画型とラベルを授業に導入しようとしました。まず基礎演習です。これは1回生向けの導入期教育でグループワークが中心になっていましたので、導入しやすいだろうと思って翌1998年からラベルを導入して参与型から参画型への移行も行いました。一方で、中南米経済論はこの時点ではまだ参画型に移行しませんでした。ラベルだけを導入しました。なぜかというと、そのときはまだ参画型の適用可能性を低く見積もっていたのです。林先生が実践されていたのは人文学部の教職科目、教育方法論ですから、教員になりたいという学生が集まってくるので、インセンティブも関心も高い。授業のやり方そのものについても関心がある学生と授業をしているのです。一方で、こちらはマンモス大学ですし、商学部です。経済・商学部というのは、そうした専門を学びたいからというよりも、例えば関大に入りたくていくつかの学部を受験したが、商学部しか受からなかったから来たという学生が多いのです。なおかつ中南米経済論と教育方法論は授業内容がかなり異なります。
 したがって、中南米経済論では1998年からラベルを導入し、参集型から参与型に移行させました。キーワードはTranslucence、日本語で言うとスケルトンです。従来の授業、特に専門科目の講義中心の授業はいわばブラックボックスで、成績評価基準も、隣で一緒に授業を受けている学生の学びや思いもわからない。「一緒に授業に出ている学生がどんな思いを抱いているのか知りたい」という私のゼミ生の一言がきっかけとして、そうしたものが透けて見えるような授業をしたい、授業が透けて見えるとおもしろいなと思ったのです。ブラックボックス型の授業を透明にしていくということです。
 また、教員から学生への一方向の関係から、レポートコミュニケーションとラベルコミュニケーションというそのしくみを使って、学生間・教員、学生間の多方向へ転換をしていきました。授業がmonologueの世界からdialogue(対話)の世界になり、そこでのやりとりが一対多から多対多になっていきます。

レポートコミュニケーションのしくみ

 一回一回の授業のメインディッシュは学生によるレポート発表で、3本程度あります。それぞれ5分間、質疑応答つきで行います。もちろん、教員によるレポート発表に対する補足説明やレクチャーもありますし、教員によるレポート形式の判定があります。これは、引用出所の明示がちゃんとできているか、引用と自説の区別できているかといったことを判定しました。この判定で条件に満たないものは発表し直し、リトライとしました。
 そういう形で学生にレポートを発表させるわけですが、これまでは教員だけに提出をしていたものを授業において発表する形式はどういう意味を持つのか考えてみると、一つは授業で学生が発言しにくいのです。講義形式では特にそうです。1996年当時の私の授業は80分間ずっと話したあとに「何か質問はあるかな」と言っても、発言しにくい。学生は質問したいことがあるけれどもできないのは、どう発言したらいいかわからない。それから、発言したら周りのやつは何て思うだろうなとか、いろいろなことを考えてしまう。そこで、これを逆手にとって授業運営にうまく利用しよう、レポートの品質を高めて作品化しようと考えました。教員だけに出すといい加減なものがたくさん出てきますが、同じ授業を受けている学生の前で発表しなければいけないとなると、がぜん頑張る学生も出てくるし、頑張らざるをえない状況に学生全体が追い込まれるのです。これはいい加減なことはできない、恥をかくぞと。もう一つは、学生間の直接的なやりとりの場をつくったということです。学生が5分で発表して、質問の時間があるのです。学生が発表者に対して投げかけますので、学生同士のやりとりになるわけです。

ラベルコミュニケーションのしくみ

 一方で、そういう形でレポートによる学生間、あるいは学生と教員間のコミュニケーションを盛んにするというものとは別に、同時並行でラベルコミュニケーションをやっておりました。この当時は4つほど行われています。第一は感想ラベルです。これは先程林先生からご紹介されていますので、あまり細かくは言いませんが、授業の終了時に毎回科目名と日付、学籍番号と名前を記入して、ワンセンテンスで感想をさっと書くというものです。非常に小さいので簡単に書けるわけです。2-3分あれば十分に書ける。
 第二には、学生同士の質疑応答に使われる質問ラベルです。これも同じラベルを使います。これは質問する前に、科目名と日付、学籍番号と名前、それから、誰々さんへと記入をして、ワンセンテンスで質問を書き、読み上げるのです。読み上げることで質問に代えるということです。これは、学生が手を挙げてみたけれども「何ていうか、あー」とか言って、自分の質問がうまく言えないことがほとんどなので、まず書いてしまうことにしました。書くと質問がはっきりしますから、それを読み上げる形にすれば無駄なことを言わずに時間の節約ができるので、質問ラベルを持ってきました。
 この質問ラベルを一枚書いて質問すると得点になります。質問はくだらないものでもいいし、よく考えたうえでの質問でもかまわないのです。ためにする質問も呼び水として歓迎をしていました。とにかく質問したら点がつくのだから何でもいいから質問してしまおう学生が必ずいるので、初歩的な「そんなものは聞かなくてもわかるだろう」という質問が出てきます。しかし、それによって場の雰囲気が変わってきます。そういうことも含めて言ってしまっていいのだな、質問してしまっていいのだなということになるのです。そのうちに別に得点が目的でなくても、質問がじゃんじゃん出るようになるのです。学生同士のやりとりがおもしろくなり、深みにはまっていく授業だったわけです。
 第三には「感想ラベルチャート」です。これは毎回書いてもらっている感想ラベルをレポート発表者ではなくて、希望者が今度は次回の授業までに作成してくわけです。すべての感想ラベルを使って「場づくりラベルワーク」によって構造化(チャート化)し、その回の授業がどのようなものだったかをワンセンテンスで表現することを目的作成していました。ただし、これは希望者とはいえ、毎週かなり時間がかかる仕事で、頭を使うし非常に勉強にはなるのですが、オーバーロードでした。その一方で、その授業の様子を新聞記事として書くことも大事だと気づいて、ラベル新聞という形に移行していますので、現在は「感想ラベルチャート」は作っていません。
 第四には「学びのプロセスチャート」です。皆さんのお手元の資料にUさんの学びのプロセスチャートが入っていますので、これを参考にしていただければわかります。毎回作成する感想ラベルのうち、作成者の手元に残される白ラベルはシールになっていますから、それをすべて使って時系列に並べて1年間の授業を振り返ってもらいます。全く自分の1年間です。それを見て、チャートで中南米経済論における学びのプロセスを表現してもらうのです。

参与型から参画型への移行(2000年度)

 以上が1998-99年の参与型の中南米経済論です。では、なぜ次に参画型に移行しなければいけなかったのかを話します。これはレポート発表形式ですので、レポート発表を行った人はレポート発表につき何点とついていますから、レポートが終わると一仕事が終わるので、終わったからぼちぼち出ればいいかという雰囲気になって、出席者が減ってくるのです。だんだん手慣れてきますから、やりとりは熱くなって、今度は発表者にこういう質問をぶつけてやろうと雰囲気が盛り上がるのですが、一方出席者が減ってくるのです。これはちょっとまずいなと思いました。出席者が減ってくるとやはり盛り上がりにも欠けるので、この方式というのは将来性がないなと思っていたのです。
 一方で、1998-99年には基礎演習で学生参画型をやった結果、一つは学生の主体性を最大限に引き出すことができたのです。ものすごいエネルギーを引き出せたなというのがありました。もう一つは、学びというものをまるごと体験できたのです。共同的学習がまるごと体験できるのはこのしくみだと確信して、中南米経済論も参画型へ移行していくわけです。
 中南米経済論は2000年度から参画型に移行しましたが、2002年はこういうイメージでやっています。授業前は、学生7人前後の授業担当班が発見したことの中で、最も伝えたい発見を中心にして授業として組み立てて企画書を書きます。授業中はもちろん授業担当班が授業を運営するわけですが、その学びの旅路をたどりながら発見を他の学生と分かち合い、味わうということを目標に授業は行われます。ですから、授業担当班が発見を持ってきて、それがわかるプロセスを授業中に行うということです。授業後も大切なプロセスがあります。これは「クラス新聞」を作成することで、対話しふりかえって、次回の授業での発表でクラスとしてふりかえりもするということです。『中南米経済論新聞』はお手元の資料に昨年度の6月21日号を載せていますので、それを見てもらえればこの雰囲気がわかるかなと思います。
 感想ラベルは現在、三段活用をやっております。一つは「感想ラベルリプライ」です。これは私のコメントが書いてあるだけです。それから、先程の「クラス新聞」、「学びのプロセスチャート」も作成します。感想ラベルを3回も利用するのです。対話とふりかえりを重視するしくみなのかなとあらためて思っております。
 では、我々はいったい何をしてきたのかというと、ラテンアメリカ経済論ですから、ラテンアメリカを鏡として、ふりかえりを繰り返して、学ぶことを学びながら自分をつくり、仲間をつくり、作品をつくってきたのではないかと考えています。
 私の1996年以来の授業史からわかることは何か。やりとりとふりかえりを重視するようになって、そのためにラベルを活用してきました。このラベルの活用によって参集型から参与型、参与型から参画型への発展が可能になりました。そういう点では、ラベルは強力な授業の開発のツールになっているとあらためて思っております。

(『明治大学情報科学センター年報』第15号,2003年,137-143頁)