学習観・授業観の変革と学生参画授業の実践
―私流の「学び」についての「学び旅」―


「先生,授業をしてください」

 「先生,授業をしてください」。1998年6月のある日,私が担当する中南米経済論の授業終了直後,ある学生が私に詰め寄るようにして言った。その日の授業では,この授業における成績評価方法について議論をしていた。彼によれば,成績評価方法を授業の場で議論をして,授業時間を「無駄にする」のが我慢ならないらしく見るからにイライラしているのがわかった。彼にとってこの時間は「授業」ではなかったのである。

 確かに,授業の場で自分の意見を表明し,相手の意見を聞き,議論をすすめていく経験がない学生がほとんどであるから,議論がうまく進まない局面にもどかしさを感じていたこともあろう。ましてや成績評価方法をめぐって学生と授業の場で議論をして決めるということに対しては,彼ら彼女らの授業観そのものを揺さぶられる思いをしたことだろう。学生たちにとっては,授業における成績評価方法を自分たちも関わって決定することは「まさかありえない」話なのである。

 現在の私にとっては,成績評価方法や授業運営方法について,当該授業の場で学生と議論をして決定することには,全く違和感がない。大学や授業の主人公は学生であるべきだし,学生は客体としてではなく主体として,商品でも消費者でもなく生産者として位置づけることが大事だと考えているからである。また,何を教えたのかではなく,何を学んだのかを重視する学習者中心の立場に立てば,自らの学びを,自らマネージメントし,自らの責任で意志決定を行うことは至極当然であり,その中にどのように評価するか(評価されたいか)も含まれていると考えるからである。こうした議論を通して,授業観を再構成し主体者として育っていく効果もある。

「知識を頭に入れる」

 私にとっては「至極当然」でこれも授業と考え,学生にとっては「まさかありえない」「こんなの授業じゃない」。これでは対立しない方がおかしい。では,学生にとって授業とは何か,授業における学びとは何か。授業とは「学生に知識を投入していくことであると考えられる。これはちょうど,空っぽの容器に中身を投入しておくようなイメージで考えられており,授業における学びとは,その容器をだんだんと授業者の伝達した意味体系で満たしていく」1)ということになる。こうした学習観は,学生がよく使う言葉「知識を頭に入れる」に端的に現れている。かく言う私の学生時代の授業観・学習観も,実はこれと大差ないものだった。授業における学びと日常における学びは全く別のものと考えていたし,学びは一人で行うものと考えていた。だから,大学の授業にはゼミナールを除けば,出席が重視されるなどの外的強制がない限り,ほとんど出席しなかった。自らの授業観・学習観に対してゼミナールなどでの経験を通じて「どこか何かおかしい」と思いながらも,大学に職を得てからしばらくするまで,これに代わる授業観・学習観を得られていなかった。だからこそ着任して数年間は,そうした授業観・学習観に沿った従来型の授業を若干の違和感を抱きつつも行ってきたのである。若干の違和感は「ちょっとした工夫」で払拭されるだろうと考えていた。

学べない学生と無力な私

 2-4回生向けの専門科目である中南米経済論2)では,プリントを毎回たくさん配って早口でまくしたてるレクチャー中心の授業を行い,40人規模の1回生向けの導入期教育科目である基礎演習3)では,1年間で1つの研究レポートを個人あるいはグループで作成させることを目標にして,毎回たくさんのプリントを配付して,学生に事細かに指示を出して,毎回さまざまな課題を出し,添削をこまめにし,「手取り足取り」「スパルタ式」の授業を行っていた。

 そこに立ち現れたのは,学生の学べない姿と学べない学生をどうすることもできない無力な私の姿であった。中南米経済論では,私としては情熱を傾けて全力で準備もレクチャーもしたにもかかわらず,授業中は出席自由だったために私語はなかったものの,聞いているのか聞いているフリをしているだけなのか判然とせず,あたかもカボチャ畑にむかってレクチャーしているような手応えの感じられないものであった。しかもレポートやテストの結果は,学びとはほど遠い内容も形式もめちゃくちゃで散々なものばかり。レポートは「とにかく何か書いて出せばいい」,テストは「とにかくたくさん書けばいい」―単位を取得するに必要最低限のことはするけれども,それ以上のことはしたくない。そうした姿勢がありありと窺えた。学生たちは,学ぶこと自体に価値を見いだせないという学習シニシズムに陥っていた4)。基礎演習ではどうであったか。学生は課題をこなしていかないと単位が危うくなるから必死でがんばってレポートの作り方や文献の探し方はわかったけれども,その結果学生はやらされ,評価されるだけの受動的な存在になっていった。そこには,学ぶ喜びも学ぶ苦しみもなく,学べない苦しみと所在のなさが蔓延していた。

 ひどい喪失感と閉塞感に襲われた。新米教師ながら学生のためを思って,さまざまな工夫を凝らし,授業に情熱を傾けて全力でとりくんできたにもかかわらず,授業に学びを取り戻すことができなかった。これ以上のエネルギーを投入しなければ実現できないのであれば,それは私の能力を超えている。このままではいずれ立ち行かなくなることははっきりしていた。

新しい学習観と学生参画授業との出会い

 こうした授業を続けていくなか,「ちょっとした工夫」で払拭されていくと考えていた自らの授業観・学習観が「どこか何かおかしい」という違和感は逆に,ますます大きくなってきていた。そうした状態にあった1997年2月に,佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』(岩波書店,1995年)を読んで,「学び」とは「自分探しの旅」であり「文化的実践への参加」であるとする状況的認知論に基づく学習観に出会い,従来の学習観に代わりうるものだと直感した。ここから,この新しい学習観とその基礎となる状況的認知論を理解していくなかで,私の学習観を転換させていく試みがはじまった。これと同時並行で,担当している授業をこうした学習観に沿った形で展開できないか検討をしたものの,答えを得るには至らずに,1997年度の授業は従来通りの方式で行うこととなった。

 一方で,引き続き行っていた「ちょっとした工夫」―授業改善のヒントやアイディアを収集する一環として同年3月6日,林義樹『学生参画授業論』を購入した。第一印象は「これは一体なんだ,全くわからん」であった。この時は,新しい学習観とも結びつかず,そこに求めている答えが書き込まれているにもかかわらず,全く視野に入らなかったのである。本当の出会いは,2年目だから多少はうまくいくだろうとの見込みも外れて重苦しさを増していた同年11月に期せずしてやってきた。藁をも掴む思いで,広島で開催された経済学教育学会5)第13回全国大会に参加したところ,林義樹氏と学生参画授業,ラベルワークに出会い,目からウロコが落ちた。私は,授業は教員だけが行うものではなくて学生と共に行うものという認識はあったが,どうすればそれが授業として実現できるのか今まで全くわからなかった。この時,ラベルワーク6)を体験して,このラベルを使えば,学生自らの手で授業を最初から最後まで運営できると確信した。ただしこの時点では,学生参画授業の理論的基礎となる林の参画理論と新しい学習観・状況論的アプローチとどのように接続するのかわからず,さしあたり授業実践は参画理論に基づいて学生参画型を試みることにしたのである。1998年度は元々グループ学習的に運営してきた基礎演習を学生参画型に転換し,中南米経済論にはラベルワーク(毎回の感想ラベル記入とそのチャート化・新聞化)を導入した。基礎演習での学生参画授業の実践によって,関西大学商学部生でも学生参画型授業は十分に可能であり,しかも学生の学びのエネルギーを引き出すことができることが確かめられたので,1999年度から演習I(3回生),2000年度から中南米経済論,演習II(4回生)と次々と学生参画型へ転換させていった。

学習観・授業観の変革

 私が大学の授業を担当するようになって今年(2003年)3月で7年になる。基礎演習で学生参画型授業を始めた1998年から5年が経ち,最後に学生参画型に移行した中南米経済論も4年目になろうとしている今,私は学生参画授業において日頃から「学び」とは何かを問いかけ,授業中はもちろん授業の企画もクラス新聞づくりなどの授業に関わる仕事がすべて「学び」になることを呼びかけることを通じて,学びの体験をさせ,学生に授業観・学習観の転換をせまるようになっていた。「調べたこと」ではなく「わかったこと」を中心に据えること,「わかったこと」を道標として「わかったこと」の先にある「わからないこと」を「わかろうとする」道を進む「学びの旅」をすること,授業には伝えずにはいられない心動かされた「わかったこと」「発見」を持ち込み,それをクラスで味わうことの大切さを強調するようになっていた。

 従来の学習観・授業観は,学習シニシズムを蔓延させ,学力低下をもたらしてきた7)。そうである以上,今真っ先にとりくむべきことは学習観・授業観の変革,「学ぶことを学ぶ」ことである。そのためには,学生と教員とが抱いている学習観・授業観を浮き彫りにし,それが正当なものであるか問わなければならない。学生参画型授業はそうした時代の要請に応えようとしているのではないか。従来の学習観・授業観のままでは,私がかつて「視野に入らなかった」ように学生参画型授業は理解しがたい。逆に言えば,学生参画型授業は「学びとは何か」「授業とは何か」を学生と教員に問いかけ,学習観・授業観の変革を迫るものなのではないのか。

 ふりかえってみると私は,自分自身の学習観・授業観を転換しつつ,学生参画型授業を実践してきたことがわかる。ある時には状況的認知論,またある時には参画理論を授業実践の支えとしてきたが,まだこの2つを統合できていないし,それぞれについて未だにわからないこともあり,理解をすすめていかなければならない。私は「学び」についての「学びの旅」の最中なのである。この旅路を学生とともに歩んでいきたい。


1) 大山泰宏「相互行為としての授業―公開実験授業における相互行為の構造」(京都大学高等教育教授システム開発センター(編)『大学授業のフィールドワーク』玉川大学出版部,2001年所収),45頁。
2) 中南米経済論の授業実践については以下のWebページを参照。関西大学商学部長谷川研究室「ラテンアメリカ経済論」(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/ ̄shin/las-index-j.html)。
3)基礎演習の授業実践については以下のWebページを参照。関西大学商学部長谷川研究室「基礎演習」(http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/ ̄shin/bs/BS-index-j.html)。
4) 里見実『学ぶことを学ぶ』太郎次郎社,2001年。
5) http://wwwsoc.nii.ac.jp/ecoedu/.
6) この場で行われたラベルワークについては竹迫和代「学会総括集会は『創造的な思考空間』に近づいたか」『経済学教育』第17号,1998年,122-129頁に詳しい。
7) 佐伯胖「文化的実践への参加としての学習」(佐伯胖・藤田英典・佐藤学(編)『学びへの誘い』東京大学出版会,1995年),里見実,前掲書。

(関東地区大学教育研究会(編)『関東地区大学教育研究会第19回(平成14年度)大会報告書』,2003年3月)