細井克彦さん(大阪市立大学)からの返事


 前略

 「大学を学ぶ」の読書レポートを読ませてもらいました。前回同様、教えられる所が多くありました。今回は部数も多く、第2部の学生のものもあり、現代学生気質の一端が読み取れ、興味深く読みました。特に第2部の学生の問題関心がより現実的であり、第3章に関しては学生の問題関心もかなり共通していることもわかり、感心もしました。いくつか疑問や質問が出されていましたので、第1部、第2部を特に分けずに簡潔に答えたいと思います。ただし、関西大学自体に関わる質問もいくつかありましたが、これらについては省略します。

1) 「なぜ大学改革が必要かわからない」という質問について

 要因は多数あり錯綜しているが、一つだけあげると、大学教育の「ユニバーサル化」への対応である。現在の大学・短大進学率は約47%で、近々50%を超えると予測されるが、これらの青年学生の教育をする態勢(教育体制、カリキュラム、教育内容・方法、大学教員の意識など)に大学はなく、現在の改革はやっと「大衆化」に対応する改革がはじまったばかりといっても過言ではない状態である。

2) 大学改革と学生の位置に関わる疑問、質問について

 大きく分けると、(1)学生が要求主体になるとは、(2)現在の学生は大学改革に無関心では、(3)大学改革において政府・文部省、大学(当局)はなぜ学生の意見を聞かないか等にまとめられる。(1)については難しいことだが、学生の大学に対する期待や要求、それは自らの現在と将来の学習と生活への目標や社会に対する関心から生じるが、それらを大学生活の実態に照らして具体化するなかで、他の学生との共通的な要求にまとめ上げ、それらを課題化して実現しうるようになることと一応説明しておこう。ユネスコの学習権宣言に「学習活動は、…人々をなりゆきまかせの客体から、自ら歴史をつくる主体にかえる」とあるように、要求の主体のなるには「学習」が基本的に重要となる。(2)筆者らは学生が必ずしも大学改革に無関心であるとは考えていない。関心をもつにいたる必要な情報が伝わっているかがむしろ気になるところである。また学生が改革の過程に参加しているとすれば、関心をもたざるを得ない(それに責任がともなうが)だろうが、その点が十分でないことも無関心にしているのではないか。(3)については、国家目的や大学の存立基盤、それらと現代企業社会との関係の問題があるのだが、ここでは現実問題として聞いていないとだけ答えるにとどめる。

3) 学生の意見反映または参加の問題について

 (1)学生による授業評価、(2)学生の意見反映の仕組み、(3)学生参加はなぜ実現しなかったか等である。(1)については、賛否両論あるが、ぜひ実現して欲しいと積極的に支持する意見が多かったといえる。大学教員がこれに慎重なのは教育をどう考えるか、またそれを評価するという場合、どう評価するかについての研究が十分でない、またその結果をどう利用するかという問題とも関わっている。学生の授業アンケートとしてある程度客観性をもつもので、しかも授業やカリキュラムの改善のために役立てられるならば、一つの資料としてなり得るものと考えられる。(2)学生による「授業評価」はその意味で一つのやり方ではあると思われる。各教員は授業の時間に学生から直接意見を聞いたり、書いてもらったりして、自らの授業を改善したり、カリキュラムに反映させる努力をしている。オフィスアワーを設けて、学生がその時間帯に行けば、当該教員に質問をしたり、相談をしたり、大学のことなどで議論をしたりできる場を作る大学もある。また、大学が学生の意見を聞くために、キャンパスに意見箱や投書箱を置いている大学もある。ある大学ではかつて学長が学生の意見を聞くために一定の時間帯を取っていたとのことである。より積極的には、学生が自治的な活動を組織し、その活動を通して大学に働きかける道があろう。いづれにせよ、現在は、各大学でできるところから、やっていくことではないか。(3)テキストでは大学運営の参加ということで事例の紹介をしたが、参加の形態をどうするか、学生が参加への意欲をどう持続させうるかは研究の課題でもある。

4) 一般教育廃止の理由について

 これまでの一般教育課程・教養部自体の矛盾、及びそれと学生実態の現実との矛盾があり、大学内部ではその改善・改革の検討を行っていたが、設置基準の大綱化で結局は一般教育の制度をやめてしまったということである。そして、名称や形ややり方を変え、専門教育とも関連づけながら再構築していこうという趣旨であろうが、実質的にはいわゆる一般教育は縮小削減の傾向になっているというのが実態である。正確を期するためにいっておきたいが、大学における一般教育を廃止するとは誰もいっていないのにである。

5) 企業社会・国家のなかで社会と大学の関係における理想と現実とのギャップをどうとらえ、どうすべきか

 これは難しい問題である。企業社会・国家からの大学改革要求が極めて強いという現実があり、社会との関係もその力に規定されて大学改革がすすめられているようにみえるが、そこには矛盾もあり、一方大学もその矛盾にいかに自覚的であるかの程度によって矛盾を緩和しようと努力をしているであろう。と同時に、学生が大学改革において十分に位置づけられていないことに注意を向ければ、改革の視点とあり方が変わってくるのではないか。そして、学生自身が改革に目を向けるようになれば、新たな視野が開かれるだろう。

6) 「財政の流れ」の変更はなぜ生じているか

 企業社会・国家が社会と大学の関係を変えようという具体的な表れである。端的にいえば、財政(富)の上方への集中・移行を図る仕組みをつくろうとしており、大学財政にもこれが実行されつつある。大学財政でいえば、例えば学部学生への受益者負担はいっそう徹底し、奨学金は有利子化し、大学院生には奨学金を給付し返還免除の優遇措置をするという提案もあるが、いわば弱いところから金を取り、強いところへ回していこうという発想である。財政の仕組みを変えるということは、これまで使っていたお金を、別のものに回すために行うのであって、財政そのものを節約しようという発想ではない。誰のために、何のためにお金を使うかである。

7) 大学教員任期制の批判は筆者のエゴか

 大学教員の身分保障のことだけで任期制を批判したわけではない。日本の学問・教育のあり方や社会の将来にとってどうなのかということである。大学教員の任期制が公務員制度や民間企業での期限付き採用に道を開く可能性も指摘されており、問題の重大性を示唆したのである。

8) 大学紛争は特定の社会主義思想をもった集団や人間が起こしたことか

 これは誤解に基づく意見ではないだろうか。特定政党やグループが起こしたのであればあれだけの広がりはなかったであろう。それに日本だけの問題ではなく、世界的に起こったことだった。いくつかの要素はあるが、大学の内部問題が発火点になったことも明らかであり、一般の学生がその解決のために立ち上がった。紛争が長引く過程で、セクト間の争いもあったことは確かだが、学生の主体性に基づく闘争であった。その意味で紛争というのは正確な表現ではないかもしれない。

9) 本書は高校までの教育と大学を切り離しているのではないか

 大学と高校までの教育は連続的であると同時に、大学の独自的な位置づけがあると考えている。高校までの教育においても、あるいは大学へ行かない人も主体性を持つべきであることはいうまでもない。テキストでも述べているように、大学には高校までとは違った任務があるし、年齢段階からして、自覚が求められると考えられる。

(97年12月15日受理)