「今日の基礎演習」「今日の社会科学概論」の受講生のみなさんに

愛知県立大学文学部 近藤郁夫(第1章2節「研究と教育の場」執筆者)


 レポートをすべて拝読いたしました。よく読んで下さっています。若いみなさんの大学で学ぶことのきっかけになればと願いつつ執筆した一人として、うれしく拝読いたしまいた。

 しかし、なにぶん、量が膨大ですので、また、十分に吟味する時間もありませんので、僕の執筆部分についてしぼって、書かれた意見や疑問、僕が「そうかな?」と思ったことなど、あれやこれや羅列することにいたします。

☆「『贅沢な時間』とは、大学生とフリーター、ホームレスのおっちゃんの特権であり、就職したら、ちゃんと働くので今は、遊びたいし、友達を増やしたい。そういうことを考え実行する時間であって、そして60頁にあるような文献の3行を討論したりする時間ではないというのが、僕の意見だ」

→「大学生とフリーター、ホームレスのおっちゃん」も今、贅沢な時間をもてているだろうか。その吟味が必要です。(1)追い立てられの時間と(2)無為に過ぎていく時間と(3)自分たちで知的に創造していく手応えのある時間とを考えてみて下さい。ほかならぬ大学で学ぶ時間であるがゆえに、あえて僕は「文献のわずか3行でも討論し、深めていくことができたら、それは『贅沢な時間』となること」を言いたかったのです。せっかく安くない授業料を払ってきているのだ。そんな時間を持たなければもったいない。しかし、そんな時間は教員と学生相互が創造していく以外にないということ。そんなことが言いたかったのですよ。「また、就職したら、ちゃんと働くので今は、遊びたいし、友達を増やしたい」についても一言。これは機械的な段階論です。今も学び、友達を増やすべきだし、社会に出たとしても、そのような学生時代とは異なる条件の下でも、「就職してもちゃんと働」きながら、豊かに学ぶべきだし、友達も増やすべきです。そうした賢明さも学びの中身かな。

☆「確かに大学生活は『贅沢な時間』であると思う。人生の中でこんなに自由な時間があり、自分の好きなことをして、時間を使うというのは。しかし、この時間、非常に貴重な時間であるがゆえに、我々大学生にとってむつかしい時間であろう。非常に恐ろしい時間であろう。じっくり考えて過ごしてみたい」

→異論ありません。その通り。あなた達の努力で「贅沢で輝く日々」となるように期待してやみません。そのためにも、教員をアテにして欲しいのです。

☆「なぜ『〜になるために』手段で学んではいけないのだろうか。これもまた不可解な世界、社会、自然、人間という巨大なテーマへ立ち向かうための一つの方法ではなかろうか」

→僕の意図は、「わかっていないから、わかりたいから学ぶ」ことを強調し、これまで僕を含めておそらくほとんどの学生がされられてきた「〜になるために」という手段の学びへの再考を促したかったということでした。「いけない」とは言っておりません。「不可解な世界、社会、自然、人間という巨大なテーマへ立ち向かう」ことがそこでなされるか否かこそが大切であり、そこでもなされるならば、おっしゃる通りで何も言うことはありません。

☆「〜へと自由になっていくために学ぶ」とはどういうことか?

→哲学的な自由論を展開したいのですが、簡単にだけ触れておきます。是非哲学も学んでみて下さい「〜からの自由」も大切な自由です。束縛から解き放たれていくことの価値は言うまでもありません。同時に、「〜へと自由になっていく」こともそれ以上に重視したいのです。あることに習熟し、我がものにできた時、僕たちはそこに自由を見いだしませんか。自由に使いこなせる面白さとでも言いましょうか。その時、他者から言われたからでもない、他者に押しつけられたのでもない、まさに自らに由るという世界が広がります。思えば、「自由自在」とは何とすごい言葉でしょう。「自らに由りつつ、自らが在る」とは。

☆「大学で質問はしても大丈夫そうなことが書いてあったので、これからは何とか質問してみようと思う」

→わからぬダラダラした講義を聞くだけは苦痛極まりない。分からないから学んでいるのだ。大いに質問をしよう。わかる講義になるように教員を鍛えていくのはあなたたち。

 もう一つ、なぜわかりにくいのか。どんな話方なのか。メリハリは。その時間の山場はどこで、先生はどういう論理展開でそこへともっていこうとしたのか。こんなことを考えながら受講するのも、大変勉強することになります。社会に出て、人にわかりやすく語るということは、あの逆をすればいいのかという生きた教材になるでしょ。

☆「私は講義をさぼるということが、単純に講義の堕落につながるとは思いません」

→講義は主要には教員の努力で、学生にわかりやすく、知的に考えることの面白さも伝えていく場。それは同時に「わかりません」「もう一度今のところ説明して下さい」という学生の声に鍛えられて、創造していく場。その相互作用が大切だから、講義をさぼるということは、一方が欠落していくわけだから、講義が改善されず、やがて堕落へつながると言いたかったのです。講義をさぼるあなたが堕落するとは言っていない。講義が堕落すると言っているところ、もっときちんと読んでね。

☆「大部分の学生は」「勉強したくて大学に来たのではなく、中学、高校の延長として大学を捉えているのではないだろうか。ただ、教育を受けにきたのであって、研究をするなんて頭にもないはずだ」

→簡単に他者にレッテルを貼ってはいけません。他者にレッテルを貼るということは、一面的に硬直的にものを見るということです。それは大切な自己へも「どうせ俺は〜だ」とレッテルを貼ってしまうことにつながります。

 人は面白いテーマさえ見つかれば、一生かけてコツコツと研究する存在となっていきます。そんなステキな人、いるでしょ。ジャズのラッパ?奏者、坂田氏は「ミジンコ」にとりつかれ、ヒマラヤの氷河までもミジンコを追い求め(重い顕微鏡をもって)ているではありませんか。そしてミクロな存在と僕たち人間と地球を深く問う。こんな遊び心と探求心こそ、お互いの人生を実り豊かにしていくのではないでしょうか。

☆「暗記のことをガラクタの破片をつめこむ作業とは少々言い過ぎの気もする。たとえガラクタであったとしても、それに意味を与え、体系づけて行けば、ガラクタの中にもかがやきを見ることができるのではないだろうか」

→お説の通りです。したがって、大学で学ぶということは、一面ではこれまでつめこんだガラクタに意味を与え、関連づけ、体系づけていくという作業が伴うということになります。その意味の付与、関連づけが、ある一つの経験でよい、学びで実現できたら、そこにはこれまでと全く違った「新たな学びの世界」がひろがっていくはずです。「そうか、あれはこう関係していたんだ!」と、震えるような感動とともに。そんな学びをお互いにしていきたいですね。

☆「『道草』、こんな日本語があることさえ忘れていました・・・大学中退、転職、眼病、結婚、子育て(二人の子供を産休明け共同保育所、公立保育所、小学校入学、学童保育、中学〜大学)」

→何というドラマチックな来し方、日々でしょう。お見事です。お互い多忙な日々。少しでも実り豊かな日々にしていきながら、今を見つめ、行く末に思いを馳せましょう。宣伝です。ぜひ僕の新著お読み下さい。『子育て−父親にできること』(旬報社・1997年6月)。あなたの子育ての労多き日々への連帯のハートをもって。

 道草しながら学び続けましょう。

☆「私たちをある物事へ魅了していくような講義を必要としているのではないだろうか。私たちは勉強がきらいだ。しかし、同時に私たちはやってみたいことを探しているのである。私たちはこのようなアンビバレンスの中から連れ出してくれるものを探している。ただ見つからないだけである。ゆえに私たちはやる気がないのでは断じてない。私たちは今『学びの旅人』ではなく、『学びの迷い子』という病気にかかった病人なのである」

→「ゆえに私たちはやる気がないのでは断じてない」。そう僕も確信しております。僕の可愛い学生諸君と接していてもそう思えます。

 「学びの迷い子」という新しい言葉をお教え下さり感謝。しかし、(1)迷わぬ旅人はいるか。旅人は迷うから旅人ではないのか。迷うことの生きる上での価値こそ、強調していいのでは。ゲーテは『ファウスト』で言う。「人間は迷うものだ。努力している限り」――別に誰が言おうがこれは真理に違いない。従って、(2)病人では断じてない。

 方向を探る磁石、地図を読む知性、歩き続ける身体。方向は人間の尊厳の確立の方向。

 それさえあれば歩ける。

 全体に、よく読んで下さっているとの印象をもちました。あの本が、学ぶという主体的なあなたの尊い行為の発展に少しでも資するところあれば、まことにありがたく思っております。

 マスター・キートン(『ビックコミックオリジナル』)を引用していた方もおられました。卓見じゃ。ぜひまだの方はお読み下さい。まわしよみしてもよい。推薦本。

 お礼に、付録として、この間僕が作成した資料をつけておきます。

 あわせて、僕の大好きなまんが家、確か関西大学の先達、自称雑学部雑学科卒業のマンガ家、いしいひさいちの学生生活を描写した一連の作品も、かつての面白くもものがなしい学生生活がうかがえておすすめです。回し読みをしてでも読まれたし。

(1997.12.9)